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熊本地震

 投稿者:永遠の旅人メール  投稿日:2016年 4月16日(土)06時51分39秒
返信・引用
  非常に深刻な被害が発生しています。
被災された方々のご無事をお祈りします。
熊本城をはじめ美しい街並みにも被害が発生している様子。
耐震基準を満たしていなかった宇土市役所は崩壊寸前との報道です。
地元の方々も仰っているように熊本市周辺ではこれまで大きな地震がなかったという事で備えが充分でなかったとの反省の声もあります。
デザインに魅力のある旭川市役所。私も好きですが、今回の件でやはり庁舎の建て替えは不可避ではないかと改めて思った次第です。
まして真冬に大地震が起きれば避難所の確保が生死に直結します。
そういう意味でも市民ホールなどを併設した余裕のある施設(例…長岡市役所 アオーネ長岡)を北彩都に新築するのがベストかもしれません。
 

Re: 塩野谷酒造

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 4月14日(木)21時04分48秒
返信・引用
  あずさんへ

なるほど、先代さんは塩野谷酒造のご近所だったんですね。
それにしても砂利道が懐かしいです。
御料車が、まがりなりにも街の中なのに砂利道を走る姿なんて、今では信じられませんよね。

これにもしパルプ廃液が撒かれていたらヤバかった・・・^^;

 

Re: 8条通の住所表示

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 4月14日(木)20時40分44秒
返信・引用
  高野さんに飛び込んだんですネ、ご苦労さまです。(笑)

私も最初気付いたとき、何じゃこりゃ!と思いましたが、
職業柄、絶対に何か規則性があるはずだ、と、よーく見ると、
確かに8条通り、9条通り、8・9条仲通りの延長線上と、10・11・12丁目を直線で区切って行くと、
右・左の振り分けと、号は”かろうじて”辻褄が合ってるんですよね。

ところが、8条10丁目の右・左の混在だけはどうにも説明がつかない。(^_^;
やっぱり、けっこういい加減なものだったと言うしかないんでしょうかね。

 

Re: 気付いたこと

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 4月14日(木)20時12分2秒
返信・引用
  かんじさんへ

まとめの仮説ありがとうございます。
概ねその通りで経緯は間違いないと思いますし、これまで私が言ってた事とも矛盾しないと思います。

開村前後は、曙など市街予定地から一歩外れたいわゆる番外地で払い下げを待つ人間が多かったようですが、
中にはおっしゃる通り、正式な払い下げ申請もせずに市街予定地に勝手に住み着いていた者、
あるいは他人より先に有利な土地を確保しようと占拠する者がいたようで、
それらが私の言う「不逞の輩」です。(笑)
ただ、正式な払い下げが始まると当然それらは正規の払い下げを受けた者とトラブルになる訳で、
地元有力者によるあっせん作業などもあったようですが、発覚したものはやはりお上のお咎めを受けたようです。

ですから、市街地から一歩離れたところに入り込んでいた者は、必ずしも払い下げを待ちきれずに勝手に住み着いた訳ではなく、
既に当地に入地したものの、正式な市街地の払い下げを待って仮住まいしていたケースも多いみたいです。

この状況は、鉄道が開通し師団工事が始まって一気に人口が倍々増した明治30年代まで続いただろう事は想像に難くありませんが、
明治40年には人口も33,000人(師団人口を除く)に達しており、少なくとも引く手あまたの市街予定地内への不正居住は難しくなっていただろうと思うのです。

 

Re: たぶん 昭和の皇太子

 投稿者:あず  投稿日:2016年 4月13日(水)22時32分31秒
返信・引用
  > No.1198[元記事へ]

かんじさんへ

さすが「かんじさん」。

> そこでチチンプイプイ、昭和の25年~35年当時の新聞記事を探ると、ありました。
> 昭和33年6月23日に千歳に到着し、24日に旭川に入っています。
> 25日に北見へ記事があるので24日に泊まったのかもしれませんね。
> 一応チェックとして新聞の写真を見ましたが、オープンカーが同じ形なので
> ほぼ間違いないと思います。

ネガには、音楽大行進の次にオープンカーが写っています。
50年以上も前に撮られたものだったんですね。
ありがとうございます。
 

Re: 塩野谷酒造

 投稿者:あず  投稿日:2016年 4月13日(水)22時14分9秒
返信・引用
  > No.1195[元記事へ]

momongaさんへ

> 先代と何か関係があったとか?

祖母が近所で商店をしていたので、子供の頃はあの辺で遊ぶことも多かったです。
塩野谷さんの敷地内でも遊んだなぁ~。

建物の変遷なんてのも面白いですね。
 

Re: たぶん 昭和の皇太子

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 4月12日(火)16時51分47秒
返信・引用
  > No.1193[元記事へ]

あずさんへ

> 皆様にお願いです。
>
> この写真は今上天皇の皇太子時代かなと思いますが、旭川に行啓(皇太子は行啓と違ったっけ?)された時期が判りません。

こんにちは、かんじです。
素晴らしい写真をお持ちですね。
さて、今生天皇が皇太子時代に旭川を訪れた記録ですね。
写真のお顔はかなり若い。20歳前後として陛下は昭和8年の生まれなので、
年代は昭和の28年前後と考えました。
そこでチチンプイプイ、昭和の25年~35年当時の新聞記事を探ると、ありました。
昭和33年6月23日に千歳に到着し、24日に旭川に入っています。
25日に北見へ記事があるので24日に泊まったのかもしれませんね。
一応チェックとして新聞の写真を見ましたが、オープンカーが同じ形なので
ほぼ間違いないと思います。
ただし、もう一枚の写真は車が違っているので確認は難しいと思います。
同時に来たお付の人のようなんですけど、、、、。
 

8条通の住所表示

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 4月12日(火)16時03分38秒
返信・引用
  高野とうふてんが右2号で直江クリニックが左1号、通常の決まりから言えば明らかにおかしいこの表示。
何故でしょう。
聞くしかないでしょう。誰に?
高野さんに(^^;
で、行ってきました。
出てきたのは市場の中、とうふ屋の路地向かいに住む、高野さんでした。
まだお若い方で40歳くらいかな(違ったらゴメン)、とても感じの良い方でした。
右2号に間違いないですよね、と聞くとうちはずっと昔から右2号ですと言いきっていました。
直江クリニックさんが左1号なのにどうしてでしょうね、と聞くとさすがにそれはわかりませんとの事、、、、。
それから市役所の住所表示(11番の窓口)という係りの方に同じ事を聞いたのですが、やはり住所表示が乱れている理由はわからないとの事でした。
ただ住所表示は土地の権利に絡む地番とは違って、建物の場所を表すだけの物なので、そこまで厳密なものでもないってニュアンスはありましたね。
これでわかる人は居なくなってしまったかもしれません。
そこでもう一度、8条10丁目の住所表示をあれこれ見てみると、添付図のようなものです。
でもよーーく見てみると、あれれ土地の区割りとは違って、どうも通常の表記に見えてきました。
9条通の金さん銀さんがあるところは、9条の住所です。
さらによーく見ると、古流文化研究所の処に右5って住所があります。
右端の上の方と中ほどに左10という家が2軒あります。
左5、左7、左10という家を追ってゆくと、この区画も縦に割られて東から1、2、3、となっている気がしてきました。
右5という住所があることから本来8条通りがあったであろう位置を境に右と左にわかれるのではないでしょうか。
高野とうふ店は市場の通りを挟んで確かに右にあります。
そうすれば右2という表示は正しい。
逆に直江クリニックが左1というのだけがおかしいという事になります。

 

Re: 気付いたこと

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 4月12日(火)15時40分29秒
返信・引用
  > No.1194[元記事へ]

momongaさんへ

> まあ、お互い推測の範疇ですし、
> この場で論破し合う事が目的ではありませんので、あくまで史実を知り得る確証を何とか見つけ出したいですよね。

そうなんです。なかなか証拠が無いので仮説でしかないんですよね。
ただ、こうして時代背景とかを調べてみるのも面白いです。
地主の関係とか地租改正とか少し賢くなりました(^^)

さて、かんじの仮説です。
現在の8条通10丁目には明治43年にいち早く地番が付いているが、その場所には何があったのだろうというのが事の発端です。
momongaさんが言うように、その場所は初め上川農試が有った場所で、農試の移転後は上川中学校や測候所なんかがあった場所です。
その一部に明治43年に住所が付くという事は、民間への払い下げがあったのは事実です。
地図を見ると、当時地番の付いていない場所には共有地という言葉が書いてあります。
共有地という言葉も他ではあまり聞かれない言葉なのですが(公有地はありますけど)当時旭川町や道庁の所有する未開の公共用地であると思います。
本来は農試だったその場所をなぜ早く売ったのか?
そして、その場所は他とは違った区画整理となった、これも事実です。
今日、旭川市史に造詣の深いT氏と話をしてきました。
明治30年代の時代背景として、旭川に移り住む人が急増していました。
市街中心部は道路が整備され区画が整備された部分から順次払い下げが行われたと聞きます。
しかし、それを待ちきれない人が周辺にはたくさんいたのも事実のようです。
ちゃんと区画整理された場所を買って住む人がいる一方、市街地周辺では勝手に住み着く人も多かったようです。常磐公園の中に住んでいる人もいたそうです。
キチンと整備された場所にも許可なく勝手に住み着き、退去をさせられた人も大勢いたようです。
周辺に住み着く人を管理する余裕は無かった時代のように思います。
上川農試の土地は、6条通10-12丁目でした。
そこから上は牛朱別川で永山と分かれるところまで全部というかこの辺りに境目はありません。
湿地か川かわからないような場所でした。実際に農試が使っていたのは6条通と7条通りあいだ付近でしょう。
明治40年頃の8条通10丁目付近がどんな様子であったか。
明治33年の旭川地図でみると何もない湿地のように見えます。
そして40年に問題の中島遊郭が出来ます。
その時点でも8条通辺りは道路などは整備されておらず、本当の川べりです。
そんな時、市街から中島遊郭への最短ルートが自然発生するのは当然のように思います。
それは客として又、物資や食料を運ぶため舟や粗末な仮橋だったかも知れません。
橋のたもとや渡船場付近に人が住みついても不思議ではありません。
そこはまだ正式な道路も無い未開の地だからです。
そんな時に明治41年に上川農試が移転し、旭川営林區署開設されます。
この時に測量が行われたはずです。
当時、民間への払い下げの為には正確な測量をして地番を付けなければ、売ることができません。
市街地から離れた8条通10丁目の正確な測量が行われるタイミングはこの時しかないように思います。
しかし測量したとしても市街から離れた湿地が売れるはずもありません。
明治41年にこの土地が売れる価値を持っているとすれば、中島遊郭の存在以外にはありません。
この土地は中島遊郭との関連性があり将来的にも有望だからこそ地主は買うのです。
明治6年の地租改正により土地の個人所有が認められるようになりましたが、地租と言ってかなり高額な税金がかかりました。なので価値の無い土地を買う人は居ません。
私の想像では、そこには既に交易があり人がいて、住んでいる人から地代をとることができる土地だったのではないかと想像します。
もう一つ、当該地が東西ではなく南北に細かく等分されているのは、永隆橋通りに面した部分を等分しないと通常の左1号の土地をかった人だけが商売上得をしてしまうからです。
つまりそこには既に中島遊郭へ向かう人や物の流れがあったということです。
市街地は横に長い区画ですので、縦に細く等分した方が多くの人に平等に払い下げできます。
そんな事情もあったのでしょう。2191-8、2191-9は公務員の宿舎用ではないかとT氏が言っています。
大正15年の詳細図では同じ形の住居が6件ほどここに並んでいますので、公宅ではないかとの事です。
この土地の価値を上げるためにも、大正元年には寄付を集めてまで初代永隆橋を架設します。
それだけの価値がこの道路、そしてこの土地にはあったからでしょう。
旭川市街中心地は管理され区画に合わせて、払い下げが進んだことと思いますが、周辺地はかなり無秩序に人が住んでいたと思われます。
そんな中、中島遊郭との強い結びつきによりその重要性と必然性から生まれたのが8条通10丁目という場所だったのではないでしょうか。
その考え方にT氏も概ね同意するとの事でした。

 

Re: 塩野谷酒造

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 4月12日(火)00時35分28秒
返信・引用
  あずさん、お久しぶりです。

ご自身所有のネガという事なんでしょうか?
とても鮮明な写真をありがとうございます。

住の井の看板を掲げた塩野谷酒造がはっきりと写ってますが、
先代と何か関係があったとか?

 

Re: 気付いたこと

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 4月12日(火)00時18分15秒
返信・引用
  かんじさんへ

> いいや、まだまだ。
> 流れはmomongaさんですが、まだあきらめていません(^^;

まあ、お互い推測の範疇ですし、
この場で論破し合う事が目的ではありませんので、あくまで史実を知り得る確証を何とか見つけ出したいですよね。


今回の件と直接関係ないと思われたので触れていませんでしたが、
私もこの近辺の地番を見渡していて、あれれれれ?と思いました。
いくら区画整理が本来の形にできてないとはいえ、単純に通りを延長して考えただけでも右・左の振り方が明らかにおかしいですよね。

左右の名称で割り振られた1号から10号という地番が必ずしも面積で割ったものではなく、実際に建てられた建物に応じて振られたもの、と聞いた事があります。
その考え方で言うと地番の数字が抜けたり飛んだりするのはまだ理解できるとして、
同じ区画内に右・左の地番が混在してるというのは私も訳が分かりません。

摩訶不思議な事が多いですよね。

 

たぶん 昭和の皇太子

 投稿者:あず  投稿日:2016年 4月11日(月)21時37分21秒
返信・引用
  皆様にお願いです。

この写真は今上天皇の皇太子時代かなと思いますが、旭川に行啓(皇太子は行啓と違ったっけ?)された時期が判りません。

簡単なネット検索では昭和35年から全国を…なんてのがありましたが。。。

 

塩野谷酒造

 投稿者:あず  投稿日:2016年 4月11日(月)21時15分42秒
返信・引用
  毎度ごぶさたです。
相変わらず盛り上がっていますね~。

八条ではないですが、大町の塩野谷さん。

古いネガを整理していて、珍しい写真を発見しました。
砂利道の国道40号線をお裾分け。(笑)

 

Re: 気付いたこと

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 4月11日(月)12時58分32秒
返信・引用
  > No.1189[元記事へ]

momongaさんへ

> かんじさんへ
> もう一つ追い討ちをかけるようですいません。
いいや、まだまだ。
流れはmomongaさんですが、まだあきらめていません(^^;

> 地主に名を連ねている塩野谷辰三は辰造ではありませんか?
そうです私のタイプミスでした。

> このような人物が地主の一人という事からも、付近はけっして不逞の輩が住み着いていたような場所とは思えません。
不逞の輩ってのは考えすぎとしても、先住民が居たのではないかという仮説はあきらめていません。

> 2191-4の地番って、もしかして八条市場の場所と一致してませんか?
私の持っている現在の地番図と得意の手法で重ねてみました。
そうすると八条市場は2191-3番です。
そして大正15年の正確な地図では八条市場の位置は長い建物があり○の中に「市」って書いてありますので公設市場だったかも知れません。

> 中島遊郭が決まった事で、ここに橋が架かれば中心街からは常盤通より近く、繁華街になると読んで払い下げを受けたのではないでしょうか。
> もしかしたら、商売に有利な場所を確保するため、早々に払い下げるよう強く要望したかもしれません。
ん~、この線も濃厚ですね。

そうそう八条の調査をしているといろいろ面白いことがあるのですが住所も変わってますよ。
現在8条10丁目の角に医療法人直江クリニックというのがあるのですが、ここの住所を調べると、8条通10丁目左1なのです。
交差点に立って東を見て右左ですから、それは良いのですが、、、。
高野豆腐店の住所はななななんと、8条通10丁目右2なのです!!!
そして一般的に旭川の住所は西から東へ1から10まで割り付けるのが普通ですが、この辺りの住所をあたってみると、南から北へ1、2、3、4、5、6、7と住所が割り振られているのです。
住吉町の斜め住宅ではありませんが、これも一般の区画とは反対です。

 

Re: >ふくすけさん

 投稿者:ふくすけメール  投稿日:2016年 4月11日(月)11時28分25秒
返信・引用
  > No.1183[元記事へ]

momongaさんへ

こちらこそありがとうございます。
まだ他にも古いものがあるかも知れませんので、機会をみて調べてみたいと思います。

ところで、例のアルバムの中に、上川神社氏子総代と書かれた感謝状のような文書があり、要約すると、天皇陛下がいらした時の何らかの功績に対するもののようで、神社か、もしくは氏子総代(名前の記入がないので誰かは分かりません)の方から頂いたものといったところでしょうか。
それに加えて、高祖父や神主さん、天皇陛下のお使いの人?が並んだ記念写真や、上川神社の前で職人さんが石を加工している写真などがありました。恐らく石段を作っているのだと思います。

高祖父が何をしたのかはよく分かりませんが、もう少し暖かくなったら、子供を連れて石段を訪れてみようと思っています。

> 4年目の返信ありがとうございます。^^;
> 忘れずに当掲示板ロムしていただいていた事、感謝いたします。
>
> 開拓期の旭川は陸の孤島のようなものだったと思います。
> 鉄道が開通するまでは、上川道路の馬車道一本が唯一の輸送手段であり、できる限り自給自足で賄う事が急務でした。
> そんな状況の中、日本人の食生活に欠かせない味噌・醤油などの醸造品は、旭川において最も早く発生した製造業の一つです。
> ふくすけさんの先代の方もその一人だったのでしょうね。
>
> 古くからご商売をされてた家には、何かと古いものが残されている事も多いかと思います。
> 今後とも、もし何か情報がありましたら是非ともお知らせ下さい。
>
>
 

Re: 気付いたこと

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 4月 8日(金)15時19分22秒
返信・引用
  かんじさんへ
もう一つ追い討ちをかけるようですいません。

地主に名を連ねている塩野谷辰三は辰造ではありませんか?
だとすれば塩野谷酒造の塩野谷さんに間違いないと思われます。
この方は埼玉より移住し、明治30~32年頃に今の大町に旭川では3番目となる酒造会社を創業しています。
つまり当時の旭川の名士の一人だったわけです。

このような人物が地主の一人という事からも、付近はけっして不逞の輩が住み着いていたような場所とは思えません。
家を建てようとしたのか、あるいは新たな商売を始めようとしたのかは分かりませんが、
2191-4の地番って、もしかして八条市場の場所と一致してませんか?


当時旭川は東へ東へと中心街が広がっていましたから、
中島遊郭が決まった事で、ここに橋が架かれば中心街からは常盤通より近く、繁華街になると読んで払い下げを受けたのではないでしょうか。
もしかしたら、商売に有利な場所を確保するため、早々に払い下げるよう強く要望したかもしれません。
それで区画整理が後追いになってしまったのかも。
そうなると永隆橋の架橋にも絡んでいた可能性だって充分ありますよね。

いずれにしても、やはり早くても明治40年の中島遊郭設置前後の事になりますが、
塩野谷さんの名前で私は確信に近いものを感じてきましたよ。^_^;


 

Re: 気付いたこと

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 4月 8日(金)00時44分41秒
返信・引用
  かんじさんへ

こういう話題をきっかけに自分でも漠然としか把握してなかった部分を明確にするのは本当に楽しいですね。(^^)


中島遊郭は、設置計画ですったもんだ揉めたあげく明治40年に貸座敷免許を認可された人為的な遊郭です。
ですから認可が下りるのを待って、何もなかったところにかなり短期間に一気に造成されたものと思われます。

でもって、旭川にはもう一つ、曙遊郭というもっと古い遊郭がありましたよ。
こちらは屯田兵村建設が始まった頃、主に建設工事に携わった人夫相手が目的の私娼がはじまりです。
ちょうどかんじさんが考えられてる女郎屋みたいなもんだと思います。
その後まとまった娼館街を形成し、師団建設前の明治30年には公娼として認可されています。
もちろん他にも散在的に私娼があって、師団設置後には近隣の大町などにその類の歓楽街が存在しました。
ですから、かんじさんが心配?(笑)されてる若い兵隊の勢いを抑える場所は一応あったのです。
実は中島遊郭が設置されたのは、曙遊郭が師団から遠くて不便だった事と、膨らむ師団に対応仕切れなくなった事が理由です。


それはそれとして、
私が8条10丁目付近に”先住民”はいないだろうと拘るのにはもう一つ理由があります。
それは、当時の市街予定地の土地管理は、勝手に家を建てて住み着けるほど甘くはなかったという事です。
開村前後は誰もいない野っ原でしたから確かにそういう輩が相次いだようですが、
道庁による正式な貸下げ業務が始まると即座に発覚し、それなりのお咎めを受けたようです。
明治30年40年代ともなると人口も増え、住民の目もありますから貸下げ前の共有地に入り込めばすぐに分かります。

まして、問題の区画は元々が農事試作場の敷地であり、れっきとした公有地です。
試作場や測候所の役人もいる中で、敷地内に勝手に住み着くなんて有り得ないですよね?
やはり、最低限、正式な貸下げを受けての住人だと思います。

 

Re: 気付いたこと

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 4月 7日(木)18時27分3秒
返信・引用
  momongaさんへ

さぁ、面白くなってきました(^^;
さすがmomongaさん、年表を追ってみると解ってくることもありますよね。
ただ歴史的事実だけでは見えないものも沢山あるように思います。
例えば初代永隆橋の架設は大正元年ですが、公式な記述がありません。
なぜならこの橋は必要に駆られて発起人が一般からの寄付で大正元年に作られたという新聞記事があります。
つまりここには公式に架橋される前に川を渡る大きな需要があったということです。
川を渡るために渡船を利用したか、粗末な橋を作ったかはわかりませんが、
川を渡る大きな需要って「中島遊郭」以外にありえませんよね。
momongaさんは「私は8・9条10丁目付近に一般人が住み始めたとすれば、明治41年の上川農事試験場の永山移転後の事ではないかと思います。」と言っていますが、私はもっと早いと考えます。
区画整理して払い下げらてから人が住んだのなら、もっときれいな区画になっているはずです。
他にもそういった場所は沢山ありますが、正式に区画整理する前から人が住んでいたので、区画がおかしいという場所がほとんどです。

土地は確かに正式には41年の農試移転後に民間払い下げになったと思いますよ。
その時に2191-1番地という上川中学の学校用地が分筆され明治43年の地図に載ったように地番が付けられたのでしょう。明治43年当時の地主の名前が解りましたが。
みなさん地主であって、ここに住んでは居なかったようです。
持ち主を列記します。
2191-2 忽滑谷寅右衛門
2191-3 伊藤久米
2191-4 塩野谷辰三
2191-5 筒井松次郎
2191-6 秋山吉五郎
2191-7 松井ミヤ
2191-8 西田仁三郎
2191-9 立野庄吉
2191-10 細川藤次郎
塩野谷辰三さんは塩野谷酒造を起こした方のようですが、他はわかりませんでした。

中島遊郭はある日突然できたのでしょうか?
明治33年に師団が旭川へやってくるわけですが、若い兵隊が大勢やってくると女性を求めて旭川の町へやってきます。
その勢いを抑えるために、中島遊郭が出来たのは明白ですが、遊郭の設置が明治40年であればそれまでの間はどうなっていたのでしょう。
ちゃんとした遊郭になる前にそういうよからぬ場所というのは自然発生すると思いませんか?
中島遊郭の場所は現在で言えば町から離れたモーテルと同じです。
あくまで私の想像ですが、師団がやってきて40年に中島遊郭が出来るまでにも中島には怪しげな場所があり、いろんな人が集まっていた気がします。
明治40年に公的な遊郭が出来たころには、8条通10丁目辺りには既に人が住んでいたんですよ。そこでいち早く払い下げになったと思います。
だって区画整理もしないであの場所を払い下げる理由がないですもの。
そうしてそこに住んでいる人は中島遊郭となんらかの関係があり、常に川を渡りたいという要望があったからこそ、寄付で橋を作ったのではないでしょうか?
まぁ、8条通10丁目で女郎屋というのは過ぎた想像かも知れませんが、、、、。
想像が多くてスミマセン。
 

Re: 気付いたこと

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 4月 6日(水)23時00分13秒
返信・引用
  かんじさんへ

橋は初代の永隆橋ですよね。
明治40年頃になると街もどんどん広がって、常盤町から一本道しかなかった中島遊郭にも新たな連絡道路の必要性が増したのでしょうね。
常盤町は市街と師団の中間点という事もあり、特に中島遊郭への入口ということで商店街が発展しましたから、
牛朱別川を挟んで遊郭の対岸すぐ近くの8条付近が、橋が架けられた以降に栄えた事は充分考えられます。

でもそれ以前の女郎屋だけはまず有り得ないと思います。
と言いますのは、上川中学校ができたのが明治36年で、中島遊郭が開設されたのは明治40年です。
中学校は何と牛朱別川までが敷地でしたから、川を隔ててるとはいえ学校敷地から見える場所に遊郭ができるという事で当時大問題となり、反対運動も起きています。
結局、校舎からは500m以上も離れてるという事で遊郭設置が認められてしまうのですが、
川の向こうですら大騒ぎになったのに、ほとんど学校敷地内のようなところに女郎屋など1軒たりとも許されたはずはないと思われます。

私は8・9条10丁目付近に一般人が住み始めたとすれば、明治41年の上川農事試験場の永山移転後の事ではないかと思います。
中学校の設置と上川農試の移転までが何年か重なってますが、中学校の敷地に充てられた以外の土地がこの年の移転によって開放されたのではないでしょうか。
一部は同年に新設された営林區署に充てられ、残った土地が民間に払下げられたとしか考えられません。

この付近の土地利用を時系列で記すと、

明治31年 神居から上川測候所移転
明治33年 (第七師団司令部旭川へ移駐)
明治34年 1条2・3丁目から上川農事試作場移転 測候所以外の一帯が試作場となる
明治36年 上川中学校開校・農試敷地内に校舎建設
明治40年 中島遊郭設置
明治41年 上川農試永山へ移転 旭川営林區署開設

明治43年 旭川明細全図が作成される

大正×年 初代永隆橋架橋


となる訳で、明治41年に民間に払下げられていたとすれば、件の明治43年の明細全図に地番が描かれているのは不思議でも何でもありません。
遊郭との関係で言えば最低限明治40年以降になりますが、橋がない限り関係は薄かったと思われます。

永隆橋ができた以降はともかく、
それ以前の女郎屋は考え過ぎではないでしょうか?(^_^;



 

Re: 気付いたこと

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 4月 6日(水)10時11分51秒
返信・引用 編集済
  > No.1184[元記事へ]

momongaさんへ

> 今日近くを通ったので、8・9条10丁目付近をちょっと探索して来ました。
探索、お疲れ様です。
私も一度だけあの市場の中に入ったことがあります。
そう豆腐屋があるんです。
でも薄暗くてあまりの怖さに探索は出来ませんでした(^^;
その後に開店したsumikitchenはお弁当屋さんです。
安くておしゃれなお弁当を作ってます。

で、私も調べましてさっき気付いたことがあります。
それは大正3年の地図と見比べた時に思いついたんです。
大正3年になんとそこに橋が架かっているんです。
その橋の先は「中島遊郭」です。
つまり8条通10丁目界隈は当時川の淵で中島遊郭とのつながりのある場所なんです。
地図上では上川中学、測候所、営林署なんて硬い文字が並んでいますが、
まちがいなく中島遊郭との商売をやっていた人たちが住んでいたはずです。
または想像を働かせると、中島遊郭は公認の赤線ですが、青線と呼ばれる非公認女郎屋だったかも知れません。
中島遊郭に入りきれなかった兵隊さんが来たのかも、、、、。
そんな人達が区画整理する前に住んでしまっていたので、あそこは通りをきちんと整理できなかったと考えるのが自然ではないでしょうか?
明治43年の地図には橋がありませんが、大正3年には橋が出来ているという事は、明治43年にも行き来があり橋の要望があったと考えるべきでしょう。
いかがでしょうか?
ps.
この方向で考えると新師団通りから旭川に入る9条14、15丁目も青線だった可能性もありますけど、それは考えすぎかもしれません。

 

気付いたこと

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 4月 5日(火)22時04分26秒
返信・引用
  >かんじさん

今日近くを通ったので、8・9条10丁目付近をちょっと探索して来ました。

まず、びっくりぽんだったのが、
あの八条市場の中では、今でも豆腐屋さんが一軒だけ営業してるんですねー、驚きました。
かんじさんに尋ねられて、古い地図と現在の地図を見比べていたら豆腐屋さんの名前が載ってるのでもしかしたらと思ったんですが、やっぱりでした。

今までは永隆橋通りを通る度に車から見ていただけだったのですが、
正面からはどう見ても市場は閉鎖されてて住居として使われてるっぽく、勝手に入って行ける雰囲気じゃないですよね。
そこで今日は最初から裏へ回ってみたところ、何と裏口が開いていて通路越しに向こう正面まで見通せるではありませんか。
中は暗かったですが、オープンスペースっぽいのでとりあえず突入。
古いガラス窓で通路と仕切られた豆腐屋さんが確かにありましたが、店舗と言うより製造所みたいですね。
いつからある豆腐屋さんなのか知りたかったですが、誰も見当たりません。
他の店舗跡は全て塞がれていて、やはり住居として使われてるようでした。
(永隆橋通り路面のSumi Kitchenというのは何屋さんか不明)
でも通路内には懐かしい「フルヤのキャラメル」の看板なんかが残っていたので、昔は駄菓子屋なんかも入ってたのかな。
裏口の脇にも「壽みそ」「塩」など昔の看板が残されていましたが、これら看板類は戦後の物っぽいですね。
いかんせん人が誰もいなくて、これ以上何も情報が得られませんでした。
勝手に入って良かったのかどうかすら不明です。^^;


あと、この市場の裏手に一軒だけかなり古い建物が残ってますね。
https://www.google.co.jp/maps/@43.772694,142.367477,3a,51.5y,56.31h,93.31t/data=!3m6!1e1!3m4!1soKV6zv9aoXjaSKApnj9bHA!2e0!7i13312!8i6656?hl=ja
https://www.google.co.jp/maps/@43.7728955,142.3676049,3a,48.8y,166.83h,92.8t/data=!3m6!1e1!3m4!1sgah4FAXE9jSrD9cI7fyfuQ!2e0!7i13312!8i6656?hl=ja

市場の存在もそうですが、道路の狭さといい、このような建物が残ってる事といい、この区画にはやはり何らかの歴史が漂います。


それともう一つ気付いたことが、
YAHOO地図にはこの近辺の地番が記載されてるんですよね。

先のレスの通り、この辺り一帯(6条~旧牛朱別川までの10~14丁目)は測候所と営林區署を除いて元々が上川農業試作場で、
たぶん新設の上川中学の校舎を建てるために農試を永山へ移転したのだと思いますが、
その時に、13~14丁目は民間に払下げられ、6条~旧牛朱別川の10~12丁目が中学校の敷地になったのだと思われます。
(やはり測候所と営林區署は除く)

でもって、YAHOO地図の地番を見渡しますと、
現在でも2191で始まる地番は、全てこの時の上川中学校の敷地と合致してるように思えます。
という事は、かんじさん指摘の区画も、当時の中学校の敷地全体に割り当てられた地番の内の一つで、
新設された中学校の教職員住宅用の区画だったような気もしますが、この推測はいかがでしょう?


 

>ふくすけさん

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 4月 5日(火)00時48分14秒
返信・引用
  4年目の返信ありがとうございます。^^;
忘れずに当掲示板ロムしていただいていた事、感謝いたします。

開拓期の旭川は陸の孤島のようなものだったと思います。
鉄道が開通するまでは、上川道路の馬車道一本が唯一の輸送手段であり、できる限り自給自足で賄う事が急務でした。
そんな状況の中、日本人の食生活に欠かせない味噌・醤油などの醸造品は、旭川において最も早く発生した製造業の一つです。
ふくすけさんの先代の方もその一人だったのでしょうね。

古くからご商売をされてた家には、何かと古いものが残されている事も多いかと思います。
今後とも、もし何か情報がありましたら是非ともお知らせ下さい。

 

Re: はじめまして

 投稿者:ふくすけメール  投稿日:2016年 4月 4日(月)11時14分58秒
返信・引用
  お久しぶりです。
以前(2012年 7月30日)、一度書き込みをさせて頂いたふくすけと申します。
返信が遅くなってしまい本当に申し訳ありませんが、あれから少しずつ調べて分かったことをご報告したいと思います。

> こんにちは初めまして。
> 私は旭川近郊在住のふくすけと申します。
> 生まれも育ちも旭川ですが、郷土の歴史などに興味を抱く事もなく30年以上過ごして来ました。
> ところが最近になって、先人の方々が歩んで来た道やふるさとの歴史に興味が湧き始め、色々と調べているうちにmomongaさんのサイトへ辿り着きました。
> 論旭川のコンテンツのすべてに大変感銘を受け、特に「日の出づる川」のウソで述べられておられます旭川の名前の由来についての論説には驚きすら感じました。
> このような素晴らしいサイトと、こちらの掲示板での皆さんの貴重なお話を拝見させて頂ける事は私にとって大変貴重で喜ばしいことです。ありがとうございます。
>
> 余談ですが、私の父方の祖先は明治時代に移住し戦後まで味噌や醤油を作る醸造所?を営んでいたそうで、母方は屯田兵として明治25年に入植、曾祖父や祖父達が存命の間に何故もっと話を聞いておかなかったか・・・後悔しっぱなしです。
>
> ただ、終戦当時は女学校に通っていたという昭和3年生まれの父方の祖母がまだ元気で存命ですので、軍人勅諭の色について何か記憶がないかどうか聞いてみたいと思います。

まず、今さらではありますが、存命の祖母に旭橋に掲げてあった軍人勅諭について聞いてみましたところ、あったような覚えはあるが色の記憶はすっかりなくしてしまったとの事でした。申し訳ありません。

また、父方の家は精米と味噌や醤油の醸造を行っており、マルセという屋号だったそうです。名門とまではいかないかもしれませんが、当時の商工会議所の役員に高祖父の名前を見つけることができました。

それから、祖父母の家には古いアルバムが数冊あり、それを拝借してゆっくり見てみました。最古の写真は恐らく明治後期から大正初期で、戦後の時代まで、主に家族だと思われる人々が主体ですが、所々に当時の街並みなどが写っており非常に興味深いものです。
ただ、一度火事を起こしてしまい、焼け残った一部だということなので、本当はもっと沢山写真があったはずなのが悔やまれます。

旭橋だと思われる写真もあるのですが、残念ながら問題の部分は写っておりませんでした。
(写っていてもモノクロなのでお役には立てませんね)

これからも、少しずつ、我が家と旭川の歩んで来た道のりを辿ってみたいと考えておりますが、そんな私にとって、この掲示板での皆さんの議論は本当に貴重で、大変ありがたく思っております。

これからもちょくちょくお邪魔させて頂きたいと思っていますのでどうぞ宜しくお願い致します。
 

Re: 明治43年旭川明細全図

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 4月 1日(金)15時29分19秒
返信・引用
  > No.1180[元記事へ]

momongaさんへ

> かんじさん、面白いものを見つけましたね!
> 私もこの時代のこんな詳しい地番入り住所地図ははじめて見ました。
ですよね。
私は地図が好きでいろいろ探すのですが、以前は無かったと思います。
最近、図書館もネット上にデータの公開を進めているようなので、その中から出てきたのだと思います。

> つまり今で言う公務員住宅団地ですね。
> 一部は民間にも払い下げられ、利便施設としての民間市場が設けられた・・・
なるほど、公務員が集まってそこに市場が出来るんでしょうね。

そういえば、年代がわかって土地の地番までわかれば、登記簿から持ち主はわかりますね。
名前が解ってもそれ以上何がわかるのかはわかりませんが、今度調べてみます。
 

Re: 明治43年旭川明細全図

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 3月31日(木)18時11分41秒
返信・引用
  かんじさん、面白いものを見つけましたね!
私もこの時代のこんな詳しい地番入り住所地図ははじめて見ました。

でもって、実は私も前からこの古い市場が気になってたんですよ。
https://www.google.co.jp/maps/@43.772421,142.3664787,3a,75y,89.29h,96.69t/data=!3m6!1e1!3m4!1sICnShdjpiz2wmE9_LghEjA!2e0!7i13312!8i6656?hl=ja

大正時代建築の銀座通り第一市場にも匹敵しそうな古さ加減ですよね。
なんでこんな場所にこんな古い市場がポツンとあるんだろう?
まさにこの辺りがご質問の場所かと思います。

この辺り一帯は明治41年まで全て広ーい農事試作場と測候所があっただけで、公有地なので少なくとも一般人は住めなかったはずです。
農事試作場が永山へ移転したため、跡地に地図にも載っている上川中学や営林區署ができ、すぐ隣には高等小学校もできました。
で、まず考えられるのが、場所的にこれら役所や学校の官舎住宅がこの一画に集約して建てられたのでは?ということです。
つまり今で言う公務員住宅団地ですね。
一部は民間にも払い下げられ、利便施設としての民間市場が設けられた・・・

あくまで推測に過ぎませんが、私が思いつくのはそんなところです。

 

Re: 市役所の老朽化?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 3月31日(木)15時20分1秒
返信・引用
  そういえば・・・

私としたことがうっかりしてましたが、
↓旧北鎮兵事記念館だって昭和10年(1935年)の建築ですから、80年以上経ってる訳ですよね。
http://homepage2.nifty.com/momonga_farm/gunto/pichtml/kinenkan1.html

1990年に改修工事を行なってるようですが、たぶん屋根や外壁等だけだと思います。
昨年、国の登録有形文化財に指定されましたよね。
 

明治43年旭川明細全図

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 3月31日(木)15時06分43秒
返信・引用
  旭川の歴史に詳しいmomongaさんに質問です。
実は最近、図書館の地図で明治43年の「旭川明細全図」という地図を見つけました。
かなり詳細なもので資料として一級品です。
その地図を見ながらの質問なんです。
http://www3.library.pref.hokkaido.jp/digitallibrary/dsearch/da/detail.php?libno=53&data_id=2-30462-0
その地図では町の区割りといいますか、地番のようなものも書かれています。
中心部は一区画が10に割られており、○○条通り○丁目左○号という昔の住所に沿った書き方になっています。
明治43年というと馬車鉄道が走っており、第七師団も出来上がり日露戦争後の第一次世界大戦前という時代ですね。
駅前に人が大勢住み、中心部に官庁があつまり上の方に共有地が広がっています。
注目したのは測候所、営林區署の上に住所が付いています。
もう一か所9条通り15丁目辺りにも住所が付いています。
私のこれまでの経験から、こういった場所にはかなり前から人が住んでいたと思われます。15丁目は新師団道路と書かれていますので、ここを通って旭川市街に入ってきた多分兵隊さん相手にした商売をしていた人が住んでいたのかなぁ。なんて想像はするのですが、良くわかりません。
そしてもう一か所の8条9条の10丁目辺りの番地が2191-2から2191-10までの地番がふられています。
現在のNTTがある辺りかと思いますが、ここにも既に人が住んでいたと思われます。
その為現在でも8条通りはこの辺りで通っていないんですよね。
質問が最後になってしまいましたが、明治43年当時この住所の付いているあたりはどんな様子だったのでしょうか?
この地図は他にも面白い部分があって見飽きないです。
 

市役所の老朽化?

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 3月31日(木)14時24分50秒
返信・引用
  掲示板がなかなかの盛況ぶりですね。
ちょっと私が入りにくい話題で寂しく見ています(^^;
さて少し前に市役所が老朽化しているってことは無いのではないかという、長文を書いたことがありましたが、昨日の道新に興味深い記事がありましたので紹介します。
それは30日付けの北海道新聞29面に札幌の資料館かいわいを紹介したものですが、資料館よりももっと古い現役の建物として南1西13丁目の三誠ビルが紹介されています。
http://sapporo-jouhoukan.jp/sapporo-siryoukan/bunkaisan/017.html
いまも現役で使われているこの建物、建設年はなんと大正13年です。
鉄筋コンクリート3階建ての建てものは築92年という事になります。
築92年の鉄筋コンクリート建物を目の前にして、昭和30年代の建物を簡単に老朽化と呼ぶことが出来るのでしょうか。
確かに旭川市庁舎は耐震基準を満たしていないため、対策が必要です。
対策が必要なのは耐震の為であって老朽化の為ではありません。
まるで見当違いに聞こえるかもしれませんが、メンテナンスさえ行えばまだまだ十分に使える建築物を「老朽化」といって壊してしまうのは、まるで飼い犬や猫を「年を取ったので捨ててしまえ」といっているようにも感じるのです。
まして優れたデザイン性をもつ旭川市役所を老朽化と言い放つ事には強い憤りを覚えるものです。
仮に新市庁舎を建てるのであれば、鉄筋コンクリートの建物は100年以上もつという事を前提にして、公共建築物は作っていただきたい。
優れた意匠を持つ物であればなおの事長く残してゆこうと思うはずです。
だからつまらないデザインの50年で取り壊されるようなものは作るなと言いたいです。
ps.
知らないという人も多いだろうと思うのですが、市役所の斜め前にひっそりと建つ、地味なNTTの6階建ての鉄筋コンクリートのビルは市役所よりももっと古いビルなんですよ。

 

>クリオネさん

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 3月31日(木)11時38分6秒
返信・引用
  ひっそりと書き込まれていたのでレスを忘れてました。(笑)

書店で扱ってるような、いわゆる市販の単行本で開村前後に詳しく触れている本はないと思います。
それこそ「旭川市史」になってしまいます。
図書館(閉架)や古本屋さんへ行けば昔刊行された郷土史関連の本が若干ありますが、
ほどんどの場合この「旭川市史」がベースになっています。
概要を知りたいのであれば、昭和45年に旭川市が発刊した「旭川80年のあゆみ」は、旭川市史を簡潔にまとめたもので読みやすいですよ。
あと、私が感銘を受けたのが、やはり故松井恒幸氏の「”旭川”地名についての考察」です。
これは本ではなく研究報告書ですが、中央図書館へ行けばコピーしてくれます。

突っ込んだ郷土史を知りたいならば、あとはただひたすら自分での資料探しみたいなもので、それが楽しいんですよ。
 

>五黄の虎さん

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 3月31日(木)10時56分24秒
返信・引用
  ドン・キホーテは以前からエクスなど中心街ビルへの出店が取り沙汰されていますが、
私は旭川駅東口向かいの高架下がぴったしだと思います。

あそこをアメ横のような場所にできたら、というのが以前からの私の持論です。
http://9008.teacup.com/momonga_farm/bbs/1001

 

西武

 投稿者:五黄の虎メール  投稿日:2016年 3月31日(木)10時09分29秒
返信・引用
  オクノにドン・キホーテが出店する方向で進んでいましたが、契約寸前で白紙撤回。

ドン・キホーテは、西武のA館に出店する交渉をはじめているようです。

B館が、パチンコ店ならないよう祈っています。
 

皆さん

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 3月31日(木)00時08分45秒
返信・引用
  活発な書き込みありがとうございます。
普段、まったりとしている当掲示板が何やらいきなり活気づいてまいりました。(笑)
時節柄、やはり新幹線ネタが多いですね。


在札幌の政財界の人々のこれまでの話を聞く限り、
北海道新幹線というのはあくまで”札幌新幹線”であり、今回の新函館北斗までの開通はその中途過程に過ぎず、
まして旭川延伸なんて心の隅にも置いてないよ、といった印象です。
都市規模から言ってまずは札幌までというのは当然の事だと思いますが、
どこか「札幌にさえ繋がればもうそれでいい」といった論調が感じられます。
北海道新幹線というのは、実は旭川までが基本計画路線に指定されており、旭川が終点なんですけどね。

私も五黄の虎さんが言われたように、今回高橋知事が思い出したように言い出した旭川延伸は、
開通のドンチャン騒ぎの中でどこか蚊帳の外になってる旭川へのリップサービスのような気がします。
ま、どんな形であれ、もし旭川まで延伸されたとしても私はそれまで生きている自信はありませんけど。(笑)



気になる報道がありましたのでもう一つ。
西川市長と経済人代表が、西武存続のための陳情を行なったとの事ですが、
『何とか旭川店を存続してほしい』『存続を要望している段階でその先を考えるのはおかしな話』という旨の報道がありました。
という事は、撤退までわずか半年しかないのに撤退後の方策をそれまで何も講じないという事になります。

既に決定した企業方針をひっくり返すだけの自信があるなら別です。
撤退を踏み留まらせるだけの何らかの提案を今回の陳情に携えて行ったのでしょうか?
いつものような『旭川市としてできる限りの協力を惜しまない』程度の提案では、聞く耳もってもらえないのは明らかです。
今回は、前回のような丸井今井の撤退劇はないのですから。

現状維持にかじりついていては、それだけ撤退後の対策を遅らせるだけです。
今、西武サイドと交渉すべきなのは、
百貨店事業は撤退したとしても、駅前のあの巨大な建物を空家にしないために、
業態を変えてでも西武側(セブン&アイホールディングス)の協力を取り付ける事ではないでしょうか。


 

官依存

 投稿者:五黄の虎メール  投稿日:2016年 3月30日(水)15時45分18秒
返信・引用 編集済
  momonga様

官依存で生きているのは、土木建築関連産業くらいで、一般の市民には空気のように上水道、下水道、道路、学校、社会保険、年金などが存在しています。日本では。

しかし、民間でも東芝、シャープのようにリーダーの判断ミスで危機に陥るように、国も自治体もリーダーの資質で全く違う結果が現出するのだと思います。

西武の存在が欠かせないと考えていたなら、西武のトップと普段から人間関係をつくり、年に一度や二度は会食をするとかして、相手の本音をおさえておくべきです。

西武の意向も確認せず、西武の前に駐車場、駐輪場をつくったり、九億円もかけてキャノピーをつくってあげたり片思いでした。

市長の仕事は、旭川市のグランドデザインをつくって市民のコンセンサス得て、それに沿って街づくりをすることだと思います。

どっちに向かうのか西川市長の考えがわからないのです。

買物公園のりニューワルに確か30億円以上のお金が費やされ、大理石を張りつめました。

しかし、銀座通りの惨状をどうご覧になりますか。せめて、電線の地中化くらいしてあげてほしいと市長に二回くらい話しています。

余りにも不満が堪っていてその一部を思うままに吐き出してしまいましたがお許しください。
 

(無題)

 投稿者:クリオネ  投稿日:2016年 3月30日(水)11時21分46秒
返信・引用
  こんにちは。
お返事有難うございます。
>旭川の開村前夜は面白いですよ
何か分かるような本などありますでしょうか?
 

ミニ新幹線

 投稿者:五黄の虎メール  投稿日:2016年 3月30日(水)11時19分42秒
返信・引用
  永遠の旅人さん

私もあなたの提案に大賛成です。現在踏切の問題もあるのでしょうか。130Kmで運行して

いるようですが、10年も経てば150Kmも夢ではないでしょう。

しかし、永遠の旅人さんの鉄道に関する知識は半端じゃないですね。


 

Re: 新幹線

 投稿者:永遠の旅人メール  投稿日:2016年 3月29日(火)23時43分48秒
返信・引用
  五黄の虎さん
返信ありがとうございます。
高橋知事の話はもちろん存じ上げております。
旭川まで新幹線が来ればいいなと私も思います。
ただしフル規格はもちろんのことフリーゲージ規格も難しいのではないかと思います。
そこで秋田・山形新幹線のようなミニ新幹線がいいのではないかと思うのです。
既に実績があり、新しい技術がいらないので地元旭川と北海道知事のヤル気さえあれば札幌と同時開業も夢ではありません。
秋田新幹線は田沢湖線という急勾配、急カーブが連続する在来線を広軌(新幹線と同じ幅のレール)で整備したため、制限速度が60km/h程度の場所もあり、盛岡からの所要時間は距離が遠い新青森よりも長くなりますが、乗り換えなく東京や仙台に行ける利便性から乗車率はかなり高い状態をキープしています。
旭川~札幌の函館本線は線形や勾配が緩く、秋田・山形新幹線に比べてスピードアップが図れます。
札幌への所要時間はほとんどスーパーカムイと変わらないでしょうが、東京のみならず函館や東北、北関東の各都市に乗り換えなく行けるようになるとビジネスチャンスは広がります。(現状は新函館北斗発着の新幹線は福島県と栃木県に停車しないので乗り換えなしという訳には参りませんが…)
 

新幹線

 投稿者:五黄の虎メール  投稿日:2016年 3月29日(火)14時00分36秒
返信・引用 編集済
  永遠の旅人さん

山形新幹線(通称)件はご指摘のとうりでした。ありがとうございます。

しかし、高橋知事の発言は事実です。

旭川市民へのリップサービスかもしれませんが......
 

Re: 京四郎さん

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 3月29日(火)12時50分56秒
返信・引用
  momongaさんへ

あまりここでは関係の無い話としてこの話題は避けておりましたが~

> さすがに旭山まで新幹線とは考えませんが、電気軌道が復活したらなぁ、くらいは考えますよ。
> せっかく四方に延びるJR軌道があるのだから、これを生かしたいなぁ、とも常々思ってます。

旭山動物園の最寄り駅は「北日ノ出」で次に近いのが「桜岡」になります
どちらにしても徒歩圏とは言い難い駅なのでそこからバスを出すようにしなくてはなりません

> そういった想いって、郷土を盛り上げる為にはすごく大事じゃないかな・・・

旭川には立派な空港(東神楽ですが)があるのですがココも最寄り駅は「西聖和」で徒歩圏とは思えない距離
空港直結の線路を引き直す方が良いのではと考えています

一時期そんな話題もあったりしましたが現実になる事無くお蔵入りになったのでしょう

あくまでも在来線は旭川~富良野を結ぶ路線として残し、新たに旭川~空港~旭山~桜岡に出る「空港線」を結ぶ事により札幌圏からはもとより、本州からのお客様も直結、さらには道東圏からの集客が見込まれる線路になるのでは?と考えます

新幹線が札幌まで伸びるのが2030年、その先は伸びることなく一極集中になってしまう気がします

寂れゆく旭川を想像したくないし、そうならないためにも旭川の歴史を活かしていかなければと考えます




 

Momongaさん

 投稿者:京四郎  投稿日:2016年 3月29日(火)10時33分11秒
返信・引用
  お返事ありがとうございます。

新幹線のことは詳しくないのですが、やはりインパクトとして「新旭川駅」とかよりも「動物園駅」という名称は捨てがたい気がします。

名前だけ動物園駅にして、実際は山の麓の辺りに設置し、駅から動物園の門までバスか何かを繋げばどうでしょうかね。開発が進んで自然が破壊されると、地元民としてはちょっと悲しくなりますが。。

横やりですが、土日のフィールはご存知ですか?僕は子供を連れてフィールのモリモリパークに行くのですが、土日は半端じゃなく人が集結してとんでもないことになってますよ。旭川はシングルマザーも多いようなので、この手の子供向けの無料施設を市が展開するのは、人集めには非常に効果的だと思います。

大学の教授が言うには、駅前をビジネス街に作り替えた方がいいそうですね。
 

なかなか厳しいかも?

 投稿者:永遠の旅人メール  投稿日:2016年 3月29日(火)00時30分47秒
返信・引用
  momongaさん
返信ありがとうございます。
旭川駅前は末期的な状態ではない。
私も少なくともイオンモールが出店を決めた段階ではそう思っておりました。
しかし最近旭川を訪ねる機会があり、買物公園を歩いて見た感想はイオンモール独り勝ち。西武は閑散、フィールもテナントが抜け、マルカツ、オクノに至ってはワンフロアがまるっと閉鎖。エクスだって1階にツルハとラオックスが入るのみ。
買物公園も以前は四条以北の問題だった空き店舗が二条や三条でも目立ってきました。
人口減少に可処分所得減少という環境下に加え、イオンモール一つで西武とフィールの売場面積を上回るのですから無理もないでしょう。
安易に西武跡に市役所移転という訳ではありませんが、ちょうど市役所新築のタイミングでもあり、新築となれば財政負担も少なくないわけです。
市役所には毎日職員と来訪者が訪れ、しかも駐車場が少ない事が幸いし、通勤する職員や来訪者がJRや路線バスを使う事で地域経済と環境保護にも寄与するのではないでしょうか。
あと、旭川は同規模の都市と比べて中心部にマンションが少ないですよね。
まずは都心部の人口を増やす事に注力すべきかと思います。

五黄の虎さん
恐れ入りますが、山形や秋田新幹線はフリーゲージトレインではありません。
在来線のトンネルに合わせて車体を小型化していますが、レール幅は新幹線と同じ広軌のため東北新幹線からそのまま乗り入れる事が可能です。
フリーゲージトレインは長崎新幹線で佐賀県内の狭軌区間(在来線)を通過するために導入が検討されていますが、今のところ技術的に確立されていません。
積雪の多い北海道ではかなり困難だと言わざるを得ません。

 

(無題)

 投稿者:五黄の虎メール  投稿日:2016年 3月28日(月)14時33分9秒
返信・引用
  新幹線に関しては、高橋知事が旭川までの延伸を何度も発言しています。
山形方式のフリーゲージトレインです。札幌で広軌のゲージを狭軌に切り替えて在来線を新幹線が走るのです。(道新3月26日朝刊2面)
どのような結果になるか想像つきませんが、ターミナル効果はあるのではないでしょうか。
 

Re: 京四郎さん

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 3月27日(日)23時24分31秒
返信・引用
  はじめてかと思いますが、投稿ありがとうございます。

私も旭川に関して色々と妄想する人間です。
そこはまあ、この掲示板の過去を見ていただければ分かっていただけるかと思いますが(笑)
さすがに旭山まで新幹線とは考えませんが、電気軌道が復活したらなぁ、くらいは考えますよ。
せっかく四方に延びるJR軌道があるのだから、これを生かしたいなぁ、とも常々思ってます。

そういった想いって、郷土を盛り上げる為にはすごく大事じゃないかな・・・

 

Re: お久しぶりです

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 3月27日(日)22時55分15秒
返信・引用
  永遠の旅人さん、お久しぶりです。

先に書き込んだ通り、私は民間の商業活動に必要以上に市が関与するのは筋違いだと考えています。
郊外大型店への流出や中心商店街・百貨店の衰退は全国的な時代の流れだし、これらに対し自治体が全て何とかしろと言うのも酷な話です。
まして、現時点で100億以上の商業需要を有している駅前一等地に何故わざわざ市役所機能を据えなければならないのでしょう?
それをやるとすればいよいよ民間需要が無くなった時の末期的症状ではないでしょうか。
旭川はまだそこまで行ってないように思います。

例えばパスポートセンターのような窓口業務を、あくまで市民の利便性を目的に設けるのなら分かります。
それは利便性と民間補助の一石二鳥かと思います。
が、何よりも今、市が考えなくてはならないのは駅前の一等地を商業地として保全する環境づくりではないでしょうか。

公有スペースとしての買物公園を旭川の「顔」として位置付ける限りそれは急務かと思います。
そのためにはまずは行政として戦略的な企画があるべきですが、どうもそれが全く感じられないのが残念ですね。


 

Re: 初めまして

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 3月27日(日)22時46分29秒
返信・引用
  クリオネさん、はじめまして。
当サイトへのご訪問ありがとうございます。

私が旭川の地名由来や歴史に興味を持ったきっかけも、まさにクリオネさんと同じ理由からです。
地名のアイヌ語意訳には全くと言って良いほど説得力も何も感じませんでした。
詳しく調べて行くと大きな矛盾もあります。
旭川・永山・神居・神楽など、この地に付けられた地名は、実は考える必要など無いほどその漢字を見れば明らかなのです。

クリオネさんも興味を持たれたならば、是非ご自分なりに研究を深められることをお勧めします。
旭川の開村前夜は面白いですよ。

 

(無題)

 投稿者:京四郎  投稿日:2016年 3月26日(土)22時51分9秒
返信・引用
  海外の観光客が増えている間は、西武の跡地だってルートイングランデみたいにホテルを建てれば活性化に役立つでしょう。

東北の震災のような出来事があれば、今度こそ旭川が防災面で極めて優れていることを全国にPRして欲しいですね。泊原発がメルトダウンすれば、まず札幌はおしまいです(旭川経済も一緒に打撃を受けるでしょうが)。

個人的には、南永山駅をパワーズ敷地内へ移動させて、あそこの踏切をスムーズにしたり、観光客がラーメン村へ行きやすくして欲しいですね。残念ながらアカチャン本舗が更地になっちゃいましたが、ラーメン村とうまくコラボさせるなど、パワーズにはまだ可能性が秘められていると思います。

そしていつか新幹線が「旭山動物園駅」に…、などと夢ばかり見ています。

ライナーに、新しくオープンする喫茶店が豊岡と、あと一つどこだかにあると載ってましたね。旭川を盛り上げてくれそうなところには、微力ながら足を運んでみようと思います。
 

お久しぶりです

 投稿者:永遠の旅人メール  投稿日:2016年 3月26日(土)00時12分51秒
返信・引用
  最近の西武撤退や消滅可能性都市へのランキングなど暗い話題の多い旭川 。
故郷が寂れていくのは悲しいです。五黄の寅さんの嘆きにも共感します。
国策により開拓され、その後陸軍や国鉄がこの街の経済を支えて来た歴史を振り返るとなかなか変われないのかなとも思います。
意外なのは公営交通機関もないし、丸井今井撤退の際の市の対応を見ても官依存と言うほど市も仕事してないですよね(笑)
良いか悪いかは別として普通の自治体なら市役所機能を移転するとかもっと頑張ってますよ。
丸井今井の時も極東証券、ESTA閉店の時もイオンモールと全て外部資本任せ。そもそも西武だってマルカツ、丸井今井を差し置いて地域一番店の地位を欲しいままに駅前に40年も君臨してきました。
花巻のマルカン百貨店みたいに地元から声が上がればいいんでしょうけど旭川では厳しいかもしれません。
 

初めまして

 投稿者:クリオネ  投稿日:2016年 3月25日(金)02時46分10秒
返信・引用
  旭川を調べているとここへたどり着きました。
旭川=チュプ・ペッ 旭川市のHPを何度見ても、ん?と思っていました。
北海道=アイヌ語地名が多いとはいえ、余りにもこじつけ過ぎているのでは?と。
前に何かの資料かサイトで、旭川は永山武四郎が名づけたと書いてあったのを見た事があります。
アイヌ語に無理やり感じを当てはめた物が今の地名で、発音はほぼ同じか似ているけれど、旭川=チュプ・ペッって、誰が聞いても???だと思うのです。
でも、ここのHPを読んでいて納得しました。
謎が一つ解けたと言う感じでスッキリしました。
自分の住んでる旭川を知らない・・・ここで色々勉強させて頂きました。
有難うございます。
 

Re: 戦略

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 3月25日(金)00時52分16秒
返信・引用 編集済
  >>モリゴロウさん

代弁ありがとうございます。
当掲示板は、旭川に関する事であれば基本的にどんな書き込みでもOKと謳っておりますので、
五黄の虎さんの話題もぜんぜん構いませんよ。




>>五黄の虎さん

実は私が旭川で最も嫌いなところが官依存体質です。
この官依存が高じて地元民間企業においても何かと言えば他人のせいにしたり頼ったりするという体質が根付いてる気がします。

イオンの進出も、西武の撤退も、平和通りの衰退も、
結局のところ全て民間の経済活動なのであって、本来は行政が関与するような問題ではありません。
若者が正社員として働く場の問題も、労働者の待遇の問題も、市が雇用してる訳ではないので市に文句を言っても始まりません。
市が直接関与できるとすれば、民間企業が進出し易い環境づくりと、積極的な誘致活動だと思います。
その意味では五黄の虎さんが言われるように、旭川の利点を生かせてないのが現状なのは間違いありません。

ただ、、、
未だに土建屋主導の経済界・市政が続いてるとすればそれはそれで問題ですが、
正直申し上げて、五黄の虎さんのここまでの発言にも、市が全て何とかしろ、といった官依存を感じてしまうのですが・・・
意図と違っていたらごめんなさい。

 

Re: 戦略

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 3月24日(木)18時38分57秒
返信・引用
  > No.1155[元記事へ]

五黄の虎さんへ

はじめまして

初めての方に失礼とは思いますが、貴殿のお話しはこの掲示板向きの話ではない気がします


> しかし、わたしは西武百貨店の事をメインに話をしているのではありません。
>
> 旭川が、消滅都市のリストにはいっている情けない街であることを嘆いているのです。

確かにその通りです

今は人口34万人を切った旭川です

観光と言えば動物園くらいで今までのメインの産業も衰退しています

しかし愚痴ばかりでは何も始まりません

何か働きかけるものがなければ

愚痴を並べるのなら他のサイトではないでしょうか?


> この恵まれた環境を、市長に活かしきってほしい。

貴殿は具体的にはどのような環境をどう活かしきるお考えがありこのサイトに書き込みをされたのでしょうか?

ココで「温故知新」を見つけて「路面電車を復活させたい」などのご意見を書き込むのであれば

このサイトの趣旨に合うお話になると思いますがいかがでしょうか?


確かに大きな箱モノを作るのも市外の業者さんが入札し、市内業者さんは下請け孫請けです

それじゃ雇用も生まれないし立派な建物自体メイドイン旭川ではありませんよね

西武が撤退する事も大きな痛手でしょうが閑散としたフードテラス、街中交流館をもっと利用価値の高いものにするなど、あるモノを有効利用した街づくりで活性化できると思います

私は自分なりに意見を持って色々な働きかけをしています(成果は出ていませんが)汗

生意気を言いましたが

お気持ちは痛いほどわかりますので失礼ながら書き込みさせて頂きました

 

戦略

 投稿者:五黄の虎メール  投稿日:2016年 3月21日(月)16時14分18秒
返信・引用 編集済
  ご丁寧な回答ありがとうございました。

しかし、わたしは西武百貨店の事をメインに話をしているのではありません。

旭川が、消滅都市のリストにはいっている情けない街であることを嘆いているのです。

西川市長には、結構よく合う立場ですが、旭川活性化のメニューを全く持っていない。

ここに危機感を抱いているのです。

東川町長を旭川に迎えたいくらいだ。

47都道府県全部言ったことがあるけれど、旭川ほど恵まれた街はほとんどないですよ。

この恵まれた環境を、市長に活かしきってほしい。

広野組の社長が市役所の人事、商工会議所の人事を握っていた時ほどではないけれども、

また三役五人の内三人が土建がらみだ。相変わらず土建会議所です

市民が景気が悪くて苦しんでいるのに新市役所、武道館。

旭川の就業人口の80%を占める第三次産業で働く労働者の待遇が改善してからにしてほしい。

若者が正社員で働ける場所を作ることが最優先だと思います。
 

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