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Re: もう一つ

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 2月24日(火)11時07分33秒
返信・引用
  モリゴロウさんへ

色々出てきますね(笑)
西武百貨店が出店したのは昭和50年、緑屋出店が54年、両者が統合して今の西武のAB館になったのが56年です。
当時私も若かりし頃で、マチへも毎日のように寄り道しました。
ですから、西武出店の頃の状況は知ってますが、地下通路のような工事はまったく見ていません。
そうそう、つい3年ほど前に旧旭川駅舎を取り壊していた時、しばらく地下部分が丸見えになっていましたが、
西武へ繋がるような構造物はありませんでしたよ。
もしかしたら、当時そのような地下道を造ろうじゃないか、という話はあったかもしれません。
そんな話だけが都市伝説になって残ったんじゃないでしょうか。


もう一つのご質問は、事実はともかく可能性としては充分有り得る話だと思います。
と言いますのは、宝くじ公園の麓一帯は、戦前までは陸軍の弾薬庫であり、戦後も自衛隊の弾薬支処として昭和50年頃まで使われていました。
現在、自衛隊の萩岡宿舎が並んでる辺りですね。
春光台キャンプ場一帯までは全て立ち入り制限区域でしたよ。

また、隣り合わせの春光台トンネルの辺りは軍の射撃訓練場でした。
ここはやはり現在も自衛隊の燃料支処になっていますよね。
実際、地下貯蔵庫と思しき扉が今も土手沿いに並んでますよ。
http://9008.teacup.com/momonga_farm/bbs/index/detail/comm_id/215
(この付近のレスのやりとりも参考までに覗いてみてください)

そんなこんなで、この付近から旧軍の遺構が出てきても不思議ではありません。
防空壕というよりも、春光台の地形を利用した地下弾薬庫があったかもしれませんね。
もはや秘密でも何でもないと思いますよ。

 

もう一つ

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2015年 2月23日(月)22時02分36秒
返信・引用
  教えていただきたい案件があります

前旭川駅時代のとき、ステーションデパートがありましたが
そこから西武デパートに通じる地下歩道空間が出来上がっていた(通路的なもの)と聞いた事があります
そんな話をご存知でしたら教えて下さい

もう一つ

春光台に地下道(軍事用)があると言う話を最近聞きました
作業知っている方からの話でしたが、突っ込んで聞いたらモジョモジョ(国家機密か?)と話をはぐらかされました
場所的には高専横か宝くじ公園付近から春光台トンネル出口付近(交通機動隊がある場所)と思われます
防空壕に使用するために掘った物なのか、不思議です

宝くじ公園では20年位前に散策路で南部14年式(軍用拳銃)が発見された事もありました
何か今でも隠されている様な気がしてなりません。

  
 

Re: イオンモール 西

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2015年 2月21日(土)17時50分3秒
返信・引用
  > No.977[元記事へ]

永遠の旅人さん

ご返答ありがとうございます!

オバサンの手旗信号!(驚)なんて アバウトなんでしょう(笑)
きっと交通量も少なく貨車の動きも頻繁ではなかったんでしょうね~

皆さんのお話を総合すると昭和53~57年の間に無くなったって感じですね
年代範囲も少しずつ縮まってきて嬉しいです

あ、一人で盛り上がっていてスイマセン。。。
 

Re: イオンモール 西

 投稿者:永遠の旅人さんより転送  投稿日:2015年 2月21日(土)12時19分31秒
返信・引用
  永遠の旅人です。

いつもお世話になっております。

緑町のホクレン飼料工場引込線の踏切。懐かしいですね。

今から約35年前くらいですかね。あの踏切は遮断機や警報機がなく、頬被りをしたオバサンが手旗信号で交通整理をしていたんですよ(笑)

今では旭川鷹栖ICへのアクセス道路として交通量が多い嵐山通も当時は2車線で歩道もない畦道みたいな道路でしたからね。

緑町13丁目付近で嵐山通と交差していた大町岐線よりも遅くまで残っていたはずです。


 

Re: イオンモール 西

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2015年 2月20日(金)15時21分22秒
返信・引用
  > No.972[元記事へ]

momongaさん、かんじサン

早速のご返答ありがとうございます!

書き方が悪くて申し訳ありませんでした
気になっていたのは引き込み線でした(汗)

そしてホクレンの工場だった事、今思い出しました
記憶の飼料会社のイメージも日配ではなくニップン飼料で
しかもニップン飼料は近文小の裏手にあったって事も、霧が晴れる様に思い出しました

大町駅の引き込み線は昭和53年に廃止になっている事と、お二人のお話から推測して
昭和52~3年に廃止になった可能性が高いですね

しかも6年以上前に論議されていた事も知らずに質問してすいません

またこれに懲りず色々とご指導くださいませ

ありがとうございました

 

Re: イオンモール 西

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 2月19日(木)20時17分24秒
返信・引用
  モリゴロウさんはじめまして。よろしくお願いします。

「鉄男」さんですから引き込み線の話ですよね?
あそこはイオンができる前はホクレン系の飼料工場でしたよ。
私の記憶では工場そのものはイオンができる数年前には移転して更地になっていたと思います。
イオンの進出打診が先か後かは分かりませんが・・・

実はこの引き込み線の話題、何年か前にもありました。
http://9008.teacup.com/momonga_farm/bbs/index/detail/comm_id/190

飼料工場は昭和43年に稼動したとの事ですので、おそらく専用線も同時に敷かれたと思われます。
昭和45年、担任の先生がこの近くに住んでいて、同級生と遊びに行った時に踏み切りを渡った記憶がかすかに残っています。

でもって、問題の廃線のほうは残念ながら私もはっきりした時期は分かりません。
ちょうどこの時期私も旭川を離れておりまして・・・m(__)m
ただ、思い起こすに、昭和57年頃は私も仕事で近文駅近辺をしょっちゅう走っており、その時踏み切りは既になかったと記憶してます。
実際には昭和50年代前半くらいで使われなくなっていたのではないでしょうか。

 

Re: イオンモール 西

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 2月19日(木)17時46分29秒
返信・引用
  > No.972[元記事へ]

モリゴロウさんへ

ありゃ、読み直してみると日配飼料がいつ無くなったのかが知りたかったのかな。

でも私の持っている平成14年の地図ではあそこはホクレン工場となっています。
2000年(平成12年)の電話帳では錦町23丁目はホクレンパールライス旭川工場となっていますよ。
昭和49年の地図では線路がしっかり書かれていますので、この時点での線路は間違いないです。
工場の形を見る限りその後のホクレンの工場も同じ形をしています。
そしてそのホクレン工場がなくなったのは、イオンの建設と同時ですので、平成14年に無くなった事になります。



 

Re: イオンモール 西

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 2月19日(木)16時58分16秒
返信・引用
  モリゴロウさんへ

かんじですこんにちは、わたしもmomongaさんのHPではまった口です。
よろしくおねがいします。

さて
> 記憶の中では父親の車に乗って見た覚えがあり昭和48~昭和57年の間ではないかと推測します

1977年(昭和52年)の航空写真を見ますと、なにやら線路らしきものが写っているように思えます。
貨車のようなものが一輌ありますので、この時点まではあったのではないでしょうか。
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=911688&isDetail=true
線路の先が切れていると思ったら、これはスイッチバックして本線に入って行ったように思えますねぇ。
 

イオンモール 西

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2015年 2月19日(木)13時28分31秒
返信・引用
  初めまして!

momongaさんのHPを見てどっぷりと旭川の郷土史にハマりました

私は俗に言う「鉄男」で駅舎や廃線に興味があります

旭川で廃線となった引き込み線でイオンモール西にあった日配飼料(多分ですが)が
いつ無くなったのか知りたくてメールしました

記憶の中では父親の車に乗って見た覚えがあり昭和48~昭和57年の間ではないかと推測します
(昭和58年には免許を取得してチョロチョロしていたので)笑

グーグルで見ても路盤があった所は斜めに住宅が立ち並んでいるので飼料会社の敷地に線路があった事は
間違いないのですが(敷地内に貨車があった記憶もあります)

何かお気付きの事があれば、ご伝授下さいませ

よろしくお願いします


 

Re: 雪が消える!?

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 2月19日(木)10時41分3秒
返信・引用
  > No.970[元記事へ]

momongaさんへ

おかしいですね。確かに異常だと思いますよ。
例年の半分なんてありえないですよね。
http://www.jma-net.go.jp/sapporo/tenki/kansoku/snow/snowmap/snowgraph.html?&no=14&element=Snc9am&dateSelect=2015-02-19

まぁ世界的にみれば日本ほどの豪雪地帯に大きな都市があることの方がおかしいらしく、
ドイツのような国でも積雪は少ないようですけど。
日本は雨も多いですからね。
平均すると3日に一回は雨が降っているとか。
四季がはっきりしているのが日本の特徴とはよく言いますが、水の国、雪の国でもあるのですね。
災害を除けば気象に変化があることは素敵な事だと思います。
日本に生まれて良かった(和風総本家)ですね。
昨今は旭川としては寒さが足りないかななんて思っています。
-30℃なんて寒さは確かに厳しいですが、寒い日は間違いなく晴れた穏やかな日ですので、わたしは大好きです。
黒いコートを着ていると風の無い晴れた日は-30℃でも暖かな気持ちの良い朝だと思います。
ダイヤモンドダストなんかあったら最高です。
これはなかなか伝わりにくい旭川の素敵な一面だと思っていますよ。

 

雪が消える!?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 2月17日(火)12時10分15秒
返信・引用
  今冬の旭川はどうしちゃったんでしょうね?
天気予報ではやたら「大荒れ」とか「暴風雪」という言葉を聞きますが、旭川は完全に蚊帳の外、いや、蚊帳の中といった感じです。

私も長いこと旭川に住んでますが、これほど雪かきの楽な冬は記憶にありません。(^^)v
10センチ以上のまとまった積雪があったのは1月の上旬だったでしょうか。
それ以降1ヶ月以上の間2回ほど軽く4~5センチ積もった程度であとはクルマに薄っすら被る程度。
現在の積雪は一応37センチとなっていますが、これほとんど正月までに積もった雪ですよね。
市内の道路脇の雪山も少なく、家の周りに積んだ雪もいつもの半分以下、
例年なら年越したあたりで自分の家の周りはいっぱいになり、あとは融雪機の世話になるのですが、今冬は何と1度も融雪機を使ってない!
ようやく灯油価格が少し下がったというのに皮肉なもんです。(笑)

お天道様の光は日一日と力強さを増して来ましたし、この先1週間も気温は高めのようで、週末には雨の予報になってますね。
こりゃへたすると積雪の大半がなくなる可能性もありです。


でも最近の傾向として、3月4月の冬の終わりにどっさり降って、結局雪解けが遅れるんだよなあ・・・
けっして侮ってはいけません。

 

永遠の旅人さんより

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 1月15日(木)10時33分30秒
返信・引用
  再度メールによる投稿頂きました。
おそらく一部のスマホ、モバイルからの投稿が掲示板上で文字化けするものと思われます。
(汎用的でないフォントが使われてる?)
こればっかりは管理者である私にもどうにもできませんので、メールで構いませんのでお送りください。
その場合、ハンドル名とできればタイトルを付記していただければと思います。
今後も発信者が分かる形で転載いたします。



以下本文
--------------------------------------------------------------------------------
昨年末は大変ご面倒をおかけして申し訳ございません。
今後ともよろしくお願いいたします。

第七師団。歴史には光と陰はつきものですが、曲がりなりにもその存在が極寒の地に現在の風格ある都市基盤を築いたのは紛れもない事実です。

北海道特有の問題もあるのでしょう。私は小学校の社会科の授業では第七師団について満足に習った記憶がありません。
戦後、師団通りが平和通りに名称変更したぐらいでしょうか(笑)

あの北海道新聞社がイデオロギーを越えて事実は事実として伝えたのですから、そろそろ教育の現場でも次世代を担う子供たちに真実を教えてほしいものです。

北海道音楽大行進の件、貴殿の考え方に賛成です。護国神社が起点ですらないって…
もはや存在意義も疑わしいのではないですか。

北海道護国神社が札幌ではなく旭川にあるという意味を良く考えて欲しいですね。
他県では青森県護国神社も県庁所在地の青森市ではなく、同じく軍都として栄えた城下町弘前市にありますね。
ただ、基本的には県庁所在地に祀られています。

しかし、第七師団の存在の大きさがその後の旭川の町を官依存体質に陥らせてしまったのではないかとも思います。

屯田兵→陸軍→公共事業…
農業も稲作が主流。
何もしなくても商業的には成功する羨ましい土地柄でした。
常に国策に過度に依存して来た歴史を見てとれます。

一方、帯広や北見は民間開拓を発端としており、国に頼れない分、民間によるまちづくり活動も旭川に比べて盛んです。

旭川は前述のように都市基盤や地理的優位性から非常にポテンシャルは高い都市です。
都心から空港まで車で25分。観光地も近くにいくらでもある。家具製造や農業だってやり方次第ではもっともっと伸びる。

人口30万を超える県庁所在地で産業基盤も旭川の比ではない和歌山市や前橋市の中心市街地の寂れ様は酷いものがあります。
つまりは権威に頼れないのが現代の地方都市です。

旭川の場合、皮肉にもドン底を経験してこなかった歴史が災いしている気がします。

消滅可能性都市にされた今がまさに正念場です。
いかにポテンシャルを活かして反転攻勢に出るか。


 

『第七師団 旭川の礎』

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 1月12日(月)15時22分59秒
返信・引用
  いきなりどうしちゃったんでしょうね。
今日の北海道新聞朝刊には、16・17面の全面を使ってタイトル通りの特集が組まれていました。
今日は何か大きな出来事があった日だったかな?と一瞬考えましたが、それは特になさそうです。


内容は、昭和初期の冨貴堂(暖簾分け時代)発行による旭川市街地図をベースに、現在も残る師団遺構写真とそれらの解説、
それに戦前までの年表などを加え、旭川の歴史を第七師団との関連に絞って史実をまとめたものですが、
必要最小限の解説文ながら旭川の街の起源・発展の要点が押さえられており、たいへん良い特集だと思います。
道新のこの手の特集に付き物のプロパカンダも見当たりませんでしたし(笑)

先だって、かんじさんが尋ねられた「旭都」と呼ばれた件も簡単に触れられていましたね。
大正時代まで使われていた言葉のようですから、思ったより古い時代の話のようです。
それによると、北海道の「京都」「東京」という住民の自負を反映した、とありますから、
どちらかと言うと岩村通俊・永山武四郎の北京構想・離宮計画の名残のようです。
私の言った「旭日の都」はちょっと外したかもしれませんが、あながち間違いとも言い切れませんよネ。(^^ゞ


グッドタイミングで奇しくも当時の旭川市民のプライドの高さをうかがえる特集ですが、
その主たる要因が第七師団の存在であり、北京構想・離宮計画にあった事は明らかです。
この時代、「道都」たる道庁の存在よりも、こちらのほうが”格上”という意識だったのではないでしょうか。
永遠の旅人さんが提起された、もっと自身を持って、という言葉も、
こういった自分のマチの歴史を知る事により、プライドに繋がって行くものと思います。


 

今年も宜しくお願いいたします

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 1月 4日(日)12時59分43秒
返信・引用
  例年ですと、私も干支の画像を貼り付けて新年のご挨拶を申し上げるところですが、
喪中につき本年は控えさせていただきます。m(__)m



年末に投稿頂いた永遠の旅人さん。
おっしゃる通り旭川のポテンシャルはかなり高いものがあると思います。
ただ私が思うに、プライドという意味では戦前までがMAXだったのではないかと考えています。
県庁所在地になり切れなかった旭川が札幌に対抗できる唯一の「持ち駒」が日本最大の師団の存在だったからです。

戦前までは都市としての風格が札幌にさほど遜色なかった旭川が、
敗戦と同時にその強力な持ち駒を失ってしまい、残念ながら札幌に従たる都市に成り下がってしまいました。
もちろん、今さら軍都の復活は有り得ませんが、
せめて市民意識の上では昔のプライドを取り戻してほしいものですね。
そのためにも自分のマチの歴史をもっとよく知っておくべきだと思います。



当掲示板に出入りされてる方々、またロムされてる皆さま方、
今年もまた多いに地元史を探訪し、旭川を盛り上げる一助としたいと願っています。


PS:新年よりブラタモリ復活を喜んでいるmomongaです。(^^)
 

明けましておめでとうございます。

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 1月 1日(木)13時17分20秒
返信・引用
  今年もよろしくお願いします。  

永遠の旅人さん

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年12月30日(火)10時25分29秒
返信・引用
  下記投稿、文字化けしてしまったようでわざわざメールで頂きました。
ありがとうございます。
たぶん、同じ内容だと思いますので転載しておきます。



以下メール本文
---------------------------------------------------------------

旭川で生まれ、通算20年ちょっと人生の約半分をこの町で過ごし、今は本州某都市で暮らしています。

全国各地いろいろな町に住んできましたが、雪の問題はあるにせよ総合的には大変住みやすい町だと思っています。

人口、商業集積、医療機関の充実、都市計画道路の整備率の高さ(渋滞がほとんどない)
他地域なら十分県庁所在地レベルです。
中心商店街の活気だって、全国的に見ればまだまだしっかりしています。

しかし地元に日刊新聞社やテレビ局などのマスコミがないので文化の発信力が弱く、その事で札幌や他地域に対して何か卑屈なまでの劣等感が市民にも染み付いてしまっているのが非常に残念ですね。

青森県(八戸、弘前)
山形県(酒田、鶴岡)
福島県(郡山、会津若松)
茨城県(つくば・土浦)
群馬県(高崎)
新潟県(長岡、上越)
長野県(松本、上田、飯田)
静岡県(浜松、沼津)
兵庫県(姫路)
鳥取県(米子)
岡山県(倉敷)
広島県(福山)
山口県(下関、周南、防府)
福岡県(北九州、久留米)
長崎県(佐世保)
などなど、全国には県庁所在地ではなくても独特のプライドと存在感を放っている町がたくさんあります。

北海道だと帯広、函館はそんな誇りの高さを感じる数少ない町ですね。

旭川、ポテンシャルは高いです。
もっと自信を持って!


 

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 投稿者:??  投稿日:2014年12月30日(火)09時38分34秒
返信・引用
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Re: 嫌いだ旭川

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年12月 7日(日)10時01分28秒
返信・引用
  早く脱出したい者さんへ

その名の通り旭川から出た事がないのであれば、ぜひ一度旭川を離れてみることをお勧めします。
そうでなきゃ地元の良いも悪いもわかりませんよね。
どちらかと言うと悪い面ばかりが目に付くと思います。^^

 

Re: 嫌いだ旭川

 投稿者:早く脱出したい者  投稿日:2014年12月 7日(日)01時57分39秒
返信・引用
  通りすがりの者ですがさんへ

> なんか生き急ぐ車の運転
> コンビニで買い物してるだけでも
> 後ろが近い
> こだわりが強いクセに
> 流されやすい
> 行動する前にウンチクで悩む
> のくせコメンテーター

全く同感
 

旭都?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年11月28日(金)11時08分20秒
返信・引用
  > No.960[元記事へ]

かんじさんへ

旭都って、確かに昔聞いたことがあるような気がしますって程度ですね。
少なくとも私自身はほとんど耳にしたことがありません。
たぶん若い頃新聞記事とか地元誌の中で街を形容する言葉として使われていたのを見たのかもしれませんが、
むしろ北都の方が多く使われてたような気がします。

ただ、主に戦前に使われていた言葉だとすればわかる気がします。
つまり、これこそまさに「旭日の都」を意味しているのではないでしょうか。
ですから交通の要衛どうのこうのよりも、やはり軍都を意味した表現だと思います。

実は旭川市の徽章も現在のHPでは「北斗星に日章」という言い方をしていますが、
本来あれは「北斗星に旭日」なんですよね。
戦後になって言い方を変えたと思われますが、そんな流れで旭都という表現も使われなくなったのかもしれませんね。



> 旭川の地名に関してはアイヌ語意訳を唱える人は既に少数派になっているようにも思うのです。

そうであれば非常に嬉しいんですが、私にはそう思えません。
一般に流布されている旭川の名の由来は大半が依然としてアイヌ語由来説ばかりで、
ちょっとでも郷土史を勉強されてる方々はおかしいと気づくでしょうけど、
そうでない方は盲目的に「アイヌ語なんだ」と刷り込まれているはずです。
やはり、旭川市のHPを変えない限りこの傾向は変わらないと思われます。



 

Re: 参加者多くてビックリ

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年11月27日(木)16時02分31秒
返信・引用
  > No.959[元記事へ]

momongaさんへ


> 「地名・幽霊・都市伝説~旭川近現代史の謎を追う」に行ってまいりました。
> 講師は旭川市博物館学芸員の岡本さんです。
大盛況だったようですね。わたしも行きたかった、、、、。

> 一人でも多くの市民に、アイヌ語意訳ばかりではない、こういった説も昔からあるんだよ、という事を知って頂きたいと思います。

旭川の地名に関してはアイヌ語意訳を唱える人は既に少数派になっているようにも思うのです。
でも、文献等で示されるものがすべてアイヌ語からのものなので、これを変えるのは並大抵の事ではないでしょう。
議会で議案として議決でもしない限りね。
あとは地道に唱え続ければ以前北海道経済に掲載されたように、少しずつ新たな認識が広がることでしょう。
また、旭川市史の編纂に合わせてそのテーブルに上げてゆくというのが具体的かもしれませんね。

ps.
今月号のメディア旭川リレーエッセイ「いわせてもらえば」という記事の中で、旭川はかつて軍都と呼ばれると同時に、旭都と呼ばれたこともある事を知りました。
軍に依存した都市としての軍都ともう一つ、上川の中心地として交通の要衝としての旭都という位置づけだそうです。
私は全く知らなかったので、ただへーーっと思って読んでいたのでしたが、momongaさんは知っていましたか?
もし知っていればもう少し補足してほしいのです。
「旭都」ってどういう意味ですか?
軍都は言葉の組み合わせから意味を知ることができますが、旭都ではいまいちわかり難いです。
単純に旭川は北の都だよって意味でしょうかね。ちなみに札幌は幌都と呼ばれたとも書いてあるのです。幌都も凄い言い方だなと思いますけど、なんか名前の付け方が理解しにくいです(^^)
 

参加者多くてビックリ

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年11月25日(火)16時22分35秒
返信・引用
  23日に旭川市博物館で開催された連続講座「ミュージアムカレッジ 旭川近現代史ミステリーファイル」の第一回
「地名・幽霊・都市伝説~旭川近現代史の謎を追う」に行ってまいりました。
講師は旭川市博物館学芸員の岡本さんです。

いやあー、参加人数の多さにビックリしました。
募集人員は20名となってましたが、
正直言って「どうせガラガラだろう」くらいに思って当日になって電話で申し込み、
クリスタルホールのレストランでわざわざ時間潰してから5分前に会場へ・・・
ところが何と博物館の会議室は既に満席状態、それも席を大幅に追加したと見えて優に定員の倍以上の人が座っていました。
担当の岡本さんも驚いてたくらいですから、やはり想定外だったんでしょうね。

会場には北鎮記念館の前館長平塚さんも見えられてました。
あとポテトのカメラが入ってましたね。
ちょっと気になったのは、5、60代以降と思われる年輩の方々がほとんどで、若い年代の方の姿が見当たらなかったことです。
3連休の真ん中でしたし、しょうがないのかなあ・・・


さて、肝心の講座の内容ですが、
私としては楽しみにしていた地名に関する話題が前半40分程度で終わってしまい、後の多くは旭川に伝わる幽霊やUFOネタでした。
今回はどちらかと言うとこの都市伝説のほうに重きを置いていたように感じます。
この点、地名関連についてはちょっと消化不良気味で、是非とも単独で開催して頂きたかったと思います。

ただその中でも、旭川の地名由来については永山武四郎命名による旭日説を紹介したり、
神楽の由来も岩村通俊命名による非アイヌ語説を紹介したり、
また、永山村についても明治天皇命名説が有力となっている事などを紹介したりと、
全体的にはアイヌ語由来と合わせて故松井恒幸元博物館長の説を踏襲した内容を採り上げられていました。

これは私も大変うれしく思いました。
一人でも多くの市民に、アイヌ語意訳ばかりではない、こういった説も昔からあるんだよ、という事を知って頂きたいと思います。

終了後、岡本さんとはちょっとだけ立ち話をしましたが、
本当は師団官舎の件でも何か情報をお持ちでないか伺おうと思ってたんですが、
予想外の人の多さだったので遠慮しました。

 

Re: 第七師団の官舎

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年11月11日(火)17時56分5秒
返信・引用 編集済
  > No.957[元記事へ]

momongaさんへ

意外と簡単そうな事がわからないものですね。
今ある師団官舎の形状の特徴から建築年を推定する事が。

1.煉瓦基礎
 これは煉瓦基礎がコンクリート基礎よりも古いことは間違いないでしょうが、そもそも明治30年代の官舎の基礎に煉瓦基礎を持たないものもあった可能性もあるわけでその辺りが不明です。

2.瓦屋根
 偕行社や師団司令部の屋根が瓦屋根だった事は写真からも明確です。では官舎の屋根はどうだったのか。瓦屋根がのこる官舎が最近まであった事は写真で確認できますが、明治30年代の下級官舎はマサ拭き屋根だったという情報もあり、マサ拭き、瓦、トタン、とその変遷がわかりません。

3.屋根形状
 和風切妻(緩勾配、急勾配)、洋風切妻、マンサード屋根、ギャンブレル屋根、など終戦時には混在していますが、建築年代で違うのか、同時代でも違うのか系統だって説明できません。

4.壁面形状
 和風の板壁と洋風板壁とモルタル複合があるようですが、これも年代がわかりません。

現在、ギャンブレル屋根(腰折れ屋根)と呼ばれる形状の屋根形式の住宅がいつ頃から普及したのかを追っていますが、これさえもよく分からないなんて、情けないです。
こんなに苦労するとは思わなかった(;_;)

今日北鎮記念館でやっている展示会を見てきました。
その中に平成4年に東海大で調査した第七師団の官舎建築がありました。平成4年当時160軒の師団官舎が残っていたということで写真もついていました。
でも築年代に関する記述はありませんでしたが、今度お借りしてもう少しじっくり見てみたいと思います。

門柱は追加されていると思います。
というのは明治30年代はコンクリートが有ったものの貴重品で普及していませんので、コンクリートの門柱は後に作られたものだと思います。

腰折れ屋根は確かに明治の中期に伝わっていますが、酪農や種羊の牧舎の用途で始まりました。
一般住宅に採用されるのは大正後期だと思いますが?
基本は二階構造なのですが、師団官舎の腰折れ屋根はそれほど高くありません。
あくまでも瓦やマサに変わるトタン屋根としての採用と思われます。中折れにすると積もった雪が少し移動すると折れて、少しずつ落下するという利点もあるそうです。
 

Re: 第七師団の官舎

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年11月10日(月)16時37分29秒
返信・引用
  > はたして春光町に現存する師団官舎で明治期のものがあるのでしょうか、、、、、、。

何年か前に聞いた情報ですが、確かあることはあるはずです。
ただもちろん、実際住居として使われ続けているので、そのまま残っている訳ではないでしょうけど。

かんじさんが紹介してくださったレンガ基礎のこの家ですが、
https://www.google.co.jp/maps/@43.7990035,142.3541625,3a,75y,155.29h,80.16t/data=!3m4!1e1!3m2!1sGkU-8rfZbM86cIq07lxhsg!2e0?hl=ja
門柱がコンクリート製ですよね。
官舎ですので、後で門柱だけを追加するとはちょっと考えづらいし、
屋根だけ構造を変えて造作し直すというのは建築上どうなんでしょう?
(テレビのビフォー・アフターでは番組の性格上無理矢理それに近い事をやってますが・・・)
どちらかというと、基礎だけを再利用して建て直されているとは考えられないでしょうか。

まてよ、そういえば司令部の門柱は明治のレンガ造りからコンクリート製に造り直されてるか・・・混乱(笑)


問題の中折れ式屋根は、ちょうど明治の中頃に欧米から伝わって北海道でも採用され始めた建築様式みたいですね。
第七師団建設時は、兵舎にガラス窓をふんだんに使うなど当時の最新建築様式が数多く取り入れられたと聞きます。
ということは、この屋根だから明治の建物ではないと断じられないのではないでしょうか?
瓦屋根と中折れ式屋根は当初から混在してたのかも。
あくまで建築素人の想像ですが。


ちなみに、私の中学生の頃の記憶では、
春光町にはまだまだ旧師団官舎が数多く残ってましたが、その大半が中折れ式の屋根だった気がします。
(逆にそれが戦前からの建物だという目印になってたわけですが)
やはり連隊長・大隊長クラス以上の一部のお偉方の官舎だけが瓦屋根だったのでは?


 

Re: 第七師団の官舎

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年11月 7日(金)16時16分40秒
返信・引用
  かんじさんへ

自分へのレスですね(^^;
中折れ屋根と言われる駒形切妻屋根(ギャンブレル屋根)の普及期がわかりました。
この屋根は酪農や種羊の導入にともなって北海道に入ってきたものです。
この屋根が一般住宅に普及するようになったのは大正後期から昭和初期といったところです。
昭和初期の建物で残っているものがそれなりにあります。
天井を高くできるとか、屋根裏部屋を活用できるなんて利点もありますが、
何といってもそのスタイルが流行したのだと思われます。
昭和2年築造の名寄駅が残っているのも凄いですね。

ということで師団の官舎に関して言えば、ギャンブレル屋根を持つ物は明治期に建てられたものではありませんでした。
前回指摘したように屋根だけリフォームしたという可能性はありますが。
木造の壁面に関しては縦桟木の入ったものが古いだろうと書きましたが、
壁面に関しては時代と共に変わったというよりも、和風建築か洋風建築かという違いが大きいようです。
大正から昭和初期はモダンな洋風建築が盛んに入ってきた時期です。
ギャンブレル屋根で縦長の窓をであったりした場合は洋風の壁面にしたと思われます。
洋風の木造壁面は時期的に大正以降だと思われますが、和風の建築を行う場合は、近年でも縦桟木の入った壁面を使うので、和風だから古いとは言えないようです。

はたして春光町に現存する師団官舎で明治期のものがあるのでしょうか、、、、、、。

 

Re: 第七師団の官舎

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年11月 6日(木)15時41分23秒
返信・引用 編集済
  momongaさんへ

> 連隊長(大佐)はじめ佐官クラスの官舎の屋根はどうだったんでしょうね。
> もしかしたらフラットな方の屋根は元々は瓦屋根だったのかもしれないですよ?
> 2段傾斜の屋根は最初からトタン使用の自然落雪設計だったと思われますが。

そうなんです。
明治期の最初の師団建築は瓦屋根だったようなのです。
偕行社もたしか瓦でしたよね。
ひょっとしてすべての官舎も最初は瓦だった可能性が高いです。
https://www.google.co.jp/maps/@43.8008986,142.3539516,3a,75y,118.94h,93.97t/data=!3m4!1e1!3m2!1sTb-GuJvnrZJ8cp7hc-xPUw!2e0?hl=ja
このお宅の前には古い瓦が沢山積んでありました。
これは改修で出てきた瓦かもしれません。
また、
https://www.google.co.jp/maps/@43.8005463,142.35347,3a,75y,86.58h,87.94t/data=!3m4!1e1!3m2!1s-KlY-EbJgoIL9UlM8dfPPA!2e0?hl=ja
こちらのお宅の物置の屋根は今でも瓦です。
もっとも当時の瓦ではなく今の薄いスレート瓦になっていますが。

肝心の年代なのですが、現在、屋根の形だけでなく、壁面構造と基礎構造にも着目しています。
壁面ももちろんみな木造ですが、そのタイプには違いがあります。
リブというか縦の桟木のようなものが細かく入った板壁が明らかに古いと思われます。
これは美瑛舎の板壁にも使われている構造で、明治期に多いものではないかと思います。
縦に桟木の入っていない、横板だけの板壁は建設時期的に新しいと思われます。
また煉瓦基礎を持つ現存する官舎も4つくらい確認していますが、明治の地図に載っていないものは大正の3年頃の増築後にできたものだと思われます。

などなど勘案しますと、春光5条1丁目6-11にあるこの建物が一番古い可能性が出てきました。
https://www.google.co.jp/maps/@43.7990035,142.3541625,3a,75y,155.29h,80.16t/data=!3m4!1e1!3m2!1sGkU-8rfZbM86cIq07lxhsg!2e0?hl=ja

理由は板壁の種類と煉瓦基礎とその立っている場所なんです。
この場所は明治期の地図に既に建物があります。そして古い縦桟木のある板壁で、煉瓦基礎なんです。
屋根が中折れタイプですので矛盾しますが、これは瓦屋根をリフォームしたのではないでしょうか?
つまり当初は一般的な瓦の三角の切妻屋根であったものをトタンの当時流行した中折れ屋根に変えた可能性がたかいのです。

前回示しました春光6条4丁目2-7の家も
https://www.google.co.jp/maps/@43.8028285,142.3566166,3a,66y,130.32h,82.69t/data=!3m4!1e1!3m2!1s337zPE-4XFFcdlEIa4Jj0Q!2e0?hl=ja
古い板壁の煉瓦基礎なので一見するとこちらの方が古い感じも受けます。
屋根も切妻屋根ですし、敷地も広く立派ですから。
でも年代的には明治期の地図にはこの場所に官舎は立っていません。
つまり師団の増築後の建物なのです。
たぶん大正3年頃です。

なかなかスッキリとはわかりませんが、もう少し調査を続けます(^^;
 

Re: 第七師団の官舎

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年11月 4日(火)18時28分57秒
返信・引用
  う~~ん・・・ヒントですか?

やっぱ師団の官舎ですから、師団関連の資料を漁るしかないと思うんですが、
お偉方の官舎や大規模兵舎なら割と色んな郷土史資料にも登場しますが、
一般士官の官舎の履歴となると、それこそ事務レベルの資料が残ってない限り追うのは難しそうですね。
軍隊もれっきとした役所ですから、衛戍施設の発注記録や資産台帳・人事入居記録など全てあったんでしょうけど、
おそらくそういったもの全部ひっくるめて軍側にあった資料は終戦直後に処分されてしまったんでしょうね。
あとは戦後になって師団施設のかなりの部分は一旦国から市に払い下げられていますから、
もしかしたら何か建物の内訳資料が残されているかもしれません。


資料がなければ”現物”調査しかありませんが、
少なくとも私のような素人には建物の外観で築年代まではとても分かりません。(中を見ても分かりませんが)
屋根の形もそうですが、時代ごとに採用された特徴的な建築手法や建築材などがあればある程度推察できるでしょうけど、
大きく改修されてると思われる建物になるともうチンプンカンプンです。
それこそ川島先生のようなプロが屋根裏や床下に潜り込まなければ当初の建築年代判定は難しいと思います。


師団創設当初の建物は明治33年~35年の建築ですから、おっしゃる通り戦前までの間に少なくともリフォームされてる可能性は高いですよね。
もちろん大正や昭和に入ってから新たに建てられた、あるいは建て直された建物も多いと思います。
師団創設当初一斉に建てられた時の官舎は、階級によって何パターンかあるもののおそらく同一設計だったと思われますが、
その後に建てられた官舎はまた違った設計だったでしょうし、改修や建て直し等も考えると、
最終的に戦後の払い下げ時点ではけっこうバラエティに富んでたのかもしれませんね。


北鎮記念館に、旅団長宅の鬼瓦が展示されてますが、師団長・旅団長(中将・少将)など”特別”な官舎は瓦屋根だったという事になります。
あの頃はまだ旭川の冬の厳しさがわからず、けっこう瓦屋根にした建物が多かったんですよね。
連隊長(大佐)はじめ佐官クラスの官舎の屋根はどうだったんでしょうね。
もしかしたらフラットな方の屋根は元々は瓦屋根だったのかもしれないですよ?
2段傾斜の屋根は最初からトタン使用の自然落雪設計だったと思われますが。

 

第七師団の官舎

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年10月31日(金)16時56分41秒
返信・引用
  なかなか難問です。
実は今第七師団の官舎の築年代を調べています。
春光町にはいまでも戦前の官舎がいくつも残っていますが、はたしてそれがいつ作られたものなのか、なかなかわかりません。
第七師団といいましても明治30年代から昭和20年まで50年近くの期間があるわけで、全てが明治期に作られたわけではないようなのです。
そして官舎と言っても色々なタイプがありまして、高級士官の官舎から連隊長、少佐など住んでいた家も様々だった可能性が高いわけです。
今残っている家を形状をもとにタイプ分けすることはある程度可能でしょう。
ではそれが作られた年代による違いなのか、または階級などによる住まいの違いなのかを総合するとかなりややこしくなります。
さらに100年近い時を経ているわけで、住んでいる方はかなり改造をされている方もいますので、一件新しく見えても築年は古かったりもするわけです。
川島先生や古建築の研究家でもこの辺りはなかなか明確にされていないようですねぇ。
参考に数件の写真を上げますが、こんなところに着目して調査してみたら?なんてヒントでもあればうれしいです。

むむ~~~。
http://www.google.co.jp/maps/@43.8005219,142.3812544,3a,75y,129.26h,86.54t/data=!3m4!1e1!3m2!1sG6OG9b7aWdG_f79n_C1bcg!2e0?hl=ja
http://www.google.co.jp/maps/@43.8063175,142.3719379,3a,75y,114.35h,83.23t/data=!3m4!1e1!3m2!1sKV924CdotcdYsHlCzn1w4g!2e0?hl=ja
http://www.google.co.jp/maps/@43.8049753,142.3759338,3a,75y,96.36h,80.41t/data=!3m4!1e1!3m2!1s2vO3oeEbekqYxiRbCEQmaw!2e0?hl=ja
http://www.google.co.jp/maps/@43.8028285,142.3566166,3a,75y,130.54h,86.04t/data=!3m4!1e1!3m2!1s337zPE-4XFFcdlEIa4Jj0Q!2e0?hl=ja

大正3年頃かなりの増築がされたようで、それを考えると現存する第七師団官舎は全て大正以降の可能性もあります。
特に中折れ屋根という少し丸い形の屋根を持つ住宅が多いのですが、これらは明治ではないと思うんですよねぇぇ。
 

Re: 石山通?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年10月30日(木)20時39分24秒
返信・引用
  石山線元利用者さん、情報ありがとうございます。

何と言っても、こういった実体験に基づく”生”の情報が最も強力だと思います。
こういった情報の積み重ねが、我々がなかなか解明できない一つの史実へと結びつくものと確信しています。
今後とも、もし何かお知りの情報がありましたら是非お知らせくださればと思います。
宜しくお願いします。m(__)m

 

Re: 石山通?

 投稿者:石山線元利用者メール  投稿日:2014年10月30日(木)10時20分16秒
返信・引用
  > No.900[元記事へ]

momongaさんへ

> 下記画像、ちょっと分かりづらいのでもう少し拡大します。
> (後で気付きましたが、もしかしてバスのワンマン化で転回場所が必要になったのかもしれません)
石山線元利用者です。石山線は廃止になるまでワンマン化されなかったと記憶してます。
他の郊外路線はほとんどワンマン化されてましたが、この朝の石山線は折り返し旭川駅発8時台の
勇駒別行(or天人峡行?)になっていたはず、これら路線は当時まだツーマンでした。
 

Re: 北海道文化財保護功労者表彰

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年10月23日(木)12時54分16秒
返信・引用
  > No.949[元記事へ]

momongaさんへ

> 表彰おめでとうございます。
> かんじさん、表彰式に行ってきたんですか?
一応、会として表彰を受けていますので、わたしも行ってきました(^^;
でもまぁ、写真係ということで、、、、。
赤レンガには以前も行ったことがありましたが、再度じっくりと見学もしてきました。
立派ですよね。
偕行社もこんな使われ方が良いと思います。
今のように「彫刻美術館(旧偕行社)」ではなくてね。
あくまでもメインは建物だと思います。

宮北邸ですが、現在は市の教育委員会の物置として使っていますが、
これをなんとか市民に開放したいというのが願いです。
解放するためには整備が必要、整備にはお金がかかる、お金が無い、解放できない。
です。
宮北邸を借り受けて整備して維持するのにはどのくらいのお金がかかるのかな。
改修に数百万、維持補修、警備で年間百万円ってところかなぁ。
 

Re: 北海道文化財保護功労者表彰

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年10月23日(木)11時36分10秒
返信・引用
  表彰おめでとうございます。
川島洋一先生、ずいぶん長いこと活動してきましたものね。
旭川の歴史的建造物もいよいよ数が限られてきていますが、
今後とも益々のご活躍をお祈り申し上げます。
かんじさん、表彰式に行ってきたんですか?

「宮北邸」どうなるのか気になりますね。

 

北海道文化財保護功労者表彰

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年10月21日(火)10時31分10秒
返信・引用
  私の参加している「旭川の歴史的建物の保存を考える会」が今年度、北海道文化財保護協会より功労者表彰を受け、昨日道庁赤レンガ2階で表彰を受けてきました。
北海道文化財保護功労者表彰は40年前から毎年数人、数組の個人団体を表彰しているものです。
「旭川の歴史的建物の保存を考える会」は会長の川島洋一東海大学名誉教授が代表を務める旭川の会で25年前より旭川の歴史的建物の保存に関して様々な提言を行っている団体です。
最近では9条通11丁目にある大正初期に建てられた「宮北邸」の保存に関して様々な活動を行っています。
 

Re: 北鎮記念館 <旭川の歴史展>

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年10月19日(日)14時52分10秒
返信・引用
  五升芋さん、はじめまして。
資料のリンクありがとうございます。

戦前までの品種名は「黒毛」「赤毛」「坊主」それに「富国」ですか・・・

う~ん、お世辞にも食欲をそそる名前とは言えませんよね。^_^;
それに「坊主」なんて何だかひどい不作をイメージしますし、「富国」は如何にも質より量といった当時の戦時増産体制のイメージそのものです。

戦後も昭和の終わり頃までパッとした名前はありませんが、
私は実際には「ゆきひかり」から急に味が良くなったと記憶してます。
すぐに「きらら397」が登場しましたが、ブランド名にも力を入れ始めたのがここからですよね。


私はそうですね、ここ数年は「ほしのゆめ」→「ななつぼし」をいただいております。
「ほしのゆめ」の時は農家からの直接購入だったのでこれまた美味しかったです。
農家から直接買えるのは理想的ですが、同じ銘柄でもコメは店を選んだほうが良さそうですね。


 

Re: 北鎮記念館 <旭川の歴史展>

 投稿者:五升芋  投稿日:2014年10月17日(金)23時02分30秒
返信・引用
  > No.945[元記事へ]

はじめまして
いつもこちらの掲示板を大変興味深く拝読しております。
昭和初期の道産米の食味ですが、こちら(上川農試のサイト)に北海道の主力品種の食味の変遷が示されています。
http://www.agri.hro.or.jp/kamikawa/soshiki/suitou/ikusyu/ikindex/yuuryoumaikaihatu.html
昭和の初めの主力品種は「坊主」で、この食味のグラフで言えば「赤毛」と「富国」の間の時代に相当します。
http://www.agri.hro.or.jp/kamikawa/soshiki/suitou/ikusyu/ikindex/inasaku/suii.htm
そもそも「坊主」は「赤毛」という小穂(籾殻?)の先端に赤い毛がある品種の中から見つかった毛のない個体を増やして栽培されるようになった品種なので、食味的には「赤毛」と同等と思われます。
「赤毛」を試食したこともありますが、炊きたてだったので思っていたほど違和感はありませんでした。冷めるときっと非常に不味いでしょう。
以前は、道民すら敬遠していた道産米ですが、今や道内の米消費量に占める北海道米の割合(=道内食率)は91%に達しています。
http://www.pref.hokkaido.lg.jp/file.jsp?id=691568
 

Re: 北鎮記念館 <旭川の歴史展>

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年10月17日(金)16時48分55秒
返信・引用
  かんじさん、
やはり行かれましたか(笑)

昔のコメは、今食べるとおそらく不味いでしょうね。
だって、そもそも北海道米が味にこだわって品種改良に力を入れ始めたのは、ほんのここ20年くらい前からだと思います。
きらら397が世に出た頃からようやく少し見直されてきたのではないでしょうか。
それまでは正直言って地元北海道の人間ですら敬遠してた(笑)
まして昭和初期頃のコメとなると・・・

もちろん、戦後の食糧難の時はそんな贅沢は論外だったでしょうし、
食糧難ではなくても戦前までの貧しい時代の人間はそんな贅沢は言わなかったでしょうね。
凶作の影響も今よりずっと大きかったでしょうし、品種改良もどちらかというと寒さに対する改良でしたし、
質より何よりも量を確保する事がまず大事だったのではないでしょうか。


ロータリーの造成は道庁から反対されたようですね。
え?何で?と思うのですが、
てっとり早く言えば「旭川ごとき大都市でもないのにロータリーなんぞ生意気だ!」って事みたいです。
旭川市の都市計画でありながら、当時は道庁が権限を持ってたようですね。
まあ、もしかしたらここでも札幌とのいがみ合いの構図があったような気が・・・



旭橋を実際に戦車が渡ったという話は私も聞いたことがありません。
明らかに言える事は、そんな必要すらなかったはずです。
なぜなら旭橋は師団側と市街地を結ぶ橋であり、戦車が市街地に入るなんて事はよっぽどの事がない限りありません。
野砲についても然りです。必要な演習場はすべて石狩川の向こうにありました。
もし鉄道でどこかへ搬送する必要があったなら、練兵場まで近文線が延びてたわけですし。

「お前それじゃ今まで言ってた事と違うだろ!」と言われるかもしれません。^_^;

確かに私も旭橋を語るにあたっては『戦車の渡れる軍事橋』という言い方をしますが、
実際にはその必要性が薄い事から、正確には『戦車も渡れる軍事橋』ですね。
それだけ頑丈に造ってあるのは事実ですし、軍都を象徴する意味での表現ですね。
でもって、何と言っても七師団の存在があったからこその橋ですから軍事橋には違いないと思っています。

ただし、じゃあ軍事的な考慮のみで設計されたのか?というとそれは違うと思います。
確かに師団・陸軍が大きく関わったのは事実でしょうけど、
設計思想は実は意外と平和的で、
  「東京以北最大のシンボル橋にしよう」
  「大雪山の背景にマッチした姿にしよう」
といった考え方が根底にあります。
もちろん、当初から電車も通す予定でした。

現代にも通じるところがありますが、
当時の人々も意外とインフラ整備にあたって陸軍の予算をうまく利用したのかもしれませんよ。(笑)



 

Re: 北鎮記念館 <旭川の歴史展>

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年10月17日(金)10時00分37秒
返信・引用
  > No.943[元記事へ]

momongaさんへ

ミニコンサート、ラッキーでしたね。
ということで私も歴史展行ってきました。
頑張ってますよね。
歴史年表のようなものも読みごたえがありました。
気に止まったのは、昭和初期上川が米所となって正米市場を作る計画があったという記述の中で、上川100万石を誇ったという事を大きく書いているのですが、昭和の初めに上川でできた米って美味しかったのかなぁ?と疑問もあります。
当時はコメが貴重だったので品質にはこだわらなかったでしょうか。
というのは私が小さいころには北海道のコメは美味しくないということで、誰も食べていなかったように思うのです。
内地米と大きく書かれた米袋、確か標準米というのが一番安いのですが美味しくないと聞いていました。
それを考えると昭和初期の上川の米って、、、、、。
どうなんでしょ。
あと牛朱別川切り替え工事の展示があって、みたことのない写真が沢山あったので、出展を訪ねたところ当時の記録写真集が図書館にあるということでしたので、その足で図書館に向かいその写真集を見てきました。
ロータリーの設置に関して、東京以北最大のロータリーを設置するということで、大変な苦労をして設置したという説明でしたが、どうも私にはたかがロータリーとしか思えなかったのです。複数の道路が交差するのでロータリーが都合よかったとしか思えないのですが、、、。
さらに旭橋の架け替え理由として、大型の野砲を運搬するのに初代旭橋が持たないというのと、電車を通すためにという理由が上げられていました。
当時あれだけ立派な橋を架けた理由が「戦車を通すため」とか聞いたことはあったのですが、実際に戦車があの橋を通ることは無いとか聞いたこともあり、疑問だったのです。
momongaさん補足できますか?
ということでなかなか面白かったです。
私が行ったときに、ちょうど団体が入ってまして、ご婦人の15人くらいの団体と、中学生くらいの数十人の団体が北鎮記念館の方の説明を受けていました。
なかなか盛況ですね。
 

北鎮記念館 <旭川の歴史展>

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年10月14日(火)17時13分6秒
返信・引用
  エピソードⅣを見てきました。

今回は昭和前編ということで、昭和初期に行われた牛朱別川切替工事と、旧河川埋め立て跡に造られた常盤ロータリー、
それに2代目旭橋(現旭橋)架橋が主なテーマでした。
牛朱別川切替工事と旭橋架け替え工事は同時期に行われており、当時旭川はじまって以来の大工事と言われました。
よく現在の北彩都計画が規模的な引き合いに出されますが、
北彩都計画が着手から15年以上も要したのに対し、当時は僅か3~4年ほどで完成させています。
当時と今じゃ事情は異なるとはいえ、コンピュータも重機も無い時代に、つくづく当時の人々のパワーってすごいと思います。

この旭川の歴史展は、この後も来年3月のエピソードⅦまで予定されています。
1Fロビーの一画に設けられたこじんまりした歴史展ではありますが、記念館の方々の熱意を充分感じる事のできるシリーズだと思います。



実は北鎮記念館へは2週間前にも行きました。
この時は、たまたまクルマで通りかかったのでつい衝動的に飛び込んだのですが、
その時はまだ今回の歴史展はやっておらず、偶然ロビーで開催されていたのが下の写真です。

何と第2師団音楽隊メンバーによるビブラホンとマリンバのミニコンサート。
それに和太鼓による演舞です。
途中からしか見れなかったのが残念でした。

終了後に尋ねてみたところ、音楽隊のメンバーというのはやはり入隊前から楽器に携わっている方々ばかりだそうです。
中には音大を卒業してる方もおられるそうです。
ただ、人数が限られているので専門外の楽器もこなさなきゃならない場合も多いとの事。

でもあくまで自衛隊員ですから、やっぱり一般隊員と同様の訓練も受けてるんでしょうね。
89式小銃もぶっ放す!? ^_^;

 

Re:オータムフェストに行ってきました。

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年10月 5日(日)11時36分11秒
返信・引用 編集済
  > No.941[元記事へ]

やっぱり、同じテントでもお洒落ですね。

これって、主催者側が用意してるんでしょうか?
セイコーマートなんかは明らかに自前なんでしょうけど、
統一されたブースは主催者主導じゃなきゃ難しいですよね。

マルシェに対する色んな考え方、出店料の問題等あると思いますが、
今後も必ずこういった札幌オータムフェストとの比較はされて行くでしょうから、主催者側のセンスが要求されますよね。


 

オータムフェストに行ってきました。

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年10月 3日(金)15時16分22秒
返信・引用 編集済
  > No.940[元記事へ]

決して旭川を卑下する意味ではなく、また札幌という都会に対抗するという意味でもなく、事実としてそのイベントのクオリティの違いを理解してほしいのです。
一方は200万人の大都市で15日間にもわたって行われるイベント。
一方は35万人の中堅都市で行われる3日間のイベントですから、行われる内容も違うしクオリティも違って当然なのですが、旭川なんだからしょうがないではなくどうやったらもっと質を向上させられるのかを考えてほしいと思います。
札幌を褒めると結果的に旭川をけなしている事になってしまうかもしれませんが書いてみます。
1.出店ブースの質がまるで違う。
オータムフェストでは実にバラエティに富んだブースがあります。
頑丈な小屋でできた本格的な店のようなブースは当然設置のコストが上がりますが、そこは15日間という長期に行い、一日当たりの経費を抑えるとともに、15日を3回に分けて出店者を変えることにより、多くの出店者を取り込み一日当たりの経費を抑える工夫をしている。
2.カラフルなテント
テントによる出店でも実に形も色も違うおしゃれなテントで演出している。
3.安価なテントによる出店もありお金のかからない出店も可能になっている。
4.店の数に比してテーブルや椅子が多い。
イベントの快適さを演出する為に座って飲み食い出来る場所が非常に多いです。
またその席までデザインに気を使ったものになっている。
用意されたテーブルだけじゃなく、芝生のところにシートを広げて家族で食事している姿もたくさん見ました。
5.飲食店だけでなく農産物の販売や物品の販売も行われている。
その数などは制限してバランスをとっていると思いますがバラエティに富んでいます。
巨大なものではニッカの竹鶴バーのような企業宣伝を主眼にしたブースもあれば、セイコーマートのワインバーのようなブースもあります。
小さいものでは簡易テントのなかで粗末なものを販売しているものもありました。
大通りは丁目毎にがらりと内容が変わっていました。
5丁目から11丁目までですが。
ラーメン店が中心の丁目、アルコールからめた食品が中心の丁目、地方のグルメが中心の丁目
市町村が発信する丁目、等特色のあるイベントになっています。
なんかなぁ、食べマルシェの最初の年にその企画がかなり評判になって、札幌のオータムフェストに刺激を与えたはずなのに。
札幌のオータムフェストはどんどん素敵なイベントになってゆくし。
食べマルシェはサンロク祭りに近くなってくるし、、、、。
どんどん差が開いちゃって、、、、。

http://fast-uploader.com/file/6967871683095/
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http://fast-uploader.com/file/6967872027753/
http://fast-uploader.com/file/6967872046785/
 

Re: 食べマルシェ

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年 9月24日(水)19時25分47秒
返信・引用
  > No.937[元記事へ]

> 期間は別として100万円の出店料って本当ですか?

道新の記事ですので、たぶん(笑)間違いないでしょうね。
「場所によって」というだけで、ブースの広さとかには触れてませんでした。
ちなみに同記事には旭川の食べマルシェの出店料は5万円とありました。


食べマルシェの場合、駅前広場の南さつま市などのブースは広く取っていましたが、
他のブースはほぼ均一のように見えましたのでおそらく出店料も均一なのでしょうね。

私もこれ、必ずしも均一にする必要はないんじゃないかと思います。
制限は加えるにしても、一業者何ブース分かまでは認めるという事でも良いと思います。
実際問題、有名店・人気店のブースにはかなり長い待ち行列ができてましたので、他と同じスペースでは捌ききれないという印象でした。
現状では、主催側は出店業者数を増やす事に主眼を注いでるような気がします。
これだけの規模になっているのですから、そろそろ出店業者数を絞る事も考えなきゃならないかもしれませんね。

と同時に、私も各ブースの”見てくれ”は是非とも考えるべきだと思います。
「お洒落なブースコンテスト」みたいなものを設けて、各出店業者ごとに趣向を凝らしてもらったらどうでしょう?
出店料とは別に多少出費はかさむかもしれませんが、自分の店のイメージもそれによって上がると考えればメリットもあると思います。

 

Re: 天塩って?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年 9月24日(水)17時45分31秒
返信・引用 編集済
  > No.936[元記事へ]

石狩場所の正確な位置は私も知らないのですが、石狩川河口付近であるのは間違いないところです。
花畔(バンナグロ)付近だったというのを聞いた事があります。
札幌へは創成川、空知・上川へは石狩川を遡ったので、この合流付近が拠点だったのでしょうね。
いずれにしても現在の石狩市には違いないと思います。

鈴木亀蔵、亀吉さんは元々秋田県人で、どのような経緯で北海道へ来たのかまでは知らないのですが、
当時はまだ若造でしたから、石狩場所請負人とは言ってもたぶん雇われ人でしょうね。
石狩場所を拠点に明治5年頃から上川へも立ち入るようになり、10年頃にアイヌの女性と結婚して定住を始めました。
(場所そのものは明治になって開拓史が設置された時点で廃止されてるはずです)


川や地名がほとんどアイヌ語を踏襲しているのに比べ、山の名だけは不思議と和名が多いですよね。
もしかしたら山の名は最初に登頂したり調査したりした人に由来するという伝統を尊重したせいかもしれません。
そのせいか大雪山系の峰々の正式な命名時期はかなり後になってからのようです。
”大雪山”という名称自体もそうですし、
最高峰の旭岳ですらそれまで東オプタテシケとかイシカリ岳とか呼ばれ、ようやく統一されたのは大正時代になってからの事です。
さすがのアイヌ人も、カムイミンタラの峰のてっぺんまでは立ち入らなかったのかもしれませんね。

 

Re: エコが聞いてあきれる

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年 9月24日(水)14時37分45秒
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  > No.935[元記事へ]

momongaさんへ

> 『再生可能エネルギー』『環境に優しいエネルギー』といった言葉に乗じた売電業者が続々増える中、
> このように豊かな自然を破壊してまでソーラーパネルを並べる意味っていったい何なんでしょうね?

そんな事が起きていたんですね。
わたしもメガソーラーとかにはかなり不信感というか疑問を持っています。
私が思う電気事業の目指すべき方向性は、スマートグリッドと呼ばれる、
地域で面的にさまざまな方法で発電を行い、それを必要な分だけコンピュータで
効率を追求しながら必要な個所に分配するというシステムです。
これは現在の地域独占の電力政策とは相反しています。
いまのソーラーや風力は地域独占の電力会社を前提としたのものです。
なのでmomongaさんが指摘のような自然破壊と環境エネルギーなんて矛盾が生まれるんですよ。
私は原子力発電には反対の立場をとっていますが、だからと言ってその代替エネルギーがソーラーや風力だとは思っていません。
コストを考えたって代替になりえるわけがない。
(原発のコストが異常に高いことを認めれば多少違うんだけど)
代替はコジェネを採用した天然ガスによる高効率発電に決まっています。

話が逸れたかな、ソーラー発電を否定するわけではありませんけど、固定買い取り制度で儲かるから自然を壊してまで設置するってのはまったく本末転倒ですね。
休耕田とか企業誘致に失敗した工業団地とかいくらでもあるでしょうに。
せめて大規模ソーラー発電を許可するかどうかの審査には環境負荷の項目を入れて審査すべきですよ。
でも所詮許可するかどうかは地域独占の電力会社の買い取り枠への申し込みと電力会社の許可によって決まるんだろうから、環境負荷なんてしったこっちゃないのかな。
なんかなぁ~。
 

Re: 食べマルシェ

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年 9月24日(水)11時43分0秒
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  > No.933[元記事へ]

momongaさんへ

> ただ一つ、道北各地からの出店者にそっぽを向かれはじめるような企画だけは避けるべきでしょうね。
そこはバランスだと思います。
道北各地からの出店者でも力のある商品をもった店や地域はそれなりの高額なブースを作ればいいと思います。
逆にローカルを排除するわけじゃなく、粗末でも安いブースで活気のある商品を売ればいいしその辺りはバランスなんだと思うんです。今のように全部一律で運動会テントでというのは違うんじゃないかと、、、。

> 私は札幌のオータムフェストには行った事がありませんが、
> 先日の道新に、出店料が最低でも30万以上で場所によって100万以上になるという記事を見て驚きました。
> 開催期間が15日間という事もあるでしょうが、所詮テントブースにこれだけ高額な出店料はいかがなものか・・・。
> これだけ高額で、しかも15日間も人を派遣できる出店業者ってかなり限られてしまいますよね。
> 私は15日間は長過ぎると思います。
期間は別として100万円の出店料って本当ですか?
最低でも30万円というのもビックリですが、逆にみればそれに見合った売り上げがあるってことですよね。
最低1日2万円になりますが、まぁ10万円くらい売上げればいいのかな。
分かりませんが、旭川の場合はそんなには取れないでしょうね。
あれだけの人が出て売り上げはどうなっているんだろ。

> あと、食がテーマでありながら絶対的に食べるためのスペースが少な過ぎる。
これは圧倒的にそうですね。
如何に心地のよい空間を作るかが最大のテーマなんだと思います。
そうとうに考え直す必要があると思いますよ。
例ですが札幌の駅前大丸前でも食のイベントをやっていますが、
ここにセイコーマートのブースがありました。
これが格好いいんですよ。
セイコーマートのイメージなんてそれほど高級ではないですが、
演出次第でこんなに変わるんですね。
旭川では無理なんでしょうか。

また秩父別に緑のナポリタンというご当地グルメがありますけど、
これが札幌のオータムフェストに出店していました。
それがおしゃれなブースで人もかなり入っているんです。
それが食べマルシェだと普通のテントで売るだけですよね。
これを見たときに、「あ、このままでは商品力のある商品は
食べマルシェではなく、オータムフェストに取られてしまう」と思ったんです。

ぜひとも食べマルシェ関係者には危機感をもって企画を練り直して頂きたいと思います。
入場者がいるからOKではないとおもうんだよなぁ。
 

Re: 天塩って?

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年 9月24日(水)11時01分15秒
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  momongaさんへ

> これはもう、何と言ってもまず川の名が先です。
あ、やっぱり。明治初期の地図を見ても川の名前だらけの地図ありますものね。
そんな気はしていました。

> 「石狩場所」「天塩場所」で、語源はもちろんそれぞれの川の名です。
場所という言葉が市町村の前にあったのですね。
勉強になります。
川に名前があってその次に和人が定住したのが海べりであり河口付近というのが自然な流れでしょうね。
なのでそこに場所ができ、それが市町村になってゆく、なるほど。

> 上川定住和人第一号の鈴木亀蔵は、この石狩場所の請負人だったと言われています。
石狩場所って、今の石狩町ですか?亀吉さんは上川定住のまえに石狩場所にいたのですか?


> 大雪山系に和人による現在の山岳名が付けられたのは明治に入ってから、それも主に上川の国見が行われた前後の事です。
> なんせ北海道の内陸部は最後の最後まで秘境でしたからね。名付けも一番最後です。
> 石狩岳の名は石狩川の源流である事がわかってからこの名が付けられました。
そうなんだぁ。
目印になるような大きな山はアイヌなんかの名前が付いていたでしょうけど、そうでないのは後から和名をつけたのでしょうかね。
山の名前がアイヌ由来ばかりでないのはそのせいなのかな。

 

エコが聞いてあきれる

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年 9月23日(火)18時54分14秒
返信・引用
  今年の春先、まだ残雪の多く残る頃、春光台の一画でかなり大規模な雑木林の伐採が行われました。
場所は新道沿いの末広7条7丁目付近。
丘の上はちょうど福祉村と呼ばれる地区です。

生えてる樹木根こそぎ伐採する皆伐で、鬱蒼としていた緑の春光台の一画が数百メートルに渡って禿山となりました。
写真を見ての通り、豊かな雑木林で覆われていた斜面が毟り取られたように醜い地肌を晒しています。
しかも抜根した根をそのまま無造作に斜面に残しています。
まるで土砂崩れか地すべりでも起きた跡のような状態です。(実際このままだとそうなりかねない)



せっかくの豊かな樹木をここまで大胆に削り取っていったい何をしようというんだろう?
また新たな福祉施設でも造るのだろうか?
丘の上に何か造るにしても、斜面の中腹までこうも無残に伐採する必要があるだろうか?



この春から注視していた疑問でしたが、どうやら見えてきました。
なんと、メガソーラーです。
斜面の樹木まで伐採したのは、木陰を排除するためだったようです。

まったく開いた口が塞がらない、とはこの事です。
何がエコ(ロジー)?
何が再生可能エネルギー?
どこが環境にやさしいエネルギー?



実を申せば私は前々から”発電事業”としての太陽光発電や風力発電に大きな疑問を持ってる人間です。
個人や法人が、自家電力・補助電力として、家の屋根や社屋の屋上などに設置する分には大いにけっこうだと思います。
しかしながら、公共の電力源としての太陽光発電や風力発電は、その発電能力に比べコストがあまりに高過ぎます。
電力会社の既存の発電コストに比べ、数十倍もの高いコストがかかっています。
にも関わらずここ数年急速にこれらが増えているのは、単に原発が止まっているからという訳ではなく、
電力会社が一定量以上これらの電力買い取りを義務付けられているからに他なりません。
これら事業者は、高い電力でも電力会社に買い取ってもらえる事を前提として”売電商売”を成り立たせてるに過ぎないのです。
つまり、ソーラー発電や風力発電が増えるほどに電力会社の原価は上がり、我々が払う電気料金にも跳ね返るという事になるのです。
『再生可能エネルギー』なる言葉ばかりがもてはやされていますが、
実はこういうからくりが存在するという事を知っておいたほうが良いのではないでしょうか。



でもって、話を戻しますが、
『再生可能エネルギー』『環境に優しいエネルギー』といった言葉に乗じた売電業者が続々増える中、
このように豊かな自然を破壊してまでソーラーパネルを並べる意味っていったい何なんでしょうね?

 

Re: 天塩って?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年 9月20日(土)15時12分39秒
返信・引用
  > 山と川と町、それぞれに同じ名前を持つ関係にあるものがどんな順で名前が付いて行ったのでしょうね。

これはもう、何と言ってもまず川の名が先です。
なんせ和人が蝦夷地に入り込んだ時にはすでにアイヌ人によって名付けられていましたから。
基本和人はそれに漢字を充てただけですね。

町の名はその町によって名付けられた時期が大きく異なりますが、
石狩や天塩に限って言えば、松前藩によって設けられた『場所』が始まりと言えると思います。
「石狩場所」「天塩場所」で、語源はもちろんそれぞれの川の名です。
場所というのは言わば松前藩の出張所みたいなもので、当時は主にアイヌとの交易が目的で、民間の請負人がこれに当たったと聞きます。
上川アイヌも石狩場所を通じて交易していました。
上川定住和人第一号の鈴木亀蔵は、この石狩場所の請負人だったと言われています。

山の名が一番後ですね。
幕末に近藤重蔵や松浦武四郎が天塩・上川の調査をしていますが、川の源流調査まではしていません。
松田市太郎という人が初めて石狩川源流調査をしましたが、この時源流とした位置は間違いだったようです。
大雪山系に和人による現在の山岳名が付けられたのは明治に入ってから、それも主に上川の国見が行われた前後の事です。
なんせ北海道の内陸部は最後の最後まで秘境でしたからね。名付けも一番最後です。
石狩岳の名は石狩川の源流である事がわかってからこの名が付けられました。

 

Re: 食べマルシェ

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年 9月20日(土)13時36分26秒
返信・引用
  まあ、現状でこれだけ集客力を持っているイベントですから、企画的には色んな事が可能かと思います。
ただ一つ、道北各地からの出店者にそっぽを向かれはじめるような企画だけは避けるべきでしょうね。

例えば、大きな目玉企画や目玉ブースを設けるのは良いとして、
結果、人の集まる目的がもっぱらそちらに偏ってしまうとか、その企画のために出店料が上がってしまうとか、
せっかく遠方から出店してる方々にとってのメリットが薄まってしまうような事だけは避けた方が良いでしょうね。
あくまでメインは道北各地の食にある、というスタンスだけは崩すべきでないと思います。

私は札幌のオータムフェストには行った事がありませんが、
先日の道新に、出店料が最低でも30万以上で場所によって100万以上になるという記事を見て驚きました。
開催期間が15日間という事もあるでしょうが、所詮テントブースにこれだけ高額な出店料はいかがなものか・・・。
これだけ高額で、しかも15日間も人を派遣できる出店業者ってかなり限られてしまいますよね。
私は15日間は長過ぎると思います。


ただ、確かに現状の食べマルシェは同じパターンでテントブースがだらだら長く続くという感じは受けます。
やはり途中途中で何か足を留めたくなるような企画ブースがないと、とても7条や常磐公園まであの人ごみの中を歩く気になれません。
おっしゃる通り、個々のブースも祭りの露店感覚と差別化した洒落っ気がほしいですね。
あと、食がテーマでありながら絶対的に食べるためのスペースが少な過ぎる。


このイベントをさらに発展継続させるため、関係者の企画力に期待したいと思います。


 

天塩って?

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年 9月19日(金)16時11分17秒
返信・引用
  面白いことに気づきました。
で、疑問が湧きました。
和寒の辺りを走っていた時に思ったのですが、「天塩の大地」とかって大きく書かれた建物があります。
あれ?この辺りって天塩かなんて思ったのですが、考えてみると天塩川という長大な川が流れてますものね。
で、思ったのが天塩町は天塩川の河口の町ですよね。
で巨大な天塩川があってその源流に天塩岳があるんですよねぇ。
そう考えると天塩なんて地域は巨大な範囲ですよね。
と同時にあれ?これってどういう順番で名前が付いたんだ?という疑問です。
天塩岳を源流として流れる川が天塩川、天塩川が流れ落ちる河口の町が天塩町なのかな。
考えてみると石狩川もそうです。
石狩岳を源流とする石狩川が流れ着く先が石狩町なんですよね。
山と川と町、それぞれに同じ名前を持つ関係にあるものがどんな順で名前が付いて行ったのでしょうね。
ね、momongaさん。
 

Re: 食べマルシェ

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年 9月19日(金)10時57分52秒
返信・引用
  > No.930[元記事へ]

momongaさんへ

食べマルシェ行きましたか。凄い人混みですねぇ。
私は今年は残念ながら行けませんでした。
最初は一回きりの企画だったんですか、知りませんでした。
確か電通かどこか大手の広告代理店でしたよね。
そのせいのような気がするんですが、食べマルシェって年々田舎臭くなってませんか?
最初の年は確かミクニのカレーとか目玉商品みたいな食材が何種類かあって、
それを楽しみにした記憶があります、残念ながら売り切れで食べられなかったんですが。
ブースの作り方にも特色があっておしゃれなマルシェの雰囲気があったと思います。
それに比べて、いまの食べマルシェはなんかサンロク祭りとそれほど違わなくないですか?
食をテーマにするイベントって実はけっこう難しく、過去に「世界食の祭典」という、大失敗イベントがありました。
これはもっとも失敗した博覧会として記録されています。
それに比べると旭川の食べマルシェは来場者数などの点からは十分に成功していると思いますが、これは企画が良いというよりは、旭川人の気質なんでしょうかね。
札幌ではこの期間「オータムフェスト」という食の祭典が15日間くらいのロングで開催されていますが、こちらもなかなかの盛況ぶりのようです。
旭川駅前から買物公園を通って緑道を通って常磐公園まで含むというかなりの距離の会場ですが、私の目からはどこをとってもあまりぱっとしないように思えるのです。
安い出店料でこじんまりと営業する店もあっていいと思います。
そういう店が全体を支えることも重要でしょう。
でも、逆にバーーーンと金をかけておっ!と思わせるような企画を持ったブースがあった方が楽しいじゃないですか。
洋食、和食、中華の巨匠の名前を冠する出店が売りあげを競ったりしてほしいな。
今年は醤油焼きそばとホルメンが競ったみたいですけど、ホルメンって企画としては面白いけど、精肉会社が作った決まったホルモンを使うという決まりがあって、なんか馴染めないんですよね。
まぁ、取り留めもなく書きましたが、食べマルシェが盛況であることは大喜びです。
ただ初年度の企画がかなり良くて、確か札幌のオータムフェストに大きな影響を与えたと記憶しています。
それに比べると、、、、、、。
ちょっとひっかかっています。
 

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