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Re: 「かんじさん」の謎

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 7月 6日(水)12時40分42秒
返信・引用
  momongaさんへ

> かんじさん、さっそく地図を見つけましたね。(^^)v
> 幼い頃の記憶は立証されたということになりますか。
>
はい一応、アイヌ記念館の存在は確認されたと思っていますが、
アイヌ記念館が2件存在したことに関して、もう少し納得のゆく情報が欲しいと思い、
図書館へ出かけました。
資料室にゆくと司書さんが「アイヌ記念館」ですか?と。
そうここのサイトをたまに見てますということです。

で、緑町線路わきににあったアイヌ記念館の情報に関して資料を提供して下さいました。
それが、「旭川・アイヌ民族の近現代史」という分厚い本でして、、、、。
内容が多岐にわたるのですが、momongaさんがおっしゃった、旧土人給与予定地の問題にかなりの分量が割かれているため、なかなか読むのが大変です。
緑町のアイヌ記念館の話が出てこないかと、関係しそうな場所を探しながら読んでいます。
これまでアイヌ記念館に関してわかった事は。

現在の川村カ子トアイヌ記念館がオープンする前から、川上コヌサアイヌという酋長(本物ではないけど)が観光業としてずいぶん手広くアイヌの儀式や土産販売をやっていたようです。
その場所が、どうも例の場所のようなのです。
記述としては、「馬鉄を近文へ飛ばし、国道40号と旭町の交差点から徒歩、川村カ子ト記念館横交差点を左折、そして土人部落に入ってゆく」
となっています。
今で言うと錦町通りを通って、11丁目通りを左折して、入ってゆく場所が例の斜め通りですから。

別の記述でも、アイヌ部落入り口にほど近いのが川村カ子ト記念館で、そこから中に入っていった所に川上コヌサアイヌの家はあるようなのです。
これだけで場所を特定するのは難しいですが、今の川村カ子ト記念館から嵐山通りに向かって入ってゆくのがアイヌ部落への入り方だったのですね。
まさに斜め通りが部落への通路だったわけです。
そしてこの川上コヌサアイヌという方の庭でイオマンテ(熊祭り)が行われ、広く観光客も訪れたと書いてあります。
ここにはアイヌ参考館という建物があり、後にアイヌ宝物館となり
(その場所は現在の錦町13丁目畑地、近文アイヌ部落中央部広場とあります。)

やはり近文アイヌ部落の中心地がこの辺りであった事はわかりました。
これが昭和39年の地図にあるアイヌ記念館なのかどうかは確証まではありません。

ただ、この川上コヌサアイヌの庭で行われた熊祭りの儀式は戦争の影響もあり、昭和11年が最後となります。
ところが昭和15年に川村酋長宅裏庭で戦前最後の熊祭りが行われるのです。
ここで世代交代が起こっています。

昭和20年に戦争が終わり、少しずつ明るさが取り戻される中、昭和25年に旭川大博覧会が開かれることにより、世間の注目が旭川に集まり、そこで再びアイヌ部落が観光として注目されるようになります。
そして川村カ子トアイヌ記念会がリニューアルされ、今へと続いてゆくのですが、その間に川上コヌサアイヌの庭がどうなったかは解りませんが、木彫り熊の第一人者とその会社である豊栄物産が、川上コヌサアイヌの家の向かいという事ですので、この辺りもアイヌ観光で賑わっていたのかなぁ。






 

Re: 「かんじさん」の謎

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 7月 5日(火)11時15分39秒
返信・引用 編集済
  かんじさん、さっそく地図を見つけましたね。(^^)v
幼い頃の記憶は立証されたということになりますか。

>ジョッピンさんお久しぶりです。



旧土人給与予定地の範囲ですが、「予定」というのがミソで、正式に確定したのは何と昭和に入ってからの事です。
旭川だけ特別だったんですよ。

と言いますのは、アイヌ人に農耕地を給与する『北海道旧土人保護法』が制定されたのは明治32年の事ですが、
旭川においては、その10年以上も前の岩村通俊長官時代に既に上川アイヌの近文地域への集約を実施していたんですね。
これは、本格的に上川の開発を進めるに当たって、今後アイヌが生活に窮してしまう事を案じた上での施策でした。
かんじさんがお示しの旧土人給与予定地は、この時代に定められた範囲を記しているものと思われます。
本来ならそのままアイヌ人に給与されるべき土地として「予定地」と記されたのでしょうね。

ところが、正式に法制化された明治32年というのは、旭川ではまさに師団工事が始まった年です。
師団工事のための支線もこのアイヌ部落を貫く形で敷かれました。
ここで新たな法律を盾に、師団に隣接した広大な土地利権をアイヌ人から奪おうとする画策がありました。
従前より農耕もうまく行ってない事もあって、給与面積を大幅に削ろうとしたわけです。
つまり、本来は道内アイヌ人への農地貸下げを目的とした法律が、旭川においては逆にアイヌ人から土地を奪う目的に利用された訳です。

永年に渡ってすったもんだ揉めたあげく国会まで動かし、
昭和9年に『旭川市旧土人保護地処分法』という法律までできたくらいです。
この前代未聞の旭川限定の法律によってようやく近文アイヌの給与地が確定した訳ですが、
私も最終的にその範囲がどこからどこまでなのか勉強してません。
もしこの法律以降の給与地範囲を表す地図があれば、かなり縮小された範囲になっていたのは確かでしょうね。
また、その後の農耕がうまく行かなかった土地もやはり没収になっているはずです。


PS:この2つの法律が廃止されたのは何と!平成9年の事です。
 

Re: 「かんじさん」の謎

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 7月 4日(月)15時03分16秒
返信・引用
  > No.1289[元記事へ]

あずさん、カールJPさんへ

私の素朴な疑問に深く考察くださいましてありがとうございます。
調べると昭和32年までは実際に風習としてイオマンテが行われていたのですね。
その後、毎年の風習は中止にはなりましたが観光も含めてその後も続いてはいたようです。
昭和37年のイオマンテの記録が残されていますが、場所はどこかの山中のようで、周りに大きな木が何本もありましたので、いまの緑町近辺ではないと思います。

ただ私が指摘の場所で熊を飼っていたのは事実で、それを裏付けるべく調べているのですが、
また、重大な事実を見つけました。
それは昭和39年の住宅地図なのですが、私が指摘した問題の場所になんと「アイヌ記念館」と書かれているのです!!
そして「笹小屋」とも、、、、、。
やはり熊がいたというその場所はアイヌの住んでいる場所でした。
この時には現川村カ子トアイヌ記念館もありますので、つまりこの当時は2カ所にアイヌ記念館があった事になります。

それから私が注目しているのは道路なんです。
あそこには斜め道路があります。
以前から私は良く言うのですが、「斜め道路には歴史あり」と。
道路が斜めだという事は、お役所が開発する前から自然発生的にできたもので、そこには人が住む必然性があったということになります。
つまりこの斜め道路こそ、旧土人給与地として与えられた土地にアイヌ自らが集まって住んだ代表的な場所なのではないかと推測しました。
なのでそこがアイヌ記念館として昭和39年には存在し、私の見た熊も居たのではないでしょうか。
もう一つ、旧土人給与地が近文であることはわかっていましたが、具体的にどの範囲だったのかという事も調べていました。
一番正確そうな地図は最近も話題になった地番が書かれた明治43年の地図で、そこには旧土人給与予定地として、破線で囲まれた範囲が示されています。見やすいように赤線で囲ってみました。
これを見ると不思議な範囲ですが、線路を挟むように近文駅まで含むような範囲が示されています。


PS.
あずさんご指摘のアイヌの観光化ですが、私の母も何かの時に近所のアイヌの人が飾り付けて踊りに出て行ったと言っていました。
いまでいうアルバイトのようにしていたみたいです。
 

イオマンテ

 投稿者:カールJP  投稿日:2016年 7月 4日(月)09時22分4秒
返信・引用 編集済
  momongaさん、みなさんこんにちは。

かな~り以前に書き込みをさせていただいたカールJPと申します。お久しぶりです。
札幌の北大植物園にある北方民族資料室で、昭和の初期頃に旭川で行われていたアイヌ民族の「熊祭り」の映像を見ることが出来るのですが、
かんじさんが見た熊というのは、ひょっとして熊祭りで神に捧げるために飼われていた熊か、
捧げこそはしないものの、その名残りで飼われていた熊ではないかな?と思って思わず書き込みをした次第でございます。
時代が違うかな?トンチンカンな事を言ってたらゴメンナサイ。
その映像ですが、アイヌ記念館でも見れるのか否かは判りませんが、
もし見れないなら、札幌にいらした時に是非見に来てください!
昭和初期とは言え、欧米列強と肩を並べるまでに成長した日本で、
しかも私の生まれ故郷である旭川でこのような儀式が行われていたことに驚きました。



 

「かんじさん」の謎

 投稿者:あず  投稿日:2016年 7月 1日(金)23時34分27秒
返信・引用
  「川村カ子ト」さんのアイヌ記念館。
現在は固定資産税の関係でさらに狭くなりましたが、今春開館100年記念の看板があがりました。

「かんじさん」の記憶の場所の同定はできませんが、過去の出版物から推測すると当たり前のような状況だったと思います。

砂沢クラさんの時代でも、口の周りにイレズミのように化粧するとウケ、高額なお駄賃を貰ったという記述が「ク スクップ オルシペ」に書かれていたと思います。カ子トさんが測量で稼いだ資金で記念館を創ったのはそんな時代です。

もちろんそれ以前にも「アイヌ」の観光化?はありました。

 

Re: 一般の方の住宅です

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 7月 1日(金)11時30分30秒
返信・引用
  かんじさん、さっそくの修正ありがとうございます。

ただ、確かにGoogleマップにもYahoo地図にも他の地図にも、「かわむ屋」という屋号で載ってますよね。
これは何かの間違いなんだろうか・・・
もし間違いなら、こちらを正さない限りいくらこの掲示板で名を伏せてもあまり意味がないと思われます。
影響力がまるで違いますからね。

 

Re: 一般の方の住宅です

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 6月30日(木)22時13分8秒
返信・引用
  momongaさんへ

> ということで、かんじさん。
> 私のほうではレス丸ごと削除しかできません。
> できれば2枚目の画像の削除と、本名を特定できる文言の編集を願えますか?

そうだったんですか、早急に対処しますが、、。
これはどういうことでしょう。
一般住宅では無いと思いますけど。
 

Re: 一般の方の住宅です

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 6月30日(木)16時06分59秒
返信・引用
  通りがかりの町人さん、情報感謝いたします。
一般の方の住居だったんですか。
夏用ということは、やはり別荘ということかな。羨ましいです。


ということで、かんじさん。
私のほうではレス丸ごと削除しかできません。
できれば2枚目の画像の削除と、本名を特定できる文言の編集を願えますか?


 

一般の方の住宅です

 投稿者:通りがかりの町人メール  投稿日:2016年 6月30日(木)12時41分49秒
返信・引用
  いつも興味深く拝読させていただいています。
この旭岡の住宅は一般の方の夏用の住居ですので写真は削除されたほうが良いと思いますよ。
 

Re: アイヌ記念館

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 6月29日(水)12時11分18秒
返信・引用 編集済
  かんじさんへ

熊というのは剥製の熊じゃなく生きた熊の事だったんですか。(^_^;)
場所もたぶん私が言ってたのとは違いますね。

ご存知でしょうが、緑町・錦町・北門町にかけてのあの辺り一帯は「旧土人給与地」いわゆるアイヌ部落でしたから、
川村家もそうであるように元々アイヌの方々が集約されて住んでいましたよね。
その意味であの近辺にアイヌ人の家や店があちこちにある事自体は不思議でも何でもありません。

確か昭和30年代40年代頃まであの近辺でアイヌ伝統行事が行なわれていたはずです。
最近は行事そのものをやってるという話を聞いた事がありませんが、昔は実際に熊を使ってやってましたね。
熊はそのために飼っていたのではないでしょうか。
(実際に殺しはしませんでしたが)


旭岡の建物の名は偶然かと思いますが、
たぶん、何かの工房か、カフェなどの店か、あるいは近年あの辺りに増えている別荘かもしれません。
建物が和風なので、もしかしたら茶室のある茶道関連かも。(別な場所に1軒あります)
少なくとも一般の住居ではないでしょうね。わかりませんが・・(笑)

知り合いが北の嵐山で店をやってますので、今度聞いてみます。

 

Re: アイヌ記念館

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 6月28日(火)15時07分21秒
返信・引用 編集済
  momongaさんへ

別の施設もあったのですか。
調べてみるとアイヌ記念館は日本で最も古いもので、大正5年に開館とあります。
昭和37年の航空写真を見てみますと、確かに現在のアイヌ記念館の位置にそれらしいものがありますね。
やはり今の場所は変わっていないようです。

でも、確かに線路わきに熊がいたんです。
それらしい小屋もあって熊を飼っていました。
まぁ、当時は私の同級生にもアイヌの人がいましたから、周辺に住んでいたのでしょう。
そしてアイヌ記念館だけではなくアイヌの風習を伝えるものが残っていたのかも知れません。

それから、最近用有って旭岡をうろうろしていたのですが、そこでびっくりする家を見つけました。
旭岡の一番奥の川に降りそうな急斜面にものすごく古そうな趣のある日本家屋がありました。
なにかはわかりません。
道路の木で作った柱に聞き覚えのある姓が書いてあります。
まさかアイヌ記念館の館長さんの家じゃ!!!なんて想像したのですがわかりません。
この家って有名な家ですか?

 

Re: アイヌ記念館

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 6月28日(火)10時53分30秒
返信・引用
  かんじさんへ

川村アイヌ記念館が過去に移転した事があるかどうかは私も知りません。
あまり聞いた事はないですが、私も関心が薄かったので知らないだけかもしれません。

ただ、場所が思い出せないのですが、確か錦町通だったと思うんですが、今のアイヌ記念館とは別に店舗のような建物があったのを覚えています。
錦町通を新橋に向かって進んだときに右側にありましたので、今の記念館と場所が違うのは確かです。
私は昔それが記念館だとばかり思ってました。
もしかしたら別棟の店舗だったのかもしれません。
大町支線の傍だったかどうかもザンネンながら思い出せません。m(__)m

 

アイヌ記念館

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 6月27日(月)13時38分11秒
返信・引用
  質問です。
実は私は小さいころ緑町に住んでいて、いろいろ話題になる国鉄の大町支線は私の遊び場でした。
でとぼとぼと線路を歩いてゆくと、そこに熊がいたんですよね。
笹の家があって口を黒くしたアイヌの方が居ました。
間違いなくアイヌ記念館ですよね。
それが線路わきにありました。
ところが今考えてみると川村アイヌ記念館って旧大町支線の側にはないですよねぇ。
移ったんですか?
素朴な疑問でした。
 

曇り空のブルーインパルス

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 6月20日(月)11時58分27秒
返信・引用
  残念ながらブルーではなくグレーの中でのインパルスでしたが、飛んでくれた事にまずはありがとうと言いたいです。
前日の予行飛行も終日雲が低く垂れ込めていて中止。
19日も朝から曇っていたものの、低い雨雲は消えていたのでやってくれると確信し出かけて行きました。

6年前は駐屯地内で見学したのですが、今回は熟慮?の結果春光台へ。
同じ事を考える人は多いようで、春光台スキー場はギャラリーと化していました。(笑)

時間になってもなかなか始まらず、やっぱり無理なのかなあ、と思い始めた頃、来た来た来た~~~!
まずは隊長機が駐屯地上空を低空飛行で飛び去り、続いて全6機の編隊を組んでやって来ました。

一糸乱れぬ編隊飛行が美しい~

どうやら時間通りに旭川上空に来たものの、多少でも雲が上がるのを上空で待っていたみたいですね。
天気のせいか、時間のせいかは分かりませんが、前回より演目は少なかったです。
ブルーインパルスの皆さん、ほんとうにありがとうございます。


ちなみに前回6年前はこちら
http://9008.teacup.com/momonga_farm/bbs/345
http://9008.teacup.com/momonga_farm/bbs/344
http://9008.teacup.com/momonga_farm/bbs/343


 

曇り空のブルーインパルス

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 6月20日(月)11時56分33秒
返信・引用
   

Re: 財政への配慮は確かに必要ですが…

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 6月18日(土)12時40分58秒
返信・引用
  永遠の旅人さんへ

そんなこんな議論してる間に、函館に大きいのが来ましたね。
函館も震度6弱以上の確率はかなり低かったと思いますが、
揺れの大きさの割に被害はほとんどなかったようで幸いです。
噴火湾側のかなり局地的な震度だったようで、函館市街はそれほど揺れなかったみたいですね。


ひとつ誤解していただきたくないのですが、
私は震災などの災害にかこつけた過剰なハコモノづくりを批判してるのであって、
永遠の旅人さんが言われる、非常時のインフラ対策、市民レベルの備えなどを否定してる訳ではありません。
りっぱな既存施設を活用、あるいは併用すれば賄える対策がいくらでもある事を言いたいのです。

旭川市が今考えるべきは、マチが壊滅するような大震災よりもむしろ震度4~5レベルが起きた時の対策ではないでしょうか。
地震の備えの殆どない旭川は、このレベルで充分パニックに陥るし、被害も出ると思います。

私が以前住んだ事のある東京隣接の町などは、住民登録をしたその場で災害時の非常用セットが入ったリュックを渡されました。
こういった普段からの防災意識や対策はやはりまるで違います。

永遠の旅人さんがおっしゃるように、まずはこういった意識高揚や対策に予算を振り向けるべきだと思います。
建物を新しくする事ばかり考えていても、いざという時に何の役にもたちません。


 

Re: 財政への配慮は確かに必要ですが…

 投稿者:永遠の旅人メール  投稿日:2016年 6月15日(水)23時05分44秒
返信・引用
  momongaさんへ

> 30年以内に震度6弱以上の地震が起きる確率は、公表された全国の都市の中で旭川が最も低く0.38%

もちろんそのデータは存じ上げております。
ただし、その前提条件は現在判明している活断層によるもの。

歴史的史料に乏しい北海道では過去の大災害についての記録も曖昧てす。

市庁舎の改築の可否は我々部外者がこれ以上あれこれ述べるのは差し控えたいと思います。

ただ、市民の防災意識の低さ(非常食や飲料水、カセットコンロ、携帯トイレを常備している人はほとんどいないでしょう)については何とかしなければいけないのではないかと老婆心ながら思ってしまいます。

大震災の際には電気、水道、ガス、食料、衣料、飲料、日用品、ガソリン…あらゆるものが手に入らなくなります。
それなりに準備をしていた自治体ですらあの時は機能不全に陥りました。


 

Re: 財政への配慮は確かに必要ですが…

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 6月11日(土)22時15分27秒
返信・引用
  永遠の旅人さんへ

たまたまですが、今朝の新聞に2016年度版「全国地震動予測地図」が公表された記事が載りました。
政府の地震調査研究推進本部が数年ごとに更新する、地震が起きる確率を地図化したものですね。
http://www.jishin.go.jp/evaluation/seismic_hazard_map/shm_report/shm_report_2016/

30年以内に震度6弱以上の地震が起きる確率は、公表された全国の都市の中で旭川が最も低く0.38%です。
ひっくり返して言えば旭川で震度6以上の地震は99%以上起きないということですね。
過去記録された地震でも旭川は震度4が最大となってますが、実際には少数まで表示すれば3.5です。(四捨五入される)
また、確認されている活断層が無いというのも他地域とは事情が異なるところです。
(熊本も過去大きな地震がなかったが九州を横断する数多くの断層が確認されていた)

つまり、旭川市民が根拠のない自信を持ってるとは思いません。
昔は経験則のみで言ってたかもしれませんが、現在ではちゃんとこれら科学的な裏付けがあります。
私もこれを鵜呑みする訳ではありませんが、確率は限りなく低いのは間違いないと思っています。


防災センターのような施設や、公共施設の耐震対策には莫大な費用が必要なだけに、これらの確率との兼ね合いを考えるべきだと思います。
そりゃ安全対策にかけるカネは多いに越した事がないに決まってますが、
限りなく100%に近い確率で大地震が起きると言われている都市ですらなかなか持てないような防災専用施設を、
限りなく確率ゼロに近い旭川が多大な費用をかけて整備する・・・
ダメとは言いませんが、どう考えてもバランス的におかしいと思います。

と言いますか、かんじさんも力説しているように、要するにハコモノ先に有りきなんですよね。
旭川におられた永遠の旅人さんならこのあたりの行政体質をご存知ですよね?
公共事業は全体的に減ったとはいえ、この体質は変わっていません。
耐震とか防災を大義名分にすれば反対しづらいのをいい事に、カネもないのに新しいハコを造りたいだけなんです。

実は、防災センターが計画された時に、忠別川河川敷に光ファイバーを敷設した防災道路を張り巡らす計画もありました。
災害で一般道路が通行不能になった時のために、という名目でした。
広々とした旭川の街路全てが通行不能になるとは、いったいどれだけの壊滅的大災害を想定してるんでしょうね。
と思ったら、冬季間の除雪は考えていないという事で、さすがにこれは批判を浴びました。
この計画はその後どうなったのか、さっぱり聞こえてきません。

また、旭川市は各地区ごとに立派な住民センター(昔の公民館)を整備しています。
最近は過剰施設の批判を気にしてか、支所などとの複合施設とするケースが増えてますが、
これとてなぜか非常時のバックアップ拠点としての活用を考えようとしません。


すべてがこの調子ですから、本当に危機管理を考えた上での施策なのか非常に疑問なのです。
現市役所総合庁舎のみならず、文化会館もセットで建て替えるんじゃないか?という事は以前から囁かれていました。
文化会館は耐震性の問題は聞いた事がなく、単に古くなったというだけの理由です。
今回の発表で「やっぱりね」という感じです。




 

元祖シビックコア

 投稿者:永遠の旅人メール  投稿日:2016年 6月 9日(木)22時38分57秒
返信・引用
  momongaさん 六条以北に公共機関が集まっている理由を説明していただきありがとうございました。
昔は上川支庁や中税務署(これは五条ですが)など確かに現在よりも官公庁が集まっており、北彩都のシビックコアよりも集中していますね。
確か、上川支庁の永山移転は当時の横路知事が永山副都心構想の一環にという触れ込みでしたが、実際のところこれに先駆けて移転した上川農業試験場の有休地処分に利用されたというオチではないでしょうか?
 

財政への配慮は確かに必要ですが…

 投稿者:永遠の旅人メール  投稿日:2016年 6月 9日(木)22時11分20秒
返信・引用
  旭川市民34万人。人口推計が現在想定される最悪のペースで進んでも2040年にはまだ23万人程の人口を抱える「大都市」です。
確かに東光に総合防災センターなるものができたようです。
消防本部ではなく司令(通報を受理し、消防車などを派遣したり、作戦展開をする部署)が入っているようですが、市が行う災害対応は何も消防だけではありません。
東日本大震災や熊本地震でも明らかなように、初動は自衛隊、警察、消防が活躍しますが、道路や上下水道などインフラの復旧、避難所の設営、運営、救援物資の分配、被災家屋の診断や被災証明書の発行(これによって自宅再建や生活再建のための支援金の受給額が決定)、災害弱者である高齢者、障害者、子どもの保護など市役所の仕事は多岐に渡ります。
とてもあの程度の防災センターでは機能不全に陥ります。
また、これは旭川で暮らしていた時は私もそう思っていたので無理もないとは思うのですが、「災害の少ない旭川」というイメージは一度捨て去った方がいいと思うのです。
言葉は悪いのですが、旭川市民の根拠のない自信(決して皆さんだけを指しているわけではありませんよ。かくいう私も数年前まではそうでしたから)には今は正直なところ違和感を禁じ得ないのです。
たまたま100年ちょっとの間水害を除く災害がほとんどなかっただけで、先住民のアイヌの人々は文字を持たなかった民族のため、口承による伝説は数多いのですが、本州以南とは異なり文献がないのではっきりわからないだけで実は過去に大地震があったかもしれません。
まして冬期間はマイナス20℃以下にもなる極寒の地であることは疑いようのない事実。
熊本は車中泊や野宿でも何とかなりましたが、旭川ではそういうわけにはいかないでしょう。
予算については無限ではないでしょうが、災害対策や都市再生など有利な補助金を最大限利用して、必要なものは造らなければならないと思います。
 

Re: 梅雨がないのは羨ましい

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 6月 9日(木)16時56分17秒
返信・引用 編集済
  > No.1271[元記事へ]

永遠の旅人さんへ

こんにちはかんじです。

> 出来レース、スクラップ&ビルドが好きな人達、いずれも同感です。
> 確かに市庁舎の建替については賛否両論あるでしょう。
賛否両論といいますが、一般市民に賛の声は無いと思います。
賛を唱えるのは、市役所職員と建設関係者だけではないでしょうか。
一番問題なのが、事業を執行する役人という部署の人間が予算を多く執行する事にステータスがあるという事です。
市議もそうです。それぞれの部署の幹部もそうです。
自分の権限でいかに多くの予算を獲得し、事業を執行するかが役人の使命となっています。
確かに膨張を続けた高度経済成長の時代には、この論理で町が豊かになって行った事は否定しません。
しかし、いま人口が減り予算も縮小してゆく中にあってこの論理は通用しないのに
相変わらずお役人の間では多くの予算を消化する事が正義であって、減らしたり小さくすることは悪なのです。
一般市民の感覚とははるかにずれています。

市役所の建て替えと、文化会館の建て替えにいったいいくらの予算がかかるのでしょうか?
300億円近い金になると思いますよ。
市役所建設には補助金がほとんど使えないので、ほとんどが市民へのツケとなります。

旭川ってそんなに裕福な町でしたっけ?
借金は1800億円ほどあるようですね。

市民の理解を得ているという証拠を作るために、昨年市民へのアンケートを行いましたが、
これが実に誘導的質問ばかりで、まさに偽造証拠作りです。
http://www.city.asahikawa.hokkaido.jp/700/735/740/742/p009038_d/fil/shimin_anketo_kekka.pdf

最初の前提がこうです。
「平成9年に実施した耐震診断では,総合庁舎の耐震性に問題があることが判
明し,大きな地震があった場合,建物が倒壊する危険性があり,人命の安全が
確保できないおそれがありますが,こうした状況を知っていましたか。 」
そのうえで
「問 庁舎建設の基本的考え方(「庁舎整備検討委員会最終報告」から抜粋)を
ご覧いただいた上で現総合庁舎を建て替えた方がよいと思いますか。 」
とくるのです。

なら、平成9年に実施した耐震診断は、通常の診断とは別の方法を用いており、
診断を行った佐藤建築事務所では、別の方法でも診断した方が良いと提言している
事を市民は知っていますか?と聞きたい。
これは無視しているのです。
さらには現市庁舎が、様々な賞に輝く近代建築の代表的な建物であることもほとんどアナウンスしません。
https://www.aij.or.jp/scripts/request/document/20151126.pdf

http://www.jia-asahikawa.com/#!blog/ck0q

建て替えを前提に極めて意図的に市民を誘導しているのです。
 

Re: 梅雨がないのは羨ましい

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 6月 8日(水)11時17分50秒
返信・引用
  永遠の旅人さんへ

仮に今の庁舎を何らかの形で継続利用するにしても、耐震性についてはしっかりとした対策は必要でしょうね。
有事の際に機能する施設としては、郊外に旭川総合防災センターという立派な施設が数年前につくられたんですよ。
それでなくとも災害の少ない旭川ですが、近辺町村を含めた消防本部も兼ね備えた他都市も羨む施設です。
市役所崩壊などという事はあってはならない事ですが、どうも施設ばかりが過剰だと思えてなりません。


> むしろ、都心部にあれだけの空間を用意した先人の先見性に感心します。
> 将来的に市庁舎の建替が必要になった時を見越してのことなんでしょうか?
> それとも中央小学校の敷地を転用した偶然の産物なんでしょうか?

中央小学校を移転したのは、あの場所に今の文化会館を建てたかったからですね。
ドーナツ化現象で生徒の数が減り、たまたま大成小との統合計画があったのであの場所になった訳で、そういう意味では偶然です。

これとは別に、旭川は6条通り以北に色々な公共機関が集まっています。(最近は移転等でバラけてきてますが)
これには実は歴史的な経緯があって、
明治期の旭川への流入人口が急速に膨らんでいた頃、何故か道庁は民間への土地払下げを6条までに制限した時期があったんですね。
今で言うなら、市街化区域を6条通りまでとし、6条以北は市街化調整区域(共有地)とした訳です。
それでなくとも払下げ可能な市街地が足りなくて四苦八苦していたのに、意味の分からぬお達しに困った旭川では、
市街地のあちこちに散在していた各役所を順次6条通りから北の共有地に移転し、空いた跡地を民間に払下げたのです。

市役所はじめ、旧上川支庁や警察署・気象台、それに上川中学などの公的機関があの近辺に集まったのはそういった経緯によるもので、
つまり、実は苦肉の策だったのです。


 

梅雨がないのは羨ましい

 投稿者:永遠の旅人メール  投稿日:2016年 6月 7日(火)21時12分20秒
返信・引用
  昨日の朝6時41分頃のNHKの天気予報で旭川の映像が流れていました。清々しい青空で梅雨空のこちらからすれば羨ましい限りでしたが、音楽大行進の日にあの天候だったら良かったのですが…。

出来レース、スクラップ&ビルドが好きな人達、いずれも同感です。
道路拡幅が大好きなのも北海道の特徴です。
地価の安さも原因でしょうけど、結果として街並みが単調になりがちです。
我が町では狭い道を車と歩行者がせめぎあっており、ある意味羨ましくもあります。

確かに市庁舎の建替については賛否両論あるでしょう。
ただ、個人的には有事の際に市民の生命を守る司令塔が耐震性能に不安がある現状はやはり好ましくないとは思います。
その耐震性能照査も皆様が仰っているように性急の感は否めませんが…

むしろ、都心部にあれだけの空間を用意した先人の先見性に感心します。
将来的に市庁舎の建替が必要になった時を見越してのことなんでしょうか?
それとも中央小学校の敷地を転用した偶然の産物なんでしょうか?
 

Re: 永遠の旅人さん

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 6月 7日(火)11時56分47秒
返信・引用
  ごぶさたです。

4日の雨は荒れたと言うような降り方ではありませんでしたよ。
細かい雨でけっして強い降り方ではなく、まあ涙雨の範疇ですね。
ただ気温がかなり低くて、日中でもようやく10度を上回る程度しかありませんでした。
あの気温で雨に濡れるのはさすがにまずいでしょうね。
翌日はスカっと晴れて気温も回復しただけに悔しいところです。


新しい旭川市庁舎の場所選定は間違いなく出来レースです。
もう最初から決めていて、検討するふりだけして実は変えるつもりがなかったというのが見え見えです。
文化会館建て替えとセットにして現庁舎取り壊しも既定路線でしょうね。

文化会館は何年か前にアスベスト対策で大掛かりな工事を施したばかりで、それこそまだ40年しか経ってない建物です。
ほんとにスクラップ&ビルドが好きな人達だと思います。
どんどん新しいモノと置き換えて行くんですから、歴史が積み上がらないのはあたりまえですね。

 

(無題)

 投稿者:永遠の旅人メール  投稿日:2016年 6月 6日(月)22時13分58秒
返信・引用
  momongaさん
ごぶさたしております。
北海道音楽大行進の中止は非常に残念でしたね。
確かに招魂祭の涙雨は有名ですが、そんなに荒れたのでしょうか?

ところで旭川市庁舎と市民文化会館の改築が記事に出ていましたね。
http://e-kensin.net/news/article/9099.html
 

Re: また一つ伝統が・・・

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 6月 4日(土)19時16分17秒
返信・引用
  かんじさんへ

そうか、お手伝いがあるからかんじさんも関係者になるんですネ。(^^)


> 80年ぶりに雨のため中止と聞いていましたが、80年前に中止になったのは雨のせいではなかったということでしょうか?

80年ぶりもなにも、どうやら昭和24年から27年の4回開催中断以外は事前中止決定そのものが初めての事みたいです。
そう言われてみれば私の知る限りでパレードが中止になったという記憶がありませんし、
でも過去には一度や二度あるだろう、くらいに思っていましたが、なかったらしいです。
昨年まで83回の開催で、悪天候による中止が一度もなかったなんて驚異的です。

でも私も昔、かわいそうにズブ濡れになって行進している姿を見た経験がありますから、
実際には小雨決行、多少の雨くらいでは中止しなかったという事なんでしょうね。

結果的に今日の中止は正解だったと思いますが、
やはり前日中の中止判断は、この音楽行進には安易にあてはめるべきではないと考えます。

 

Re: また一つ伝統が・・・

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 6月 4日(土)14時47分41秒
返信・引用
  > No.1266[元記事へ]

momongaさんへ

> 音楽行進が中止になってしまいました。残念です。
本当に残念ですね。
80年ぶりに雨のため中止と聞いていましたが、80年前に中止になったのは雨のせいではなかったということでしょうか?

> この方法で実際問題、悪天候で中止したケースがほとんどないというのも驚異的です。(昔は多少無理もしたでしょうが)
私がかなり小さかった頃ですが、雨の中をカッパを着て鼓笛隊が歩いていた記憶があります。
たぶん兄の写真だったと思うのですが、カッパを着ていましたね。

> 関係者のご苦労は多大かと思いますが、
お陰様で私は家でゆっくりしています(^^;
でも残念です。
 

また一つ伝統が・・・

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 6月 4日(土)13時07分41秒
返信・引用
  音楽行進が中止になってしまいました。残念です。

私も永年この行進を見に行ってますが、前日中に中止を決めたというのは聞いた事がありません。
それもそのはずです。天候を理由に中止を決めたのは、長い歴史をもつこのパレードで初めての事だそうです。


そもそもこの音楽行進は、例年護国神社祭に降る泪雨の心配がつきまとうのが常です。
でも、多少ぱらつく事はあっても不思議とパレードの間は雨が上がっている事が多いのも常です。
事実、私は傘を持って行ってもパレードを見ながら差した経験がありません。
(開会式へ向かう時や、アフターコンサートの途中からならありますが)
主催側もそんな特異性を知ってか、これまで天候を理由に前日に中止を決定するという事はありませんでした。

まして最近は全く当てにならない天気予報です。
昨日の時点で今日は雨の予報でしたが、その昨日だって終日晴れの予報であったのに実際は終日曇天一時雨、日の沈む頃になってようやく空が明るくなってきたという外しっぷりです。
バクダン低気圧が来るとか、前線が通過するとか、よっぽど明白な気象状況でない限り信用できないのが最近の天気予報です。
はっきり言って、そんな天気予報を根拠に早々と中止を決定されると諦め切れない、というのが本音です。
参加団体に負担をかけない配慮なのでしょうが、参加団体にしても年1回のこの音楽行進を楽しみにしているわけです。
「もしかしたらできるかもしれないからギリギリまで待てば?」という気持ちが強いのではないでしょうか。


そうは言いましても、今日の天気は確かに実施するには少々無理がありますね。
雨はこの後おそらく上がるでしょうが、気温が低過ぎです。
こんな日に限って天気予報は当たりました。 ← 皮肉と未練たらたらです^^;


ただ私が心配してるのは、80年以上も続けてきた伝統的な実施基準まで変えてしまうのか?という点です。
冒頭に言いましたように、この音楽行進開催日(護国神社祭)の天候には明らかな特異性があります。
だからこそこれまで当日になるまで中止の判断はしてこなかったのです。
この方法で実際問題、悪天候で中止したケースがほとんどないというのも驚異的です。(昔は多少無理もしたでしょうが)

関係者のご苦労は多大かと思いますが、
下手に天気予報なんか信じるよりは、永年の経験則に従ったほうがよっぽど「あ~できたのに~」がないと思いますよ。





 

天気が心配

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 6月 3日(金)13時54分17秒
返信・引用
  明日は音楽大行進です。
天気がちょっと心配ですね。雨ばかりでなく気温が低い・・・
涙雨はいつもの事ですが、晴れの予報が外れている今日とは逆に外れる事を願っています。


今年の第2師団駐屯地祭は、6年ぶり2度目のブルーインパルスがやってきますね!
http://www.mod.go.jp/gsdf/nae/2d/event/28souannai/28souannai.html
やあー、またあの迫力ある曲技飛行が見られるのは嬉しい限りです。

18日に予行飛行、19日本番飛行と、実質2日間旭川上空にやって来ます。
楽しみです!
昨年はF15がやって来るはずだったんですが、ザンネンながら天気に恵まれず中止。
音楽行進は曇っていても問題ありませんが、
このブルーインパルスだけは何とかスカッと青空になってほしいと切に願います。

 

Re: 国土地理院の地図

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月28日(土)10時17分0秒
返信・引用
  おおーかんじさん、さっそく見つけて来ましたね。
図書館にありましたか。
以前、図書館で戦前の地図を一通りコピーしていただいた時にはこんなのはありませんでしたけどね。
内容はモリゴロウさんの地図と変わらないようですから、同じ地図の縮尺違いっぽいですね。

当時は地図の販売自体も制限されてたでしょうし、出回るとしてもこのように改描されたものだったという事ですね。
まさか旭川の地図でこのように改描されたものが現実に見られるとは思いませんでしたよ。

 

Re: 国土地理院の地図

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月27日(金)10時23分30秒
返信・引用
  > No.1258[元記事へ]

momongaさんへ

私も手に入れました。
戦時中の地図です。
図書館にありました。
見事な「戦時改描」です。
発行年、印刷年は入っていませんでした。
発行者でしょうが「参謀本部」と入っています。
しかも 右上に「秘」としっかり入っています。

これがモリゴロウさんのおかしな地図の原型というか戦時中の物だと思います。

この一枚以外の地図にはすべて大町支線が入っていました。

 

Re: 戦時改描

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月26日(木)11時22分56秒
返信・引用
  かんじさんへ

> 郷土史全般に関しては学芸員さんは絶対的に豊富な知識を持っていますが、
> 細かな部分やマニアックな調査項目に関しては素人だって決して負けていませんからね。

その通りですね。
所蔵されてる資料や物品、それにまつわる情報はさすが博物館だなあ、と思う場面がいくつもありますし、
やはり古くからの常設機関だけに、それらの蓄積は我々の比ではありません。

ただ思うのですが、博物館の場合、当たり前ですがどうしても”モノ”が必要なんですよね。
何か物理的な資料や物品があってはじめてそれにまつわる調査が成される。
あるいはその逆のケースもあるでしょうが、いずれにしても断片的なモノの調査の積み重ねが主なんですよね。
調査済みの案件については詳しいが、未調査あるいは不明のものについては我々と変わりありません。
それどころか今回の地図のように我々が先行して調べてるケースだってあります。
この掲示板で採り上げられてる話題の数々も、けっこう学芸員さんの知らない事も多いんじゃないでしょうか。
岡本さんもおっしゃってましたが、旭川の歴史には意外と謎が多いとされてますから、まだまだその余地ありです。


> こんど岡本さんとじっくり話せる時間を作りましょうかねぇ。

ぜひそうしたいですね。
実は岡本さんとお会いしたのはもう4度目なんですけど、何故か顔を覚えてもらえてない・・^^;
(目がかなり悪いみたいです)
でも吉田初三郎の時のことを話したら、かんじさんの事は覚えてられましたよ。

 

Re: 戦時改描

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月25日(水)17時02分28秒
返信・引用
  momongaさんへ

> 40名近い方々が熱心に聞き入ってましたね。
なかなかの盛況ぶりで私も行きたかったな。

> 突っ込みたいところがたくさんあったのに・・・^^;
郷土史全般に関しては学芸員さんは絶対的に豊富な知識を持っていますが、
細かな部分やマニアックな調査項目に関しては素人だって決して負けていませんからね。
こんど岡本さんとじっくり話せる時間を作りましょうかねぇ。
そういえばmomongaさんとは吉田初三郎の屏風絵を岡本さんに見せてもらった仲でした。
それ以前にも旭川の地名由来で岡本さんと面識があったとか言ってましたね。

> 中外拓殖という会社についても全く分かっていないという事なので、例の論文がネットで見られる事を紹介したところ、
> 「情報ありがとうございます!」とえらく感謝されました。

それは郷土史研究家として面目躍如でしたね。
私もなんか元気が出ます。

 

Re: 戦時改描

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月24日(火)12時11分13秒
返信・引用
  思わぬところで思わぬ話題になって元々の話題が飛んじゃいました。
そうそう、かんじさんの北門町の河川跡から飛んじゃったんでしたね。(^^)
既に自己解決したようですので、今度私も現場を見てきます。


でもって、22日には再度博物館へ赴き、岡本学芸員さんによる展示物の解説をきいてまいりました。
40名近い方々が熱心に聞き入ってましたね。
同じ歴史経緯でも多少観点が違うところもあり、まあまあ楽しめましたが、質問するタイミングが全く用意されてなかったのが残念です。
突っ込みたいところがたくさんあったのに・・・^^;
でも1時間程度の時間で一通りの解説ですから、岡本さん自身にとってもけっして満足な解説はできなかったでしょうね。
そこにいちいち質問を受けてたらとてもじゃないがいくら時間があっても足りない。

解説終了散会してから、何とか一点だけ例の『中外拓殖株式会社所有地連絡図』について立ち話できました。
あの地図の件を持ち出したとたん「お目が高い!」という言葉が返ってきました。
実は今回初めての展示だそうで、旭川市博物館の所蔵品だそうです。
「岐阜の図書館でも所蔵してるみたいですよ」と言ったところ、「それは知りませんでした」
中外拓殖という会社についても全く分かっていないという事なので、例の論文がネットで見られる事を紹介したところ、
「情報ありがとうございます!」とえらく感謝されました。

他にも色々話したかったのですが、どうにも忙しないのでそれだけで後は遠慮しましたが、
またゆっくりと話したいものです。

 

戦時改描

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月24日(火)09時50分17秒
返信・引用
  今回の件でいろいろ調べてみて改めて解った事ですが、こういった戦争に絡む地図の改竄を「戦時改描」というんですね。
日本では昭和15年頃から軍需施設を地図から消したり、別の物に換えたりという行為が行われたようです。
地図だけじゃなく都合の悪いものは写真の修整や様々なものが規制、改変させられたようですね。
地図は正確である事が最も重要と思っていましたが、それを捻じ曲げる戦争の恐ろしさを改めて感じます。
昭和17年からは地図の販売も禁止になっていたとか、、、、。
それでも国土地理院の前身である部署は、終戦後直ちに資料を保管し新しい組織で戦後復興の為に正確な地図作りをはじめ今日に至っています。
モリゴロウさんが提示してくれた、おかしな地図はそんな時代もあったという反面教師にしたいものです。
 

Re: 国土地理院の地図

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月19日(木)11時53分8秒
返信・引用
  かんじさんへ

私も師団線(大町支線)がちゃんと記載されていれば、戦前の地図から師団施設の文字記載を消しただけと考えたと思います。
ところが、明治32年の敷設から、昭和53年の廃線まで一度たりとも地図から消えた事などない軌道が描かれてないというのは、どう考えても意図的としか思えないわけです。

> 終戦後進駐軍が乗り込んできたときに、とにかく軍需関係のものは全て隠したという話を聞いたこともありますので、米軍に気を使ったのかななんて事も考えます。

逆に、進駐軍の意図で戦前の地図を引っ張り出して再発行した可能性がありませんかね?
進駐軍もこの頃に日本全国の航空写真を撮りまくってますよね。我々もよく使わせてもらってますが。^^;
つまり進駐軍も日本国内の地図が必要だったはずで、そのために印刷したのがたまたま件の地図だったかもしれません。

戦前のキナ臭い時代は、正確な地図というのは軍事機密でしたから、
進駐軍に「出せ」と言われて出したらこんな地図だった・・・という推測でした。

 

Re: 国土地理院の地図

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月19日(木)09時44分52秒
返信・引用
  > No.1256[元記事へ]

momongaさんへ

> かんじさんは、戦後になってから師団関連の記述が全て削除された、という解釈ではありませんか?

はい、そう思っていました。

> 実は私の解釈は違っていて、あれは戦前の地図であって、軍事施設を意図的に”隠した”地図だと見ています。

ほーーー、なるほど。
軍事施設を除いた地図ですね。
確かに当時軍事施設を秘密にしたというのは聞いていましたし、海図なんかでも海軍基地の載っていないものを見たことがあります。
可能性は高いですね。
ただ、昭和22年と言えば2年も過ぎた戦後ですので、その時にわざわざこんな不正確な地図を出すかな?って疑問は残りますけどね。

終戦後進駐軍が乗り込んできたときに、とにかく軍需関係のものは全て隠したという話を聞いたこともありますので、米軍に気を使ったのかななんて事も考えます。

昭和27年に測図が行われているようですが、その測量を基に別の戦後の正確な地図が作られたように思います。
この頃なんか混乱しているみたいですよね。

そういえば、momongaさんも持っている「地図で見る旭川の変遷」に入っている地図も、大正7年の後が昭和31年で、ずいぶん飛んでいるなと思っていたのですが、戦争を挟んだ混乱期にあって、正確な地図が作られなかったんですね。
または軍関係では作っていたかもしれないけど一般には公開されなかった可能性もありますし。

唯一あるのが1945年の米軍作成の旭川地図ってのが一番詳しく、この間を穴埋めしているかもしれません。
 

Re: 国土地理院の地図

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月18日(水)12時24分10秒
返信・引用
  かんじさんへ

たぶん私と一つだけ解釈の違いがあると思います。
モリゴロウさんの、師団線と師団関連の記述がすっぽり抜けている地図についてですが、
かんじさんは、戦後になってから師団関連の記述が全て削除された、という解釈ではありませんか?

確かに昭和22年印刷となっていますから、年号通り見るならそういう解釈が成り立つと思いますが、
実は私の解釈は違っていて、あれは戦前の地図であって、軍事施設を意図的に”隠した”地図だと見ています。

先の戦後地図とは逆で、あの地図の内容は明らかに昭和初期のままのものです。
おそらく昭和6年補入の時のままの地図のような気がします。
根拠は、
・牛朱別川の切替前である(これは大正5年測図であれば当然か)
・現旭橋架橋前の電車の軌道が描かれている
・護国神社ではなく招魂社と記載されている(改名は昭和16年)
・旭町、大町などの字名が記載されていない(昭和4年に制定)

等々ですが、要するに師団線と師団施設の記載が一切無いのを除けばそれなりに辻褄の合った地図なのです。
先のレスでも触れましたが、戦前は陸軍外局の陸地測量部が地図つくりを担っていました。
でもって、戦前は国土防衛上このような軍事関連施設を一切省いた地図がつくられていたと聞きます。
この地図はその部類ではないでしょうか?

 

Re: 国土地理院の地図

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月18日(水)11時16分14秒
返信・引用
  今回の国土地理院のトンデモ地図の一件で少なくとも戦前の地図に関しては、かなりいい加減なものも多く信頼性には疑問があるって事のようですね。
momongaさんもでしょうが、日本で一番正確な地図を出しているだろうと信じていた私にはショックな事件でした。
しかし大正5年から昭和20年の終戦にかけては、日本は異常な社会情勢であったことも確かであり、戦後の軍部否定もまた異常な状態であったわけです。
そんな政治や体制が真実を捻じ曲げトンデモ地図を作り出したのでしょう。

幸いにも現在はそのような状況には無いと信じていますので、国土地理院様にはとにかく正確な地図を作り後世に残してもらいたいものです。

私は歴史書を読むのが嫌いなのですが、古い地図を見るのは大好きです。
まるでタイムマシンに乗っているかのようなワクワクした感覚で見ています。

PS.
モリゴロウさんの出してきた地図でとんでもない事がわかりましたが、
最初の質問に戻ると、北門町の斜め住宅ですが、確かに川があったようです。
そばにお住いの方に聞きました。
そこに下水があったんだよね。それに沿って住宅が建ったんだ、もう埋めちゃったけどと言っていました。
でも下水ではなく登録上はちゃんとした川だったと思われます。
河川は河川法や水利権など別な重要な要素を含みますので、かってに埋めたり切り替えたりできません。
そのため、用地が河川の影響でいびつな形になることは良くあります。
そこに歴史が投影されることもあり、そんな場所が大好きです。
 

Re: 国土地理院の地図

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月17日(火)14時56分41秒
返信・引用
  今回のモリゴロウさんの地図画像により、国土地理院といえどもトンデモ地図が存在する事が分かりました。
我々が資料とするには全く地図としての体裁を成してないですよね。
貴重な”珍品”ありがとうございました。m(__)m


私は国土地理院の地図は基本的に測図時点の情報への加筆はできるだけ抑えるべきだと考えています。
その分測図はマメにしなければなりませんが、そうでなければいつの時点の姿を描いた地図なのか判別できなくなるからです。
かと言って、発行時点でできるだけ新しい情報を盛り込みたいという気持ちも分かります。
「鉄補」なんて用語があるくらいですから、昔はどんどん更新しなければならない代表的要素だったんでしょうね。
道路なども同じ事が言えると思いますが、加筆した内容をもっときちっと明確化してくれればまだ良いのですが。

しかしながらそれも限度があり、
今回の国土地理院の地図のように、測図から発行までの期間が常識では有り得ない長い期間で、
実際問題その間に道路・橋はもちろん、川の流れも”時代”すらも変わってしまってるのに「鉄補」「修正」の一言で済まされている・・・
とてもじゃないが「補入れ」のレベルじゃないですよね。
と言いますか、地形も市街も大きく変化した時代に測図が大正5年のままってのはあまりにも怠慢過ぎです。



モリゴロウさん、大事に保管されたらよろしいのではないでしょうか。
後の3枚の地図の1・2枚目も、
昭和に入ってからの補入・印刷にしては、旭川區のままだったり、馬鉄が記載されていたりメチャクチャです。
3枚目は先に書いたように意図的に軍事施設の記載を省いた地図でなきゃ説明がつきません。
よくよく考えてみれば国土地理院は戦前まで陸軍外局の陸地測量部ですからこういった地図の存在は充分考えられます。

国の機関の発行地図ですから、エラー貨幣やエラー切手同様「珍品」としての価値があるかもしれませんよ。(笑)
我々にしてみれば既に十二分に珍品ですが・・・
購入したのですから国土地理院にどういう事なのか問合せてみるのもいいかもしれませんよ。



 

Re: 国土地理院の地図

 投稿者:モリゴロウメール  投稿日:2016年 5月14日(土)10時15分15秒
返信・引用
  > No.1252[元記事へ]

かんじさんへ

かんじサンの分析力には脱帽です!

すごく「レア」な地図を持ってるんだ!と・・喜んで良いのでしょうか?

一歩間違えは「紙くず」にしか思えないのですが・・

当時は原本のネガ保存かマイクロフィルムでの保存だと思います。引き伸ばし、またプリントはマイラー(乳白色のトレース用紙)を使っています。それに加筆、または重ね焼きで加工するかのいずれかで地形図を作っていたと思います

文字が年代ごちゃまぜになっているのは地形図、鉄道路線図、道路図、住宅図だけのベースが何枚か(最低二枚)存在し重ねて焼いた(印刷)のではないでしょうか?
標高やポイントとなる数字、町村名が異なるの二枚の地形図が存在(戦前、戦後)しその上に重ね焼きしたのでしょう
だからカラー地図も存在すると私は推測します
 

国土地理院の地図

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月13日(金)16時30分24秒
返信・引用 編集済
  モリゴロウさんが購入した国土地理院のサイトを見てみると、少しわかってきました。
国土地理院の発行する当該地の2万5000分の1の地図は一覧に示すように大正5年の測図に始まり16種類あります。
最新版は平成18年測図、18年発行です。
ところが地図の基になる測量、測図は大正5年の後、昭和6年に鉄補(鉄道補正?)があった他は戦後の昭和27年まで行われていません。
その後昭和47年、昭和53年、昭和61年、平成3年、、、、、、平成18年と戦後は比較的頻繁に修正が行われたようです。
問題は昭和27年まで基本修正されていないにも関わらず、昭和22年、昭和23年に鉄補という形で発行されています。
これはmomonagaさんが指摘されたように、陸軍関連施設の消去修正ではないでしょうか?

そこでモリゴロウさんが示した最初の地図ですが、昭和32年8月印刷との事ですが昭和32年発行というのは現在無いですよ。
momongaさん指摘のように戦後の物だとすれば、昭和27年測量以降のものです。
となると昭和31年発行の物であると思います。
私とmomongaさんのもっている物ですね。
でもモリゴロウさんのは文字が逆方向だから、32年発行の時の別バージョンという事になります。
気付いたのは昭和31年発行のものはカラーなんです。
それ以降もカラーです。
モリゴロウさんのは白黒ですよね。
この時期大正5年の基図を修正した白黒バージョンと、昭和27年測図の新しいカラーバージョンがあって、白黒バージョンは絶版にしたのではないでしょうか。
モリゴロウさん。
再度、同じ地図を買えますか?
もう買えないのではないでしょうか。

PS.
修正加筆です。
>正式には大正5年測図  昭和6年鉄道補入、同27年修正 昭和32年8月印刷の国土地理院発行の原本です。
つまり大正5年に測図して、昭和27年の測量に合わせて修正し、32年8月に発行した、「文字が逆の白黒バージョン」というのがあったんですね。
昨年まで。


 

Re: 信頼性が総崩れ

 投稿者:モリゴロウメール  投稿日:2016年 5月13日(金)13時55分23秒
返信・引用
  > No.1249[元記事へ]

momongaさんへ

ご指摘をいただかなけれはこの地図の知識のままでいたかもしれません(汗)

地図をよく見ると大町岐線が根元から無いじゃないですか!

本当にどうなってるんでしょうか。。。

「ブーベの恋人」住宅以来、変な地図の持ち主になってしまいましたね(笑)

ご希望があればいつでもコレクション地図をお見せしますのでご一報下さい

 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 5月13日(金)13時47分26秒
返信・引用
  > No.1248[元記事へ]

かんじさんへ

入手したのは去年の事でした。国土地理院のHPより旧版地図の入手方法から額面分の郵便小為替で代金を送りました
鉄道の補入された物をチョイスしただけなのでなんの脈略もありませんが(笑)
 

信頼性が総崩れ

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月13日(金)12時11分46秒
返信・引用 編集済
  一晩寝てややすっきりした頭で昨日の地図に対する推測を試みました。
でもその推測も今朝また覆されました。(笑)

昨日のモリゴロウさんの地図だけであれば、戦後文字表記が左右逆になった事に地理院の版対応が間に合わなかったのが要因かな?と思いました。
つまり実際には戦後の地図なんだけれども、横書きの文字表記だけは数年間戦前の左右逆の版を使わざるを得なかった・・
私やかんじさんが持ってる昭和31年製の地図は新しい表記になってるが、モリゴロウさんのはもう少し古いので旧表記のまま・・・
これで辻褄が合う! (^^)v

・・・と思いきや、今朝のモリゴロウさんの3枚目。何ですかこのメチャクチャな地図は。
かんじさんおっしゃるように完全なエラーとしか思えないですね。
師団線の鉄路がすっぽり抜けているばかりでなく、師団に関する文字記述も一切ありません。
地図はどう見ても大正以前にも関わらず、新橋が描かれ、練兵場を囲んでいるのは馬鉄でなく電車の軌道ですね。しかも旭橋は古いまま。
則図から地図印刷までの期間があまりに長過ぎるとこういう事はあり得るとは思いますが、ちょっとひどい。
もしかしたら意図的に軍事施設を省いた特殊な地図かな?


これまで国土地理院の地図はやはり一番信頼を置いて見てきたんですが、
ちょっと考え直さなきゃならないかもしれません。




 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月13日(金)10時22分35秒
返信・引用
  > No.1246[元記事へ]

モリゴロウさんへ

すみません。
モリゴロウさんの投稿を見ないで私の記事を上げてしまいました。
それにしてもおかしな地図を沢山お持ちですね。
一つずつ上げていたら切がないかもしれませんが、3枚目の地図には明らかに違和感があります。

だって、近文の引き込み線が無い!のに師団があるじゃないですか。
どうなっているんだろう、、、、。
 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月13日(金)10時08分54秒
返信・引用
  > No.1245[元記事へ]

momongaさんへ

> 手っ取り早く言えば、ベースになってる地図は間違いなく戦後の地図なんです。

そうなんですよ。
この地図は私の持っている国土地理院昭和31年発行のものとほぼ同じです。
測図は昭和25年、27年、31年のものです。
なのにそこの文字の記述が戦前の古いものというわけですよね。

良く見ると基図も少しずつ違うので、まったく同じものではありません。
文字が違うというのは、文字は別刷りなんだと思います。

モリゴロウさんへ
>。正式には大正5年測図  昭和6年鉄道補入、同27年修正 昭和32年8月印刷の国土地理院発行の原本です
昭和32年発行の測図が大正5年ってのはありえないですよね。
でもこのおかしな地図が存在しているのは確かなので、やはり何らかのエラー商品ではないでしょうか?
いつ購入されたのですか?
 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 5月13日(金)10時03分25秒
返信・引用
  > No.1245[元記事へ]

momongaさん

かんじサンへ

ワタシが掲載した一枚の地図でこれだけ物議していただき嬉しいやら、申し訳ないやら(汗)

他にも持っている地図を見て何か発見出来ればと思います

一枚目は

大正5年測図  昭和6年鉄道補入、昭和8年7月印刷の国土地理院発行

二枚目は

大正5年測図  昭和3年鉄道補入 昭和5年2月印刷の国土地理院発行

三枚目は

大正5年測図  昭和6年鉄道補入 昭和22年2月印刷の国土地理院発行

鉄道マニア的に大町岐線の引き込みが戦後GHQによって敷地内の線路が撤去されてしまったものと思っていました

そして昭和32年の地図は警察予備隊として自衛隊が発足したのちの物資輸送の線路が引かれたものと思っていました




 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月13日(金)00時31分5秒
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  > No.1242[元記事へ]

モリゴロウさん、たて続けにすみません。

手っ取り早く言えば、ベースになってる地図は間違いなく戦後の地図なんです。
ただ、地名を記す文字が右から左への記述方式を含め、「近文」などの記載があるなど戦前のものなんですよね。
何かの比較に使うための地図なのか・・・?

 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月12日(木)23時54分48秒
返信・引用
  > No.1242[元記事へ]

モリゴロウさんへ

国土地理院からの入手ですか・・・

う~~~ん、、、単純な年号違いとかでなく、年代が完全に混じってるんですよ。
意図不明ですねぇ、何か他に情報ありませんか?

 

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