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Re: 国土地理院の地図

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月17日(火)14時56分41秒
返信・引用
  今回のモリゴロウさんの地図画像により、国土地理院といえどもトンデモ地図が存在する事が分かりました。
我々が資料とするには全く地図としての体裁を成してないですよね。
貴重な”珍品”ありがとうございました。m(__)m


私は国土地理院の地図は基本的に測図時点の情報への加筆はできるだけ抑えるべきだと考えています。
その分測図はマメにしなければなりませんが、そうでなければいつの時点の姿を描いた地図なのか判別できなくなるからです。
かと言って、発行時点でできるだけ新しい情報を盛り込みたいという気持ちも分かります。
「鉄補」なんて用語があるくらいですから、昔はどんどん更新しなければならない代表的要素だったんでしょうね。
道路なども同じ事が言えると思いますが、加筆した内容をもっときちっと明確化してくれればまだ良いのですが。

しかしながらそれも限度があり、
今回の国土地理院の地図のように、測図から発行までの期間が常識では有り得ない長い期間で、
実際問題その間に道路・橋はもちろん、川の流れも”時代”すらも変わってしまってるのに「鉄補」「修正」の一言で済まされている・・・
とてもじゃないが「補入れ」のレベルじゃないですよね。
と言いますか、地形も市街も大きく変化した時代に測図が大正5年のままってのはあまりにも怠慢過ぎです。



モリゴロウさん、大事に保管されたらよろしいのではないでしょうか。
後の3枚の地図の1・2枚目も、
昭和に入ってからの補入・印刷にしては、旭川區のままだったり、馬鉄が記載されていたりメチャクチャです。
3枚目は先に書いたように意図的に軍事施設の記載を省いた地図でなきゃ説明がつきません。
よくよく考えてみれば国土地理院は戦前まで陸軍外局の陸地測量部ですからこういった地図の存在は充分考えられます。

国の機関の発行地図ですから、エラー貨幣やエラー切手同様「珍品」としての価値があるかもしれませんよ。(笑)
我々にしてみれば既に十二分に珍品ですが・・・
購入したのですから国土地理院にどういう事なのか問合せてみるのもいいかもしれませんよ。



 

Re: 国土地理院の地図

 投稿者:モリゴロウメール  投稿日:2016年 5月14日(土)10時15分15秒
返信・引用
  > No.1252[元記事へ]

かんじさんへ

かんじサンの分析力には脱帽です!

すごく「レア」な地図を持ってるんだ!と・・喜んで良いのでしょうか?

一歩間違えは「紙くず」にしか思えないのですが・・

当時は原本のネガ保存かマイクロフィルムでの保存だと思います。引き伸ばし、またプリントはマイラー(乳白色のトレース用紙)を使っています。それに加筆、または重ね焼きで加工するかのいずれかで地形図を作っていたと思います

文字が年代ごちゃまぜになっているのは地形図、鉄道路線図、道路図、住宅図だけのベースが何枚か(最低二枚)存在し重ねて焼いた(印刷)のではないでしょうか?
標高やポイントとなる数字、町村名が異なるの二枚の地形図が存在(戦前、戦後)しその上に重ね焼きしたのでしょう
だからカラー地図も存在すると私は推測します
 

国土地理院の地図

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月13日(金)16時30分24秒
返信・引用 編集済
  モリゴロウさんが購入した国土地理院のサイトを見てみると、少しわかってきました。
国土地理院の発行する当該地の2万5000分の1の地図は一覧に示すように大正5年の測図に始まり16種類あります。
最新版は平成18年測図、18年発行です。
ところが地図の基になる測量、測図は大正5年の後、昭和6年に鉄補(鉄道補正?)があった他は戦後の昭和27年まで行われていません。
その後昭和47年、昭和53年、昭和61年、平成3年、、、、、、平成18年と戦後は比較的頻繁に修正が行われたようです。
問題は昭和27年まで基本修正されていないにも関わらず、昭和22年、昭和23年に鉄補という形で発行されています。
これはmomonagaさんが指摘されたように、陸軍関連施設の消去修正ではないでしょうか?

そこでモリゴロウさんが示した最初の地図ですが、昭和32年8月印刷との事ですが昭和32年発行というのは現在無いですよ。
momongaさん指摘のように戦後の物だとすれば、昭和27年測量以降のものです。
となると昭和31年発行の物であると思います。
私とmomongaさんのもっている物ですね。
でもモリゴロウさんのは文字が逆方向だから、32年発行の時の別バージョンという事になります。
気付いたのは昭和31年発行のものはカラーなんです。
それ以降もカラーです。
モリゴロウさんのは白黒ですよね。
この時期大正5年の基図を修正した白黒バージョンと、昭和27年測図の新しいカラーバージョンがあって、白黒バージョンは絶版にしたのではないでしょうか。
モリゴロウさん。
再度、同じ地図を買えますか?
もう買えないのではないでしょうか。

PS.
修正加筆です。
>正式には大正5年測図  昭和6年鉄道補入、同27年修正 昭和32年8月印刷の国土地理院発行の原本です。
つまり大正5年に測図して、昭和27年の測量に合わせて修正し、32年8月に発行した、「文字が逆の白黒バージョン」というのがあったんですね。
昨年まで。


 

Re: 信頼性が総崩れ

 投稿者:モリゴロウメール  投稿日:2016年 5月13日(金)13時55分23秒
返信・引用
  > No.1249[元記事へ]

momongaさんへ

ご指摘をいただかなけれはこの地図の知識のままでいたかもしれません(汗)

地図をよく見ると大町岐線が根元から無いじゃないですか!

本当にどうなってるんでしょうか。。。

「ブーベの恋人」住宅以来、変な地図の持ち主になってしまいましたね(笑)

ご希望があればいつでもコレクション地図をお見せしますのでご一報下さい

 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 5月13日(金)13時47分26秒
返信・引用
  > No.1248[元記事へ]

かんじさんへ

入手したのは去年の事でした。国土地理院のHPより旧版地図の入手方法から額面分の郵便小為替で代金を送りました
鉄道の補入された物をチョイスしただけなのでなんの脈略もありませんが(笑)
 

信頼性が総崩れ

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月13日(金)12時11分46秒
返信・引用 編集済
  一晩寝てややすっきりした頭で昨日の地図に対する推測を試みました。
でもその推測も今朝また覆されました。(笑)

昨日のモリゴロウさんの地図だけであれば、戦後文字表記が左右逆になった事に地理院の版対応が間に合わなかったのが要因かな?と思いました。
つまり実際には戦後の地図なんだけれども、横書きの文字表記だけは数年間戦前の左右逆の版を使わざるを得なかった・・
私やかんじさんが持ってる昭和31年製の地図は新しい表記になってるが、モリゴロウさんのはもう少し古いので旧表記のまま・・・
これで辻褄が合う! (^^)v

・・・と思いきや、今朝のモリゴロウさんの3枚目。何ですかこのメチャクチャな地図は。
かんじさんおっしゃるように完全なエラーとしか思えないですね。
師団線の鉄路がすっぽり抜けているばかりでなく、師団に関する文字記述も一切ありません。
地図はどう見ても大正以前にも関わらず、新橋が描かれ、練兵場を囲んでいるのは馬鉄でなく電車の軌道ですね。しかも旭橋は古いまま。
則図から地図印刷までの期間があまりに長過ぎるとこういう事はあり得るとは思いますが、ちょっとひどい。
もしかしたら意図的に軍事施設を省いた特殊な地図かな?


これまで国土地理院の地図はやはり一番信頼を置いて見てきたんですが、
ちょっと考え直さなきゃならないかもしれません。




 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月13日(金)10時22分35秒
返信・引用
  > No.1246[元記事へ]

モリゴロウさんへ

すみません。
モリゴロウさんの投稿を見ないで私の記事を上げてしまいました。
それにしてもおかしな地図を沢山お持ちですね。
一つずつ上げていたら切がないかもしれませんが、3枚目の地図には明らかに違和感があります。

だって、近文の引き込み線が無い!のに師団があるじゃないですか。
どうなっているんだろう、、、、。
 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月13日(金)10時08分54秒
返信・引用
  > No.1245[元記事へ]

momongaさんへ

> 手っ取り早く言えば、ベースになってる地図は間違いなく戦後の地図なんです。

そうなんですよ。
この地図は私の持っている国土地理院昭和31年発行のものとほぼ同じです。
測図は昭和25年、27年、31年のものです。
なのにそこの文字の記述が戦前の古いものというわけですよね。

良く見ると基図も少しずつ違うので、まったく同じものではありません。
文字が違うというのは、文字は別刷りなんだと思います。

モリゴロウさんへ
>。正式には大正5年測図  昭和6年鉄道補入、同27年修正 昭和32年8月印刷の国土地理院発行の原本です
昭和32年発行の測図が大正5年ってのはありえないですよね。
でもこのおかしな地図が存在しているのは確かなので、やはり何らかのエラー商品ではないでしょうか?
いつ購入されたのですか?
 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 5月13日(金)10時03分25秒
返信・引用
  > No.1245[元記事へ]

momongaさん

かんじサンへ

ワタシが掲載した一枚の地図でこれだけ物議していただき嬉しいやら、申し訳ないやら(汗)

他にも持っている地図を見て何か発見出来ればと思います

一枚目は

大正5年測図  昭和6年鉄道補入、昭和8年7月印刷の国土地理院発行

二枚目は

大正5年測図  昭和3年鉄道補入 昭和5年2月印刷の国土地理院発行

三枚目は

大正5年測図  昭和6年鉄道補入 昭和22年2月印刷の国土地理院発行

鉄道マニア的に大町岐線の引き込みが戦後GHQによって敷地内の線路が撤去されてしまったものと思っていました

そして昭和32年の地図は警察予備隊として自衛隊が発足したのちの物資輸送の線路が引かれたものと思っていました




 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月13日(金)00時31分5秒
返信・引用
  > No.1242[元記事へ]

モリゴロウさん、たて続けにすみません。

手っ取り早く言えば、ベースになってる地図は間違いなく戦後の地図なんです。
ただ、地名を記す文字が右から左への記述方式を含め、「近文」などの記載があるなど戦前のものなんですよね。
何かの比較に使うための地図なのか・・・?

 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月12日(木)23時54分48秒
返信・引用
  > No.1242[元記事へ]

モリゴロウさんへ

国土地理院からの入手ですか・・・

う~~~ん、、、単純な年号違いとかでなく、年代が完全に混じってるんですよ。
意図不明ですねぇ、何か他に情報ありませんか?

 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月12日(木)23時25分18秒
返信・引用 編集済
  > No.1242[元記事へ]

モリゴロウさんへ
> 国土地理院より直接購入しました
>
> 書き足ししているので色々な施設、路線が残って(書き足されて)いますが正真正銘の国土地理院の印がついた地図です

まじですか!!!
まるでエラー紙幣みたいな地図(図面)ですね。
発行が確かなだけに、価値がありそうな、、、、、(^^;
 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 5月12日(木)22時56分45秒
返信・引用
  momongaさんへ

すいません。年号が間違いです。正式には大正5年測図  昭和6年鉄道補入、同27年修正 昭和32年8月印刷の国土地理院発行の原本です

国土地理院より直接購入しました

書き足ししているので色々な施設、路線が残って(書き足されて)いますが正真正銘の国土地理院の印がついた地図です
 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月12日(木)21時21分54秒
返信・引用
  モリゴロウさんへ

およよ!? モリゴロウさん、この地図はどうやって入手されましたか?
私、この地図見てここまでレスしようと思ってた事が全部ぶっ飛びました!

この地図はどう見ても戦後のものです。
なぜなら、旧練兵場を取り巻くように延びてる鉄道は終戦後の進駐軍のために延長されたものです。
また、当時まだ何も無いはずの住吉町に、戦後斜めに配置された住宅も描かれてますし、
戦前の二十八連隊にあろうはずもない警察学校が書き入れられています。
かと言って、地図に書き入れられてる町名等は全て戦前の右から左への逆書きです。

どう考えてもおかしいのですが、合成されたものではないですか?

 

Re: 鎮護

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 5月12日(木)18時44分28秒
返信・引用
  > No.1237[元記事へ]

かんじさんへ

タイムリーにご返答いただきありがとうございました!

すごくわかりやすいHPでした!

読んでいて自分が初めて旭橋を見た時の事を思い出しました

ピンク?(肌色チック)で川の周りにはうっそうと柳が生えていた事も!

懐かしい思い出です
 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 5月12日(木)18時37分42秒
返信・引用
  > No.1238[元記事へ]

かんじさんへ

ダンサー認定ありがとうございます(笑)

この地図は国土地理院の25000分の昭和3年の発行ですが地図の北門町(逆書き)部分に斜めに入る「川」が
あるのがわかるでしょうか?

この場所に川があった淵に沿って住宅と道路が出来たと思われます

20年くらい前にこの場所に訪問した事がありその時はまだ川があったように記憶していますが
今は暗渠になったのか、存在しない川になったのかは不明です
近々調査してきます

話は変わりますがこの地図にある自衛隊の敷地に引き込まれた線路の長さが気になりこの地図を手に入れました
 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月12日(木)16時53分38秒
返信・引用
  > No.1235[元記事へ]

モリゴロウさんへ

> 自分もタモリさんと同じく段差好き(ダンサーと呼ばれます)笑
> 斜めの道路と共に気になります

ははは、momongaさんもモリゴロウさんも私も、全く同じ人種ですね。

最近、北門町16丁目のこの斜めが気になったのですが、良くわかりません。

 

Re: 鎮護

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月12日(木)16時46分44秒
返信・引用
  > No.1236[元記事へ]

モリゴロウさんへ

> ぜひこの「鎮護」プレートについて教えて下さい!よろしくお願いします
当時の事が上手く整理されているサイトがありましたので、参照してください。

http://peace-asahikawa.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-a502.html

「鎮護」という言葉はあまり聞いたことが無かったのですが、改めて調べてみると
「災いや戦乱をしずめ、国の平安をまもること」ですから、やはり戦争という背景があっての言葉のように思います。

仏教用語の鎮護国家というのもありますが、上川神社が貼ったのだから仏教はおかしいかなと、、、。

別の角度からプレートを見てみますと。
このプレートは一度外して、橋を塗り替えてから最後に取り付けなおしたんですね。
銅板の下にゴムのような薄い膜を挟んでいる事、(+)プラスネジを使っている事、ワッシャーをかましていることなどから、当時の取り付け方とは違っているように思いました。
 

鎮護

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 5月12日(木)12時49分13秒
返信・引用
  数年前に地元情報新聞に掲載された旭橋の改修工事で発見された「鎮護」の話を二日前20代の若者から教えてもらいました

まったく知らなかったので話を聞いて恥ずかしいったら。。(汗)

興味深々でその若者に写真を撮ってきてもらい掲載の許可を頂きました

詳しい話は本人も覚えていないらしく「謎」が深まるプレートです

ぜひこの「鎮護」プレートについて教えて下さい!よろしくお願いします
 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 5月12日(木)12時34分51秒
返信・引用
  > No.1229[元記事へ]

momongaさんへ

自分は昨年の夏に友人からこの道の事を聞き二度ほど訪問しました

坂の下にある公園をみながら川の流れを想像したり(笑)

写真は④と⑤に挟まる道路を40号線方面を見て撮ったものです

左側の木が結構太く堤防から宅地に変わった時代に植樹されたものかと感じています

自分もタモリさんと同じく段差好き(ダンサーと呼ばれます)笑

8条通りの21丁目~22丁目の坂(段差)

血液センターに向かう道路の近文オホーツナイ川の暗渠の段差など

斜めの道路と共に気になります
 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月12日(木)12時09分46秒
返信・引用
  > No.1232[元記事へ]

かんじさんへ

私は段差だの土手だのと言ってましたが、正式には「河岸段丘」と呼ぶんですか・・
タモリなら最初から正確に言い当てるでしょうね。(笑)
人為的に造った土手とか堤防ではないのは私にもすぐ判りました。

今回たまたまこの付近に用事があって、⑤の場所(たぶん医療センターの敷地で昔は野球グランドがあった)が小山のように盛り上がっている事に気付いた事が始まりです。
この時はまだ雪の残ってる時期だったので、雪が無くなったら改めて見にこようと思ってたんですが、
実はこの時点でもまだすぐ目と鼻の先にある件の土手道に気付いてなかったんです。
地図で見たら湾曲した道があるはずだ・・・あれ?てな訳です。

川のマチですから、探せばもしかしたらまだあるかもしれません。

 

Re: 明治・大正の旭川

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月12日(木)11時26分20秒
返信・引用
  > No.1231[元記事へ]

かんじさんへ

私もこの地図の写真撮ったんですが、帰ってから拡大して読もうと思ったらピントが甘くてボケて読めずにいました。助かります。(^^ゞ
改めて読むと、まさに宅地販売のパンフレット宣伝文句のようですね。
ただし書いてある事は非常に先見性のあるまともな見方だと思います。
この地図は岐阜図書館も所蔵しているようですが、複数存在するのかな?


私も同じ論文を見て中外拓殖株式会社について知りました。
自分の持つ資料にこの名はないと思い、迷わずググることから始めましたが、ほとんどまともにヒットしないですよね。
唯一探し当てたのがこの論文でしたが、さすが学術論文らしく設立人物像が詳しく記述されてますね。
ついでながら全文をザーと流し読みして見ましたが、
設立者は北海道への入殖経験があり、その後色々な事業を手がけて山師的要素もあったらしい事と、
中外拓殖の設立当初は社名も別で銀行業を営んだ事、商売替えして社名を変えて増資の時に拓銀も絡んだようですね。
今で言う不動産デベロッパーに相当するのかも知れませんが、実際の宅地造成までやったのかな?
北海道においては何となく投機的な匂いがします。


あとちょっと気を引いたのが、
この地図は陸軍大演習での新橋架橋が決まっている事から考えて、大正13、4年頃のものに間違いないと思われますが、
この時点で牛朱別川の埋め立て宅地化も記載されている事です。
牛朱別川切り替え工事が始まる5、6年も前に既に予定されていたという事になりますね。
 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月11日(水)17時43分30秒
返信・引用
  > No.1229[元記事へ]

momongaさんへ

まるでブラタモリですね(^^;
明治期の地図に載っている「河岸段丘」がそのまま現在でも住宅地に残っているなんて、、。
実はmomongaさんご指摘の場所を私も今日見てきました。
実際に行ってみると写真よりもさらにはっきりと段差を感じる事が出来ました。
写真の1,2,3,4辺りはその落差3m以上もありそうですね。

河川の名残と言えば、牛朱別川の切り替え跡や西高の辺りの石狩川の大蛇行の跡なんかが有名ですが、こうして住宅地の中に残る河川の跡を探し当てるなんてさすがです。
この段差が旭川市の成り立ちにまで関連していれば、ブラタモリそのものなのですが、、、。

 

Re: 明治・大正の旭川

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月11日(水)15時15分30秒
返信・引用 編集済
  > No.1230[元記事へ]

モリゴロウさんへ

画像の掲載ありがとうございます。
こういう地図はわくわくしますよ。
で、本日私も企画展に行ってきました。
感想は皆さんのおっしゃるように「もの足りない」って感じです。
アンケートにも書いちゃった(^^;

中でも一番関心があったのは、確かにこの中外拓殖株式会社の地図ですね。
確かこの場所は亜麻工場があった場所だと思いましたが、明治41年の明細全図では
1485番という地番が付いていますので、販売の準備が出来ていたんでしょうね。
中外拓殖株式会社の地図の年代がハッキリしないのですが、
書かれている文章を読むと大正13年~14年の頃だと解ります。
大正期にはこうやって大規模に宅地を開発会社に売って開発するということもやったんですね。
そうしなければ、急激に増大する旭川への人口流入に対応できなかったのでしょう。

momongaさんへ
中外拓殖株式会社について良くわかりましたね。
私は以下の文章の中に見つけました。
同じかな。
http://www.biwako.shiga-u.ac.jp/eml/Ronso/399/ogawa.pdf
凄く大きな開発会社ですね。
図面の左下の文章を読むと、この宅地の利点が長々と書かれて言います。
図面作成時にはまだ新橋が出来ていないようですが、大正14年9月に5個師団の工兵隊総合作業で橋を架けると書いてあります。
今でいう、宅地販売のパンフレットなんでしょうね。
非常に面白いです。
 

Re: 明治・大正の旭川

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 5月11日(水)10時04分36秒
返信・引用
  > No.1228[元記事へ]

momongaさんへ

同じところに関心を持っていたなんて嬉しくなります!

かんじサンが喜ぶかもとの事で

撮影した地図の一部を掲載します

「河川敷地を宅地に転用する」と書いてありましたので

不動産関係の会社だろうと思いましたが、名前だけで見ると薬品会社か銀行系かと思いました(笑)

展示期間中にこの地図をもう一度ゆっくり見たいと思いました
 

明治?の土手道

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月10日(火)22時08分35秒
返信・引用
  以前、かつての新師団通りを辿っていた時に見逃していたのですが、
旧秋月橋が架かっていた辺りの右岸堤防沿いの新師団道路に並ぶように、もう一本曲りくねった道路が地図に載っています。
「はて?こんな道路って実際にあったかな・・」と思いつつ、この雪融けを待ってブラタモリごっこしてきました。

気が付かなかったはずです。
医療センター側の旧新師団道路を行くと、
街路沿いの民家の脇から、まるで敷地の裏手に入り込んで行くような、一見して公共道路とは思えないような細い道でした。
しかも道の側面は、タモリも大好きな大きな段差ではありませんか。(^^)v


明らかに昔の川っ淵の様相です。
石狩川の古い土手道がそのまま残ったという感じですね。
その写真が①②③④です。(医療センターの反対側から順に撮ってみました)
この古い土手道は200mくらいしかないのですが、
老人ホームを挟んだ延長線上、ちょうど医療センターの裏手の様子が⑤です。

さらに逆の環状線方面、そういえば石狩川近くの市道の所々に小さな坂があった事を思い出し、付近を探索してみました。
すぐ近くの道路にあった坂が⑥であり、さらに環状線を越えてベルコの裏手にあった坂が⑦です。
これ以外にも小さな坂が随所にあり、浄水場付近まで見る事ができましたがあまり明確ではありません。

でもって、現在のGoogleEarthと旧地形が明確に判る昭和23年の航空写真に撮影ポイントをプロットしてみました。
本当はかんじさんのように重ね合わせたかったのですが・・・ツール持ってません。(^^ゞ
でもぴったしかんかんでしたね。


この土手道がいつ頃のものなのか昔の地図を確認してみたところ、思った以上に古いみたいです。
明治33年の地図では、石狩川の分流がこの付近まで迫っており、
おそらくこの流れに削られてできたであろう土手(段差)が師団練兵場まで食い込んで描かれています。
つまりこの頃既に現在に至る地形が形成されていたと思われます。

地図でははっきりしませんが、大正時代に部分的ではあるものの現在の位置に堤防が築き始められているようです。
また、件の土手沿いには数戸の民家も描かれています。
以降、堤防がいつ頃完成したのか分かりませんが、既に民家があった事から古い土手道はそのまま残されたようです。
戦後の航空写真を見ても、民家があった部分の道路が最後まで残った事がはっきり見て取れます。


いやはや、旭川にもまだこんな道が、それもフラットだと思い込んでいた末広地区にあった事にちょっと感激です。
GW中のささやかなブラタモリごっこでした。


 

Re: 明治・大正の旭川

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月10日(火)16時03分4秒
返信・引用 編集済
  モリゴロウさんへ

今回私が展示物の中で一番興味を引かれたのが、実はその『中外拓殖株式会社所有地連絡図』でした。
土地の所有を表していますので、地割図になっています。
おそらくかんじさんも食いつくのではないでしょうか。(笑)

先般、当掲示板で話題となったのが明治期の地割図でしたが、この地図は大正期のものですね。
牛朱別川切替え前の新町一帯が、このように民間会社の所有地になっていた事を私も初めて知りました。

この地図・会社について何の説明も記されてなかったのでちょっと調べてみたら、
この中外拓殖株式会社なる会社は明治44年に設立された東京本社の会社で、不動産売買・仲介会社らしいですね。
殖民政策で開発著しい当時の北海道をはじめ、湘南や軽井沢・嬬恋・草津方面の別荘地なども所有してたらしいです。
おそらく土地を右から左へ売買して儲ける、現在で言う投機目的の不動産会社ではなかったかと思われます。


地図1枚でもそこそこ色んな情報を読み取れる・・・楽しいですね。(^^)

 

Re: ②旭川における忠霊堂経緯

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月10日(火)14時59分26秒
返信・引用
  > No.1225[元記事へ]

sadakitiさん、なんと8年前のほりさんへのレスですネ。^_^;

おっしゃる通り、あれは忠魂碑跡です。
花咲運動公園内にある現在の碑と比べると、昔の忠魂碑や忠霊堂はそれなりに立派でしたよね。
だんだんとそういった記憶が薄れ、敬う気持も薄れて行くのは本当に残念です。

 

Re: 明治・大正の旭川

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 5月10日(火)13時03分33秒
返信・引用
  > No.1224[元記事へ]

momongaさんへ

私は2日に行ってまいりました

おっしゃる通り、ちょっと視点が違うような気がしましたが
初めて知る事もあり、また興味が湧いてきました

現「医療センター」(旧道北病院)の道路を挟んだ真向いに「北鎮病院」があったとか

中外拓殖株式会社なる所が住宅地図を作っていたとか

旭川!奥が深いと感じました
 

Re: ②旭川における忠霊堂経緯

 投稿者:sadakiti  投稿日:2016年 5月 8日(日)22時53分26秒
返信・引用
  本日初めて「蘆花寄生木ゆかりの地」の石碑を見ました。その右側に道があり行ってみると大きな土台に旧陸軍の石柱(高さ1m幅10cm位)が2つ立てかけてあって。公園内の案内図には何があったのかは明示されていなくて。ここにある画像の跡地だったのでしょうか?

娘とナムナムしてきましたが、戦中に引っ越ししたとは言え、とても残念な感じがしました。
約30年前になってしまいますが高校生活の罰ゲームで新忠霊堂周辺の清掃活動させられた(恥)時に由来を教えていただいた記憶があります。

何か色々残念ですが、教えていただいてありがとうございます。

 

明治・大正の旭川

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月 8日(日)14時41分18秒
返信・引用 編集済
  モリゴロウさんに教えていただいた『明治・大正の旭川 街のおこりと軍都の成り立ち』へ行ってまいりました。
結局5日の日に行ってきたのですが、道新には7日の朝刊でようやくイベントの紹介がされてましたね。

感想としては、展示品が限られていたので「見ごたえ」という点では物足りなさを感じましたが、
その分厳選した感もあって、一品一品の中には初めてお目にかかるものも何点か見受けられました。
大正期と思われるちょっと興味深い地割図もありましたよ。
ただ、表題にある『街のおこりと軍都の成り立ち』という観点から言うと、その繋がりが展示物に感じられなかったのがちょっと残念でしたね。
その時どきの断片的な展示に留まったという感じです。
特に、屯田兵はともかく、何故にこの地に大師団が置かれ軍都として成り立ったのか?という視点が抜けているように思えました。

22日には学芸員さんの展示ガイドがあるようですから、もしかしたらその時また行くかもしれません。

 

Re: 油断大敵

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 4月27日(水)20時11分8秒
返信・引用
  > No.1220[元記事へ]

あずさんへ

>ただ、意図的でなく現旭川庁舎が火災にあったり地震で崩壊したとしても再建されるほどの建築物なのかというと、複雑な想いなのです。

あ、これは私もまったく同感です。
私が言ってる事の前提も、あくまで今現在まだ建物が存在しているからこその話です。
設計手法的な意味合い・価値感が強いので、当初の建物がそのまま残ってなければ殆ど意味がない訳ですね。

仮に何らかの災害で使いものにならなくなったとすれば、全く同じ形で再建してほしいとは思いません。
その時は、遠慮せず(笑)最新の耐震性を備えた新しいデザインの建物を建ててほしいと思ってます。
それこそグランドホテルに見られるような、旧建築の意匠を一部に取り入れる事も一つの手法ではないかと。
そこはやはり、外観自体に芸術的価値がある城郭・天守閣などとは一緒にならないのではないでしょうか。

先のレスでも言いましたが、現庁舎に私が望むのは、まずは「継続使用」する事です。
現時点では、保存すべき建物と呼ぶには素人目にはあまりに中途半端で多少レトロがかってきたという程度ですが、頑張ってあと20~30年くらい使えばどうでしょう?
その時こそ道庁赤レンガのような存在に成り得るのではないでしょうか?
道庁赤レンガだって国の重要文化財指定を受けたのは火災復興を経た築80年程度しか経ってない時です。
明治・大正期の文化財と言われる建物も、殆どは100年前後で指定されています。
これらは外観のデザインもさる事ながら、必ずと言って良いほど当時の建築技術の優れた面を評価されます。


こんなこと言ったら、保存を訴えてる建築家の方々に怒られるかもしれませんが、
今は現庁舎のどちらかと言うと技術的観点からの素晴らしさ・貴重性を大いに喧伝していただいて、
我々素人が、その古さにも魅力を感じる日まで建物が残るよう頑張っていただきたいと願っています。

 

Re: 博物館

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 4月27日(水)17時34分40秒
返信・引用
  > No.1219[元記事へ]

モリゴロウさんへ

情報ありがとうございます。実は私も知りませんでした。(^^ゞ
博物館にも近代史担当の学芸員の方がおられますので、たまにこういった企画をやりますよね。
たいていは道新ローカルに載るのですが・・・

私はたぶんゴールデンウィーク中に状況が許せば行くと思います。
ただ、事情あって休日でのオフ会は難しいかもしれません。
私だけでも良ければ、アドレスをメールして下されば、行く時お知らせしますよ。
ただし突然行く事になるかもしれませんので、その時はごかんべんを。

 

Re: 博物館

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 4月27日(水)11時01分33秒
返信・引用 編集済
  > No.1219[元記事へ]

モリゴロウさんへ

> ココでお話をされている皆さんはご存知と思われますが 4月29日より5月29日まで旭川市博物館で
>
> 「明治・大正期の旭川~街のおこりと軍都の成り立ち」と言う企画展があるようです

知りませんでした。情報ありがとうございます。私も是非行ってみたいです。
なんか私が現在の知りたいことそのものの企画展ですね(^^;

>かんじサンが図書館で明治時代の地図を見て来たとの事で、その地図を題材として談義する企画でも面白いのではと考えます

見てきたというより、旭川市図書館からネット上に公開されたってことですね。
新しい資料が一つ出ると、いろいろな興味や疑問が湧きあがるって感じです。

昨日、郷土史家さんと少し話して明治40年頃の地図にある「共有地」の知識を少し深めました。
明治41年の地図に有った地番のついていない共有地は、ようするにその土地を利用する複数の団体や自治体が存在し地主は居ないという土地です。
勝手には使えない土地ですが、当時の名簿によると土地と地主の他に、共有地の貸し出し名簿があり、共有地も大勢に貸し出されています。
当時の状況は旭川の人口が爆発的に膨れ上がり、住む家が不足しており勝手に住み着く人も多く区画整備や道路整備も済んでいない場所にも大勢人がいたようです。
キチンと測量し地積図を作り販売された場所は地主が存在しますが、それが間に合わなかったようで、旭川町では住所を決めたら共有地を貸出し地代をとっていたようです。
台帳によると懸案の8条10丁目は当時は○○条○丁目ではなく「測候所裏」という住所が付いています。
当時の人口が約3万人、それが現在の中央地区に居たわけです。
3万人の人口というと旭川だと春光地区が約3万人です。
ざっと見た感じ春光地区の方が広いので、現在の住宅街よりはたくさんの人がひしめき合っていたんでしょうね。
明治41年の旭川市街全図を見ると、8条10丁目の隣8条9丁目には「嘉美能温泉」があり、これが現在の8条プレジャー温泉だそうですね(@_@;)。「カイラク園」という公園があり、図書館があります。斜線で塗りつぶされた場所は人が沢山居たことを意味していますので、この辺りの共有地は貸し出され既に人が住んでいた可能性が高いと思われます。
 

Re: 油断大敵

 投稿者:あず  投稿日:2016年 4月27日(水)00時00分44秒
返信・引用
  > No.1218[元記事へ]

momongaさんへ

> これは異議有りです。(笑)
> かんじさんも言われてる通り、壊してしまったらそれで終わりです。
> また、あと2~30年も経てば外観的な骨董的価値も出てくるでしょう。
> 意図的に壊してしまったものを後年になって同じものを再建するなんて有り得ません。それこそ後の祭りです。

個人的には近代建築でも、もっと古い建物でもすべて残っていてほしいのです。
コンクリートの建物として貴重な「アサヒビル」の解体も空しい思いで見ていました。

農家さんの先代とか先々代のような家や納屋だって建築物としては同じ気持ちです。

それが市役所だから特別に保存すべきかと言うと、何が違うのか…。
なぜ昔の旭川市役所が残っていないのか、「北海道開拓の村」に移築された建物がなぜ存在するのか。

momongaさんが言う、「意図的に壊してしまったものを後年になって同じものを再建するなんて有り得ません。」は、同感です。

ただ、意図的でなく現旭川庁舎が火災にあったり地震で崩壊したとしても再建されるほどの建築物なのかというと、複雑な想いなのです。

 

博物館

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 4月26日(火)12時06分37秒
返信・引用
  ココでお話をされている皆さんはご存知と思われますが 4月29日より5月29日まで旭川市博物館で

「明治・大正期の旭川~街のおこりと軍都の成り立ち」と言う企画展があるようです

ぜひ行ってみたいと思いますが、企画展に合わせて皆さんお集まりになり「旭川談義」が出来れば面白いのになぁ~などと
勝手に考えております

かんじサンが図書館で明治時代の地図を見て来たとの事で、その地図を題材として談義する企画でも面白いのではと考えます

ぜひmomongaさん企画して下さい!

 

Re: 油断大敵

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 4月25日(月)16時14分5秒
返信・引用
  あずさんへ

>過去に賞を取った事実はありますが、近年に何かの賞を取ったでしょうか。
>過去の栄光を、子や孫の世代がさらに50年100年と残しておきたいと思うでしょうか。
>
>もし、未来においても魅力的な建物であれば、未来の建築技術で再建してくれるでしょう。


これは異議有りです。(笑)

かんじさんも言われてる通り、壊してしまったらそれで終わりです。
また、あと2~30年も経てば外観的な骨董的価値も出てくるでしょう。
意図的に壊してしまったものを後年になって同じものを再建するなんて有り得ません。それこそ後の祭りです。
だからこそ慎重な見極めが必要です。

過去に賞を取ってる事が保存を訴える理由ではありません。
受賞そのものよりも、なぜ受賞したのか?という事がまず重要だと思います。
建物の機能やデザイン等に、当時としてはたいへん斬新な設計思想・手法があったからです。
旭川に縁の深い著名な建築家が最初に手がけた公共建築という事と、その後全国の公共建築に影響を与えたという面もあります。

それに、実は2003年にドコモモ100選というのにも選出されています。
これはけっして電話会社がやってるイベントなどではなく、国際的な学術組織が”保存すべき近代建築国内100選”に選出しているのです。

No53に旭川市役所庁舎    → http://www.docomomojapan.com/registration/
DOCOMOMOについて      → http://www.docomomojapan.com/about/
旭川市庁舎の保存活用要望書 → http://www.docomomojapan.com/docomomo/wp-content/uploads/2015/12/2015_12_12-65ED5DDD5E02.pdf

数え切れないほどある国内の近代建築の、100の中に入るってすごい事だと思います。
もしかしたら日本建築学会も今後何か言って来るかもしれません。
つまり、けっして過去の栄光が取柄なのではなく、現在においてもなおその貴重性が専門家の間で認められているのです。
小樽運河なども最初そうでしたが、よく有り勝ちな、外部からの指摘によって覚醒された価値観と言えます。

我々現代人、それも素人には今すぐ分からずとも、
将来の世代が「よくぞ残してくれた!」と言ってくれる事を願うものです。



 

Re: 油断大敵

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 4月25日(月)11時09分44秒
返信・引用
  > No.1214[元記事へ]

momongaさんへ

> かんじさんへ
> 鉄筋コンクリートの現代建築物が、耐震基準が変わったせいで、たかだか60年にも満たない年数で「保存」はないと思うんですよね。
そうですね。
現段階で保存というのは違う気もします。
60年しかたっていない建物は現役で使われるべきです。
私が思うのは今利用し続ければ100年経ったときには歴史的価値も生まれるということ。
いま壊してしまえば、永久に建物は保存されないってことです。
建物は古い新しいではなく、使い続ける価値があるかどうかだと思います。
つい最近、札幌の旧文書館が北菓楼というお菓子やとなって再利用されました。
大正15年に建てられたコンクリート製の建物です。
https://prw.kyodonews.jp/opn/release/201512116387/
私は建物は時代を映す鏡だと思っています。
そういう意味で旭川市庁舎は近代モダン建築の象徴であり代表的な建物なんです。
その後の多くの建物設計に影響を与えました。
なので、できれば使用し続け後世に残すことで、「ああ、あの時代にはこんな建物があったのか」と思える社会が好きです。

> 正直言って、一般市民に建物の価値を知って保存か否かを判断しろといってもなかなか難しいかな、とも思います。
>
確かにその価値を評価し判断するというのは一市民には難しいですが、
最終的に判断するのは別の機関であるとしても、建物の利用、取り壊しの判断には
老朽化や使い勝手だけでなく、時代を映す意匠や市民への愛着度、歴史的価値といったものを
取り入れなければ古い建物はどんどん壊されることでしょう。
市民一人一人に判断しろではなく、そういった価値観をもっと高めることにより自然と
市民全体の古い建物に対する考え方が変わってゆけば、古くても良い建物はもっと残ることになるのだと思います。

 

Re: 油断大敵

 投稿者:あず  投稿日:2016年 4月22日(金)00時33分31秒
返信・引用
  > No.1212[元記事へ]

momongaさんへ

横レスでゴメンナサイ。

> 現状での旭川市の考え方は、とにかく大きな器にまとめて、しかも何故か?現在の位置が望ましいという事だけです。
> どこか役所側の都合だけのような気がします。
> 市民の窓口となる部署さえまとまっていれば、無理に全部を一つの建物にまとめる必要性は薄いのではないでしょうか。
> すぐ隣の第三庁舎を一定規模の建物に建て替えさえすれば、現庁舎・第二庁舎と合わせ、すぐ隣同士でまとまります。

私は一般市民と業者に関わる部署を分離すべきだと思います。
一般的に誕生・結婚・死亡、住民票・印鑑証明・所得照明…。
普段市役所へ行くことって少ないですよね。

個人的に支所で出来ることは支所で済ませます。
駐車場も楽ですし、当然待ち時間も短いですから。

業者に関わるというのは、例えば住居表示を取るだけのために、地下の駐車場に駐車して階段を上り1階の奥まで歩いて行くのです。

市役所のホームページにあるようなカテゴリー分けの受付を一元化すれば、かなり人の流れも変わります。

第二・三庁舎エリアは、業者向けの対応と各事務関係として再整備し、本庁舎は一般市民専用とします。
一般市民専用に特化するのですから、季節や天候にかかわらず駐車場やバス・徒歩でのあらゆる人が利用し易いようにアクセスを変更し、空いた事務スペースは市民に開放。

やがて、本庁舎寿命の際には隣地スペースに新築し、現本庁舎は解体。
賞をいただけるような建築物にすれば良い。

その頃には市民の数は少なくなっているだろうし、事務の効率化も進んでいるはずなので、職員の数も減っているはず。(笑)

 

Re: 油断大敵

 投稿者:あず  投稿日:2016年 4月21日(木)23時39分59秒
返信・引用
  > No.1214[元記事へ]

お邪魔します。

この掲示板だけでも、様々な御意見ですね…。

> 正直言って、一般市民に建物の価値を知って保存か否かを判断しろといってもなかなか難しいかな、とも思います。

仰る通りそのような判断は出来兼ねると思いますよ。
そもそも、そんなことに興味すらない方がほとんどかもしれません。

個人的に、建物の意匠性だけで残す価値があるのかと言うと無理だと思います。
つい先日、通年の一般公開となった「迎賓館赤坂離宮」レベルではありません。

過去に賞を取った事実はありますが、近年に何かの賞を取ったでしょうか。
過去の栄光を、子や孫の世代がさらに50年100年と残しておきたいと思うでしょうか。

もし、未来においても魅力的な建物であれば、未来の建築技術で再建してくれるでしょう。
しかし、城跡を保存していていれば城郭を再現することは可能でしょうが、そうもいきません。

 

Re: 油断大敵

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 4月21日(木)17時23分16秒
返信・引用
  かんじさんへ

実は私、現庁舎に対し「保存」とか「残す」という表現は相応しくないと思ってるんですよ。
鉄筋コンクリートの現代建築物が、耐震基準が変わったせいで、たかだか60年にも満たない年数で「保存」はないと思うんですよね。
現役施設なわけですから「継続使用」「継続利用」と言うのが適切な表現ではないでしょうか。
保存と言うと、文化財保存のような、プラスαの費用がかかるイメージが強くありません?

「保存するには50億かかります」と言われると「そんなに金がかかるんなら解体したほうがいい」となるし、
「50億で補修して使い続けます」と言われると「ああそれなら建て替えるよりずっと安く済む」となります。

ゴロっと考え方の基準が変わってしまうわけです。
ですから、へたに保存という言葉で訴えるのではなく、
「スクラップ&ビルドするにはあまりにももったいないから、耐震補強とリフォームを施して継続使用しましょう。
足りないスペースについて隣の第三庁舎を建て替えましょう。」
と言えば、多くの市民が納得するのではないでしょうか。
正直言って、一般市民に建物の価値を知って保存か否かを判断しろといってもなかなか難しいかな、とも思います。

 

Re: 油断大敵

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 4月21日(木)09時52分40秒
返信・引用
  momongaさんへ

> ただ私が感じるのは、現庁舎を解体するにしても保存するにしても、
> 現庁舎の建築上の価値がほとんど市民に知らしめておらず、賛否議論にすら上がってないという事が問題だと思います。

まったく同感ですね。
というか市庁舎に限らず、建物を解体建替えする時の判断基準が完全に間違っています。
老朽化、狭隘化を判断基準に建替えるなんて嘘なんです。
耐震の危険性は別として、メンテナンスだけで老朽化なんて防げます。
狭隘(せまい)?狭けりゃ別にもう一棟建てれば済むことです。
老朽化や狭隘化は単なる現象にすぎません。

なので壊すという判断基準は「残す価値があるかどうか」これに尽きます。

だから、壊すかどうかを判断するときには、「その建物の価値を物差しに懸ける必要があるのです」
価値が有るか無いか、こんな議論してないじゃないですか。


桂離宮だって法隆寺だって、残す価値があるから残っているのです。
今一度、現旭川市総合庁舎に残す価値が有るかどうかを判断できる資料を集めて、
市民全体で考える必要があるのだと思います。
その資料の中には、建築賞をとったとか近代建築100選に選ばれているとか、
とても重要な判断基準として「旭川の原風景を形作っている」とかいう内容も
残すかどうかの重要な判断材料でしょうね。

----------
ただし、私はむやみに残した方が良いとは思っていません。
耐震にしても改修するには膨大な金額がかかると思います。
おそらく50億円以上でしょう。
そこまでして残す価値があるかどうか、、、、、、、。


 

Re: 油断大敵

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 4月20日(水)22時59分29秒
返信・引用
  永遠の旅人さんへ

耐震化でデザインを損なってしまっては確かに意味がありませんよね。
いわゆる耐震構造には、大きく「耐震」「免震」「制震」の3つの技術的手法があるそうですが、
現市役所庁舎を耐震補強するとすれば免震化だろうとの事です。

けっして地震への備えは必要ないという事ではなく、
やはり一番の問題は、お金がいくらかかるのかという事に尽きると思います。
いくら技術的に可能だとはいっても、それでなくともお金のない旭川市にいったいどこまで許されるのか?という事ですよね。
川島先生がおっしゃっていた意匠保存という手法も、理由はそこにあるようです。

ただ私が感じるのは、現庁舎を解体するにしても保存するにしても、
現庁舎の建築上の価値がほとんど市民に知らしめておらず、賛否議論にすら上がってないという事が問題だと思います。

扇形車庫解体の時もそうでしたし、旧国鉄工場レンガ棟のCocodeとやらの利用方法もそうです。
必要な情報・コスト比較等を市民に周知した上で、それでも市民がNOと言うなら解体も致し方ないと思いますが、
今のままだと、狭い、古い、分散している、耐震性も問題だから建て直しが必要、どこの場所へどの規模で?
という観点でしか論じられていません。

現状での旭川市の考え方は、とにかく大きな器にまとめて、しかも何故か?現在の位置が望ましいという事だけです。
どこか役所側の都合だけのような気がします。
市民の窓口となる部署さえまとまっていれば、無理に全部を一つの建物にまとめる必要性は薄いのではないでしょうか。
すぐ隣の第三庁舎を一定規模の建物に建て替えさえすれば、現庁舎・第二庁舎と合わせ、すぐ隣同士でまとまります。

あとは、現庁舎を解体するのと免震化するのとで費用はどれだけ違うのか、
また、現庁舎を継続利用する事によって、新庁舎の規模をコンパクト化する事で建設費がどれだけ浮くのか、
それらのコスト比較も必要だと思います。
 

コンクリートの耐久性について

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 4月20日(水)11時54分19秒
返信・引用 編集済
  実はコンクリートの耐用年数というのはハッキリわかっていないというのが正解なんです。
といいますのも「現在使われている」鉄筋コンクリートの使用が始まったのは明治後期から大正にかけての時代です。
そして普及という意味では、1923年の関東大震災後にその耐久性の高さから普及が始まりましたので、まだ100年経っていない技術と言えます。
そんな中で昔のコンクリート製の建物で築50年を超え100年になろうとしているのに、現在もしっかりとした建物もある一方、築30年を超えたあたりから劣化が始まり50年も持たずに老朽化しているコンクリート造の建物があることも事実です。
ことコンクリートの耐久性で言えば、1900年から1950年辺りまでの建物の方が耐久性が高いという傾向になります。

そこには二つ大きな要因があり、一つは生コンというミキサー車で未だ固まらないコンクリートを運んで物を作るようになったことで、品質が極端に低下している事、もう一つは同時に1950年以降のオリンピックを代表する高度経済成長期に入り、品質よりも物を作る事に主眼が置かれ、海砂の使用や粗悪な砕石の使用、鉄筋の被りを十分に取らない不良施工やジャブコンという水で薄めたようなコンクリート。
短期強度だけでコンクリートを判断した結果、、、、、、。
50年持たないコンクリートが出来てしまったのです。

幸いにも旭川市役所庁舎のコンクリートは現場打ちコンクリートと言って、工事現場で直接配合し練り合わせたコンクリートを使っていますので、品質は悪くないです。

私はこれまで何度か言っていますが、古代ローマの建築物は石と煉瓦とコンクリートで出来ています。
1800年以上経過しているローマにあるパンティオンという45mもある巨大なドームの丸屋根はコンクリート製です。
http://www.kamit.jp/17_world/50_pantheon/plan_pa.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6c/Internal_Pantheon_Light.JPG
但し現在のコンクリートとは成分が違い、現在のポルトランドセメントを使ったコンクリートよりもはるかに耐久性、耐候性を持ったコンクリートのようです。
なんだかなぁ、、、。(阿藤快も嘆いてますね)
 

Re: 大町1条3丁目 寿市場

 投稿者:あず  投稿日:2016年 4月20日(水)08時55分39秒
返信・引用
  > No.1208[元記事へ]

かんじさんへ

> 実はチチンプイプイと言いながら、図書館へ行って新聞記事データベースで検索して頂いていたのです。
> なので簡単だったわけでもないのでした。
> あずさんもお時間があれば図書館で調べられますよ。

そういう事だったんですね。
ありがとうございます。

> あの検索端末が自宅で使えたらどんなに便利でしょうね。

この時代に閲覧は無理でも検索くらいできると良いですね。

 

油断大敵

 投稿者:永遠の旅人メール  投稿日:2016年 4月20日(水)00時11分23秒
返信・引用
  momongaさん
こんばんは。

おっしゃる通り、旭川市はこれまで水害を除けば災害には縁遠い町でした。
ただし、熊本も阪神大震災の神戸もあの時までは災害の少ない住み良い町でした。

旭川も西側に大きな活断層があるとの新聞報道がありましたし、北見市など近くに断層がないとされている地域においても隠れた断層があるとのことですし、日本においては地震のリスクがない地域はないのかもしれません。

私自身も反省していますが、人間は忘れる生き物。
5年前には東日本大震災もありました。今一度災害への備えを意識しなければと思い直した次第です。

現市庁舎の耐震補強ですが、技術的には可能でしょうけど、補強材によってせっかくのデザインを損なうことになれば本末転倒ではないかとも思います。

旭川グランドホテルのように新しい建物の一部に意匠を残して新たなランドマークを創るというのも一つの方法ではないかと思います。
 

Re: 大町1条3丁目 寿市場

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 4月18日(月)14時38分55秒
返信・引用
  > No.1207[元記事へ]

あずさんへ

> 火事があった話は聞いていますが、時が判りません。
> 「かんじさん」調べることができますか?
>
> たぶん、前回と同じ時期かと思いますが…。

すみません。
実はチチンプイプイと言いながら、図書館へ行って新聞記事データベースで検索して頂いていたのです。
なので簡単だったわけでもないのでした。
あずさんもお時間があれば図書館で調べられますよ。
あの検索端末が自宅で使えたらどんなに便利でしょうね。
 

大町1条3丁目 寿市場

 投稿者:あず  投稿日:2016年 4月18日(月)00時36分24秒
返信・引用
  火事があった話は聞いていますが、時が判りません。
「かんじさん」調べることができますか?

たぶん、前回と同じ時期かと思いますが…。
 

Re: 熊本地震

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 4月17日(日)22時24分22秒
返信・引用 編集済
  永遠の旅人さんへ

またまた大きな震災が起きましたね。
こういう震災や台風被害などが起きる度に、寒さは厳しいとはいえ天災の少ない旭川の恵みを感じます。


実は今日、「旭川の歴史的建物の保存を考える会」の研究会に列席してまいりました。
話題は正に現市役所庁舎の保存に関してであり、現況保存を唱えるメンバーの方(一級建築士)と、会長である川島先生との対談形式です。
お二人は師弟関係でありながら、市役所に関しては”保存”に対する考え方が異なっており、今回の対談は師弟対決と称されました。(笑)
ひと言で言えば、形状保存と意匠保存の違いです。
形状保存は通常私らが考えるそのままの保存ですが、意匠保存というのは現市役所内部の空間形状を新庁舎内部に残そうという事のようです。

現庁舎は耐震性の脆弱さが指摘されていますが、
今問題とされている耐震性は、実は耐震診断を行なった当の設計会社(元々現庁舎を設計した佐藤武夫氏が起こした会社)が「特殊な診断方法につき他の診断方法も試すべき」との補足をしているそうです。

私は建築の素人ですので正直言って建築の技術的な事はまったく分かりません。
ただ一つ、現況保存を唱えるメンバーの方が言われてた、
「旭橋がそうであるように、旭川の原風景とも言える現市役所庁舎を残したい」という言葉に同感します。
新しいものを新しい場所に造るのは実に簡単です。
現状では現庁舎に”骨董”的価値はないとする市民が多いのではないかと思いますが、
もう20年30年も経てば、今の旭橋と変わらぬ年齢を刻むのです。
それに今の庁舎は日本建築学会賞を受賞した、日本の建築界にとっても貴重な建物である事は殆ど知られていません。

耐震補強で何とかなるならば、私も現況保存を願うものです。
すぐ隣の第3庁舎の方を建て替えればいいじゃないですか。

 

訂正

 投稿者:永遠の旅人メール  投稿日:2016年 4月16日(土)07時03分2秒
返信・引用
  失礼しました。
正しくはアオーレ長岡です。
なお中心市街地に回遊させるために市役所庁舎に職員食堂は設置されておりません。
 

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