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Re: イオマレ

 投稿者:あず  投稿日:2016年 7月29日(金)23時23分27秒
返信・引用
  > No.1298[元記事へ]

ウポポ・ポッケさんへ

> 今となってはアイヌ語を流暢に話せる人もまったくいません。カルチャーとしても忘れ去られる。
> けどもしアイヌのひとたちについてかわいそうだと思うなら、アイヌ語やカルチャーについてよくしるべきです。

はじめまして。
とても興味のあるコメントですが、「アイヌ語やカルチャー」ってどこの部族についてなのかお知らせいただければと思います。

「アイヌ語」がアイヌ同一言語だと認識されているのなら、この掲示板にはそぐわないと思いますよ。





 

Re: アイヌ民族迫害の歴史

 投稿者:あず  投稿日:2016年 7月29日(金)23時08分56秒
返信・引用
  > No.1301[元記事へ]

momongaさんへ

毎度ご無沙汰。しかも横レスでスミマセン。

ここ数日のアイヌ関連の話題ですが、旭川の歴史を論ずる上でアイヌについて知っておくべきことはたくさんあると思いますので、少しだけ私のイメージを伝えたくなりました。

> アイヌ関連の歴史って、見方・捉え方によってかなり違ってくるので非常に難しいと思います。
> なんせ記録として残っているのは所詮和人が書き残したものしかない訳ですし、

もちろん秀吉や家康の朱印状や黒印状の時代はそうですが、近年については前回コメントさせていただいた中に「砂沢クラさん」と書きましたが、彼女は「ク スクップ オルシペ」という著書を残しています。

俗に言う上川アイヌの方の著書は少ないのですが、「荒井源次郎さん」や娘の「荒井和子さん」、「杉村京子さん関連」の本を読んでみると、当時の生活が手に取れるように伝わりますよ。

> かんじさんが例えられたアメリカの黒人奴隷・・・
> これは一緒にならないと思います。
> 日本ではアイヌに対する差別・迫害・強制などの史実はあっても、制度として奴隷制が存在した事はないからです。

奴隷についてですが、「労働力」と置き換えると理解しやすいと思います。
江戸時代、蝦夷地の「場所」がエスカレートして、交易から場所請負…最終的にはアイヌの強制連行・強制労働になります。

明治になりますと、樺戸や空知の監獄へ囚人を送り込みます。(囚人にしてしまう方法も酷いものがありますが…)

やがて戦争を絡めて、朝鮮や中国からの労働力。国内外からタコ部屋。
もちろん正規といいますか、漁師・農民・大工・土工・家具職人・床屋・飲食店…、多くの労働力があって今の北海道。

さらに女性の場合は、上記に付随するように「飲む打つ買う」に関わった人々も多い。
これらは北海道の暗黒の歴史と言っても良いかもしれませんが、お役所のようにボカス必要はないと思います。

> なぜなら、明治に入って法治国家の道を歩み始めた時すでに、土人と称して差別しながらも一方では一平民として扱う施策を進めていたからです。
> 実態はともかく、排除するのではなく和人社会に取り込んでしまおうとした訳ですね。

これは対外的な意図があり、黒田長官の行動を見ると解りますが、ロシアの脅威です。
アイヌを日本人にしなくてはいけなかったのです。

北海道アイヌも樺太アイヌも日本人だから、北海道も樺太も日本の領土ですよという既成事実が必要だったのです。さらに、屯田兵や各開拓民を募るのも、北方警備や開拓とともに多くの日本人が北海道に定住しているという既成事実が必要であったのです。(占領とは言いませんが…)

> 特に北海道庁時代に入ってからは、アイヌ人も国民の内という施策が浸透していったように思います。
> でなければアイヌ人のための学校などつくるでしょうか?

その学校とはどのようなモノだったのかご認識をお聞きしたいと思います。
私の知る限りでは、和人の学校とはまるで違うのです。

ちなみに、上川第五尋常小学校、後の豊栄尋常小学校ですが…。

大正3年第1回卒業生 荒井源次郎 川村(砂沢)クラ
同じく、大正4年 松井梅太郎。大正5年 知里幸恵。。。

この時代に育った著名なアイヌの方々のお話を、活字であれ触れておくと良いと思います。

それから、「かんじさん」がアメリカがアフリカから黒人を連れてきて奴隷にした…。
これは北海道における囚人やタコ部屋の図式に近いです。

アメリカ移民が、先住民のインディアンを労役に使途したのか判りませんが、アイヌは強制労働のイメージです。

蝦夷地が北海道になった年に上川アイヌのクーチンコロが、石狩場所で働かされていたアイヌたちを冬を前に早く地元に返すように交渉に出向いた史実があります。

 

(無題)

 投稿者:ウポポ・ポッケ  投稿日:2016年 7月25日(月)00時19分22秒
返信・引用
  アトゥイを超えてアイヌモシリにやってきたサモロモシリの人たちがユートピアを作るために、アイヌモシリはディストピアだったのでしょう。

http://www.h3.dion.ne.jp/~oyama/boukenn-folder/bouken-ainugo-ziten.htm

 

Re: アイヌ民族迫害の歴史

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 7月22日(金)17時30分18秒
返信・引用
  かんじさんへ

アイヌ関連の歴史って、見方・捉え方によってかなり違ってくるので非常に難しいと思います。
なんせ記録として残っているのは所詮和人が書き残したものしかない訳ですし、
それをどう解釈するかは、和人側に立つかアイヌ側に立つかで180度変わってきます。
和人が良かれと思った施策が、アイヌ人に対しての迫害として解釈されてるケースが多々あるのではないでしょうか。
中には樺太・千島アイヌのように、日本とロシアの国境問題の間で犠牲になったケースもありますし。

かんじさんが例えられたアメリカの黒人奴隷・・・
これは一緒にならないと思います。
日本ではアイヌに対する差別・迫害・強制などの史実はあっても、制度として奴隷制が存在した事はないからです。
まして外国から先住民族を使役目的で連れて来たなんて話は聞いた事がありません。
米国が南北戦争という大きな代償を払って実現した奴隷解放は、少なくとも日本では必要ありませんでした。
なぜなら、明治に入って法治国家の道を歩み始めた時すでに、土人と称して差別しながらも一方では一平民として扱う施策を進めていたからです。
実態はともかく、排除するのではなく和人社会に取り込んでしまおうとした訳ですね。


外国の先住民族の多くがそうであったように、日本においてもアイヌ人を駆逐してしまおうと思えば簡単にできたはずです。
奴隷制にしてしまおうと思えばできただろうし、最悪はジェノサイドだって有り得たわけです。

これらの事から一つだけはっきり言えるのは、
松前藩・幕府統治時代、新政府開拓使時代、三県時代、北海道庁時代と、時代ごとに差別の度合いは違うものの、
それぞれの時代の為政者には、最低限の歯止めがあった事は確かです。
特に北海道庁時代に入ってからは、アイヌ人も国民の内という施策が浸透していったように思います。
でなければアイヌ人のための学校などつくるでしょうか?
(これも現代基準で差別教育だと言う人がいますが)

表面の事象だけを捉え、とかく”和人はアイヌ人に酷い事ばかりして来た”式の考え方は一種のイデオロギーとしか思えません。
例を挙げればキリがないのでまたの機会にしますね。

 

Re: イオマレ

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 7月22日(金)16時52分48秒
返信・引用
  ウポポ・ポッケさんへ

ご挨拶遅れて申し訳ありませんでした。
もしディストピアであれば誰もその土地に入り込みたいと思いません。
やっぱりユートピアだったのではないでしょうか。
 

Re: アイヌ民族迫害の歴史

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 7月15日(金)12時44分22秒
返信・引用 編集済
  > No.1297[元記事へ]

momongaさんへ

> かんじさん、ついに暗黒史に踏み入りましたね。^^;

ええええ!暗黒史なんですか。
確かに現代の基準感覚で当時を評価することはできないと思います。
暗黒面を強調した著作物もあるんですね。でも読まないと思うけど。

> もし「奴隷の様な」という表現を使うとすれば、
> 樺戸や空知集治監(監獄)など、和人の囚人の方がよっぽど奴隷そのものだったと思います。

これも現代の感覚では考えられないほどの虐待ですが、一応囚人ですからね。
アイヌは普通の人間ですから、アメリカがアフリカから黒人を連れてきて奴隷にした、そんな感じなんでしょうか。

他の民族を下に見るって感覚は世界中さまざまな地域で見られますが(選民思想とかいうのかな)日本でも見事にあったんでしょうね。

momongaさんが言われるように、アイヌの事をかばい共に暮らそうとしていた人も少なくは無かったのだと思います。

アイヌ迫害の歴史として、これまで私が知っていたのは「臭い、汚いとか言って忌み嫌った」とか「数字や計算のできない素直なアイヌを騙して商売をした」とかそんなレベルだったのです。
それが極端にいうと、アイヌの女は性処理に使い身ごもると堕胎させたとか、死ぬような過酷な労働をさせたとか、人間として扱わないようなそんな関係性があったってことでしょ?

その後多少は良くなったかもしれませんが朝鮮人の強制労働と共に、太平洋戦争に負けて民主国家の道を歩み始めるまでは、日本人(北海道民)(私たちの親の世代)は奴隷や迫害や差別といった考え方を普通の事として皆生きていたって事ですよね。

知ってはいたんだけど、改めてアイヌの歴史を垣間見ることにより、その事実を突き付けられたって感じだったんです。

過去を振り返る時、どんな偉業の陰にも暗黒の歴史があるって事もわかってはいるんですが、、、。
 

イオマレ

 投稿者:ウポポ・ポッケ  投稿日:2016年 7月15日(金)06時05分59秒
返信・引用
  アイヌモシリが開拓使にとってはディストピアだったんでしょう。
今となってはアイヌ語を流暢に話せる人もまったくいません。カルチャーとしても忘れ去られる。
けどもしアイヌのひとたちについてかわいそうだと思うなら、アイヌ語やカルチャーについてよくしるべきです。

アイヌ語のURL貼っときます。

http://www.h3.dion.ne.jp/~oyama/boukenn-folder/bouken-ainugo-ziten.htm

 

Re: アイヌ民族迫害の歴史

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 7月14日(木)21時16分45秒
返信・引用
  かんじさん、ついに暗黒史に踏み入りましたね。^^;

私は正直言ってアイヌ史の”暗黒面”ばかりを強調する著作物はあまり好きになれません。
史実に違いないとは言え、現代の人権感覚での視点・観点が多いからです。
もし「奴隷の様な」という表現を使うとすれば、
樺戸や空知集治監(監獄)など、和人の囚人の方がよっぽど奴隷そのものだったと思います。

誤解を恐れずに言うなら、当時のアイヌ問題に対しては「そればっかりじゃないだろう」という思いを持っています。
特に明治中期頃からは、和人側にもそれなりにアイヌ人の処遇を何とかしようという施策が垣間見られるからです。
(アイヌ人にとっては迷惑以外の何物でもないというのも事実ですが・・・)
そもそも近文のように、和人生活圏内にアイヌ人も共存するという、それまで考えられなかった地域が誕生したのもその結果です。
これを悪く言えば、和人による強制・同化政策となりますし、迫害・差別の象徴のように言われます。

しかし、もし本当にそればっかりならば、近文アイヌの天塩移住問題が勃発した時、
「詐欺だ、あまりに気の毒だ」と、いち早く鷹栖村民が道庁に反対請願をしたのは何故でしょう?
これを機に勃発した給与地問題も、結局のところ、大倉喜八郎と結託した道庁との間に旭川町が入って、町が一括貸下げを受けた上で転貸しするという形で収めています。
つまり、少なくとも地元の人間にはこの問題に便乗してアイヌ部落を追い払ってしまおうという意識は全く無く、むしろ逆だったのです。

「無知な土人をいいようにしてやろう」という不逞の輩がいた事も事実ですが、
地元では同じ人間としてそこそこうまく共存していたという証左ではないでしょうか。
ダークサイドのみに着眼しないほうが良いと思います。



 

アイヌ民族迫害の歴史

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 7月 8日(金)09時53分1秒
返信・引用
  私の素朴な疑問に端を発し奇しくもアイヌの歴史を調べることになってしまいましたが、お借りした「旭川・アイヌ民族の近現代史」という本を一読して、胸の詰まる思いでした。
昔、和人がアイヌを迫害したという歴史があることは知っていましたが、内容までは知らなかったし正直深い興味もありませんでした。
でも、意図せず資料を読むとその迫害の酷さに、胸が悪くなるような嫌悪感を覚えました。

確かに戦前の日本人は人を差別する事を当たり前のように行っていた感があります。
人種差別を悪い事とは認識していなかったようですね。
身内ながら私の母も決して悪い人間ではありませんが、朝鮮人とアイヌは明らかに劣った人種だと信じ込んでいましたし、いまもその感覚は残っているようです。

アイヌは北海道の先住民族であり、戦いを避け自然と共存する尊敬すべき人たちでありながら、和人に追いやられ次第に衰退してゆく様は悲しいばかりです。

私はアイヌは昔から北海道中に広く定住し安定した生活を送っていたのだと思っていましたが、実は江戸時代から和人に迫害され、奴隷のように扱われ住むところもあちこちに転居を命じられていたのですね。

近文のアイヌも石狩や深川から転居させられて来たり、天塩に追いやられそうになったり、上川道路の開発や北見道路の開発、第七師団の建設などで居を失って近文に集まってくるなど、迫害の結果たどり着いた場所だと知りました。
本州では部落問題という差別の歴史がありますが、北海道はいろんな人が集まっているのでそんな差別は無いと思っていました。

アイヌ差別の問題は知っていましたが、そこまで大きな差別であるとは認識していませんでしたが、実態はほぼ奴隷だったのですね。
悲しい、辛い、忘れてはいけない歴史だと思います。
人間ってなんて酷い生き物なんだろう。

掲示板の趣旨に反した書き込みかも知れませんが、書かずにいられなかったのでお許しください。
 

Re: 「かんじさん」の謎

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 7月 6日(水)20時42分16秒
返信・引用
  おぉー、さすが行動のかんじさん、さっそく現地調査して来ましたネ。
私が川村アイヌ記念館と勘違いしてたのも、位置関係からするとどうやら川上酋長さんの方だったかな?



実は私も先のレスにて、一部事実誤認がありましたのでわかった範囲で訂正しておきます。

昭和9年の「旭川市旧土人保護地処分法」にて最終的に給与地が確定したように申し上げましたが、
どちらかと言うとこれは、給与地・保護地としての扱いが解除された、の間違いです。
これによってアイヌ各戸に無償給与された以外の開墾予定地はほとんど没収となった訳です。
つまり、旧土人給与地の名称が地図から消えた時ですね。

一番最初は、明治24年の殖民区画図に記された「旧土人開墾予定地」がベースになってると思います。
明治32年の「北海道旧土人保護法」の施行と、手塩への強制移住問題が勃発してすったもんだが始まり、
実際には明治40年に道庁が許可した153町歩が旧土人給与地として確定したと言えます。
しかしながら、アイヌ人に無償給与されたのは各戸1町歩の土地と粗末な官給住宅で、
本来アイヌ人が農耕すべき広大な開墾予定地は、事実上、和人小作人への有償転貸し地となりました。
大正11年時点での旧土人給与地の内訳は次の通りです。

   旧土人給与地合計     145町歩

   アイヌ各戸への無償貸下げ 50町歩
   小作人有償転貸し地    84町歩
   模範農場          4町歩
   その他           7町歩
   (1町歩は約1ヘクタール=100m×100m、100町歩で約1平方km)

この数字を見る限り地図上では広大な給与地であるものの、実際のアイヌ部落はこの1/3ほどだったようです。
場所もかんじさんが言われるように、今の緑町・錦町の12~18丁目辺りが中心ではなかったかと思います。

 

Re: 「かんじさん」の謎

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 7月 6日(水)16時31分42秒
返信・引用 編集済
  > No.1293[元記事へ]

解決しましたが見事に予想は外れ!
アイヌ記念館は当時3件ありました。

調査→仮説→検証→確証 でしょうかね。
常に自然とこんな行動をとっているわけですが、今回ばかりは検証で見事に仮説が間違っていたことがわかりました。
事実としては、昭和40年に緑町錦町13丁目道路脇に小屋があって熊がいた。
これが事実です。
これを確かめるべく調査を行い、アイヌ記念館という記述を見つけ、川村酋長の前の川上酋長の家ではないかという仮説を立てました。が、
川村酋長の家は別にありました。
今の川村カ子ト記念館の少し北側錦町道路沿いの反対側に、川上酋長の家が大きく住宅地図や大正期の地図にも載っていたのです。
それではあの線路脇の記念館はなんだったのか?
一番知っている可能性の高い人、つまり川村カ子トさんの息子さん、現館長の川村兼一さんに聞いてきました。答えてくれたのは一緒にいた工藤さんというアイヌのお仲間でしたが。
あの線路脇の記念館は「井沢朝次郎」という方が、個人的にチセを建て、簡単なアイヌの民芸品をおいて記念館をつくり、熊を飼っていたそうです。
そんな時代背景として、川村兼一さんと少し話をしたのですが、やはり戦争中は停止していたアイヌの観光も世の中が落ち着いて来ると、たくさんの人が押し寄せたそうです。
昭和30年~昭和40年は、バブルだったと言っていました。
大型の観光バスがどんどん押し寄せ、木彫りの熊が飛ぶように売れて、増産が間に合わず、
近所は木彫りの熊工場だらけになったそうです。
と、そんな頃に井沢朝次郎さんも粗末ながら記念館を建てたんですね。
そんな風景を私がたまたま見ていたという事でした。
先の仮説はほぼ間違っていましたのでご注意ください。
 

Re: 「かんじさん」の謎

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 7月 6日(水)12時40分42秒
返信・引用
  momongaさんへ

> かんじさん、さっそく地図を見つけましたね。(^^)v
> 幼い頃の記憶は立証されたということになりますか。
>
はい一応、アイヌ記念館の存在は確認されたと思っていますが、
アイヌ記念館が2件存在したことに関して、もう少し納得のゆく情報が欲しいと思い、
図書館へ出かけました。
資料室にゆくと司書さんが「アイヌ記念館」ですか?と。
そうここのサイトをたまに見てますということです。

で、緑町線路わきににあったアイヌ記念館の情報に関して資料を提供して下さいました。
それが、「旭川・アイヌ民族の近現代史」という分厚い本でして、、、、。
内容が多岐にわたるのですが、momongaさんがおっしゃった、旧土人給与予定地の問題にかなりの分量が割かれているため、なかなか読むのが大変です。
緑町のアイヌ記念館の話が出てこないかと、関係しそうな場所を探しながら読んでいます。
これまでアイヌ記念館に関してわかった事は。

現在の川村カ子トアイヌ記念館がオープンする前から、川上コヌサアイヌという酋長(本物ではないけど)が観光業としてずいぶん手広くアイヌの儀式や土産販売をやっていたようです。
その場所が、どうも例の場所のようなのです。
記述としては、「馬鉄を近文へ飛ばし、国道40号と旭町の交差点から徒歩、川村カ子ト記念館横交差点を左折、そして土人部落に入ってゆく」
となっています。
今で言うと錦町通りを通って、11丁目通りを左折して、入ってゆく場所が例の斜め通りですから。

別の記述でも、アイヌ部落入り口にほど近いのが川村カ子ト記念館で、そこから中に入っていった所に川上コヌサアイヌの家はあるようなのです。
これだけで場所を特定するのは難しいですが、今の川村カ子ト記念館から嵐山通りに向かって入ってゆくのがアイヌ部落への入り方だったのですね。
まさに斜め通りが部落への通路だったわけです。
そしてこの川上コヌサアイヌという方の庭でイオマンテ(熊祭り)が行われ、広く観光客も訪れたと書いてあります。
ここにはアイヌ参考館という建物があり、後にアイヌ宝物館となり
(その場所は現在の錦町13丁目畑地、近文アイヌ部落中央部広場とあります。)

やはり近文アイヌ部落の中心地がこの辺りであった事はわかりました。
これが昭和39年の地図にあるアイヌ記念館なのかどうかは確証まではありません。

ただ、この川上コヌサアイヌの庭で行われた熊祭りの儀式は戦争の影響もあり、昭和11年が最後となります。
ところが昭和15年に川村酋長宅裏庭で戦前最後の熊祭りが行われるのです。
ここで世代交代が起こっています。

昭和20年に戦争が終わり、少しずつ明るさが取り戻される中、昭和25年に旭川大博覧会が開かれることにより、世間の注目が旭川に集まり、そこで再びアイヌ部落が観光として注目されるようになります。
そして川村カ子トアイヌ記念会がリニューアルされ、今へと続いてゆくのですが、その間に川上コヌサアイヌの庭がどうなったかは解りませんが、木彫り熊の第一人者とその会社である豊栄物産が、川上コヌサアイヌの家の向かいという事ですので、この辺りもアイヌ観光で賑わっていたのかなぁ。






 

Re: 「かんじさん」の謎

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 7月 5日(火)11時15分39秒
返信・引用 編集済
  かんじさん、さっそく地図を見つけましたね。(^^)v
幼い頃の記憶は立証されたということになりますか。

>ジョッピンさんお久しぶりです。



旧土人給与予定地の範囲ですが、「予定」というのがミソで、正式に確定したのは何と昭和に入ってからの事です。
旭川だけ特別だったんですよ。

と言いますのは、アイヌ人に農耕地を給与する『北海道旧土人保護法』が制定されたのは明治32年の事ですが、
旭川においては、その10年以上も前の岩村通俊長官時代に既に上川アイヌの近文地域への集約を実施していたんですね。
これは、本格的に上川の開発を進めるに当たって、今後アイヌが生活に窮してしまう事を案じた上での施策でした。
かんじさんがお示しの旧土人給与予定地は、この時代に定められた範囲を記しているものと思われます。
本来ならそのままアイヌ人に給与されるべき土地として「予定地」と記されたのでしょうね。

ところが、正式に法制化された明治32年というのは、旭川ではまさに師団工事が始まった年です。
師団工事のための支線もこのアイヌ部落を貫く形で敷かれました。
ここで新たな法律を盾に、師団に隣接した広大な土地利権をアイヌ人から奪おうとする画策がありました。
従前より農耕もうまく行ってない事もあって、給与面積を大幅に削ろうとしたわけです。
つまり、本来は道内アイヌ人への農地貸下げを目的とした法律が、旭川においては逆にアイヌ人から土地を奪う目的に利用された訳です。

永年に渡ってすったもんだ揉めたあげく国会まで動かし、
昭和9年に『旭川市旧土人保護地処分法』という法律までできたくらいです。
この前代未聞の旭川限定の法律によってようやく近文アイヌの給与地が確定した訳ですが、
私も最終的にその範囲がどこからどこまでなのか勉強してません。
もしこの法律以降の給与地範囲を表す地図があれば、かなり縮小された範囲になっていたのは確かでしょうね。
また、その後の農耕がうまく行かなかった土地もやはり没収になっているはずです。


PS:この2つの法律が廃止されたのは何と!平成9年の事です。
 

Re: 「かんじさん」の謎

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 7月 4日(月)15時03分16秒
返信・引用
  > No.1289[元記事へ]

あずさん、カールJPさんへ

私の素朴な疑問に深く考察くださいましてありがとうございます。
調べると昭和32年までは実際に風習としてイオマンテが行われていたのですね。
その後、毎年の風習は中止にはなりましたが観光も含めてその後も続いてはいたようです。
昭和37年のイオマンテの記録が残されていますが、場所はどこかの山中のようで、周りに大きな木が何本もありましたので、いまの緑町近辺ではないと思います。

ただ私が指摘の場所で熊を飼っていたのは事実で、それを裏付けるべく調べているのですが、
また、重大な事実を見つけました。
それは昭和39年の住宅地図なのですが、私が指摘した問題の場所になんと「アイヌ記念館」と書かれているのです!!
そして「笹小屋」とも、、、、、。
やはり熊がいたというその場所はアイヌの住んでいる場所でした。
この時には現川村カ子トアイヌ記念館もありますので、つまりこの当時は2カ所にアイヌ記念館があった事になります。

それから私が注目しているのは道路なんです。
あそこには斜め道路があります。
以前から私は良く言うのですが、「斜め道路には歴史あり」と。
道路が斜めだという事は、お役所が開発する前から自然発生的にできたもので、そこには人が住む必然性があったということになります。
つまりこの斜め道路こそ、旧土人給与地として与えられた土地にアイヌ自らが集まって住んだ代表的な場所なのではないかと推測しました。
なのでそこがアイヌ記念館として昭和39年には存在し、私の見た熊も居たのではないでしょうか。
もう一つ、旧土人給与地が近文であることはわかっていましたが、具体的にどの範囲だったのかという事も調べていました。
一番正確そうな地図は最近も話題になった地番が書かれた明治43年の地図で、そこには旧土人給与予定地として、破線で囲まれた範囲が示されています。見やすいように赤線で囲ってみました。
これを見ると不思議な範囲ですが、線路を挟むように近文駅まで含むような範囲が示されています。


PS.
あずさんご指摘のアイヌの観光化ですが、私の母も何かの時に近所のアイヌの人が飾り付けて踊りに出て行ったと言っていました。
いまでいうアルバイトのようにしていたみたいです。
 

イオマンテ

 投稿者:カールJP  投稿日:2016年 7月 4日(月)09時22分4秒
返信・引用 編集済
  momongaさん、みなさんこんにちは。

かな~り以前に書き込みをさせていただいたカールJPと申します。お久しぶりです。
札幌の北大植物園にある北方民族資料室で、昭和の初期頃に旭川で行われていたアイヌ民族の「熊祭り」の映像を見ることが出来るのですが、
かんじさんが見た熊というのは、ひょっとして熊祭りで神に捧げるために飼われていた熊か、
捧げこそはしないものの、その名残りで飼われていた熊ではないかな?と思って思わず書き込みをした次第でございます。
時代が違うかな?トンチンカンな事を言ってたらゴメンナサイ。
その映像ですが、アイヌ記念館でも見れるのか否かは判りませんが、
もし見れないなら、札幌にいらした時に是非見に来てください!
昭和初期とは言え、欧米列強と肩を並べるまでに成長した日本で、
しかも私の生まれ故郷である旭川でこのような儀式が行われていたことに驚きました。



 

「かんじさん」の謎

 投稿者:あず  投稿日:2016年 7月 1日(金)23時34分27秒
返信・引用
  「川村カ子ト」さんのアイヌ記念館。
現在は固定資産税の関係でさらに狭くなりましたが、今春開館100年記念の看板があがりました。

「かんじさん」の記憶の場所の同定はできませんが、過去の出版物から推測すると当たり前のような状況だったと思います。

砂沢クラさんの時代でも、口の周りにイレズミのように化粧するとウケ、高額なお駄賃を貰ったという記述が「ク スクップ オルシペ」に書かれていたと思います。カ子トさんが測量で稼いだ資金で記念館を創ったのはそんな時代です。

もちろんそれ以前にも「アイヌ」の観光化?はありました。

 

Re: 一般の方の住宅です

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 7月 1日(金)11時30分30秒
返信・引用
  かんじさん、さっそくの修正ありがとうございます。

ただ、確かにGoogleマップにもYahoo地図にも他の地図にも、「かわむ屋」という屋号で載ってますよね。
これは何かの間違いなんだろうか・・・
もし間違いなら、こちらを正さない限りいくらこの掲示板で名を伏せてもあまり意味がないと思われます。
影響力がまるで違いますからね。

 

Re: 一般の方の住宅です

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 6月30日(木)22時13分8秒
返信・引用
  momongaさんへ

> ということで、かんじさん。
> 私のほうではレス丸ごと削除しかできません。
> できれば2枚目の画像の削除と、本名を特定できる文言の編集を願えますか?

そうだったんですか、早急に対処しますが、、。
これはどういうことでしょう。
一般住宅では無いと思いますけど。
 

Re: 一般の方の住宅です

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 6月30日(木)16時06分59秒
返信・引用
  通りがかりの町人さん、情報感謝いたします。
一般の方の住居だったんですか。
夏用ということは、やはり別荘ということかな。羨ましいです。


ということで、かんじさん。
私のほうではレス丸ごと削除しかできません。
できれば2枚目の画像の削除と、本名を特定できる文言の編集を願えますか?


 

一般の方の住宅です

 投稿者:通りがかりの町人メール  投稿日:2016年 6月30日(木)12時41分49秒
返信・引用
  いつも興味深く拝読させていただいています。
この旭岡の住宅は一般の方の夏用の住居ですので写真は削除されたほうが良いと思いますよ。
 

Re: アイヌ記念館

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 6月29日(水)12時11分18秒
返信・引用 編集済
  かんじさんへ

熊というのは剥製の熊じゃなく生きた熊の事だったんですか。(^_^;)
場所もたぶん私が言ってたのとは違いますね。

ご存知でしょうが、緑町・錦町・北門町にかけてのあの辺り一帯は「旧土人給与地」いわゆるアイヌ部落でしたから、
川村家もそうであるように元々アイヌの方々が集約されて住んでいましたよね。
その意味であの近辺にアイヌ人の家や店があちこちにある事自体は不思議でも何でもありません。

確か昭和30年代40年代頃まであの近辺でアイヌ伝統行事が行なわれていたはずです。
最近は行事そのものをやってるという話を聞いた事がありませんが、昔は実際に熊を使ってやってましたね。
熊はそのために飼っていたのではないでしょうか。
(実際に殺しはしませんでしたが)


旭岡の建物の名は偶然かと思いますが、
たぶん、何かの工房か、カフェなどの店か、あるいは近年あの辺りに増えている別荘かもしれません。
建物が和風なので、もしかしたら茶室のある茶道関連かも。(別な場所に1軒あります)
少なくとも一般の住居ではないでしょうね。わかりませんが・・(笑)

知り合いが北の嵐山で店をやってますので、今度聞いてみます。

 

Re: アイヌ記念館

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 6月28日(火)15時07分21秒
返信・引用 編集済
  momongaさんへ

別の施設もあったのですか。
調べてみるとアイヌ記念館は日本で最も古いもので、大正5年に開館とあります。
昭和37年の航空写真を見てみますと、確かに現在のアイヌ記念館の位置にそれらしいものがありますね。
やはり今の場所は変わっていないようです。

でも、確かに線路わきに熊がいたんです。
それらしい小屋もあって熊を飼っていました。
まぁ、当時は私の同級生にもアイヌの人がいましたから、周辺に住んでいたのでしょう。
そしてアイヌ記念館だけではなくアイヌの風習を伝えるものが残っていたのかも知れません。

それから、最近用有って旭岡をうろうろしていたのですが、そこでびっくりする家を見つけました。
旭岡の一番奥の川に降りそうな急斜面にものすごく古そうな趣のある日本家屋がありました。
なにかはわかりません。
道路の木で作った柱に聞き覚えのある姓が書いてあります。
まさかアイヌ記念館の館長さんの家じゃ!!!なんて想像したのですがわかりません。
この家って有名な家ですか?

 

Re: アイヌ記念館

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 6月28日(火)10時53分30秒
返信・引用
  かんじさんへ

川村アイヌ記念館が過去に移転した事があるかどうかは私も知りません。
あまり聞いた事はないですが、私も関心が薄かったので知らないだけかもしれません。

ただ、場所が思い出せないのですが、確か錦町通だったと思うんですが、今のアイヌ記念館とは別に店舗のような建物があったのを覚えています。
錦町通を新橋に向かって進んだときに右側にありましたので、今の記念館と場所が違うのは確かです。
私は昔それが記念館だとばかり思ってました。
もしかしたら別棟の店舗だったのかもしれません。
大町支線の傍だったかどうかもザンネンながら思い出せません。m(__)m

 

アイヌ記念館

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 6月27日(月)13時38分11秒
返信・引用
  質問です。
実は私は小さいころ緑町に住んでいて、いろいろ話題になる国鉄の大町支線は私の遊び場でした。
でとぼとぼと線路を歩いてゆくと、そこに熊がいたんですよね。
笹の家があって口を黒くしたアイヌの方が居ました。
間違いなくアイヌ記念館ですよね。
それが線路わきにありました。
ところが今考えてみると川村アイヌ記念館って旧大町支線の側にはないですよねぇ。
移ったんですか?
素朴な疑問でした。
 

曇り空のブルーインパルス

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 6月20日(月)11時58分27秒
返信・引用
  残念ながらブルーではなくグレーの中でのインパルスでしたが、飛んでくれた事にまずはありがとうと言いたいです。
前日の予行飛行も終日雲が低く垂れ込めていて中止。
19日も朝から曇っていたものの、低い雨雲は消えていたのでやってくれると確信し出かけて行きました。

6年前は駐屯地内で見学したのですが、今回は熟慮?の結果春光台へ。
同じ事を考える人は多いようで、春光台スキー場はギャラリーと化していました。(笑)

時間になってもなかなか始まらず、やっぱり無理なのかなあ、と思い始めた頃、来た来た来た~~~!
まずは隊長機が駐屯地上空を低空飛行で飛び去り、続いて全6機の編隊を組んでやって来ました。

一糸乱れぬ編隊飛行が美しい~

どうやら時間通りに旭川上空に来たものの、多少でも雲が上がるのを上空で待っていたみたいですね。
天気のせいか、時間のせいかは分かりませんが、前回より演目は少なかったです。
ブルーインパルスの皆さん、ほんとうにありがとうございます。


ちなみに前回6年前はこちら
http://9008.teacup.com/momonga_farm/bbs/345
http://9008.teacup.com/momonga_farm/bbs/344
http://9008.teacup.com/momonga_farm/bbs/343


 

曇り空のブルーインパルス

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 6月20日(月)11時56分33秒
返信・引用
   

Re: 財政への配慮は確かに必要ですが…

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 6月18日(土)12時40分58秒
返信・引用
  永遠の旅人さんへ

そんなこんな議論してる間に、函館に大きいのが来ましたね。
函館も震度6弱以上の確率はかなり低かったと思いますが、
揺れの大きさの割に被害はほとんどなかったようで幸いです。
噴火湾側のかなり局地的な震度だったようで、函館市街はそれほど揺れなかったみたいですね。


ひとつ誤解していただきたくないのですが、
私は震災などの災害にかこつけた過剰なハコモノづくりを批判してるのであって、
永遠の旅人さんが言われる、非常時のインフラ対策、市民レベルの備えなどを否定してる訳ではありません。
りっぱな既存施設を活用、あるいは併用すれば賄える対策がいくらでもある事を言いたいのです。

旭川市が今考えるべきは、マチが壊滅するような大震災よりもむしろ震度4~5レベルが起きた時の対策ではないでしょうか。
地震の備えの殆どない旭川は、このレベルで充分パニックに陥るし、被害も出ると思います。

私が以前住んだ事のある東京隣接の町などは、住民登録をしたその場で災害時の非常用セットが入ったリュックを渡されました。
こういった普段からの防災意識や対策はやはりまるで違います。

永遠の旅人さんがおっしゃるように、まずはこういった意識高揚や対策に予算を振り向けるべきだと思います。
建物を新しくする事ばかり考えていても、いざという時に何の役にもたちません。


 

Re: 財政への配慮は確かに必要ですが…

 投稿者:永遠の旅人メール  投稿日:2016年 6月15日(水)23時05分44秒
返信・引用
  momongaさんへ

> 30年以内に震度6弱以上の地震が起きる確率は、公表された全国の都市の中で旭川が最も低く0.38%

もちろんそのデータは存じ上げております。
ただし、その前提条件は現在判明している活断層によるもの。

歴史的史料に乏しい北海道では過去の大災害についての記録も曖昧てす。

市庁舎の改築の可否は我々部外者がこれ以上あれこれ述べるのは差し控えたいと思います。

ただ、市民の防災意識の低さ(非常食や飲料水、カセットコンロ、携帯トイレを常備している人はほとんどいないでしょう)については何とかしなければいけないのではないかと老婆心ながら思ってしまいます。

大震災の際には電気、水道、ガス、食料、衣料、飲料、日用品、ガソリン…あらゆるものが手に入らなくなります。
それなりに準備をしていた自治体ですらあの時は機能不全に陥りました。


 

Re: 財政への配慮は確かに必要ですが…

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 6月11日(土)22時15分27秒
返信・引用
  永遠の旅人さんへ

たまたまですが、今朝の新聞に2016年度版「全国地震動予測地図」が公表された記事が載りました。
政府の地震調査研究推進本部が数年ごとに更新する、地震が起きる確率を地図化したものですね。
http://www.jishin.go.jp/evaluation/seismic_hazard_map/shm_report/shm_report_2016/

30年以内に震度6弱以上の地震が起きる確率は、公表された全国の都市の中で旭川が最も低く0.38%です。
ひっくり返して言えば旭川で震度6以上の地震は99%以上起きないということですね。
過去記録された地震でも旭川は震度4が最大となってますが、実際には少数まで表示すれば3.5です。(四捨五入される)
また、確認されている活断層が無いというのも他地域とは事情が異なるところです。
(熊本も過去大きな地震がなかったが九州を横断する数多くの断層が確認されていた)

つまり、旭川市民が根拠のない自信を持ってるとは思いません。
昔は経験則のみで言ってたかもしれませんが、現在ではちゃんとこれら科学的な裏付けがあります。
私もこれを鵜呑みする訳ではありませんが、確率は限りなく低いのは間違いないと思っています。


防災センターのような施設や、公共施設の耐震対策には莫大な費用が必要なだけに、これらの確率との兼ね合いを考えるべきだと思います。
そりゃ安全対策にかけるカネは多いに越した事がないに決まってますが、
限りなく100%に近い確率で大地震が起きると言われている都市ですらなかなか持てないような防災専用施設を、
限りなく確率ゼロに近い旭川が多大な費用をかけて整備する・・・
ダメとは言いませんが、どう考えてもバランス的におかしいと思います。

と言いますか、かんじさんも力説しているように、要するにハコモノ先に有りきなんですよね。
旭川におられた永遠の旅人さんならこのあたりの行政体質をご存知ですよね?
公共事業は全体的に減ったとはいえ、この体質は変わっていません。
耐震とか防災を大義名分にすれば反対しづらいのをいい事に、カネもないのに新しいハコを造りたいだけなんです。

実は、防災センターが計画された時に、忠別川河川敷に光ファイバーを敷設した防災道路を張り巡らす計画もありました。
災害で一般道路が通行不能になった時のために、という名目でした。
広々とした旭川の街路全てが通行不能になるとは、いったいどれだけの壊滅的大災害を想定してるんでしょうね。
と思ったら、冬季間の除雪は考えていないという事で、さすがにこれは批判を浴びました。
この計画はその後どうなったのか、さっぱり聞こえてきません。

また、旭川市は各地区ごとに立派な住民センター(昔の公民館)を整備しています。
最近は過剰施設の批判を気にしてか、支所などとの複合施設とするケースが増えてますが、
これとてなぜか非常時のバックアップ拠点としての活用を考えようとしません。


すべてがこの調子ですから、本当に危機管理を考えた上での施策なのか非常に疑問なのです。
現市役所総合庁舎のみならず、文化会館もセットで建て替えるんじゃないか?という事は以前から囁かれていました。
文化会館は耐震性の問題は聞いた事がなく、単に古くなったというだけの理由です。
今回の発表で「やっぱりね」という感じです。




 

元祖シビックコア

 投稿者:永遠の旅人メール  投稿日:2016年 6月 9日(木)22時38分57秒
返信・引用
  momongaさん 六条以北に公共機関が集まっている理由を説明していただきありがとうございました。
昔は上川支庁や中税務署(これは五条ですが)など確かに現在よりも官公庁が集まっており、北彩都のシビックコアよりも集中していますね。
確か、上川支庁の永山移転は当時の横路知事が永山副都心構想の一環にという触れ込みでしたが、実際のところこれに先駆けて移転した上川農業試験場の有休地処分に利用されたというオチではないでしょうか?
 

財政への配慮は確かに必要ですが…

 投稿者:永遠の旅人メール  投稿日:2016年 6月 9日(木)22時11分20秒
返信・引用
  旭川市民34万人。人口推計が現在想定される最悪のペースで進んでも2040年にはまだ23万人程の人口を抱える「大都市」です。
確かに東光に総合防災センターなるものができたようです。
消防本部ではなく司令(通報を受理し、消防車などを派遣したり、作戦展開をする部署)が入っているようですが、市が行う災害対応は何も消防だけではありません。
東日本大震災や熊本地震でも明らかなように、初動は自衛隊、警察、消防が活躍しますが、道路や上下水道などインフラの復旧、避難所の設営、運営、救援物資の分配、被災家屋の診断や被災証明書の発行(これによって自宅再建や生活再建のための支援金の受給額が決定)、災害弱者である高齢者、障害者、子どもの保護など市役所の仕事は多岐に渡ります。
とてもあの程度の防災センターでは機能不全に陥ります。
また、これは旭川で暮らしていた時は私もそう思っていたので無理もないとは思うのですが、「災害の少ない旭川」というイメージは一度捨て去った方がいいと思うのです。
言葉は悪いのですが、旭川市民の根拠のない自信(決して皆さんだけを指しているわけではありませんよ。かくいう私も数年前まではそうでしたから)には今は正直なところ違和感を禁じ得ないのです。
たまたま100年ちょっとの間水害を除く災害がほとんどなかっただけで、先住民のアイヌの人々は文字を持たなかった民族のため、口承による伝説は数多いのですが、本州以南とは異なり文献がないのではっきりわからないだけで実は過去に大地震があったかもしれません。
まして冬期間はマイナス20℃以下にもなる極寒の地であることは疑いようのない事実。
熊本は車中泊や野宿でも何とかなりましたが、旭川ではそういうわけにはいかないでしょう。
予算については無限ではないでしょうが、災害対策や都市再生など有利な補助金を最大限利用して、必要なものは造らなければならないと思います。
 

Re: 梅雨がないのは羨ましい

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 6月 9日(木)16時56分17秒
返信・引用 編集済
  > No.1271[元記事へ]

永遠の旅人さんへ

こんにちはかんじです。

> 出来レース、スクラップ&ビルドが好きな人達、いずれも同感です。
> 確かに市庁舎の建替については賛否両論あるでしょう。
賛否両論といいますが、一般市民に賛の声は無いと思います。
賛を唱えるのは、市役所職員と建設関係者だけではないでしょうか。
一番問題なのが、事業を執行する役人という部署の人間が予算を多く執行する事にステータスがあるという事です。
市議もそうです。それぞれの部署の幹部もそうです。
自分の権限でいかに多くの予算を獲得し、事業を執行するかが役人の使命となっています。
確かに膨張を続けた高度経済成長の時代には、この論理で町が豊かになって行った事は否定しません。
しかし、いま人口が減り予算も縮小してゆく中にあってこの論理は通用しないのに
相変わらずお役人の間では多くの予算を消化する事が正義であって、減らしたり小さくすることは悪なのです。
一般市民の感覚とははるかにずれています。

市役所の建て替えと、文化会館の建て替えにいったいいくらの予算がかかるのでしょうか?
300億円近い金になると思いますよ。
市役所建設には補助金がほとんど使えないので、ほとんどが市民へのツケとなります。

旭川ってそんなに裕福な町でしたっけ?
借金は1800億円ほどあるようですね。

市民の理解を得ているという証拠を作るために、昨年市民へのアンケートを行いましたが、
これが実に誘導的質問ばかりで、まさに偽造証拠作りです。
http://www.city.asahikawa.hokkaido.jp/700/735/740/742/p009038_d/fil/shimin_anketo_kekka.pdf

最初の前提がこうです。
「平成9年に実施した耐震診断では,総合庁舎の耐震性に問題があることが判
明し,大きな地震があった場合,建物が倒壊する危険性があり,人命の安全が
確保できないおそれがありますが,こうした状況を知っていましたか。 」
そのうえで
「問 庁舎建設の基本的考え方(「庁舎整備検討委員会最終報告」から抜粋)を
ご覧いただいた上で現総合庁舎を建て替えた方がよいと思いますか。 」
とくるのです。

なら、平成9年に実施した耐震診断は、通常の診断とは別の方法を用いており、
診断を行った佐藤建築事務所では、別の方法でも診断した方が良いと提言している
事を市民は知っていますか?と聞きたい。
これは無視しているのです。
さらには現市庁舎が、様々な賞に輝く近代建築の代表的な建物であることもほとんどアナウンスしません。
https://www.aij.or.jp/scripts/request/document/20151126.pdf

http://www.jia-asahikawa.com/#!blog/ck0q

建て替えを前提に極めて意図的に市民を誘導しているのです。
 

Re: 梅雨がないのは羨ましい

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 6月 8日(水)11時17分50秒
返信・引用
  永遠の旅人さんへ

仮に今の庁舎を何らかの形で継続利用するにしても、耐震性についてはしっかりとした対策は必要でしょうね。
有事の際に機能する施設としては、郊外に旭川総合防災センターという立派な施設が数年前につくられたんですよ。
それでなくとも災害の少ない旭川ですが、近辺町村を含めた消防本部も兼ね備えた他都市も羨む施設です。
市役所崩壊などという事はあってはならない事ですが、どうも施設ばかりが過剰だと思えてなりません。


> むしろ、都心部にあれだけの空間を用意した先人の先見性に感心します。
> 将来的に市庁舎の建替が必要になった時を見越してのことなんでしょうか?
> それとも中央小学校の敷地を転用した偶然の産物なんでしょうか?

中央小学校を移転したのは、あの場所に今の文化会館を建てたかったからですね。
ドーナツ化現象で生徒の数が減り、たまたま大成小との統合計画があったのであの場所になった訳で、そういう意味では偶然です。

これとは別に、旭川は6条通り以北に色々な公共機関が集まっています。(最近は移転等でバラけてきてますが)
これには実は歴史的な経緯があって、
明治期の旭川への流入人口が急速に膨らんでいた頃、何故か道庁は民間への土地払下げを6条までに制限した時期があったんですね。
今で言うなら、市街化区域を6条通りまでとし、6条以北は市街化調整区域(共有地)とした訳です。
それでなくとも払下げ可能な市街地が足りなくて四苦八苦していたのに、意味の分からぬお達しに困った旭川では、
市街地のあちこちに散在していた各役所を順次6条通りから北の共有地に移転し、空いた跡地を民間に払下げたのです。

市役所はじめ、旧上川支庁や警察署・気象台、それに上川中学などの公的機関があの近辺に集まったのはそういった経緯によるもので、
つまり、実は苦肉の策だったのです。


 

梅雨がないのは羨ましい

 投稿者:永遠の旅人メール  投稿日:2016年 6月 7日(火)21時12分20秒
返信・引用
  昨日の朝6時41分頃のNHKの天気予報で旭川の映像が流れていました。清々しい青空で梅雨空のこちらからすれば羨ましい限りでしたが、音楽大行進の日にあの天候だったら良かったのですが…。

出来レース、スクラップ&ビルドが好きな人達、いずれも同感です。
道路拡幅が大好きなのも北海道の特徴です。
地価の安さも原因でしょうけど、結果として街並みが単調になりがちです。
我が町では狭い道を車と歩行者がせめぎあっており、ある意味羨ましくもあります。

確かに市庁舎の建替については賛否両論あるでしょう。
ただ、個人的には有事の際に市民の生命を守る司令塔が耐震性能に不安がある現状はやはり好ましくないとは思います。
その耐震性能照査も皆様が仰っているように性急の感は否めませんが…

むしろ、都心部にあれだけの空間を用意した先人の先見性に感心します。
将来的に市庁舎の建替が必要になった時を見越してのことなんでしょうか?
それとも中央小学校の敷地を転用した偶然の産物なんでしょうか?
 

Re: 永遠の旅人さん

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 6月 7日(火)11時56分47秒
返信・引用
  ごぶさたです。

4日の雨は荒れたと言うような降り方ではありませんでしたよ。
細かい雨でけっして強い降り方ではなく、まあ涙雨の範疇ですね。
ただ気温がかなり低くて、日中でもようやく10度を上回る程度しかありませんでした。
あの気温で雨に濡れるのはさすがにまずいでしょうね。
翌日はスカっと晴れて気温も回復しただけに悔しいところです。


新しい旭川市庁舎の場所選定は間違いなく出来レースです。
もう最初から決めていて、検討するふりだけして実は変えるつもりがなかったというのが見え見えです。
文化会館建て替えとセットにして現庁舎取り壊しも既定路線でしょうね。

文化会館は何年か前にアスベスト対策で大掛かりな工事を施したばかりで、それこそまだ40年しか経ってない建物です。
ほんとにスクラップ&ビルドが好きな人達だと思います。
どんどん新しいモノと置き換えて行くんですから、歴史が積み上がらないのはあたりまえですね。

 

(無題)

 投稿者:永遠の旅人メール  投稿日:2016年 6月 6日(月)22時13分58秒
返信・引用
  momongaさん
ごぶさたしております。
北海道音楽大行進の中止は非常に残念でしたね。
確かに招魂祭の涙雨は有名ですが、そんなに荒れたのでしょうか?

ところで旭川市庁舎と市民文化会館の改築が記事に出ていましたね。
http://e-kensin.net/news/article/9099.html
 

Re: また一つ伝統が・・・

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 6月 4日(土)19時16分17秒
返信・引用
  かんじさんへ

そうか、お手伝いがあるからかんじさんも関係者になるんですネ。(^^)


> 80年ぶりに雨のため中止と聞いていましたが、80年前に中止になったのは雨のせいではなかったということでしょうか?

80年ぶりもなにも、どうやら昭和24年から27年の4回開催中断以外は事前中止決定そのものが初めての事みたいです。
そう言われてみれば私の知る限りでパレードが中止になったという記憶がありませんし、
でも過去には一度や二度あるだろう、くらいに思っていましたが、なかったらしいです。
昨年まで83回の開催で、悪天候による中止が一度もなかったなんて驚異的です。

でも私も昔、かわいそうにズブ濡れになって行進している姿を見た経験がありますから、
実際には小雨決行、多少の雨くらいでは中止しなかったという事なんでしょうね。

結果的に今日の中止は正解だったと思いますが、
やはり前日中の中止判断は、この音楽行進には安易にあてはめるべきではないと考えます。

 

Re: また一つ伝統が・・・

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 6月 4日(土)14時47分41秒
返信・引用
  > No.1266[元記事へ]

momongaさんへ

> 音楽行進が中止になってしまいました。残念です。
本当に残念ですね。
80年ぶりに雨のため中止と聞いていましたが、80年前に中止になったのは雨のせいではなかったということでしょうか?

> この方法で実際問題、悪天候で中止したケースがほとんどないというのも驚異的です。(昔は多少無理もしたでしょうが)
私がかなり小さかった頃ですが、雨の中をカッパを着て鼓笛隊が歩いていた記憶があります。
たぶん兄の写真だったと思うのですが、カッパを着ていましたね。

> 関係者のご苦労は多大かと思いますが、
お陰様で私は家でゆっくりしています(^^;
でも残念です。
 

また一つ伝統が・・・

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 6月 4日(土)13時07分41秒
返信・引用
  音楽行進が中止になってしまいました。残念です。

私も永年この行進を見に行ってますが、前日中に中止を決めたというのは聞いた事がありません。
それもそのはずです。天候を理由に中止を決めたのは、長い歴史をもつこのパレードで初めての事だそうです。


そもそもこの音楽行進は、例年護国神社祭に降る泪雨の心配がつきまとうのが常です。
でも、多少ぱらつく事はあっても不思議とパレードの間は雨が上がっている事が多いのも常です。
事実、私は傘を持って行ってもパレードを見ながら差した経験がありません。
(開会式へ向かう時や、アフターコンサートの途中からならありますが)
主催側もそんな特異性を知ってか、これまで天候を理由に前日に中止を決定するという事はありませんでした。

まして最近は全く当てにならない天気予報です。
昨日の時点で今日は雨の予報でしたが、その昨日だって終日晴れの予報であったのに実際は終日曇天一時雨、日の沈む頃になってようやく空が明るくなってきたという外しっぷりです。
バクダン低気圧が来るとか、前線が通過するとか、よっぽど明白な気象状況でない限り信用できないのが最近の天気予報です。
はっきり言って、そんな天気予報を根拠に早々と中止を決定されると諦め切れない、というのが本音です。
参加団体に負担をかけない配慮なのでしょうが、参加団体にしても年1回のこの音楽行進を楽しみにしているわけです。
「もしかしたらできるかもしれないからギリギリまで待てば?」という気持ちが強いのではないでしょうか。


そうは言いましても、今日の天気は確かに実施するには少々無理がありますね。
雨はこの後おそらく上がるでしょうが、気温が低過ぎです。
こんな日に限って天気予報は当たりました。 ← 皮肉と未練たらたらです^^;


ただ私が心配してるのは、80年以上も続けてきた伝統的な実施基準まで変えてしまうのか?という点です。
冒頭に言いましたように、この音楽行進開催日(護国神社祭)の天候には明らかな特異性があります。
だからこそこれまで当日になるまで中止の判断はしてこなかったのです。
この方法で実際問題、悪天候で中止したケースがほとんどないというのも驚異的です。(昔は多少無理もしたでしょうが)

関係者のご苦労は多大かと思いますが、
下手に天気予報なんか信じるよりは、永年の経験則に従ったほうがよっぽど「あ~できたのに~」がないと思いますよ。





 

天気が心配

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 6月 3日(金)13時54分17秒
返信・引用
  明日は音楽大行進です。
天気がちょっと心配ですね。雨ばかりでなく気温が低い・・・
涙雨はいつもの事ですが、晴れの予報が外れている今日とは逆に外れる事を願っています。


今年の第2師団駐屯地祭は、6年ぶり2度目のブルーインパルスがやってきますね!
http://www.mod.go.jp/gsdf/nae/2d/event/28souannai/28souannai.html
やあー、またあの迫力ある曲技飛行が見られるのは嬉しい限りです。

18日に予行飛行、19日本番飛行と、実質2日間旭川上空にやって来ます。
楽しみです!
昨年はF15がやって来るはずだったんですが、ザンネンながら天気に恵まれず中止。
音楽行進は曇っていても問題ありませんが、
このブルーインパルスだけは何とかスカッと青空になってほしいと切に願います。

 

Re: 国土地理院の地図

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月28日(土)10時17分0秒
返信・引用
  おおーかんじさん、さっそく見つけて来ましたね。
図書館にありましたか。
以前、図書館で戦前の地図を一通りコピーしていただいた時にはこんなのはありませんでしたけどね。
内容はモリゴロウさんの地図と変わらないようですから、同じ地図の縮尺違いっぽいですね。

当時は地図の販売自体も制限されてたでしょうし、出回るとしてもこのように改描されたものだったという事ですね。
まさか旭川の地図でこのように改描されたものが現実に見られるとは思いませんでしたよ。

 

Re: 国土地理院の地図

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月27日(金)10時23分30秒
返信・引用
  > No.1258[元記事へ]

momongaさんへ

私も手に入れました。
戦時中の地図です。
図書館にありました。
見事な「戦時改描」です。
発行年、印刷年は入っていませんでした。
発行者でしょうが「参謀本部」と入っています。
しかも 右上に「秘」としっかり入っています。

これがモリゴロウさんのおかしな地図の原型というか戦時中の物だと思います。

この一枚以外の地図にはすべて大町支線が入っていました。

 

Re: 戦時改描

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月26日(木)11時22分56秒
返信・引用
  かんじさんへ

> 郷土史全般に関しては学芸員さんは絶対的に豊富な知識を持っていますが、
> 細かな部分やマニアックな調査項目に関しては素人だって決して負けていませんからね。

その通りですね。
所蔵されてる資料や物品、それにまつわる情報はさすが博物館だなあ、と思う場面がいくつもありますし、
やはり古くからの常設機関だけに、それらの蓄積は我々の比ではありません。

ただ思うのですが、博物館の場合、当たり前ですがどうしても”モノ”が必要なんですよね。
何か物理的な資料や物品があってはじめてそれにまつわる調査が成される。
あるいはその逆のケースもあるでしょうが、いずれにしても断片的なモノの調査の積み重ねが主なんですよね。
調査済みの案件については詳しいが、未調査あるいは不明のものについては我々と変わりありません。
それどころか今回の地図のように我々が先行して調べてるケースだってあります。
この掲示板で採り上げられてる話題の数々も、けっこう学芸員さんの知らない事も多いんじゃないでしょうか。
岡本さんもおっしゃってましたが、旭川の歴史には意外と謎が多いとされてますから、まだまだその余地ありです。


> こんど岡本さんとじっくり話せる時間を作りましょうかねぇ。

ぜひそうしたいですね。
実は岡本さんとお会いしたのはもう4度目なんですけど、何故か顔を覚えてもらえてない・・^^;
(目がかなり悪いみたいです)
でも吉田初三郎の時のことを話したら、かんじさんの事は覚えてられましたよ。

 

Re: 戦時改描

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月25日(水)17時02分28秒
返信・引用
  momongaさんへ

> 40名近い方々が熱心に聞き入ってましたね。
なかなかの盛況ぶりで私も行きたかったな。

> 突っ込みたいところがたくさんあったのに・・・^^;
郷土史全般に関しては学芸員さんは絶対的に豊富な知識を持っていますが、
細かな部分やマニアックな調査項目に関しては素人だって決して負けていませんからね。
こんど岡本さんとじっくり話せる時間を作りましょうかねぇ。
そういえばmomongaさんとは吉田初三郎の屏風絵を岡本さんに見せてもらった仲でした。
それ以前にも旭川の地名由来で岡本さんと面識があったとか言ってましたね。

> 中外拓殖という会社についても全く分かっていないという事なので、例の論文がネットで見られる事を紹介したところ、
> 「情報ありがとうございます!」とえらく感謝されました。

それは郷土史研究家として面目躍如でしたね。
私もなんか元気が出ます。

 

Re: 戦時改描

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月24日(火)12時11分13秒
返信・引用
  思わぬところで思わぬ話題になって元々の話題が飛んじゃいました。
そうそう、かんじさんの北門町の河川跡から飛んじゃったんでしたね。(^^)
既に自己解決したようですので、今度私も現場を見てきます。


でもって、22日には再度博物館へ赴き、岡本学芸員さんによる展示物の解説をきいてまいりました。
40名近い方々が熱心に聞き入ってましたね。
同じ歴史経緯でも多少観点が違うところもあり、まあまあ楽しめましたが、質問するタイミングが全く用意されてなかったのが残念です。
突っ込みたいところがたくさんあったのに・・・^^;
でも1時間程度の時間で一通りの解説ですから、岡本さん自身にとってもけっして満足な解説はできなかったでしょうね。
そこにいちいち質問を受けてたらとてもじゃないがいくら時間があっても足りない。

解説終了散会してから、何とか一点だけ例の『中外拓殖株式会社所有地連絡図』について立ち話できました。
あの地図の件を持ち出したとたん「お目が高い!」という言葉が返ってきました。
実は今回初めての展示だそうで、旭川市博物館の所蔵品だそうです。
「岐阜の図書館でも所蔵してるみたいですよ」と言ったところ、「それは知りませんでした」
中外拓殖という会社についても全く分かっていないという事なので、例の論文がネットで見られる事を紹介したところ、
「情報ありがとうございます!」とえらく感謝されました。

他にも色々話したかったのですが、どうにも忙しないのでそれだけで後は遠慮しましたが、
またゆっくりと話したいものです。

 

戦時改描

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月24日(火)09時50分17秒
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  今回の件でいろいろ調べてみて改めて解った事ですが、こういった戦争に絡む地図の改竄を「戦時改描」というんですね。
日本では昭和15年頃から軍需施設を地図から消したり、別の物に換えたりという行為が行われたようです。
地図だけじゃなく都合の悪いものは写真の修整や様々なものが規制、改変させられたようですね。
地図は正確である事が最も重要と思っていましたが、それを捻じ曲げる戦争の恐ろしさを改めて感じます。
昭和17年からは地図の販売も禁止になっていたとか、、、、。
それでも国土地理院の前身である部署は、終戦後直ちに資料を保管し新しい組織で戦後復興の為に正確な地図作りをはじめ今日に至っています。
モリゴロウさんが提示してくれた、おかしな地図はそんな時代もあったという反面教師にしたいものです。
 

Re: 国土地理院の地図

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月19日(木)11時53分8秒
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  かんじさんへ

私も師団線(大町支線)がちゃんと記載されていれば、戦前の地図から師団施設の文字記載を消しただけと考えたと思います。
ところが、明治32年の敷設から、昭和53年の廃線まで一度たりとも地図から消えた事などない軌道が描かれてないというのは、どう考えても意図的としか思えないわけです。

> 終戦後進駐軍が乗り込んできたときに、とにかく軍需関係のものは全て隠したという話を聞いたこともありますので、米軍に気を使ったのかななんて事も考えます。

逆に、進駐軍の意図で戦前の地図を引っ張り出して再発行した可能性がありませんかね?
進駐軍もこの頃に日本全国の航空写真を撮りまくってますよね。我々もよく使わせてもらってますが。^^;
つまり進駐軍も日本国内の地図が必要だったはずで、そのために印刷したのがたまたま件の地図だったかもしれません。

戦前のキナ臭い時代は、正確な地図というのは軍事機密でしたから、
進駐軍に「出せ」と言われて出したらこんな地図だった・・・という推測でした。

 

Re: 国土地理院の地図

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月19日(木)09時44分52秒
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  > No.1256[元記事へ]

momongaさんへ

> かんじさんは、戦後になってから師団関連の記述が全て削除された、という解釈ではありませんか?

はい、そう思っていました。

> 実は私の解釈は違っていて、あれは戦前の地図であって、軍事施設を意図的に”隠した”地図だと見ています。

ほーーー、なるほど。
軍事施設を除いた地図ですね。
確かに当時軍事施設を秘密にしたというのは聞いていましたし、海図なんかでも海軍基地の載っていないものを見たことがあります。
可能性は高いですね。
ただ、昭和22年と言えば2年も過ぎた戦後ですので、その時にわざわざこんな不正確な地図を出すかな?って疑問は残りますけどね。

終戦後進駐軍が乗り込んできたときに、とにかく軍需関係のものは全て隠したという話を聞いたこともありますので、米軍に気を使ったのかななんて事も考えます。

昭和27年に測図が行われているようですが、その測量を基に別の戦後の正確な地図が作られたように思います。
この頃なんか混乱しているみたいですよね。

そういえば、momongaさんも持っている「地図で見る旭川の変遷」に入っている地図も、大正7年の後が昭和31年で、ずいぶん飛んでいるなと思っていたのですが、戦争を挟んだ混乱期にあって、正確な地図が作られなかったんですね。
または軍関係では作っていたかもしれないけど一般には公開されなかった可能性もありますし。

唯一あるのが1945年の米軍作成の旭川地図ってのが一番詳しく、この間を穴埋めしているかもしれません。
 

Re: 国土地理院の地図

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月18日(水)12時24分10秒
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  かんじさんへ

たぶん私と一つだけ解釈の違いがあると思います。
モリゴロウさんの、師団線と師団関連の記述がすっぽり抜けている地図についてですが、
かんじさんは、戦後になってから師団関連の記述が全て削除された、という解釈ではありませんか?

確かに昭和22年印刷となっていますから、年号通り見るならそういう解釈が成り立つと思いますが、
実は私の解釈は違っていて、あれは戦前の地図であって、軍事施設を意図的に”隠した”地図だと見ています。

先の戦後地図とは逆で、あの地図の内容は明らかに昭和初期のままのものです。
おそらく昭和6年補入の時のままの地図のような気がします。
根拠は、
・牛朱別川の切替前である(これは大正5年測図であれば当然か)
・現旭橋架橋前の電車の軌道が描かれている
・護国神社ではなく招魂社と記載されている(改名は昭和16年)
・旭町、大町などの字名が記載されていない(昭和4年に制定)

等々ですが、要するに師団線と師団施設の記載が一切無いのを除けばそれなりに辻褄の合った地図なのです。
先のレスでも触れましたが、戦前は陸軍外局の陸地測量部が地図つくりを担っていました。
でもって、戦前は国土防衛上このような軍事関連施設を一切省いた地図がつくられていたと聞きます。
この地図はその部類ではないでしょうか?

 

Re: 国土地理院の地図

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月18日(水)11時16分14秒
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  今回の国土地理院のトンデモ地図の一件で少なくとも戦前の地図に関しては、かなりいい加減なものも多く信頼性には疑問があるって事のようですね。
momongaさんもでしょうが、日本で一番正確な地図を出しているだろうと信じていた私にはショックな事件でした。
しかし大正5年から昭和20年の終戦にかけては、日本は異常な社会情勢であったことも確かであり、戦後の軍部否定もまた異常な状態であったわけです。
そんな政治や体制が真実を捻じ曲げトンデモ地図を作り出したのでしょう。

幸いにも現在はそのような状況には無いと信じていますので、国土地理院様にはとにかく正確な地図を作り後世に残してもらいたいものです。

私は歴史書を読むのが嫌いなのですが、古い地図を見るのは大好きです。
まるでタイムマシンに乗っているかのようなワクワクした感覚で見ています。

PS.
モリゴロウさんの出してきた地図でとんでもない事がわかりましたが、
最初の質問に戻ると、北門町の斜め住宅ですが、確かに川があったようです。
そばにお住いの方に聞きました。
そこに下水があったんだよね。それに沿って住宅が建ったんだ、もう埋めちゃったけどと言っていました。
でも下水ではなく登録上はちゃんとした川だったと思われます。
河川は河川法や水利権など別な重要な要素を含みますので、かってに埋めたり切り替えたりできません。
そのため、用地が河川の影響でいびつな形になることは良くあります。
そこに歴史が投影されることもあり、そんな場所が大好きです。
 

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