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Re: 食べマルシェ

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年 9月24日(水)19時25分47秒
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  > No.937[元記事へ]

> 期間は別として100万円の出店料って本当ですか?

道新の記事ですので、たぶん(笑)間違いないでしょうね。
「場所によって」というだけで、ブースの広さとかには触れてませんでした。
ちなみに同記事には旭川の食べマルシェの出店料は5万円とありました。


食べマルシェの場合、駅前広場の南さつま市などのブースは広く取っていましたが、
他のブースはほぼ均一のように見えましたのでおそらく出店料も均一なのでしょうね。

私もこれ、必ずしも均一にする必要はないんじゃないかと思います。
制限は加えるにしても、一業者何ブース分かまでは認めるという事でも良いと思います。
実際問題、有名店・人気店のブースにはかなり長い待ち行列ができてましたので、他と同じスペースでは捌ききれないという印象でした。
現状では、主催側は出店業者数を増やす事に主眼を注いでるような気がします。
これだけの規模になっているのですから、そろそろ出店業者数を絞る事も考えなきゃならないかもしれませんね。

と同時に、私も各ブースの”見てくれ”は是非とも考えるべきだと思います。
「お洒落なブースコンテスト」みたいなものを設けて、各出店業者ごとに趣向を凝らしてもらったらどうでしょう?
出店料とは別に多少出費はかさむかもしれませんが、自分の店のイメージもそれによって上がると考えればメリットもあると思います。

 

Re: 天塩って?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年 9月24日(水)17時45分31秒
返信・引用 編集済
  > No.936[元記事へ]

石狩場所の正確な位置は私も知らないのですが、石狩川河口付近であるのは間違いないところです。
花畔(バンナグロ)付近だったというのを聞いた事があります。
札幌へは創成川、空知・上川へは石狩川を遡ったので、この合流付近が拠点だったのでしょうね。
いずれにしても現在の石狩市には違いないと思います。

鈴木亀蔵、亀吉さんは元々秋田県人で、どのような経緯で北海道へ来たのかまでは知らないのですが、
当時はまだ若造でしたから、石狩場所請負人とは言ってもたぶん雇われ人でしょうね。
石狩場所を拠点に明治5年頃から上川へも立ち入るようになり、10年頃にアイヌの女性と結婚して定住を始めました。
(場所そのものは明治になって開拓史が設置された時点で廃止されてるはずです)


川や地名がほとんどアイヌ語を踏襲しているのに比べ、山の名だけは不思議と和名が多いですよね。
もしかしたら山の名は最初に登頂したり調査したりした人に由来するという伝統を尊重したせいかもしれません。
そのせいか大雪山系の峰々の正式な命名時期はかなり後になってからのようです。
”大雪山”という名称自体もそうですし、
最高峰の旭岳ですらそれまで東オプタテシケとかイシカリ岳とか呼ばれ、ようやく統一されたのは大正時代になってからの事です。
さすがのアイヌ人も、カムイミンタラの峰のてっぺんまでは立ち入らなかったのかもしれませんね。

 

Re: エコが聞いてあきれる

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年 9月24日(水)14時37分45秒
返信・引用
  > No.935[元記事へ]

momongaさんへ

> 『再生可能エネルギー』『環境に優しいエネルギー』といった言葉に乗じた売電業者が続々増える中、
> このように豊かな自然を破壊してまでソーラーパネルを並べる意味っていったい何なんでしょうね?

そんな事が起きていたんですね。
わたしもメガソーラーとかにはかなり不信感というか疑問を持っています。
私が思う電気事業の目指すべき方向性は、スマートグリッドと呼ばれる、
地域で面的にさまざまな方法で発電を行い、それを必要な分だけコンピュータで
効率を追求しながら必要な個所に分配するというシステムです。
これは現在の地域独占の電力政策とは相反しています。
いまのソーラーや風力は地域独占の電力会社を前提としたのものです。
なのでmomongaさんが指摘のような自然破壊と環境エネルギーなんて矛盾が生まれるんですよ。
私は原子力発電には反対の立場をとっていますが、だからと言ってその代替エネルギーがソーラーや風力だとは思っていません。
コストを考えたって代替になりえるわけがない。
(原発のコストが異常に高いことを認めれば多少違うんだけど)
代替はコジェネを採用した天然ガスによる高効率発電に決まっています。

話が逸れたかな、ソーラー発電を否定するわけではありませんけど、固定買い取り制度で儲かるから自然を壊してまで設置するってのはまったく本末転倒ですね。
休耕田とか企業誘致に失敗した工業団地とかいくらでもあるでしょうに。
せめて大規模ソーラー発電を許可するかどうかの審査には環境負荷の項目を入れて審査すべきですよ。
でも所詮許可するかどうかは地域独占の電力会社の買い取り枠への申し込みと電力会社の許可によって決まるんだろうから、環境負荷なんてしったこっちゃないのかな。
なんかなぁ~。
 

Re: 食べマルシェ

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年 9月24日(水)11時43分0秒
返信・引用
  > No.933[元記事へ]

momongaさんへ

> ただ一つ、道北各地からの出店者にそっぽを向かれはじめるような企画だけは避けるべきでしょうね。
そこはバランスだと思います。
道北各地からの出店者でも力のある商品をもった店や地域はそれなりの高額なブースを作ればいいと思います。
逆にローカルを排除するわけじゃなく、粗末でも安いブースで活気のある商品を売ればいいしその辺りはバランスなんだと思うんです。今のように全部一律で運動会テントでというのは違うんじゃないかと、、、。

> 私は札幌のオータムフェストには行った事がありませんが、
> 先日の道新に、出店料が最低でも30万以上で場所によって100万以上になるという記事を見て驚きました。
> 開催期間が15日間という事もあるでしょうが、所詮テントブースにこれだけ高額な出店料はいかがなものか・・・。
> これだけ高額で、しかも15日間も人を派遣できる出店業者ってかなり限られてしまいますよね。
> 私は15日間は長過ぎると思います。
期間は別として100万円の出店料って本当ですか?
最低でも30万円というのもビックリですが、逆にみればそれに見合った売り上げがあるってことですよね。
最低1日2万円になりますが、まぁ10万円くらい売上げればいいのかな。
分かりませんが、旭川の場合はそんなには取れないでしょうね。
あれだけの人が出て売り上げはどうなっているんだろ。

> あと、食がテーマでありながら絶対的に食べるためのスペースが少な過ぎる。
これは圧倒的にそうですね。
如何に心地のよい空間を作るかが最大のテーマなんだと思います。
そうとうに考え直す必要があると思いますよ。
例ですが札幌の駅前大丸前でも食のイベントをやっていますが、
ここにセイコーマートのブースがありました。
これが格好いいんですよ。
セイコーマートのイメージなんてそれほど高級ではないですが、
演出次第でこんなに変わるんですね。
旭川では無理なんでしょうか。

また秩父別に緑のナポリタンというご当地グルメがありますけど、
これが札幌のオータムフェストに出店していました。
それがおしゃれなブースで人もかなり入っているんです。
それが食べマルシェだと普通のテントで売るだけですよね。
これを見たときに、「あ、このままでは商品力のある商品は
食べマルシェではなく、オータムフェストに取られてしまう」と思ったんです。

ぜひとも食べマルシェ関係者には危機感をもって企画を練り直して頂きたいと思います。
入場者がいるからOKではないとおもうんだよなぁ。
 

Re: 天塩って?

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年 9月24日(水)11時01分15秒
返信・引用
  momongaさんへ

> これはもう、何と言ってもまず川の名が先です。
あ、やっぱり。明治初期の地図を見ても川の名前だらけの地図ありますものね。
そんな気はしていました。

> 「石狩場所」「天塩場所」で、語源はもちろんそれぞれの川の名です。
場所という言葉が市町村の前にあったのですね。
勉強になります。
川に名前があってその次に和人が定住したのが海べりであり河口付近というのが自然な流れでしょうね。
なのでそこに場所ができ、それが市町村になってゆく、なるほど。

> 上川定住和人第一号の鈴木亀蔵は、この石狩場所の請負人だったと言われています。
石狩場所って、今の石狩町ですか?亀吉さんは上川定住のまえに石狩場所にいたのですか?


> 大雪山系に和人による現在の山岳名が付けられたのは明治に入ってから、それも主に上川の国見が行われた前後の事です。
> なんせ北海道の内陸部は最後の最後まで秘境でしたからね。名付けも一番最後です。
> 石狩岳の名は石狩川の源流である事がわかってからこの名が付けられました。
そうなんだぁ。
目印になるような大きな山はアイヌなんかの名前が付いていたでしょうけど、そうでないのは後から和名をつけたのでしょうかね。
山の名前がアイヌ由来ばかりでないのはそのせいなのかな。

 

エコが聞いてあきれる

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年 9月23日(火)18時54分14秒
返信・引用
  今年の春先、まだ残雪の多く残る頃、春光台の一画でかなり大規模な雑木林の伐採が行われました。
場所は新道沿いの末広7条7丁目付近。
丘の上はちょうど福祉村と呼ばれる地区です。

生えてる樹木根こそぎ伐採する皆伐で、鬱蒼としていた緑の春光台の一画が数百メートルに渡って禿山となりました。
写真を見ての通り、豊かな雑木林で覆われていた斜面が毟り取られたように醜い地肌を晒しています。
しかも抜根した根をそのまま無造作に斜面に残しています。
まるで土砂崩れか地すべりでも起きた跡のような状態です。(実際このままだとそうなりかねない)



せっかくの豊かな樹木をここまで大胆に削り取っていったい何をしようというんだろう?
また新たな福祉施設でも造るのだろうか?
丘の上に何か造るにしても、斜面の中腹までこうも無残に伐採する必要があるだろうか?



この春から注視していた疑問でしたが、どうやら見えてきました。
なんと、メガソーラーです。
斜面の樹木まで伐採したのは、木陰を排除するためだったようです。

まったく開いた口が塞がらない、とはこの事です。
何がエコ(ロジー)?
何が再生可能エネルギー?
どこが環境にやさしいエネルギー?



実を申せば私は前々から”発電事業”としての太陽光発電や風力発電に大きな疑問を持ってる人間です。
個人や法人が、自家電力・補助電力として、家の屋根や社屋の屋上などに設置する分には大いにけっこうだと思います。
しかしながら、公共の電力源としての太陽光発電や風力発電は、その発電能力に比べコストがあまりに高過ぎます。
電力会社の既存の発電コストに比べ、数十倍もの高いコストがかかっています。
にも関わらずここ数年急速にこれらが増えているのは、単に原発が止まっているからという訳ではなく、
電力会社が一定量以上これらの電力買い取りを義務付けられているからに他なりません。
これら事業者は、高い電力でも電力会社に買い取ってもらえる事を前提として”売電商売”を成り立たせてるに過ぎないのです。
つまり、ソーラー発電や風力発電が増えるほどに電力会社の原価は上がり、我々が払う電気料金にも跳ね返るという事になるのです。
『再生可能エネルギー』なる言葉ばかりがもてはやされていますが、
実はこういうからくりが存在するという事を知っておいたほうが良いのではないでしょうか。



でもって、話を戻しますが、
『再生可能エネルギー』『環境に優しいエネルギー』といった言葉に乗じた売電業者が続々増える中、
このように豊かな自然を破壊してまでソーラーパネルを並べる意味っていったい何なんでしょうね?

 

Re: 天塩って?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年 9月20日(土)15時12分39秒
返信・引用
  > 山と川と町、それぞれに同じ名前を持つ関係にあるものがどんな順で名前が付いて行ったのでしょうね。

これはもう、何と言ってもまず川の名が先です。
なんせ和人が蝦夷地に入り込んだ時にはすでにアイヌ人によって名付けられていましたから。
基本和人はそれに漢字を充てただけですね。

町の名はその町によって名付けられた時期が大きく異なりますが、
石狩や天塩に限って言えば、松前藩によって設けられた『場所』が始まりと言えると思います。
「石狩場所」「天塩場所」で、語源はもちろんそれぞれの川の名です。
場所というのは言わば松前藩の出張所みたいなもので、当時は主にアイヌとの交易が目的で、民間の請負人がこれに当たったと聞きます。
上川アイヌも石狩場所を通じて交易していました。
上川定住和人第一号の鈴木亀蔵は、この石狩場所の請負人だったと言われています。

山の名が一番後ですね。
幕末に近藤重蔵や松浦武四郎が天塩・上川の調査をしていますが、川の源流調査まではしていません。
松田市太郎という人が初めて石狩川源流調査をしましたが、この時源流とした位置は間違いだったようです。
大雪山系に和人による現在の山岳名が付けられたのは明治に入ってから、それも主に上川の国見が行われた前後の事です。
なんせ北海道の内陸部は最後の最後まで秘境でしたからね。名付けも一番最後です。
石狩岳の名は石狩川の源流である事がわかってからこの名が付けられました。

 

Re: 食べマルシェ

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年 9月20日(土)13時36分26秒
返信・引用
  まあ、現状でこれだけ集客力を持っているイベントですから、企画的には色んな事が可能かと思います。
ただ一つ、道北各地からの出店者にそっぽを向かれはじめるような企画だけは避けるべきでしょうね。

例えば、大きな目玉企画や目玉ブースを設けるのは良いとして、
結果、人の集まる目的がもっぱらそちらに偏ってしまうとか、その企画のために出店料が上がってしまうとか、
せっかく遠方から出店してる方々にとってのメリットが薄まってしまうような事だけは避けた方が良いでしょうね。
あくまでメインは道北各地の食にある、というスタンスだけは崩すべきでないと思います。

私は札幌のオータムフェストには行った事がありませんが、
先日の道新に、出店料が最低でも30万以上で場所によって100万以上になるという記事を見て驚きました。
開催期間が15日間という事もあるでしょうが、所詮テントブースにこれだけ高額な出店料はいかがなものか・・・。
これだけ高額で、しかも15日間も人を派遣できる出店業者ってかなり限られてしまいますよね。
私は15日間は長過ぎると思います。


ただ、確かに現状の食べマルシェは同じパターンでテントブースがだらだら長く続くという感じは受けます。
やはり途中途中で何か足を留めたくなるような企画ブースがないと、とても7条や常磐公園まであの人ごみの中を歩く気になれません。
おっしゃる通り、個々のブースも祭りの露店感覚と差別化した洒落っ気がほしいですね。
あと、食がテーマでありながら絶対的に食べるためのスペースが少な過ぎる。


このイベントをさらに発展継続させるため、関係者の企画力に期待したいと思います。


 

天塩って?

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年 9月19日(金)16時11分17秒
返信・引用
  面白いことに気づきました。
で、疑問が湧きました。
和寒の辺りを走っていた時に思ったのですが、「天塩の大地」とかって大きく書かれた建物があります。
あれ?この辺りって天塩かなんて思ったのですが、考えてみると天塩川という長大な川が流れてますものね。
で、思ったのが天塩町は天塩川の河口の町ですよね。
で巨大な天塩川があってその源流に天塩岳があるんですよねぇ。
そう考えると天塩なんて地域は巨大な範囲ですよね。
と同時にあれ?これってどういう順番で名前が付いたんだ?という疑問です。
天塩岳を源流として流れる川が天塩川、天塩川が流れ落ちる河口の町が天塩町なのかな。
考えてみると石狩川もそうです。
石狩岳を源流とする石狩川が流れ着く先が石狩町なんですよね。
山と川と町、それぞれに同じ名前を持つ関係にあるものがどんな順で名前が付いて行ったのでしょうね。
ね、momongaさん。
 

Re: 食べマルシェ

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年 9月19日(金)10時57分52秒
返信・引用
  > No.930[元記事へ]

momongaさんへ

食べマルシェ行きましたか。凄い人混みですねぇ。
私は今年は残念ながら行けませんでした。
最初は一回きりの企画だったんですか、知りませんでした。
確か電通かどこか大手の広告代理店でしたよね。
そのせいのような気がするんですが、食べマルシェって年々田舎臭くなってませんか?
最初の年は確かミクニのカレーとか目玉商品みたいな食材が何種類かあって、
それを楽しみにした記憶があります、残念ながら売り切れで食べられなかったんですが。
ブースの作り方にも特色があっておしゃれなマルシェの雰囲気があったと思います。
それに比べて、いまの食べマルシェはなんかサンロク祭りとそれほど違わなくないですか?
食をテーマにするイベントって実はけっこう難しく、過去に「世界食の祭典」という、大失敗イベントがありました。
これはもっとも失敗した博覧会として記録されています。
それに比べると旭川の食べマルシェは来場者数などの点からは十分に成功していると思いますが、これは企画が良いというよりは、旭川人の気質なんでしょうかね。
札幌ではこの期間「オータムフェスト」という食の祭典が15日間くらいのロングで開催されていますが、こちらもなかなかの盛況ぶりのようです。
旭川駅前から買物公園を通って緑道を通って常磐公園まで含むというかなりの距離の会場ですが、私の目からはどこをとってもあまりぱっとしないように思えるのです。
安い出店料でこじんまりと営業する店もあっていいと思います。
そういう店が全体を支えることも重要でしょう。
でも、逆にバーーーンと金をかけておっ!と思わせるような企画を持ったブースがあった方が楽しいじゃないですか。
洋食、和食、中華の巨匠の名前を冠する出店が売りあげを競ったりしてほしいな。
今年は醤油焼きそばとホルメンが競ったみたいですけど、ホルメンって企画としては面白いけど、精肉会社が作った決まったホルモンを使うという決まりがあって、なんか馴染めないんですよね。
まぁ、取り留めもなく書きましたが、食べマルシェが盛況であることは大喜びです。
ただ初年度の企画がかなり良くて、確か札幌のオータムフェストに大きな影響を与えたと記憶しています。
それに比べると、、、、、、。
ちょっとひっかかっています。
 

食べマルシェ

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年 9月15日(月)18時19分58秒
返信・引用
  昨日、チラっとですが行ってまいりました。
いやぁーすごい人出でしたね。
いつもながら思うんですが、食い物のイベントってどうしてこんなに人が群がるんでしょう?

私は例によってJRを使って街入りしたんですが、
普段、やや広さを持て余し気味の旭川駅が、この日ばかりは真っ直ぐ歩くことのできない込み具合でした。
駅前広場から平和通りにかけてはさらにひどく、真っ直ぐどころかなかなか前にすら進めない状況。
天気にも恵まれ、ちょうど昼時だったせいかどのブースも盛況で、人気店には長い列もできていました。
私もせっかくだから何か食べようと3条辺りまで歩いてみましたが、さすがにこの人ごみに嫌気がさして駅方向へ戻りました。
そこで何とか口にしたのが今まで食べた事のなかったしょうゆ焼きそば。
正直言わせてもらえば、名物として押すほど美味いとは思えません。
個人的には紅生姜の載った従来のソース焼きそばのほうが好きです。


この食べマルシェ、当初は旭川開基120年の記念行事として1回限りの開催予定だったそうですが、
これだけ大規模になり、これだけの集客力があるのだからもうやめられませんよね。





上:旭川駅7番線ホームから撮影。
  駅舎内は「駅マルシェ」と称してやはり道北各地からの売店が並んでいた。

中:旭川駅南通路に道北各地のゆるきゃらが集っていた。
  ピークを過ぎたと思われるゆるきゃらブームだが、思っていたよりもまだ人気が高いようだ。
  新しいキャラでアサッピーの幼なじみとされる「ゆっきりん」も登場していた。

下:そのアサッピーを形取った「アサッピー焼き」なるものが売られていた。
  あんこ・チーズ・ハムマヨの3種類があり、けっこう売れていたようだが1個200円はちと高い?
  ちなみに3個だと500円。
 

Re: 国立国会図書館

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年 9月 2日(火)11時03分3秒
返信・引用
  図書館の蔵書のしくみは詳しくは知らないのですが、
公立図書館であれば、所属する国や自治体の予算から購入するもの以外に寄付によるものも多いんでしょうね。
特に歴史関連資料は、買って手に入れてきたものはむしろ少数派ではないかと思います。

そのせいか面白いのは、旭川の図書館でも他のマチの市史・町史や関連書籍があったりしますよね。
同じことが他のマチの図書館にも言えるわけで、極端な例では神奈川県の図書館に旭川の電話帳があったりします。
つまり地元の歴史だからといって必ずしも地元の図書館が全てとは限らないわけですね。
人物や地域的な繋がりがある場合は、その先の図書館も要チェックです。

ただそうは言っても遠隔地の場合はそうそう行けるわけでもありませんよね。
その意味で図書館のデジタル化はたいへんありがたいものです。
http://kindai.ndl.go.jp/



> 驚いたことに現在国内で発行されているすべての書籍をここでは収集しているのだそうです。

これは驚きですね。
雑誌類までとなるといったい何十万いや何百万部あるのでしょうか?
よく大型書店をメガ書店(実際百万部置いてあるのかどうかは不明)と呼びますが、それでも国内発刊書籍のごく一部に過ぎないと聞きます。
今後も蔵書し続けるとなるといったいどれだけのスペースが必要になるんでしょうね。

 

国立国会図書館

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年 9月 1日(月)16時23分52秒
返信・引用
  私たちは歴史を解きほぐすために、図書館をよく利用しますよね。
その図書館の頂点に立つのが「国立国会図書館」という事になります。
旭川市立図書館も郷土の資料に関してはなかなか役に立ってくれますが、
もう少しというときには江別にある道立図書館を利用することもあります。
先日は北海道新聞の20年くらい前の旭川版を探していたら、旭川では図書館でも道新の支社でも見つからず。
道立図書館に旭川版のマイクロフォルムがありました。
そしてその頂点の国立国会図書館ですが、TVで紹介されていましたが
驚いたことに現在国内で発行されているすべての書籍をここでは収集しているのだそうです。
芥川小説でも少年ジャンプでも週刊実話でも女性自身でも、基本的には発行元が全ての本を一部づつ送付しているんだとは思いますが、考えただけでも気の遠くなる分量の取集ですね。
でも、これは未来にとってものすごい資料となるはずですよ。
で、そんな国立国会図書館の過去の資料を手に入れることができるのです。しかもネットから。
まずは無料ですが会員登録が必要です。会員請求は免許などの個人証明のコピーと一緒に申し込めば会員IDとパスワードが送られてきます。
それを使ってアクセスし希望する資料を特定してから必要記事かページを指定すればいいだけです。
例えば25年前の11月○○日発行の少年ジャンプのドクタースランプアラレちゃんが読みたいとなれば、そのコピーを請求することができます。
代金も送料手数料は多少かかりますが数百円です。
重要な資料はデジタル化されてネットからでも直接手に入れることができるものもありますが、そこはやはり限界があります。
それにくらべ複写サービスは過去のどんな書籍のコピーでも手に入れることができるのです。
これって凄いですよ。
問題は書類を特定する事なんです。いつ発行の何という雑誌の何ページが欲しいのかを明確にしなくてはいけません。
つまり向こうもこのサービスはアナログの手仕事なんでしょうね。
どの雑誌のどの部分が欲しいのかがわからなければ、コピーのしようがないですから。
試しに20年ほど前の週刊誌の記事を請求したら見事に送られてきました。
これって凄いです。
http://www.ndl.go.jp/jp/service/copy.html
 

Re: 神居古潭の濁流

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年 8月12日(火)11時23分17秒
返信・引用
  かんじさん危ないっすよ。^^;
よく大雨で流されちゃう人は、だいたいが川の様子を見に行ってやられちゃうんですから。

それにしてもあの吊橋、よく通行止めにならないもんですね。
それでなくとも『一度に100人以上渡れません』なーんて不気味な看板掲げてるのに・・・。
http://homepage2.nifty.com/momonga_farm/machi/pichtml/kamuikotan03.html


私が若い頃ですが、国道12号の神居古潭付近は大雨の度に冠水で通行止めになった記憶があります。
一度は土砂崩れの危険から、かなり長期間通行止めになったこともあります。
今よりずっと交通量の多かった札幌-旭川間の大動脈が神居古潭で寸断されたわけです。
当時はまだ高速もなく、道々多度志線も未舗装の山道だったのでずいぶんと不便を強いられました。
今でも自転車道路として随所に旧道が残っていますが、道路の位置が低かったので冠水しやすかったんですよね。
その後、岩見大橋や春志内・神居古潭トンネルができて、道路の位置も全体的に嵩上げされてからは冠水してないと思います。


でも、神居大橋は当時のままですヨ。

 

神居古潭の濁流

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年 8月11日(月)15時20分5秒
返信・引用
  8月5日でしたか台風の影響で大雨になって、鷹栖や名寄で被害が出ましたよね。
あの日わたしも心配になって(好奇心一杯で)(^^;石狩川に行ってみました。
何年か前に大雨で増水した時は忠別川が凄かったのですが、今回は石狩川がかなりの増水でした。
普段川が流れている部分を低水路と言い、公園になったりしている部分を高水敷といいます。
堤防はそこからさらに高くなっている部分です。
高水敷は公園にもなっている部分ですから普段は増水してもここまで水が来る事はめったにありません。
でも今回はこの高水敷まで来ましたねぇ。
そして前回書いたパルプ排水の工事個所まで水没してしまいました。
この時点で、雨竜川が危険水位を超えているというニュースが入っていましたが、雨竜川は遠いのでもっと身近な神居コタンはどうなっているのか?
行ってみました。すっごいですねぇ。こんな増水した神居コタンは見たことが無かったです。
それでも神居大橋は通行止めでは無く濁流の上にしっかりと立っていました。
わたしのような物好きが他にもいるようで、その時橋の上には4人の野次馬がおりました(^^;
 

Re: 日本製紙パルプ排水

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年 8月 1日(金)11時47分5秒
返信・引用
  へぇ~~~
そんなふうになってたとは知りませんでした。

給水の方は石狩川に取水施設があるみたいですから、工場までの間はたぶん地下を通してるんだろう、と思ってましたが、
排水の方は今でも牛朱別川に放流してるものとばかり思ってました。
昔のように色や臭いがないのは、浄化設備を整えたからだろうと・・・。
いつのまにそんな大工事をしたんでしょうね?


確かに昔は今では考えられないような公害を撒き散らしてましたね。
牛朱別川はパルプから下流は真っ黒、
石狩川との合流地点である旭橋の上から見下ろすと、川の半分で見事に2色に分かれていました。
神居古潭では、乱流によって廃液が泡立ち、妙に芸術的な模様を描き出していました。
さらに輪を掛けて、当時圧倒的に多かった市内の未舗装道路にホコリ止めとしてドロドロのパルプ廃液を散布してました。

当時は市民も鷹揚で、臭い汚いと言いながらもこれが旭川の臭いだ、みたいな風潮がありましたね。(ーー;)

 

日本製紙パルプ排水

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年 7月31日(木)15時45分41秒
返信・引用
  昔から日本各地の製紙工場は悪臭を放つ元凶でした。
悪臭を放ち真っ黒な汚水を垂れ流すという環境破壊そのものだった。
しかし時代の要請もありその環境はどんどんと改良され、臭いもかなり抑えられるようになってきました。
一方の汚水排水は旭川でもかなり大きな問題になったはずです。
昔は国策パルプの時代からその排水は牛朱別川に直接放流され、川を真っ黒にして悪臭を放っていました。
いまは、、、、、。
そう噂で聞いていたのですが、パルプの排水はパイプを使って旭川の街のずっと下流の方まで導いてから石狩川に放流していると。
そして先日ひょんなことからこの事実を確認する事ができたのです。
いま旭橋の下流側左岸(下流を見て左側)で工事をやっています。
ちょうど旭橋から新橋の間ですね。この工事を見学に行ったのですが、その説明でその工事がまさにこの排水を下流へと導く地下排水路の工事だったのです。
古くなったこの地下排水トンネルを新しいものに更新する工事だそうです。
「そんなんだ、こんなところにあったのか」と思いながらも私の関心は、「どこからどこまで繋がっているんだ?」という経路が知りたくなりました。
そこでまず単純に旭橋付近の左岸をGoogleMapで見てみると、、、、、。
「おお、この辺りを通っているんだ」そしてその動線をさらに下流域に持ってゆくと。
あったぁ!!
JRの近文の辺りにある鉄橋のさらに少し下流に、川もないところから汚水が石狩川にそそいでいるのが衛星画像で見て取れます。
こんなところから川へ流していたんですね。
となると、今度は上流部が気になりました。そこで上流へ遡ってGoogleMapを見てもよくわかりません。
そういえば牛朱別川左岸をここ数年ずっと護岸工事をやっていたんですね。
この排水トンネルがらみの工事だったんだ。
でもそれ以上はGoogleMapでは確認ができません。
なので現地調査しかありません(^^;
工事個所には確かにマンホールがところどころにあります。
これは排水トンネルの点検用についているものです。
しかしそれをたどっても境橋あたりでわからなくなりました。
今後は反対にパルプ工場の側はどこから出ているのか、車で走っただけではわかりません。
車から降りて牛朱別川右岸の堤防を歩いていると2カ所樋門がありました。
その樋門を見ると、ありました。下流側の赤い樋門に「パルプ排水樋門」と書いてあります。
工場の排水はここから出てきているんだな。
でもその樋門はゲートで仕切られ牛朱別川には流れ出ていません。
そして耳を澄ますと「ゴーーーッ」という水の流れる音がしています。
さらにはそれなりの悪臭も漂ってきます。
間違いなくここから排水が流れ出ていますが、川には出さずに牛朱別川右岸の堤防の地下を流れて行っていることが確認できました。
衛星画像をみるとパルプ排水樋門の辺りの工場側には丸い汚水処理の施設があることがわかります。確かにここだな。
これで排水路の始まりと終わりがわかったわけですが、一つ疑問があります。
始まりは右岸、出口は左岸?ん?どこで川をまたいでいるんだ?
これは難題です。現地をよほどつぶさに踏査しなくては見つからないことでしょう。困ったな。
と思っていたのですが、その後ネットで文献を調査したところ、この事業は流水保全水路整備事業という名前であることがわかり、詳しい資料がPDFで提供されていました。
それを見ると石狩川との合流部のちょっと上、市立病院の下、沈下橋のあたりかな。
あのあたりでサイホンという技術を使って牛朱別川のさらに下を潜って横断していることがわかりました。
http://www.hkd.mlit.go.jp/topics/singi/050201_2_3.pdf
 

牧草ロール

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年 7月25日(金)11時20分6秒
返信・引用
  思ったよりもずいぶん長く続いた「石山通り」論議ですが、そろそろ収束のようですね。
またこのような楽しい”謎”が出てくることを期待しています。
でもなかなか決定的な証拠が見つからないのはフラストレーションの原因になるのも事実ですね。(^^)




・・・ちょっと一服の意味で、先日撮った牧草ロールと飛行機のコラボの一枚。


私は飛行機が好きなので、気晴らしを兼ねてよくカメラを抱えて空港周辺へ走るのですが、
特に旭川空港は、空港周辺の離着陸コースに、障害物に遮られない撮影スポットが多く、
背景となる山々や丘陵地の畑などに恵まれているので、全国中から航空機撮影マニアが来ています。
この日もどでかいレンズを付けたカメラを構えてる人が何人もいました。
まあ、写真を見ておわかりの通り私はそこまで熱心ではないのですが・・・

一時期、空港保安用地に植えられたひまわり畑が有名でしたが、
ここ数年は着陸コース直下に牧草が植えられ、6月下旬から7月はじめ頃にかけてロールにされます。
それが写真のような様子となり、この時期限定の新たな名物風景となっています。

 

Re: 石山通まとめ

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年 7月12日(土)17時02分29秒
返信・引用
  かんじさんへ

>明治31年に鉄道が開通し、師団の建設が始まると忠別市街も活気づき、大量のインフラ整備が始まります。その時にどれだけの基礎材が必要とされたのかは想像するしかありませんが、おそらくその頃一気に需要が高まって大量の玉石や砂利が忠別市街へ運ばれたこ事が想像されます

明治30年代はおっしゃる通り旭川の都市形成が大躍進を遂げた時期ですよね。
先代旭橋のみならず、市街地を縦横に延びる街路の整備、
上川線(函館線)の開通と、引き続き行われた手塩線(宗谷線)十勝線(富良野線)などの鉄道工事と鉄道工場の建設、
それに何と言っても日本最大となる師団建設の歴史的大工事・・・
軍都として急激な人口増に伴う建築ラッシュ、
そして神谷酒造(日本酒精)ばかりではない、山崎・小檜山酒造など雨後の筍のように数多くの酒蔵ができたのもこの頃です。

おそらく、玉砂利や建築用石材はいくらあっても足りなかったのではないでしょうか。
建築用石材は美瑛軟石を運ぶだけではとても間に合わず、地元で焼く大量のレンガがそれに代わりました。
玉砂利は他でも採取されたでしょうが、やはり名前が残るだけあって忠別川石山が最大規模だったのでしょうね。




昨日、東光石山町内会の上流側、下1号線寄りの町内をちょっと巡回してみました。
野良仕事をしているお年寄りを見つけ、「この辺りも石山地区になりますか?」と尋ねてみたのですが、
「さあどうだろねえ・・、そこの道路は石山通りって言うんだけどねえ」といった返事。
住んで30年ほど経つそうですが、よくよく考えてみるとそれだと自分の記憶のほうが古いか(笑)

でも印象的なのは、この辺りの住民は”石山地区”意識はそれほど持ってないけども、”石山通り沿い”という意識は強いみたいですね。
この事は、
>採石場としての地域に始まった石山の名称は道路名称となり、便利な使い方としてどこまでも長い道路名称になり、同時に付近一帯に石山地区を広げてしまったように思えるのです。
というかんじさんの見解をそのまま裏付けていると思います。
やはり道路の呼び名の方が意識の上では強いんですね。
○○街道という呼び名が存在せず、中心部以外の通り名称に一貫性のない旭川では、たぶん唯一の地域特性ではないかと思われます。


実は私はこの石山通りという呼び名が好きです。
札幌の石山通りもそうであるように、おそらくこの名には歴史的背景に加え、その呼び易さが住民に親しみ続けられる理由だと思います。
街路整備が既に完了している今、地域実態とは異質な「南6条通り」なる整備用呼称はいい加減やめてほしい。
(もう既に市民であっても石山通りと言われても分からない人が多い)




>連投を申し訳なく思います。
>掲示板汚しであれば言ってください。(^^;

何をおっしゃる。
元々が旭川の歴史をメインテーマにしたサイトですから、掲示板でのこれほど楽しいやりとりはないじゃありませんか。
ロムってるだけの方々も多いと思います。
私が敢えてブログにせず掲示板形式に拘ってる理由がここにあります。
それよりもピタっと話題に入って来なくなっちゃったあずさんが気になるなぁ~
カウンターが強過ぎたでしょうか? ^^;



 

Re: 石山通まとめ

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年 7月11日(金)16時58分30秒
返信・引用
  > No.915[元記事へ]

momongaさんへ

> 私が上流方向の石山の範囲に拘る理由ですが、
> 実は先のレスで私が初めて石山通りの名を知った時のことを、バス路線の記憶のみで語りましたが、
> どうも記憶の底でそればっかりではなかったような気がしてならないのです。
> 他にも石山を名乗る何かが栗山ストアーの近くにあったような・・・
> 何かのカンバンを見たのか、団地とかの名称だったのか、とにかく石山地域を表す何かだと思うんですが、
> う~ん、思い出せない・・・(^^ゞ
>
石山の由来を調べて石山という地域が合った事はわかりましたが、
その後、石山という名前はどんどん拡大されて使われたように思います。
momongaさんの記憶というかイメージしている石山も東光のかなり広い範囲ですよね。
確かに下公有地開拓誌を読んでいると、石山ってかなり広い範囲で使われているように思います。
昭和44年の編集ですのでmomongaさんの若いころのイメージではないかと、、、。
ただその使われ方が、「下二号線の石山」とかいう使い方なんです。
つまり場所を表す際に、南北の基線となる「号外線、一号線、二号線、三号線、四号線、五号線、六号線」
にクロスするように石山道路全体を使って場所を表しているように思います。
「三号線の石山」とか「一号線の石山」とかです。
それとアイヌ道路と石山道路の使い分けですが、人によって違ったり住んでいる地域によって違ったりしているように思います。
金比羅神社に近いほうに住んでいる方は普通に全体を「石山道路」と言っていたように思うし、旭正に近いほうの人は「アイヌ道路」って使っていたのではないかと思えるのです。
なのでどこからが石山道路でどこからがアイヌ道路ではなく、全体を石山道路として使っている方も多かったし、東光18丁目辺りまでの石山道路沿い一帯を石山地区として認識していた方も多いのではないでしょうか?
この辺り一帯は下公有地として、旭川からも東旭川からも離れた独自の生活を送っていた場所でもあり、住所もあまり明確で無かったように思うのです。
皆さんが一番馴染んでいたのが、「号外線、一号線、二号線、三号線、四号線、五号線、六号線」という名称で、その通りに目印になるものを組み合わせて場所を示していたのではないでしょうか。
その目印に恰好だったのがアイヌ道路であり石山道路だったわけです。
前回話を聞いた東光8条5丁目に古くから住む円山さんは、普通に○号線と言っていましたし。
円山さんにとっては南6条通り=石山通り=アイヌ道路のように思います。
採石場としての地域に始まった石山の名称は道路名称となり、便利な使い方としてどこまでも長い道路名称になり、同時に付近一帯に石山地区を広げてしまったように思えるのです。


連投を申し訳なく思います。
掲示板汚しであれば言ってください。(^^;
 

Re: 石山通まとめ

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年 7月11日(金)11時38分8秒
返信・引用 編集済
  > No.915[元記事へ]

momongaさんへ

> 過去の地図を見ての想像ですが、旧アイヌ川そのものがかつての採石場だったと考えられないでしょうか。
> 明治の地図ではアイヌ川沿いは崖のように描かれてましたよね。

明治33年の地図を見て分かるのは当時の忠別川は一本の太い川ではなく最低でも3本の川から成っています。
3本はそれぞれかなりの落差を持っており、そこには崖が存在します。(河岸段丘)
そして3本の川は今回石山地区としてプロットした辺りで大きく蛇行しています。
上流を流れてきた川は今の緑が丘の高台にぶつかりその反動で、今回の石山付近に押し出されます。押し出された川は再び下流を目指すので蛇行となります。
つまり石山地区は地理的に言っても蛇行し土砂の溜まりやすい場所といえます。

明治の地図に見られる3本の川による段丘は大雨のたびに何度も反乱を繰り返したであろう忠別川が上流から大量の土砂や玉石を運んできて堆積を繰り返した跡そのものです。
そしてその後堆積された土砂の中で粒子の小さな土粒子がゆっくり流出し、大粒の砂利や玉石が残ったのでしょう。

明治31年に鉄道が開通し、師団の建設が始まると忠別市街も活気づき、大量のインフラ整備が始まります。その時にどれだけの基礎材が必要とされたのかは想像するしかありませんが、おそらくその頃一気に需要が高まって大量の玉石や砂利が忠別市街へ運ばれたこ事が想像されます。
今回の調査で石山と呼ばれる地域があった事がわかりましたが、その範囲は限定されたものではないと思います。
当時の正式名称としては上川郡東旭川村字ウシュベツチ○○番ですが、その中を石山、旭東、琴平などと呼び合っていたのでしょう。

> そう考えると、市街地寄りの金比羅神社付近からはじまった採石は、徐々にアイヌ川沿いに上流方向に向かって広がり、結果、下号外線の東側一帯までを石山と呼んでいた説明がつきます。

地域的にはmomongaさんが指摘する地域でよいと思います。

> アイヌ川沿いということはすなわちアイヌ道路沿いでもあるわけで、私がアイヌ道路がそのまま石山道路の”本線”だと言う根拠です。
> ただし、石山道路としての範囲はせいぜい下1号線辺りまでだと思います。

大正7年の地図をみるとアイヌ道路と忠別川の間には既に田畑が広がり忠別川との間を繋ぐ道路は下号外線と下一号線しかありません。
下公有地開拓誌には「正確には号外線からアルコール工場までを石山道路と呼ぶ」と書いてありますので、搬出ルートとしては忠別川から下号外線を通ってアイヌ道路を通って運んだと考えるのが自然です。
でも明治33年の地図と大正7年の地図の間には19年の期間がありますが、その間に川筋もすっかり変わってしまっていますね。
なので石材の搬出ラッシュは明治30年代のそれほど長くない期間だったのではないかと想像ができます。
ということは明治33年の地図に近い状態で石材の採掘が行われたとすると、号外線ができる前ですのでmomongaさんの想像どうりアイヌ川沿いが採掘現場となりアイヌ道路を通って石材が運ばれたでしょう。
バブルだったかもしれませんがその時にはアイヌ道路が下一号線付近まで石山道路となって大量の石材が運ばれ、それを機に「アイヌ道路→石山道路」となったのかもしれませんね。
PS.
参考までに明治31年に忠別川では歴史に残る大洪水が発生しています。
なので明治33年の地図は洪水後大量に土砂が堆積した状態のものでしょう。
その後明治37年に再び大きな洪水があり当時の旭川駅付近でも浸水などが起こっています。
この時にも川筋が大きく変わったであろうことは想像できます。
その後は大正11年まで記録に残る大きな洪水はありませんので大正7年の地図は明治37年の洪水で変わってしまったあとの川筋だという事になります。
つまり今回の石山地区で大量の石材が取れたのは明治31年後、明治37年までの期間であった可能性が高いのです。
それは明治31年からの復興&師団建設ラッシュの期間と重なります。
 

Re: 石山通まとめ

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年 7月10日(木)18時15分53秒
返信・引用
  かんじさん、さっそくの資料ありがとうございます。
ホントすばやいですね。(^^)

プロットしていただいた範囲を見ると、下号外線(現緑東大橋の通り)を中心とした旧アイヌ川周辺ですね。
「東光石山町内会」がちょうどこの緑東大橋通りの東側(2丁目)ですので、ここの町内会が本来の石山地区の名を継承したと言えそうですね。



過去の地図を見ての想像ですが、旧アイヌ川そのものがかつての採石場だったと考えられないでしょうか。
明治の地図ではアイヌ川沿いは崖のように描かれてましたよね。
たぶん少し土地が高くなっているところを川が削ったためにできた地形だと思われますが、
この付近のアイヌ川は、明らかに忠別川の氾濫・蛇行の産物だと思われ、この2つの川に挟まれた地域には大量の土砂をえぐった後の豊富な川砂利があったと思われます。

そう考えると、市街地寄りの金比羅神社付近からはじまった採石は、徐々にアイヌ川沿いに上流方向に向かって広がり、結果、下号外線の東側一帯までを石山と呼んでいた説明がつきます。
アイヌ川沿いということはすなわちアイヌ道路沿いでもあるわけで、私がアイヌ道路がそのまま石山道路の”本線”だと言う根拠です。
ただし、石山道路としての範囲はせいぜい下1号線辺りまでだと思います。
なぜならここを過ぎると、蛇行しているアイヌ川は一旦アイヌ道路から離れ、土地を削ったような地形も無くなるからです。
つまり石の運搬で使用したアイヌ道路もこの辺りまでだったではないでしょうか。


私が上流方向の石山の範囲に拘る理由ですが、
実は先のレスで私が初めて石山通りの名を知った時のことを、バス路線の記憶のみで語りましたが、
どうも記憶の底でそればっかりではなかったような気がしてならないのです。
他にも石山を名乗る何かが栗山ストアーの近くにあったような・・・
何かのカンバンを見たのか、団地とかの名称だったのか、とにかく石山地域を表す何かだと思うんですが、
う~ん、思い出せない・・・(^^ゞ
 

Re: 石山通まとめ

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年 7月 9日(水)10時00分27秒
返信・引用 編集済
  > No.913[元記事へ]

momongaさんへ

> 合わせて石山と呼ばれる地名もやはりあったという事ですね。その範囲に興味があります。
ご希望にお答えして調べてみました。
石碑の裏にあった名前を検索して住所をしらべて地図にプロットしたものを添付します。
石山のおおよその位置を感じることができますね。
これを見ても採石場所(石山)が「金毘羅神社の裏山」という記述は正解であると思います。

PS.
昨日、時間が無かったので住所プロットを増やした画像に差し替えます。
赤が石山
青が旭東
緑が琴平
です。
 

Re: 石山通まとめ

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年 7月 8日(火)17時23分49秒
返信・引用
  かんじさん、調査活動たいへんご苦労さまでした。


琴平というのは金毘羅さまの総本山の地名のようですから、あるいは関係者を指してそう呼ぶのかと思ってましたが、
なるほど、実際に金毘羅神社周辺を本山にあやかってそう呼んでたわけですね。
合わせて石山と呼ばれる地名もやはりあったという事ですね。その範囲に興味があります。

私は当初、石山という姓がその由来であろうという仮説を元に、古い文書を中心に”石山”を探していましたがとうとう見つかりませんでした。
”石”と聞くと、建築用の石材をイメージした事から「そんな山はなかった」という思い込みがあって石の運搬説を外していたわけです。
同じ石でも川っ淵から採取される玉砂利までは思い及びませんでした。
なるほどそれだったら”石”の運搬は充分あり得る。
石山の”山”は、自然の地形を言い表したというより、たぶん採取した砂利を山にして積んでいたという事じゃないのかな。


思うんですが、砂利の採取はその需要量を考えると、忠別川とアイヌ川(現東光川)の付近でかなり広範囲に行なわれたのではないでしょうか。
金比羅神社に近い所からはじまって、上流方向にどんどん採取範囲を広げて行った事は充分考えられます。
ですから石を運ぶ道路も、当初の金比羅神社ルートばかりでなく、アイヌ道路から枝分かれしたいくつかの運搬用道路が上流側にもあったのでは?
現在の住所で言うと、東光11~15条1~3丁目の付近ですね。
だとすれば、運搬ルートの基線であったアイヌ道路の下1号辺りまでが当時からの”石山道路本線”だったではないでしょうか。

そこから先はおそらく電気軌道説?に代表される「後付け」だと思います。
ちなみに私は、現在の東光域を出て旭正方面に至るアイヌ道路の奥まで石山通りと呼ばれているのを聞いた事がありません。

 

石山通まとめ

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年 7月 2日(水)18時01分39秒
返信・引用 編集済
  なんか少し煮詰まった感もあるのですが、石山通の起源についてまだ調べていました。
石山通という言葉の由来は石を運んだ通りだからという事はほぼ間違いのないところですが、もう少し確証の欲しいところでした。
そこで前回こんぴら公園の石碑の裏に書かれていた、琴平、石山、旭東、について金比羅神社の関係者であればわかるだろうと思いましたが神主のいない神社は誰が管理しているのかわかりません。
なので金比羅神社に関係のありそうなところを調べると、旭川では東旭川の旭川神社が旭山の金比羅神社と関係があるようです。
そこで旭川神社に出かけてみました。神社で宮司さんにいろいろ聞いたのですが、旭正にある金比羅神社は管理下にあるものの、東光の金比羅さんはよくわからないとのこと。
でも、そこに書かれている人の事であれば、東光に住む円山さんが100年以上前から住んでいるのできっと何かわかると教えてくれました。
そこで今日石碑の裏に書かれた名前について円山さんを訪ねてきました。
結果として琴平、石山、旭東は地名であるという事です。
琴平は金比羅神社の周辺の事を琴平と呼んでいたそうです。
石山もそこに書かれた人の名前からだいたいの位置はわかりましたが、正確には決まっていないようです。旭東もそうですが住所ではありません。当時はっきりした名称のなかった地域ですので、自然と呼ばれていた地域名なのだと思います。
結論ですが「石山」は地域名です。
そして、石山通は石を大量に運んだ道路だったので石山道路と呼ばれていたものです。
なぜ石を大量に運んだかですが、文献にあった明治37年旭橋架橋の際大量に運んだという記述の裏は取れなかったものの、もう一つの有力な説として明治時代旭川の街はまだまだ整備されておらず、師団通りでさえぬかるみや湿地などひどい状態だったそうです。
そこで街を整備するためにそこに大量の石を投入し基礎固めを行った事実があるそうです。
ひどいところでは家一軒分くらいの深さまで石を投入しなければしっかりとした地盤にならなかったということで、基礎材としての玉石を大量に必要としたという事です。
この事実は忠別川から大量の石を運んだ石山道路の説と完全に一致します。
先の報告で明治期にはあの辺りに大規模な起伏にとんだ地形があり、そこから大量の石材を旭川市街地に運んだその通りが「石山道路→石山通」であると結論付けていいのではないでしょうか。
ただ、実際に石材を運んだ道路部分を超えて旭正へ続くアイヌ道路全体を石山通りと呼ぶようになったいきさつは不明なものがあります。
今日会った円山さんもその辺りは不明確でした。
東旭川町史によると大正期に町内の道路を台帳に記することになり、そこにはアイヌ道路という道路名が出てきます。
なので基本的には全体が「アイヌ道路」だったのでしょう。
それがいつしか石山道路に変わっていった、さらには旭川市の都市計画道路として南6条通として正式に書類に載るようになり現在に至っているという流れです。
PS.
円山さんは、東旭川の兵村記念館の理事長でした。
PS.PS.
石山道路は石を運んだだけでなく、逆に旭川市街からは畑に撒くために大量の糞尿を運んだ道でもありました。石を運んで糞を運んで帰ってきたのかな。

 

Re: 南6条通っていつから

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年 7月 2日(水)12時52分1秒
返信・引用
  > No.910[元記事へ]

momongaさんへ

> そういえば、忠別橋から両神橋にかけては、これといった通り名を聞いた事がありません。
> 強いて言えば「神楽本通り」かな?
> それこそ明治時代の、吊り橋じゃないけど吊り橋通り、みたいな味のある愛称があるといいのに・・・。
> 旭川大橋ができる前までずっと12号線で呼ばれてたせいかな?
> かんじさん、質問と共に何か提案してみたらどうですか?

歴史ある神楽の本通りですが、現在は都市計画道路としては「神居旭山線」の一部としか言いようがないですね(;_;)
この通りは神居6条10丁目を起点として、両橋を渡りそのまま旧牛朱別川を埋め立てた斜め道路を通って、常盤ロータリーを抜けて9条通りをひたすら旭山に向かって続く旭川のなかでも最も長い都市計画道路です。
でも元を正せば昭和12年には「神楽通」と「9条通」いう名前でした。
昭和40年に「9条旭山通線」として9条通が延長され、昭和47年に神居と繋がって「神居旭山線」となり神楽の名称が消えてしまいます。その後「神居旭山通」と名称が変わって今日に至っています。
計画道路としては長い一つの管理路線でしょうが、住民にとっては場所場所によってそれぞれに歴史を持った通りの連続ですね。
愛称でも構いませんが、神楽通や9条通などキチンと定義してもらいたいものです。
クリスタル通などでは無くね。
そうそう美術館の前の斜め通りは「牛朱別川通」でも面白いかも(^^)
このあたりの名称の決め方ってどうなっているのでしょう。
計画路線名なんて生活になじみのない名前は市民にとってはどうでもいい話で、管理者が使えばいい記号で十分な気がします。
逆に市民に日頃使われる「通り名称」こそキッチリとした時代考証の上で市民の納得のゆく名称を付けて頂きたいと切に希望します。

 

Re: 南6条通っていつから

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年 6月30日(月)17時50分5秒
返信・引用
  かんじさんへ

「緑橋通」「永隆橋通」「金星橋通」などが橋梁名を元に付けられた路線名という事なんでしょうね。
これら古くからある橋の名を元に付けられた路線名はまだマシというものです。
ただし、その橋の名前自体が近年ロクでもない名前を付けられる事が多いですけどね。

私が最も嫌いなのは「緑東」とか「豊永」とか、ほとんど名前を考える気がないような名前の付け方ですが、
それ以上に、地域とはまったく脈絡のない命名をされる事に腹立たしさを覚えます。
しかもそれが、元々地域に根ざしているものがあるにも関わらず、それを無視してまで命名されると、これはもう怒り心頭です。
有吉とマツコの世界ですね。(失礼・・)

その典型が「クリスタル」ですよね。
「クリスタルホール」の命名までは良かったと思うんですよ。
その後も「クリスタルパーク」「クリスタル通り」そしてとどめが「クリスタル橋」・・・(゜o゜)
これ、その内に、駅の観光案内所や道の駅で「クリスタル製品はどこへ行けば手に入りますか?」って聞いてくる観光客が現れるんじゃないかと思います。



> ならば是非とも美瑛橋が両神橋に変わったいきさつを聞かせてほしいですね。

この件でふと気が付いたんですが、
そういえば、忠別橋から両神橋にかけては、これといった通り名を聞いた事がありません。
強いて言えば「神楽本通り」かな?
それこそ明治時代の、吊り橋じゃないけど吊り橋通り、みたいな味のある愛称があるといいのに・・・。
旭川大橋ができる前までずっと12号線で呼ばれてたせいかな?
かんじさん、質問と共に何か提案してみたらどうですか?


> おおーーー、良い地図をお持ちですね。
> ぜひ分けてほしいです。

私の持ってるコピーのコピーで良ければいくらでも差し上げますが、
私もこれ、何年も前に図書館でコピーしてもらったものなので、B4に分割されている上にあまり状態が良くありません。
図書館であらためてコピーしてもらったほうが良いと思いますよ。


> この南6条通りをアイヌ通りまで通して昭和12年に南6条通りという名で計画道路としていたとは、当時の計画の早さには驚かされます。
> まぁ、都市計画の早さという意味では上川の開発そのものが明治20年ころからキッチリと地域ごとに区分けされた計画に沿って開発が進んでいますからねぇ。

ただし、南地区については計画は早かったものの、実際の道路整備が後手後手に回ったのがはっきり見て取れますよね。
計画時のような綺麗な区画になってませんし、中心街と比べるとあの辺りはずいぶんと狭くてどん詰まりのような道路ばかりです。
特に大正橋に近い辺りはほとんどぐちゃぐちゃのままですよね。
(1条通りから大正橋へ繋がる斜線通りも以前は狭くて昔の街道風だった)
 

Re: 南6条通っていつから

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年 6月27日(金)10時23分52秒
返信・引用
  momongaさんへ

> 『都市計画街路の路線名は、地名、橋梁名等をもとに、都市計画法による法的手続を経て定められておりますことから、
> 路線名の変更については慎重に検討すべきものと考えます。

橋梁名もですか。
ならば是非とも美瑛橋が両神橋に変わったいきさつを聞かせてほしいですね。
質問してみようかな。


> 結局その後何の音沙汰もなく「神楽三条通り」の青い標識の下には「クリスタル通り」なる白い標識が付けられましたが(--〆)
神楽3条通りがクリスタル通ですかぁ、ドキュンですね。
クリスタルなんてイメージだけでなんの背景もない言葉ですよね。
神楽3条とクリスタルの関係性について問い詰めたい気分です。



> 下図1枚目は大正15年に旭川市が編集した市街地図です。
> 南6条通りは実際にはまだ宮前側の一部にしか存在してませんが、旭川市域内の住所は既に南8条まで記載されています。
> 発行者の志賀金治とあるのは旭川冨貴堂の創始者です。
おおーーー、良い地図をお持ちですね。
ぜひ分けてほしいです。
私の持っている昭和6年の地図でも南5条通りまでしか載っていないし予定と書いてあるので、大正15年の地図に南8条通りまできっちり載っているのは、当時としては珍しいですね。
相当に先を見越した都市計画図ということになるでしょう。
この南6条通りをアイヌ通りまで通して昭和12年に南6条通りという名で計画道路としていたとは、当時の計画の早さには驚かされます。
まぁ、都市計画の早さという意味では上川の開発そのものが明治20年ころからキッチリと地域ごとに区分けされた計画に沿って開発が進んでいますからねぇ。
 

Re: 南6条通っていつから

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年 6月25日(水)22時49分24秒
返信・引用
  かんじさんへ

以前、「神楽3条通り」の名があまりにもつまらないから「離宮通り」にしませんか?と電子提案箱に投稿した時に市から来た返事です。


『都市計画街路の路線名は、地名、橋梁名等をもとに、都市計画法による法的手続を経て定められておりますことから、
路線名の変更については慎重に検討すべきものと考えます。なお、市内の道路におきましては、正式な道路名とは別に、
市民の皆様からのご要望をもとに検討させていただき、名称板を設置している路線もございます。・・・後略』


つまり、正式な路線名変更は面倒くさいが、愛称ならば市が独自でつけられますよ、ということですね。
国道や道道はもちろん、市道であっても都市計画街路指定されると補助金が大きく絡みますから、いかにも役所らしい理屈で名称ひとつとっても手続きが色々と面倒なんでしょうね。
結局その後何の音沙汰もなく「神楽三条通り」の青い標識の下には「クリスタル通り」なる白い標識が付けられましたが(--〆)

この時に、同じ道路にも関わらず何故異なった路線名を表示してる標識があちこちにあるのかを知った訳ですが、
市の見解を見る限り、単に名称板を取り付けるだけといったニュアンスで、いかにも軽いですよね。
そもそもこの正式な路線名とやらを決める段階で、ほとんど歴史伝統が考慮されてるとは思えません。
市には、もっと自分のマチの歴史というものを尊重しろと言いたいです。



下図1枚目は大正15年に旭川市が編集した市街地図です。
南6条通りは実際にはまだ宮前側の一部にしか存在してませんが、旭川市域内の住所は既に南8条まで記載されています。
発行者の志賀金治とあるのは旭川冨貴堂の創始者です。

下図2枚目が昭和23~24年の都市計画街路計画図の1/4抜粋です。
環状線の計画がまだありませんね。


 

Re: 南6条通っていつから

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年 6月25日(水)10時11分24秒
返信・引用
  > No.906[元記事へ]

momongaさんへ

> 確たる証拠はないのですが、私は”都市計画街路名”は当初から一貫して「南6条通」だったと思います。
> でもって、問題の南6条通りですが、
> S12年時点で、明確な南6条通りというのはまだ存在しなかったかもしれないですが、住所は大正時代から既にありました。

えーー、それもビックリですね。
確かに路線の変更過程を見ても名称の変更というのが出てこないので変だなと思っていたんです。
昭和12年の時点で既に南6条通ですか、石山道路は南2条通りに接続されていたのにね、改めてビックリです。
ということは石山通はあくまでも愛称としての通り名なんですね。
ちょっと疑問なのは昭和19年に東旭川村の一部が旭川に編入されるまで、25丁目辺りから先は東旭川村ですよね。
ということは昭和12年に都市計画道路の決定の時には石山通のほぼ全体が旭川ではありません。
それでも都市計画に含まれていたんですねぇ?

PS。
それにしても先にmomongaさんが言っていたように、市は通りの名前に愛着が無さすぎるというか勝手に変更が過ぎると思います。
歴史も何も踏みにじっていますよ。
以前常磐通りと昭和通りとの関係を調べた時も、いつのまにか昭和通が旭橋の向こうまで伸びて、神楽の大雪アリーナの付近がら昭和通りになっていたのにびっくりしましたよね。

 

Re: 南6条通っていつから

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年 6月24日(火)23時53分46秒
返信・引用
  かんじさんへ

へぇ~~、ずいぶんと古い、戦前からの街路計画だったんですねー、初めて知りました、驚きました。
当時の石山道路(アイヌ道路)なんて、旭川市街からずいぶん外れた馬車道に過ぎなかったでしょうにね。
私の手元にS23~24年の都市計画街路図があって、それには確かに載っているのでてっきり戦後の計画かと思ってました。


確たる証拠はないのですが、私は”都市計画街路名”は当初から一貫して「南6条通」だったと思います。
かんじさんも既にご存知かと思いますが、今の道路名標識は、主たる名称(青い標識)と、その下に市が別途制定する言わば愛称(白い標識)に分かれて別々の名称が表記されてますよね。
私はこの青の工事用名称みたいな表示はやめてほしいと常々思ってますが、要するにこちらが役所の使ってる都市計画街路としての正式名称ではないでしょうか。
それについては全線一貫して「南6条通」になっています。
ちょっと言葉足らずでしたが、先のレスで私が言ってた市が使う名称というのは、全て白い方の標識についてです。
白いほうの名称が、石山道路になったり南6条道路になったりある日突然変わったりしているのです。


でもって、問題の南6条通りですが、
S12年時点で、明確な南6条通りというのはまだ存在しなかったかもしれないですが、住所は大正時代から既にありました。
当然将来的な街路としての南6条通りは存在していたと言えます。
宮前西の旭川機関区付近からこの沿線には、国鉄旭川工場や合同酒精など、当時の旭川を代表する工場がありましたから、
これら主要工場を結ぶためと、将来的にその先へ延びる放射道路が計画されたのではないでしょうか。
たまたま延長線上に石山道路(アイヌ道路)があったので、それに結ぶ計画を立てたのだと思います。

S23~24年の計画でも3号まで延びているんですよね。
当初から現在のような4車線道路を計画したとは考えづらいですが、
ほぼ今の計画になったのが東光が急速に発展しはじめたS47年なんでしょうね。

 

南6条通っていつから

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年 6月24日(火)17時56分4秒
返信・引用
  調べてもわからないので質問です。
今私が追っている石山通はいまは南6条通ですよね。
旭川の資料を見ると、都市計画道路一覧というのがあって、これには
南6条通
延長5220m、幅員22m、車線4、
当初決定S12.12.10 内務省告示 718号
最終変更H15.10.21 北海道告示1858号
起点 宮前通西
終点 東光16条7丁目
となっています。
当初決定はS12年と旭川のなかで最初に都市計画路線として決定した31路線に入っています。
でも、S12年だと南6条という通りはまだありませんよね。
では都市計画路線は何という通り名だったのでしょうか?
S47年に起点・線形が大幅に変更されているので、これが南6条通の計画だと思います。
その前はやはり都市計画通名称も石山通だったのでしょうか。
そうだとすると石を運んでもいない、アイヌ道路の長い区間に早い段階で石山通と
名付けたのは電気軌道ではなく犯人は旭川市の都市計画そのものだという事になります。

http://www.city.asahikawa.hokkaido.jp/files/tosi_kei/tosikei_gaiyo/data/all.pdf
 

嫌いだ旭川

 投稿者:通りすがりの者ですが  投稿日:2014年 6月23日(月)23時32分16秒
返信・引用
  なんか生き急ぐ車の運転
コンビニで買い物してるだけでも
後ろが近い
こだわりが強いクセに
流されやすい
行動する前にウンチクで悩む
のくせコメンテーター
 

Re: 石山通?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年 6月23日(月)16時05分50秒
返信・引用
  かんじさんへ

とうとう個人宅への飛び込みまで試みましたか。^_^;
いや、気持はわかります。私もそうしたいところですが、プライベート調査の限界を感じます。


2号止まりの石山線があったということは、やはり石山集会所付近は単なる通過点よりも路線との結びつき意識が強かったと考えて良さそうですね。
当初のかんじさんの推測はほぼ当たってたじゃないですか。
私も改めてこの付近をクルマで通ってみましたが、偶然にも電気軌道の豊島会長の家があるのを見つけてしまいました。
バスプールの存在と合わせ、これらの事はここの町内が電気軌道との関わりが強く、石山の名を名乗っている事と無縁でない気がします。



ところで、ちょっと話が逸れますが、
南6条通りの新神楽橋付近にある道路名標識ですが、今は《南6条道路》となっていますが、
実はあれ、JR高架が完成する前、まだ宮前跨線橋があった5年くらい前までは《石山道路》の表示だったんですよ。
私も初めて気が付いた時「あれ?」と思いつつ、その時はあまり深くは考えませんでした。
つまり、南6条通と石山通りが接続されて以降、つい最近まで市は、旧宮前通りとの交差点までを石山通りとしていたのです。
たぶん、今の北彩都・氷点橋まで延長工事した時に《南6条道路》に変えたんだと思いますが、まったくちゃらんぽらんです。
本来の石山通りを全く無視していたのも問題ですが、どうしてこんなに簡単にコロコロ変えるのか?
宮前通りにしても、元々上川神社に向かう参道だからこう呼んでいたのに、今は宗谷線を挟んで宮下通りに平行する新設道路を宮前通りとしています。

由来も実態も無視した、何の脈絡も一貫性もない名称の付け方をするのは旭川特有なような気がします。
些細な事のようで、こんな事を繰り返す限りいつまで経ってもせっかくの歴史の積み重ねがリセットされてしまいます。
今回の”石山通り論議”にしても、結局のところ、こういった本来の由来を無視したルートや名称を被せられていなければ、これほど苦労する事はないはずですよね。
昔ながらの石山道路のルートに名前がそのまま残されていれば、少なくともそのルートから名前の由来がある程度推定できたというものです。
(電気軌道の路線名は別に間違いではないので、この路線名によって派生した事象は仕方がないと思いますが)
区画整理などで道路事情が変わってしまった場合、せめて残された旧道に《旧○○道路》の名称くらい付けておいてほしいものです。

この調子だと今から50年後にも『この道路がどうして宮前通りなんだろう?』なーんて、いらぬ苦労をする人が出てきそうですね。


すんません。
また行政への不満話になってしまいました。m(__)m
 

Re: 石山通?

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年 6月18日(水)15時26分34秒
返信・引用
  > No.899[元記事へ]

momongaさんへ

> ちなみに同じ石山線でも、栗山ストアーもしくは2号止まりと、4号まで行く2系統があったとか?
> もしあればもちろん時刻表に載ってたでしょうけど・・・。
その通りです。
昭和44年の時刻表には2号までが日に7便、4号までが日に3便となっています。
その後昭和45年の時刻表では総て4号線までですが、日に5便になっています。
この時に旋回所ができたのかな?

> 一番多いのはやはり最終目的地=路線名でしょうけど、この場合、最終目的地に指標となるものが何もない(笑)
全くですね。あえて言えば千代田とか共栄なんでしょうけど、旭川の地名の不思議なところで地名が一か所の地域を表していないんですよ。
古くは今の1条通り2条通り、、、、を明治時代にはち通とか寺町とか呼んだりしていましたがどこまでも細長い範囲を示していますし、今でも大町や旭町はものすごく長い範囲を表しています。
同じように千代田も南北になが~い範囲であり、一つの地域を意味しませんよね。
住所という意味では何町の何丁目でピンポイントに場所が特定できますが、町名だけではわからないというのが旭川の不思議なところです。
たぶん碁盤の目に切った都市計画が先にあったので、このような町名の発想が生まれたんでしょうね。momongaさんこれも旭川の不思議に加えてくださいよ(^^)

これに対して石山という言葉ですが、これは地域を表していると思います。
再び調査したのですが、今の大和神社の場所に「金毘羅公園」という場所があります。
そこには石碑があり、そこの裏にいろいろ書いてありました。
「金毘羅神社を残すために市に土地を寄贈して公園として残すという趣旨です」
そこのに氏子として数十人の名前が書かれているのですが、
琴平---○○○、○○○、○○○、、、、、、、、、、、、、、。
石山---石川輝夫、○○○、○○○、○○○、、、、、、、、、、、、、、。
旭東---○○○、○○○、○○○、、、、、、、、、、、、、、。
と書かれています。
琴平は金毘羅神社の関係者かな?
石山と旭東は地域を表していると思うのです。
石山の先頭に書かれている石川輝夫さんは、近くの大地主です。
最初にビビリながら大豪邸を訪ねたのですが、誰も出てきませんでした。
たぶんこの石川さんに聞けば、石山の名前の由来はわかると思います。
「この辺りは昔から石山と呼んだんだよ」と言いそうですが。
私の意見をまとめますと、最初にアイヌ道路ありき。
次に金毘羅神社辺りから石材を運んだ為その辺りを石山と呼び、市街へ続くアイヌ道路を石山道路と呼ぶようになった。
次第に石山の場所の概念は薄れ、石山アイヌ道路などと言った。
そんな時旭川電気軌道が昭和29年4号線までの区間に石山線を開設。
(路線名には慣れ親しまれた石山という地名を付けた)
石山アイヌ道路はいつしか石山通と呼ばれるようになった。
昭和52年旭川電気軌道の石山線は廃止され南6条通が開通。
南6条通りの一部に「石山通」という名前が残された。
ps.
いまあえて道路名を付けるのなら、東光8条1丁目から東光16条5丁目を「アイヌ道路」
そして南2条通21丁目の「あそんべ屋」から啓明小の前を通って、北電の変電所の前で曲がって東光7条1丁目あたりまでを「石山道路」と名付けたいものです。

> 電気軌道が石山線と名付けた理由がわかるとこの問題かなり解決するんですけどね。
まさにこれですね。

 

Re: 石山通?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年 6月18日(水)11時36分28秒
返信・引用 編集済
  下記画像、ちょっと分かりづらいのでもう少し拡大します。
(後で気付きましたが、もしかしてバスのワンマン化で転回場所が必要になったのかもしれません)
 

Re: 石山通?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年 6月17日(火)18時21分45秒
返信・引用
  かんじさんへ

なるほど、そうでしたか。4号線までとはまたずいぶん奥まで走ってたんですねー。
それにしても、航空写真を見る限りなんでこんなところが終点?と思いたくなる周辺環境ですよね。


>momongaさんが乗ったのは東光線ではなかったですか?

そう言われてみれば、初めて乗ったバス路線で龍谷高校のところを曲がったような記憶が薄っすらあるので、実際に乗ったのは東光線だったかもしれないですね。
終点の栗山ストアー付近で、石山通り側のバス停を見ただけだったのかもしれません。
同級生からも事前に利用できるバス路線を教えてもらっていたはずですしね。
確か近くにバスの待機場所なんかもあったので、ここが全てのバスの終点と記憶インプットされたんでしょうね。



>旭川電気軌道は思ったよりずっと長い区間を石山線として設定したのでした。
>これって疑問の後戻りかなぁ。

ちなみに同じ石山線でも、栗山ストアーもしくは2号止まりと、4号まで行く2系統があったとか?
もしあればもちろん時刻表に載ってたでしょうけど・・・。
S42年の航空写真には写ってない明らかにバスの転回のためと思われる丸いスペースがS46年に写ってるので、
もしかしたら4号が終点になったのは最初からではなくこの4年の間の事かもしれませんよ。
(この付近他に折り返しできそうな道路や場所がない)

それはともかく、石山線がそれだけ長い路線だったとして、
バス路線名に中間の経由地や経由道路の名称を使うこと自体はけっして不思議な事ではないと思います。
一番多いのはやはり最終目的地=路線名でしょうけど、この場合、最終目的地に指標となるものが何もない(笑)

問題は石山線のバス道路が、どの辺りまで地元住民に”石山通り”として定着していたか、ですよね。
私の認識では、割と古くから住宅街を形成していた旧栗山ストアー周辺までは間違いなく定着していました。
(私自信ここで石山通りを知った訳ですし、何故か?むしろこちらが石山通り本家のような気もします)

その先は昭和50年頃から急速に発展した住宅街で、しかもその後南6条通りの名が被ってきますから、定着度合いとしては薄い気がします。
ただし、件の石山集会所の近くにこの頃既に同じ石山通りを通って来る東光曙線の終点ができているという事は、
ここが石山通りを通る市内バス路線の終着的色合いが強くなったわけで、栗山ストアーからの延長で石山の名が使われたような気がします。
でもって、これより先はいよいよ農村道路なのでアイヌ道路のままで呼ばれた・・・。

ちょっとこじつけっぽくなりましたが、バスの終点がポイントかな、という私の現状での推論です。
電気軌道が石山線と名付けた理由がわかるとこの問題かなり解決するんですけどね。
(逆にまた振り出しに戻る可能性もありますが・・)



国土地理院地図・空中写真閲覧サービスより
 

Re: 石山通?

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年 6月13日(金)16時56分58秒
返信・引用
  momongaさんへ

> 当時ここは「栗山ストアー前」といって、確かこの辺りがバスの終点でした。
> この点、件の石山集会所のところを当初からの終点とするかんじさんの見解は誤りではないかと・・・
> それとも私の記憶違いかな?

石山線の路線を調べてきました。
一番古い資料で昭和44年の時刻表があったのですが、ビックリの結果です。
わたしもmomongaさんも間違い。
石山線の終点は、、、、なんと、、、4号線、となっています。
これはS52年に廃止されるまで変わりませんので、たぶん当初から4号線が終点だと想像します。
S44年の時刻表の途中のバス停を書くと
旭ビル前→変電所→2号線→4号線  となっています。
momongaさんが乗ったのは東光線ではなかったですか?
東光線なら1条回りか4条回りですが、栗山ストアーが終点になっていました。

という事で訂正があります。
下公有地開拓誌の記述から私は「石山通り線開設」と書きましたが、
時刻表の表記では「石山線」でした。通りという表現は載っていません。
S44年以前の記録はわかりませんが。
もう一点は石山線の終点がはるか先の4号線であった事から。
旭川電気軌道は思ったよりずっと長い区間を石山線として設定したのでした。
これって疑問の後戻りかなぁ。

添付写真は昭和51年の路線図ですが、南6条通りが出来ていないので、バス路線は確かに変電所の前を通っています。
まさに石山道路を走っていたわけです。
32の路線が奥まで続いていませんが、32番は東光曙線です。
石山線はこの時点で一日1便しか走っておらず路線番号はついていません。
路線だけが太く書かれているだけです。
昭和44年には一日7往復していましたが年々減便され最後は一日1便になり、
南6条通りができる前年に廃止になっています。

 

Re: 石山通?

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年 6月13日(金)10時27分33秒
返信・引用 編集済
  momongaさんへ

> むむむっ! 電気軌道による”犯行”説ですか!?
そうですねこれはもはや犯罪に近いです(^^;

> 実は私が石山通りの名を知ったのはけっこう古くて昭和46~7年頃の事です。
> 当時ここは「栗山ストアー前」といって、確かこの辺りがバスの終点でした。
> この点、件の石山集会所のところを当初からの終点とするかんじさんの見解は誤りではないかと・・・

昭和44年の資料では東光は4丁目までで、その先は下二号線とか千代田の地名ですね。
昭和37年の写真を見ても17条付近にはバスプールどころか家もまばらです。
11条付近はさすがに町が出来始めていますね。
当初から終点が石山集会所という私の推論はもろくも崩れですね。
図書館で電気軌道の資料をあたったんですが、古い路線図の中で一つだけ石山通りに関する路線図がありましたでも終点名は忘れちゃったな。もう一度調べてきます。
最初の終点が東光11条3丁目とすると、「石山通」の標識が今も残る区域と合致します。
石山通りがその後街の発展にともなって石山集会所まで伸びたとする方が腑に落ちますねぇ。

>だとすれば、採石場と実際のルート・範囲が違いすぎる、という私の疑問も払拭されるというものです。
>およよ、どうして今まで思いつかなかったんだろう・・・

もう一つ私が電気軌道の犯行が臭いと思う理由は名前なんですが、
当初石材を運んだのは「石山道路」です。古くからの名称も「アイヌ道路」です。
それに対して現在残されている名称は「石山通」なんです。
「どうろ」から「どうり」に変わった大きな原因は昭和29年の「石山通り路線の開通」だと思うんです。
このことからも当初の石山道路の区間を超えて、石山通を人々の中に定着させたのは電気軌道の路線名ではなかったのかと思うのです。
 

Re: 石山通?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年 6月13日(金)10時08分50秒
返信・引用
  補足です。
当初の東光は旧東町を改名した時の、各条4丁目まででした。
その後千代田の字名を全面的に廃して全て東光とし、現在の9丁目(一部10丁目)までとなっています。
確か愛宕を廃して豊岡を拡大したのも同時だったと思います。
 

Re: 石山通?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年 6月12日(木)22時08分15秒
返信・引用
  むむむっ! 電気軌道による”犯行”説ですか!?
今まであまり気に留めてなかったんですが、よくよく考えてみると多いに可能性有りですね。^_^;


実は私が石山通りの名を知ったのはけっこう古くて昭和46~7年頃の事です。
たまたま同級生の家が東光11条3丁目にあったので、バスに乗って何度か遊びに行きました。
この時に初めてそこまでの道路やバス路線が石山という名で呼ばれている事を知ったわけですが(知ったというだけですが)
当時ここは「栗山ストアー前」といって、確かこの辺りがバスの終点でした。
この点、件の石山集会所のところを当初からの終点とするかんじさんの見解は誤りではないかと・・・
それとも私の記憶違いかな?

栗山ストアー付近は言わば東光発祥の地みたいなところで、何故か飛び地のような形で古くから集落を成しており、
平屋の長屋形式の市営住宅なんかもたくさん並んでいました。
住所こそ既に東光になっていたものの、当時の東光の一番奥地であり、ここから先は田んぼばかりでまだ千代田の名も残っていたと思います。
でもって、今思い起こすと、要するに電気軌道の当初の石山線というのはもっと短かったという事ですよね。

その後の東光の住宅街の広がりに伴って今の終点になったのだと思いますが、
この事はすなわち、かんじさんがおっしゃる通り、
電気軌道の石山路線が延長される事によって、石山通りの名称も延長されて呼ばれるようになった可能性は充分ありますね。
だとすれば、採石場と実際のルート・範囲が違いすぎる、という私の疑問も払拭されるというものです。


およよ、どうして今まで思いつかなかったんだろう・・・
 

(無題)

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年 6月11日(水)16時44分19秒
返信・引用 編集済
  >あずささんへ
こんにちは、こういう調査は楽しいですね。
美瑛軟石説、momongaさんの反論に負けずさらに調査しましょう(笑)

>momongaさんへ
東光石山集会所、行ってきました。
お年寄りが中で麻雀を楽しんでいましたので中に入って聞いてみました、なぜここの集会所が「東光石山」なのかと。
でも誰もわかりませんでした(笑)疑問にも思っていなかったようです。
でもある情報を得られました。その集会所が建っている場所は旭川電気軌道から借りていると。
そして過ぐ横を見るとそこは旭川電気軌道の巨大なパスプールでした。
これが何を意味するのか、何を連想させるのかと言いますと。
妄想の大きな私はこう想像したのです。
「旭川電気軌道が昭和29年に石山通り線を開通させたとき、このパスプールが終点折り返し地点だった」
と。
ここにバスプールがあるという事はここが拠点だった証拠です。
つまりこの通りを全面的に石山通と名付けたのは電気軌道ではないかと。
「東光石山集会所」という名前ですが、東光という名前が付いているという事はそれほど古いものではないですよね。
東光が町名になるのは昭和30年代?かな。
なので集会場が命名された時、あの場所は既に石山通り線の終点だったわけです。
そこに作ったので石山の名を付けたのではないかと想像しました。
また、集会場のある場所は東明石山町内会という場所でした。ここにも石山が付くのですが、
電気軌道のバス路線として石山通りが有名になってしまってから後に命名されたものは
石山通りという路線近辺であればどこに石山の名前が付いてもおかしくは無いとなったのではないでしょうか?
本当に石を運んだ石山道路は、金毘羅神社裏から酒造会社までの短い区間。
その道路を通るバス路線を開設し今の東光石山集会所までを石山通り線と決定したのが電気軌道。
この為に、路線全体が石山通と認識されるようになった。
(この説はmomongaさんの頭には無かったでしょ)
どうでしょうか、年代的に間違いを犯していないか少し心配ですが。
なにか矛盾ありますかねぇ。


 

Re: 石山通?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年 6月11日(水)12時14分59秒
返信・引用
  >あずさんへ

あずさん、お久しぶりです。
”参戦”ありがとうございます。

また新たな説の登場というわけですね。では、さっそく反論を・・・(笑)

美瑛軟石の採取は、美瑛町HPによれば明治39年から始まったという事ですので、
この頃は既に道路も鉄道も整備されていましたね。
旭川へ運ぶとすればやはり馬車と鉄道が一般的ではないでしょうか。

コストの安い(と思われる)川を使った運搬もけっして否定はしませんが、
美瑛からの運搬に忠別川を使うというのはかなり無理があるのではないでしょうか。
私も美瑛軟石がどの辺りで切り出されていたのかは知りませんが、
置杵牛川、辺別川、いずれにしても美瑛川に合流して旭川に向けて下ってくる事になると思います。

美瑛川をそのまま下れば神楽や曙・亀吉島付近に着いて、後は旭川のどこへ行くにもほぼフラットな道を馬車で行けるのに、
それでなくとも重い荷物をわざわざ途中で積み替え、西御料や聖台の丘陵地帯を越えて忠別川まで運ぶでしょうか?
目的地によっては距離が近くなるかもしれませんが、私はこれは非現実的だと思います。

今話題となっている石山が、もし美瑛川沿いの話であれば可能性として非常に大きいんですが・・・。




>かんじさんへ

> momongaさんは採石所としての石山の範囲はもっと広く上流とお考えのようですが、その根拠は何でしょうか?

根拠らしい根拠はありません。
私はこういった会館のような建物に名が残ってる場合、昔そこが石山という地名で呼ばれていたからだろうとまず仮説を立てるわけです。
でもって、その地名の由来が採石場にあるとすれば、やはり採石場が近くになければおかしい、と思うのです。
ですからもし金毘羅神社よりももっと上流でも採石が行われていた事実が見つかれば、私も採石由来説に賛同するでしょう。

当時この道路は、周り田んぼの中をせいぜい馬車が通れる程度の道が延々と続いていたと思います。
一般論ですが、こういった郊外道路に名を付ける場合、その先に〇〇があるから〇〇道路(街道)、という呼び方をする事が多いのではないでしょうか。
つまり、もし金比羅神社付近だけでの採石が由来ならば、その金毘羅神社付近までが石山道路と呼ばれるのであって、
その先の距離的にもっと長い、しかも向かう方向の違う道路までそう呼ぶのは非常に不自然だと思うのです。
しかし、もし現在のツインハープ付近でも採石が行われていて、その付近が石山という俗称で呼ばれていたならば、現在の石山通り(南6条通を除く)とも矛盾しません。
(その先はアイヌ道路のままだと思います)


大正時代の旭川近辺の遺跡発掘をした調査記録が残ってますが、
その中に「東旭川村南公有地石山」という地名が記載されています。
この具体的な場所は特定できないのですが、今の東光近辺のどこかであると思われます。



 

Re: 石山通?

 投稿者:あず  投稿日:2014年 6月11日(水)02時52分30秒
返信・引用
  momongaさん、かんじさん、ご無沙汰です。
久々にお邪魔しますね。

とても興味の湧く話題で、お二人の考えを楽しく読ませていただきました。

実は個人的な疑問を解決するヒントを得たような思いです。
その疑問は、お二人にとっても何かしらのヒントになるのかなぁ~と思います。

まず最初に言っちゃいますが、そのキーワードは何か…。
それは「美瑛軟石」です。

私は建築関係を生業としているのですが、札幌には「札幌軟石」があり「石山通」があります。
しかし、旭川市内に「美瑛軟石」を使用した建築物(構造物)が多く現存するものの、どのように運んだのかその輸送ルートについては謎だったのです。

ご指摘のように東光のあたりで「石山通」の文字を見た記憶はあるものの、まったくリンクしませんでした。

今回、お二人のお話を読ませていただいて、ひょっとして…と思いました。
ま、違う視線もあるということで、あずさんは「美瑛軟石説」でお願いします。(笑)

ただ、その運搬ルートは川を使った輸送だったのかは謎ですが、1899年(明治32年)9月1日に北海道官設鉄道の旭川-美瑛間が開業され、同時に辺別駅(現:西神楽駅)・美瑛駅が開業しています。

ちなみに旧偕行社の基礎部分に軟石が使われています。建設は1902年(明治35年)。
旭橋の橋脚も軟石ですが、1904年(明治37年)、工事期間から逆算すると同時期かと…。
1898年(明治31年)7月16日には、北海道官設鉄道上川線の空知太駅 - 旭川駅間が開業しますので、札幌軟石が移入された時期もあったかもしれませんが、この頃には近場の美瑛軟石だったと思います。

さて、ここからは想像ですが…。
現在の東光地区の忠別川沿いには、美瑛軟石の集積場は無かったのだろうか。
鉄道が出来る前の輸送を考えるなら、重い石を陸送することは困難だったかと…。

川を利用するにしても、水量をあるでしょうし、ある時期(春の融雪時や大雨の後)にある場所へと流さなくてはいけません。それが置杵牛川から美瑛川なのか、山を越え辺別川からなのかは想像の域を超えませんが、もし東旭川方面での需要があったのなら、石狩川まで下り牛朱別川を遡っただろうか思います。

もし東旭川方面へ運ぶのなら、どこかで陸に上げる。
美瑛川と忠別川が近くなる、現在の環状線あたりだとしたら、まさに東光のあたりに…。
橋はあったのかなかったのか、渡し船があった記述でもあれば裏付けが取れそうです。

もうひとつの謎はどこで加工したのかと言うことですが、少なくとも加工品を輸送するリスクはとらないと思います。ここらへんのことは石屋さんからの裏付けがあればと思います。

それから季節と言うものも考えてしまいます。
当時の道路事情を考えると、夏場の陸送は厳しいものがあったかもしれません。これは冬場に山から木を切り出す造林作業をイメージしたのですが、春から夏にかけて石を集積し冬に馬橇で陸送する。そんなことが行われていたかもしれません。

上記の想像が正しければ美瑛の石山から集積された石が、秋には東光のとある地にまさに石の山になっていたことがあったのかもしれません。

そんな地に住みはじめた人々が、川沿いに石の山があり石を積んだ馬車や馬橇が行き交う道を、やがて石山通と…なんてストーリーはどうでしょう。

 

Re: 石山通?

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年 6月10日(火)20時05分58秒
返信・引用
  > No.890[元記事へ]

momongaさんへ

> やはりどうしても、採石場としての石山の範囲や運搬ルートが、実態と違い過ぎるのではないかという疑念が払拭しきれないのです。
> 石山のツーツはもっと上流側にあるはずだと・・・。
momongaさんは採石所としての石山の範囲はもっと広く上流とお考えのようですが、その根拠は何でしょうか?


> 東光18条6丁目に今でも石山集会所という小さな会館がありますが、
> ここは今の環状線を越えたさらに上流側に位置しており、金毘羅神社付近からは相当に離れた場所です。
調べてみなければわかりませんが、この集会所のできた時期がそれほど古くなく、既に石山道路の名が通っていたのなら、この路線付近であれば「東光石山」の名前が付いても不思議ではない可能性がありますね。

あくまでも仮説ですが、石山(採石場)は複数あった可能性もあり、それが混乱させているのかもしれません。金毘羅神社→アルコール会社のルート以外でもアイヌ道路上で石材を運んでいた場所があるのかもしれませんよ。
 

Re: 石山通?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年 6月 9日(月)17時30分9秒
返信・引用
  かんじさんへ

>当時の記録に石山さんが登場すればいいのですが、、、、。
>と思い、「下公有地開拓誌」を再度じっくり眺めてきました。
>そうしたら明治期の入植者名簿があったのですが、残念ながらその中に「石山」姓の方はいませんでした。

そうなんですよ、私が確証持てないのもまさにそこなんです。
それでなくともこの近辺の入植当時あるいはそれ以降の資料がなかなか見つからないのに、
やっとそれらしき資料を見つけても石山という姓が出て来ない。
大きな農場であったり、同じ姓の入植者が何軒もあったりすればどこかに登場しそうなんですが・・・。

現在の石山通り沿いに数多くの石山姓を発見した時は、「してやったり」と思ったものですが、
実際に現地を巡ってみたところ、昔から住んでいそうないかにも元地主農家らしき石山さんは見当たりません。
これだけで判断できませんが、肝心要の2代前3代前の石山さんが見つからなければ根拠も途切れてしまいますよね。



ただそうは言っても、採石に由来するという説も今一つ納得できないところが多々あります。
やはりどうしても、採石場としての石山の範囲や運搬ルートが、実態と違い過ぎるのではないかという疑念が払拭しきれないのです。
石山のツーツはもっと上流側にあるはずだと・・・。

東光18条6丁目に今でも石山集会所という小さな会館がありますが、
ここは今の環状線を越えたさらに上流側に位置しており、金毘羅神社付近からは相当に離れた場所です。
旭川では、元々は農地だった地区の施設名や寺社・学校名に名前が残ってるのは、たいていの場合、正式字名・俗称問わず、そこにそう呼ばれる地名があったからです。
(東光豊岡地区では千代田・朝日や愛宕がいい例ですよね)
ずいぶんと離れている採石場に繋がる道路が通っているという理由だけで、会館にまで名前が残るというのはちょっと首を傾げざるを得ません。
やはりこの近辺に地名(俗称)として石山があったと思えてならないのです。

もし採石場に由来するとすれば、採石は実際には金毘羅神社付近に留まらず、忠別川やアイヌ川の上流方向にもっとかなり広い範囲で行われていて、
少なくとも現在のツインハープの辺りまで採石が行われていたというなら辻褄が合いますが・・・。




PS:アイヌ道路はおっしゃる通りアイヌ川に沿って延々二中のところまで続いてますが、
   後に全部が全部石山道路に置き換わったわけではないと思います。
   私が持ってる僅か10数年前の道路地図でも東光を出たところでしっかり「アイヌ道路」と記載されてました。



 

Re: 石山通?

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年 6月 3日(火)16時56分23秒
返信・引用 編集済
  > No.888[元記事へ]

momongaさんへ

おおっ!
momongaさんは名前説ですか。
確かに石を運んだ説にはいくつかの無理や矛盾があります。
1.金毘羅神社から合同酒精までの短い区間の名前がアイヌ道路全体に適用されるだろうか?
2.川石を運んだだけで石山という名前になるだろうか?
3.道路の名前が地名や町内会名になるだろうか?
等々

で石山姓を名乗る家が街道沿いに点在するというmomongaさんの調査はさすがですね。
ただし石山姓説でもその根拠がちょっと薄いですね。
当時の記録に石山さんが登場すればいいのですが、、、、。
と思い、「下公有地開拓誌」を再度じっくり眺めてきました。
そうしたら明治期の入植者名簿があったのですが、残念ながらその中に「石山」姓の方はいませんでした。
石山姓が登場するのは大正末期から昭和初期にかけての選挙人名簿の中に「石山文蔵」という方が登場しますが、さして大物でも無いようですし、道路や地名に名を残すような方には感じませんでした。
その他開拓誌には活躍した人やさまざまなエピソードも書いてありますが、その中にも石山姓の方は登場しません。

私的には昭和44年の開拓誌編纂の時に過去を知っている方が、石を運んだから石山通と言うのであれば、そちらがの説の方が有力に思えます。
インタビューに答えている方は著名な方のようですので、石山姓から付いたのであればさすがにそれは覚えていると思うのですよね。
石を運んでいた明治37年頃未だ石山さんはいないと思われます。

現在の旭川第二中あたりまでが当初から「アイヌ道路」だったことは疑いようのない事です。
それがいつ頃何故石山通りと呼ばれるようになったのかがポイントですね。
石山アイヌ道路という言葉も登場するのですが、当初は全体をアイヌ道路と呼んでおり、石材を運ぶようになってから、今の東光8条1丁目辺りからアルコール工場にかけての部分を石山道路と呼んだのではないでしょうか?
そのうちに石山アイヌ道路と言ったりしていたように思います。
石山通りを決定づけたのは旭川電気軌道が昭和29年にバス路線として、運行を始めてからアイヌ通りという言葉は使わないでしょうから石山通りとして長い区間に定着したのではないでしょうか。
昭和29年には現在の宮前通東に続く道路は出来ていませんので、バスは昔石材を運んでいた石山通りを通っていたわけです。
最近通ってみましたが、この斜め通り幅はかなり狭いものの、小さな崖の上に沿って走っており、昔から乾いていた100年以上前のアイヌ道路というのがなんとなく実感できます。

それから地名として石山という言葉が出てくるという事ですが、確かに下公有地開拓誌にも石山に住んでいる○○さんという記述がありました。
これってどこでしょうね?
たぶんですが現在の東光8条2丁目あたり、まさに今の石山町内会がある辺りではないでしょうか?
添付の地図は明治33年のものなのでどこまで正確かはわかりませんが、石材をとったという金毘羅神社の裏あたり、赤丸の部分ですが明らかに大きな崖がありますね。
今よりもはるかに起伏にとんだ地形だったようです。

 

Re: 石山通?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2014年 5月31日(土)11時40分44秒
返信・引用
  かんじさんへ

私にご指名があったんですか。光栄です(笑)


石山通は由来が簡単に分かりそうで、これまた資料がなかなか出てこない難問なんですよね。
たぶん、然るべき人に聞けばあっさり分かる気がしないでもないですが・・・。

でもって、確証がある訳ではありませんが、結論から言うと私は「石山さん」に由来すると考えています。


まずは、旧石山道路のルートですが、私の認識を現在の地図に当てはめたのが下図です。(ボケててすみません)
一条通20丁目あるいは22丁目付近から、南・東光に残る斜めの旧道を経て忠別川に平行する形で延々と続きます。
最終的にはアイヌ川沿いに東川村に向かって続いてたようですが、どこまで続いてたのかははっきりしません。
30年くらい前、この石山ルートに南6条通が幹線道路として宮前側から接続され、
ひっくるめて石山通で統一すれば良いものを、わざわざ全ルートを南6条通なる味もそっけもない名称で呼ぶようになったわけです。


私も最初はこの沿線のどこかに採石場でもあったのかな、と考えましたが、
ご存じのようにこの近辺は忠別川を渡らない限りどこまでもフラットで、札幌の石山のような採石山は皆無です。
歴史家さん言われたように、採石できたとしても川淵から出る砂利程度でしょうね。

かんじさんが調べられた、金比羅神社付近と旭橋架橋やアルコール会社(神谷酒造の事だと思いますが)のための石材運搬説ですが、
私は名の由来とするには範囲が限定され過ぎる気がします。
実際その後石山道路と呼ばれ続けているルート・方向と随分大きく異なりますよね。
何よりも「山」でもないのに「石山」と呼ぶだろうか?
私が知ってる石山通りは、むしろその名の原点はもっと広範囲、東光になる前の「朝日」「千代田」と呼ばれた地域全体にあると思います。
もちろん問題の金比羅神社付近も含んでいます。


明治・大正時代にこの沿線では、俗称だと思いますが、
「字牛朱別石山」「東旭川村下共有地石山」など、地名として石山が使われていたようです。
旧牛朱別と東旭川村の旧下共有地ではかなりの距離があり、石山の名が現在の東光の広い範囲に及んでいた事がわかります。
金毘羅神社付近での採石を根拠に、そのずっと奥まで石山の名が使われているのはどう考えても不自然です。

ただ私もさすがに、これは同じ石山の地名を使うにしてはあまりに広過ぎるなと思い、もしかしてここで言う石山は農場?と疑いました。
明治期の屯田以外の一般殖民では、地域ぐるみの集団入植が普通でしたから、同一姓が複数いてもおかしくはない・・・。
つまり、牛朱別の石山農場、下共有地の石山農場、といった具合です。
色々当たってみましたが、この近辺の入植状況を個人名まで記録した資料って見つからないんですよね。


そこで最後?の手段、古い電話帳ですが、東光付近の石山姓を拾ってみました。

あるわあるわ(笑)

それが下図の赤丸でプロットした場所です。
ものの見事に石山通沿線に9件もの石山さんが存在するではありませんか。(省きましたが宮下19丁目にも2件)
ちょっと離れてこの延長線、東川との境近くにももう1件あります。

石山という姓はそれでなくとも少数派ですので、これは単なる偶然ではないでしょう。
やはりこの近辺には明治期の集団入植で、複数の石山さんが一帯を開墾したのではないでしょうか。
何件もある石山農場を縫うように続く道だったので石山道路と呼ばれたのではないかと思うのです。
実はこの件、私にとっても何年も前からそのままになってる課題です。



PS:石山姓は全国的には少数派ですが、都道府県別にはかなり偏りが多く、山形、新潟などに集中してるようです。
  これらの県からの入植者が多いせいか、実は旭川も割と石山姓が多いみたいですが、
  これだけ集中しているのは石山通り沿線だけです。
 

Re: 石山通?

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年 5月30日(金)19時28分50秒
返信・引用
  新しくわかった事
石山道路の解説に出てくる金毘羅神社ですが、やはり想像どおり現在の大和神社が
ある場所が金毘羅神社でした。
2002年に旭川市が調査した鎮守の森の調査の中に出てきます。
「金毘羅神社の森」となっている住所が東光9条1丁目5番15号となっています。
つまり石材を運んだ石山道路は

> 【かんじの仮説】
> 大正時代の地図を見ると牛朱別というのはかなり旭川の街に近い部分のようだ。
> 号外線から合同酒精というとかなり近いところ、が本来石を運んだ通りだった。
> 石山道路の名前がアイヌ道路全体に適用された。
> 今の南6条通り全体が石山通と認識される。

で間違いないかと。
残る疑問は運んだ石材が旭橋の建設に使われたのかどうか、
そして忠別川の川原の石だったのだろうかという課題が残ります。
(郷土史家さんは兵村の建設に使われたのだから明治のもっと早い時期だと思っていました)
(でも石材を取った場所と運んだルートから言って旭川市街地方面へ運ばれた可能性が高い)

旭橋の建設に使われたのだとしたら石山通と旭橋が結びついてロマンがありますね。

 

石山通?

 投稿者:かんじ  投稿日:2014年 5月29日(木)17時21分37秒
返信・引用 編集済
  南6条通に「石山通」という表示があるという書き込みが地域BBSに上がっていて、
momongaさんに調べてよなんて書いてありました。
変わって私が調べ始めましたが、なかなか面白い調査になっています。
南6条通りを走っていると確かに、富貴堂のあたりから11条4丁目あたりまでの間には、南6条通線という標識の下に「石山通」という標識があります。
なぜここが石山通なのか、、、、、、。ふふっ、面白い。
で、まず単純に近所の人は知っているかなと思い、公共的で昔の事に詳しそうな、ということでそこにあったキリスト教の教会に聞いてみました。
若い神父さんでしたがハッキリとは分からないとのこと、でも噂では「このあたりに石山さんという、方が住んでいたのでその人の名前が付いたと聞いたことがあります」との事。
まず、名前由来説です。
次に近くの寺に行きました。寺では奥さんらしき人しかいなかったので、まるでわかりませんがという事でしたが、「このあたりの町内会名は東光石山町内会」というんですということです。
でネットで町内会を調べると東光には東光石山町内会の他に石山町内会という名前もあるんです。
でひょっとして石山町内会へ行けば何かわかるかも、石山さんという家があったりしてと思ったのですが、石山町内会がどこなのかわかりません。
そこでグルグル回っていると、東光公民館というような市の出先みたいなところがあって、そこで町内会の場所を聞いてみました。
なんとか場所もわかって行ってみましたが、何もヒントは無しです。町内会長のお宅があったので一応聞いてみたのですが、「さぁ、、、」って感じでイマイチでした。
ここで名前説と町内会に名を残すようなものだったという事がわかりました。
この時点で行き詰っていたのですが、図書館から石山通の記述がある書籍がありましたとの連絡。
その本は「下公有地開拓誌」です。
昭和44年発行のこの本は添付の地域の開発物語がつづられており、この中に石山通りの記述がありました。
が、この本の記述が正確なのかどうか少し疑問が残るところがあり、調査を続行しているのが現状です。
その記述とは
---------------
○石山道路
牛朱別の金毘羅神社の裏山から旭橋架橋の折、石材を運んだことからその名が出た。
正しく言えば号外線から合同酒精のアイヌ道路をいう。
合同酒精から六号線までのアイヌ川に沿ったアイヌが昔から通っていた道路を本来アイヌ道路といった。
アイヌ道路のことを石山道路ともいう
---------------
もう一つは
---------------
石山道路というのは、アルコール会社と金毘羅神社の間の名称で、石材を運んだのでこの名が出たものと思われる。
粉挽き用の石臼も出たようである。
---------------
という二つの記述があります。
単純には石山というのは個人の氏名ではなかった、石材を運んだので石山道路となったんだで良いのです。
これでアイヌ道路→石山道路→石山通(旭川電気軌道が命名したようだ)

ところが、他にいろいろな疑問がわきあがります。
まず、牛朱別の金毘羅神社の裏山ってどこだ?です。
石材が採れる裏山なんてこの辺りにあるのかぁ???
旭橋架橋に使った石材ってどんなものだろう?

そこで郷土史家さんに聞いてみました。
さすがに石山通のことは知っていましたが、運んだ石というのは忠別川の玉石を東旭川兵村に運んだと思っていたそうです。
今回の資料を基に旭橋が関係しているのか、どんなルートで何を何時運んだ事から石山通の名前が付いたのか調べなおしてみるという事でした。

【考察】
もともとはアイヌ道路と言った。
忠別川に沿った道路であった事から、忠別川の石を市内方面に運ぶ際に使われた。
旭橋架橋(M37)の際にも大量の石を運搬した。
そのころから石山道路と呼ばれるようになった。
昭和29年9月旭川電気軌道が「石山通り路線開通」により石山通と呼ばれるようになった。
【調査事項】
牛朱別の金毘羅神社の所在
【現在の仮説】
大正時代の地図を見ると牛朱別というのはかなり旭川の街に近い部分のようだ。
号外線から合同酒精というとかなり近いところ、が本来石を運んだ通りだった。
石山道路の名前がアイヌ道路全体に適用された。
今の南6条通り全体が石山通と認識される。
石山町内会などもできる。
現在一部に石山通りの表示が残る。

どうでしょうか。
 

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