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Re: 零丁目の謎

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 1月25日(水)11時57分31秒
返信・引用
  > No.1342[元記事へ]

momongaさんへ

> 私もこれは気付きませんでした。
ふふふ、私の功労賞かな。

> 面ではなく道路の数、あるいは境界線の数で数えない限り有り得ません。
> 実にややこしい話です。
なぜこのような事が起こったのか、考察してみます。

> 実際問題、旭川の歴史を振り返った時、この事に起因する誤解も多いようです。
旭川開村初期の記述は住所に関して区画を表していなかったという事を念頭に読み直す必要があるかも知れませんね。


さて、〇丁目が区画を表していないなんて事が起こったのは何故か?
考察してみました。

旭川周辺の開拓にあたり道庁は地図上に巨大なマス目の線引きを行います。
そしてその線は道路となります。
道路となったところに人が住みつきます。
つまり開拓に入った住民は大きな街に住んでいるわけではなく、先に作られたマス目の道路にそって暮らしていたのです。
そこでは〇〇丁目は区画を表しているわけではなく、〇〇丁目通りを表しています。

なので明治23年に旭川の都市計画図を最初に書いたときは、線でマス目に計画を引いたわけですが、その時点で線は通りだったわけです。
そしてその時には通りはイコール住所であったわけです。

ところが旭川は住民を集約し町として面を構成する計画であったので、区画という概念で無ければ土地を分割貸与することができないですから、それまでの道路イコール住所という表記ではまずいという事に直ぐに気付いたのでしょう。

外国の住所もほとんど道路名が住所ですよね。〇〇ストリート〇丁目右〇番ってね。
世界中どこでも道路に人が住み着くってのは基本ですから。
それから言えば、マス目であろうと道路を作ってそれが条であろうと丁目であろうと住所になってもおかしくない訳です。
むしろ最初から大きな面として街を計画しなければ区画割なんて概念も生まれませんよね。

零丁目といえば、他にも当麻町には今でも0丁目というバス停があるし、深川にも踏切に零丁目と書かれた場所があるようです。
 

Re: 零丁目の謎

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 1月20日(金)20時27分55秒
返信・引用
  私もこれは気付きませんでした。
確かに、区画は東西方向に18区画しかないわけですから、0丁目から数えれば17丁目で終わりですよね。
一区画内を0号から数えてるのに10号まであるのも然りです。
面ではなく道路の数、あるいは境界線の数で数えない限り有り得ません。
実にややこしい話です。

実際問題、旭川の歴史を振り返った時、この事に起因する誤解も多いようです。
一般的には昔も今も区画単位で捉えられていますから、0丁目から始まる当時と現在の丁目では1丁ずれるわけです。
例えば『12号駅逓は、ほ通(現在の1条通)4丁目にあった』と”直訳”されているものが、実は現在の5丁目の事であった、という具合です。

南北方向の各条には各々仲通りがありますから、左右で区画を判別する事で混乱は生じませんが、
東西の丁目方向には仲通りの存在がありませんよね。
ここが条との大きな違いで、後に丁目だけは区画を表す方式に改めた要因だと思います。
 

零丁目の謎

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 1月19日(木)17時49分10秒
返信・引用
  momongaさんも持っていると思いますが明治25年の上川市街図です。
この右上の説明を訳してみました。
----------------------------
石狩国上川郡上川市街案内

第一市街戸数200戸  一戸割 間口6間 奥行27間
但し基線すなわち「に通り」零丁目より10丁目に至る

第二市街戸数570戸 一戸割 間口6間 奥行27間
但し基線すなわち「ほ通り」零丁目より18丁目に至る 「へ通り」1丁目より13丁目に至る

合計770戸 番号道路辻左右の角に零号を記し1丁目毎に1より起算し十に終わる
すなわち零と十とは隅を示したるものなり。

但し二市街の内
98戸分 公共地 但し 已成家屋地なり
10戸分  駅舎 但し  同上

462戸分 抽選地

第一市街地共662戸 抽選割渡相成候分
-----------------------------
解らない部分もあるのですが、なんとなくわかりますけど、なんか腑に落ちないのです。

まず旭川の地番は当初、零という地番があったというのは聞いていましたが、実際に地図を見ると丁目の数が合わないのです。
「ほ通り」つまり今の一条通りですが、一番左の丁目を零とすると順にかぞえて一番右は17丁目になります。
でも説明だと18丁目に至るって書いてあります。
第一市街でも左端を零とすると右端は9丁目になってしまいますが説明では10丁目に至るとなっています。
と、ここまで書いてヒラメキました。
条の通りと同じように、丁目も当初は通りを表しているみたいですね。
つまり零丁目は区画ではなく、左端の道路そのものを表している、「零丁目通り」なのかな。
そうすれば、第二市街地は18丁目通りで終わります。
第一市街地は10丁目通りで終わります。
あ、きっとそうだな。

もう一つ、1丁目を10に割った区画ですが、これも角に零の表示をして0~~~10までということは
終わりの区画では無く角が10という事ですよね。
ここでも数字は区画を表すのではなく、境界線を示しているようです。
だから零という表示から始まるんですね。

明治25年の旭川の街は区画ではなく、通りと丁目という境界線で表現されています。
なので始まりは零なのでしょう。

この説明を某郷土史家さんにしてみましたところ、「その通りだと思います」とのこと。
そしてこの零丁目という表示は明治30年以前に「い ろ は に 、、、」という通り名が、
宮下町通り、本町、忠別町、寺町などという町名になった時に零丁目もなくなり、1丁目から始まる表記となって、境界では無く区画を示すようになりました。
そして明治32年に町名から宮下通、1条通、2条通という現在の名称になりました。
この経緯からもmomongaさんの言うように、1条2条ではなく1条通という町名なのだから「通」を省略してはならないという事ですよね。
 

Re: 最近の不満

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 1月 8日(日)14時33分17秒
返信・引用
  まったくおっしゃる通りです。
旭川の中心部(開村時の旧第三市街予定地域)には、一般的に言う町名がありませんよね。
仮称の「いろはにほへと・・」通りに始まって、一時期「宮下町」「本町」「忠別町」「寺町」などの町名が充てられましたが、
明治32年に現在の条丁呼称になってからは頭に冠する町名が無くなりました。
と言いますか、「1条通」とか「4条通」というのがそれらに代わる町名(字名)であるわけで、それに〇丁目が付く訳です。

実は、豊岡〇条〇丁目とか曙〇条〇丁目など周辺地域も「豊岡〇条」「曙〇条」までが字名でありそれに〇丁目が付されます。
つまり、単に1条とか4条とか言われても、それは正確には旭川市内どこの住所も表していないことになります。
「〇条通」と「通」の文字が付いてはじめて中心市街地の住所である事が確定できる訳ですね。

旭川中心部の、条通りを中心に置いたこの住所表記方法は京都に模したと言われ、独特のものがあります。
「右」「左」で区画を判別する方法も、京都のようで京都にもない旭川独自の表記方法です。
バス停に「通」の文字を入れるだけでなく、できれば西に向かうバス停には「右」東に向かうバス停には「左」を追加してほしいものです。

 

最近の不満

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 1月 7日(土)09時52分9秒
返信・引用
  最近気になる不満
地名に拘るmomongaさんなら共感してもらえると思うんだけど、バス停名の表示がありますよね。
アモール前の歴史的なバス停名、追分が豊岡3条2丁目に変更になった時は、momongaさんも強い不快感を表明していましたよね。
今の私の不満は4条1丁目とか3条9丁目とかの街中のバス停名に「通」の文字が省略されていることです。
札幌も街中区画は碁盤の目であり◯条◯丁目の表記です。
が、旭川は本通りを挟んで左右が同じ条であり、「通」があってはじめて成立する住所表記なのです。
この表記も歴史的なものであり、旭川の文化として継承したいものと思っています。
なので歴史的な背景を無視した◯条◯丁目という不思議なバス停名に違和感を覚えます。
バス会社に陳情してみようかなぁ。
 

謹賀新年

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 1月 2日(月)22時34分29秒
返信・引用
  あけましておめでとうございます。
今年も宜しくおねがいします。
旭川の歴史を探求し正確な史実の発掘の日々を今年も追及します。
先日、年末の挨拶で博物館長にアイヌ語の自動翻訳ソフトの可能性を持ちかけましたが、色良い返事をもらえず少し悲しかった。
アイヌ語には文字が存在しないので、話せる人がいなくなるとその時点でアイヌ語が消滅します。
そこで話せる人がいるうちに翻訳ソフトを作れば、後世にアイヌ語が残ると思ったのですが、、、、。
 

新年

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 1月 1日(日)09時14分53秒
返信・引用 編集済
  明けましておめでとうございます。

今年も「論・旭川」掲示板を宜しくお願い致します。


なんだか近年は晴れ上がってグンと冷え込む旭川らしい冬日が少ないですよね。
そのぶんダイヤモンドダストや樹氷の発生が以前に比べ少ない気がします。
寒さはこれからが本番ですが、雪はもういらないですネ。^^;

 

(無題)

 投稿者:アリョーナ  投稿日:2016年12月31日(土)06時49分58秒
返信・引用
  ダイヤモンドダスト綺麗よ  

ひと月早い冬です

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年12月 4日(日)18時32分21秒
返信・引用
  今年も早や師走がやってまいりました。
と言いたいところですがそれよりも、ひと月も早くやって来たドカ雪と積雪に辟易としています。

この11月の降雪量は何と203センチ。
10月にも26センチ降っており、12月に入って今日までの累積降雪量は既に248センチにも達します。
例年ですと、根雪になるかどうかの話題はちょうど今頃が多いと思うんですが、
今冬は11月上旬から断続的にまとまった雪が降り続き、とうとうそのまま融け切らずに根雪となってしまいました。
道路脇には既に除雪の雪山が高々と積み上げられています。
それでなくとも長い旭川の積雪期間がさらに1ヶ月長くなるというのはウンザリですね。


>かんじさん
銀座通りの名称由来に関して、
商店街側とコンタクトをとるのに思ったより難儀してるみたいですネ。
「臭いものは元から絶たなきゃダメ」ですよね。

 

Re: 何とかせねば・・

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年11月 1日(火)16時32分17秒
返信・引用
  おっ、行動派のかんじさんが動き出しましたね。(^^)


私も戦前の実態というのはもちろん資料でしか知る由はないんですが、
先のレスで挙げた時系列を客観的に見て想像するに、
昭和8年に銀座通りと改めたものの、これはどうやら商店主らの意図で決めた名のようなので、すぐに定着したか?という疑問があります。
松竹座はそのままあるわけですから、一般の人々には松竹座通りの方が通じてたような気がします。
戦後、松竹座が焼失してようやく銀座通りの名が正妻の座を得て、同じような時期に銀映座が誕生したため勘違いの元となった・・・
何となくそんな気がするんですが、あくまで想像です。

いずれにしても地元商店街が自ら付けた名である訳ですから、その由来を自ら間違ってどうする、と言いたい。
今でしたら終戦前後に何と呼ばれていたかを知る方々がまだまだ健在でおられるはずです。

 

Re: 何とかせねば・・

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年11月 1日(火)09時36分19秒
返信・引用
  > No.1332[元記事へ]

momongaさんへ

> 地元商店街が、自身の名称由来すら間違った情報を発信してるというのは悲し過ぎですね。(-_-;)

時系列で精査ありがとうございます。
ということで銀座商店街振興組合に資料を持ってお邪魔してきたのです、、、、、が。
組合はあったものの普段から常駐している人は居ないようで、
組合の前から電話をしても電話が応答するばかりでした。
でもFAXが反応していましたので、
間違いや問題点を整理して、FAXで送ってみようかなと思います。

こうご期待、、。
 

Re: 何とかせねば・・

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年10月26日(水)21時31分15秒
返信・引用
  地元商店街が、自身の名称由来すら間違った情報を発信してるというのは悲し過ぎですね。(-_-;)

しかも、かんじさんが発見した情報元と思われる『銀座商店街のあゆみ』という記事の載ってるサイトですが、
なんと、私が少し前のレスで旭川市史の記述と合致するとして紹介した『銀座はこうして歩んできた』の記事と同じサイトです。
http://motonr.net/furusato/?news=%E5%A4%A7%E6%88%90%E5%9C%B0%E5%8C%BA%E3%81%A0%E3%82%88%E3%82%8A%EF%BD%9E%E3%80%80%EF%BC%93%EF%BC%90%E5%91%A8%E5%B9%B4%E7%89%B9%E9%9B%86%E5%8F%B7%EF%BC%88%EF%BC%91%EF%BC%99%EF%BC%98%EF%BC%95%E5%B9%B4#tikudayori4-1985

まあ、何と言いましょうか、
たぶんどちらも同じ商店街関係者の記事なんでしょうが、世代が変わって正確に伝わっていないという事なんでしょうね。



旭川市史の年表から銀座通りの劇場にまつわる記述をざっと拾ってみました。
旭川市史にも誤りはありますが、これだけ多数の記述が全て間違いである事は有り得ないでしょう。
これを見る限り、昭和8年以降、通りの名は銀座通りと改称されたものの、劇場名は終戦後まで「松竹座」であって「銀映座」なる名称は一言も出てきません。



明治42年 6月20日  大国座開場(45年に立花座46年に大黒座と改称)

大正 9年 9月 9日  錦座新築開場(旧大黒座)、市川左団次・松本幸四郎大一座でこけら落し
大正12年10月 3日  錦座、松竹キネマ封切館となる(松竹経営となる)

大正14年 8月27日  旭川憲政同志会第1回大会を錦座で開催
大正14年10月19日  日本農民組合関東同盟北海道連合会創立大会を旭川の錦座で開催
昭和元年 9月 5日  日本農民組合北海道連合会第2回大会を錦座で開催
昭和 2年 5月19日  改造社主催の芥川龍之介・里見弴の文芸講演と映画会を錦座で開催
昭和 3年 9月17日  全北海道結髪競技大会を旭川の錦座で開催
昭和 4年 8月18日  社会民衆党旭川支部準備会が安部磯雄党首の演説会を錦座で開催
昭和 5年 4月 3日  オーストリアのスキー指導者シュナイダー錦座で講演
昭和 7年 7月24日  政友会東北・北海道大会を錦座で開催

昭和 8年 4月 1日  錦座が松竹座と改称(錦座通りが松竹座通りとなる)
昭和 8年12月 8日  松竹座通りを銀座通りと改称(商店街によって命名)

昭和 9年 5月20日  松岡洋右の演説会を松竹座で開催
昭和10年 6月10日  ジンバリスト来旭、バイオリン独奏会を松竹座で開催
昭和11年 1月25日  三浦環独唱会、松竹座で開催
昭和12年 5月 1日  名取花柳徳初美舞踏発表会を松竹座で開催
昭和18年 2月11日  旭川松竹座、旭川松竹映画劇場と改称
昭和19年 3月11日  明治戦役勇士遺家族慰問米英撃滅戦意昂揚大会を松竹映画劇場で開催
昭和20年 8月23日  敗戦で興行を停止していた市内の東宝・日活・松竹の3映画館、上映再開

 

Re: 何とかせねば・・

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年10月26日(水)15時02分34秒
返信・引用 編集済
  momongaさんへ

> やはり誤った風説がそのまま記述されてました。(-_-;)
> 例によって「銀映座」が通りの名の由来とされています。
> しかも昭和8年には既に銀映座がある事になっていますから、二重の間違いが記述されてますね。
> 年代入りで如何にももっともらしく記述されてるぶん『写真が語る旭川』よりさらに”悪質”です。
> こういった解説文の引用元ってどこなんでしょうね。

見つけました。
というか、旭川・銀座商店街のWEBサイトがありました。
http://motonr.net/shoutengai/index.html
そこに、どうどうと
>銀座通りの呼称は、昭和8年「松竹座」から改称した「銀映座」の名に由来しています。
と書いてあります。
ありゃ、こりゃいかん。
おひざ元の商店街で既に間違っていますよ。

WEBサイトは紙ではないし、直ちに修正可能なので行動に出ましょう。

と、さらに情報元を探ると、「ふるさと情報」というページがありました。
ここに「銀座商店街のあゆみ」という記事があり、そこに書かれています。
http://motonr.net/furusato/?news=%E6%97%AD%E5%B7%9D%E9%8A%80%E5%BA%A7%E5%95%86%E5%BA%97%E8%A1%97%E6%8C%AF%E8%88%88%E7%B5%84%E5%90%88#ayumi
このページを精査して、間違いを指摘する必要がありそうです。

momongaさんこのページの精査お願いします。


 

何とかせねば・・

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年10月23日(日)12時42分22秒
返信・引用
  昨日、文具を買いに書店へ寄ったところ、写真集『旭川昭和ノスタルジー』が目に入ったので、ちらっとだけめくってみました。
他に用事もあったので、パラパラパラとめくって、手っ取り早いところで銀座通りの記述を探しました。
あったあった。

やはり誤った風説がそのまま記述されてました。(-_-;)

例によって「銀映座」が通りの名の由来とされています。
しかも昭和8年には既に銀映座がある事になっていますから、二重の間違いが記述されてますね。
年代入りで如何にももっともらしく記述されてるぶん『写真が語る旭川』よりさらに”悪質”です。
こういった解説文の引用元ってどこなんでしょうね。
少なくともこの劇場に関しては、旭川市史の年表を辿って行けば、戦前戦中まで松竹座であった事は明白です。


すぐ隣に同じく写真集『旭川・上川の昭和』も並んでいましたが、こちらはまだ見ていません。

 

Re: アルテピアッツァ

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年10月 5日(水)16時48分41秒
返信・引用
  > No.1328[元記事へ]

momongaさんへ

天気も良くて良かったですよね。
私もアルテピアッツァの素晴らしさには驚きました。
NPO法人で管理しているということですが、それを支える美唄市民に脱帽です。
旭川にもあれだけの雰囲気を持った場所はありませんよね。
札幌の芸術の森の方が規模は大きいですが、雰囲気は美唄も負けていないと思います。
安田侃という芸術家の思いがこもっているのでしょう。
あの廃校を利用した建物で普通に過ごした幼稚園生がどんな感性をもって育ってゆくのか楽しみです。

私も造形美術には疎いのですが、雰囲気を感じるだけの感性はあります。
日本の公共施設って最低だと思うんですよ。
ヨーロッパ各国の公共施設って、普通にドアだけが原色で塗ってあったり、
とんでもなく大胆なデザインだったり、なんでも「デザイン」してありますよね。
日本の公共施設って「作りました」ってだけです。
デザインへのこだわりを日本人はいつ捨ててしまったのでしょう?
たぶん、終戦で日本人は全てを無くし戦後復興で経済優先効率優先で
デザインの感性を失ってしまったのだと思います。
もちろん、一部のデザイナーなど優れた人がいることは確かですが、
町の景観や公共物の醜悪な姿を見ながらも、なんとも思わない一般市民の感性の無さが重傷だと思います。
こういった一般市民の鈍い感性が、市役所を破壊に追いやったり、古いデザイン性に優れた建物も壊してしまうのだと思います。
でもこれは市民のせいではありません。
たぶん政治のせいだと思います。
日本人には古来より美しさを求め、ち密な技法で名品を作り上げる風土を持っています。
金沢なんかにゆくと日本の美に溢れています。
美しいことをもっと評価し、そこに価値観を与えるような国づくりをしなければと思います。

> 今回の「旭川の歴史的建物の保存を考える会」のバスツアーでは空知地方の多くの建物を見学しましたが、
> かつての上川道路の歴史まで絡めたところは非常に良かったと思います。
> 古い建物と歴史は切っても切れない縁があります。
> と言いますか、古い建物は歴史そのものですよね。
> 今後も地域の歴史を絡めながらのツアーを期待します。

momongaさんの上川道路に関する名解説が素晴らしかったですよ。
その知識の豊富さに皆さん驚いていました。
 

アルテピアッツァ

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 9月13日(火)11時17分33秒
返信・引用
  たいへん良かったです。

正直、美唄にこんな素晴らしいところがあるとは思わなかったです。(美唄の皆さんすみませんm(__)m)
そもそも私は造形美術はチンプンカンプンで、その良し悪しなど全く分かりません。

これのどこが芸術なのか・・・

今回、たいへん手入れの行き届いた廃校の建物と広い庭園の随所に配置されたオブジェを見て、
「うーん、、バランスかな・・」
などと思いつつ、ほんのちょっとだけ分かったような気がしました。
あくまで、気がした、だけです。^^;


今回の「旭川の歴史的建物の保存を考える会」のバスツアーでは空知地方の多くの建物を見学しましたが、
かつての上川道路の歴史まで絡めたところは非常に良かったと思います。
古い建物と歴史は切っても切れない縁があります。
と言いますか、古い建物は歴史そのものですよね。
今後も地域の歴史を絡めながらのツアーを期待します。

 

上川道路について

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 9月 5日(月)22時00分9秒
返信・引用 編集済
  かんじさんへ

岩村通俊の命を受けて上川道路の開削を実行した高畑利宜は、元々が道庁の測量技師です。
彼自らが測量を行い、それを追うように樺戸集治監の囚人が工事をしたと言われています。
つまり測量した本人の復命書ですから、あの直線道路は高畑利宜の判断による功績でしょうね。
岩村通俊はそこまで具体的な指示はしていないと思います。
ちなみに、囚人の工事の進捗が思った以上に速く、測量を煽られたという逸話も残っています。

当時、樺戸集治監の典獄(所長)であった安村治孝という人物は、囚人を国家のために使役すべきという考えの持ち主で、
実は岩村通俊が長官に就任する前に、上川までの道路建設を想定した調査を独自に行っています。
そのような下地があったからこそ、いざ命が下ってからの驚異的なスピードで上川仮道路が実現したのでしょうね。
あるいは、基本的なルートもこの時の安村典獄の調査が基準になっていたかもしれません。


wikipediaですか?
私も随分と参考にさせてもらう事が多いですが、必ずしも信用できる訳ではありませんよね。
でも、これだけネット情報の影響が大きくなっていますから、
史実を矯正する手段としての利用は考えるべきかもしれませんね。

 

Re: サイトを移転しました

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 9月 5日(月)17時38分18秒
返信・引用
  > No.1324[元記事へ]

momongaさんへ

> 「論・旭川」サイトを移転しました。
momongaさんWEBサイトの移動と変更お疲れ様でした。

さて、先日「間違った史実が正されずに拡散してゆく」事を問題として取り上げましたが、面白い事例を見つけましたので書かせてください。
最近、上川道路の成り立ちに関して調べていたのですが、中でも良く話題として取り上げられます「日本一長い直線道路」が上川道路の特徴でもありますよね。
これは上川道路開削の際に誰かが「真っ直ぐに作れ」と命じたために、ただひたすら真っ直ぐに作った、というのが定説になっています。(というか私はそう思っていました)
そこで、誰がどういう形で命じたのかをネットで調べていたのです。
そうすると、上川道路は明治19年に5月に月形町の樺戸集治監の囚人が駆り出され、わずか90日後の8月に幅約2メートルの道路が仮開通した。
とされています。
そしてそれに続けて「この工事の復命書に「可成(なるべく)直線路に為すを主とし」とあったことから、美唄市 - 滝川市間の日本一長い直線道路が誕生した。」とあるのです。
ほぅ!と思いながらも「?? 復命書?」と思ったのです。
私の知識で復命書とは「命令を受けて物事を行った後に出す報告書」の事です。
○○しなさいというのは命令であって、復命書というのは事後の報告です。

なのでこの文章は明らかにおかしい。

それが、この件を検索するとものの見事に
「工事の復命書に『可成(なるべく)直線路に為すを主とし』とあったことから、美唄市-滝川市間の日本一長い直線道路が誕生した。」
という文章がまるまるコピーされて、もの凄い数のサイトに掲載されているのです。
誰も復命書という言葉に疑問を持たないんだなぁ。
まぁ、Wikipediaにまで載っているので、そのまま鵜呑みにするんでしょうね。

で、もう少し調べてみると、この復命書というのは岩村通俊から命じられた、高畑利宜が書いたものなんですね。
つまり高畑利宜が工事を行った後に書いた報告書の中に
『可成(なるべく)直線路に為すを主とし』
「上川道路は重要道路につき、他日不十分無きよう、なるべく直線道路となす」という文があるという事です。
これでは誰かに直線とするよう命じられたのかどうかまでは解りません。
ただ、高畑が「直線にしたよ」と復命書の中で書いてあるだけです。

とういうことでWikipediaを少し書き直してみました。

そうだ。momongaさんに提案です。
旭川の市史をWikipediaに書くってのはどうですか?
壮大な計画になっちゃうかもしれませんが、一部でも良いし、momongaさんのライフワークにしても良いかも知れません。
ただ、誰でも加筆修正できるので必ずしもmomongaさんの意図する内容通りにはならないかも知れませんけどね。
または市史でなくとも「何もない街」の内容ってWikipediaに載せてもおかしくない物が多い気がしますけど。
さて、大胆すぎますかぁ(^^;
 

サイトを移転しました

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 9月 3日(土)19時37分11秒
返信・引用
  「論・旭川」サイトを移転しました。

新しいURLは次のとおりです。
http://ron-asahikawa.la.coocan.jp


旧アドレスには移転案内が出ますが、
もしお気に入りに登録されてる方、あるいはリンクされてる方がおられれば変更をお願いいたします。

なお、前レスに書きました通り、
当掲示板のURLには変更ありません。

 

お知らせです

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 9月 3日(土)13時30分25秒
返信・引用
  「論・旭川」のトップページを更新しました。
これまでのエントランスページを廃止し、メインページと併合しました。
お使いのブラウザの設定によってはこれまでのエントランスページがそのまま表示される事があります。
その場合、ブラウザの設定で閲覧データのクリアを実行されると新しいページが表示されます。

なお、「論・旭川」は現在引っ越し作業中です。
引っ越しが完了しますと、URLも変更になりますので宜しくお願いします。


ただし、その場合でも当掲示板のURLは変更ありません。

 

Re: 歴史的建物の保存に関する考え方

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 9月 2日(金)14時14分26秒
返信・引用
  > No.1319[元記事へ]

> これは良いか悪いかという問題ではないと思うのですが、日本は世界的に見ても極端にバリアフリーの進んだ国です。
> ヨーロッパに行くと歴史的景観地区とか旧市街とか日本よりはるかに多くの歴史的建物が保存されていますが、どこにいってもバリアフリーなんてありません。

よく日本は欧米諸国に比べ障害者対策が遅れているように言われますが、根拠がありませんよね。
米国の都市や建物や観光地へ行っても、車イスの方は多く見受けられるものの、バリアフリーは少ないと思います。
ただし、例えば車イスの方が難儀しているのを見ると、近くにいる人が「これは私に課せられた義務だ」と言わんばかりにサっと寄って来て介助します。
この辺の意識は日本人は遅れているかな、と感じます。
日本人は照れ屋だからなかなか行動しないという面もありますけどね。
日本の障害者対策の考え方は、あくまでハードウェア対策中心ですよね。

 

Re: 旭川の写真集

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 9月 2日(金)13時51分1秒
返信・引用
  >逆に、銀座通りに映画館を作ったので、「銀 映 座」なんじゃないですかね?

たぶんそういう事だと思いますが、実はこの手の間違いって多い気がします。
つまり、時系列で考えれば明らかにおかしいのに何故か気が付かれずに定説化してしまってるんですよね。


神楽橋の間違いも同じ事が言えます。
実際に神楽橋という呼称が使われ始めたのは、架橋の翌年、神楽村が開村した明治25年以降の事だったはずです。
そうでなければ、まだ存在しない村の名が橋に付けられた・・・となります。

おそらく、正式名称は架橋時から一貫して忠別橋だったのでしょうが、名前の存在感が薄かったのかな。
旭川の市街地に本格的に移住民が住み始めた頃には既に神楽村があったので、人々は神楽橋と呼んだのでしょうね。


極めつけは旭川の地名由来もそうです。
定説となってしまっているアイヌ語由来、永田方正によるチュッペの「日の出」意訳ですが、
彼が上川の調査をする前に、全く同じ意訳が永山武四郎の部下によって新聞発表されてる大矛盾を誰も指摘しない不思議。


史実の誤りはできるだけ早い時期に修正されるべきですね。
かんじさんおっしゃるように、主軸は旭川市史であるので、訂正版を出すなどの対策が欲しいです。

 

歴史的建物の保存に関する考え方

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 9月 2日(金)13時45分44秒
返信・引用
  旭川では現在市庁舎を立て替える計画が進んでおり、現庁舎の解体に反対する市民が声を上げるなど話題になっています。
そんな中、今日の新聞で札幌の道庁の改修計画に関する記事がありました。
明治時代の歴史遺産を利活用しようという動きですが、その中でバリアフリーを進めるために中央にエレベーターを設置するというものです。
これは良いか悪いかという問題ではないと思うのですが、日本は世界的に見ても極端にバリアフリーの進んだ国です。
全ての駅は車いすで利用できるようになっており、障害者が利用できるようになっています。
なので、赤レンガの道庁もエレベータを設置しようという発想なのでしょう。
そう言われると反対がしにくいのですが、、、、。
ヨーロッパに行くと歴史的景観地区とか旧市街とか日本よりはるかに多くの歴史的建物が保存されていますが、どこにいってもバリアフリーなんてありません。
長い歴史を持つ階段だらけです。
その違いはなんでしょうか。
私が思うには歴史的な建物はそれ自体が芸術的価値の高いものが多いと思います。
その価値に日本人は本当の意味で気付いているのでしょうか。
そこにバリヤフリーだのエレベータだのを付ける行為は、芸術品に泥を塗るような行為に思えるのです。
古い建物を利活用するという事は否定しませんが、いろいろな活用法保存方があると思います。
先の市役所の解体もそうですが、歴史的な価値や風景、思い入れに無頓着な人が多すぎます。
これは旭川だからとか日本人だからとかいうよりも、小さいころからの教育や社会構造によるものだと思っています。
安くて便利なものを大量に作って大量に消費する事を最良の価値観として発展した戦後50年。
これが歴史に思いを込めない多くの人たちを産んだ最大の原因だと思っています。
100年、200年という歴史的な建物に住んでいる人は、そこを壊そうなんて発想すらないのでしょう。
たかが30年や40年で老朽化、狭隘化といわれる建物に住む日本人には、壊して建替えることが最善と思えるのでしょう。
その感覚でものを見るから、市庁舎も壊してしまえば良いと思えるし、歴史的な建物にも不便ならエレベーターを付ければ良いと思うのでしょうね。
この価値観は簡単に変わるものではないでしょう。
今は50年後に壊すのがもったいないと思えるような素晴らしいものを作るしかないんでしょうね。
 

Re: 旭川の写真集

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 9月 1日(木)10時14分16秒
返信・引用
  momongaさんへ

> かんじさんへ
>
> 昭和8年に「松竹座通り」を「銀座通り」に改めた事は旭川市史にも載っています。
> あと、それらをぴったり裏付ける商店街関係者と思われる記述が下記サイトにあります。
> (掲載記事一覧の『銀座はこうして歩んできた』)
> 個人的には松竹座通りの名が残っていれば良かったのになあ、と思います。
> 「何でここが松竹座通りなの?」という疑問から歴史に興味が湧きますからね。

なるほど、銀座通りの由来・変遷が良くわかります。
それにしても変わり過ぎの感もありますけど(^^;

なんで銀映座から銀座って間違いが正されないんでしょね。
逆に、銀座通りに映画館を作ったので、「銀 映 座」なんじゃないですかね?

実は「旭川・上川の昭和」って写真集のキャプションは川島教授他4人で書いたのですが、つい先週最終校正を行っていました。
田中さんにも見てもらった方が良かったかも知れませんが、バタバタとあわただしい日程だったので無理だったかな。
もし、この写真集の説明に間違いがあれば、私にもほんのちょっぴり責任があるかも。


 

Re: 旭川の写真集

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 8月30日(火)15時17分26秒
返信・引用 編集済
  かんじさんへ

昭和8年に「松竹座通り」を「銀座通り」に改めた事は旭川市史にも載っています。
あと、それらをぴったり裏付ける商店街関係者と思われる記述が下記サイトにあります。
(掲載記事一覧の『銀座はこうして歩んできた』)
http://motonr.net/furusato/?news=%E5%A4%A7%E6%88%90%E5%9C%B0%E5%8C%BA%E3%81%A0%E3%82%88%E3%82%8A%EF%BD%9E%E3%80%80%EF%BC%93%EF%BC%90%E5%91%A8%E5%B9%B4%E7%89%B9%E9%9B%86%E5%8F%B7%EF%BC%88%EF%BC%91%EF%BC%99%EF%BC%98%EF%BC%95%E5%B9%B4#tikudayori4-1985

でもって、この松竹座ですが、その前の錦座から松竹座に劇場名が変わったのが昭和7年の事なんですね。
つまり、「錦座通り」が「松竹座通り」に代わって僅か1年で「銀座通り」が誕生した事になります。
これは松竹座通りが定着しない内に、道路や街路灯の整備を機に、当時”今風”の銀座通りに改名したのではないでしょうか。
劇場としての松竹座はそれから終戦後まで続きましたから、
確かに銀座通りと松竹座通りが両方使われてた可能性はありますね。

個人的には松竹座通りの名が残っていれば良かったのになあ、と思います。
「何でここが松竹座通りなの?」という疑問から歴史に興味が湧きますからね。

 

Re: 旭川の写真集

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 8月30日(火)11時36分21秒
返信・引用
  > No.1315[元記事へ]

momongaさんへ

momongaさんへ
>誤解された歴史が広まる前にぜひ訂正してほしいものです。
そうなんですよね。
間違った史実でも印刷物になるとそれが一生残ってしまうので、それを読んだ方がまた間違った歴史を語ることにより間違いが広がってしまうんです。
それが恐いですよね。
特に影響力が大きな旭川市史なんかでは、次に改訂版がでるまで修正できないのですから書いてあることが事実化してしまいます。
私が気付いたのは「忠別橋が当初神楽橋と呼ばれていた」って旭川市史の間違いですが、それはもうあちこちで引用されまくっています。
momongaさんの「神楽町が出来る前に神楽橋ってのは変じゃね?」って疑問から調べると、忠別橋が出来た時の渡橋式の新聞記事から忠別橋って書かれていて、市史の間違いである事が解りましたよね。

「銀座通り」も一人歩きしてるようですね。
昭和8年に整備された時に「銀座通り」と呼ぶようになったという事ですが、
その資料はお持ちですか?
松竹座が昭和の21年まであったのでしたら、それまでの呼び名を変えるのは簡単では無かったように思うのですが。
銀映座ができてやっと銀座通りの名が定着したのかも知れないなぁと思ったりしました。

ま、「師団通り」は一夜にして「平和通り」に変わったと想像されますが、、、(^^;


 

Re: 旭川の写真集

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 8月27日(土)11時41分5秒
返信・引用
  かんじさんへ

最近立て続けに写真集が発刊になってますよね。いったいどうしたんでしょうね。
平成も既に28年、、、戦争どころか昭和すら知らない世代が増えてきたので、という事でしょうか。(^^;)

少し前に発刊された『写真が語る旭川』は購入しました。
昭和54年発刊の写真集も持ってますが、明治大正期の古い写真になるとどうしても同じ写真が多く、
新発見でもない限り、そう何冊もいらないって感じですね。

ちなみに『写真が語る旭川』では、銀座通りの名前由来など2,3誤った記述が見られました。
銀座通りの名称も、由来に誤解が多い名称の一つです。
誤解された歴史が広まる前にぜひ訂正してほしいものです。



銀座通りの由来
http://9008.teacup.com/momonga_farm/bbs/1068
 

旭川の写真集

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 8月25日(木)17時46分4秒
返信・引用
  道新に載っていましたが、
・我が青春の街角へ、旭川、昭和ノスタルジー 2500円+税
さらに
・旭川・上川の昭和  9990円
2冊の写真集が出るようですね。

どちらも買わないと思うけど、見て衝撃的な写真があれば買うかも知れません。

 

見学会のご案内

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 8月17日(水)17時48分24秒
返信・引用 編集済
  旭川の歴史的建物の保存を考える会主催
見学会のお知らせです。

実施日9月11日(日)
内容:貸し切りバスに乗って、北空知の明治建築と美唄のアルテピアッツアを訪ねます。
参加費:貸し切りバス、豪華昼食代含め 6,500円
申し込み締切:9月7日(水)
見学予定建物:
深川市:国見峠(公園)、音江法華駅逓所跡、鷲田農場事務所、旧拓殖銀行深川支店
滝川市:三浦華園旧館、旧拓殖銀行滝川支店、旧今井呉服店
美唄市:桜井家住宅、アルテピアッツァ美唄、
----------------------------
今回の見学会は在りし日の上川道路を辿りながら、深川、滝川、美唄の各市にある歴史
的建物を見学し、メインは現在芸術の発信地となっている安田侃の作り上げた芸術広場(ア
ルテピアッツァ美唄)を訪ねます。
アルテピアッツァは昭和21 年築造の旧栄小学校木造校舎を見事なまでに活用して、保育園、
安田侃彫刻ギャラリーを中心とし、多くの彫刻の配された広大な公園敷地全体を心地よい風
が流れている場所です。
歴史的建物の再生活用方法として、梁を見せる天井や彫刻の配置、現幼稚園への転用など見
事なまでの再生に驚かされます。
北空知の建築物も旧拓銀の荘厳なギリシャ風の柱や吹き抜けなどを特別に見学します。
------------------------------
私とmomongaさんも参加します。
都合の良い方はぜひ参加を。
連絡はmomongaさんへメールか、ここの掲示板でも良いですよ。
見学会に関しての質問も受け付けまーーーす。

かんじ
 

Re: 素朴な疑問から、、、

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 8月 5日(金)13時58分23秒
返信・引用
  momongaさんへ

> ですから、へたをすると本来の史実追及ではなく、イデオロギー論議の様になってしまう事を恐れました。
>
> 私は、歴史に特定のイデオロギーを持ち込んで捻じ曲げられるのが何よりも嫌いです。
> 好き嫌いと言うよりもそれは歴史の捏造だからです。

お気持ち、物凄く良く解ります。
この掲示板とmomongaさんのサイトは「史実の追及」、これが絶対のテーマですから。
それを大きく掲げていれば、イデオロギー色は薄まってゆくことでしょう。

あずさんへ

あ、写真ね。
小学校の集合写真は実家に行けばとってあると思います、私のも兄のも。
そうかぁ。今となってはそれも重要な過去の資料なんですね。
思ってもみなかった。
でも、公開となるとネットが普及した現在では色々な問題があることも事実のようです。
おそらく私のような年代の小学校の白黒写真を公開しても問題は起きないと思いますが、
最近の卒業アルバムを公開すれば一発でアウトでしょう。
その線引きがわからない。
個人的に公開したり、閲覧制限をするような状態ならできるでしょうが、、、、。
ああぁ、いやな世の中だ。
 

Re: 素朴な疑問から、、、

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 8月 5日(金)12時13分19秒
返信・引用
  >あずさん >かんじさん

お二人とも、貴重なご意見をありがとうございます。


>間違いなく歴史の認識って立ち位置によって見え方は変わりますが、少なくとも旭川に住むアイヌの近代史くらいは、【論・旭川】掲示板で大っぴらに伝えても良いのかと思いますよ。
>それらを無くして、なにが【論・旭川】だなんてツッコミがあるかもね…。(笑)

これはたいへん痛いところを突かれました。(^_^;)
先のレスでも言いましたが、私は敢えてこの問題を避けてきたところがあるんですよ。
自分の勉強不足もありますけどね。


ぶっちゃけ、その理由を白状しますと、
アイヌ問題は、戦後になって特定政党・団体と結びついた政治的イデオロギー色が非常に強いからです。
その影響か、過去のアイヌ史に戦後の価値観・人権感覚を持ち込んだ、史実を脚色した論調が多々見受けられます。
その目的は何かと言うと、過去和人(日本)が行なってきた事を否定したいだけです。

私がかんじさんに”暗黒面”と言ったのは、そういった論調にぶつかる可能性が高いと思ったからです。
(かんじさんが読まれた「旭川・アイヌ民族の近現代史」を指してる訳ではありません)
当掲示板は、あずさんもご存知のように、興味ある話題が始まると納得行くまで突っ込んで行きますからね。(笑)
ですから、へたをすると本来の史実追及ではなく、イデオロギー論議の様になってしまう事を恐れました。

私は、歴史に特定のイデオロギーを持ち込んで捻じ曲げられるのが何よりも嫌いです。
好き嫌いと言うよりもそれは歴史の捏造だからです。


まあ、でも、当掲示板に来られる方々にそんな心配は失礼でした、すみません。


 

Re: 素朴な疑問から、、、

 投稿者:あず  投稿日:2016年 8月 4日(木)23時27分36秒
返信・引用
  > No.1309[元記事へ]

かんじさんへ

興味って素朴な疑問からはじまると思います。
私が郷土の歴史について知ろうと思ったきっかけは、屯田兵がどのような行程で旭川に来たのか…でした。

チラッと調べると、あれ?旭川まで鉄道も通ってないじゃない!?
それで、「旭川兵村記念館」に行って、たまたまお話をうかがうことからはじまりました。

> アイヌの歴史全般について深く論ずるなら、アイヌの情報に特化した掲示板も他にはあるようなのでそちらの方が良いような気がします。
> また、アイヌだけでなく朝鮮人や囚人といった労働力の歴史とも深い繋がりがあることもわかりましたが、それもそれだけで別のジャンルとして語れるような内容なんですね。

かんじさん、なんかゴメンナサイですが個人的にはそんな裏的な歴史も踏まえて現代にたどり着きたいような気がします。その上で旭川があるんだよって、後世に残していかなければと思います。

「【論・旭川】 掲示板」は、私の知る限り真摯に旭川についてお話のできる唯一の掲示板だと思っています。

> ちなみに、私は近文小学校で私の兄の担任の先生は「荒井和子」先生でした。
> 小学校のクラスの集合写真にはアイヌの方がチラホラ入っています。
> 家の2件隣には熊の木彫りを作る家があってチューブチョコレートの舐めながらよく覗いていました。
> 先日、川村カ子ト記念館に行って川村兼一さんにお会いしましたが、さすがにお顔も髭も眉も濃いぃですね~。

かんじさん、これこそが後世に残る貴重な体験であり貴重な言葉だと思います。
「荒井和子」さんは、「焦らず 挫けず 迷わずに」という著書の中に、「エポカシ エカッチの誕生」から「やっと 先生になれた」まで書かれています。当時のアイヌとシャモ(日本人…)の関わりが解る名著です。

アイヌの民についての記述は悩みどころがあります。どこまで個人情報になるのかです…。
自身から発信されているものもあるし…。

ネット上にあるから良いのか。。。
事実は事実として(思い出としても…)はありなのだろうか。。。

もしも、かんじさんの見た集合写真をネット上に公開しても良いのだろうか…。

その時々で判断が必要ですが、過去も現在も著名人であるからこそ何かしら文字として残ることもある。
それらの良し悪しは別にしてですが、それでも残しておいた方が良いと思っています。

残せるだけ残して、不要なものは謎を残すかもしれませんが、未来に託しても良いのではないでしょうか。

 

素朴な疑問から、、、

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 8月 4日(木)11時21分54秒
返信・引用
  私のあのアイヌ記念館は何だったんだ?という疑問から始まって思わぬ方向の近文アイヌの壮大な歴史にまで広がってしまいそうですね。
ここの掲示板も、昔あそこには○○があって的な情報交換から、明治以降の旭川全般の歴史まで幅の広い内容を扱っていますので、何かを掘り始めるときりがないですね。
アイヌ情報一部の確認や特定の事実に関して旭川の歴史の一部を論ずるなら良いですが、
アイヌの歴史全般について深く論ずるなら、アイヌの情報に特化した掲示板も他にはあるようなのでそちらの方が良いような気がします。
また、アイヌだけでなく朝鮮人や囚人といった労働力の歴史とも深い繋がりがあることもわかりましたが、それもそれだけで別のジャンルとして語れるような内容なんですね。

ちなみに、私は近文小学校で私の兄の担任の先生は「荒井和子」先生でした。
小学校のクラスの集合写真にはアイヌの方がチラホラ入っています。
家の2件隣には熊の木彫りを作る家があってチューブチョコレートの舐めながらよく覗いていました。
先日、川村カ子ト記念館に行って川村兼一さんにお会いしましたが、さすがにお顔も髭も眉も濃いぃですね~。


 

Re: アイヌ民族迫害の歴史

 投稿者:あず  投稿日:2016年 8月 2日(火)22時36分19秒
返信・引用
  > No.1305[元記事へ]

momongaさんへ

レスをいただきありがとうございます。

> 正直言って私はアイヌ問題だけにスポットを当てた歴史は敢えて避けてきましたので…。

まったく同感で、旭川を論ずるのにアイヌ関連を特化してはいけません。
しかし、アイヌ関連を避けては、旭川の歴史を論ずることはできません。

> 旧土人保護法との兼ね合いもありますが、まずはこういった大局的な流れを押さえておくべきかと思います。

もちろん大局的な観点は必要ですよね。
ただ、個人的な興味としてはなぜ大局的な切り口が必要だったのか、それによって和人・アイヌ人がどう思ったのか、どのような生活を送ったのかを疑似体感したいのです。

たとえば、知里幸恵さんが学校から帰って来て、寝っ転がって…。
それで怒られたなんて日常の風景を知ることが楽しいのです。

> この学校の評価が分かれるように、豊栄小学校の校長を務めた佐々木長左衛門という人の評価も二極化してますよね。

あえて伏せていましたが、「佐々木長左衛門」の名が出ました。
彼の著作を読んでみるのもお勧めしますよ。当時の和人とアイヌの日常が見えてきます。

なんだかんだ言って、結局「観光アイヌ」と「アイヌ民族」の温度差が現在まで累々…。

> アイヌ人にまつわる歴史的事象は、和人側に立つかアイヌ側に立つかで極端に変わってくる典型例だと思います。

間違いなく歴史の認識って立ち位置によって見え方は変わりますが、少なくとも旭川に住むアイヌの近代史くらいは、【論・旭川】掲示板で大っぴらに伝えても良いのかと思いますよ。

それらを無くして、なにが【論・旭川】だなんてツッコミがあるかもね…。(笑)

 

Re: コーチャンフォーへの懸念

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 8月 2日(火)21時47分11秒
返信・引用
  名無しさんへ

何年も前の書き込みへのレスなので、まるでタイムスリップしたみたいですね。^^;

2代目との事ですが、
ブックス平和は昭和50年頃だったかな、市内5つの書店が合併してできた書店ですし、
町井楽器は、法人になったのはいつ頃なのか私も知りませんが、昭和初期からあった老舗でした。
どこからどう数えた2代目なんでしょう?

 

Re: コーチャンフォーへの懸念

 投稿者:名無し  投稿日:2016年 8月 1日(月)20時23分47秒
返信・引用
  > No.298[元記事へ]

momongaさんへ

内容、的確で鋭いです。

でも、ブックス平和、町井楽器は
双方、世襲の、2代目が
潰しました。
ブックス2代目は、わが社は
一流だと、先代の時からいる社員を冷遇し。

特に、マチイ2代目は
日々、暇つぶしに精を出し酷かったらしいです。

これは事実です。
 

Re: アイヌ民族迫害の歴史

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 7月31日(日)21時36分32秒
返信・引用
  あずさんこんばんは。

以前から感じてたことですが、あずさんはアイヌ関連に相当見識が深そうですよね。
正直言って私はアイヌ問題だけにスポットを当てた歴史は敢えて避けてきましたので色々教えてください。
「人のよいアイヌ人」とはよく使われる言葉ですが、ほんとうにそうだと思います。
それに乗じて、特に場所請負人などは相当非道の限りを尽くしたようですね。
その一方で鈴木亀蔵のような人もいたわけですが・・・



一つ一つにお答えしては長くなり過ぎますので、近文第五尋常小学校についての私の認識です。
この学校は、アイヌ人子弟専用の学校として和人学校と分けられた事から、よく差別の象徴のように言われますが、
私はそうは考えません。むしろ逆です。
ほんとうに差別するならば、学校をつくるどころか教育など受けさせる事すらなかったのではないでしょうか。
もともと文字文化のないアイヌ人社会には学校教育という概念すら無かった訳ですから、放っておけば良かったわけです。
和人と分けたとはいえ、アイヌ人も国民の内とする施策があったからこそこの学校が設置されたと理解しています。
悲惨な生活環境の中、子供のみならず親も含めて、まずは「学校へ通う」社会慣習を定着させるのが先決だったではないでしょうか。
旧土人保護法との兼ね合いもありますが、まずはこういった大局的な流れを押さえておくべきかと思います。

ただ、この学校は非常に短命でしたよね。
豊栄小学校時代を含め僅か十数年で廃校になっています。
つまり、意外と早くアイヌ人にも学校教育が定着したという事だったと思います。
同化が進んだと言ってしまえばそれまでですが、和人と学校を分ける必要性も薄れたという事ではないでしょうか。

この学校の評価が分かれるように、豊栄小学校の校長を務めた佐々木長左衛門という人の評価も二極化してますよね。
「アイヌの子供に木彫りをさせてそれを見せ物・売り物にして搾取していた」という見方もあるようですが、
私は、実態は職業教育の一環であり、アイヌ人の自立を考えた上での立派な教育者だったと見ています。


先のかんじさんへのレスでも触れましたが、
このように、アイヌ人にまつわる歴史的事象は、和人側に立つかアイヌ側に立つかで極端に変わってくる典型例だと思います。


 

Re: イオマレ

 投稿者:あず  投稿日:2016年 7月29日(金)23時23分27秒
返信・引用
  > No.1298[元記事へ]

ウポポ・ポッケさんへ

> 今となってはアイヌ語を流暢に話せる人もまったくいません。カルチャーとしても忘れ去られる。
> けどもしアイヌのひとたちについてかわいそうだと思うなら、アイヌ語やカルチャーについてよくしるべきです。

はじめまして。
とても興味のあるコメントですが、「アイヌ語やカルチャー」ってどこの部族についてなのかお知らせいただければと思います。

「アイヌ語」がアイヌ同一言語だと認識されているのなら、この掲示板にはそぐわないと思いますよ。





 

Re: アイヌ民族迫害の歴史

 投稿者:あず  投稿日:2016年 7月29日(金)23時08分56秒
返信・引用
  > No.1301[元記事へ]

momongaさんへ

毎度ご無沙汰。しかも横レスでスミマセン。

ここ数日のアイヌ関連の話題ですが、旭川の歴史を論ずる上でアイヌについて知っておくべきことはたくさんあると思いますので、少しだけ私のイメージを伝えたくなりました。

> アイヌ関連の歴史って、見方・捉え方によってかなり違ってくるので非常に難しいと思います。
> なんせ記録として残っているのは所詮和人が書き残したものしかない訳ですし、

もちろん秀吉や家康の朱印状や黒印状の時代はそうですが、近年については前回コメントさせていただいた中に「砂沢クラさん」と書きましたが、彼女は「ク スクップ オルシペ」という著書を残しています。

俗に言う上川アイヌの方の著書は少ないのですが、「荒井源次郎さん」や娘の「荒井和子さん」、「杉村京子さん関連」の本を読んでみると、当時の生活が手に取れるように伝わりますよ。

> かんじさんが例えられたアメリカの黒人奴隷・・・
> これは一緒にならないと思います。
> 日本ではアイヌに対する差別・迫害・強制などの史実はあっても、制度として奴隷制が存在した事はないからです。

奴隷についてですが、「労働力」と置き換えると理解しやすいと思います。
江戸時代、蝦夷地の「場所」がエスカレートして、交易から場所請負…最終的にはアイヌの強制連行・強制労働になります。

明治になりますと、樺戸や空知の監獄へ囚人を送り込みます。(囚人にしてしまう方法も酷いものがありますが…)

やがて戦争を絡めて、朝鮮や中国からの労働力。国内外からタコ部屋。
もちろん正規といいますか、漁師・農民・大工・土工・家具職人・床屋・飲食店…、多くの労働力があって今の北海道。

さらに女性の場合は、上記に付随するように「飲む打つ買う」に関わった人々も多い。
これらは北海道の暗黒の歴史と言っても良いかもしれませんが、お役所のようにボカス必要はないと思います。

> なぜなら、明治に入って法治国家の道を歩み始めた時すでに、土人と称して差別しながらも一方では一平民として扱う施策を進めていたからです。
> 実態はともかく、排除するのではなく和人社会に取り込んでしまおうとした訳ですね。

これは対外的な意図があり、黒田長官の行動を見ると解りますが、ロシアの脅威です。
アイヌを日本人にしなくてはいけなかったのです。

北海道アイヌも樺太アイヌも日本人だから、北海道も樺太も日本の領土ですよという既成事実が必要だったのです。さらに、屯田兵や各開拓民を募るのも、北方警備や開拓とともに多くの日本人が北海道に定住しているという既成事実が必要であったのです。(占領とは言いませんが…)

> 特に北海道庁時代に入ってからは、アイヌ人も国民の内という施策が浸透していったように思います。
> でなければアイヌ人のための学校などつくるでしょうか?

その学校とはどのようなモノだったのかご認識をお聞きしたいと思います。
私の知る限りでは、和人の学校とはまるで違うのです。

ちなみに、上川第五尋常小学校、後の豊栄尋常小学校ですが…。

大正3年第1回卒業生 荒井源次郎 川村(砂沢)クラ
同じく、大正4年 松井梅太郎。大正5年 知里幸恵。。。

この時代に育った著名なアイヌの方々のお話を、活字であれ触れておくと良いと思います。

それから、「かんじさん」がアメリカがアフリカから黒人を連れてきて奴隷にした…。
これは北海道における囚人やタコ部屋の図式に近いです。

アメリカ移民が、先住民のインディアンを労役に使途したのか判りませんが、アイヌは強制労働のイメージです。

蝦夷地が北海道になった年に上川アイヌのクーチンコロが、石狩場所で働かされていたアイヌたちを冬を前に早く地元に返すように交渉に出向いた史実があります。

 

(無題)

 投稿者:ウポポ・ポッケ  投稿日:2016年 7月25日(月)00時19分22秒
返信・引用
  アトゥイを超えてアイヌモシリにやってきたサモロモシリの人たちがユートピアを作るために、アイヌモシリはディストピアだったのでしょう。

http://www.h3.dion.ne.jp/~oyama/boukenn-folder/bouken-ainugo-ziten.htm

 

Re: アイヌ民族迫害の歴史

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 7月22日(金)17時30分18秒
返信・引用
  かんじさんへ

アイヌ関連の歴史って、見方・捉え方によってかなり違ってくるので非常に難しいと思います。
なんせ記録として残っているのは所詮和人が書き残したものしかない訳ですし、
それをどう解釈するかは、和人側に立つかアイヌ側に立つかで180度変わってきます。
和人が良かれと思った施策が、アイヌ人に対しての迫害として解釈されてるケースが多々あるのではないでしょうか。
中には樺太・千島アイヌのように、日本とロシアの国境問題の間で犠牲になったケースもありますし。

かんじさんが例えられたアメリカの黒人奴隷・・・
これは一緒にならないと思います。
日本ではアイヌに対する差別・迫害・強制などの史実はあっても、制度として奴隷制が存在した事はないからです。
まして外国から先住民族を使役目的で連れて来たなんて話は聞いた事がありません。
米国が南北戦争という大きな代償を払って実現した奴隷解放は、少なくとも日本では必要ありませんでした。
なぜなら、明治に入って法治国家の道を歩み始めた時すでに、土人と称して差別しながらも一方では一平民として扱う施策を進めていたからです。
実態はともかく、排除するのではなく和人社会に取り込んでしまおうとした訳ですね。


外国の先住民族の多くがそうであったように、日本においてもアイヌ人を駆逐してしまおうと思えば簡単にできたはずです。
奴隷制にしてしまおうと思えばできただろうし、最悪はジェノサイドだって有り得たわけです。

これらの事から一つだけはっきり言えるのは、
松前藩・幕府統治時代、新政府開拓使時代、三県時代、北海道庁時代と、時代ごとに差別の度合いは違うものの、
それぞれの時代の為政者には、最低限の歯止めがあった事は確かです。
特に北海道庁時代に入ってからは、アイヌ人も国民の内という施策が浸透していったように思います。
でなければアイヌ人のための学校などつくるでしょうか?
(これも現代基準で差別教育だと言う人がいますが)

表面の事象だけを捉え、とかく”和人はアイヌ人に酷い事ばかりして来た”式の考え方は一種のイデオロギーとしか思えません。
例を挙げればキリがないのでまたの機会にしますね。

 

Re: イオマレ

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 7月22日(金)16時52分48秒
返信・引用
  ウポポ・ポッケさんへ

ご挨拶遅れて申し訳ありませんでした。
もしディストピアであれば誰もその土地に入り込みたいと思いません。
やっぱりユートピアだったのではないでしょうか。
 

Re: アイヌ民族迫害の歴史

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 7月15日(金)12時44分22秒
返信・引用 編集済
  > No.1297[元記事へ]

momongaさんへ

> かんじさん、ついに暗黒史に踏み入りましたね。^^;

ええええ!暗黒史なんですか。
確かに現代の基準感覚で当時を評価することはできないと思います。
暗黒面を強調した著作物もあるんですね。でも読まないと思うけど。

> もし「奴隷の様な」という表現を使うとすれば、
> 樺戸や空知集治監(監獄)など、和人の囚人の方がよっぽど奴隷そのものだったと思います。

これも現代の感覚では考えられないほどの虐待ですが、一応囚人ですからね。
アイヌは普通の人間ですから、アメリカがアフリカから黒人を連れてきて奴隷にした、そんな感じなんでしょうか。

他の民族を下に見るって感覚は世界中さまざまな地域で見られますが(選民思想とかいうのかな)日本でも見事にあったんでしょうね。

momongaさんが言われるように、アイヌの事をかばい共に暮らそうとしていた人も少なくは無かったのだと思います。

アイヌ迫害の歴史として、これまで私が知っていたのは「臭い、汚いとか言って忌み嫌った」とか「数字や計算のできない素直なアイヌを騙して商売をした」とかそんなレベルだったのです。
それが極端にいうと、アイヌの女は性処理に使い身ごもると堕胎させたとか、死ぬような過酷な労働をさせたとか、人間として扱わないようなそんな関係性があったってことでしょ?

その後多少は良くなったかもしれませんが朝鮮人の強制労働と共に、太平洋戦争に負けて民主国家の道を歩み始めるまでは、日本人(北海道民)(私たちの親の世代)は奴隷や迫害や差別といった考え方を普通の事として皆生きていたって事ですよね。

知ってはいたんだけど、改めてアイヌの歴史を垣間見ることにより、その事実を突き付けられたって感じだったんです。

過去を振り返る時、どんな偉業の陰にも暗黒の歴史があるって事もわかってはいるんですが、、、。
 

イオマレ

 投稿者:ウポポ・ポッケ  投稿日:2016年 7月15日(金)06時05分59秒
返信・引用
  アイヌモシリが開拓使にとってはディストピアだったんでしょう。
今となってはアイヌ語を流暢に話せる人もまったくいません。カルチャーとしても忘れ去られる。
けどもしアイヌのひとたちについてかわいそうだと思うなら、アイヌ語やカルチャーについてよくしるべきです。

アイヌ語のURL貼っときます。

http://www.h3.dion.ne.jp/~oyama/boukenn-folder/bouken-ainugo-ziten.htm

 

Re: アイヌ民族迫害の歴史

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 7月14日(木)21時16分45秒
返信・引用
  かんじさん、ついに暗黒史に踏み入りましたね。^^;

私は正直言ってアイヌ史の”暗黒面”ばかりを強調する著作物はあまり好きになれません。
史実に違いないとは言え、現代の人権感覚での視点・観点が多いからです。
もし「奴隷の様な」という表現を使うとすれば、
樺戸や空知集治監(監獄)など、和人の囚人の方がよっぽど奴隷そのものだったと思います。

誤解を恐れずに言うなら、当時のアイヌ問題に対しては「そればっかりじゃないだろう」という思いを持っています。
特に明治中期頃からは、和人側にもそれなりにアイヌ人の処遇を何とかしようという施策が垣間見られるからです。
(アイヌ人にとっては迷惑以外の何物でもないというのも事実ですが・・・)
そもそも近文のように、和人生活圏内にアイヌ人も共存するという、それまで考えられなかった地域が誕生したのもその結果です。
これを悪く言えば、和人による強制・同化政策となりますし、迫害・差別の象徴のように言われます。

しかし、もし本当にそればっかりならば、近文アイヌの天塩移住問題が勃発した時、
「詐欺だ、あまりに気の毒だ」と、いち早く鷹栖村民が道庁に反対請願をしたのは何故でしょう?
これを機に勃発した給与地問題も、結局のところ、大倉喜八郎と結託した道庁との間に旭川町が入って、町が一括貸下げを受けた上で転貸しするという形で収めています。
つまり、少なくとも地元の人間にはこの問題に便乗してアイヌ部落を追い払ってしまおうという意識は全く無く、むしろ逆だったのです。

「無知な土人をいいようにしてやろう」という不逞の輩がいた事も事実ですが、
地元では同じ人間としてそこそこうまく共存していたという証左ではないでしょうか。
ダークサイドのみに着眼しないほうが良いと思います。



 

アイヌ民族迫害の歴史

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 7月 8日(金)09時53分1秒
返信・引用
  私の素朴な疑問に端を発し奇しくもアイヌの歴史を調べることになってしまいましたが、お借りした「旭川・アイヌ民族の近現代史」という本を一読して、胸の詰まる思いでした。
昔、和人がアイヌを迫害したという歴史があることは知っていましたが、内容までは知らなかったし正直深い興味もありませんでした。
でも、意図せず資料を読むとその迫害の酷さに、胸が悪くなるような嫌悪感を覚えました。

確かに戦前の日本人は人を差別する事を当たり前のように行っていた感があります。
人種差別を悪い事とは認識していなかったようですね。
身内ながら私の母も決して悪い人間ではありませんが、朝鮮人とアイヌは明らかに劣った人種だと信じ込んでいましたし、いまもその感覚は残っているようです。

アイヌは北海道の先住民族であり、戦いを避け自然と共存する尊敬すべき人たちでありながら、和人に追いやられ次第に衰退してゆく様は悲しいばかりです。

私はアイヌは昔から北海道中に広く定住し安定した生活を送っていたのだと思っていましたが、実は江戸時代から和人に迫害され、奴隷のように扱われ住むところもあちこちに転居を命じられていたのですね。

近文のアイヌも石狩や深川から転居させられて来たり、天塩に追いやられそうになったり、上川道路の開発や北見道路の開発、第七師団の建設などで居を失って近文に集まってくるなど、迫害の結果たどり着いた場所だと知りました。
本州では部落問題という差別の歴史がありますが、北海道はいろんな人が集まっているのでそんな差別は無いと思っていました。

アイヌ差別の問題は知っていましたが、そこまで大きな差別であるとは認識していませんでしたが、実態はほぼ奴隷だったのですね。
悲しい、辛い、忘れてはいけない歴史だと思います。
人間ってなんて酷い生き物なんだろう。

掲示板の趣旨に反した書き込みかも知れませんが、書かずにいられなかったのでお許しください。
 

Re: 「かんじさん」の謎

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 7月 6日(水)20時42分16秒
返信・引用
  おぉー、さすが行動のかんじさん、さっそく現地調査して来ましたネ。
私が川村アイヌ記念館と勘違いしてたのも、位置関係からするとどうやら川上酋長さんの方だったかな?



実は私も先のレスにて、一部事実誤認がありましたのでわかった範囲で訂正しておきます。

昭和9年の「旭川市旧土人保護地処分法」にて最終的に給与地が確定したように申し上げましたが、
どちらかと言うとこれは、給与地・保護地としての扱いが解除された、の間違いです。
これによってアイヌ各戸に無償給与された以外の開墾予定地はほとんど没収となった訳です。
つまり、旧土人給与地の名称が地図から消えた時ですね。

一番最初は、明治24年の殖民区画図に記された「旧土人開墾予定地」がベースになってると思います。
明治32年の「北海道旧土人保護法」の施行と、手塩への強制移住問題が勃発してすったもんだが始まり、
実際には明治40年に道庁が許可した153町歩が旧土人給与地として確定したと言えます。
しかしながら、アイヌ人に無償給与されたのは各戸1町歩の土地と粗末な官給住宅で、
本来アイヌ人が農耕すべき広大な開墾予定地は、事実上、和人小作人への有償転貸し地となりました。
大正11年時点での旧土人給与地の内訳は次の通りです。

   旧土人給与地合計     145町歩

   アイヌ各戸への無償貸下げ 50町歩
   小作人有償転貸し地    84町歩
   模範農場          4町歩
   その他           7町歩
   (1町歩は約1ヘクタール=100m×100m、100町歩で約1平方km)

この数字を見る限り地図上では広大な給与地であるものの、実際のアイヌ部落はこの1/3ほどだったようです。
場所もかんじさんが言われるように、今の緑町・錦町の12~18丁目辺りが中心ではなかったかと思います。

 

Re: 「かんじさん」の謎

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 7月 6日(水)16時31分42秒
返信・引用 編集済
  > No.1293[元記事へ]

解決しましたが見事に予想は外れ!
アイヌ記念館は当時3件ありました。

調査→仮説→検証→確証 でしょうかね。
常に自然とこんな行動をとっているわけですが、今回ばかりは検証で見事に仮説が間違っていたことがわかりました。
事実としては、昭和40年に緑町錦町13丁目道路脇に小屋があって熊がいた。
これが事実です。
これを確かめるべく調査を行い、アイヌ記念館という記述を見つけ、川村酋長の前の川上酋長の家ではないかという仮説を立てました。が、
川村酋長の家は別にありました。
今の川村カ子ト記念館の少し北側錦町道路沿いの反対側に、川上酋長の家が大きく住宅地図や大正期の地図にも載っていたのです。
それではあの線路脇の記念館はなんだったのか?
一番知っている可能性の高い人、つまり川村カ子トさんの息子さん、現館長の川村兼一さんに聞いてきました。答えてくれたのは一緒にいた工藤さんというアイヌのお仲間でしたが。
あの線路脇の記念館は「井沢朝次郎」という方が、個人的にチセを建て、簡単なアイヌの民芸品をおいて記念館をつくり、熊を飼っていたそうです。
そんな時代背景として、川村兼一さんと少し話をしたのですが、やはり戦争中は停止していたアイヌの観光も世の中が落ち着いて来ると、たくさんの人が押し寄せたそうです。
昭和30年~昭和40年は、バブルだったと言っていました。
大型の観光バスがどんどん押し寄せ、木彫りの熊が飛ぶように売れて、増産が間に合わず、
近所は木彫りの熊工場だらけになったそうです。
と、そんな頃に井沢朝次郎さんも粗末ながら記念館を建てたんですね。
そんな風景を私がたまたま見ていたという事でした。
先の仮説はほぼ間違っていましたのでご注意ください。
 

Re: 「かんじさん」の謎

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 7月 6日(水)12時40分42秒
返信・引用
  momongaさんへ

> かんじさん、さっそく地図を見つけましたね。(^^)v
> 幼い頃の記憶は立証されたということになりますか。
>
はい一応、アイヌ記念館の存在は確認されたと思っていますが、
アイヌ記念館が2件存在したことに関して、もう少し納得のゆく情報が欲しいと思い、
図書館へ出かけました。
資料室にゆくと司書さんが「アイヌ記念館」ですか?と。
そうここのサイトをたまに見てますということです。

で、緑町線路わきににあったアイヌ記念館の情報に関して資料を提供して下さいました。
それが、「旭川・アイヌ民族の近現代史」という分厚い本でして、、、、。
内容が多岐にわたるのですが、momongaさんがおっしゃった、旧土人給与予定地の問題にかなりの分量が割かれているため、なかなか読むのが大変です。
緑町のアイヌ記念館の話が出てこないかと、関係しそうな場所を探しながら読んでいます。
これまでアイヌ記念館に関してわかった事は。

現在の川村カ子トアイヌ記念館がオープンする前から、川上コヌサアイヌという酋長(本物ではないけど)が観光業としてずいぶん手広くアイヌの儀式や土産販売をやっていたようです。
その場所が、どうも例の場所のようなのです。
記述としては、「馬鉄を近文へ飛ばし、国道40号と旭町の交差点から徒歩、川村カ子ト記念館横交差点を左折、そして土人部落に入ってゆく」
となっています。
今で言うと錦町通りを通って、11丁目通りを左折して、入ってゆく場所が例の斜め通りですから。

別の記述でも、アイヌ部落入り口にほど近いのが川村カ子ト記念館で、そこから中に入っていった所に川上コヌサアイヌの家はあるようなのです。
これだけで場所を特定するのは難しいですが、今の川村カ子ト記念館から嵐山通りに向かって入ってゆくのがアイヌ部落への入り方だったのですね。
まさに斜め通りが部落への通路だったわけです。
そしてこの川上コヌサアイヌという方の庭でイオマンテ(熊祭り)が行われ、広く観光客も訪れたと書いてあります。
ここにはアイヌ参考館という建物があり、後にアイヌ宝物館となり
(その場所は現在の錦町13丁目畑地、近文アイヌ部落中央部広場とあります。)

やはり近文アイヌ部落の中心地がこの辺りであった事はわかりました。
これが昭和39年の地図にあるアイヌ記念館なのかどうかは確証まではありません。

ただ、この川上コヌサアイヌの庭で行われた熊祭りの儀式は戦争の影響もあり、昭和11年が最後となります。
ところが昭和15年に川村酋長宅裏庭で戦前最後の熊祭りが行われるのです。
ここで世代交代が起こっています。

昭和20年に戦争が終わり、少しずつ明るさが取り戻される中、昭和25年に旭川大博覧会が開かれることにより、世間の注目が旭川に集まり、そこで再びアイヌ部落が観光として注目されるようになります。
そして川村カ子トアイヌ記念会がリニューアルされ、今へと続いてゆくのですが、その間に川上コヌサアイヌの庭がどうなったかは解りませんが、木彫り熊の第一人者とその会社である豊栄物産が、川上コヌサアイヌの家の向かいという事ですので、この辺りもアイヌ観光で賑わっていたのかなぁ。






 

Re: 「かんじさん」の謎

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 7月 5日(火)11時15分39秒
返信・引用 編集済
  かんじさん、さっそく地図を見つけましたね。(^^)v
幼い頃の記憶は立証されたということになりますか。

>ジョッピンさんお久しぶりです。



旧土人給与予定地の範囲ですが、「予定」というのがミソで、正式に確定したのは何と昭和に入ってからの事です。
旭川だけ特別だったんですよ。

と言いますのは、アイヌ人に農耕地を給与する『北海道旧土人保護法』が制定されたのは明治32年の事ですが、
旭川においては、その10年以上も前の岩村通俊長官時代に既に上川アイヌの近文地域への集約を実施していたんですね。
これは、本格的に上川の開発を進めるに当たって、今後アイヌが生活に窮してしまう事を案じた上での施策でした。
かんじさんがお示しの旧土人給与予定地は、この時代に定められた範囲を記しているものと思われます。
本来ならそのままアイヌ人に給与されるべき土地として「予定地」と記されたのでしょうね。

ところが、正式に法制化された明治32年というのは、旭川ではまさに師団工事が始まった年です。
師団工事のための支線もこのアイヌ部落を貫く形で敷かれました。
ここで新たな法律を盾に、師団に隣接した広大な土地利権をアイヌ人から奪おうとする画策がありました。
従前より農耕もうまく行ってない事もあって、給与面積を大幅に削ろうとしたわけです。
つまり、本来は道内アイヌ人への農地貸下げを目的とした法律が、旭川においては逆にアイヌ人から土地を奪う目的に利用された訳です。

永年に渡ってすったもんだ揉めたあげく国会まで動かし、
昭和9年に『旭川市旧土人保護地処分法』という法律までできたくらいです。
この前代未聞の旭川限定の法律によってようやく近文アイヌの給与地が確定した訳ですが、
私も最終的にその範囲がどこからどこまでなのか勉強してません。
もしこの法律以降の給与地範囲を表す地図があれば、かなり縮小された範囲になっていたのは確かでしょうね。
また、その後の農耕がうまく行かなかった土地もやはり没収になっているはずです。


PS:この2つの法律が廃止されたのは何と!平成9年の事です。
 

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