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Re: 仏檀の宮川、家具の宮川

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 4月19日(木)21時26分9秒
返信・引用
  まろんさんへ

情報書き込みありがとう。(^-^)

 

仏檀の宮川、家具の宮川

 投稿者:まろん  投稿日:2018年 4月18日(水)22時45分55秒
返信・引用
  どちらも閉店ですよ。
家具屋さんの閉店は5月の予定。

 

Re: 宮川仏壇店

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 4月 2日(月)20時47分49秒
返信・引用
  おゆきさん、書込みありがとうございます。
お久しぶりという事は、旭橋の軍人勅諭旭日章の話題の時に貴重な資料をUPしてくださったおゆきさんですよね?
どうもお久しぶりです。

老舗宮川本店の閉店、とても残念です。
私もあの建物だけは残してほしいと願ってますが、
先日の道新報道によれば、どうやら建物は取り壊すみたいです。
どんなに貴重な建物でも、壊すも維持するも結局は所有者の意思次第・・・
誰もお金を出してくれるわけではないので致し方ないところです。
旧岡田邸のように、建物に価値を見出す新たな所有者が現れる事を祈るしかなさそうです。

 

宮川仏壇店

 投稿者:おゆき  投稿日:2018年 4月 2日(月)03時18分48秒
返信・引用
  お久しぶりです。
大正6年 創業,今年で100年を迎えた老舗
宮川仏壇店が廃業しましたね。
家具店は継続される様なのですが
あの建物は、これからも残して戴きたい・・・ですね。
 

Re: 「旭川」再始動

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 3月 3日(土)22時08分55秒
返信・引用
  かんじさんへ

もし無視されるようであれば、それは要するに反論できる材料を持ち合わせていないという事だと思います。
と言いますか、元々自分でそこまで詳しく調べている方なのでしょうか?

高橋基さんですら論文中で岡部方幾に関しては良く分かっていないとしていますし、永田方正の命名と言うのもあくまで『だろう』に過ぎません。
それも自ら提示している資料にも関わらず時系列を全く無視した推論です。

判明している資料や出来事を時系列に並べるだけで、少なくとも永田方正のチュプペッ意訳説は覆ります。
つまり、かんじさんが示した通りで、永田方正の旭川命名というのはとっくに根拠を失っているのです。
この点、新旭川市史でも件の新聞記事を掲載していながら何故に疑問を呈しなかったのか不思議でなりません。

もし『大日本帝国等の意味に縁あり』という一文が気に入らない、という事で旧来からのアイヌ語意訳のみに固執しているとすれば、
それこそ私には何かのプロパカンダと思えてなりません。
史実を語る資格はないと思いますが、編集長がそうではない事を祈ります。

 

Re: 「旭川」再始動

 投稿者:かんじ  投稿日:2018年 2月26日(月)15時16分40秒
返信・引用
  > No.1445[元記事へ]

momongaさんへ

私は工藤編集長とは何度かお会いして、私の主張を紙面に反映させて頂いたことも2度ほどあります。
でも、旭川の地名はアイヌ語起源説を唱える完全なる高橋基さんよりの方です。
どうりでというか、リアクションは現在のところありません。
そっかぁ本丸に直接乗り込んでしまったのか、、、、、。

> チュプペッ意訳が永田方正によるものではないとなると根本的にその論理が崩れます。
そうなんですか?
それは困るでしょうね。
私にも返事をしにくい事でしょう。


> 私が何よりも重要視しているのは岡部方幾の次の言葉です。
>
> 『旧称の意義を存し且つ大日本帝国等の意味に縁あり』

これはあえて避けました。
これを避けても旭川を岡部方幾が意訳した事を認めさせることが第一だからです。
余計な拒否反応は正確な歴史には不要ですから。
同じく永山武四郎の存在も無視はできないのですが証拠がない以上憶測では限界があります。

> とりあえず、あさひかわ新聞の件は反応が楽しみですね。
これは無視されるかもしれないなぁ、、、。
 

Re: 「旭川」再始動

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 2月25日(日)15時16分1秒
返信・引用
  かんじさん、動き出しましたか。私はまだです。^^;

私自身は普段「あさひかわ新聞」は読んでませんし、もちろん編集者とも面識はありませんので、
この新聞が郷土史・旭川地名由来に関しどういった見解を持ってるのかは分かりません。
ただ、高橋基さんのような論調を一方的に扱っているとすれば、それは何が何でもアイヌ語信仰的な考え方に染まっていると思われます。

高橋基さんについては、以前にもこの掲示板で触れた事があるかもしれませんが、
滝川と同様、旭川についても永田方正がチュプペッの意訳をして名付けた、としている方です。
チュプペッ意訳が永田方正によるものではないとなると根本的にその論理が崩れます。
不思議な事に、岡部方幾や北海道毎日新聞・学友会誌の記事の存在を知っていながら、それをあっさり無視しています。
非常に綿密な調査をしていながら、時系列的な事実はパスしている・・・
重箱の隅を突き過ぎて大局的な見方ができないのか、意図的にそうしているのかは分かりません。

それはともかく、岡部(山室)方幾の経歴・人物像、特に永山武四郎との関係について、これ以上の資料が見つからないのが残念ですよね。
私も追ってみましたが、かんじさんと似たり寄ったりでした。
そうは言っても、やはり北海道毎日新聞の記事については新旭川市史にも載ってるくらいですから決定的事実ですし、それを補完する形の学友会誌の投稿も強力です。


私が何よりも重要視しているのは岡部方幾の次の言葉です。

『旧称の意義を存し且つ大日本帝国等の意味に縁あり』

語源をチュプペッとし、それを意訳したのは岡部方幾に間違いないでしょうし、永田方正はそれを追認したと思われます。
ただし、岡部方幾は単にアイヌ語の訳というだけではなく『大日本帝国等の意味に縁あり』としているのです。
アイヌ語意訳と併せた2つの意が命名者の意図であり、旭川の名の由来である事は疑いようがありません。
問題は「旭川」という漢字命名までが岡部方幾によるものかどうか、という点です。
岡部方幾は当初「日出川」と訳していたのが、新聞発表時点で「旭川」と変えています。
私はここに必ず永山武四郎が絡んでいると見ていますが、それを裏付ける資料が見つからないのが残念です。


とりあえず、あさひかわ新聞の件は反応が楽しみですね。


 

「旭川」再始動

 投稿者:かんじ  投稿日:2018年 2月22日(木)09時47分40秒
返信・引用
  momongaさん、私は再始動しました。
旭川の名前の起源についてメディアを引き込むべく、かなりの強敵と思われる「あさひかわ新聞の工藤編集長」に私の解説メールを送りました。

-------以下 直メール------------------
工藤編集長様

○○○○のかんじです。いつもお世話になっております。
今日は「旭川」という名前の起源について私の思うところを説明させてください。
編集長は「岡部方幾」という人物をご存知ですよね?
明治23年旭川開村当時、屯田兵司令部付曹長という立場にありながら、博学のアイヌ語言語学者であり、アイヌ民族研究家であり、学友会という当時の北大を中心とした自由民権運動に参加して機関誌にアイヌ民族研究を投稿し、博物学会の司会を務め、後に道庁の職員となった異色の人物です。

なぜこの人物の話をするかと言いますと、この人物こそが忠別(Chu-ppet)を旭川と訳した人物だからです。
そう断言する資料がありますので説明させてください。
一般に旭川の語源を語る時、当時のアイヌ言語学の大家「永田方正」の訳として紹介されることが多いですが、それは誤りで岡部方幾は永田方正に先んじて旭川の訳を行っている資料があります。
時系列が重要ですので日付を追ってご説明します。

【明治22年5月24日】
山室方幾が陸軍工兵曹長から屯田兵司令部陸地測量部に転科(資料有)

【明治23年1月】
自由民権結社北海道学友会機関紙「北海道(第九号)」(資料有)
山室方幾が北海道地名考という投稿で9つの北海道の地名をアイヌ語から意訳しています。
札幌、忠別、空知太、幌内太、石狩、琴似、手稲、夕張、幌向
このなかで【忠別】の意訳として「チュプは日或いは東、又は日出といふ意にしてペトは川の義なり、故に日出川或いは東川と訳するを適当とす」としています。
【空知太】の項では、永田方正先生は空知太を意訳して瀧川村となせり、とも書いています。
つまりこの時点で山室方幾は永田方正が各地のアイヌ語地名を調査している事も知りながら各地の地名を意訳して雑誌に投稿しているわけです。

【明治23年2月8日】
岡部方幾は北海道毎日新聞を訪れ上川離宮にふさわしい名前として旭川の名前を上げた記事があります。(資料有)
上川離宮の御名称 - 昨8日岡部(山室改)方幾氏が弊社に来られ
   「上川離宮の御名称の事に就いては夫々の御詮議も在らせらるべきは勿論のことなれとも
   九重の深き雲の上の事なれば素より窺い奉るべき様なきことなるが
   然るに彼の上川郡の忠別はアイヌ人の発音に従ふ時はチユプぺト(Chuppet)にして
   「チユプ」は太陽、日、東等の意、又た「ペト」は川の義なり
   故に離宮の御名称は旭川或いは東川等の文字を御用い遊ばさるゝに至らば
   旧称の意義を存し且つ大日本帝国等の意味に縁あり旁々適当ならんか」
   との談話ありし

【明治23年3月】北海道学友会機関紙「北海道(第十号)」(資料有)
この号でも岡部(山室)方幾は茨戸、幌別、古丹別、等を意訳していますが、重要なのはこの号に「永田方正の書簡」という記事が掲載されています。
「前号に掲載せし岡部(山室)方幾氏の北海道地名考に就て有名なる蝦夷語学者永田先生は左の如き書簡を岡部に送られたり」
「拝啓陳は本年1月発刊北海道雑誌に北海道地名考と題する1編を拝読いたし候、右当道人民のため大利益ある御思考にて感服之至御座候中に就きて小生聞及たるに少異御座候間御参考の一端とも可相成哉と存し左に記載入尊覧候」
私なりに訳しますと「北海道地名考という一編をみて感服したけど、ちょっとだけ違うと思うところもあるので参考にしてほしい」と読みました。
そして違うと指摘しているのが、琴似村、手稲村、石狩の3つです。
先にあげた忠別を含む9個の地名の内3つに若干の異を唱え、忠別の意訳を含む6つに関しては感服したと岡部方幾の意訳を認めているわけです。

【明治23年3月】
永田方正が上川地域の調査を終える。(資料有)
「北海道蝦夷語地名解」調査終了

【明治23年9月20日】
旭川開村
開村公告を掲載した函館毎日新聞に村名由来という記事があります。(資料有)
「旭川村は土人名チュプペツでチュプこれ日月ペツこれ川の事なり日月此川源の方より出て川口の方に没す故にチュプペツと名付しを今訳名をもちいて旭川村とす」

【明治24年3月30日】
「北海道蝦夷語地名解」永田方正著 出版(資料有)
この中で永田方正は忠別を岡部方幾と同じくchup petと発音し、【東川】と意訳しています。
同時に日月の出でるところとも記していますが、旭川とは訳していません。
「明治23年旭川村を置く」は前年の事実を記しただけです。

工藤さんも知っている事を長々と申し訳ありません。
つまり、明治23年1月にはじまる一連の流れの中で、旭川と言い出したのは岡部方幾であり永田方正ではありません。
山室方幾は明治23年1月発行の雑誌「北海道(第9号)」の中でチュプペツを明確に日出川と訳しています。
岡部(山室)方幾は明治23年2月に上川離宮の名称として北海毎日新聞紙上でチュプペツを太陽、日、東、川と訳して旭川か東川がふさわしいと言いました。
永田方正は明治23年3月発行の「北海道(10号)」の中で岡部方幾のチュプペツ(日出川、東川)を認めています。
永田方正が明治24年に出版した「北海道蝦夷語地名解」では岡部方幾のチュプペツchuppetの訳をそのまま用いています。
以上の経緯から旭川の名付け者は「岡部方幾」であると断定したいと思っています。

岡部方幾がどのような人物だったのかずいぶん調べたのですが、詳細なデータまでは調べられませんでした。
旭川市中央図書館、北海道立図書館、国立国会図書館、教育大学図書館、も調べましたが永山武四郎との関係や上川離宮の名称を発表する事になった詳細なところは解りません。

工藤編集長いかがでしょうか?

追記
後の議論としてチュプペツは誤訳であるとされましたが、確かに誤訳かも知れません。

しかし誤訳をしたのは「岡部方幾」であり、岡部方幾がアイヌ語をchup petと聞き日出川→旭川と意訳した人物である事は間違いなく、旭川という言葉の起源はここにあるのだと思います。
その最初の資料が「北海道(9)」の忠別チュプペツchup-pet→日出川、東川 です。



------岡部方幾 年表----------------

明治10年        伍長 山室方幾助
明治12~13年  東京に居たと記述
明治13年 谷干城が東部検閲史として函館に来た時に「召使」であったと記述
明治14年12月28日 陸軍工兵軍正 山室方幾
明治15年 東京  陸軍工兵軍曹 山室方幾
明治15年1月1日から1月7日 参謀本部附 陸軍工兵軍曹山室方幾
測量課に配属
明治15年3月31日 長女が生まれる
明治15年9月 出張中の棒給と宅料を、、、、  参謀本部長 大山巌

明治17年   東京  工兵曹長
明治20年12月16日  [特2888] 帝王護法録(ていおうごほうろく) 水谷涼然∥編 明治19刊 (活版)
          上記本を陸軍書庫へ献納

明治21年5月 東京 陸軍工兵曹長
明治22年5月 東京 陸軍工兵〇〇
明治22年5月24日 陸軍工兵曹長から屯田兵陸地測量部へ転科
       屯田兵本部長 永山武四郎より陸軍大臣大山巌へ

明治23年1月  北海道学友会 北海道九号に投稿  山室方幾
明治23年2月8日 北海道毎日新聞に「上川離宮の名前候補を語る」 この頃、永田方正より書簡が届く
明治23年3月  北海道学友会 北海道十号に投稿 岡部方幾


明治26年2月発行 雑誌史海 にて永田方正により「友」と記述
明治26年2月11日 札幌博物学会第二回公開演説会の司会を担当
明治26年4月15日 第27回月例会にて「アイヌ勘定法」を講演
明治26年7月31日 東京の谷干城宅を訪ねる。この時の道庁勤を名乗る。
明治27年8月発行 北海の殖産 に蝦夷の経緯度を投稿
その他不明

--------メールはここまで------------
さて、どのような動きになるでしょうか。
こうご期待
 

Re: 開道150年目

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 2月 4日(日)18時03分3秒
返信・引用
  まあ、こじつけも甚だしいですね。

それならちゃんと「150年目」(を迎える)と言うべきでしょう。
年齢でも何でも1年経ったから1歳なのであり、50年経ってはじめて50歳です。
普通に命名150年と聞いたら「ああ150年経ったんだ」と思われるに決まってます。
少なくとも今年中には満150年の誕生日を迎えるんだな、と受け取ります。
誰も実際には来年が満150年とは考えないでしょう。

たぶん明治150年と語呂合わせしたかったんでしょうね。
歴史にそんな語呂合わせしたってしょうがないと思うんですけどね・・・。


 

開道150年目

 投稿者:かんじ  投稿日:2018年 1月26日(金)09時53分51秒
返信・引用 編集済
  自己レスになりますが開道150年のズレに対して、北海道150年事業実行委員会事務局から回答がありましたのでご紹介します。
https://hokkaido150.jp/
以下私の質問は
----------------------
【タイトル】
開道150年は2019年ではないのですか?

【内容】
ご苦労様です。今年は北海道命名150年の年として様々な行事が予定されていますが、
松浦武四郎によって北海道と命名されたのは明治2年(1869年)の事です。
そうすると命名150年は2019年ではないのでしょうか?
同時に今年は明治150年という事で政府が中心となり行事も行われているようです。
命名されたのが明治2年なら矛盾しませんか?
但し、調べたところ開道50周年は1918年に行われ、開道100周年は1968年に様々な行事が行われています。
開道150周年と明治150年の関係について教えて頂きたく問い合わせいたします。
-----------------------
というものでした。
それに対して事務局からの回答は
-----------------------
○○ 様
この度はお問い合わせありがとうございます。
北海道150年事業実行委員会事務局(道庁北海道150年事業室)の○○と申します。
以下、お答えします。
本年、2018年に「北海道150年事業」を実施してまいります。
○○様ご指摘の点についてですが、
2018年は「北海道150年目」であり、「北海道150周年」ではございません。
北海道150年事業実行委員会から発出している文書等において、
「周年」という記載は用いてございません。
一方、いわゆる明治維新150年は、「明治維新150周年」のことと存じております。
○○様おっしゃるとおり、
開道50年は1918年に、
北海道百年は1968年に記念事業を実施しておりますが、
いずれも、「周年」ではなく「年目」の数え方により、
当該年に実施したものでございます。

以上、ご不明な点等ございましたら、いつでもご連絡ください。
どうぞよろしくお願いいたします。

☆2018年、北海道命名150年☆
------------------------
というものでした。
スッキリ納得という感じでもありませんが、なるほどそういう事かです。
つまり松浦武四郎が提案し命名されたのは明治2年8月15日ですから今年は149年であるけれど、
8月15日を過ぎると150年目のカウントが始まるということです。
命名1年目というのが明治2年8月15日から明治3年8月15日
命名2年目というのが明治3年8月15日から明治4年8月15日
命名3年目というのが明治4年8月15日から明治5年8月15日
      :
命名150年目というのが平成30年8月15日から平成31年8月15日
平成31年8月15日でちょうど150年、つまり150周年、満150年ということです。

北海道命名150年目 と言えば少しは解ったのですけどね、
北海道命名150年 ではまるで150年経ったかのようなニュアンスを受けます。
それにしても今現在は149年も経っていない148年と5ヶ月目なわけで、
今年は命名150年と言われるとさすがに違和感があります。

 

今年もよろしくお願いします。

 投稿者:かんじ  投稿日:2018年 1月10日(水)11時01分31秒
返信・引用 編集済
  気付いたら前回の書き込みから2か月過ぎてますね。
ばたばたと正月も過ぎましたが、皆様宜しくお願いします。
momongaさんは喪中ということですが、私も「旭川の歴史的建物の保存を考える会」の会長であった、川島洋一先生を昨年亡くしましたもので、心はほぼ喪中です。
ということでお祝いではなく新年のあいさつを申し上げるためにカードを作りました。
「建物は生きている」とは川島先生の残した言葉です。
ということで今年も宜しくお願いします。

さて、最近北海道命名150周年ということで色々な催し物も用意されているようです。
が、なんか腑に落ちないんですよ。
今年は明治150年です。明治150年という記念行事もたくさんあるんです。
そして松浦武四郎によって北海道と命名されたのは明治2年(1869年)のことです。
なので今年は北海道命名149年だと思うんですけど、、、、、。

明治元年が1868年
明治2年は1869年 2年の7月に命名
明治3年は1870年 1870年の7月で丸1年
2018年の7月で丸149年2019年の7月で丸150年
????

追伸
その後、開道50年、開道100年の記念行事を調べてみると
開道50年は大正7年(1918年)、開道100年は昭和43年(1968年)
に記念行事を行っています。
あれれ????
昔から1年ずれてますね。
 

今年もよろしくお願いします

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 1月 2日(火)09時51分59秒
返信・引用
  すみません。
すっかり書込みをサボっているうちにあっと言う間に年が明けてしまいました。m(__)m
皆さま、今年もよろしくお願いいたします。
昨年親父を亡くしたため、新年のご挨拶は簡略にさせていただきます。

ちょっと仕事の方が立て込んでおりまして、しばらく書込みが疎かになっております。
けっして飽きた訳でも何でもありませんので、落ち着きましたらまた歴史談義を再開いたしますので、
皆さまこれからも時々チェックしてやってください。
できれば話題を提供していただければありがたいです。
よろしくお願いいたします。
 

Re: 偕行社再開

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年11月 2日(木)10時35分15秒
返信・引用 編集済
  momongaさんへ

> 地図を開いても「彫刻美術館」の名しか載ってませんし、玄関前の施設名表示にも偕行社の名は書かれていません。
> 端の方に旭川市の指定文化財の表示版があるだけです。
> 旭川市はこの建物の存在価値をどのように考えているのでしょうか?
>
> こんな感じ方するのは私だけなのかなぁ。

まったく仰るとおりです。
偕行社の表示ありませんでしたっけ?
実はこの建物は上川管内で唯一の「国指定 重要文化財」です。

国登録 有形文化財であれば
・上川倉庫事務所
・上川倉庫
・あさでん春光整備工場(旧陸軍第七師団騎兵第七連隊覆馬場)
・松岡家住宅
・最創山光岸寺本堂
・旧岡田家住宅主屋
・旧岡田家住宅蔵
・山崎家住宅主屋
・旭川市市民活動交流センター市民活動支援棟(旧国鉄旭川車両センター木機乾燥場)?
・旭川市市民活動交流センターホール棟(旧国鉄旭川車両センター第二木機職場)??
・北海道護国神社平成館(旧陸軍第七師団北鎮兵事記念館)?
があります。

つまり偕行社は上川管内で最も文化的価値の高い建物なんです。
もちろん登録名称は「旧偕行社」です。
当たり前ですよね、建てられた本来の名前であり、現在の使用名称なんて使ってたら、その度に変わってしまいますからね。
もちろんこの重要文化財には札幌の豊平館や函館の公会堂も含まれていますが、札幌や函館には他にもかなりの数の重要文化財があるにも関わらず、上川管内には「旧偕行社」だけなんです。
それだけきちんと建物の価値を評価し発信する必要があるのに、旭川ではその扱いが全くなされていません。
しかし、評価する人によっては旧偕行社の価値を認めている組織もあり、日経新聞の選んだ日本の近代遺産50選に旧偕行社が選ばれています。
これは豊平館や公会堂が単なる旅館であったのに比べて、旧偕行社はその役割に置いてより重要な歴史的背景を含んでいたからであろうことがサイトから読み取れます。
もっと旭川の歴史を正面から見据え「旧偕行社」の価値を評価し広く利用すべきだと私も思います。
 

Re: 偕行社再開

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年10月24日(火)21時06分8秒
返信・引用
  気になってることが一つ。

偕行社の再開前後にかけて新聞や広報誌等で施設再開を伝える報道が色々されていましたが、
いずれも『彫刻美術館の改修工事が終わり・・・』という言い方をしてるんですよね。
偕行社については一応説明は付くものの主役にはなっていません。

おかしくないですか?

改修をしたのはあくまで国の重要文化財である旧偕行社の「建物」であるはずです。
彫刻美術館というのは、言い方悪いかもしれませんが言わば間借りしてる存在に過ぎません。
改修の主語は旧偕行社であって然るべきなのですが・・・


今回偕行社資料室が設けられたのは良いとして、あまりにもその扱いが小さ過ぎると思います。
地図を開いても「彫刻美術館」の名しか載ってませんし、玄関前の施設名表示にも偕行社の名は書かれていません。
端の方に旭川市の指定文化財の表示版があるだけです。
旭川市はこの建物の存在価値をどのように考えているのでしょうか?

こんな感じ方するのは私だけなのかなぁ。

 

Re: 偕行社再開

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年10月19日(木)11時22分22秒
返信・引用
  momongaさんへ

私も見てきました。(無料のうちにって訳では無く、、、)
綺麗にはなったけどほとんど変化なし、それで良いんですよね。
ちょっと事務局へいって話を聞くことが出来ました。
5年間にわたる修復でしたが、その内容は中央図書館へ行くと報告書という形でまとめられているそうです。
私も機会があったら見てみたいと思います。
今回は建物全体を浮かせる形で、基礎のゆがみから直したわけですが、軟石材の基礎を取り除いたところ底に栗石と呼ばれる小さ目の玉石がさらに敷き詰められていたそうで、本来は軟石材の下に厚くコンクリートを敷いて基礎とする予定だったのですが、栗石がでてきたのでそれをどうするかが問題になったそうです。

栗石と言えども当時の工事の象徴ともなるもので、保存する必要があるとの判断から栗石を残しながらコンクリートを薄く敷いて修復する事にしたそうです。
これで1年間くらいは工事が伸びたのかな。

あとは修復後は見えませんが、壁面内にブレス(筋交い)をいれて耐震性を高める工事を行っていますが、この筋交いも本来の部材を傷付けることなく内部に入れるために、単純な形状では無く昔の部材を複雑に避ける構造の筋交いが入っているそうです。

などなど苦労があったのですね。

今回、偕行社を紹介する部屋ができたことは嬉しいですが、とても小さく十分ではありません。
小樽の日本郵船や函館の公会堂のように、内部も当時の雰囲気を再現する努力をしていただきたいものです。
明治44年に時の皇太子が宿泊されているのだから、その部屋を再現するとかね。
私は彫刻が理解できないので建物ばかり見ていたのですが、見学に来ていた方をウオッチングして会話を聞いていると、半数以上の方が建物を見に来ていると思われます。
それも女性の方が建物の文様や装飾を指さしいろいろと会話しているのです。

彫刻を否定はしませんが、彫刻の価値と建物の価値、市民や観光客がどう感じているのか、市はキチンと把握する必要があると思います。
行政ですから「両方大事です」って言うに決まってますよね。
では「現在の彫刻美術館としての使い方は、偕行社本来の魅力や価値を引き出していると思いますか?」としましょうか。

ロビーの白い彫刻も邪魔ですよね~。
偕行社の魅力に奥の階段室があります。
実にすばらしい造形美を見せています。
その前に、あの彫刻を置くって事は偕行社の魅力をぜんぜん理解していないことがわかります。

それから今回偕行社の展示室に大きな棟札が展示されました。当時を知ることのできる貴重な展示です。偕行社を作ったのは「大倉組」(現大成建設)と永らくされており、後年の資料にもそう書かれた文献が多々ありますが、ここでは請負人としてハッキリ「阿部久四郎」と書かれているのです。
これは一説によると、第七師団全体を請け負った大倉組は巨万の富を手にするわけですが、余りにも儲かったので、偕行社は大倉組が自分の金で作り、師団に寄付を行ったという話があります。
つまりこの場合は、発注者が大倉組であり、請負人がその下の阿部久四郎であった事を示す棟札でもあります。
阿部久四郎の左2つ隣には伊藤亀太郎という名前があり、これは現在の伊藤組土建の創業者でもあります。
ただ、この建物を作った阿部久四郎は当時道内では最大の建築請負人であったにも関わらずその後会社の跡継ぎに恵まれず、その後継となる会社は現在ありません。

 

偕行社再開

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年10月10日(火)20時27分37秒
返信・引用
  ようやく再開しましたので見てきました。
再開初日はイベントもあって混み合うだろうと思い、9日に行きましたが思ったより空いてましたね。
それでも、いつもはひっそりとしているこの施設に見学者が絶えることなく訪れていました。

外観はすっかり綺麗になりましたが、建物内部はほとんど変化が見られませんでした。
国の重要文化財ですから改造はもちろん不可、元の姿を忠実に保つのが鉄則ですので当然と言えば当然ですが、
床板がツヤツヤに光ってた以外は修復の痕跡が思ってた以上に無かったです。
逆に言うと、床も壁も全部剥がして基礎から修復し、耐震化工事を施しておきながら見た目この変化の無さはすごい。


ただ、改造が許されないだけに、やはりこの建物は彫刻美術館には向いてないと思います。
2階大ホールの、邪魔っけなパーテーションを取り払ったのは良いとして、
写真をご覧になればお分かりの通り、広いホールに、ただ彫刻を”いっぱい置いただけ”感が否めません。
それと、1階入口を入って真正面の階段に立ち塞がるように新たな造形物がドーンと置かれました。

はっきり言って興ざめです・・・(-_-;)


今回新たに「偕行社資料室」が設けられました。
展示物は、棟札、鬼瓦、柱頭の3点のみとあとは説明パネル数枚だけ。
ちょっと寂し過ぎですね。

美術のド素人である私から見ても、これだけは分かります。
建物の素晴らしさと彫刻・造形美術の素晴らしさが完全にケンカしてますね。


 

Re: 旭川市から回答がありました。

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 9月21日(木)12時34分52秒
返信・引用 編集済
  momongaさんへ

旭川のwikipediaにも書かせて頂きましたが。
旭川という地名の意訳者は岡部方幾であるという証拠となる資料を提示します。
まず、明治23年1月に北海道学友会が出版した「北海道」という雑誌の第九号に、岡部方幾が北海道地名考と題して投稿を行っており、札幌、忠別、空知太、幌内太、石狩、琴似、手稲、夕張、幌向という9つの地名の意訳を行っています。
その中で空知太に関連して瀧川村という地名は永田方正先生が意訳したものだと記しています。
この「北海道 第九号」という雑誌を見た永田方正が、岡部方幾に書簡を送りその書簡の内容が明治23年3月に発行された「北海道 第十号」に掲載されています。
その書簡のなかで永田方正は「北海道地名考という投稿を見て感服したけど、私の考えも参考にして欲しいと、琴似村、手稲村、石狩の3つの意訳に対して永田方正自身の考えを述べています。
つまり岡部方幾が行ったの先の9つの意訳のうち3つに意見を述べ、他の6つに関しては感服したという形で岡部方幾の訳をその時点では受け入れているのです。

---------------------------------------------

この間に明治23年2月8日に岡部方幾は北海道毎日新聞を訪れ、上川離宮にふさわしい名前として旭川の文字を言葉にしています。
永田方正の書簡が岡部方幾に届いた日と岡部方幾が発表した日の前後時期が解らない為、旭川の言葉を使う事を永田方正に相談したのかどうかは定かではありませんが、明らかに岡部方幾は永田方正に先んじて忠別の意訳を旭に通じる形で行っています。


そして明治24年3月に出版された永田方正の「北海道蝦夷語地名解」で永田方正は忠別の意訳として、岡部方幾が行った忠別はチユプ ペト として日出川(後の旭)と訳するのが適当というその訳とほぼ同じ訳を行っています。
つまり永田方正はパクッタわけでは無く、岡部の訳を認めて採用したということでしょう。
しかも永田方正はチュプペツを東川と訳しており旭川とは直接訳していません。

これらからどう考えても忠別のアイヌ語の意味を「東川、又は旭川」と訳したのは岡部方幾しかありえないでしょう。
 
 

食べマルシェ

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 9月18日(月)13時08分20秒
返信・引用
  いったいこの瞬間、中心街には何万人の人がいるんだろう?

と思うくらいすごい人、人、人、、、

7番ホームから見たとたん、ちょっと歩くのを躊躇しましたが、
昨日は思い切ってまだ行った事のない常磐公園会場まで中央突破!
人の波が次から次へと押し寄せる中、公園までたどり着くのにたっぷり1時間以上かかりました。^^;

食い物のイベントってどうしてこんなに人が集まるんでしょうね。
ま、こうやって賑わうパワーがまだまだあるわけですから良しとしなければならないでしょうね。
本州からの出店がずいぶん増えていたようなのが嬉しいです。
列車の窓から見えたニコニコ動画のイベントもかなりの賑わいでした。
台風の影響で3日目が中止になったのはちょっと残念でしたね。


 

Re: 旭川市から回答がありました。

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 9月 5日(火)10時32分2秒
返信・引用 編集済
  > No.1430[元記事へ]

かんじさんへ

> これを見る限り山室(岡部)方幾が「忠別には旭に通じる意味がある」と訳した人物として良いのではないでしょうか。

岡部方幾が意訳した本人である可能性は高いと思います。(旭川に辻褄を合わせて)
ただ、その場合でも少なくとも永田方正に意見を求めただろうというのが私の見方です。
あるいは岡部方幾が上川の状況を提供して永田方正が意訳を創った事も考えられます。
そうでもなければ永田方正がその後蝦夷語地名解に記述するに当たって、自分の意訳として載せるはずはないと思います。
それこそ当時の最高権威学者が、自分を師と崇める人間の訳を完全にパクった事になりますから。
岡部方幾もその知名度・影響力を考えて、永田方正”先生”の意訳という事にしたのではないでしょうか。

 

敵が動き出しました

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 9月 5日(火)10時05分29秒
返信・引用 編集済
  先ほど、wikiの書込みを一度取消されました。
それもアカウント名を表示せず、IPのままでの非常に姑息な手段です。
見え見えではありますが。
 

Re: 旭川市から回答がありました。

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 9月 5日(火)09時33分5秒
返信・引用 編集済
  > No.1429[元記事へ]

momongaさんへ

> 参考までに、明治23年1月30日発刊の北海道学友会誌『北海道』第9号に掲載された山室(岡部)方幾の「北海道地名考」の忠別意訳を記します。
> (高橋基論文からの原文引用です)
>
>
> 忠別(石狩国上川郡ノ地) Chuppet チュプぺト
> チュプは日或いは東又は日出といふ意にしてペトは川の義なり故に日出川或いは東川と譯するを適常とす
>
>

これを見る限り山室(岡部)方幾が「忠別には旭に通じる意味がある」と訳した人物として良いのではないでしょうか。
(この訳が間違っているという論争は別次元の話として)
もちろん岡部方幾に村名を決定する権限など無いでしょうから、村名としての旭川を決定したのは「永山武四郎」その人なんでしょうけど。

*国会図書館のこの資料手に入るかも知れません。
実は私は国会図書館の記事検索コピーサービスというものに入っておりまして、どんな資料のコピーも郵送で送ってもらえます。
と思ってアクセスして記事を検索したのですが、、、、、。
デジタルコレクションでは検索に引っ掛かるのに、同じ国会図書館のNDL-OPACデータベースでは見つかりません。あれーーーー?

でも大丈夫、
「公開範囲が「国立国会図書館/図書館送信参加館内公開」の資料は、著作権の保護期間中であるか、著作権の確認が済んでいない資料のため、インターネット公開をしていません。
本文画像の閲覧を希望される場合は、国立国会図書館または下記一覧の図書館送信参加館へご来館ください。」

とあります。
調べると旭川市中央図書館も参加していますので、きっと図書館から入手できるでしょう。
 

Re: 旭川市から回答がありました。

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 9月 4日(月)23時04分49秒
返信・引用
  参考までに、明治23年1月30日発刊の北海道学友会誌『北海道』第9号に掲載された山室(岡部)方幾の「北海道地名考」の忠別意訳を記します。
(高橋基論文からの原文引用です)


忠別(石狩国上川郡ノ地) Chuppet チュプぺト
チュプは日或いは東又は日出といふ意にしてペトは川の義なり故に日出川或いは東川と譯するを適常とす

 

Re: 旭川市から回答がありました。

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 9月 4日(月)18時25分50秒
返信・引用
  > つまり岡部方幾の語った記録の存在を次には主張できることになります。
> これはwikipediaの記述の信頼性が上がることを意味しています。

国会デジタルコレクションにタイトルまでは出てきますね。
北海道学友会『北海道』1890(9) 北海道地名考/山室方幾 がそうです。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1616768
 

Re: 旭川市から回答がありました。

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 9月 4日(月)17時46分6秒
返信・引用
  momongaさんへ

> 見ました!
> これはやりましたね!
> 正直言って旭川市が動く事はほとんど期待していなかったんですが、意外でした。
> しかもけっこう早かったですね。

私も何らかの反応はあると思っていましたが、直ぐに内容を変更するとは思っていませんでした。
「検討します」みたいに言われるのかなぁなんて。
現在のコンピュータ文化のWEBは印刷出版物ではないので直ちに書き換えができる事も良いところですね。
wikipediaも同じです。

先ずはちょびっと前進です。
「旭川という言葉は開村前に存在して居ない」、が転じて「開村前に存在していた」ことを旭川市の担当者も認めたことになります。

つまり岡部方幾の語った記録の存在を次には主張できることになります。
これはwikipediaの記述の信頼性が上がることを意味しています。

粘り強くやりましょう。
 

Re: 旭川市から回答がありました。

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 9月 4日(月)16時37分19秒
返信・引用
  見ました!
これはやりましたね!
正直言って旭川市が動く事はほとんど期待していなかったんですが、意外でした。
しかもけっこう早かったですね。

私の想像では、この件は「新旭川市史」にも記載されているわけで、
市の担当も直ぐに確認できたという事ではないかと思ってます。
旭川市が刊行している公式図書みたいなもんですからまさか信用しないわけには行きませんしね。
でもそこからが遅いのが役所というものですからちょっとビックリです。


私も9月2日にwikiを書き換えました。
旭川市の対応のおかげで、今日あわててまた書き加えました。(^^ゞ
今のところ何も反応なしですね。


 

旭川市から回答がありました。

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 9月 4日(月)10時00分5秒
返信・引用
  山が少し動きましたよ。
先の私からの質問内容に対して市の担当部署から回答がありました。
---------------------
平素は,本市行政に対しまして,御理解と御協力を賜り,厚くお礼申し上げます。
先日,当市にお問い合わせいただいた「旭川市のあゆみ」の記述につきまして,
御指摘のとおり疑義がありますので,次の一文を削除いたします。

「旭川」という地名は開村の告示で村名として登場したのが最初である。

貴重な御意見をいただきありがとうございました。

┌◆◇━━━━━━━━━━━━━━━━━◇◆┐
 旭川市総務部総務課総務係〇〇 〇〇
  〒070-8525
  旭川市6条通9丁目46番地 総合庁舎7F

└◆◇━━━━━━━━━━━━━━━━━◇◆┘

momongaさんやりましたよ!!
一文を削除するという返事です。
旭川市の記述が少しですが変わりそうです。
感情論やイデオロギーではなく純粋に事実を正確に検討すれば、解釈も変わります。
おかしな事はおかしいと声を上げることが重要だと思います。
 

旭川市にメールしました。

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 8月29日(火)17時44分20秒
返信・引用
  実は旭川市の「旭川市のあゆみ」というページにお問い合わせというメールフォームがありましたので、下記の質問を投げかけてみました。
---------------------------------------------------------------------------
こんにちは旭川の歴史をいろいろと調べている竹田と申します。
今日は質問があって連絡いたします。
旭川市のホームページには「旭川市のあゆみ」というサイトがあり、その中で
(「旭川」という地名は開村の告示で村名として登場したのが最初である。)
という部分があります。

しかし実際には開村の7ヶ月ほど前の明治23年2月9日付『北海道毎日新聞』に掲載された以下の記事があります。
   上川離宮の御名称 - 昨8日岡部(山室改)方幾氏が弊社に来られ
   「上川離宮の御名称の事に就いては夫々の御詮議も在らせらるべきは勿論のことなれとも
   九重の深き雲の上の事なれば素より窺い奉るべき様なきことなるが
   然るに彼の上川郡の忠別はアイヌ人の発音に従ふ時はチユプぺト(Chuppet)にして
   「チユプ」は太陽、日、東等の意、又た「ペト」は川の義なり
   故に離宮の御名称は旭川或いは東川等の文字を御用い遊ばさるゝに至らば
   旧称の意義を存し且つ大日本帝国等の意味に縁あり旁々適当ならんか」
   との談話ありし
   (以下略)

この記事は、当時の北海道庁長官(兼屯田兵本部長)永山武四郎の直属の部下である岡部方幾(屯田兵司令部付曹長)が会見したもので、前年末に上川への離宮設置が山縣有朋内閣によって閣議決定されて以降、まだ村名すら無い地の離宮の名称はどうなるのかという世論に答えたもので、現在まで確認できている資料としては開村前に「旭川」の名が登場する唯一のものと思われます。

この新聞は中央図書館で閲覧可能です。
また以下からもコピーのダウンロードが可能です。
http://d.kuku.lu/e22c184f4f
これらの事実からも、旭川という地名が開村時に初めて登場したという記述は誤ったものであると思われますが、いかがでしょうか?
-----------------------------------------------------------------------
中の解説はmomongaさんが書かれたそのままです。
当然ですがまだ連絡は来ません。
市役所としてもそうとうに困っていると思いますが、どんな返事がくることでしょう。
お役所というところは部署的に市民に「無視、黙殺」ってことはしないと思いますが。
私って嫌な市民ですよね。
市役所にとっては、、、、、。
 

Re: さっそく書き換えられました

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 8月29日(火)09時47分11秒
返信・引用
  あずさん、かんじさん、お二人ともご意見ありがとうございます。
Wikiへの対応でちょっと忙しくなっております。(笑)

私の書込みを取消しているのは、以前から「論・旭川」のサイトを見ている人物で、元々サイトでの主張に反感を持っていたのでしょうね。
おそらく旭川新聞の高橋基氏のコラムに影響されて、アイヌ語由来による永田方正命名説を疑わない人とにらんでいます。
(高橋基氏については機会あれば触れたいと思います)

書込みを取消す理由も、「論・旭川」に書かれている記述の一部と酷似しているから「独自研究」だと決めつけております。
つまり、私がWikipediaに書いた記述内容よりも、「論・旭川」に書かれていた内容をもって判断しているフシがあります。
だから当時の新聞記事ですら「信頼できる情報源」ではないと、トンチンカンな理屈になっています。

ただ、「会話」と「ノート」で何度かやりとりする中で、
一応、Wikiの基準に逸脱がなければいきなり取消す事はない、との言質を取る事ができました。
さらにもう少し修正を加えてUPするつもりです。
お二人のさらなるご協力があれば幸いです。


 

Re: さっそく書き換えられました

 投稿者:あず  投稿日:2017年 8月28日(月)20時29分20秒
返信・引用
  > No.1421[元記事へ]

かんじさんへ

> 100年以上も前の史実を探るために、みなさん数少ない物証を基としているわけです。
> 当時の新聞記事に誤りがあると確定できない限り、それは事実として確定するしかないわけです。
> なので明治23年2月9日付『北海道毎日新聞』に掲載された記事を無視することはあり得ないわけです。

その通りだと思います。どんなものであっても真偽のほどは別として、このようなものが残っていますよという事実が必要です。ただ旭川のことを何も知らない一般の多くの方が見ることも想定すると、解り難く誤解してしまう可能性も無視できないと思うのです。

> 年表としては良いと思いますし、絶対に必要なことですが、由来という意味では説明になっていないと思います。

かんじさん、もちろん二行で終わりと言う訳では無いですよ。(笑)
書き出しは事実関係を簡潔に掲示し、その後に理由を述べていく手法が、読み手も解り易く興味関心を引くと思います。

> 私的には何故旭川の由来を開村時に正しく公表しなかったのか?
> ここに興味があります。

私も開村前夜に何が起こっていたのか、資料が少ないだけに興味津々です。

> momongaさんの解説では永山武四郎の人柄とか、村名にはアイヌ語を使うように自ら命令していたことなどが原因とされていますが、この部分を深く掘り下げて強調する事がmomongaさんの説を支えることになると思っています。

「momongaさん」も「かんじさん」もたくさんの資料をお持ちだと思いますが、それらを知ることが出来るだけでも貴重な記述になると思います。

楽しみにしています。

 

Re: さっそく書き換えられました

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 8月27日(日)23時23分48秒
返信・引用
  > No.1420[元記事へ]

あずさんへ
> 大切な資料だとは思いますが、新聞記事を鵜呑みにして断定している人物の記述と受け取られる可能性がかなり高いと思われます。

100年以上も前の史実を探るために、みなさん数少ない物証を基としているわけです。
当時の新聞記事に誤りがあると確定できない限り、それは事実として確定するしかないわけです。
なので明治23年2月9日付『北海道毎日新聞』に掲載された記事を無視することはあり得ないわけです。
旭川という名前の由来を記述するためにはこの記述を除くというのはあり得ないわけで、それを踏まえると、現在の旭川市の見解やwikipediaの記述は全く偏ったものであると言えます。

> 旭川の地名が初めて登場したのは、明治23年2月9日付『北海道毎日新聞』に掲載された記事(1)である。
> 公的には、明治23年9月20日の旭川村開村時の告知(2)とされている。
>
> こんな書き様では納得いかない?
> 読み手としてはスッキリですけど。

年表としては良いと思いますし、絶対に必要なことですが、由来という意味では説明になっていないと思います。
私的には何故旭川の由来を開村時に正しく公表しなかったのか?
ここに興味があります。
momongaさんの解説では永山武四郎の人柄とか、村名にはアイヌ語を使うように自ら命令していたことなどが原因とされていますが、この部分を深く掘り下げて強調する事がmomongaさんの説を支えることになると思っています。

 

Re: さっそく書き換えられました

 投稿者:あず  投稿日:2017年 8月27日(日)22時53分56秒
返信・引用
  > No.1418[元記事へ]

momongaさんへ

> 3度に渡り同一人物によって速攻取り消されましたので、Wikipediaへの私の投稿を見てない方も多いと思います。
> なおWikipedia「旭川市」のノートページにおいて、取り消した本人とのやりとりが始まっております。
> 私のアカウントの会話ページにも本人からのメッセージが入っております。

そのようなこととはまったく知らず、あくまでも「旭川市」の一部の記述にこだわっているという事なのですね。

> 旭川の名が初めて登場したのは明治23年9月20日の開村告知の時とされているが、実際にはその7ヶ月ほど前の明治23年2月9日付『北海道毎日新聞』に掲載された以下の記事がある。

(以下略)に何があるのか判りませんが、この新聞記事だけで旭川になりましたというのは伝わりません。
大切な資料だとは思いますが、新聞記事を鵜呑みにして断定している人物の記述と受け取られる可能性がかなり高いと思われます。

たとえばWikipedia的に…。

旭川の地名が初めて登場したのは、明治23年2月9日付『北海道毎日新聞』に掲載された記事(1)である。
公的には、明治23年9月20日の旭川村開村時の告知(2)とされている。

こんな書き様では納得いかない?
読み手としてはスッキリですけど。

 

Re: さっそく書き換えられました

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 8月26日(土)17時22分11秒
返信・引用
  momongaさんへ

> 皆さんの忌憚のないご意見を頂戴した上で再々度Upしたいと思います。
>
> なおWikipedia「旭川市」のノートページにおいて、取り消した本人とのやりとりが始まっております。
> 私のアカウントの会話ページにも本人からのメッセージが入っております。

頑張ってください。
---------------------------------------------------------------------------------
> 「旭川」の名の由来については、諸説あって定かでないとされているが[1]、地名由来とは関係のない忠別川語源説と混同されるなど誤解が多い[注 1]。

この部分は要らないのではないかと思います。

>永田は北海道庁の命を受けて全道のアイヌ語地名を調査した当時の権威学者であるが、上川郡の調査はこれからというはずの永田の意訳がこの時点で既に成されていたという事は、「「この意訳が旭川命名のために創作されたものである可能性がある。」」

ここは少し引っかかりますね。この辺りの書き方は一番momonagaさんの創作とか言われる原因になりかねない。
ここは「「永田方正は岡部方幾のことを「蝦夷語に練達なる先生」と評しているところから、旭川という命名は永田方正ではなかった可能性が高い。」」
とでもしたほうが受けやすい気がします。

で最後にはやはり、明治23年9月20日の開村字の公告の新聞記事には「村名の由来」が掲載されたが、なぜかアイヌ語由来の部分だけしか記述されなかった事を書かないと、現状に繋がらないと思います。
-----------------------------------------------
私の意見はこんな感じかな。
そらみみさんという方に対して疑問点や意見を投げかけ、それに対して丁寧な回答がなくなった時点でmomonagaさんの「地名の由来が」掲示されることでしょう。
回答もなく、削除や書き換えを行ってくるようであれば完全にwikipediaの方針から外れた荒らし行為になります。
それはwikipediaへの寄付を毎年続けている私としては許されないです。
 

Re: さっそく書き換えられました

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 8月26日(土)16時48分46秒
返信・引用
  3度に渡り同一人物によって速攻取り消されましたので、Wikipediaへの私の投稿を見てない方も多いと思います。
一応以下に8月24日分の投稿内容を記しておきます。
注釈やリンク等はWikipediaの実際の履歴でご確認ください。
皆さんの忌憚のないご意見を頂戴した上で再々度Upしたいと思います。

なおWikipedia「旭川市」のノートページにおいて、取り消した本人とのやりとりが始まっております。
私のアカウントの会話ページにも本人からのメッセージが入っております。

---------------------------------------------------------------------------------

「旭川」の名の由来については、諸説あって定かでないとされているが[1]、地名由来とは関係のない忠別川語源説と混同されるなど誤解が多い[注 1]。
旭川の名が初めて登場したのは明治23年9月20日の開村告知の時とされているが、実際にはその7ヶ月ほど前の明治23年2月9日付『北海道毎日新聞』に掲載された以下の記事がある。

   上川離宮の御名称 - 昨8日岡部(山室改)方幾氏が弊社に来られ
   「上川離宮の御名称の事に就いては夫々の御詮議も在らせらるべきは勿論のことなれとも
   九重の深き雲の上の事なれば素より窺い奉るべき様なきことなるが
   然るに彼の上川郡の忠別はアイヌ人の発音に従ふ時はチユプぺト(Chuppet)にして
   「チユプ」は太陽、日、東等の意、又た「ペト」は川の義なり
   故に離宮の御名称は旭川或いは東川等の文字を御用い遊ばさるゝに至らば
   旧称の意義を存し且つ大日本帝国等の意味に縁あり旁々適当ならんか」
   との談話ありし
   (以下略)

この記事は、当時の北海道庁長官(兼屯田兵本部長)永山武四郎の直属の部下である岡部方幾(屯田兵司令部付曹長)[注 2]が会見したもので、前年末に上川への離宮設置が山縣有朋内閣によって閣議決定されて以降、まだ村名すら無い地の離宮の名称はどうなるのかという世論に答えたもの。現在まで確認できている資料としては開村前に「旭川」の名が登場する唯一のものである。 記事中の「忠別」は開村前のこの地域の呼称で、そのアイヌ語源としている「チユプぺト」の意訳は、翌年発刊の永田方正『北海道蝦夷語地名解』のチュプペツ項[2]に記述された意訳[注 3]と全く同じである。永田は北海道庁の命を受けて全道のアイヌ語地名を調査した当時の権威学者であるが、上川郡の調査はこれからというはずの永田の意訳がこの時点で既に成されていたという事は、この意訳が旭川命名のために創作されたものである可能性がある。 それはともかく、命名者の意図としては『旧称(アイヌ語地名)の意義を存し(尊重し)且つ大日本帝国等の意味に縁あり』としている訳で、「旭川」の名は、アイヌ語に由来する「日」=「旭」の意と、大日本帝国の象徴としての「旭」の意を併せ持つ名として命名されたと言える。[注 4]

 

Re: さっそく書き換えられました

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 8月25日(金)22時45分57秒
返信・引用
  > No.1415[元記事へ]

momongaさんへ

> Wikipedia再書き換え準備のため旭川市の地名由来を覗いてみたところ、さっそく書き換えられてました(笑)
> 書き換えられたのではなく、私が追記した部分をごっそり単純削除で元の木阿弥です。

ひどいですね。
現在の地名の由来は諸説あるとかいって、公式発表の事実を無視しています。
まずは事実を消されないように抑えましょう。
wikiのノートにも書いておきましたが、決して曲げられない事実を二つ
1.明治23年2月9日の北海道毎日新聞(当時)の記事
2.明治23年9月23日の旭川村開村の日に北海新聞に掲載された記事
この内容を消されないように私も協力します。
 

Re: さっそく書き換えられました

 投稿者:あず  投稿日:2017年 8月25日(金)21時34分59秒
返信・引用
  > No.1415[元記事へ]

momongaさんへ

> Wikipedia再書き換え準備のため旭川市の地名由来を覗いてみたところ、さっそく書き換えられてました(笑)
> 書き換えられたのではなく、私が追記した部分をごっそり単純削除で元の木阿弥です。

確認しましたが、まったく面白味のない物になっていましたね。

> あずさんのおっしゃる通り、ゼロから創りますね。
> もちろん”歴史を創る”のは言語道断ですから、あくまで記述をゼロからやり直します。
> ほぼ文脈はできてますので近々中に書き換えます。

ふと想ったのですが、Wikipediaにある「旭川市」の一部を書き換えてもイタチゴッコのような気がしまして…。

それなら「旭川市の地名由来」とか、別のスレッドを立ち上げてみてはいかがでしょう。
詳しくは解りませんが、検索しても「Wikipedia」効果で上位で出ると思います。

検索する時は、「旭川」「地名」「歴史」「由来」…のようなキーワードでしょうからね。


 

さっそく書き換えられました

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 8月24日(木)20時33分32秒
返信・引用 編集済
  Wikipedia再書き換え準備のため旭川市の地名由来を覗いてみたところ、さっそく書き換えられてました(笑)
書き換えられたのではなく、私が追記した部分をごっそり単純削除で元の木阿弥です。

やり方が失敬ですよね。
私は少なくともこれまでの記述に敬意を表して敢えて追記の形にした訳ですが、それを仇で返してくれました。^^;
まあ、元々の記述を書いた人なのか、盲目的にアイヌ語由来を信じて疑わない人なのかは分かりませんけど、、
私の感ではタイミング的にここの掲示板をROMしてるかな・・・

それなりの根拠をもって書き換えられるならまだしも、元々の記述は単に旭川市のHPや河川敷に設置されてるカンバンの紹介ですよね。
しかも唯一の根拠?らしき「旭川市アイヌ語地名表記推進懇談会」の議事録は既にリンクが切れている。
お話になりません。

あずさんのおっしゃる通り、ゼロから創りますね。
もちろん”歴史を創る”のは言語道断ですから、あくまで記述をゼロからやり直します。
ほぼ文脈はできてますので近々中に書き換えます。



 

市民講座Ⅱ

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 8月24日(木)15時14分38秒
返信・引用
  市民講座の告知をさせて頂きます。
現在、買物公園7条緑道角のまちかど文化小屋において「歴史を学び、未来を考える市民講座Ⅱ」というのが開かれています。
全8回の予定ですが、現在4回まで終了しています。
この第7回10月5日(木)にこの掲示板の主催者であるmomongaさんが講師として旭川の歴史を語ります。
ちなみに私も司会兼助手としてスライドや歴史建築についてお手伝いさせて頂きます。
皆さんお時間の都合のつく方はご参加ください。
以下にパンフレットを掲示します。
 

Re: ハルシナイのタヌキさん

 投稿者:ハルシナイのタヌキ  投稿日:2017年 8月21日(月)14時51分57秒
返信・引用
  > No.1411[元記事へ]

明治維新 そして天皇に大政奉還が行われたのは、スムーズに行われたのでなく、実は多くの血が流された。岩村通利にとってみれば、江戸幕府を倒したのだから新しい土地に新首都を作りたい。だから明治初期から、17年間tにわたって北海道の中央部に西京、東京についで北京を建設したいと思い続けてきたと思います。
だから、政府から命令を受けていた北海道の本格的開発と一緒に効果的に行う為、北亰建設を同時に行おうとしたと思われます。
 

Re: Wikipedia見ましたよ!

 投稿者:あず  投稿日:2017年 8月19日(土)00時29分59秒
返信・引用 編集済
  > No.1410[元記事へ]

momongaさんへ

> 気を悪くするどころか、たいへん参考になります。
> 実は、かんじさんからも、主旨としては殆ど同様のご指摘をメールで頂きました。

あ~良かった。(笑)

> 今回自分でも失敗だったと思えるのは、一つには既存の記述を尊重し、そのまま残しておこうとした点です。

そんなことは気にせずに、歴史に関してはゼロから創る意気込みでお願いしたいです。

> もうご承知かと思いますが、新聞記事から時系列に並べるとアイヌ語意訳の明らかな矛盾にぶち当たります。

アイヌ語の違訳(あえて)については後日また意見を述べさせていただきたいと思いますが…。

たとえば開発局の河川名標には、牛朱別川「ウシシ ペッ Usis-pet 蹄川」なんて書いてあります。
それこそWikipediaには、牛朱別川(うしゅべつがわ)は、北海道上川郡当麻町および旭川市を流れる一級河川。石狩川水系の支流である。牛朱別は、アイヌ語で「鹿の蹄跡多き川」(『ウシシ・ペッ』)を意味する…。

堂々と間違いありませんよ?と断定しているわけですが、程度の低い矛盾に気が付かないのでしょうか。
もし「ウシシ」が正しいとすれば、たとえば「牛志別」とか「牛士別」なんて当て字になるのでしょうが「朱」にはなりませんよね。

個人的にWikipediaに望むことは、〇〇年〇月〇日の新聞や官報にこんな記述がありますよを知りたいかなぁ~。
それを元に空想や妄想、時空を超えた旅のガイドとして楽しむ感じです。(笑)

 

Re: ハルシナイのタヌキさん

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 8月18日(金)22時30分13秒
返信・引用
  > No.1409[元記事へ]

国見の碑の詳しい解説ありがとうございます。

この時の岩村通利の身分は司法大輔で、現在で言うなら法務省事務次官でしょうか。
まあ、司法の事務方トップ役人で大臣に次ぐお偉方ですね。
本来なら国見は業務外の行動であった訳ですが、三県制度に異を唱えた上川北京構想に同調した数名の大臣の後ろ盾があって実現したと言えます。
つまり、道庁役人が逆らう事などできなかったと言えます。

永山武四郎といえば、この頃屯田兵本部長に就任し、この時点では上川に興味はあったもののおそらく疑心暗鬼で岩村通利に同行したものと想像します。
ところがどっこい、いざ上川を目の当たりにすると、これほど北海道の防衛拠点に相応しい場所はないと思い知るわけです。

私はこの時期の「旭川」の名の発想はちょっと早過ぎると思いますが、岩村通利が京都に例えている事から「神楽(岡)」はあり得ると思っています。


 

Re: Wikipedia見ましたよ!

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 8月18日(金)21時04分44秒
返信・引用
  > No.1408[元記事へ]

あずさんへ

忌憚のないご意見ありがとうございます。
気を悪くするどころか、たいへん参考になります。
実は、かんじさんからも、主旨としては殆ど同様のご指摘をメールで頂きました。

自分としてはWikipediaのマニュアルに従って参照文献を明示する事で、けっして自身の主張として述べているつもりはなかったのですが、
そこはやはり”我”が出てしまっている、というのが皆さんの印象のようですね。
よけいな文言はいらない・・・・・今回の反省点です。

と言いますか、再書換えを考えています。
ご指摘のように、できるだけ史実のみで構成した文脈にしたいと考えています。


今回自分でも失敗だったと思えるのは、一つには既存の記述を尊重し、そのまま残しておこうとした点です。
それである程度文脈が縛られてしまいました。
また「チュプ・ペッ」意訳に対しても、由来として矛盾がある事へのストレートな指摘を避けた点です。
それこそ自分の主張が強く出過ぎてしまうかな、と思えたからです。
これらに起因して肝心要の”証拠”である新聞記事をどこにも記述しなかった・・・。

もうご承知かと思いますが、新聞記事から時系列に並べるとアイヌ語意訳の明らかな矛盾にぶち当たります。
次回の書き換えは、この辺りに変な遠慮をせず、参照ではなく本文中で明確化しようと考えています。
その方が第三者に分かりやすいと思いますが、ただ、簡潔にまとめるのが大変そうです。^^;



 

Re: ウィキペディア

 投稿者:ハルシナイのタヌキ  投稿日:2017年 8月18日(金)17時23分3秒
返信・引用
  > No.1407[元記事へ]

よろしくお願いします

岩村通利、永山武四郎、長谷部辰連、佐藤秀顯の4人は相当な覚悟をもって北亰建設の実現に向けて上川盆地、近文山に向かったとおもわれます。札幌、小樽、道庁内(北海道開拓使)等の反対を押し切って。

旭川の地名ですが一説として岩村通利ら4人が近文山で北亰建設を誓いあった思われる時の一瞬を表し、上川盆地を照らしていた太陽と彼等が辿ってきた創成川と石狩川を表していると思います。もちろん、命名者は永山武四郎。

また、旭川の地名は嵐山(近文山)にある国見の碑と連動していると思います。石碑には反対者がいる為わざわざ漢文で書き、北亰という文字は書けず、「大道」と いう文字をつかった。そして公務員が書いたとは信じられない「酒を大いに飲み」と書かれている。これは岩村通利が頭を捻って通常の文ではなく北亰について言っているのですよと言っている様に思えます。

以前、旭川市が翻訳と思われる文。現在、石碑の案内板は無いです。

「明治18年8月、岩村通俊、永山武四郎、長谷部辰連、佐藤秀顯等、
おのおのその官事を以てこの山に登る。
すなわち山河囲繞し、原野広大、実に天府の富あり。
他年大道、砥の如く、都府すでに成らば、
相ともに再び登り、杯を挙げて酣飲、以て今日を談ぜん。
すなわち相謀って碑を建て、以てこれを後に遺すという」

これを加筆するとこうなると思います。

明治18年8月、岩村通利、永山武四郎、長谷部辰連、佐藤秀顯等はそれぞれ、公務を以ってこの山に登った。
眺めは山、川が周りを取り囲み、広大な原野が続く。実に天府の富がある。
数年後、北京が建設され、磨かれたような都市が完成したならば、我らは再びこの山に登り、杯を上げ、多いに飲み、今日のことを語り合おう。
記念として、我らは相談し、ここに碑を建て、これを後世に残すことを決めた。

そして原文です

明治十八年八月岩村通俊・永山武四郎・長谷部辰連・佐藤秀顕等、各以官事登此山。則山河圍繞、原野廣大、實有天府之富。他年大道如砥、都府已成、相與再登、擧杯酣飲、以談今日也。乃相謀建碑、以遺之後云。






 

Wikipedia見ましたよ!

 投稿者:あず  投稿日:2017年 8月17日(木)23時56分41秒
返信・引用
  momongaさん、Wikipedia見ましたよ。ご苦労様でした。
熟考と言いますか、かなり熟慮されたことと思います。

私の感想を率直に言いますね。
「地名の由来」だけ見ると一般の方にとっては???かもしれません。

ある程度の知識があれば、フムフムと思われるかもしれませんが、そのような方にとってはある種の違和感を持たれるかもしれません。

かんじさんの書き込みの返信に「…そのために参照文献等を明示しています」とありますが、一般の人は〇〇に〇〇と書いてあるから〇○なのだ…、たぶん違和感はそこら辺にあるかもしれません。正確には違和感と言うより伝わる温度差なのかもしれません。

気を悪くしないでくださいね。顔も名前も知らない人に「事実はこうなのです」のように言われても、新たな文献や歴史的な資料が出てきた時でも、それは正しいのでしょうねという疑問が拭えないのです。

ま~その時はまた書き換えれば良いだけですけどね。歴史上の人物のように…。

個人的には、Wikipediaの記述について「私」は要らないのかもしれない。
あくまでも過去の事実(参考文献・出典あり)のみ追記。

たとえば「歴史」の…

1890年(明治23年):北海道庁令により、上川郡に旭川・永山・神居の3村を設置[33]。
1891年(明治24年):永山村に屯田兵入植。翌年には旭川村(現東旭川地区)に入植。

ここら辺に、「明治23年2月9日付の北海道毎日新聞に旭川の名が登場」とかその他が加われば…。
momongaさんがお持ちの資料から、時系列に見ることが出来れば興味深いし解りやすい。
その「事実」を読み手がどう受け取るかということ。

「歴史」も蝦夷地の時代とか明治とか、さらにカテゴリーを細分化しても良いですね。
それこそ旭川の町名変遷なんかもWikipediaで確認できれば素晴らしいと思います。

各市町村の公的なウェブページでも、歴史や沿革なんてのも様々で、まるで地元愛の感じないところもありますし、何もそこまで詳しくなくてもってのも存在します。旭川は前者ですけどね。(笑)

 

Re: ウィキペディア

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 8月17日(木)17時53分0秒
返信・引用 編集済
  ハルシナイのタヌキさん、書込みありがとうございます。

おっしゃるように、上川道路が通じる以前の札幌から上川へのルートと言えば、
創成川を一旦現在の茨戸付近まで下り、そこから石狩川に出て遡って行くのが一般的な行程だったようです。
遠回りのような印象を受けますが、元々船による物資輸送のために開削された創成川を経由する方が障害が少なかったのでしょうね。
ハルシナイのタヌキさんが聞かれた話は、そんな当時の行程が由来になっているのかもしれません。
 

Re: ウィキペディア

 投稿者:ハルシナイのタヌキ  投稿日:2017年 8月16日(水)14時32分53秒
返信・引用
  > No.1405[元記事へ]

突然の割り込みすいません。
旭川の「川」は石狩川と札幌 の創生川を表していると聞いたことがあります。
岩村通利一行は明治18年8月18日創生川を舟で出発、明治18年8月27日上川(近文山)に到着に関係してしていると思われます。
 

Re: ウィキペディア

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 8月 8日(火)12時51分35秒
返信・引用
  かんじさんへ

先のレスでも言いましたように、確かに由来が「旭日旗」かどうかはあくまで推測の域です。

おっしゃる通り、日本は聖徳太子の時代から「日出づる国」を自称してますから、「日の出」は正に日本国の象徴ですよね。
で、それを具現化したのが日章旗・旭日旗・旭日章・・・であり、いずれもルーツはそこにあります。
天皇家の16弁の菊の紋章も無縁ではありません。
ですから「旭」あるいは「旭日」の文字に日本を象徴する意味合いがあるというのは全くその通りだと思います。

ところが、富国強兵の時代これらは軍の象徴にすり替わってしまった一面があります。
つまり、「旭」「旭日」=大日本帝国の象徴=日本軍の象徴 です。
軍人であった永山武四郎が、命名しようとする村名に大日本帝国を意識したとして、身近にあった軍旗・旭日旗からその発想を得たとしても不思議ではないと思います。
何かそういうきっかけがなければ、いきなり「旭」の文字は出て来ないと思うんですね。
『大日本帝国等の意味に縁あり』の”等”とあるのは、帝国陸軍をも意味している気がします。

ただし私の自論は、厳密には「旭日旗を見て旭を発想」ではなく「旭日旗を連想して旭を発想」なんです。
視察や要人案内の度に幾度も登った近文山からの正面に燦然と輝く太陽を見て旭日旗を連想し、そこから「旭日の川」「旭川」を発想・・
まあ、この辺りは好きに”妄想”させて下さい。(^^ゞ


いずれにしても、旭川の名が誕生した時点ではアイヌ語はもちろん、忠別川すら関係ありません。
当然の事ながら、まだ一度も上川へ行った事のない永田方正に、いくら創作とはいえそれらしき根拠のある意訳は創れません。
永山武四郎や岡部方幾から上川の状況をつぶさに聞き取り、御料予定地を流れる忠別川にスポットが当てられ、件のアイヌ語意訳が創作されたのだと思います。
ですから川の語源に現実とは乖離した部分があり、その意訳も後年のアイヌ語学者の批判を浴びる事となるのです。

ちなみに、2月8日の岡部方幾の発表があった当日、実は永山武四郎は上川離宮造営場所調査のため上川へ出発しているのです。
この調査で離宮の建設場所を正式に上川郡字ナエオサニ(神楽岡)に決定する訳ですが、
永田方正の樺戸・空知・上川の3郡調査はさらにその後の3月であり、離宮の名前も場所も決定した後という事になり、如何にも後付けの感があります。

私は、何故この矛盾に誰も気が付かないのか不思議でなりません。



 

Re: ウィキペディア

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 8月 5日(土)14時29分52秒
返信・引用
  momongaさんへ

うーーーん。
なるほどですね。
全ては仕組まれたものですか。

「日の出」は実はパクリ? をもう一度読み返しました。
なるほどです。

つまり全ては、
>「チユプ」は太陽、日、東等の意、又た「ペト」は川の義なり
故に離宮の御名称は旭川或いは東川等の文字を御用い遊ばさるゝに至らば
旧称の意義を存し且つ大日本帝国等の意味に縁あり旁々適当ならんか」

に尽きるのではないでしょうか。
「大日本帝等意味に縁あり」としているところからも旭川の名は日本國に由来するということですよね。

旭を「旭日」とするかどうかは解釈の難しいところですが、明治20年当時に「旭」という言葉が国民にとってどういう意味を持っていたかということだと思います。
旭川という地名は旭川の開村当時全国で11箇所あることも記されていますが、当時は全国でどういった意味で使われていたのでしょうね。
旭は日の出を表し、それは日本国の象徴であったのではないかと思いますけど。

岡部方幾の言葉を使えば「旭川という名は大日本帝国を表す言葉である」とでもなるのでしょうか。

なので私の今の感想としては、旭川の地名の由来は永山武四郎や、当時の関係者の意を汲むところとしては折衷案的になりますが、
「旭川の名前はアイヌ語のチュプペツの意味を持つとともに、日本國を表す旭の字を用いて名付けた」とでもなるのでしょうか。

旭川を旭日旗とか旭日章としてしまうのは少し表現の幅が狭いというが、断定的すぎるのではないかと思います。

いかがですか?
 

Re: ウィキペディア

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 8月 3日(木)22時26分36秒
返信・引用
  かんじさん、さっそくの評価ありがとうございます。

でもって、私のこの問題に関するスタンスを今一つ分かって頂けてない様なのがちょっと残念かな・・・。
それと、けっして私の自説だけでない事だけは明言しておきたいと思います。そのために参照文献等を明示しています。
本当は、永田方正の誤訳や矛盾についても触れたかったのですが、
文章があまりに長くなってしまうのと、それこそ自分の主張色が強くなり過ぎるかなと思い自粛しました。
かんじさんの疑問は当然なのですが、私が思うに、チュプペッ意訳から遡ろうとするが故の疑問ばかりではないでしょうか。
私は逆です。
ここでちょっと補足しますね。


結論から言いますと、
「旭川」の名が先にあったのです。(由来が旭日旗かどうかは推測の域になります)

この事は、永田方正が上川の調査に赴く直前の明治23年2月9日付の北海道毎日新聞に旭川の名が登場していますから説ではなく事実です。
しかもその由来としているチュプペッ意訳が”その後”の永田方正の蝦夷語地名解に載った意訳そのものです。
でもって、これを新聞発表したのが永山武四郎の直属部下で、永田方正とも親交のあった岡部方幾曹長(屯田司令部付)です。
つまり、永田方正の調査とチュプペッ意訳は完全に出来レースであったという事なのです。

後年のアイヌ語学者が、永田方正の解釈は誤りだと指摘するのはある意味当然の事です。
要するに、永田方正が現地調査する前に創作された、旭川の名を導くための意訳だった訳ですから。
永山武四郎が知っていたか?どころか、永田方正はおそらく彼の意を受けてアイヌ語意訳を創作する協力をしたのだと思います。
何度も上川入りして現地に詳しかったのは永山武四郎の方ですしね。

ですから9月の開村時の新聞記事に同じ意訳が載るのは別に不思議でも何でもないのです。
2月の時点で既に新聞発表してる訳ですし、それを表向き”公式見解”としたのだと思います。
ただ、2月の新聞記事では『旧称の意義を存し且つ大日本帝国等の意味に縁あり』と、ちょっとだけ匂わせていますけどね。

問題は、なぜそんな遠慮をする必要があったのか?ですよね。
これはもう、永山武四郎がそういう人だったとしか言いようがありません。
道庁内で、道内各地の和名命名に関して、極力元々のアイヌ地名を尊重するように、との趣旨の内訓を出すくらいの人ですから。
たぶん、自分でそう言っておきながら自らの命名を大っぴらに出すわけには行かなかったのではないでしょうか。

じゃあ「旭川」の名はどこから持って来たのか?
もしアイヌ語に関係ないとすれば、まず私の頭に浮かぶのは「旭日」しかないのですが、かんじさんはいかがでしょう?

この辺りに触れているのが当サイトの、[「日の出」は実はパクリ?] です。
http://ron-asahikawa.la.coocan.jp/nazo/pakuri.html
今一度まじまじと見て頂ければ幸いです。m(__)m


 

Re: ウィキペディア

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 8月 3日(木)09時49分53秒
返信・引用 編集済
  momongaさんへ

> 旭川市のwikipediaを書き換えました。

> 地名の由来節、『しかしながら・・・・・』以降を書き加えました。
> wikipediaの性格上、極力著作物の裏付けのある記述に抑えたつもりですが、
> それでもやっぱり自分が出てますかね。^^;
>
> みなさん是非ご一読ください。

うーーん、やはりというかいきなりここから来ましたか。
momongaさんの自説を述べることは構いませんが、ちょっと 、、、。

>この永山武四郎命名説は、当時の彼の独裁的立場や上川との深い関りを考えると順当な説と思えるが、旭川市は諸説あると言いつつ事実上「チュプ・ペッ」説しか公にしておらず[17]、 結果として今一つ説得力に欠けるアイヌ語源説ばかりが流布され既成事実化している。

この部分には違和感がありますね。
というのも、旭川をアイヌ語のチュプ.ペツの和訳とするのは説ではなく、明治23年9月23日の旭川村開村の日に北海新聞に掲載された事実だからです。
当然、道庁令公布の当日の記事ですからこの命名由来も事前に公表されたものでしょう。
つまり、「公的には」アイヌ語のチュプ・ペツの和訳となっているものです。
当然ですが、これは永山武四郎も知っていると考える方が自然なのです。

私としては何故、チュプ・ペツが「旭川」と誤訳されてしまったのかの方が疑問です。
この辺りは永田方正に聞くしかない訳ですが、、、。

単なる想像の域で思うには、忠別という地名は既にあったわけでなぜ忠別村としなかったのか?
これは忠義、別れるなどの言葉を嫌った等とも言われていますよね。
そこで「じゃあアイヌ語のチュプ・ペツは和訳では何というんだ?」という話になりますよね。
そこで永田方正が「日の川」でございますと間違って言ったかどうか、、、。
日の川か、なら旭の川だな「旭川」で良いではないか。
という流れかも知れません。
アイヌ語上、チュプペツに旭川という意味がない以上、間違った訳である事は間違いないです。
momongaさんの永山武四郎の存在と権力から旭日章の旭からというのは、私に対しては説得力が無いです。

仮に永山武四郎が旭日章の旭から旭川を命名したとすれば、当時の新聞にその由来を書かなかった理由が無いのです。
いまでこそ軍隊に由来する名前なんてまっぴらだと思う人がいるかもしれませんが、明治23年当時にそんな事を思う人もいないだろうし、それをあえて別の理由に差し替えて新聞発表すると思いますか?

事実として、永山武四郎の目にもふれる開村日の新聞に「永山村は永山武四郎の名前から、旭川村はアイヌ語の和訳、、、、」と書いてある以上、それを覆すだけの理由ではないように思います。

世紀の誤訳としか言いようがないようにも思います。
たまたま誤訳したものが、momongaさんの言う「当時の時勢に合致していた」ともいえるのかな。



 

Re: ウィキペディア

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 8月 3日(木)00時34分18秒
返信・引用
  旭川市のwikipediaを書き換えました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%AD%E5%B7%9D%E5%B8%82

地名の由来節、『しかしながら・・・・・』以降を書き加えました。
wikipediaの性格上、極力著作物の裏付けのある記述に抑えたつもりですが、
それでもやっぱり自分が出てますかね。^^;

みなさん是非ご一読ください。
 

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