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Re: 音楽大行進

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 5月28日(日)09時26分2秒
返信・引用
  かんじさんへ

> その後、話し合いがあったのだとだと思われますが、先日来た開催要領によりますと、、。
> 「雨天決行」だそうです( ^ω^ )

おおー、それは良かった!
あいや、けっして雨の中でも強行しろという意味でなく、少なくとも前日の中止決定はなくなったという意味で・・・
昨年はたまたま当たりましたが、今の天気予報なんて信じるに値しないし、それでなくとも予期できないのが涙雨ですからね。

心配してたんですよ。
昨年の前日中止決定を機に、今後それが常態化するのではないかと・・・
次々と長年の伝統を壊してきたのがこの音楽行進ですからね。
コースも護国神社スタートに戻して欲しいなあ。


今年は護国神社祭に一足早い日程ですから涙雨は大丈夫かな?
晴れるといいです。

 

音楽大行進

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 5月27日(土)13時46分26秒
返信・引用
  6月3日はmomongaさんお待ちかねの音楽大行進ですね。
私もいつものように、アフターコンサートのお手伝いです。
昨年は雨と寒さで、史上初めての中止と言うとても残念な年になりました。
その後、話し合いがあったのだとだと思われますが、先日来た開催要領によりますと、、。
「雨天決行」だそうです( ^ω^ )
 

Re: 幻の中島街道

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 5月23日(火)21時53分43秒
返信・引用
  かんじさんへ

すったもんだ揉めた中島遊郭が道庁によって許可されたのは明治40年の事ですが、
実は明治37年の段階で既に遊郭新設の風聞があって、町会議員と町民有志によって内務省・道庁に対し「不要」との陳情書が出されています。
つまり公園構想が持ち上がった明治36年当時にも既にこういう噂があったのかもしれません。

推測に過ぎませんが、遊郭新設を防ぐための対抗手段としてこの様な公園構想をぶち上げたのかもしれません。
でも、当然の事ながら師団の要請があっての遊郭計画だろうと思われますから、結局のところ公園計画は潰されたのかと・・・

あくまで推測です。

 

Re: 幻の中島街道

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 5月23日(火)16時52分42秒
返信・引用
  > No.1380[元記事へ]

momongaさんへ

> そして極めつけが遊郭の設置です。
明治40年でしたっけ。
新師団道路も中島街道もまるで兵隊さんが旭川に遊びに出る道路のようですね(^^;

> ところで、記事では『中島街道より東方に100間の地』とあります。
> 東方と言うからには南北方向に延びる道路に対して言ってるのだと思います。
なるほど、そう解釈しましたか。
そうすればかなり近い場所ですもんね。
私は踏切の位置にどうも捉われてしまって、、、、、。

でも、新聞では理想的楽園を作ると言って着手までしているようなのに完成しなかったのでしょうか。
大河内三千太郎、石川藤作ってそれなりに有名人だった感じですけど。
役人が強かった時代ですから、潰されたかなぁ。

 

Re: 幻の中島街道

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 5月23日(火)12時49分24秒
返信・引用
  かんじさんへ

以前UPした事のある大正5年測図の中島地区の地図がありました。(かんじさんもお持ちの地図です)
わざわざ見ずらい地図を掲載してしまってすみません。m(_ _)m


私が中島街道だと推測している道路は明治33年の地図にはまだ描かれていませんでした。
ところがかんじさんが紹介してくれた新聞記事は明治36年という事ですので、この間に造られた道路と思われます。
新師団道路建設が明治38年頃ですので、この頃徐々に中島・牛別地区の開発が進められていたのでしょうね。
そして極めつけが遊郭の設置です。

ところで、記事では『中島街道より東方に100間の地』とあります。
東方と言うからには南北方向に延びる道路に対して言ってるのだと思います。
中島街道の南北方向に延びる部分から100間(約180メートル)ですから、
つまり、後の中島遊郭東端と新師団道路の中間辺りの牛別地区の事ではないでしょうか。
現在の中央橋通りと金星橋通りが交差する辺りですね。
(牛別はパルプ側だけではなく、宗谷線から金星橋側も含みます)

 

Re: 幻の中島街道

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 5月23日(火)10時19分56秒
返信・引用 編集済
  > No.1378[元記事へ]

momongaさんへ

> これらの事から、中島街道は新旭川駅ができた大正11年の時点で北見道路と分断されて街道としての存在価値を失ったものの、
> 2度に渡って移設された踏切にその名前だけが残ったのではないでしょうか。
> つまり、現在の中島街道踏切は場所を移動した3代目という事になります。

へーーーー。踏切が移設ね。
思いもしなかったです。私の頭が固いのでしょうか(^^;
さすが、というか柔軟な発想をされて疑問を解いてゆくmomongaさんの力量に脱帽です。m(_ _)m

となると、明治の時代からあの辺りの中島へ続く街道を「中島街道」といったわけですね。
だとすると、中島街道の東100間に計画されたテーマパークというのは現在のパルプ工場辺りかな。

koropeta さんが牛朱別と推理された、臼別もそっちの方向ですよね。
臼別 牛別 牛朱別 みんな同じですね。

 

幻の中島街道

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 5月21日(日)18時27分27秒
返信・引用
  さて、しばらく零丁目の謎と永山の地番変更に話題を振られていましたが、(自分が勝手にそうした?^^;)
唯一踏切にだけその名が残る”幻の中島街道”の存在を追ってみました。

かんじさんが見つけてくれた新聞記事によれば、少なくとも明治30年代には実際に中島街道が存在していたのは確かです。
いったいどの道路を指し、どこへ消えてしまったのか?
縮尺が苦しいながらも、正確性では信頼のおける国土地理院の1/50000、1/25000地図を元に解析してみました。


明治42年1/50000地図 → 永山村字牛別付近(後の新旭川地区)に、
             北見道路・天塩線(宗谷線)と直角交差し、石狩川手前で90度屈曲して牛朱別川・中島に至る道路らしき線が描かれている。

大正5年1/25000地図  → 縮尺が上がって、明らかに同じ位置に道路が描かれている。
             他に該当する道路が見当たらない事から、これが中島街道と思われる。
             中島と反対側の端は番外零丁目道路にV字の形で合流している。

昭和3年1/25000地図  → 石北線が開通し、新旭川駅によってこの道路は分断されてしまっている。
             それに代わって駅に隣接して新たな踏切と道路ができている。(2代目中島街道踏切?)

昭和25年航空写真   → パルプ工場ができて、永山通り(現大雪通り)の東側は道路が消滅しているが、
             新旭川駅~中島(遊郭)の道路はまだそのまま残っている。

現在のGoogleEarth  → 金星橋付近の斜め部分の道路が区画整理によって消滅している。
             昭和25年の航空写真で金星橋通りはクランクの形で2代目中島街道踏切を渡っていたが、
             真っ直ぐ国道39号線に接続させるため現在の位置に踏切が変更されている。(3代目中島街道踏切?)


これらの事から、中島街道は新旭川駅ができた大正11年の時点で北見道路と分断されて街道としての存在価値を失ったものの、
2度に渡って移設された踏切にその名前だけが残ったのではないでしょうか。
つまり、現在の中島街道踏切は場所を移動した3代目という事になります。

最初は、新旭川駅の正面の通り(現永隆橋通り)がそうかな?と思いましたが、
昭和25年の航空写真から、どうやらその1本隣の細い道路が中島街道のようです。


 

Re: とんでもないレアケース?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 5月20日(土)10時45分0秒
返信・引用
  > No.1374[元記事へ]

かんじさんへ

遊園地構想の記事、面白いものを見つけましたね。
実現したという話は聞きませんが、代わりに遊郭ができちゃったってのは皮肉な話ですよね。

今博物館で「昭和の旭川~軍都から平和都市へ」という企画展示をやっています。
私もまだ行ってないのですが、明日21日にガイドがあるという事なので都合が合えば行ってみようと思います。


中島街道らしき道路を見つけました。
まとまり次第UPします。

 

Re: 臼別・・・

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 5月20日(土)10時31分33秒
返信・引用
  koropetaさん、こんにちは。

> 臼別=牛朱別じゃないだろか?

私も臼別は間違いだと思います。
新旭川地区ですので牛朱別ではなく牛別ではないでしょうか。

 

臼別・・・

 投稿者:koropeta  投稿日:2017年 5月17日(水)20時36分59秒
返信・引用
  臼別=牛朱別じゃないだろか?  

Re: とんでもないレアケース?

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 5月16日(火)16時28分10秒
返信・引用 編集済
  momongaさんへ


> 要するに、0丁目道路を設ける意味は、区画の数と道路番号を合わせる意味合いがあるわけで、0丁目区画をつくっちゃうと意味がなくなるんですよね。
> 案外、当時の道庁はこの事を開拓が進む過程の中で気付いたのかもしれません。

途中で気付くほど当時のお役人がおバカには思えませんけどね(笑)
でも線(道路)が先にありきで、その名前を使って区画も表そうとしたようですね。
新旭川市史P172によると旭川市街では明治28年2月16日告示の字(あざ)の設定以降零は無くなったようです。
ただ、この呼称変更に関する文書は見つかっていないと書いてあります。


もう一つ中島街道に関する情報をほんの少し見つけました。
明治36年の小樽新聞に旭川に関する記事が載っており、その中に中島街道という言葉が出てきます。
要約すると、当時旭川には公園が無く、文化的な都市とするために大河内三千太郎、石川藤作という二人が公園作りを始めたような記事です。
その公園の場所が、中島街道より東方に100間の地であると書かれています。
この記事だけで場所を特定することは難しそうですけど。
それよりこの記事の内容が面白いです。
この公園が完成したのかどうかはわからないのですが、構想では理想的楽園とあり、射的場、大弓場、西洋料理店、パノラマ場、物産陳列場を設けてみんなに見せて上川を紹介したいとなっています。
凄いです。今のテーマパークです。
こんな事が明治にあったんですね。

注:この新聞記事は中央図書館の司書さんに探していただきました。

http://i.imgur.com/1JnnQM3.jpg

文中に「臼別地方」という言葉が出てきますが、どこなんでしょうね?

【追記】させて頂きます。
このこの新聞記事は明治36年という事ですが、36年というと師団が出来て一気に賑わいが湧きあがった頃でしょうか。
とはいえ中心市街地以外はまだまだ未開でしょう。
そんな頃に近い地図といえば明治41年のものがありますが、それをみても中島街道踏切付近にあたる所には中島街道らしき道路は有りません。
永山村に区画線は引かれていますが、実際にあった道は新師団道路と天塩道だけだったと思います。
なので新聞に出てくる中島街道が現在の踏切に書いてある中島街道と同じものである可能性にも疑いがあります。

さらに、大正7年の結構正確な地図を見ても、当該の中島街道踏切の場所に道路は見当たりません。
現在の中島街道踏切なるものは、意外と新しいのかも知れませんねェ。

 

Re: とんでもないレアケース?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 5月13日(土)19時13分6秒
返信・引用
  かんじさんへ

> 確かにそうなんですが、そこを永山一丁目道路とすると。零丁目踏切道路の手前の区画が一つ多いですよね。

確かに番外零丁目を差し引いても一区画余計ですね。
永山の区画幅が狭い気がします。その分位置関係がずれて余計な区画が書き入れられているのかもしれません。


> ただ、零丁目が廃止されたタイミングがかなりバラバラというか、旭川の市街地の零丁目廃止(明治20年代?)から永山の廃止まで(昭和11年?)期間がありすぎませんか?
> これは廃止の指示というよりは、使用を続けるのはいいけど新しく零はダメだよって感じでしょうか。

そうなんですよ。あまりにも期間の幅が広過ぎるんですよね。
何らかのお達しがあったとすれば、旭川市街の零丁目を廃止した時に他も一斉に変えてしまったと思うんですよ。
ですから「零」がまずいと言うよりも、区画としての零丁目や零号を設けたのは道庁のミスではなかったか?と思えてきました。

かんじさんがおっしゃってるように、道路としての零は有りだとしても区画としての零はおかしい、というのは一理あると思います。
幾何学的に、面の数より辺の数のほうが1つ多いわけですから、10区画あれば道路は0から数えて10で終わるか、1から数えるなら11までになります。
前者のほうが全区画の数とお尻の道路名称の数字が合致しますから整合性がありますよね。
後者ですと区画は10丁目で終わりなのに、道路だけは11丁目道路ができちゃいます。
要するに、0丁目道路を設ける意味は、区画の数と道路番号を合わせる意味合いがあるわけで、0丁目区画をつくっちゃうと意味がなくなるんですよね。
案外、当時の道庁はこの事を開拓が進む過程の中で気付いたのかもしれません。


そこで、ふと気になって、当初から区画ベースであろう札幌市街の地図を改めて見直してみました。
これがまたビックリ!(笑)

南北方向の道路は、北1条通りと南1条通りから始まっており、大通りを0条通りと考えるなら前者方式になるわけです。
ならば東西方向も創成川(石狩街道)を0丁目通りとしてカウントしているだろうと思いきや、数字が合わない!

なんと、創成川は1丁目通りに相当しており、東西隣の道路は2丁目通りから始まっています。
今まで気にした事ありませんでしたが、西4丁目通りである駅前通りは創成川から3ブロックのところだったんですね。
つまり、東西方向は、後者方式という事です。
なんで東西方向と南北方向で違うのか・・・(~_~;)


これらは何か意図があってのことなのか、それとも道庁がちゃらんぽらんだったのか?
「条」と「丁目」で何か考え方が違うのか?
う~ん、謎です。


 

Re: とんでもないレアケース?

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 5月12日(金)10時45分20秒
返信・引用
  momongaさんへ

> 対岸の師団用地の東端が近文六号道路なので、石狩川を挟んだ延長線上は永山一丁目道路という事になります。

確かにそうなんですが、そこを永山一丁目道路とすると。零丁目踏切道路の手前の区画が一つ多いですよね。
まぁそれほど制度の高い地図ではないでしょうが、当時の物としては貴重な資料です。


> 零丁目の廃止についてですが、
> これらの事から私が想像するに、「零」の語は使うなという何らかの御上のお達しがあったんじゃないかな。
> 当時の北海道の土地管理は全て道庁が権限を握ってましたから、地元の自由にはならなかったはずです。

確かにこの時代の地方行政は勝手にできるものではなく、すべて道庁の指示承諾のうえ行われていますから、零丁目を使わなくなった背景には道庁の影響がありますよね。
ただ、零丁目が廃止されたタイミングがかなりバラバラというか、旭川の市街地の零丁目廃止(明治20年代?)から永山の廃止まで(昭和11年?)期間がありすぎませんか?
これは廃止の指示というよりは、使用を続けるのはいいけど新しく零はダメだよって感じでしょうか。

 

Re: とんでもないレアケース?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 5月11日(木)20時56分52秒
返信・引用
  訂正!

「上川郡明細図」の区画割りがおかしいと言っちゃいましたが、
石狩川対岸の鷹栖村の道路と対比したら、区画割りの辻褄はどうやら合ってるみたいです。

説明しますと、
対岸の師団用地の東端が近文六号道路なので、石狩川を挟んだ延長線上は永山一丁目道路という事になります。
同じく対岸の近文七号道路の延長が永山二丁目道路で、現在の環状線です。
つまり、かんじさんが一丁目と記している区画が実は零丁目です。

十丁目と記しているところは実は九丁目で、対岸は近文十三号道路、現在の北インターに接続する道路ですね。
ここは道路が他より太く描かれていますが、東・西兵村の中央に当たり、番外地として大隊本部や共用施設、民間店舗などが集約された区画です。

ですから区画割りは概ね間違ってはいないんですね。
要するに、全体的に描画の精度に欠けていますから、私もかんじさんも零丁目の区画を勘違いしたものと思われます。
たぶん目安となる天塩線のカーブに惑わされたのではないでしょうか?



零丁目の廃止についてですが、
永山の場合は結果として隣村当麻に跨る26丁目に渡って大規模に地番を変更するという大胆な手法を採ってますが、
時期は異なるものの、他地域でもことごとく「零」の名が消え去っています。
古くは旭川市街の零丁目もそうですし、かんじさんが最初に指摘された秩父別も然り、神楽町の零号、東神楽の零号、
たぶん他にもあるんじゃないかな。
ただ、比布などには「零線」に相当する「基線」の名は今でも残っています。

これらの事から私が想像するに、「零」の語は使うなという何らかの御上のお達しがあったんじゃないかな。
当時の北海道の土地管理は全て道庁が権限を握ってましたから、地元の自由にはならなかったはずです。

ただ、仮にそうだとしても、その理由が不明ですけどね。(~_~;)



 

Re: とんでもないレアケース?

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 5月11日(木)17時16分12秒
返信・引用
  momongaさんへ

> ところで、かんじさんのUPしてくださった上川郡明細図ですが、ちょっと変ですね。
> 最初はかんじさんが零丁目の区画を間違ったのかな、くらいに思いましたが、よくよく見ると地図の区画割りがおかしいです。
> 同じ明治33年の地理院1/25000地図だと零丁目から数えてちゃんと十五丁目で収まります。
> この時代の地図にありがちですが、道路の線引きはあまり正確なものではなさそうです。

そうなんですよね。
上川郡詳細図は区画の数があっていませんよね。
多いんです。これはmomongaさんの地図が正確ですので、明らかに明治33年のものは間違っています。

> こうまでして「零」を排除した理由・・・未だにつかめません。
> 永山だけではありませんので絶対に何か理由があるはずですが、ネット調査の限界かな。

これは私なりの大胆な裏付けのない仮説ですが、、、、。
零丁目の謎としてスタートしていますが住所の表記に関して、面としての「区画」を示すのか、○丁目通りとして「通り」を表すのかで混乱するのだと思います。
現在の常識では住所の丁目というとある範囲を示すのは当たりまえですが、昔は違ったのではないでしょうか?
こう考えてみました。
零というのは原点を表しますが、これは量を持っていません。
なのでスタートが零というのは正しいのですが、零丁目という区画があるのは基本的におかしいのです。
1(イチ)は位置を表すと同時に量も表しています。1-0=1です。
量を持つ全ての物は1から始まるのです。
製造1台目、1杯目、1号、、、、、、、。
零は存在しないという意味ですから。
唯一、零戦という戦闘機が存在していますが、、、、(^^;

なので線としての(通りとしての)零丁目(通り)は有ってもいいのですが、区画としての零丁目はおかしいという議論があったのではないでしょうか?

事実、道路があってそこに人が住みついていたという話は以前にも書きましたが、道路に沿って人は住み始めます。
住所というのは面積と権利を表す地番と違って、住んでいる場所を特定するためのものですから、昔は○丁目通りに住む○○さんという言い方になります。
住所を区画で表現すると道路向かいに住む人とは違った丁目になってしまいます。
今では良くても当時これではひどく都合が悪い。
○○丁目と言えばその通りに住む人集団を指しますので、○丁目イコール○丁目通りだったはずです。
この場合は零丁目通りに始まり、1丁目通り付近に住む○○さん、7丁目通り付近に住む○○さん、これが都合がいいのです。
人がまばらに住んでいる地域では丁目は通りを表し、この場合は零丁目から始まっても違和感がありません。
次第に人が密集してくると、大きな通りでは無いところにも人が住み始めます。こうなると丁目以下の枝番が必要となり、そうなると丁目は区画を表すようになります。
そうなってくるとそれまでの概念を変えて零丁目を無くして、丁目は区画を表すとなってゆく必要があったのではないでしょうか。
なので零丁目が廃止されたのは先に書いた零を区画とする事は変である事と、それを機に1丁目という区画にするという流れであり、それが一斉に行われたというよりは、必要に応じて時期を見て順次変更されたと想像します。

と、これが私の仮説です。
が、零丁目という言い方が全国的に珍しいのではないかと今考えているのです。
検索しても日本中で零丁目という言い方が出てこないのですよね。
明治後期から昭和初めにかけて北海道開発計画において、「零丁目」という数え方がなぜ採用されたのか?
そして何故消えて行ったのか(ここは推測していますけど)まだまだ奥は深い気がします、、、、。

 

Re: とんでもないレアケース?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 5月11日(木)13時04分28秒
返信・引用
  かんじさん、現地調査ごくろうさまです。
私もゴールデンウィーク中に巡ってきましたよ。(^^)v

踏切はもちろんですが、バス停も基本的には道路名をバス停名にしてるみたいですね。
だから実態とは多少ずれていても、その道路に近けりゃオーケーなんでしょうね。
あと、もし零丁目時代からの名称だったとしても、道路名は変わってませんからそのままでよかった。


>そして零丁目があった時には、この通りの当麻側の区画が7丁目でしたが、零丁目が無くなった(昭和11年)後は旭川側が7丁目になり、現在も続いています。
7丁目通りの位置は変わっていません。

そうなんです。
他地域では1線道路と2線道路の間の区画が1線ですし、1号道路と2号道路の間の区画が1号です。
同じ屯田兵村だった東旭川でも、北1丁目道路と北2丁目道路の間が北1丁目区画です。
ところが、零丁目を廃した永山だけは、1丁目道路と2丁目道路の間の区画は2丁目になってしまったんですね。
通常は道路名がその区画の始まりを表すのに、永山は逆になってしまっています。

こうまでして「零」を排除した理由・・・未だにつかめません。
永山だけではありませんので絶対に何か理由があるはずですが、ネット調査の限界かな。



ところで、かんじさんのUPしてくださった上川郡明細図ですが、ちょっと変ですね。
最初はかんじさんが零丁目の区画を間違ったのかな、くらいに思いましたが、よくよく見ると地図の区画割りがおかしいです。
同じ明治33年の地理院1/25000地図だと零丁目から数えてちゃんと十五丁目で収まります。
この時代の地図にありがちですが、道路の線引きはあまり正確なものではなさそうです。

 

Re: すみません間違えました。

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 5月11日(木)13時00分58秒
返信・引用
  STEP1stさん、こんにちは。

最初は後期高齢者と聞いてちょっと驚きましたが、前期でしたか。
まあ、それでも私より先輩には違いありませんね。^^;


> 公のものとして書籍にするか論文形式にするとかして
> 残してはいかかでしょうか?

まだまだ勉強中の自分には、こうしてネット上でああでもないこうでもないとやってるのが一番楽しいです。
でも、間違った情報はもちろん、変に現代感覚の目で歴史を見る事だけは避けたいと思っています。
歴史は、当時の視点に立って想う事が何よりも大事だと考えます。

 

すみません間違えました。

 投稿者:STEP1st  投稿日:2017年 5月11日(木)05時13分17秒
返信・引用
  momonga 様

高齢者の仲間入りは間違いないですが・・・
後期ではなく前期でした><

興味を持てば次から次へと広がりますね。
杉村京子さんを1年がかりで取材しお母さんと京子さんの事を書いた本を見つけて
購入し先ほどひととおり目を通しました。
かんじさんから情報を得られたからです。
「チカラペ舎」では職業訓練としての講座を10年ほど続けられたようです。
勿論、民芸品店・工房としてが当初の姿です。
曾孫さんもいらして縁は続いているので何故か安心しています。
少しは理解を深めたので又訪れようと思っています。

momongaさんとかんじさんの地図に関するやりとりは
公のものとして書籍にするか論文形式にするとかして
残してはいかかでしょうか?
銀座通りの名称の項も楽しく拝見しました。
間違った情報を後世に伝えるのは良くないですね。


 

Re: とんでもないレアケース?

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 5月10日(水)19時08分40秒
返信・引用 編集済
  > No.1365[元記事へ]

momongaさんへ


> PS:かんじさんが示されたのは永山通2丁目踏切(ヤマダ電器のところ)だと思います。
>    中島街道踏切は現在の金星橋通りなのでちょっと場所が違います。

ありゃりゃ、中島街道踏切は今の金星橋通りにかかる踏切でしたか。
間違えました(^^;


さて、踏切調査してきましたよ。
新富小の近くの宗谷線踏切が「永山町零丁目踏切」ですよね。
そして39号線ダイハツの所を入った通りにある踏切が「永山町1丁目踏切」です。
そのあと貨物ターミナルがあるためしばらく踏切は有りません。
次にあるのは6丁目踏切があったであろう場所の高架橋です。
そして次に旭川トヨタ永山店の通りにあるのが7丁目踏切です。
零丁目踏切から順に数えてゆくと見事に合っています。
つまりこの通りが7丁目通りです。
そして零丁目があった時には、この通りの当麻側の区画が7丁目でしたが、零丁目が無くなった(昭和11年)後は旭川側が7丁目になり、現在も続いています。
7丁目通りの位置は変わっていません。

さてその先も調査しました。
次に現れる踏切は永山町8丁目踏切です。これは車の通れない小さな人と自転車の踏切でした。
9丁目踏切は大きな高架橋になっていますね。
。この通りは永山駅のすぐ横にあたり、付近には大きな農協の倉庫があったりしますので、昔から交通の要所だったところだと思われます。
永山駅を超えて次の踏切は永山町10丁目の踏切です。
11丁目の踏切もありましたが人だけの小さな踏切です。
新川の手前に12丁目踏切もありました。
さらに新川を超えたところに永山町13丁目踏切があります。
ついに北永山駅に着くとその横に永山町14丁目踏切があります。
正確に1丁目毎に道と踏切が続いています。
ここで国道に出ると永山14丁目のバス停がありました。
永山15丁目を曲がってJR踏切に行くと永山町15丁目踏切がありました。

そしてついに永山16丁目の細い道をJR線に向かって進むと「永山町16丁目踏切」にたどり着きました。
この細い通りが町村境界の永山零丁目から数えて16番目の永山16丁目通りであり、国道に出たところには交差点を挟むように永山16丁目のバス停が二つありました。
厳密に言うと、永山16丁目というバス停の当麻側は当麻町にあります(^^;

こうして町村境界の踏切までたどり着きましたが、次の踏切はというと宗谷本線は大きくカーブして比布町へ向かっています。やっと見つけた次の踏切は「石狩川取水口道路踏切」というところで、踏切調査はここで断念しました。
そこで国道39号線に戻り、次はバス停を追いかけました。
永山16丁目バス停の次は、momongaさんも指摘されたように当麻17丁目です。
1丁目毎の正確なバス停はなおも続きます。づっと続くバス停はどの箇所も交差点に有ります。
あくまでも丁目は交差点を表しています。(もちろん古くから人々は交差点付近に住んでいますからね)
当麻18丁目、当麻20丁目(ここが当麻町への国道入り口にあたります)、当麻21丁目、当麻22丁目、当麻23丁目、当麻24丁目、当麻25丁目、当麻26丁目、当麻27丁目、(おいおい伊香牛に着いちゃうよ)と思った次のバス停が、伊香牛駅前、でした。
次のバス停が伊香牛分岐点でその先は石狩川を渡って、愛別に入ってしまいます。
ということで当麻は27丁目までありました。

ということで、踏切名もバス停名も零丁目時代の数字を今でもそのまま継承していると思われます。
 

Re: とんでもないレアケース?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 5月10日(水)12時52分1秒
返信・引用
  おお、かんじさん、いい地図ですね。
どこかで見た事あるなあ・・・
私も明治33年の当麻村の地図を見て、首を傾げていたところです。
何故傾げたかは後にして、

大正6年測図&昭和3年測図の愛別村1/25000の地図に目をこらしてみました。
いずれも旭川側から見て伊香牛の手前に二十二丁目~二十六丁目の記載が辛うじて読み取れます。
(閲覧サイトで直接見るともうちょっと判読しやすいです)

つまりこの時期の字名地番は、

  永山村番外零丁目・永山村零丁目~十五丁目  当麻村十六丁目~二十六丁目

であったわけですが、昭和11年の永山村の字名地番改正で、

  永山村番外零丁目・永山村零丁目~十五丁目  当麻村十六丁目~二十六丁目

     ↓        ↓    ↓       ↓     ↓

  旭川へ編入済み  永山村一丁目~十六丁目  当麻村十七丁目~二十七丁目

と変更された事にほぼ間違いないと思われます。
(各丁目道路名は変えておらず、区画の地番を1丁目ずつシフトしている)
現在のバス停の名称も、これが使われている事になります。

これらの事から、私はてっきり永山村は分村前に26丁目まであり、その字名を当麻村に引き継いだものと考えたのですが、
ところがどっこい、明治33年分村時の地図を見ると、それも自信がなくなりました。
かんじさんがUPされた地図を見てもそうですが、分村当時はほとんどまだ兵村区画のままです。
つまり永山兵村と当麻兵村以外の地域はまだ区画道路すら無く、もちろん〇〇丁目の記載もありません。
分村時、ほんとうに26丁目まで存在したのか?
ただ、市史によると、分村当初17丁目を村界とした、とあるので、区画はされてなくとも26丁目まで予定線引きされていたかもしれません。
さもなくば、分村後に新たに区画された地域にも関わらず、永山村続きの16丁目から26丁目の地番が振られた事になります。
これが零丁目を廃さなければならなかった理由と共に、私が首を傾げる理由です。

ちなみに、昭和3年以降はいきなり戦後まで測図が飛んでおり、この間の地図がないのが残念です。



PS:かんじさんが示されたのは永山通2丁目踏切(ヤマダ電器のところ)だと思います。
   中島街道踏切は現在の金星橋通りなのでちょっと場所が違います。

 

Re: とんでもないレアケース?

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 5月 9日(火)16時33分45秒
返信・引用
  > No.1363[元記事へ]

momongaさんへ

永山町零丁目踏切の発見に始まり、永山町の編入や当麻町との丁目のつながりなど、次々に湧きおこる疑問。
面白いですねぇ、堪りませんね。
私も頭をひねってみたのですが、どうもうまく理解できません。
そんな中ヒントになりそうなのが、この地図ですよね。
明治33年の上川郡明細図です。
ここに当時の永山町の全景も入っています。
現在の当麻町と永山町の境目と昭和7年の時点の永山と旭川の境目に線を入れてみました。
昭和7年の地図をみると、この町境を起点として零丁目が始まっていますので、
それに沿って行くと現在の境目は16丁目と17丁目になります。
国道沿いの当麻町の入り口には現在も20丁目のバス停がありますよね。
昔は16丁目から先は湿地になっていたようで、それを避けて山側に現在の当麻町の中心が栄えたのでしょう。
などなどわかることもありますが、なんか丁目が合わない気がします。
これをヒントにmomongaさんの考察を進めてくだされば幸いです。

もう一つ、昭和7年の地図を見るとmomongaさんの発見した「中島街道踏切」がまさに中島遊郭へ真っ直ぐに通じる道の踏切である事が解ります。
ただ、中島街道という言葉はまだ発見していませんので引き続き調査します。
 

とんでもないレアケース?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 5月 8日(月)12時54分46秒
返信・引用
  もう少し永山の話題を続けたいと思います。


永山の地番を調べている中で「これはいかがなものか」という名称に出くわしました。
道北バスのバス停で、「永山16丁目」の先が何と「当麻17丁目」「当麻18丁目」「当麻19丁目」・・・と「当麻27丁目」まで続くんですね。
これは明らかに永山村からの分村の名残だろうという事は想像できますが、それにしてもちょっと無理がある。
もしかしたらバス会社が勝手にそう呼んでるだけか?とも思いましたが、そうでもなさそうです。
冠する町名が変わっているのに地番の数字だけが連番で続くというのは、非常に珍しいのではないでしょうか?

そもそも当麻が永山村から分村したのは明治33年にまで遡る話です。
分村時は17丁目道路を村界としましたが、僅か2年後に16丁目道路に村界変更しています。
結果、区画としては永山村は零丁目から数える15丁目までとなり、16丁目以降が当麻村となるわけですが、
その際、村が変わったにも関わらず、16丁目以降の地番名称だけはそのまま字名として引き継いだ事になります。
大正期や昭和初期測図の地図をよくよく見ると、確かに当麻村となっているものの、引き続き十七丁目とか十八丁目の表記が見て取れます。
分村前の永山が何丁目まであったのか、残念ながら全村区画図が見つかりません。

そこまでは良いとして、先のレスの通り、永山はその後昭和11年(たぶん)に、零丁目~15丁目を1丁目~16丁目に字名地番変更しています。
という事は、バス停の表記が正式な字名だとすれば、永山村の地番変更に合わせて当麻村も16丁目以降を連番数字の地番に変更した事になります。
まあ確かにそのままでは永山の16丁目の隣に同じ当麻の16丁目が続く事になり、いよいよややこしい事になりますが・・・
ただ、明治の分村以降かなりの年月が経っているにも関わらず、地番だけは永山村のそれを継承し続けたという事になります。
現在の「宇園別」という地名も古くからあったのに、何故その時に変えてしまわなかったんでしょうね。


踏切名称と同様、このバス停名称も、いつ名付けられたのか知りたいところです。
条丁方式の住所になったところはさっさとバス停名称を変えてしまうのに、何故この区間はいつまで経っても古い名称を変更しないのか?
この辺りの理由も含めて知りたいですね。

 

Re: (無題)頭がさがります。

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 5月 8日(月)10時42分56秒
返信・引用
  STEP1-stさんへ

たいへんご丁寧なレスをありがとうございました。
たぶん違うだろうと思いつつご紹介したサイトがお探しのサイトだったようで、お役に立てて幸いです。
レスを拝見して、私よりも大先輩である事に少々驚いています。

私もかんじさんも、地図を見る事が大好きな人間でして、
現在の地図と古い地図を重ね合わせたり、あるいは古い航空写真と重ね合わせたりする事はよくやっています。
特にかんじさんはこの辺の作業を得意としてますよ。
パソコンですと、そういった作業がいとも簡単にできてしまうので非常に重宝しています。
と言いますか、パソコンがなければおそらく手間と時間がかかり過ぎてやってられないでしょうね。
様々な情報収集も、以前だといちいち図書館などに出向かなければならなかったのが、ほとんどネット検索で済みます。
私もパソコンとネットがなければ、おそらく歴史に興味を抱く事すらなかったと思います。

でも、そうは言っても実は地図やパソコンばかりではないんですよ。
ブラタモリよろしく、やはり実際に現地に赴く事が何と言っても楽しいんです。
最近ではそれすらストリートビューで済まそうと思えばできる事も多いですが、それだけではダメだと思います。


>当時集落で暮らしていた場所に訪れ、目を閉じて時空を超えて
>皆さんとお会いしたいと思っています。

STEP1-stさんがおっしゃったこの言葉どおりだと思います。

 

Re: (無題)頭がさがります。

 投稿者:STEP1-st  投稿日:2017年 5月 6日(土)13時34分46秒
返信・引用
  > No.1360[元記事へ]

かんじさんへ

有難うございます。
過去の投稿を読んでいますが皆さんの調査能力には頭が下がります。
知識の積み重ねと想像力がとても大切なんだとつくづく感じさせられます。


「チカラペ舎」を検索しても会社も杉村さんも出てきません
かろうじて「有限会社チカラペ」は出てきますがそれ以上進めませんでした。
どしたら杉村さんまで検索できたのですか?

おかげ様で「チカラペ舎」が杉村さんの民芸品店だということがわかり
解体・撤去の前にその場所に立てた事を嬉しく思います。
そして杉村さんの娘さんがアイヌ文化(刺繍)の伝承に携わっていることも
解りこれからも引き継がれていくことを期待しています。
 

Re: (無題)

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 5月 5日(金)12時11分15秒
返信・引用
  STEP1-st さんへ

> 偶然通りかかり写真を撮っていました。
> アイヌ語(日本語表記ですが)らしき看板がありました
> 建物自体は倒壊寸前ですが・・・
> 特徴のある区画ですので間違いないと思います。
> お店のようですがご存知でしょうか?

少し調べてみました。
STEP1-stさんが撮影された建物の位置を特定して、昔の写真と重ね合わせたところ、
昭和39年当時は高野さんという方が住んでいた家の場所でした。
私の見たアイヌ記念館とは少し場所が違っています。

そしてSTEP1-stさんの写真に写っている建物に書かれた文字は「チカラペ舎」と読めます。
そこでチカラペ舎を検索してみますと、「杉村京子(民芸品製造販売チカラペ舎主)」という記事がありました。
さらに杉村京子を検索すると、純血のアイヌでありアイヌ文化の伝承に寄与された方で残念ながら2003年に亡くなっています。
なので写真の建物は杉村京子さんが生前に経営されていたアイヌ民芸品店、チカラペ舎の跡ということになりますね。
なかなか興味深かったです。(^^)

 

Re: (無題)

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 5月 4日(木)23時41分57秒
返信・引用
  > No.1358[元記事へ]

STEP1-st さんへ

はじめまして。
私の記憶を共有できる方がいてうれしいです。
添付の写真ですが、残念ながら私の記憶の一部とは符合しません。
でも場所は同じなので、私の見た昭和30年代から変遷があったものと思われます。

アイヌに関しては小さいころの実体験はあるものの、歴史的知識があまりないのでなかなか議論できないのが残念です。
でも、アイヌ民族の地位向上のために何かできればなと思っています。

ただ、過去に遡ってアイヌの権利を主張する行動にまでは考えが及びませんが、、、、。
 

(無題)

 投稿者:STEP1-st  投稿日:2017年 5月 3日(水)04時57分11秒
返信・引用
  OMONGA様
かんじ様

かんじ様
はじめまして、よろしくお願いします。

昨年投稿日:2016年 6月28日に掲載された写真をみて
ピンと来ました。
「ここに熊がいた」と印を付けられていた場所の前を
偶然通りかかり写真を撮っていました。
アイヌ語(日本語表記ですが)らしき看板がありました
建物自体は倒壊寸前ですが・・・
特徴のある区画ですので間違いないと思います。
お店のようですがご存知でしょうか?

この辺りは新しい家に立替られていて数年後には
昔の面影がなくなりそうです。
ただし、道路の不規則さは変わりそうにもありませんね。
 

この地図を探していました。

 投稿者: STEP1-st メール  投稿日:2017年 5月 2日(火)14時25分7秒
返信・引用
  momonga 様

早速のご返答誠に有難うございます。
手がかりの少ないヒントでも的確なご教示を頂き感謝いたします。
まさにこの地図です!「佐々木長左衛門」さんのサイトは何度か
訪れているのですが辿りつけていませんでした。
間違いなくmomonga様のサイトから情報を得ていました。
各戸がアイヌ名で表示されているのは珍しいです。
それと給与地の広さは住宅街で生まれ育った自分としては
広いのです、地図を現在のものと符合させるとそう感じます。
師範学校を四辺のひとつとしてみたら、近文小学校から
近文駅近辺を対角とした広さでしたので驚きましたが
40戸分の農地とすればむしろ狭いのかもしれません。

親しい友人が緑町17丁目(嵐山通)で店を構えていて
よく遊びに行きますが、先日も付近を散策した帰りに
寄って話したところ、友人の家の近くの線路のほうに
いたアイヌのおばあさんが「この辺の土地は私たちの土地だ」と
大声で言っていたが今はいなくなったとと少し懐かしそうに話していました。
友人は私と同じく街中で生まれ育ちましたが40年ほど前に現在の緑町に
引っ越して仕事をしております。

街の誕生や文化の伝承といっても本州並みのという括りで比較すると
歴史はとても浅いのですが間違いなくアイヌの人々が暮らしてきて
現在も暮らしています。
その中で、物凄いスピードで風化が進んでいるように思います。
私は去年から後期高齢者の仲間入りしましたがそう感じています。
父や母の子供の頃といえば90年から100年前になりますが、
その間の歴史さえ霞んでしまいそうです。
旭川の古い時代と言っても50年ほど前には街角には靴磨きの方が
いましたが今は一人もいません、4月に東京に行きましたが
帝国ホテルの地下には2人のおじさんが靴磨きの仕事をしており
懐かしく遠くから見ていました。
青山霊園・谷中霊園を見てきましたが、そこでも本州と旭川の
違いを実感しました、東京の霊園のお墓は簡単にお話すれば
質素なんです、旭川のお墓はとても立派です。
立派でカッコよければ良いんでしょうかね、昔のお墓でも
恥ずかしくないし、むしろ大切にして欲しいと思います。
旭川は(旭川に限らないと思いますが)新しいものへ替えるのが
早く、右にならう人が多いように感じます。

思わぬ方向に脱線してしまいましたのでこの辺で失礼致します。
自分の歴史を遡れば親やその時代に興味がわきます、そんな時に
momonga様のように細部にわたり勉強され公表されていることに
敬意を表し感謝申し上げます。

お会いしてお話を伺う機会があることを願っております。
 

Re: 昔の地図を探してます

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 5月 1日(月)20時14分45秒
返信・引用 編集済
  STEP1-stさん、はじめまして、こんばんは。

古い手書きに近い地図を掲載したサイトをお探しという事ですが、正直言ってそれだけでは私も分かりません。
ただ、私が知っている範囲で、かつての旧土人給与予定地(いわゆる近文アイヌ部落)の詳しい地図を掲載しているのはこちらです。
http://www.abs-tomonokai.jp/sasaki/index.html
http://www.abs-tomonokai.jp/sasaki/chikabumi-map.html
http://www.abs-tomonokai.jp/sasaki/tobetu-map.html
http://www.abs-tomonokai.jp/sasaki/hoaido-map.html


あと、もうご覧になってるかもしれませんが、当掲示板2016年7月4日の、かんじさんが投稿してくださった住宅地図があります。
http://9008.teacup.com/momonga_farm/bbs/1291

掲示板のこの辺り、アイヌ関連のレスが集中してますので、もしご覧になってなければ是非ご一読ください。

 

昔の地図を探してます

 投稿者:STEP1-st  投稿日:2017年 5月 1日(月)13時34分19秒
返信・引用
  momonga様

はじめまして、4月の道新に連載されたアイヌのことを題材にした
「こころゆらす」で昔に思いをめぐらせました。
行き当たりばったりで色々とサイトを見ました、その中で
今の教育大学(師範学校)付近のアイヌの人たちが集まって
暮らしていた(強制的に集められた?)30軒位でしょうか
その地図を見たのですがいくら探しても見つかりません。
探しているうちにこちらのサイトに巡り会いました。

当時集落で暮らしていた場所に訪れ、目を閉じて時空を超えて
皆さんとお会いしたいと思っています。
自転車や車で見て歩いてはいるのですが特定できないため
もどかしいのです。
こちらにお集まりの皆様はかなり詳細な知識をお持ちのようですので
是非、古い手書きに近い地図を掲載したサイトをお教え下さるよう
お願い致します。

 

Re: 重ねてビックリ!

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 4月26日(水)23時18分59秒
返信・引用
  かんじさんへ

仰せの通り、楽しませてもらってますよ。(^^)v
そうそう、結局のところ永山にある宗谷線踏切は全て1丁目ずつ名前がずれてますね。(巡る時間がないのでストリートビュー調べ)
ただし、中島街道の名称については今のところ分かっていません。

それはともかく、永山の地番がいつの間に変わったのかが気になって、とりあえずざっと市史年表を拾ってみました。
どうやらパルプができる前の、中島地域の旭川編入問題が微妙に絡んでいるみたいですね。



 大正10年 永山村、新旭川地区市街地計画を策定
 大正11年 新旭川駅開業  旭川区に市制施行、旭川市となる
 大正13年 新旭川・中島地区住民200人余、永山1丁目道路以西の旭川編入を請願
 大正14年 旭川市、永山村長に永山全村または一部合併の意思を照会(回答は保留)
 大正15年 永山村中島・新旭川開発期成会が総会決議の上、旭川市編入の請願書を永山村に提出

 昭和5年  新旭川開発期成会の新旭川住民ら130余人、旭川編入を旭川市・永山村・上川支庁に陳情
      (牛朱別川切替事業によって編入問題が再燃)
 昭和7年  2月、旭川市長と永山村長の編入交渉、前年から3回目の協議も決裂
      9月、道庁、新旭川編入問題で旭川市・永山村の調停に当たる
      10月、旭川市会・永山村会、旭川市に新旭川地区を編入する道庁の諮問を可決
      11月、旭川市に永山村新旭川地区を編入(道庁告)

 昭和11年 永山村の字名地番改正施行(道庁告)



大正時代からすったもんだやって、新旭川・中島地域の旭川編入は昭和7年にようやく実現するわけですが、
年表では単に新旭川地区となってるだけで編入区域が定かでありません。
実際の編入区域は、当時の永山町零丁目道路以西(番外零丁目・中島・日ノ出・新旭川・牛別)だと思われます。
現在の住所で言えば、東・新富・大雪通・パルプ町・新星町ですね。
根拠は、その後パルプ工場ができた際に、永山村ではなく旭川とされているという事と、
元々永山村の字名であった牛別が、編入後には大字永山村字牛別という表記に変わっている点です。
この「大字」というのは、合併や編入などの後、元の自治体名を表す意味合いがあるそうですから旭川市になったという証だと思います。

大正13年の住民請願では、永山1丁目道路以西の編入請願となっていますが、
さんざん揉めた末の編入ですから、道庁の調停で編入地域を1丁目道路以西から零丁目道路以西に縮小された事は充分考えられます。
この結果永山村は、零丁目道路を旭川との境とし、当麻村との境までの零丁目から15丁目が新村域となるわけです。

そして昭和11年の永山村の字名地番改正です。

これもどこをどう改正したのかもう少し調べないと定かでないのですが、
零丁目~15丁目を1丁目~16丁目に変更したのはこの時しかないと考えます。
住民の請願通り、1丁目道路以西が旭川に編入されていれば永山から零丁目が無くなり、こんな紛らわしい地番改正は必要なかったんでしょうけどね。


大凡の経緯は分かってきましたが、やはり「零」が何故いけないのか?
その肝心な理由は何も分かっていません。


 

Re: 重ねてビックリ!

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 4月26日(水)16時32分55秒
返信・引用
  momongaさんへ

踏切調査、思わぬ展開になってきましたね。
踏切は昔の名前をそのまま使い続けているという私の調査結果を受け、
ひょっとして旭川市内の踏切もというmomongaさんの発想と調査。
そして昔の街道名を新発見するなんて、みごとな連携ではありませんか。

だから歴史に基づく昔の名前を使続けることに意味があるんだって何回私達に言わせるのか。

市の担当者を連れて来て、小一時間も問い詰めたいなんてね。

歴史の事実を単に覚えるのではなく、新たなベールを剥ぐというこの醍醐味。
やめられませんねぇ。
momongaさんのことだから、中島街道?って聞いただけでしばらくは楽しめちゃうんだろうなぁ。

私は今日、東旭川の兵村記念館に行ってきました。
4月から館長が変わったということで挨拶と、零丁目に関する知識をお持ちかなぁなんて思ってね。
そしたら館長代理の中谷さんという方がいていろいろ話したのですが、歴史的な知識はそれほど深くはない感じがしました。
それでも小さい頃東旭川の屯田兵住宅に実際に住んでいたそうで、郷土の歴史は今一生懸命覚えているって感じです。
そうそう、師団の事を「だいななしだん」って言ったので、「お言葉ですが、昔の軍の事を話す時はだいしちしだん、と言わないとだめですよ」って説明してアドバイスしておきました。
ねぇ、兵村記念館館長代理が第ナナ師団はまずいですよね。
 

重ねてビックリ!

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 4月24日(月)12時41分49秒
返信・引用
  宗谷線を横切る道路がいつ頃からあったのか確認すべく、戦前・戦後の地図を見比べていたら、これまた意外な事にビックリしました。
何と、永山町零丁目もいつの間にか1丁目に化けていたではありませんか。

かんじさんが書かれた秩父別と同様、永山も元々は零丁目から数えていたのが、いつの間にか1丁目から数え直しています。
つまり、かつての零丁目は1丁目となり、順次1丁目づつずらした16丁目までの表記に変わっています。
私はてっきり零丁目と番外零丁目がパルプ町と新星町になり、1丁目以降は昔から変わってないとばかり思ってましたが、そうではなかったようです。

かんじさんもご存じかと思いますが、戦前・戦中の地図は、昭和初期以降終戦時までのものがなかなか見当たりません。
私が分かった限りでは、昭和一桁時代の地図までは永山町零丁目・番外零丁目が記載されていますが、
戦後、昭和23年の地図では既に零丁目が1丁目になっています。
概ね昭和10年~20年くらいの間に変えられたようですね。
という事はつまり、永山町零丁目踏切は少なくとも零丁目が存在した時代からの名称であるという事になります。

さて、いつ変わったのか?
これは調べてみなければ分かりませんが、あの地区での大きな変化といえば、昭和15年にパルプ工場ができてます。
もしかしたらそれを機に零丁目を廃止し、新1丁目にしたのかもしれません。


ただ一つ疑問があります。
旭川市街もそうですし、永山や当麻などの近郊、それに秩父別などでもそうだという事は、
各地に存在していた零丁目や零号などの表記が、次々と意図的に廃止されてきたという事ですよね。
それもわざわざそれまでの住所表記を広い範囲に渡って変更してまで。
これ、何故なんでしょう?
別にゼロから数えたって特別不都合な点があるとも思えないのですが・・・

 

踏切の名にビックリ!

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 4月21日(金)12時45分38秒
返信・引用
  新旭川方面へ行く機会があったので、とりあえず付近の踏切名を確認してきました。


ありました、ありましたよ、旭川にも零丁目踏切が。
宗谷線の「永山町零丁目踏切」です。
それよりもビックリしたのが、「中島街道踏切」なんて名前も残ってたんですね!
昔からある踏切は国鉄時代からの古い呼称をそのまま使ってるだろうと予想はしてましたが、これは予想以上の古さでした。
もしかしたらほとんどの踏切は設置以来の名をずっとそのまま使い続けているのかな。

金星橋通りの踏切は私も車でよく通るので、今の今まで気付かなかった事が情けないですが、
「中島街道踏切」という名を見た時は感激しました。
そもそも「中島街道」というのも初耳ですし。
中島の名は、牛朱別川の対岸を指す呼称として旭川市街創成期から用いられており、中島遊郭もここから名付けられています。
宗谷線(当初は天塩線)が永山まで通じた明治31年には既にこの名は住民に定着していました。
ただ、この踏切がいつ設置され、いつ名付けられたのかは私も知りません。
「街道」という言葉を使っている事から、少なくともまだ人家まばらな時代の古さを感じます。

「永山町零丁目踏切」は殆ど通る機会のない狭い道路の踏切ですが、戦前までは旧秋月橋、新師団道路に繋がっていた古い道路です。
永山零丁目道路そのものは大正時代に石北線によって遮られ、さらにパルプ工場ができた時にかなりの部分が寸断されていますが、
永山が旭川と合併して現在の条丁方式に移行するまでの比較的最近まで零丁目はありましたから、名前だけでは古さを判別できません。
でも道路の古さを考えると、踏切もそれなりの歴史を持ってると考えるべきでしょうね。


2箇所とも線路を横切る道路そのものは明治・大正の古い時期からあるようです。
(中島街道踏切は戦後若干場所を移動してるようです)
ただし、ある程度きちんとした踏切を設置したのは、おそらくしばらく後の事だと思います。
さらに踏切に名前を付けて管理するようになったのはいつ頃なのかなあ・・・


という事で踏切名調査、なかなか面白そうです!






 

Re: 零丁目の謎

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 4月17日(月)12時33分12秒
返信・引用
  かんじさんへ

プライベートでちょっとゴタゴタしており、レスが遅れて大変申し訳ありませんでした。

旭川近郊の住宅地にも、踏切の名称に「〇号踏切」とかが残っており、
古い名称をそのまま使い続けてるケースが多いと思われますから、もしかしたら探せば面白い名前が残ってるかもしれませんね。
うん、、これまでまったく気にしてなかったので今度時間がある時見てまわる事とします。
ちゅうかこれ、かんじさんに先越されそう。(笑)



昨日の「旭川の歴史的建物の保存を考える会」総会、お疲れさまでした。
今年度受賞の一つ「上川倉庫事務所棟」の保存にまつわる話は大変良かったです。
保存を決断するに至った経緯には感銘を受けました。

民間レベルで古い建物を残そうとする事の大変さ、
見せるだけではカネ食い虫、使われ続けなければ保存すらままならないんだ、という事が実感として伝わってきました。
自らの体験談でしたので、非常に説得力がありましたね。


スクラップ&ビルドしか頭にない、どこかの役所の方にもぜひ聞いてほしいものです。


 

Re: 零丁目の謎

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 3月17日(金)10時41分6秒
返信・引用
  > No.1346[元記事へ]

momongaさんへ

ちょっと用があったので秩父別を通りました。
そうそう、ここには零丁目踏切というのがあったはすだと思い、ネットを検索すると意外と近くだったので行ってみました。
ありましたよ。踏切の柵に「秩父別零丁目」と書かれています。
想像では古い記述が消えずに残っているのだとばかり思っていたのですが、
実は現在の名前が「秩父別零丁目踏切」という正式名称のようです。
なのでこの表記はJRが廃線にならない限り残りますね。(廃線の可能性も高そうですけど)

この変わった名前の踏切のそばに、農家があったので聞いてみることにしました。
トラクターから降りてきたご高齢のオジサンに「すみません、そこに零丁目と書かれた踏切があるのですが、この辺りは零丁目なのですか?」と

オジサンはニコニコして「あーーあれね。あの通りは昔零丁目だったんだ、こっちの通りが1条でね。」
「いまは東1丁目、東2丁目となっているけど、昔は人も住んでいなかったんで、通りが零丁目で、その向こうには零零丁目ってのもあったんだ。
条もあっちが零条だったんだけど、さすがにおかしいという事で1条2条と変わって、零丁目も1丁目になり反対側は東がつくようになったんだ」
と丁寧に説明してくれました。
時期的なものを聞くのを忘れてしまったのですが、ある時期には平気で零丁目とか零条が使われていたことは解りました。
今思うと雰囲気的にはそれほど昔の事ではなく、高齢のオジサンが知っているかのような良い方だったなぁ、、、。
場所は図の所です。
面白いですね。
 

Re: 今秋再開

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 3月17日(金)10時10分21秒
返信・引用
  > No.1347[元記事へ]

momongaさんへ

偕行社、綺麗ですね。
秋の公開が楽しみです。
でも、やっぱり個人的に彫刻美術館は嫌だな。
建物そのものにもっと焦点を当てて欲しいです。
これだけの文化遺産を利用しきれてないと思います。
函館の公会堂、札幌の豊平館と並ぶ遺産なのに、、、、、。



 

今秋再開

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 3月12日(日)22時19分48秒
返信・引用
  大規模修復中だった旧旭川偕行社(彫刻美術館)が今年の秋に再開するとの事です。
当初修復期間は3年の予定でしたが、結局5年以上を要しました。
明治期の木造建築、しかも旭川唯一の国の重要文化財ですし、今回は基礎からの大修復でしたからやむを得ない事と思います。
耐震補強もされたようですし、これでまた数十年は安泰でしょう。
鉄筋コンクリートの現代建築でありながら僅か5~60年で「立て直すしかない」とされているどこかの建物よりよっぽど長寿です。

それはそうと、先日まで周囲を囲っていた工事用の塀が取り払われました。
姫路城を彷彿させる眩しいくらいの真っ白です。
何だか真っ白過ぎてのっぺらぼうに見えちゃいますね。
まあこれが新築当時の姿でしょうし、また歳月が風格を増してくれるでしょう。
残念だったのは、正面外壁の横板目が再現されなかった事です。
一度ああやって塗り固めてしまったらもう再現は難しいのでしょうね。
前回の修復は果たして正解だったのか・・・

建物自体の修復は既に終わったようです。
やはり彫刻美術館として継続するようですが、用途については是非再考してほしいものです。

 

Re: 零丁目の謎

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 2月 2日(木)20時34分28秒
返信・引用
  かんじさんへ

ちょっと訂正しますね。

改めて周辺の線号表記の状況を確認してみたら、けっこうバラバラみたいです。
基線があったりなかったり、零号もあったりなかったりです。
基線道路ではなく、川を基準に一線、二線・・・と数える事も多々あるようです。
西神楽は神楽岡駅付近がかつての零号で、東神楽は現在の旭神町が零号でした。
旧鷹栖村は石狩川を基準に現在の国道40号が1線道路で、旭町通りが1号道路、突硝山へ向かって2、3、4号・・・と続きます。
反対側は南が付いて南1号、南2号、南3号で、零号がありません。

旧屯田兵村は元々兵屋番号で区画してましたから道路には独自の通り名を付けていました。
東旭川では南端通りとか南仲通り、永山では西表通り(国道39号線)とか一番道路・二番道路とかがそうですね。
東旭川は号外線が零号に相当しますし、永山も零丁目に始まりますが、番外零丁目(現在のパルプ町)というのが存在しました。
現在に残る線号表記は、付けられた時代もバラバラなので一概には言えないですが、けっこうちゃらんぽらんのようです。
ただ、いずれも共通しているのは一線と二線の間の区画は一線、1号と2号の間の区画は1号です。


おっしゃるように、道庁は旭川の市街地も農地と同じ感覚で区画割りを始めてしまったのかもしれませんね。
旭川市史に出てくる明治20年代の市街地住所は、現在と1丁目ズレてしまうのです。(断り書きが付きますが)
つまり区画としての0丁目が存在したためにこんな事になったのです。
当時の住所に1丁目加えたのが現在の丁目になります。
この当時も事実上は区画単位で考えられていたという事ではないでしょうか。

確かに唯一の例外と言えるのが市街地区画の10号割りですね。
境界始まりが0にも関わらず、面としての0号は存在せず1号から始まるのが他と違うところです。
境界線と道路の違いかな、、、それとも単に規則性・計画性に欠如してただけか? ^^;

 

Re: 零丁目の謎

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 2月 2日(木)09時58分8秒
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  > No.1344[元記事へ]

momongaさんへ

> 考えてみれば、農地の区画である〇線〇号の表現もまったく同じことが言えますよね。
> 幹線路である基線に始まって、一線、二線、三線・・・と続きます。
> 基線が零に相当します。
> 号のほうも零号から始まってますよね。

そうだったんですか。農地の区画割は基線や零が普通に使われていたんですね。
とすると、これは単に旭川の区画割を最初に行った担当者が農業関係者だったかも知れませんね(^^)

> つまり0丁目通りと1丁目通りの間の区画は0丁目です。

そうなんですか?0丁目という区画は存在したのですか。
1丁目では無く?
1号2号という丁目を10分した区画割も角が0で終点の角が10ですよね。
でも最初の区画は1号で最後が10号だと思います。
そうすれば、丁目も0丁目と1丁目の間の区画は1丁目なのではないですか?

零丁目という言葉で検索しても、日本中の住所で零丁目という記録はなかなか出てきません。
やっぱり旭川の零丁目は特殊なんだなぁと思っていました。
住所ってかなり曖昧なものですよね。
地番というのが別にあって、これは面積とともに所有者の権利と税に結びついています。
それに対して住所は建物や人の場所を示す記号みたいなもので、おもに郵便の為に使われます。
旭川の中心部からも次第に左〇号とかいう住所が消えかかっているようですね。
 

Re: 零丁目の謎

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 1月28日(土)21時18分44秒
返信・引用
  かんじさんへ

考えてみれば、農地の区画である〇線〇号の表現もまったく同じことが言えますよね。
幹線路である基線に始まって、一線、二線、三線・・・と続きます。
基線が零に相当します。
号のほうも零号から始まってますよね。

でもって、地元の人が〇線や〇号と言えば、まずは道路の事を指します。
区画を表す場合は、零号通りと1号通りの間を零号、1号通りと2号通りの間を1号・・・という具合に、各号道路の名称が次に接する区画をも表しています。
これは0丁目があった時の旭川市街地も考え方は一緒だと思います。
つまり0丁目通りと1丁目通りの間の区画は0丁目です。

農地区画の場合は圧倒的に広いですし、区画の内側大部分は耕作地で、
農家の母屋は今も昔も各線号の道路沿いに建ってますから、道路名称=住所で不便はなかったという事なんでしょうね。
 

Re: 零丁目の謎

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 1月25日(水)11時57分31秒
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  > No.1342[元記事へ]

momongaさんへ

> 私もこれは気付きませんでした。
ふふふ、私の功労賞かな。

> 面ではなく道路の数、あるいは境界線の数で数えない限り有り得ません。
> 実にややこしい話です。
なぜこのような事が起こったのか、考察してみます。

> 実際問題、旭川の歴史を振り返った時、この事に起因する誤解も多いようです。
旭川開村初期の記述は住所に関して区画を表していなかったという事を念頭に読み直す必要があるかも知れませんね。


さて、〇丁目が区画を表していないなんて事が起こったのは何故か?
考察してみました。

旭川周辺の開拓にあたり道庁は地図上に巨大なマス目の線引きを行います。
そしてその線は道路となります。
道路となったところに人が住みつきます。
つまり開拓に入った住民は大きな街に住んでいるわけではなく、先に作られたマス目の道路にそって暮らしていたのです。
そこでは〇〇丁目は区画を表しているわけではなく、〇〇丁目通りを表しています。

なので明治23年に旭川の都市計画図を最初に書いたときは、線でマス目に計画を引いたわけですが、その時点で線は通りだったわけです。
そしてその時には通りはイコール住所であったわけです。

ところが旭川は住民を集約し町として面を構成する計画であったので、区画という概念で無ければ土地を分割貸与することができないですから、それまでの道路イコール住所という表記ではまずいという事に直ぐに気付いたのでしょう。

外国の住所もほとんど道路名が住所ですよね。〇〇ストリート〇丁目右〇番ってね。
世界中どこでも道路に人が住み着くってのは基本ですから。
それから言えば、マス目であろうと道路を作ってそれが条であろうと丁目であろうと住所になってもおかしくない訳です。
むしろ最初から大きな面として街を計画しなければ区画割なんて概念も生まれませんよね。

零丁目といえば、他にも当麻町には今でも0丁目というバス停があるし、深川にも踏切に零丁目と書かれた場所があるようです。
 

Re: 零丁目の謎

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 1月20日(金)20時27分55秒
返信・引用
  私もこれは気付きませんでした。
確かに、区画は東西方向に18区画しかないわけですから、0丁目から数えれば17丁目で終わりですよね。
一区画内を0号から数えてるのに10号まであるのも然りです。
面ではなく道路の数、あるいは境界線の数で数えない限り有り得ません。
実にややこしい話です。

実際問題、旭川の歴史を振り返った時、この事に起因する誤解も多いようです。
一般的には昔も今も区画単位で捉えられていますから、0丁目から始まる当時と現在の丁目では1丁ずれるわけです。
例えば『12号駅逓は、ほ通(現在の1条通)4丁目にあった』と”直訳”されているものが、実は現在の5丁目の事であった、という具合です。

南北方向の各条には各々仲通りがありますから、左右で区画を判別する事で混乱は生じませんが、
東西の丁目方向には仲通りの存在がありませんよね。
ここが条との大きな違いで、後に丁目だけは区画を表す方式に改めた要因だと思います。
 

零丁目の謎

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 1月19日(木)17時49分10秒
返信・引用
  momongaさんも持っていると思いますが明治25年の上川市街図です。
この右上の説明を訳してみました。
----------------------------
石狩国上川郡上川市街案内

第一市街戸数200戸  一戸割 間口6間 奥行27間
但し基線すなわち「に通り」零丁目より10丁目に至る

第二市街戸数570戸 一戸割 間口6間 奥行27間
但し基線すなわち「ほ通り」零丁目より18丁目に至る 「へ通り」1丁目より13丁目に至る

合計770戸 番号道路辻左右の角に零号を記し1丁目毎に1より起算し十に終わる
すなわち零と十とは隅を示したるものなり。

但し二市街の内
98戸分 公共地 但し 已成家屋地なり
10戸分  駅舎 但し  同上

462戸分 抽選地

第一市街地共662戸 抽選割渡相成候分
-----------------------------
解らない部分もあるのですが、なんとなくわかりますけど、なんか腑に落ちないのです。

まず旭川の地番は当初、零という地番があったというのは聞いていましたが、実際に地図を見ると丁目の数が合わないのです。
「ほ通り」つまり今の一条通りですが、一番左の丁目を零とすると順にかぞえて一番右は17丁目になります。
でも説明だと18丁目に至るって書いてあります。
第一市街でも左端を零とすると右端は9丁目になってしまいますが説明では10丁目に至るとなっています。
と、ここまで書いてヒラメキました。
条の通りと同じように、丁目も当初は通りを表しているみたいですね。
つまり零丁目は区画ではなく、左端の道路そのものを表している、「零丁目通り」なのかな。
そうすれば、第二市街地は18丁目通りで終わります。
第一市街地は10丁目通りで終わります。
あ、きっとそうだな。

もう一つ、1丁目を10に割った区画ですが、これも角に零の表示をして0~~~10までということは
終わりの区画では無く角が10という事ですよね。
ここでも数字は区画を表すのではなく、境界線を示しているようです。
だから零という表示から始まるんですね。

明治25年の旭川の街は区画ではなく、通りと丁目という境界線で表現されています。
なので始まりは零なのでしょう。

この説明を某郷土史家さんにしてみましたところ、「その通りだと思います」とのこと。
そしてこの零丁目という表示は明治30年以前に「い ろ は に 、、、」という通り名が、
宮下町通り、本町、忠別町、寺町などという町名になった時に零丁目もなくなり、1丁目から始まる表記となって、境界では無く区画を示すようになりました。
そして明治32年に町名から宮下通、1条通、2条通という現在の名称になりました。
この経緯からもmomongaさんの言うように、1条2条ではなく1条通という町名なのだから「通」を省略してはならないという事ですよね。
 

Re: 最近の不満

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 1月 8日(日)14時33分17秒
返信・引用
  まったくおっしゃる通りです。
旭川の中心部(開村時の旧第三市街予定地域)には、一般的に言う町名がありませんよね。
仮称の「いろはにほへと・・」通りに始まって、一時期「宮下町」「本町」「忠別町」「寺町」などの町名が充てられましたが、
明治32年に現在の条丁呼称になってからは頭に冠する町名が無くなりました。
と言いますか、「1条通」とか「4条通」というのがそれらに代わる町名(字名)であるわけで、それに〇丁目が付く訳です。

実は、豊岡〇条〇丁目とか曙〇条〇丁目など周辺地域も「豊岡〇条」「曙〇条」までが字名でありそれに〇丁目が付されます。
つまり、単に1条とか4条とか言われても、それは正確には旭川市内どこの住所も表していないことになります。
「〇条通」と「通」の文字が付いてはじめて中心市街地の住所である事が確定できる訳ですね。

旭川中心部の、条通りを中心に置いたこの住所表記方法は京都に模したと言われ、独特のものがあります。
「右」「左」で区画を判別する方法も、京都のようで京都にもない旭川独自の表記方法です。
バス停に「通」の文字を入れるだけでなく、できれば西に向かうバス停には「右」東に向かうバス停には「左」を追加してほしいものです。

 

最近の不満

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 1月 7日(土)09時52分9秒
返信・引用
  最近気になる不満
地名に拘るmomongaさんなら共感してもらえると思うんだけど、バス停名の表示がありますよね。
アモール前の歴史的なバス停名、追分が豊岡3条2丁目に変更になった時は、momongaさんも強い不快感を表明していましたよね。
今の私の不満は4条1丁目とか3条9丁目とかの街中のバス停名に「通」の文字が省略されていることです。
札幌も街中区画は碁盤の目であり◯条◯丁目の表記です。
が、旭川は本通りを挟んで左右が同じ条であり、「通」があってはじめて成立する住所表記なのです。
この表記も歴史的なものであり、旭川の文化として継承したいものと思っています。
なので歴史的な背景を無視した◯条◯丁目という不思議なバス停名に違和感を覚えます。
バス会社に陳情してみようかなぁ。
 

謹賀新年

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 1月 2日(月)22時34分29秒
返信・引用
  あけましておめでとうございます。
今年も宜しくおねがいします。
旭川の歴史を探求し正確な史実の発掘の日々を今年も追及します。
先日、年末の挨拶で博物館長にアイヌ語の自動翻訳ソフトの可能性を持ちかけましたが、色良い返事をもらえず少し悲しかった。
アイヌ語には文字が存在しないので、話せる人がいなくなるとその時点でアイヌ語が消滅します。
そこで話せる人がいるうちに翻訳ソフトを作れば、後世にアイヌ語が残ると思ったのですが、、、、。
 

新年

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 1月 1日(日)09時14分53秒
返信・引用 編集済
  明けましておめでとうございます。

今年も「論・旭川」掲示板を宜しくお願い致します。


なんだか近年は晴れ上がってグンと冷え込む旭川らしい冬日が少ないですよね。
そのぶんダイヤモンドダストや樹氷の発生が以前に比べ少ない気がします。
寒さはこれからが本番ですが、雪はもういらないですネ。^^;

 

(無題)

 投稿者:アリョーナ  投稿日:2016年12月31日(土)06時49分58秒
返信・引用
  ダイヤモンドダスト綺麗よ  

ひと月早い冬です

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年12月 4日(日)18時32分21秒
返信・引用
  今年も早や師走がやってまいりました。
と言いたいところですがそれよりも、ひと月も早くやって来たドカ雪と積雪に辟易としています。

この11月の降雪量は何と203センチ。
10月にも26センチ降っており、12月に入って今日までの累積降雪量は既に248センチにも達します。
例年ですと、根雪になるかどうかの話題はちょうど今頃が多いと思うんですが、
今冬は11月上旬から断続的にまとまった雪が降り続き、とうとうそのまま融け切らずに根雪となってしまいました。
道路脇には既に除雪の雪山が高々と積み上げられています。
それでなくとも長い旭川の積雪期間がさらに1ヶ月長くなるというのはウンザリですね。


>かんじさん
銀座通りの名称由来に関して、
商店街側とコンタクトをとるのに思ったより難儀してるみたいですネ。
「臭いものは元から絶たなきゃダメ」ですよね。

 

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