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 投稿者:STEP1-st  投稿日:2017年 5月 3日(水)04時57分11秒
返信・引用
  OMONGA様
かんじ様

かんじ様
はじめまして、よろしくお願いします。

昨年投稿日:2016年 6月28日に掲載された写真をみて
ピンと来ました。
「ここに熊がいた」と印を付けられていた場所の前を
偶然通りかかり写真を撮っていました。
アイヌ語(日本語表記ですが)らしき看板がありました
建物自体は倒壊寸前ですが・・・
特徴のある区画ですので間違いないと思います。
お店のようですがご存知でしょうか?

この辺りは新しい家に立替られていて数年後には
昔の面影がなくなりそうです。
ただし、道路の不規則さは変わりそうにもありませんね。
 

この地図を探していました。

 投稿者: STEP1-st メール  投稿日:2017年 5月 2日(火)14時25分7秒
返信・引用
  momonga 様

早速のご返答誠に有難うございます。
手がかりの少ないヒントでも的確なご教示を頂き感謝いたします。
まさにこの地図です!「佐々木長左衛門」さんのサイトは何度か
訪れているのですが辿りつけていませんでした。
間違いなくmomonga様のサイトから情報を得ていました。
各戸がアイヌ名で表示されているのは珍しいです。
それと給与地の広さは住宅街で生まれ育った自分としては
広いのです、地図を現在のものと符合させるとそう感じます。
師範学校を四辺のひとつとしてみたら、近文小学校から
近文駅近辺を対角とした広さでしたので驚きましたが
40戸分の農地とすればむしろ狭いのかもしれません。

親しい友人が緑町17丁目(嵐山通)で店を構えていて
よく遊びに行きますが、先日も付近を散策した帰りに
寄って話したところ、友人の家の近くの線路のほうに
いたアイヌのおばあさんが「この辺の土地は私たちの土地だ」と
大声で言っていたが今はいなくなったとと少し懐かしそうに話していました。
友人は私と同じく街中で生まれ育ちましたが40年ほど前に現在の緑町に
引っ越して仕事をしております。

街の誕生や文化の伝承といっても本州並みのという括りで比較すると
歴史はとても浅いのですが間違いなくアイヌの人々が暮らしてきて
現在も暮らしています。
その中で、物凄いスピードで風化が進んでいるように思います。
私は去年から後期高齢者の仲間入りしましたがそう感じています。
父や母の子供の頃といえば90年から100年前になりますが、
その間の歴史さえ霞んでしまいそうです。
旭川の古い時代と言っても50年ほど前には街角には靴磨きの方が
いましたが今は一人もいません、4月に東京に行きましたが
帝国ホテルの地下には2人のおじさんが靴磨きの仕事をしており
懐かしく遠くから見ていました。
青山霊園・谷中霊園を見てきましたが、そこでも本州と旭川の
違いを実感しました、東京の霊園のお墓は簡単にお話すれば
質素なんです、旭川のお墓はとても立派です。
立派でカッコよければ良いんでしょうかね、昔のお墓でも
恥ずかしくないし、むしろ大切にして欲しいと思います。
旭川は(旭川に限らないと思いますが)新しいものへ替えるのが
早く、右にならう人が多いように感じます。

思わぬ方向に脱線してしまいましたのでこの辺で失礼致します。
自分の歴史を遡れば親やその時代に興味がわきます、そんな時に
momonga様のように細部にわたり勉強され公表されていることに
敬意を表し感謝申し上げます。

お会いしてお話を伺う機会があることを願っております。
 

Re: 昔の地図を探してます

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 5月 1日(月)20時14分45秒
返信・引用 編集済
  STEP1-stさん、はじめまして、こんばんは。

古い手書きに近い地図を掲載したサイトをお探しという事ですが、正直言ってそれだけでは私も分かりません。
ただ、私が知っている範囲で、かつての旧土人給与予定地(いわゆる近文アイヌ部落)の詳しい地図を掲載しているのはこちらです。
http://www.abs-tomonokai.jp/sasaki/index.html
http://www.abs-tomonokai.jp/sasaki/chikabumi-map.html
http://www.abs-tomonokai.jp/sasaki/tobetu-map.html
http://www.abs-tomonokai.jp/sasaki/hoaido-map.html


あと、もうご覧になってるかもしれませんが、当掲示板2016年7月4日の、かんじさんが投稿してくださった住宅地図があります。
http://9008.teacup.com/momonga_farm/bbs/1291

掲示板のこの辺り、アイヌ関連のレスが集中してますので、もしご覧になってなければ是非ご一読ください。

 

昔の地図を探してます

 投稿者:STEP1-st  投稿日:2017年 5月 1日(月)13時34分19秒
返信・引用
  momonga様

はじめまして、4月の道新に連載されたアイヌのことを題材にした
「こころゆらす」で昔に思いをめぐらせました。
行き当たりばったりで色々とサイトを見ました、その中で
今の教育大学(師範学校)付近のアイヌの人たちが集まって
暮らしていた(強制的に集められた?)30軒位でしょうか
その地図を見たのですがいくら探しても見つかりません。
探しているうちにこちらのサイトに巡り会いました。

当時集落で暮らしていた場所に訪れ、目を閉じて時空を超えて
皆さんとお会いしたいと思っています。
自転車や車で見て歩いてはいるのですが特定できないため
もどかしいのです。
こちらにお集まりの皆様はかなり詳細な知識をお持ちのようですので
是非、古い手書きに近い地図を掲載したサイトをお教え下さるよう
お願い致します。

 

Re: 重ねてビックリ!

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 4月26日(水)23時18分59秒
返信・引用
  かんじさんへ

仰せの通り、楽しませてもらってますよ。(^^)v
そうそう、結局のところ永山にある宗谷線踏切は全て1丁目ずつ名前がずれてますね。(巡る時間がないのでストリートビュー調べ)
ただし、中島街道の名称については今のところ分かっていません。

それはともかく、永山の地番がいつの間に変わったのかが気になって、とりあえずざっと市史年表を拾ってみました。
どうやらパルプができる前の、中島地域の旭川編入問題が微妙に絡んでいるみたいですね。



 大正10年 永山村、新旭川地区市街地計画を策定
 大正11年 新旭川駅開業  旭川区に市制施行、旭川市となる
 大正13年 新旭川・中島地区住民200人余、永山1丁目道路以西の旭川編入を請願
 大正14年 旭川市、永山村長に永山全村または一部合併の意思を照会(回答は保留)
 大正15年 永山村中島・新旭川開発期成会が総会決議の上、旭川市編入の請願書を永山村に提出

 昭和5年  新旭川開発期成会の新旭川住民ら130余人、旭川編入を旭川市・永山村・上川支庁に陳情
      (牛朱別川切替事業によって編入問題が再燃)
 昭和7年  2月、旭川市長と永山村長の編入交渉、前年から3回目の協議も決裂
      9月、道庁、新旭川編入問題で旭川市・永山村の調停に当たる
      10月、旭川市会・永山村会、旭川市に新旭川地区を編入する道庁の諮問を可決
      11月、旭川市に永山村新旭川地区を編入(道庁告)

 昭和11年 永山村の字名地番改正施行(道庁告)



大正時代からすったもんだやって、新旭川・中島地域の旭川編入は昭和7年にようやく実現するわけですが、
年表では単に新旭川地区となってるだけで編入区域が定かでありません。
実際の編入区域は、当時の永山町零丁目道路以西(番外零丁目・中島・日ノ出・新旭川・牛別)だと思われます。
現在の住所で言えば、東・新富・大雪通・パルプ町・新星町ですね。
根拠は、その後パルプ工場ができた際に、永山村ではなく旭川とされているという事と、
元々永山村の字名であった牛別が、編入後には大字永山村字牛別という表記に変わっている点です。
この「大字」というのは、合併や編入などの後、元の自治体名を表す意味合いがあるそうですから旭川市になったという証だと思います。

大正13年の住民請願では、永山1丁目道路以西の編入請願となっていますが、
さんざん揉めた末の編入ですから、道庁の調停で編入地域を1丁目道路以西から零丁目道路以西に縮小された事は充分考えられます。
この結果永山村は、零丁目道路を旭川との境とし、当麻村との境までの零丁目から15丁目が新村域となるわけです。

そして昭和11年の永山村の字名地番改正です。

これもどこをどう改正したのかもう少し調べないと定かでないのですが、
零丁目~15丁目を1丁目~16丁目に変更したのはこの時しかないと考えます。
住民の請願通り、1丁目道路以西が旭川に編入されていれば永山から零丁目が無くなり、こんな紛らわしい地番改正は必要なかったんでしょうけどね。


大凡の経緯は分かってきましたが、やはり「零」が何故いけないのか?
その肝心な理由は何も分かっていません。


 

Re: 重ねてビックリ!

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 4月26日(水)16時32分55秒
返信・引用
  momongaさんへ

踏切調査、思わぬ展開になってきましたね。
踏切は昔の名前をそのまま使い続けているという私の調査結果を受け、
ひょっとして旭川市内の踏切もというmomongaさんの発想と調査。
そして昔の街道名を新発見するなんて、みごとな連携ではありませんか。

だから歴史に基づく昔の名前を使続けることに意味があるんだって何回私達に言わせるのか。

市の担当者を連れて来て、小一時間も問い詰めたいなんてね。

歴史の事実を単に覚えるのではなく、新たなベールを剥ぐというこの醍醐味。
やめられませんねぇ。
momongaさんのことだから、中島街道?って聞いただけでしばらくは楽しめちゃうんだろうなぁ。

私は今日、東旭川の兵村記念館に行ってきました。
4月から館長が変わったということで挨拶と、零丁目に関する知識をお持ちかなぁなんて思ってね。
そしたら館長代理の中谷さんという方がいていろいろ話したのですが、歴史的な知識はそれほど深くはない感じがしました。
それでも小さい頃東旭川の屯田兵住宅に実際に住んでいたそうで、郷土の歴史は今一生懸命覚えているって感じです。
そうそう、師団の事を「だいななしだん」って言ったので、「お言葉ですが、昔の軍の事を話す時はだいしちしだん、と言わないとだめですよ」って説明してアドバイスしておきました。
ねぇ、兵村記念館館長代理が第ナナ師団はまずいですよね。
 

重ねてビックリ!

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 4月24日(月)12時41分49秒
返信・引用
  宗谷線を横切る道路がいつ頃からあったのか確認すべく、戦前・戦後の地図を見比べていたら、これまた意外な事にビックリしました。
何と、永山町零丁目もいつの間にか1丁目に化けていたではありませんか。

かんじさんが書かれた秩父別と同様、永山も元々は零丁目から数えていたのが、いつの間にか1丁目から数え直しています。
つまり、かつての零丁目は1丁目となり、順次1丁目づつずらした16丁目までの表記に変わっています。
私はてっきり零丁目と番外零丁目がパルプ町と新星町になり、1丁目以降は昔から変わってないとばかり思ってましたが、そうではなかったようです。

かんじさんもご存じかと思いますが、戦前・戦中の地図は、昭和初期以降終戦時までのものがなかなか見当たりません。
私が分かった限りでは、昭和一桁時代の地図までは永山町零丁目・番外零丁目が記載されていますが、
戦後、昭和23年の地図では既に零丁目が1丁目になっています。
概ね昭和10年~20年くらいの間に変えられたようですね。
という事はつまり、永山町零丁目踏切は少なくとも零丁目が存在した時代からの名称であるという事になります。

さて、いつ変わったのか?
これは調べてみなければ分かりませんが、あの地区での大きな変化といえば、昭和15年にパルプ工場ができてます。
もしかしたらそれを機に零丁目を廃止し、新1丁目にしたのかもしれません。


ただ一つ疑問があります。
旭川市街もそうですし、永山や当麻などの近郊、それに秩父別などでもそうだという事は、
各地に存在していた零丁目や零号などの表記が、次々と意図的に廃止されてきたという事ですよね。
それもわざわざそれまでの住所表記を広い範囲に渡って変更してまで。
これ、何故なんでしょう?
別にゼロから数えたって特別不都合な点があるとも思えないのですが・・・

 

踏切の名にビックリ!

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 4月21日(金)12時45分38秒
返信・引用
  新旭川方面へ行く機会があったので、とりあえず付近の踏切名を確認してきました。


ありました、ありましたよ、旭川にも零丁目踏切が。
宗谷線の「永山町零丁目踏切」です。
それよりもビックリしたのが、「中島街道踏切」なんて名前も残ってたんですね!
昔からある踏切は国鉄時代からの古い呼称をそのまま使ってるだろうと予想はしてましたが、これは予想以上の古さでした。
もしかしたらほとんどの踏切は設置以来の名をずっとそのまま使い続けているのかな。

金星橋通りの踏切は私も車でよく通るので、今の今まで気付かなかった事が情けないですが、
「中島街道踏切」という名を見た時は感激しました。
そもそも「中島街道」というのも初耳ですし。
中島の名は、牛朱別川の対岸を指す呼称として旭川市街創成期から用いられており、中島遊郭もここから名付けられています。
宗谷線(当初は天塩線)が永山まで通じた明治31年には既にこの名は住民に定着していました。
ただ、この踏切がいつ設置され、いつ名付けられたのかは私も知りません。
「街道」という言葉を使っている事から、少なくともまだ人家まばらな時代の古さを感じます。

「永山町零丁目踏切」は殆ど通る機会のない狭い道路の踏切ですが、戦前までは旧秋月橋、新師団道路に繋がっていた古い道路です。
永山零丁目道路そのものは大正時代に石北線によって遮られ、さらにパルプ工場ができた時にかなりの部分が寸断されていますが、
永山が旭川と合併して現在の条丁方式に移行するまでの比較的最近まで零丁目はありましたから、名前だけでは古さを判別できません。
でも道路の古さを考えると、踏切もそれなりの歴史を持ってると考えるべきでしょうね。


2箇所とも線路を横切る道路そのものは明治・大正の古い時期からあるようです。
(中島街道踏切は戦後若干場所を移動してるようです)
ただし、ある程度きちんとした踏切を設置したのは、おそらくしばらく後の事だと思います。
さらに踏切に名前を付けて管理するようになったのはいつ頃なのかなあ・・・


という事で踏切名調査、なかなか面白そうです!






 

Re: 零丁目の謎

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 4月17日(月)12時33分12秒
返信・引用
  かんじさんへ

プライベートでちょっとゴタゴタしており、レスが遅れて大変申し訳ありませんでした。

旭川近郊の住宅地にも、踏切の名称に「〇号踏切」とかが残っており、
古い名称をそのまま使い続けてるケースが多いと思われますから、もしかしたら探せば面白い名前が残ってるかもしれませんね。
うん、、これまでまったく気にしてなかったので今度時間がある時見てまわる事とします。
ちゅうかこれ、かんじさんに先越されそう。(笑)



昨日の「旭川の歴史的建物の保存を考える会」総会、お疲れさまでした。
今年度受賞の一つ「上川倉庫事務所棟」の保存にまつわる話は大変良かったです。
保存を決断するに至った経緯には感銘を受けました。

民間レベルで古い建物を残そうとする事の大変さ、
見せるだけではカネ食い虫、使われ続けなければ保存すらままならないんだ、という事が実感として伝わってきました。
自らの体験談でしたので、非常に説得力がありましたね。


スクラップ&ビルドしか頭にない、どこかの役所の方にもぜひ聞いてほしいものです。


 

Re: 零丁目の謎

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 3月17日(金)10時41分6秒
返信・引用
  > No.1346[元記事へ]

momongaさんへ

ちょっと用があったので秩父別を通りました。
そうそう、ここには零丁目踏切というのがあったはすだと思い、ネットを検索すると意外と近くだったので行ってみました。
ありましたよ。踏切の柵に「秩父別零丁目」と書かれています。
想像では古い記述が消えずに残っているのだとばかり思っていたのですが、
実は現在の名前が「秩父別零丁目踏切」という正式名称のようです。
なのでこの表記はJRが廃線にならない限り残りますね。(廃線の可能性も高そうですけど)

この変わった名前の踏切のそばに、農家があったので聞いてみることにしました。
トラクターから降りてきたご高齢のオジサンに「すみません、そこに零丁目と書かれた踏切があるのですが、この辺りは零丁目なのですか?」と

オジサンはニコニコして「あーーあれね。あの通りは昔零丁目だったんだ、こっちの通りが1条でね。」
「いまは東1丁目、東2丁目となっているけど、昔は人も住んでいなかったんで、通りが零丁目で、その向こうには零零丁目ってのもあったんだ。
条もあっちが零条だったんだけど、さすがにおかしいという事で1条2条と変わって、零丁目も1丁目になり反対側は東がつくようになったんだ」
と丁寧に説明してくれました。
時期的なものを聞くのを忘れてしまったのですが、ある時期には平気で零丁目とか零条が使われていたことは解りました。
今思うと雰囲気的にはそれほど昔の事ではなく、高齢のオジサンが知っているかのような良い方だったなぁ、、、。
場所は図の所です。
面白いですね。
 

Re: 今秋再開

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 3月17日(金)10時10分21秒
返信・引用
  > No.1347[元記事へ]

momongaさんへ

偕行社、綺麗ですね。
秋の公開が楽しみです。
でも、やっぱり個人的に彫刻美術館は嫌だな。
建物そのものにもっと焦点を当てて欲しいです。
これだけの文化遺産を利用しきれてないと思います。
函館の公会堂、札幌の豊平館と並ぶ遺産なのに、、、、、。



 

今秋再開

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 3月12日(日)22時19分48秒
返信・引用
  大規模修復中だった旧旭川偕行社(彫刻美術館)が今年の秋に再開するとの事です。
当初修復期間は3年の予定でしたが、結局5年以上を要しました。
明治期の木造建築、しかも旭川唯一の国の重要文化財ですし、今回は基礎からの大修復でしたからやむを得ない事と思います。
耐震補強もされたようですし、これでまた数十年は安泰でしょう。
鉄筋コンクリートの現代建築でありながら僅か5~60年で「立て直すしかない」とされているどこかの建物よりよっぽど長寿です。

それはそうと、先日まで周囲を囲っていた工事用の塀が取り払われました。
姫路城を彷彿させる眩しいくらいの真っ白です。
何だか真っ白過ぎてのっぺらぼうに見えちゃいますね。
まあこれが新築当時の姿でしょうし、また歳月が風格を増してくれるでしょう。
残念だったのは、正面外壁の横板目が再現されなかった事です。
一度ああやって塗り固めてしまったらもう再現は難しいのでしょうね。
前回の修復は果たして正解だったのか・・・

建物自体の修復は既に終わったようです。
やはり彫刻美術館として継続するようですが、用途については是非再考してほしいものです。

 

Re: 零丁目の謎

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 2月 2日(木)20時34分28秒
返信・引用
  かんじさんへ

ちょっと訂正しますね。

改めて周辺の線号表記の状況を確認してみたら、けっこうバラバラみたいです。
基線があったりなかったり、零号もあったりなかったりです。
基線道路ではなく、川を基準に一線、二線・・・と数える事も多々あるようです。
西神楽は神楽岡駅付近がかつての零号で、東神楽は現在の旭神町が零号でした。
旧鷹栖村は石狩川を基準に現在の国道40号が1線道路で、旭町通りが1号道路、突硝山へ向かって2、3、4号・・・と続きます。
反対側は南が付いて南1号、南2号、南3号で、零号がありません。

旧屯田兵村は元々兵屋番号で区画してましたから道路には独自の通り名を付けていました。
東旭川では南端通りとか南仲通り、永山では西表通り(国道39号線)とか一番道路・二番道路とかがそうですね。
東旭川は号外線が零号に相当しますし、永山も零丁目に始まりますが、番外零丁目(現在のパルプ町)というのが存在しました。
現在に残る線号表記は、付けられた時代もバラバラなので一概には言えないですが、けっこうちゃらんぽらんのようです。
ただ、いずれも共通しているのは一線と二線の間の区画は一線、1号と2号の間の区画は1号です。


おっしゃるように、道庁は旭川の市街地も農地と同じ感覚で区画割りを始めてしまったのかもしれませんね。
旭川市史に出てくる明治20年代の市街地住所は、現在と1丁目ズレてしまうのです。(断り書きが付きますが)
つまり区画としての0丁目が存在したためにこんな事になったのです。
当時の住所に1丁目加えたのが現在の丁目になります。
この当時も事実上は区画単位で考えられていたという事ではないでしょうか。

確かに唯一の例外と言えるのが市街地区画の10号割りですね。
境界始まりが0にも関わらず、面としての0号は存在せず1号から始まるのが他と違うところです。
境界線と道路の違いかな、、、それとも単に規則性・計画性に欠如してただけか? ^^;

 

Re: 零丁目の謎

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 2月 2日(木)09時58分8秒
返信・引用
  > No.1344[元記事へ]

momongaさんへ

> 考えてみれば、農地の区画である〇線〇号の表現もまったく同じことが言えますよね。
> 幹線路である基線に始まって、一線、二線、三線・・・と続きます。
> 基線が零に相当します。
> 号のほうも零号から始まってますよね。

そうだったんですか。農地の区画割は基線や零が普通に使われていたんですね。
とすると、これは単に旭川の区画割を最初に行った担当者が農業関係者だったかも知れませんね(^^)

> つまり0丁目通りと1丁目通りの間の区画は0丁目です。

そうなんですか?0丁目という区画は存在したのですか。
1丁目では無く?
1号2号という丁目を10分した区画割も角が0で終点の角が10ですよね。
でも最初の区画は1号で最後が10号だと思います。
そうすれば、丁目も0丁目と1丁目の間の区画は1丁目なのではないですか?

零丁目という言葉で検索しても、日本中の住所で零丁目という記録はなかなか出てきません。
やっぱり旭川の零丁目は特殊なんだなぁと思っていました。
住所ってかなり曖昧なものですよね。
地番というのが別にあって、これは面積とともに所有者の権利と税に結びついています。
それに対して住所は建物や人の場所を示す記号みたいなもので、おもに郵便の為に使われます。
旭川の中心部からも次第に左〇号とかいう住所が消えかかっているようですね。
 

Re: 零丁目の謎

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 1月28日(土)21時18分44秒
返信・引用
  かんじさんへ

考えてみれば、農地の区画である〇線〇号の表現もまったく同じことが言えますよね。
幹線路である基線に始まって、一線、二線、三線・・・と続きます。
基線が零に相当します。
号のほうも零号から始まってますよね。

でもって、地元の人が〇線や〇号と言えば、まずは道路の事を指します。
区画を表す場合は、零号通りと1号通りの間を零号、1号通りと2号通りの間を1号・・・という具合に、各号道路の名称が次に接する区画をも表しています。
これは0丁目があった時の旭川市街地も考え方は一緒だと思います。
つまり0丁目通りと1丁目通りの間の区画は0丁目です。

農地区画の場合は圧倒的に広いですし、区画の内側大部分は耕作地で、
農家の母屋は今も昔も各線号の道路沿いに建ってますから、道路名称=住所で不便はなかったという事なんでしょうね。
 

Re: 零丁目の謎

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 1月25日(水)11時57分31秒
返信・引用
  > No.1342[元記事へ]

momongaさんへ

> 私もこれは気付きませんでした。
ふふふ、私の功労賞かな。

> 面ではなく道路の数、あるいは境界線の数で数えない限り有り得ません。
> 実にややこしい話です。
なぜこのような事が起こったのか、考察してみます。

> 実際問題、旭川の歴史を振り返った時、この事に起因する誤解も多いようです。
旭川開村初期の記述は住所に関して区画を表していなかったという事を念頭に読み直す必要があるかも知れませんね。


さて、〇丁目が区画を表していないなんて事が起こったのは何故か?
考察してみました。

旭川周辺の開拓にあたり道庁は地図上に巨大なマス目の線引きを行います。
そしてその線は道路となります。
道路となったところに人が住みつきます。
つまり開拓に入った住民は大きな街に住んでいるわけではなく、先に作られたマス目の道路にそって暮らしていたのです。
そこでは〇〇丁目は区画を表しているわけではなく、〇〇丁目通りを表しています。

なので明治23年に旭川の都市計画図を最初に書いたときは、線でマス目に計画を引いたわけですが、その時点で線は通りだったわけです。
そしてその時には通りはイコール住所であったわけです。

ところが旭川は住民を集約し町として面を構成する計画であったので、区画という概念で無ければ土地を分割貸与することができないですから、それまでの道路イコール住所という表記ではまずいという事に直ぐに気付いたのでしょう。

外国の住所もほとんど道路名が住所ですよね。〇〇ストリート〇丁目右〇番ってね。
世界中どこでも道路に人が住み着くってのは基本ですから。
それから言えば、マス目であろうと道路を作ってそれが条であろうと丁目であろうと住所になってもおかしくない訳です。
むしろ最初から大きな面として街を計画しなければ区画割なんて概念も生まれませんよね。

零丁目といえば、他にも当麻町には今でも0丁目というバス停があるし、深川にも踏切に零丁目と書かれた場所があるようです。
 

Re: 零丁目の謎

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 1月20日(金)20時27分55秒
返信・引用
  私もこれは気付きませんでした。
確かに、区画は東西方向に18区画しかないわけですから、0丁目から数えれば17丁目で終わりですよね。
一区画内を0号から数えてるのに10号まであるのも然りです。
面ではなく道路の数、あるいは境界線の数で数えない限り有り得ません。
実にややこしい話です。

実際問題、旭川の歴史を振り返った時、この事に起因する誤解も多いようです。
一般的には昔も今も区画単位で捉えられていますから、0丁目から始まる当時と現在の丁目では1丁ずれるわけです。
例えば『12号駅逓は、ほ通(現在の1条通)4丁目にあった』と”直訳”されているものが、実は現在の5丁目の事であった、という具合です。

南北方向の各条には各々仲通りがありますから、左右で区画を判別する事で混乱は生じませんが、
東西の丁目方向には仲通りの存在がありませんよね。
ここが条との大きな違いで、後に丁目だけは区画を表す方式に改めた要因だと思います。
 

零丁目の謎

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 1月19日(木)17時49分10秒
返信・引用
  momongaさんも持っていると思いますが明治25年の上川市街図です。
この右上の説明を訳してみました。
----------------------------
石狩国上川郡上川市街案内

第一市街戸数200戸  一戸割 間口6間 奥行27間
但し基線すなわち「に通り」零丁目より10丁目に至る

第二市街戸数570戸 一戸割 間口6間 奥行27間
但し基線すなわち「ほ通り」零丁目より18丁目に至る 「へ通り」1丁目より13丁目に至る

合計770戸 番号道路辻左右の角に零号を記し1丁目毎に1より起算し十に終わる
すなわち零と十とは隅を示したるものなり。

但し二市街の内
98戸分 公共地 但し 已成家屋地なり
10戸分  駅舎 但し  同上

462戸分 抽選地

第一市街地共662戸 抽選割渡相成候分
-----------------------------
解らない部分もあるのですが、なんとなくわかりますけど、なんか腑に落ちないのです。

まず旭川の地番は当初、零という地番があったというのは聞いていましたが、実際に地図を見ると丁目の数が合わないのです。
「ほ通り」つまり今の一条通りですが、一番左の丁目を零とすると順にかぞえて一番右は17丁目になります。
でも説明だと18丁目に至るって書いてあります。
第一市街でも左端を零とすると右端は9丁目になってしまいますが説明では10丁目に至るとなっています。
と、ここまで書いてヒラメキました。
条の通りと同じように、丁目も当初は通りを表しているみたいですね。
つまり零丁目は区画ではなく、左端の道路そのものを表している、「零丁目通り」なのかな。
そうすれば、第二市街地は18丁目通りで終わります。
第一市街地は10丁目通りで終わります。
あ、きっとそうだな。

もう一つ、1丁目を10に割った区画ですが、これも角に零の表示をして0~~~10までということは
終わりの区画では無く角が10という事ですよね。
ここでも数字は区画を表すのではなく、境界線を示しているようです。
だから零という表示から始まるんですね。

明治25年の旭川の街は区画ではなく、通りと丁目という境界線で表現されています。
なので始まりは零なのでしょう。

この説明を某郷土史家さんにしてみましたところ、「その通りだと思います」とのこと。
そしてこの零丁目という表示は明治30年以前に「い ろ は に 、、、」という通り名が、
宮下町通り、本町、忠別町、寺町などという町名になった時に零丁目もなくなり、1丁目から始まる表記となって、境界では無く区画を示すようになりました。
そして明治32年に町名から宮下通、1条通、2条通という現在の名称になりました。
この経緯からもmomongaさんの言うように、1条2条ではなく1条通という町名なのだから「通」を省略してはならないという事ですよね。
 

Re: 最近の不満

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 1月 8日(日)14時33分17秒
返信・引用
  まったくおっしゃる通りです。
旭川の中心部(開村時の旧第三市街予定地域)には、一般的に言う町名がありませんよね。
仮称の「いろはにほへと・・」通りに始まって、一時期「宮下町」「本町」「忠別町」「寺町」などの町名が充てられましたが、
明治32年に現在の条丁呼称になってからは頭に冠する町名が無くなりました。
と言いますか、「1条通」とか「4条通」というのがそれらに代わる町名(字名)であるわけで、それに〇丁目が付く訳です。

実は、豊岡〇条〇丁目とか曙〇条〇丁目など周辺地域も「豊岡〇条」「曙〇条」までが字名でありそれに〇丁目が付されます。
つまり、単に1条とか4条とか言われても、それは正確には旭川市内どこの住所も表していないことになります。
「〇条通」と「通」の文字が付いてはじめて中心市街地の住所である事が確定できる訳ですね。

旭川中心部の、条通りを中心に置いたこの住所表記方法は京都に模したと言われ、独特のものがあります。
「右」「左」で区画を判別する方法も、京都のようで京都にもない旭川独自の表記方法です。
バス停に「通」の文字を入れるだけでなく、できれば西に向かうバス停には「右」東に向かうバス停には「左」を追加してほしいものです。

 

最近の不満

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 1月 7日(土)09時52分9秒
返信・引用
  最近気になる不満
地名に拘るmomongaさんなら共感してもらえると思うんだけど、バス停名の表示がありますよね。
アモール前の歴史的なバス停名、追分が豊岡3条2丁目に変更になった時は、momongaさんも強い不快感を表明していましたよね。
今の私の不満は4条1丁目とか3条9丁目とかの街中のバス停名に「通」の文字が省略されていることです。
札幌も街中区画は碁盤の目であり◯条◯丁目の表記です。
が、旭川は本通りを挟んで左右が同じ条であり、「通」があってはじめて成立する住所表記なのです。
この表記も歴史的なものであり、旭川の文化として継承したいものと思っています。
なので歴史的な背景を無視した◯条◯丁目という不思議なバス停名に違和感を覚えます。
バス会社に陳情してみようかなぁ。
 

謹賀新年

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 1月 2日(月)22時34分29秒
返信・引用
  あけましておめでとうございます。
今年も宜しくおねがいします。
旭川の歴史を探求し正確な史実の発掘の日々を今年も追及します。
先日、年末の挨拶で博物館長にアイヌ語の自動翻訳ソフトの可能性を持ちかけましたが、色良い返事をもらえず少し悲しかった。
アイヌ語には文字が存在しないので、話せる人がいなくなるとその時点でアイヌ語が消滅します。
そこで話せる人がいるうちに翻訳ソフトを作れば、後世にアイヌ語が残ると思ったのですが、、、、。
 

新年

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 1月 1日(日)09時14分53秒
返信・引用 編集済
  明けましておめでとうございます。

今年も「論・旭川」掲示板を宜しくお願い致します。


なんだか近年は晴れ上がってグンと冷え込む旭川らしい冬日が少ないですよね。
そのぶんダイヤモンドダストや樹氷の発生が以前に比べ少ない気がします。
寒さはこれからが本番ですが、雪はもういらないですネ。^^;

 

(無題)

 投稿者:アリョーナ  投稿日:2016年12月31日(土)06時49分58秒
返信・引用
  ダイヤモンドダスト綺麗よ  

ひと月早い冬です

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年12月 4日(日)18時32分21秒
返信・引用
  今年も早や師走がやってまいりました。
と言いたいところですがそれよりも、ひと月も早くやって来たドカ雪と積雪に辟易としています。

この11月の降雪量は何と203センチ。
10月にも26センチ降っており、12月に入って今日までの累積降雪量は既に248センチにも達します。
例年ですと、根雪になるかどうかの話題はちょうど今頃が多いと思うんですが、
今冬は11月上旬から断続的にまとまった雪が降り続き、とうとうそのまま融け切らずに根雪となってしまいました。
道路脇には既に除雪の雪山が高々と積み上げられています。
それでなくとも長い旭川の積雪期間がさらに1ヶ月長くなるというのはウンザリですね。


>かんじさん
銀座通りの名称由来に関して、
商店街側とコンタクトをとるのに思ったより難儀してるみたいですネ。
「臭いものは元から絶たなきゃダメ」ですよね。

 

Re: 何とかせねば・・

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年11月 1日(火)16時32分17秒
返信・引用
  おっ、行動派のかんじさんが動き出しましたね。(^^)


私も戦前の実態というのはもちろん資料でしか知る由はないんですが、
先のレスで挙げた時系列を客観的に見て想像するに、
昭和8年に銀座通りと改めたものの、これはどうやら商店主らの意図で決めた名のようなので、すぐに定着したか?という疑問があります。
松竹座はそのままあるわけですから、一般の人々には松竹座通りの方が通じてたような気がします。
戦後、松竹座が焼失してようやく銀座通りの名が正妻の座を得て、同じような時期に銀映座が誕生したため勘違いの元となった・・・
何となくそんな気がするんですが、あくまで想像です。

いずれにしても地元商店街が自ら付けた名である訳ですから、その由来を自ら間違ってどうする、と言いたい。
今でしたら終戦前後に何と呼ばれていたかを知る方々がまだまだ健在でおられるはずです。

 

Re: 何とかせねば・・

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年11月 1日(火)09時36分19秒
返信・引用
  > No.1332[元記事へ]

momongaさんへ

> 地元商店街が、自身の名称由来すら間違った情報を発信してるというのは悲し過ぎですね。(-_-;)

時系列で精査ありがとうございます。
ということで銀座商店街振興組合に資料を持ってお邪魔してきたのです、、、、、が。
組合はあったものの普段から常駐している人は居ないようで、
組合の前から電話をしても電話が応答するばかりでした。
でもFAXが反応していましたので、
間違いや問題点を整理して、FAXで送ってみようかなと思います。

こうご期待、、。
 

Re: 何とかせねば・・

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年10月26日(水)21時31分15秒
返信・引用
  地元商店街が、自身の名称由来すら間違った情報を発信してるというのは悲し過ぎですね。(-_-;)

しかも、かんじさんが発見した情報元と思われる『銀座商店街のあゆみ』という記事の載ってるサイトですが、
なんと、私が少し前のレスで旭川市史の記述と合致するとして紹介した『銀座はこうして歩んできた』の記事と同じサイトです。
http://motonr.net/furusato/?news=%E5%A4%A7%E6%88%90%E5%9C%B0%E5%8C%BA%E3%81%A0%E3%82%88%E3%82%8A%EF%BD%9E%E3%80%80%EF%BC%93%EF%BC%90%E5%91%A8%E5%B9%B4%E7%89%B9%E9%9B%86%E5%8F%B7%EF%BC%88%EF%BC%91%EF%BC%99%EF%BC%98%EF%BC%95%E5%B9%B4#tikudayori4-1985

まあ、何と言いましょうか、
たぶんどちらも同じ商店街関係者の記事なんでしょうが、世代が変わって正確に伝わっていないという事なんでしょうね。



旭川市史の年表から銀座通りの劇場にまつわる記述をざっと拾ってみました。
旭川市史にも誤りはありますが、これだけ多数の記述が全て間違いである事は有り得ないでしょう。
これを見る限り、昭和8年以降、通りの名は銀座通りと改称されたものの、劇場名は終戦後まで「松竹座」であって「銀映座」なる名称は一言も出てきません。



明治42年 6月20日  大国座開場(45年に立花座46年に大黒座と改称)

大正 9年 9月 9日  錦座新築開場(旧大黒座)、市川左団次・松本幸四郎大一座でこけら落し
大正12年10月 3日  錦座、松竹キネマ封切館となる(松竹経営となる)

大正14年 8月27日  旭川憲政同志会第1回大会を錦座で開催
大正14年10月19日  日本農民組合関東同盟北海道連合会創立大会を旭川の錦座で開催
昭和元年 9月 5日  日本農民組合北海道連合会第2回大会を錦座で開催
昭和 2年 5月19日  改造社主催の芥川龍之介・里見弴の文芸講演と映画会を錦座で開催
昭和 3年 9月17日  全北海道結髪競技大会を旭川の錦座で開催
昭和 4年 8月18日  社会民衆党旭川支部準備会が安部磯雄党首の演説会を錦座で開催
昭和 5年 4月 3日  オーストリアのスキー指導者シュナイダー錦座で講演
昭和 7年 7月24日  政友会東北・北海道大会を錦座で開催

昭和 8年 4月 1日  錦座が松竹座と改称(錦座通りが松竹座通りとなる)
昭和 8年12月 8日  松竹座通りを銀座通りと改称(商店街によって命名)

昭和 9年 5月20日  松岡洋右の演説会を松竹座で開催
昭和10年 6月10日  ジンバリスト来旭、バイオリン独奏会を松竹座で開催
昭和11年 1月25日  三浦環独唱会、松竹座で開催
昭和12年 5月 1日  名取花柳徳初美舞踏発表会を松竹座で開催
昭和18年 2月11日  旭川松竹座、旭川松竹映画劇場と改称
昭和19年 3月11日  明治戦役勇士遺家族慰問米英撃滅戦意昂揚大会を松竹映画劇場で開催
昭和20年 8月23日  敗戦で興行を停止していた市内の東宝・日活・松竹の3映画館、上映再開

 

Re: 何とかせねば・・

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年10月26日(水)15時02分34秒
返信・引用 編集済
  momongaさんへ

> やはり誤った風説がそのまま記述されてました。(-_-;)
> 例によって「銀映座」が通りの名の由来とされています。
> しかも昭和8年には既に銀映座がある事になっていますから、二重の間違いが記述されてますね。
> 年代入りで如何にももっともらしく記述されてるぶん『写真が語る旭川』よりさらに”悪質”です。
> こういった解説文の引用元ってどこなんでしょうね。

見つけました。
というか、旭川・銀座商店街のWEBサイトがありました。
http://motonr.net/shoutengai/index.html
そこに、どうどうと
>銀座通りの呼称は、昭和8年「松竹座」から改称した「銀映座」の名に由来しています。
と書いてあります。
ありゃ、こりゃいかん。
おひざ元の商店街で既に間違っていますよ。

WEBサイトは紙ではないし、直ちに修正可能なので行動に出ましょう。

と、さらに情報元を探ると、「ふるさと情報」というページがありました。
ここに「銀座商店街のあゆみ」という記事があり、そこに書かれています。
http://motonr.net/furusato/?news=%E6%97%AD%E5%B7%9D%E9%8A%80%E5%BA%A7%E5%95%86%E5%BA%97%E8%A1%97%E6%8C%AF%E8%88%88%E7%B5%84%E5%90%88#ayumi
このページを精査して、間違いを指摘する必要がありそうです。

momongaさんこのページの精査お願いします。


 

何とかせねば・・

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年10月23日(日)12時42分22秒
返信・引用
  昨日、文具を買いに書店へ寄ったところ、写真集『旭川昭和ノスタルジー』が目に入ったので、ちらっとだけめくってみました。
他に用事もあったので、パラパラパラとめくって、手っ取り早いところで銀座通りの記述を探しました。
あったあった。

やはり誤った風説がそのまま記述されてました。(-_-;)

例によって「銀映座」が通りの名の由来とされています。
しかも昭和8年には既に銀映座がある事になっていますから、二重の間違いが記述されてますね。
年代入りで如何にももっともらしく記述されてるぶん『写真が語る旭川』よりさらに”悪質”です。
こういった解説文の引用元ってどこなんでしょうね。
少なくともこの劇場に関しては、旭川市史の年表を辿って行けば、戦前戦中まで松竹座であった事は明白です。


すぐ隣に同じく写真集『旭川・上川の昭和』も並んでいましたが、こちらはまだ見ていません。

 

Re: アルテピアッツァ

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年10月 5日(水)16時48分41秒
返信・引用
  > No.1328[元記事へ]

momongaさんへ

天気も良くて良かったですよね。
私もアルテピアッツァの素晴らしさには驚きました。
NPO法人で管理しているということですが、それを支える美唄市民に脱帽です。
旭川にもあれだけの雰囲気を持った場所はありませんよね。
札幌の芸術の森の方が規模は大きいですが、雰囲気は美唄も負けていないと思います。
安田侃という芸術家の思いがこもっているのでしょう。
あの廃校を利用した建物で普通に過ごした幼稚園生がどんな感性をもって育ってゆくのか楽しみです。

私も造形美術には疎いのですが、雰囲気を感じるだけの感性はあります。
日本の公共施設って最低だと思うんですよ。
ヨーロッパ各国の公共施設って、普通にドアだけが原色で塗ってあったり、
とんでもなく大胆なデザインだったり、なんでも「デザイン」してありますよね。
日本の公共施設って「作りました」ってだけです。
デザインへのこだわりを日本人はいつ捨ててしまったのでしょう?
たぶん、終戦で日本人は全てを無くし戦後復興で経済優先効率優先で
デザインの感性を失ってしまったのだと思います。
もちろん、一部のデザイナーなど優れた人がいることは確かですが、
町の景観や公共物の醜悪な姿を見ながらも、なんとも思わない一般市民の感性の無さが重傷だと思います。
こういった一般市民の鈍い感性が、市役所を破壊に追いやったり、古いデザイン性に優れた建物も壊してしまうのだと思います。
でもこれは市民のせいではありません。
たぶん政治のせいだと思います。
日本人には古来より美しさを求め、ち密な技法で名品を作り上げる風土を持っています。
金沢なんかにゆくと日本の美に溢れています。
美しいことをもっと評価し、そこに価値観を与えるような国づくりをしなければと思います。

> 今回の「旭川の歴史的建物の保存を考える会」のバスツアーでは空知地方の多くの建物を見学しましたが、
> かつての上川道路の歴史まで絡めたところは非常に良かったと思います。
> 古い建物と歴史は切っても切れない縁があります。
> と言いますか、古い建物は歴史そのものですよね。
> 今後も地域の歴史を絡めながらのツアーを期待します。

momongaさんの上川道路に関する名解説が素晴らしかったですよ。
その知識の豊富さに皆さん驚いていました。
 

アルテピアッツァ

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 9月13日(火)11時17分33秒
返信・引用
  たいへん良かったです。

正直、美唄にこんな素晴らしいところがあるとは思わなかったです。(美唄の皆さんすみませんm(__)m)
そもそも私は造形美術はチンプンカンプンで、その良し悪しなど全く分かりません。

これのどこが芸術なのか・・・

今回、たいへん手入れの行き届いた廃校の建物と広い庭園の随所に配置されたオブジェを見て、
「うーん、、バランスかな・・」
などと思いつつ、ほんのちょっとだけ分かったような気がしました。
あくまで、気がした、だけです。^^;


今回の「旭川の歴史的建物の保存を考える会」のバスツアーでは空知地方の多くの建物を見学しましたが、
かつての上川道路の歴史まで絡めたところは非常に良かったと思います。
古い建物と歴史は切っても切れない縁があります。
と言いますか、古い建物は歴史そのものですよね。
今後も地域の歴史を絡めながらのツアーを期待します。

 

上川道路について

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 9月 5日(月)22時00分9秒
返信・引用 編集済
  かんじさんへ

岩村通俊の命を受けて上川道路の開削を実行した高畑利宜は、元々が道庁の測量技師です。
彼自らが測量を行い、それを追うように樺戸集治監の囚人が工事をしたと言われています。
つまり測量した本人の復命書ですから、あの直線道路は高畑利宜の判断による功績でしょうね。
岩村通俊はそこまで具体的な指示はしていないと思います。
ちなみに、囚人の工事の進捗が思った以上に速く、測量を煽られたという逸話も残っています。

当時、樺戸集治監の典獄(所長)であった安村治孝という人物は、囚人を国家のために使役すべきという考えの持ち主で、
実は岩村通俊が長官に就任する前に、上川までの道路建設を想定した調査を独自に行っています。
そのような下地があったからこそ、いざ命が下ってからの驚異的なスピードで上川仮道路が実現したのでしょうね。
あるいは、基本的なルートもこの時の安村典獄の調査が基準になっていたかもしれません。


wikipediaですか?
私も随分と参考にさせてもらう事が多いですが、必ずしも信用できる訳ではありませんよね。
でも、これだけネット情報の影響が大きくなっていますから、
史実を矯正する手段としての利用は考えるべきかもしれませんね。

 

Re: サイトを移転しました

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 9月 5日(月)17時38分18秒
返信・引用
  > No.1324[元記事へ]

momongaさんへ

> 「論・旭川」サイトを移転しました。
momongaさんWEBサイトの移動と変更お疲れ様でした。

さて、先日「間違った史実が正されずに拡散してゆく」事を問題として取り上げましたが、面白い事例を見つけましたので書かせてください。
最近、上川道路の成り立ちに関して調べていたのですが、中でも良く話題として取り上げられます「日本一長い直線道路」が上川道路の特徴でもありますよね。
これは上川道路開削の際に誰かが「真っ直ぐに作れ」と命じたために、ただひたすら真っ直ぐに作った、というのが定説になっています。(というか私はそう思っていました)
そこで、誰がどういう形で命じたのかをネットで調べていたのです。
そうすると、上川道路は明治19年に5月に月形町の樺戸集治監の囚人が駆り出され、わずか90日後の8月に幅約2メートルの道路が仮開通した。
とされています。
そしてそれに続けて「この工事の復命書に「可成(なるべく)直線路に為すを主とし」とあったことから、美唄市 - 滝川市間の日本一長い直線道路が誕生した。」とあるのです。
ほぅ!と思いながらも「?? 復命書?」と思ったのです。
私の知識で復命書とは「命令を受けて物事を行った後に出す報告書」の事です。
○○しなさいというのは命令であって、復命書というのは事後の報告です。

なのでこの文章は明らかにおかしい。

それが、この件を検索するとものの見事に
「工事の復命書に『可成(なるべく)直線路に為すを主とし』とあったことから、美唄市-滝川市間の日本一長い直線道路が誕生した。」
という文章がまるまるコピーされて、もの凄い数のサイトに掲載されているのです。
誰も復命書という言葉に疑問を持たないんだなぁ。
まぁ、Wikipediaにまで載っているので、そのまま鵜呑みにするんでしょうね。

で、もう少し調べてみると、この復命書というのは岩村通俊から命じられた、高畑利宜が書いたものなんですね。
つまり高畑利宜が工事を行った後に書いた報告書の中に
『可成(なるべく)直線路に為すを主とし』
「上川道路は重要道路につき、他日不十分無きよう、なるべく直線道路となす」という文があるという事です。
これでは誰かに直線とするよう命じられたのかどうかまでは解りません。
ただ、高畑が「直線にしたよ」と復命書の中で書いてあるだけです。

とういうことでWikipediaを少し書き直してみました。

そうだ。momongaさんに提案です。
旭川の市史をWikipediaに書くってのはどうですか?
壮大な計画になっちゃうかもしれませんが、一部でも良いし、momongaさんのライフワークにしても良いかも知れません。
ただ、誰でも加筆修正できるので必ずしもmomongaさんの意図する内容通りにはならないかも知れませんけどね。
または市史でなくとも「何もない街」の内容ってWikipediaに載せてもおかしくない物が多い気がしますけど。
さて、大胆すぎますかぁ(^^;
 

サイトを移転しました

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 9月 3日(土)19時37分11秒
返信・引用
  「論・旭川」サイトを移転しました。

新しいURLは次のとおりです。
http://ron-asahikawa.la.coocan.jp


旧アドレスには移転案内が出ますが、
もしお気に入りに登録されてる方、あるいはリンクされてる方がおられれば変更をお願いいたします。

なお、前レスに書きました通り、
当掲示板のURLには変更ありません。

 

お知らせです

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 9月 3日(土)13時30分25秒
返信・引用
  「論・旭川」のトップページを更新しました。
これまでのエントランスページを廃止し、メインページと併合しました。
お使いのブラウザの設定によってはこれまでのエントランスページがそのまま表示される事があります。
その場合、ブラウザの設定で閲覧データのクリアを実行されると新しいページが表示されます。

なお、「論・旭川」は現在引っ越し作業中です。
引っ越しが完了しますと、URLも変更になりますので宜しくお願いします。


ただし、その場合でも当掲示板のURLは変更ありません。

 

Re: 歴史的建物の保存に関する考え方

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 9月 2日(金)14時14分26秒
返信・引用
  > No.1319[元記事へ]

> これは良いか悪いかという問題ではないと思うのですが、日本は世界的に見ても極端にバリアフリーの進んだ国です。
> ヨーロッパに行くと歴史的景観地区とか旧市街とか日本よりはるかに多くの歴史的建物が保存されていますが、どこにいってもバリアフリーなんてありません。

よく日本は欧米諸国に比べ障害者対策が遅れているように言われますが、根拠がありませんよね。
米国の都市や建物や観光地へ行っても、車イスの方は多く見受けられるものの、バリアフリーは少ないと思います。
ただし、例えば車イスの方が難儀しているのを見ると、近くにいる人が「これは私に課せられた義務だ」と言わんばかりにサっと寄って来て介助します。
この辺の意識は日本人は遅れているかな、と感じます。
日本人は照れ屋だからなかなか行動しないという面もありますけどね。
日本の障害者対策の考え方は、あくまでハードウェア対策中心ですよね。

 

Re: 旭川の写真集

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 9月 2日(金)13時51分1秒
返信・引用
  >逆に、銀座通りに映画館を作ったので、「銀 映 座」なんじゃないですかね?

たぶんそういう事だと思いますが、実はこの手の間違いって多い気がします。
つまり、時系列で考えれば明らかにおかしいのに何故か気が付かれずに定説化してしまってるんですよね。


神楽橋の間違いも同じ事が言えます。
実際に神楽橋という呼称が使われ始めたのは、架橋の翌年、神楽村が開村した明治25年以降の事だったはずです。
そうでなければ、まだ存在しない村の名が橋に付けられた・・・となります。

おそらく、正式名称は架橋時から一貫して忠別橋だったのでしょうが、名前の存在感が薄かったのかな。
旭川の市街地に本格的に移住民が住み始めた頃には既に神楽村があったので、人々は神楽橋と呼んだのでしょうね。


極めつけは旭川の地名由来もそうです。
定説となってしまっているアイヌ語由来、永田方正によるチュッペの「日の出」意訳ですが、
彼が上川の調査をする前に、全く同じ意訳が永山武四郎の部下によって新聞発表されてる大矛盾を誰も指摘しない不思議。


史実の誤りはできるだけ早い時期に修正されるべきですね。
かんじさんおっしゃるように、主軸は旭川市史であるので、訂正版を出すなどの対策が欲しいです。

 

歴史的建物の保存に関する考え方

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 9月 2日(金)13時45分44秒
返信・引用
  旭川では現在市庁舎を立て替える計画が進んでおり、現庁舎の解体に反対する市民が声を上げるなど話題になっています。
そんな中、今日の新聞で札幌の道庁の改修計画に関する記事がありました。
明治時代の歴史遺産を利活用しようという動きですが、その中でバリアフリーを進めるために中央にエレベーターを設置するというものです。
これは良いか悪いかという問題ではないと思うのですが、日本は世界的に見ても極端にバリアフリーの進んだ国です。
全ての駅は車いすで利用できるようになっており、障害者が利用できるようになっています。
なので、赤レンガの道庁もエレベータを設置しようという発想なのでしょう。
そう言われると反対がしにくいのですが、、、、。
ヨーロッパに行くと歴史的景観地区とか旧市街とか日本よりはるかに多くの歴史的建物が保存されていますが、どこにいってもバリアフリーなんてありません。
長い歴史を持つ階段だらけです。
その違いはなんでしょうか。
私が思うには歴史的な建物はそれ自体が芸術的価値の高いものが多いと思います。
その価値に日本人は本当の意味で気付いているのでしょうか。
そこにバリヤフリーだのエレベータだのを付ける行為は、芸術品に泥を塗るような行為に思えるのです。
古い建物を利活用するという事は否定しませんが、いろいろな活用法保存方があると思います。
先の市役所の解体もそうですが、歴史的な価値や風景、思い入れに無頓着な人が多すぎます。
これは旭川だからとか日本人だからとかいうよりも、小さいころからの教育や社会構造によるものだと思っています。
安くて便利なものを大量に作って大量に消費する事を最良の価値観として発展した戦後50年。
これが歴史に思いを込めない多くの人たちを産んだ最大の原因だと思っています。
100年、200年という歴史的な建物に住んでいる人は、そこを壊そうなんて発想すらないのでしょう。
たかが30年や40年で老朽化、狭隘化といわれる建物に住む日本人には、壊して建替えることが最善と思えるのでしょう。
その感覚でものを見るから、市庁舎も壊してしまえば良いと思えるし、歴史的な建物にも不便ならエレベーターを付ければ良いと思うのでしょうね。
この価値観は簡単に変わるものではないでしょう。
今は50年後に壊すのがもったいないと思えるような素晴らしいものを作るしかないんでしょうね。
 

Re: 旭川の写真集

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 9月 1日(木)10時14分16秒
返信・引用
  momongaさんへ

> かんじさんへ
>
> 昭和8年に「松竹座通り」を「銀座通り」に改めた事は旭川市史にも載っています。
> あと、それらをぴったり裏付ける商店街関係者と思われる記述が下記サイトにあります。
> (掲載記事一覧の『銀座はこうして歩んできた』)
> 個人的には松竹座通りの名が残っていれば良かったのになあ、と思います。
> 「何でここが松竹座通りなの?」という疑問から歴史に興味が湧きますからね。

なるほど、銀座通りの由来・変遷が良くわかります。
それにしても変わり過ぎの感もありますけど(^^;

なんで銀映座から銀座って間違いが正されないんでしょね。
逆に、銀座通りに映画館を作ったので、「銀 映 座」なんじゃないですかね?

実は「旭川・上川の昭和」って写真集のキャプションは川島教授他4人で書いたのですが、つい先週最終校正を行っていました。
田中さんにも見てもらった方が良かったかも知れませんが、バタバタとあわただしい日程だったので無理だったかな。
もし、この写真集の説明に間違いがあれば、私にもほんのちょっぴり責任があるかも。


 

Re: 旭川の写真集

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 8月30日(火)15時17分26秒
返信・引用 編集済
  かんじさんへ

昭和8年に「松竹座通り」を「銀座通り」に改めた事は旭川市史にも載っています。
あと、それらをぴったり裏付ける商店街関係者と思われる記述が下記サイトにあります。
(掲載記事一覧の『銀座はこうして歩んできた』)
http://motonr.net/furusato/?news=%E5%A4%A7%E6%88%90%E5%9C%B0%E5%8C%BA%E3%81%A0%E3%82%88%E3%82%8A%EF%BD%9E%E3%80%80%EF%BC%93%EF%BC%90%E5%91%A8%E5%B9%B4%E7%89%B9%E9%9B%86%E5%8F%B7%EF%BC%88%EF%BC%91%EF%BC%99%EF%BC%98%EF%BC%95%E5%B9%B4#tikudayori4-1985

でもって、この松竹座ですが、その前の錦座から松竹座に劇場名が変わったのが昭和7年の事なんですね。
つまり、「錦座通り」が「松竹座通り」に代わって僅か1年で「銀座通り」が誕生した事になります。
これは松竹座通りが定着しない内に、道路や街路灯の整備を機に、当時”今風”の銀座通りに改名したのではないでしょうか。
劇場としての松竹座はそれから終戦後まで続きましたから、
確かに銀座通りと松竹座通りが両方使われてた可能性はありますね。

個人的には松竹座通りの名が残っていれば良かったのになあ、と思います。
「何でここが松竹座通りなの?」という疑問から歴史に興味が湧きますからね。

 

Re: 旭川の写真集

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 8月30日(火)11時36分21秒
返信・引用
  > No.1315[元記事へ]

momongaさんへ

momongaさんへ
>誤解された歴史が広まる前にぜひ訂正してほしいものです。
そうなんですよね。
間違った史実でも印刷物になるとそれが一生残ってしまうので、それを読んだ方がまた間違った歴史を語ることにより間違いが広がってしまうんです。
それが恐いですよね。
特に影響力が大きな旭川市史なんかでは、次に改訂版がでるまで修正できないのですから書いてあることが事実化してしまいます。
私が気付いたのは「忠別橋が当初神楽橋と呼ばれていた」って旭川市史の間違いですが、それはもうあちこちで引用されまくっています。
momongaさんの「神楽町が出来る前に神楽橋ってのは変じゃね?」って疑問から調べると、忠別橋が出来た時の渡橋式の新聞記事から忠別橋って書かれていて、市史の間違いである事が解りましたよね。

「銀座通り」も一人歩きしてるようですね。
昭和8年に整備された時に「銀座通り」と呼ぶようになったという事ですが、
その資料はお持ちですか?
松竹座が昭和の21年まであったのでしたら、それまでの呼び名を変えるのは簡単では無かったように思うのですが。
銀映座ができてやっと銀座通りの名が定着したのかも知れないなぁと思ったりしました。

ま、「師団通り」は一夜にして「平和通り」に変わったと想像されますが、、、(^^;


 

Re: 旭川の写真集

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 8月27日(土)11時41分5秒
返信・引用
  かんじさんへ

最近立て続けに写真集が発刊になってますよね。いったいどうしたんでしょうね。
平成も既に28年、、、戦争どころか昭和すら知らない世代が増えてきたので、という事でしょうか。(^^;)

少し前に発刊された『写真が語る旭川』は購入しました。
昭和54年発刊の写真集も持ってますが、明治大正期の古い写真になるとどうしても同じ写真が多く、
新発見でもない限り、そう何冊もいらないって感じですね。

ちなみに『写真が語る旭川』では、銀座通りの名前由来など2,3誤った記述が見られました。
銀座通りの名称も、由来に誤解が多い名称の一つです。
誤解された歴史が広まる前にぜひ訂正してほしいものです。



銀座通りの由来
http://9008.teacup.com/momonga_farm/bbs/1068
 

旭川の写真集

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 8月25日(木)17時46分4秒
返信・引用
  道新に載っていましたが、
・我が青春の街角へ、旭川、昭和ノスタルジー 2500円+税
さらに
・旭川・上川の昭和  9990円
2冊の写真集が出るようですね。

どちらも買わないと思うけど、見て衝撃的な写真があれば買うかも知れません。

 

見学会のご案内

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 8月17日(水)17時48分24秒
返信・引用 編集済
  旭川の歴史的建物の保存を考える会主催
見学会のお知らせです。

実施日9月11日(日)
内容:貸し切りバスに乗って、北空知の明治建築と美唄のアルテピアッツアを訪ねます。
参加費:貸し切りバス、豪華昼食代含め 6,500円
申し込み締切:9月7日(水)
見学予定建物:
深川市:国見峠(公園)、音江法華駅逓所跡、鷲田農場事務所、旧拓殖銀行深川支店
滝川市:三浦華園旧館、旧拓殖銀行滝川支店、旧今井呉服店
美唄市:桜井家住宅、アルテピアッツァ美唄、
----------------------------
今回の見学会は在りし日の上川道路を辿りながら、深川、滝川、美唄の各市にある歴史
的建物を見学し、メインは現在芸術の発信地となっている安田侃の作り上げた芸術広場(ア
ルテピアッツァ美唄)を訪ねます。
アルテピアッツァは昭和21 年築造の旧栄小学校木造校舎を見事なまでに活用して、保育園、
安田侃彫刻ギャラリーを中心とし、多くの彫刻の配された広大な公園敷地全体を心地よい風
が流れている場所です。
歴史的建物の再生活用方法として、梁を見せる天井や彫刻の配置、現幼稚園への転用など見
事なまでの再生に驚かされます。
北空知の建築物も旧拓銀の荘厳なギリシャ風の柱や吹き抜けなどを特別に見学します。
------------------------------
私とmomongaさんも参加します。
都合の良い方はぜひ参加を。
連絡はmomongaさんへメールか、ここの掲示板でも良いですよ。
見学会に関しての質問も受け付けまーーーす。

かんじ
 

Re: 素朴な疑問から、、、

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 8月 5日(金)13時58分23秒
返信・引用
  momongaさんへ

> ですから、へたをすると本来の史実追及ではなく、イデオロギー論議の様になってしまう事を恐れました。
>
> 私は、歴史に特定のイデオロギーを持ち込んで捻じ曲げられるのが何よりも嫌いです。
> 好き嫌いと言うよりもそれは歴史の捏造だからです。

お気持ち、物凄く良く解ります。
この掲示板とmomongaさんのサイトは「史実の追及」、これが絶対のテーマですから。
それを大きく掲げていれば、イデオロギー色は薄まってゆくことでしょう。

あずさんへ

あ、写真ね。
小学校の集合写真は実家に行けばとってあると思います、私のも兄のも。
そうかぁ。今となってはそれも重要な過去の資料なんですね。
思ってもみなかった。
でも、公開となるとネットが普及した現在では色々な問題があることも事実のようです。
おそらく私のような年代の小学校の白黒写真を公開しても問題は起きないと思いますが、
最近の卒業アルバムを公開すれば一発でアウトでしょう。
その線引きがわからない。
個人的に公開したり、閲覧制限をするような状態ならできるでしょうが、、、、。
ああぁ、いやな世の中だ。
 

Re: 素朴な疑問から、、、

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 8月 5日(金)12時13分19秒
返信・引用
  >あずさん >かんじさん

お二人とも、貴重なご意見をありがとうございます。


>間違いなく歴史の認識って立ち位置によって見え方は変わりますが、少なくとも旭川に住むアイヌの近代史くらいは、【論・旭川】掲示板で大っぴらに伝えても良いのかと思いますよ。
>それらを無くして、なにが【論・旭川】だなんてツッコミがあるかもね…。(笑)

これはたいへん痛いところを突かれました。(^_^;)
先のレスでも言いましたが、私は敢えてこの問題を避けてきたところがあるんですよ。
自分の勉強不足もありますけどね。


ぶっちゃけ、その理由を白状しますと、
アイヌ問題は、戦後になって特定政党・団体と結びついた政治的イデオロギー色が非常に強いからです。
その影響か、過去のアイヌ史に戦後の価値観・人権感覚を持ち込んだ、史実を脚色した論調が多々見受けられます。
その目的は何かと言うと、過去和人(日本)が行なってきた事を否定したいだけです。

私がかんじさんに”暗黒面”と言ったのは、そういった論調にぶつかる可能性が高いと思ったからです。
(かんじさんが読まれた「旭川・アイヌ民族の近現代史」を指してる訳ではありません)
当掲示板は、あずさんもご存知のように、興味ある話題が始まると納得行くまで突っ込んで行きますからね。(笑)
ですから、へたをすると本来の史実追及ではなく、イデオロギー論議の様になってしまう事を恐れました。

私は、歴史に特定のイデオロギーを持ち込んで捻じ曲げられるのが何よりも嫌いです。
好き嫌いと言うよりもそれは歴史の捏造だからです。


まあ、でも、当掲示板に来られる方々にそんな心配は失礼でした、すみません。


 

Re: 素朴な疑問から、、、

 投稿者:あず  投稿日:2016年 8月 4日(木)23時27分36秒
返信・引用
  > No.1309[元記事へ]

かんじさんへ

興味って素朴な疑問からはじまると思います。
私が郷土の歴史について知ろうと思ったきっかけは、屯田兵がどのような行程で旭川に来たのか…でした。

チラッと調べると、あれ?旭川まで鉄道も通ってないじゃない!?
それで、「旭川兵村記念館」に行って、たまたまお話をうかがうことからはじまりました。

> アイヌの歴史全般について深く論ずるなら、アイヌの情報に特化した掲示板も他にはあるようなのでそちらの方が良いような気がします。
> また、アイヌだけでなく朝鮮人や囚人といった労働力の歴史とも深い繋がりがあることもわかりましたが、それもそれだけで別のジャンルとして語れるような内容なんですね。

かんじさん、なんかゴメンナサイですが個人的にはそんな裏的な歴史も踏まえて現代にたどり着きたいような気がします。その上で旭川があるんだよって、後世に残していかなければと思います。

「【論・旭川】 掲示板」は、私の知る限り真摯に旭川についてお話のできる唯一の掲示板だと思っています。

> ちなみに、私は近文小学校で私の兄の担任の先生は「荒井和子」先生でした。
> 小学校のクラスの集合写真にはアイヌの方がチラホラ入っています。
> 家の2件隣には熊の木彫りを作る家があってチューブチョコレートの舐めながらよく覗いていました。
> 先日、川村カ子ト記念館に行って川村兼一さんにお会いしましたが、さすがにお顔も髭も眉も濃いぃですね~。

かんじさん、これこそが後世に残る貴重な体験であり貴重な言葉だと思います。
「荒井和子」さんは、「焦らず 挫けず 迷わずに」という著書の中に、「エポカシ エカッチの誕生」から「やっと 先生になれた」まで書かれています。当時のアイヌとシャモ(日本人…)の関わりが解る名著です。

アイヌの民についての記述は悩みどころがあります。どこまで個人情報になるのかです…。
自身から発信されているものもあるし…。

ネット上にあるから良いのか。。。
事実は事実として(思い出としても…)はありなのだろうか。。。

もしも、かんじさんの見た集合写真をネット上に公開しても良いのだろうか…。

その時々で判断が必要ですが、過去も現在も著名人であるからこそ何かしら文字として残ることもある。
それらの良し悪しは別にしてですが、それでも残しておいた方が良いと思っています。

残せるだけ残して、不要なものは謎を残すかもしれませんが、未来に託しても良いのではないでしょうか。

 

素朴な疑問から、、、

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 8月 4日(木)11時21分54秒
返信・引用
  私のあのアイヌ記念館は何だったんだ?という疑問から始まって思わぬ方向の近文アイヌの壮大な歴史にまで広がってしまいそうですね。
ここの掲示板も、昔あそこには○○があって的な情報交換から、明治以降の旭川全般の歴史まで幅の広い内容を扱っていますので、何かを掘り始めるときりがないですね。
アイヌ情報一部の確認や特定の事実に関して旭川の歴史の一部を論ずるなら良いですが、
アイヌの歴史全般について深く論ずるなら、アイヌの情報に特化した掲示板も他にはあるようなのでそちらの方が良いような気がします。
また、アイヌだけでなく朝鮮人や囚人といった労働力の歴史とも深い繋がりがあることもわかりましたが、それもそれだけで別のジャンルとして語れるような内容なんですね。

ちなみに、私は近文小学校で私の兄の担任の先生は「荒井和子」先生でした。
小学校のクラスの集合写真にはアイヌの方がチラホラ入っています。
家の2件隣には熊の木彫りを作る家があってチューブチョコレートの舐めながらよく覗いていました。
先日、川村カ子ト記念館に行って川村兼一さんにお会いしましたが、さすがにお顔も髭も眉も濃いぃですね~。


 

Re: アイヌ民族迫害の歴史

 投稿者:あず  投稿日:2016年 8月 2日(火)22時36分19秒
返信・引用
  > No.1305[元記事へ]

momongaさんへ

レスをいただきありがとうございます。

> 正直言って私はアイヌ問題だけにスポットを当てた歴史は敢えて避けてきましたので…。

まったく同感で、旭川を論ずるのにアイヌ関連を特化してはいけません。
しかし、アイヌ関連を避けては、旭川の歴史を論ずることはできません。

> 旧土人保護法との兼ね合いもありますが、まずはこういった大局的な流れを押さえておくべきかと思います。

もちろん大局的な観点は必要ですよね。
ただ、個人的な興味としてはなぜ大局的な切り口が必要だったのか、それによって和人・アイヌ人がどう思ったのか、どのような生活を送ったのかを疑似体感したいのです。

たとえば、知里幸恵さんが学校から帰って来て、寝っ転がって…。
それで怒られたなんて日常の風景を知ることが楽しいのです。

> この学校の評価が分かれるように、豊栄小学校の校長を務めた佐々木長左衛門という人の評価も二極化してますよね。

あえて伏せていましたが、「佐々木長左衛門」の名が出ました。
彼の著作を読んでみるのもお勧めしますよ。当時の和人とアイヌの日常が見えてきます。

なんだかんだ言って、結局「観光アイヌ」と「アイヌ民族」の温度差が現在まで累々…。

> アイヌ人にまつわる歴史的事象は、和人側に立つかアイヌ側に立つかで極端に変わってくる典型例だと思います。

間違いなく歴史の認識って立ち位置によって見え方は変わりますが、少なくとも旭川に住むアイヌの近代史くらいは、【論・旭川】掲示板で大っぴらに伝えても良いのかと思いますよ。

それらを無くして、なにが【論・旭川】だなんてツッコミがあるかもね…。(笑)

 

Re: コーチャンフォーへの懸念

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 8月 2日(火)21時47分11秒
返信・引用
  名無しさんへ

何年も前の書き込みへのレスなので、まるでタイムスリップしたみたいですね。^^;

2代目との事ですが、
ブックス平和は昭和50年頃だったかな、市内5つの書店が合併してできた書店ですし、
町井楽器は、法人になったのはいつ頃なのか私も知りませんが、昭和初期からあった老舗でした。
どこからどう数えた2代目なんでしょう?

 

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