投稿者
 メール
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL


Re: 明治?の土手道

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月12日(木)12時09分46秒
返信・引用
  > No.1232[元記事へ]

かんじさんへ

私は段差だの土手だのと言ってましたが、正式には「河岸段丘」と呼ぶんですか・・
タモリなら最初から正確に言い当てるでしょうね。(笑)
人為的に造った土手とか堤防ではないのは私にもすぐ判りました。

今回たまたまこの付近に用事があって、⑤の場所(たぶん医療センターの敷地で昔は野球グランドがあった)が小山のように盛り上がっている事に気付いた事が始まりです。
この時はまだ雪の残ってる時期だったので、雪が無くなったら改めて見にこようと思ってたんですが、
実はこの時点でもまだすぐ目と鼻の先にある件の土手道に気付いてなかったんです。
地図で見たら湾曲した道があるはずだ・・・あれ?てな訳です。

川のマチですから、探せばもしかしたらまだあるかもしれません。

 

Re: 明治・大正の旭川

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月12日(木)11時26分20秒
返信・引用
  > No.1231[元記事へ]

かんじさんへ

私もこの地図の写真撮ったんですが、帰ってから拡大して読もうと思ったらピントが甘くてボケて読めずにいました。助かります。(^^ゞ
改めて読むと、まさに宅地販売のパンフレット宣伝文句のようですね。
ただし書いてある事は非常に先見性のあるまともな見方だと思います。
この地図は岐阜図書館も所蔵しているようですが、複数存在するのかな?


私も同じ論文を見て中外拓殖株式会社について知りました。
自分の持つ資料にこの名はないと思い、迷わずググることから始めましたが、ほとんどまともにヒットしないですよね。
唯一探し当てたのがこの論文でしたが、さすが学術論文らしく設立人物像が詳しく記述されてますね。
ついでながら全文をザーと流し読みして見ましたが、
設立者は北海道への入殖経験があり、その後色々な事業を手がけて山師的要素もあったらしい事と、
中外拓殖の設立当初は社名も別で銀行業を営んだ事、商売替えして社名を変えて増資の時に拓銀も絡んだようですね。
今で言う不動産デベロッパーに相当するのかも知れませんが、実際の宅地造成までやったのかな?
北海道においては何となく投機的な匂いがします。


あとちょっと気を引いたのが、
この地図は陸軍大演習での新橋架橋が決まっている事から考えて、大正13、4年頃のものに間違いないと思われますが、
この時点で牛朱別川の埋め立て宅地化も記載されている事です。
牛朱別川切り替え工事が始まる5、6年も前に既に予定されていたという事になりますね。
 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月11日(水)17時43分30秒
返信・引用
  > No.1229[元記事へ]

momongaさんへ

まるでブラタモリですね(^^;
明治期の地図に載っている「河岸段丘」がそのまま現在でも住宅地に残っているなんて、、。
実はmomongaさんご指摘の場所を私も今日見てきました。
実際に行ってみると写真よりもさらにはっきりと段差を感じる事が出来ました。
写真の1,2,3,4辺りはその落差3m以上もありそうですね。

河川の名残と言えば、牛朱別川の切り替え跡や西高の辺りの石狩川の大蛇行の跡なんかが有名ですが、こうして住宅地の中に残る河川の跡を探し当てるなんてさすがです。
この段差が旭川市の成り立ちにまで関連していれば、ブラタモリそのものなのですが、、、。

 

Re: 明治・大正の旭川

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月11日(水)15時15分30秒
返信・引用 編集済
  > No.1230[元記事へ]

モリゴロウさんへ

画像の掲載ありがとうございます。
こういう地図はわくわくしますよ。
で、本日私も企画展に行ってきました。
感想は皆さんのおっしゃるように「もの足りない」って感じです。
アンケートにも書いちゃった(^^;

中でも一番関心があったのは、確かにこの中外拓殖株式会社の地図ですね。
確かこの場所は亜麻工場があった場所だと思いましたが、明治41年の明細全図では
1485番という地番が付いていますので、販売の準備が出来ていたんでしょうね。
中外拓殖株式会社の地図の年代がハッキリしないのですが、
書かれている文章を読むと大正13年~14年の頃だと解ります。
大正期にはこうやって大規模に宅地を開発会社に売って開発するということもやったんですね。
そうしなければ、急激に増大する旭川への人口流入に対応できなかったのでしょう。

momongaさんへ
中外拓殖株式会社について良くわかりましたね。
私は以下の文章の中に見つけました。
同じかな。
http://www.biwako.shiga-u.ac.jp/eml/Ronso/399/ogawa.pdf
凄く大きな開発会社ですね。
図面の左下の文章を読むと、この宅地の利点が長々と書かれて言います。
図面作成時にはまだ新橋が出来ていないようですが、大正14年9月に5個師団の工兵隊総合作業で橋を架けると書いてあります。
今でいう、宅地販売のパンフレットなんでしょうね。
非常に面白いです。
 

Re: 明治・大正の旭川

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 5月11日(水)10時04分36秒
返信・引用
  > No.1228[元記事へ]

momongaさんへ

同じところに関心を持っていたなんて嬉しくなります!

かんじサンが喜ぶかもとの事で

撮影した地図の一部を掲載します

「河川敷地を宅地に転用する」と書いてありましたので

不動産関係の会社だろうと思いましたが、名前だけで見ると薬品会社か銀行系かと思いました(笑)

展示期間中にこの地図をもう一度ゆっくり見たいと思いました
 

明治?の土手道

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月10日(火)22時08分35秒
返信・引用
  以前、かつての新師団通りを辿っていた時に見逃していたのですが、
旧秋月橋が架かっていた辺りの右岸堤防沿いの新師団道路に並ぶように、もう一本曲りくねった道路が地図に載っています。
「はて?こんな道路って実際にあったかな・・」と思いつつ、この雪融けを待ってブラタモリごっこしてきました。

気が付かなかったはずです。
医療センター側の旧新師団道路を行くと、
街路沿いの民家の脇から、まるで敷地の裏手に入り込んで行くような、一見して公共道路とは思えないような細い道でした。
しかも道の側面は、タモリも大好きな大きな段差ではありませんか。(^^)v


明らかに昔の川っ淵の様相です。
石狩川の古い土手道がそのまま残ったという感じですね。
その写真が①②③④です。(医療センターの反対側から順に撮ってみました)
この古い土手道は200mくらいしかないのですが、
老人ホームを挟んだ延長線上、ちょうど医療センターの裏手の様子が⑤です。

さらに逆の環状線方面、そういえば石狩川近くの市道の所々に小さな坂があった事を思い出し、付近を探索してみました。
すぐ近くの道路にあった坂が⑥であり、さらに環状線を越えてベルコの裏手にあった坂が⑦です。
これ以外にも小さな坂が随所にあり、浄水場付近まで見る事ができましたがあまり明確ではありません。

でもって、現在のGoogleEarthと旧地形が明確に判る昭和23年の航空写真に撮影ポイントをプロットしてみました。
本当はかんじさんのように重ね合わせたかったのですが・・・ツール持ってません。(^^ゞ
でもぴったしかんかんでしたね。


この土手道がいつ頃のものなのか昔の地図を確認してみたところ、思った以上に古いみたいです。
明治33年の地図では、石狩川の分流がこの付近まで迫っており、
おそらくこの流れに削られてできたであろう土手(段差)が師団練兵場まで食い込んで描かれています。
つまりこの頃既に現在に至る地形が形成されていたと思われます。

地図でははっきりしませんが、大正時代に部分的ではあるものの現在の位置に堤防が築き始められているようです。
また、件の土手沿いには数戸の民家も描かれています。
以降、堤防がいつ頃完成したのか分かりませんが、既に民家があった事から古い土手道はそのまま残されたようです。
戦後の航空写真を見ても、民家があった部分の道路が最後まで残った事がはっきり見て取れます。


いやはや、旭川にもまだこんな道が、それもフラットだと思い込んでいた末広地区にあった事にちょっと感激です。
GW中のささやかなブラタモリごっこでした。


 

Re: 明治・大正の旭川

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月10日(火)16時03分4秒
返信・引用 編集済
  モリゴロウさんへ

今回私が展示物の中で一番興味を引かれたのが、実はその『中外拓殖株式会社所有地連絡図』でした。
土地の所有を表していますので、地割図になっています。
おそらくかんじさんも食いつくのではないでしょうか。(笑)

先般、当掲示板で話題となったのが明治期の地割図でしたが、この地図は大正期のものですね。
牛朱別川切替え前の新町一帯が、このように民間会社の所有地になっていた事を私も初めて知りました。

この地図・会社について何の説明も記されてなかったのでちょっと調べてみたら、
この中外拓殖株式会社なる会社は明治44年に設立された東京本社の会社で、不動産売買・仲介会社らしいですね。
殖民政策で開発著しい当時の北海道をはじめ、湘南や軽井沢・嬬恋・草津方面の別荘地なども所有してたらしいです。
おそらく土地を右から左へ売買して儲ける、現在で言う投機目的の不動産会社ではなかったかと思われます。


地図1枚でもそこそこ色んな情報を読み取れる・・・楽しいですね。(^^)

 

Re: ②旭川における忠霊堂経緯

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月10日(火)14時59分26秒
返信・引用
  > No.1225[元記事へ]

sadakitiさん、なんと8年前のほりさんへのレスですネ。^_^;

おっしゃる通り、あれは忠魂碑跡です。
花咲運動公園内にある現在の碑と比べると、昔の忠魂碑や忠霊堂はそれなりに立派でしたよね。
だんだんとそういった記憶が薄れ、敬う気持も薄れて行くのは本当に残念です。

 

Re: 明治・大正の旭川

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 5月10日(火)13時03分33秒
返信・引用
  > No.1224[元記事へ]

momongaさんへ

私は2日に行ってまいりました

おっしゃる通り、ちょっと視点が違うような気がしましたが
初めて知る事もあり、また興味が湧いてきました

現「医療センター」(旧道北病院)の道路を挟んだ真向いに「北鎮病院」があったとか

中外拓殖株式会社なる所が住宅地図を作っていたとか

旭川!奥が深いと感じました
 

Re: ②旭川における忠霊堂経緯

 投稿者:sadakiti  投稿日:2016年 5月 8日(日)22時53分26秒
返信・引用
  本日初めて「蘆花寄生木ゆかりの地」の石碑を見ました。その右側に道があり行ってみると大きな土台に旧陸軍の石柱(高さ1m幅10cm位)が2つ立てかけてあって。公園内の案内図には何があったのかは明示されていなくて。ここにある画像の跡地だったのでしょうか?

娘とナムナムしてきましたが、戦中に引っ越ししたとは言え、とても残念な感じがしました。
約30年前になってしまいますが高校生活の罰ゲームで新忠霊堂周辺の清掃活動させられた(恥)時に由来を教えていただいた記憶があります。

何か色々残念ですが、教えていただいてありがとうございます。

 

明治・大正の旭川

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月 8日(日)14時41分18秒
返信・引用 編集済
  モリゴロウさんに教えていただいた『明治・大正の旭川 街のおこりと軍都の成り立ち』へ行ってまいりました。
結局5日の日に行ってきたのですが、道新には7日の朝刊でようやくイベントの紹介がされてましたね。

感想としては、展示品が限られていたので「見ごたえ」という点では物足りなさを感じましたが、
その分厳選した感もあって、一品一品の中には初めてお目にかかるものも何点か見受けられました。
大正期と思われるちょっと興味深い地割図もありましたよ。
ただ、表題にある『街のおこりと軍都の成り立ち』という観点から言うと、その繋がりが展示物に感じられなかったのがちょっと残念でしたね。
その時どきの断片的な展示に留まったという感じです。
特に、屯田兵はともかく、何故にこの地に大師団が置かれ軍都として成り立ったのか?という視点が抜けているように思えました。

22日には学芸員さんの展示ガイドがあるようですから、もしかしたらその時また行くかもしれません。

 

Re: 油断大敵

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 4月27日(水)20時11分8秒
返信・引用
  > No.1220[元記事へ]

あずさんへ

>ただ、意図的でなく現旭川庁舎が火災にあったり地震で崩壊したとしても再建されるほどの建築物なのかというと、複雑な想いなのです。

あ、これは私もまったく同感です。
私が言ってる事の前提も、あくまで今現在まだ建物が存在しているからこその話です。
設計手法的な意味合い・価値感が強いので、当初の建物がそのまま残ってなければ殆ど意味がない訳ですね。

仮に何らかの災害で使いものにならなくなったとすれば、全く同じ形で再建してほしいとは思いません。
その時は、遠慮せず(笑)最新の耐震性を備えた新しいデザインの建物を建ててほしいと思ってます。
それこそグランドホテルに見られるような、旧建築の意匠を一部に取り入れる事も一つの手法ではないかと。
そこはやはり、外観自体に芸術的価値がある城郭・天守閣などとは一緒にならないのではないでしょうか。

先のレスでも言いましたが、現庁舎に私が望むのは、まずは「継続使用」する事です。
現時点では、保存すべき建物と呼ぶには素人目にはあまりに中途半端で多少レトロがかってきたという程度ですが、頑張ってあと20~30年くらい使えばどうでしょう?
その時こそ道庁赤レンガのような存在に成り得るのではないでしょうか?
道庁赤レンガだって国の重要文化財指定を受けたのは火災復興を経た築80年程度しか経ってない時です。
明治・大正期の文化財と言われる建物も、殆どは100年前後で指定されています。
これらは外観のデザインもさる事ながら、必ずと言って良いほど当時の建築技術の優れた面を評価されます。


こんなこと言ったら、保存を訴えてる建築家の方々に怒られるかもしれませんが、
今は現庁舎のどちらかと言うと技術的観点からの素晴らしさ・貴重性を大いに喧伝していただいて、
我々素人が、その古さにも魅力を感じる日まで建物が残るよう頑張っていただきたいと願っています。

 

Re: 博物館

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 4月27日(水)17時34分40秒
返信・引用
  > No.1219[元記事へ]

モリゴロウさんへ

情報ありがとうございます。実は私も知りませんでした。(^^ゞ
博物館にも近代史担当の学芸員の方がおられますので、たまにこういった企画をやりますよね。
たいていは道新ローカルに載るのですが・・・

私はたぶんゴールデンウィーク中に状況が許せば行くと思います。
ただ、事情あって休日でのオフ会は難しいかもしれません。
私だけでも良ければ、アドレスをメールして下されば、行く時お知らせしますよ。
ただし突然行く事になるかもしれませんので、その時はごかんべんを。

 

Re: 博物館

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 4月27日(水)11時01分33秒
返信・引用 編集済
  > No.1219[元記事へ]

モリゴロウさんへ

> ココでお話をされている皆さんはご存知と思われますが 4月29日より5月29日まで旭川市博物館で
>
> 「明治・大正期の旭川~街のおこりと軍都の成り立ち」と言う企画展があるようです

知りませんでした。情報ありがとうございます。私も是非行ってみたいです。
なんか私が現在の知りたいことそのものの企画展ですね(^^;

>かんじサンが図書館で明治時代の地図を見て来たとの事で、その地図を題材として談義する企画でも面白いのではと考えます

見てきたというより、旭川市図書館からネット上に公開されたってことですね。
新しい資料が一つ出ると、いろいろな興味や疑問が湧きあがるって感じです。

昨日、郷土史家さんと少し話して明治40年頃の地図にある「共有地」の知識を少し深めました。
明治41年の地図に有った地番のついていない共有地は、ようするにその土地を利用する複数の団体や自治体が存在し地主は居ないという土地です。
勝手には使えない土地ですが、当時の名簿によると土地と地主の他に、共有地の貸し出し名簿があり、共有地も大勢に貸し出されています。
当時の状況は旭川の人口が爆発的に膨れ上がり、住む家が不足しており勝手に住み着く人も多く区画整備や道路整備も済んでいない場所にも大勢人がいたようです。
キチンと測量し地積図を作り販売された場所は地主が存在しますが、それが間に合わなかったようで、旭川町では住所を決めたら共有地を貸出し地代をとっていたようです。
台帳によると懸案の8条10丁目は当時は○○条○丁目ではなく「測候所裏」という住所が付いています。
当時の人口が約3万人、それが現在の中央地区に居たわけです。
3万人の人口というと旭川だと春光地区が約3万人です。
ざっと見た感じ春光地区の方が広いので、現在の住宅街よりはたくさんの人がひしめき合っていたんでしょうね。
明治41年の旭川市街全図を見ると、8条10丁目の隣8条9丁目には「嘉美能温泉」があり、これが現在の8条プレジャー温泉だそうですね(@_@;)。「カイラク園」という公園があり、図書館があります。斜線で塗りつぶされた場所は人が沢山居たことを意味していますので、この辺りの共有地は貸し出され既に人が住んでいた可能性が高いと思われます。
 

Re: 油断大敵

 投稿者:あず  投稿日:2016年 4月27日(水)00時00分44秒
返信・引用
  > No.1218[元記事へ]

momongaさんへ

> これは異議有りです。(笑)
> かんじさんも言われてる通り、壊してしまったらそれで終わりです。
> また、あと2~30年も経てば外観的な骨董的価値も出てくるでしょう。
> 意図的に壊してしまったものを後年になって同じものを再建するなんて有り得ません。それこそ後の祭りです。

個人的には近代建築でも、もっと古い建物でもすべて残っていてほしいのです。
コンクリートの建物として貴重な「アサヒビル」の解体も空しい思いで見ていました。

農家さんの先代とか先々代のような家や納屋だって建築物としては同じ気持ちです。

それが市役所だから特別に保存すべきかと言うと、何が違うのか…。
なぜ昔の旭川市役所が残っていないのか、「北海道開拓の村」に移築された建物がなぜ存在するのか。

momongaさんが言う、「意図的に壊してしまったものを後年になって同じものを再建するなんて有り得ません。」は、同感です。

ただ、意図的でなく現旭川庁舎が火災にあったり地震で崩壊したとしても再建されるほどの建築物なのかというと、複雑な想いなのです。

 

博物館

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 4月26日(火)12時06分37秒
返信・引用
  ココでお話をされている皆さんはご存知と思われますが 4月29日より5月29日まで旭川市博物館で

「明治・大正期の旭川~街のおこりと軍都の成り立ち」と言う企画展があるようです

ぜひ行ってみたいと思いますが、企画展に合わせて皆さんお集まりになり「旭川談義」が出来れば面白いのになぁ~などと
勝手に考えております

かんじサンが図書館で明治時代の地図を見て来たとの事で、その地図を題材として談義する企画でも面白いのではと考えます

ぜひmomongaさん企画して下さい!

 

Re: 油断大敵

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 4月25日(月)16時14分5秒
返信・引用
  あずさんへ

>過去に賞を取った事実はありますが、近年に何かの賞を取ったでしょうか。
>過去の栄光を、子や孫の世代がさらに50年100年と残しておきたいと思うでしょうか。
>
>もし、未来においても魅力的な建物であれば、未来の建築技術で再建してくれるでしょう。


これは異議有りです。(笑)

かんじさんも言われてる通り、壊してしまったらそれで終わりです。
また、あと2~30年も経てば外観的な骨董的価値も出てくるでしょう。
意図的に壊してしまったものを後年になって同じものを再建するなんて有り得ません。それこそ後の祭りです。
だからこそ慎重な見極めが必要です。

過去に賞を取ってる事が保存を訴える理由ではありません。
受賞そのものよりも、なぜ受賞したのか?という事がまず重要だと思います。
建物の機能やデザイン等に、当時としてはたいへん斬新な設計思想・手法があったからです。
旭川に縁の深い著名な建築家が最初に手がけた公共建築という事と、その後全国の公共建築に影響を与えたという面もあります。

それに、実は2003年にドコモモ100選というのにも選出されています。
これはけっして電話会社がやってるイベントなどではなく、国際的な学術組織が”保存すべき近代建築国内100選”に選出しているのです。

No53に旭川市役所庁舎    → http://www.docomomojapan.com/registration/
DOCOMOMOについて      → http://www.docomomojapan.com/about/
旭川市庁舎の保存活用要望書 → http://www.docomomojapan.com/docomomo/wp-content/uploads/2015/12/2015_12_12-65ED5DDD5E02.pdf

数え切れないほどある国内の近代建築の、100の中に入るってすごい事だと思います。
もしかしたら日本建築学会も今後何か言って来るかもしれません。
つまり、けっして過去の栄光が取柄なのではなく、現在においてもなおその貴重性が専門家の間で認められているのです。
小樽運河なども最初そうでしたが、よく有り勝ちな、外部からの指摘によって覚醒された価値観と言えます。

我々現代人、それも素人には今すぐ分からずとも、
将来の世代が「よくぞ残してくれた!」と言ってくれる事を願うものです。



 

Re: 油断大敵

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 4月25日(月)11時09分44秒
返信・引用
  > No.1214[元記事へ]

momongaさんへ

> かんじさんへ
> 鉄筋コンクリートの現代建築物が、耐震基準が変わったせいで、たかだか60年にも満たない年数で「保存」はないと思うんですよね。
そうですね。
現段階で保存というのは違う気もします。
60年しかたっていない建物は現役で使われるべきです。
私が思うのは今利用し続ければ100年経ったときには歴史的価値も生まれるということ。
いま壊してしまえば、永久に建物は保存されないってことです。
建物は古い新しいではなく、使い続ける価値があるかどうかだと思います。
つい最近、札幌の旧文書館が北菓楼というお菓子やとなって再利用されました。
大正15年に建てられたコンクリート製の建物です。
https://prw.kyodonews.jp/opn/release/201512116387/
私は建物は時代を映す鏡だと思っています。
そういう意味で旭川市庁舎は近代モダン建築の象徴であり代表的な建物なんです。
その後の多くの建物設計に影響を与えました。
なので、できれば使用し続け後世に残すことで、「ああ、あの時代にはこんな建物があったのか」と思える社会が好きです。

> 正直言って、一般市民に建物の価値を知って保存か否かを判断しろといってもなかなか難しいかな、とも思います。
>
確かにその価値を評価し判断するというのは一市民には難しいですが、
最終的に判断するのは別の機関であるとしても、建物の利用、取り壊しの判断には
老朽化や使い勝手だけでなく、時代を映す意匠や市民への愛着度、歴史的価値といったものを
取り入れなければ古い建物はどんどん壊されることでしょう。
市民一人一人に判断しろではなく、そういった価値観をもっと高めることにより自然と
市民全体の古い建物に対する考え方が変わってゆけば、古くても良い建物はもっと残ることになるのだと思います。

 

Re: 油断大敵

 投稿者:あず  投稿日:2016年 4月22日(金)00時33分31秒
返信・引用
  > No.1212[元記事へ]

momongaさんへ

横レスでゴメンナサイ。

> 現状での旭川市の考え方は、とにかく大きな器にまとめて、しかも何故か?現在の位置が望ましいという事だけです。
> どこか役所側の都合だけのような気がします。
> 市民の窓口となる部署さえまとまっていれば、無理に全部を一つの建物にまとめる必要性は薄いのではないでしょうか。
> すぐ隣の第三庁舎を一定規模の建物に建て替えさえすれば、現庁舎・第二庁舎と合わせ、すぐ隣同士でまとまります。

私は一般市民と業者に関わる部署を分離すべきだと思います。
一般的に誕生・結婚・死亡、住民票・印鑑証明・所得照明…。
普段市役所へ行くことって少ないですよね。

個人的に支所で出来ることは支所で済ませます。
駐車場も楽ですし、当然待ち時間も短いですから。

業者に関わるというのは、例えば住居表示を取るだけのために、地下の駐車場に駐車して階段を上り1階の奥まで歩いて行くのです。

市役所のホームページにあるようなカテゴリー分けの受付を一元化すれば、かなり人の流れも変わります。

第二・三庁舎エリアは、業者向けの対応と各事務関係として再整備し、本庁舎は一般市民専用とします。
一般市民専用に特化するのですから、季節や天候にかかわらず駐車場やバス・徒歩でのあらゆる人が利用し易いようにアクセスを変更し、空いた事務スペースは市民に開放。

やがて、本庁舎寿命の際には隣地スペースに新築し、現本庁舎は解体。
賞をいただけるような建築物にすれば良い。

その頃には市民の数は少なくなっているだろうし、事務の効率化も進んでいるはずなので、職員の数も減っているはず。(笑)

 

Re: 油断大敵

 投稿者:あず  投稿日:2016年 4月21日(木)23時39分59秒
返信・引用
  > No.1214[元記事へ]

お邪魔します。

この掲示板だけでも、様々な御意見ですね…。

> 正直言って、一般市民に建物の価値を知って保存か否かを判断しろといってもなかなか難しいかな、とも思います。

仰る通りそのような判断は出来兼ねると思いますよ。
そもそも、そんなことに興味すらない方がほとんどかもしれません。

個人的に、建物の意匠性だけで残す価値があるのかと言うと無理だと思います。
つい先日、通年の一般公開となった「迎賓館赤坂離宮」レベルではありません。

過去に賞を取った事実はありますが、近年に何かの賞を取ったでしょうか。
過去の栄光を、子や孫の世代がさらに50年100年と残しておきたいと思うでしょうか。

もし、未来においても魅力的な建物であれば、未来の建築技術で再建してくれるでしょう。
しかし、城跡を保存していていれば城郭を再現することは可能でしょうが、そうもいきません。

 

Re: 油断大敵

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 4月21日(木)17時23分16秒
返信・引用
  かんじさんへ

実は私、現庁舎に対し「保存」とか「残す」という表現は相応しくないと思ってるんですよ。
鉄筋コンクリートの現代建築物が、耐震基準が変わったせいで、たかだか60年にも満たない年数で「保存」はないと思うんですよね。
現役施設なわけですから「継続使用」「継続利用」と言うのが適切な表現ではないでしょうか。
保存と言うと、文化財保存のような、プラスαの費用がかかるイメージが強くありません?

「保存するには50億かかります」と言われると「そんなに金がかかるんなら解体したほうがいい」となるし、
「50億で補修して使い続けます」と言われると「ああそれなら建て替えるよりずっと安く済む」となります。

ゴロっと考え方の基準が変わってしまうわけです。
ですから、へたに保存という言葉で訴えるのではなく、
「スクラップ&ビルドするにはあまりにももったいないから、耐震補強とリフォームを施して継続使用しましょう。
足りないスペースについて隣の第三庁舎を建て替えましょう。」
と言えば、多くの市民が納得するのではないでしょうか。
正直言って、一般市民に建物の価値を知って保存か否かを判断しろといってもなかなか難しいかな、とも思います。

 

Re: 油断大敵

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 4月21日(木)09時52分40秒
返信・引用
  momongaさんへ

> ただ私が感じるのは、現庁舎を解体するにしても保存するにしても、
> 現庁舎の建築上の価値がほとんど市民に知らしめておらず、賛否議論にすら上がってないという事が問題だと思います。

まったく同感ですね。
というか市庁舎に限らず、建物を解体建替えする時の判断基準が完全に間違っています。
老朽化、狭隘化を判断基準に建替えるなんて嘘なんです。
耐震の危険性は別として、メンテナンスだけで老朽化なんて防げます。
狭隘(せまい)?狭けりゃ別にもう一棟建てれば済むことです。
老朽化や狭隘化は単なる現象にすぎません。

なので壊すという判断基準は「残す価値があるかどうか」これに尽きます。

だから、壊すかどうかを判断するときには、「その建物の価値を物差しに懸ける必要があるのです」
価値が有るか無いか、こんな議論してないじゃないですか。


桂離宮だって法隆寺だって、残す価値があるから残っているのです。
今一度、現旭川市総合庁舎に残す価値が有るかどうかを判断できる資料を集めて、
市民全体で考える必要があるのだと思います。
その資料の中には、建築賞をとったとか近代建築100選に選ばれているとか、
とても重要な判断基準として「旭川の原風景を形作っている」とかいう内容も
残すかどうかの重要な判断材料でしょうね。

----------
ただし、私はむやみに残した方が良いとは思っていません。
耐震にしても改修するには膨大な金額がかかると思います。
おそらく50億円以上でしょう。
そこまでして残す価値があるかどうか、、、、、、、。


 

Re: 油断大敵

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 4月20日(水)22時59分29秒
返信・引用
  永遠の旅人さんへ

耐震化でデザインを損なってしまっては確かに意味がありませんよね。
いわゆる耐震構造には、大きく「耐震」「免震」「制震」の3つの技術的手法があるそうですが、
現市役所庁舎を耐震補強するとすれば免震化だろうとの事です。

けっして地震への備えは必要ないという事ではなく、
やはり一番の問題は、お金がいくらかかるのかという事に尽きると思います。
いくら技術的に可能だとはいっても、それでなくともお金のない旭川市にいったいどこまで許されるのか?という事ですよね。
川島先生がおっしゃっていた意匠保存という手法も、理由はそこにあるようです。

ただ私が感じるのは、現庁舎を解体するにしても保存するにしても、
現庁舎の建築上の価値がほとんど市民に知らしめておらず、賛否議論にすら上がってないという事が問題だと思います。

扇形車庫解体の時もそうでしたし、旧国鉄工場レンガ棟のCocodeとやらの利用方法もそうです。
必要な情報・コスト比較等を市民に周知した上で、それでも市民がNOと言うなら解体も致し方ないと思いますが、
今のままだと、狭い、古い、分散している、耐震性も問題だから建て直しが必要、どこの場所へどの規模で?
という観点でしか論じられていません。

現状での旭川市の考え方は、とにかく大きな器にまとめて、しかも何故か?現在の位置が望ましいという事だけです。
どこか役所側の都合だけのような気がします。
市民の窓口となる部署さえまとまっていれば、無理に全部を一つの建物にまとめる必要性は薄いのではないでしょうか。
すぐ隣の第三庁舎を一定規模の建物に建て替えさえすれば、現庁舎・第二庁舎と合わせ、すぐ隣同士でまとまります。

あとは、現庁舎を解体するのと免震化するのとで費用はどれだけ違うのか、
また、現庁舎を継続利用する事によって、新庁舎の規模をコンパクト化する事で建設費がどれだけ浮くのか、
それらのコスト比較も必要だと思います。
 

コンクリートの耐久性について

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 4月20日(水)11時54分19秒
返信・引用 編集済
  実はコンクリートの耐用年数というのはハッキリわかっていないというのが正解なんです。
といいますのも「現在使われている」鉄筋コンクリートの使用が始まったのは明治後期から大正にかけての時代です。
そして普及という意味では、1923年の関東大震災後にその耐久性の高さから普及が始まりましたので、まだ100年経っていない技術と言えます。
そんな中で昔のコンクリート製の建物で築50年を超え100年になろうとしているのに、現在もしっかりとした建物もある一方、築30年を超えたあたりから劣化が始まり50年も持たずに老朽化しているコンクリート造の建物があることも事実です。
ことコンクリートの耐久性で言えば、1900年から1950年辺りまでの建物の方が耐久性が高いという傾向になります。

そこには二つ大きな要因があり、一つは生コンというミキサー車で未だ固まらないコンクリートを運んで物を作るようになったことで、品質が極端に低下している事、もう一つは同時に1950年以降のオリンピックを代表する高度経済成長期に入り、品質よりも物を作る事に主眼が置かれ、海砂の使用や粗悪な砕石の使用、鉄筋の被りを十分に取らない不良施工やジャブコンという水で薄めたようなコンクリート。
短期強度だけでコンクリートを判断した結果、、、、、、。
50年持たないコンクリートが出来てしまったのです。

幸いにも旭川市役所庁舎のコンクリートは現場打ちコンクリートと言って、工事現場で直接配合し練り合わせたコンクリートを使っていますので、品質は悪くないです。

私はこれまで何度か言っていますが、古代ローマの建築物は石と煉瓦とコンクリートで出来ています。
1800年以上経過しているローマにあるパンティオンという45mもある巨大なドームの丸屋根はコンクリート製です。
http://www.kamit.jp/17_world/50_pantheon/plan_pa.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6c/Internal_Pantheon_Light.JPG
但し現在のコンクリートとは成分が違い、現在のポルトランドセメントを使ったコンクリートよりもはるかに耐久性、耐候性を持ったコンクリートのようです。
なんだかなぁ、、、。(阿藤快も嘆いてますね)
 

Re: 大町1条3丁目 寿市場

 投稿者:あず  投稿日:2016年 4月20日(水)08時55分39秒
返信・引用
  > No.1208[元記事へ]

かんじさんへ

> 実はチチンプイプイと言いながら、図書館へ行って新聞記事データベースで検索して頂いていたのです。
> なので簡単だったわけでもないのでした。
> あずさんもお時間があれば図書館で調べられますよ。

そういう事だったんですね。
ありがとうございます。

> あの検索端末が自宅で使えたらどんなに便利でしょうね。

この時代に閲覧は無理でも検索くらいできると良いですね。

 

油断大敵

 投稿者:永遠の旅人メール  投稿日:2016年 4月20日(水)00時11分23秒
返信・引用
  momongaさん
こんばんは。

おっしゃる通り、旭川市はこれまで水害を除けば災害には縁遠い町でした。
ただし、熊本も阪神大震災の神戸もあの時までは災害の少ない住み良い町でした。

旭川も西側に大きな活断層があるとの新聞報道がありましたし、北見市など近くに断層がないとされている地域においても隠れた断層があるとのことですし、日本においては地震のリスクがない地域はないのかもしれません。

私自身も反省していますが、人間は忘れる生き物。
5年前には東日本大震災もありました。今一度災害への備えを意識しなければと思い直した次第です。

現市庁舎の耐震補強ですが、技術的には可能でしょうけど、補強材によってせっかくのデザインを損なうことになれば本末転倒ではないかとも思います。

旭川グランドホテルのように新しい建物の一部に意匠を残して新たなランドマークを創るというのも一つの方法ではないかと思います。
 

Re: 大町1条3丁目 寿市場

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 4月18日(月)14時38分55秒
返信・引用
  > No.1207[元記事へ]

あずさんへ

> 火事があった話は聞いていますが、時が判りません。
> 「かんじさん」調べることができますか?
>
> たぶん、前回と同じ時期かと思いますが…。

すみません。
実はチチンプイプイと言いながら、図書館へ行って新聞記事データベースで検索して頂いていたのです。
なので簡単だったわけでもないのでした。
あずさんもお時間があれば図書館で調べられますよ。
あの検索端末が自宅で使えたらどんなに便利でしょうね。
 

大町1条3丁目 寿市場

 投稿者:あず  投稿日:2016年 4月18日(月)00時36分24秒
返信・引用
  火事があった話は聞いていますが、時が判りません。
「かんじさん」調べることができますか?

たぶん、前回と同じ時期かと思いますが…。
 

Re: 熊本地震

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 4月17日(日)22時24分22秒
返信・引用 編集済
  永遠の旅人さんへ

またまた大きな震災が起きましたね。
こういう震災や台風被害などが起きる度に、寒さは厳しいとはいえ天災の少ない旭川の恵みを感じます。


実は今日、「旭川の歴史的建物の保存を考える会」の研究会に列席してまいりました。
話題は正に現市役所庁舎の保存に関してであり、現況保存を唱えるメンバーの方(一級建築士)と、会長である川島先生との対談形式です。
お二人は師弟関係でありながら、市役所に関しては”保存”に対する考え方が異なっており、今回の対談は師弟対決と称されました。(笑)
ひと言で言えば、形状保存と意匠保存の違いです。
形状保存は通常私らが考えるそのままの保存ですが、意匠保存というのは現市役所内部の空間形状を新庁舎内部に残そうという事のようです。

現庁舎は耐震性の脆弱さが指摘されていますが、
今問題とされている耐震性は、実は耐震診断を行なった当の設計会社(元々現庁舎を設計した佐藤武夫氏が起こした会社)が「特殊な診断方法につき他の診断方法も試すべき」との補足をしているそうです。

私は建築の素人ですので正直言って建築の技術的な事はまったく分かりません。
ただ一つ、現況保存を唱えるメンバーの方が言われてた、
「旭橋がそうであるように、旭川の原風景とも言える現市役所庁舎を残したい」という言葉に同感します。
新しいものを新しい場所に造るのは実に簡単です。
現状では現庁舎に”骨董”的価値はないとする市民が多いのではないかと思いますが、
もう20年30年も経てば、今の旭橋と変わらぬ年齢を刻むのです。
それに今の庁舎は日本建築学会賞を受賞した、日本の建築界にとっても貴重な建物である事は殆ど知られていません。

耐震補強で何とかなるならば、私も現況保存を願うものです。
すぐ隣の第3庁舎の方を建て替えればいいじゃないですか。

 

訂正

 投稿者:永遠の旅人メール  投稿日:2016年 4月16日(土)07時03分2秒
返信・引用
  失礼しました。
正しくはアオーレ長岡です。
なお中心市街地に回遊させるために市役所庁舎に職員食堂は設置されておりません。
 

熊本地震

 投稿者:永遠の旅人メール  投稿日:2016年 4月16日(土)06時51分39秒
返信・引用
  非常に深刻な被害が発生しています。
被災された方々のご無事をお祈りします。
熊本城をはじめ美しい街並みにも被害が発生している様子。
耐震基準を満たしていなかった宇土市役所は崩壊寸前との報道です。
地元の方々も仰っているように熊本市周辺ではこれまで大きな地震がなかったという事で備えが充分でなかったとの反省の声もあります。
デザインに魅力のある旭川市役所。私も好きですが、今回の件でやはり庁舎の建て替えは不可避ではないかと改めて思った次第です。
まして真冬に大地震が起きれば避難所の確保が生死に直結します。
そういう意味でも市民ホールなどを併設した余裕のある施設(例…長岡市役所 アオーネ長岡)を北彩都に新築するのがベストかもしれません。
 

Re: 塩野谷酒造

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 4月14日(木)21時04分48秒
返信・引用
  あずさんへ

なるほど、先代さんは塩野谷酒造のご近所だったんですね。
それにしても砂利道が懐かしいです。
御料車が、まがりなりにも街の中なのに砂利道を走る姿なんて、今では信じられませんよね。

これにもしパルプ廃液が撒かれていたらヤバかった・・・^^;

 

Re: 8条通の住所表示

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 4月14日(木)20時40分44秒
返信・引用
  高野さんに飛び込んだんですネ、ご苦労さまです。(笑)

私も最初気付いたとき、何じゃこりゃ!と思いましたが、
職業柄、絶対に何か規則性があるはずだ、と、よーく見ると、
確かに8条通り、9条通り、8・9条仲通りの延長線上と、10・11・12丁目を直線で区切って行くと、
右・左の振り分けと、号は”かろうじて”辻褄が合ってるんですよね。

ところが、8条10丁目の右・左の混在だけはどうにも説明がつかない。(^_^;
やっぱり、けっこういい加減なものだったと言うしかないんでしょうかね。

 

Re: 気付いたこと

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 4月14日(木)20時12分2秒
返信・引用
  かんじさんへ

まとめの仮説ありがとうございます。
概ねその通りで経緯は間違いないと思いますし、これまで私が言ってた事とも矛盾しないと思います。

開村前後は、曙など市街予定地から一歩外れたいわゆる番外地で払い下げを待つ人間が多かったようですが、
中にはおっしゃる通り、正式な払い下げ申請もせずに市街予定地に勝手に住み着いていた者、
あるいは他人より先に有利な土地を確保しようと占拠する者がいたようで、
それらが私の言う「不逞の輩」です。(笑)
ただ、正式な払い下げが始まると当然それらは正規の払い下げを受けた者とトラブルになる訳で、
地元有力者によるあっせん作業などもあったようですが、発覚したものはやはりお上のお咎めを受けたようです。

ですから、市街地から一歩離れたところに入り込んでいた者は、必ずしも払い下げを待ちきれずに勝手に住み着いた訳ではなく、
既に当地に入地したものの、正式な市街地の払い下げを待って仮住まいしていたケースも多いみたいです。

この状況は、鉄道が開通し師団工事が始まって一気に人口が倍々増した明治30年代まで続いただろう事は想像に難くありませんが、
明治40年には人口も33,000人(師団人口を除く)に達しており、少なくとも引く手あまたの市街予定地内への不正居住は難しくなっていただろうと思うのです。

 

Re: たぶん 昭和の皇太子

 投稿者:あず  投稿日:2016年 4月13日(水)22時32分31秒
返信・引用
  > No.1198[元記事へ]

かんじさんへ

さすが「かんじさん」。

> そこでチチンプイプイ、昭和の25年~35年当時の新聞記事を探ると、ありました。
> 昭和33年6月23日に千歳に到着し、24日に旭川に入っています。
> 25日に北見へ記事があるので24日に泊まったのかもしれませんね。
> 一応チェックとして新聞の写真を見ましたが、オープンカーが同じ形なので
> ほぼ間違いないと思います。

ネガには、音楽大行進の次にオープンカーが写っています。
50年以上も前に撮られたものだったんですね。
ありがとうございます。
 

Re: 塩野谷酒造

 投稿者:あず  投稿日:2016年 4月13日(水)22時14分9秒
返信・引用
  > No.1195[元記事へ]

momongaさんへ

> 先代と何か関係があったとか?

祖母が近所で商店をしていたので、子供の頃はあの辺で遊ぶことも多かったです。
塩野谷さんの敷地内でも遊んだなぁ~。

建物の変遷なんてのも面白いですね。
 

Re: たぶん 昭和の皇太子

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 4月12日(火)16時51分47秒
返信・引用
  > No.1193[元記事へ]

あずさんへ

> 皆様にお願いです。
>
> この写真は今上天皇の皇太子時代かなと思いますが、旭川に行啓(皇太子は行啓と違ったっけ?)された時期が判りません。

こんにちは、かんじです。
素晴らしい写真をお持ちですね。
さて、今生天皇が皇太子時代に旭川を訪れた記録ですね。
写真のお顔はかなり若い。20歳前後として陛下は昭和8年の生まれなので、
年代は昭和の28年前後と考えました。
そこでチチンプイプイ、昭和の25年~35年当時の新聞記事を探ると、ありました。
昭和33年6月23日に千歳に到着し、24日に旭川に入っています。
25日に北見へ記事があるので24日に泊まったのかもしれませんね。
一応チェックとして新聞の写真を見ましたが、オープンカーが同じ形なので
ほぼ間違いないと思います。
ただし、もう一枚の写真は車が違っているので確認は難しいと思います。
同時に来たお付の人のようなんですけど、、、、。
 

8条通の住所表示

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 4月12日(火)16時03分38秒
返信・引用
  高野とうふてんが右2号で直江クリニックが左1号、通常の決まりから言えば明らかにおかしいこの表示。
何故でしょう。
聞くしかないでしょう。誰に?
高野さんに(^^;
で、行ってきました。
出てきたのは市場の中、とうふ屋の路地向かいに住む、高野さんでした。
まだお若い方で40歳くらいかな(違ったらゴメン)、とても感じの良い方でした。
右2号に間違いないですよね、と聞くとうちはずっと昔から右2号ですと言いきっていました。
直江クリニックさんが左1号なのにどうしてでしょうね、と聞くとさすがにそれはわかりませんとの事、、、、。
それから市役所の住所表示(11番の窓口)という係りの方に同じ事を聞いたのですが、やはり住所表示が乱れている理由はわからないとの事でした。
ただ住所表示は土地の権利に絡む地番とは違って、建物の場所を表すだけの物なので、そこまで厳密なものでもないってニュアンスはありましたね。
これでわかる人は居なくなってしまったかもしれません。
そこでもう一度、8条10丁目の住所表示をあれこれ見てみると、添付図のようなものです。
でもよーーく見てみると、あれれ土地の区割りとは違って、どうも通常の表記に見えてきました。
9条通の金さん銀さんがあるところは、9条の住所です。
さらによーく見ると、古流文化研究所の処に右5って住所があります。
右端の上の方と中ほどに左10という家が2軒あります。
左5、左7、左10という家を追ってゆくと、この区画も縦に割られて東から1、2、3、となっている気がしてきました。
右5という住所があることから本来8条通りがあったであろう位置を境に右と左にわかれるのではないでしょうか。
高野とうふ店は市場の通りを挟んで確かに右にあります。
そうすれば右2という表示は正しい。
逆に直江クリニックが左1というのだけがおかしいという事になります。

 

Re: 気付いたこと

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 4月12日(火)15時40分29秒
返信・引用
  > No.1194[元記事へ]

momongaさんへ

> まあ、お互い推測の範疇ですし、
> この場で論破し合う事が目的ではありませんので、あくまで史実を知り得る確証を何とか見つけ出したいですよね。

そうなんです。なかなか証拠が無いので仮説でしかないんですよね。
ただ、こうして時代背景とかを調べてみるのも面白いです。
地主の関係とか地租改正とか少し賢くなりました(^^)

さて、かんじの仮説です。
現在の8条通10丁目には明治43年にいち早く地番が付いているが、その場所には何があったのだろうというのが事の発端です。
momongaさんが言うように、その場所は初め上川農試が有った場所で、農試の移転後は上川中学校や測候所なんかがあった場所です。
その一部に明治43年に住所が付くという事は、民間への払い下げがあったのは事実です。
地図を見ると、当時地番の付いていない場所には共有地という言葉が書いてあります。
共有地という言葉も他ではあまり聞かれない言葉なのですが(公有地はありますけど)当時旭川町や道庁の所有する未開の公共用地であると思います。
本来は農試だったその場所をなぜ早く売ったのか?
そして、その場所は他とは違った区画整理となった、これも事実です。
今日、旭川市史に造詣の深いT氏と話をしてきました。
明治30年代の時代背景として、旭川に移り住む人が急増していました。
市街中心部は道路が整備され区画が整備された部分から順次払い下げが行われたと聞きます。
しかし、それを待ちきれない人が周辺にはたくさんいたのも事実のようです。
ちゃんと区画整理された場所を買って住む人がいる一方、市街地周辺では勝手に住み着く人も多かったようです。常磐公園の中に住んでいる人もいたそうです。
キチンと整備された場所にも許可なく勝手に住み着き、退去をさせられた人も大勢いたようです。
周辺に住み着く人を管理する余裕は無かった時代のように思います。
上川農試の土地は、6条通10-12丁目でした。
そこから上は牛朱別川で永山と分かれるところまで全部というかこの辺りに境目はありません。
湿地か川かわからないような場所でした。実際に農試が使っていたのは6条通と7条通りあいだ付近でしょう。
明治40年頃の8条通10丁目付近がどんな様子であったか。
明治33年の旭川地図でみると何もない湿地のように見えます。
そして40年に問題の中島遊郭が出来ます。
その時点でも8条通辺りは道路などは整備されておらず、本当の川べりです。
そんな時、市街から中島遊郭への最短ルートが自然発生するのは当然のように思います。
それは客として又、物資や食料を運ぶため舟や粗末な仮橋だったかも知れません。
橋のたもとや渡船場付近に人が住みついても不思議ではありません。
そこはまだ正式な道路も無い未開の地だからです。
そんな時に明治41年に上川農試が移転し、旭川営林區署開設されます。
この時に測量が行われたはずです。
当時、民間への払い下げの為には正確な測量をして地番を付けなければ、売ることができません。
市街地から離れた8条通10丁目の正確な測量が行われるタイミングはこの時しかないように思います。
しかし測量したとしても市街から離れた湿地が売れるはずもありません。
明治41年にこの土地が売れる価値を持っているとすれば、中島遊郭の存在以外にはありません。
この土地は中島遊郭との関連性があり将来的にも有望だからこそ地主は買うのです。
明治6年の地租改正により土地の個人所有が認められるようになりましたが、地租と言ってかなり高額な税金がかかりました。なので価値の無い土地を買う人は居ません。
私の想像では、そこには既に交易があり人がいて、住んでいる人から地代をとることができる土地だったのではないかと想像します。
もう一つ、当該地が東西ではなく南北に細かく等分されているのは、永隆橋通りに面した部分を等分しないと通常の左1号の土地をかった人だけが商売上得をしてしまうからです。
つまりそこには既に中島遊郭へ向かう人や物の流れがあったということです。
市街地は横に長い区画ですので、縦に細く等分した方が多くの人に平等に払い下げできます。
そんな事情もあったのでしょう。2191-8、2191-9は公務員の宿舎用ではないかとT氏が言っています。
大正15年の詳細図では同じ形の住居が6件ほどここに並んでいますので、公宅ではないかとの事です。
この土地の価値を上げるためにも、大正元年には寄付を集めてまで初代永隆橋を架設します。
それだけの価値がこの道路、そしてこの土地にはあったからでしょう。
旭川市街中心地は管理され区画に合わせて、払い下げが進んだことと思いますが、周辺地はかなり無秩序に人が住んでいたと思われます。
そんな中、中島遊郭との強い結びつきによりその重要性と必然性から生まれたのが8条通10丁目という場所だったのではないでしょうか。
その考え方にT氏も概ね同意するとの事でした。

 

Re: 塩野谷酒造

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 4月12日(火)00時35分28秒
返信・引用
  あずさん、お久しぶりです。

ご自身所有のネガという事なんでしょうか?
とても鮮明な写真をありがとうございます。

住の井の看板を掲げた塩野谷酒造がはっきりと写ってますが、
先代と何か関係があったとか?

 

Re: 気付いたこと

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 4月12日(火)00時18分15秒
返信・引用
  かんじさんへ

> いいや、まだまだ。
> 流れはmomongaさんですが、まだあきらめていません(^^;

まあ、お互い推測の範疇ですし、
この場で論破し合う事が目的ではありませんので、あくまで史実を知り得る確証を何とか見つけ出したいですよね。


今回の件と直接関係ないと思われたので触れていませんでしたが、
私もこの近辺の地番を見渡していて、あれれれれ?と思いました。
いくら区画整理が本来の形にできてないとはいえ、単純に通りを延長して考えただけでも右・左の振り方が明らかにおかしいですよね。

左右の名称で割り振られた1号から10号という地番が必ずしも面積で割ったものではなく、実際に建てられた建物に応じて振られたもの、と聞いた事があります。
その考え方で言うと地番の数字が抜けたり飛んだりするのはまだ理解できるとして、
同じ区画内に右・左の地番が混在してるというのは私も訳が分かりません。

摩訶不思議な事が多いですよね。

 

たぶん 昭和の皇太子

 投稿者:あず  投稿日:2016年 4月11日(月)21時37分21秒
返信・引用
  皆様にお願いです。

この写真は今上天皇の皇太子時代かなと思いますが、旭川に行啓(皇太子は行啓と違ったっけ?)された時期が判りません。

簡単なネット検索では昭和35年から全国を…なんてのがありましたが。。。

 

塩野谷酒造

 投稿者:あず  投稿日:2016年 4月11日(月)21時15分42秒
返信・引用
  毎度ごぶさたです。
相変わらず盛り上がっていますね~。

八条ではないですが、大町の塩野谷さん。

古いネガを整理していて、珍しい写真を発見しました。
砂利道の国道40号線をお裾分け。(笑)

 

Re: 気付いたこと

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 4月11日(月)12時58分32秒
返信・引用
  > No.1189[元記事へ]

momongaさんへ

> かんじさんへ
> もう一つ追い討ちをかけるようですいません。
いいや、まだまだ。
流れはmomongaさんですが、まだあきらめていません(^^;

> 地主に名を連ねている塩野谷辰三は辰造ではありませんか?
そうです私のタイプミスでした。

> このような人物が地主の一人という事からも、付近はけっして不逞の輩が住み着いていたような場所とは思えません。
不逞の輩ってのは考えすぎとしても、先住民が居たのではないかという仮説はあきらめていません。

> 2191-4の地番って、もしかして八条市場の場所と一致してませんか?
私の持っている現在の地番図と得意の手法で重ねてみました。
そうすると八条市場は2191-3番です。
そして大正15年の正確な地図では八条市場の位置は長い建物があり○の中に「市」って書いてありますので公設市場だったかも知れません。

> 中島遊郭が決まった事で、ここに橋が架かれば中心街からは常盤通より近く、繁華街になると読んで払い下げを受けたのではないでしょうか。
> もしかしたら、商売に有利な場所を確保するため、早々に払い下げるよう強く要望したかもしれません。
ん~、この線も濃厚ですね。

そうそう八条の調査をしているといろいろ面白いことがあるのですが住所も変わってますよ。
現在8条10丁目の角に医療法人直江クリニックというのがあるのですが、ここの住所を調べると、8条通10丁目左1なのです。
交差点に立って東を見て右左ですから、それは良いのですが、、、。
高野豆腐店の住所はななななんと、8条通10丁目右2なのです!!!
そして一般的に旭川の住所は西から東へ1から10まで割り付けるのが普通ですが、この辺りの住所をあたってみると、南から北へ1、2、3、4、5、6、7と住所が割り振られているのです。
住吉町の斜め住宅ではありませんが、これも一般の区画とは反対です。

 

Re: >ふくすけさん

 投稿者:ふくすけメール  投稿日:2016年 4月11日(月)11時28分25秒
返信・引用
  > No.1183[元記事へ]

momongaさんへ

こちらこそありがとうございます。
まだ他にも古いものがあるかも知れませんので、機会をみて調べてみたいと思います。

ところで、例のアルバムの中に、上川神社氏子総代と書かれた感謝状のような文書があり、要約すると、天皇陛下がいらした時の何らかの功績に対するもののようで、神社か、もしくは氏子総代(名前の記入がないので誰かは分かりません)の方から頂いたものといったところでしょうか。
それに加えて、高祖父や神主さん、天皇陛下のお使いの人?が並んだ記念写真や、上川神社の前で職人さんが石を加工している写真などがありました。恐らく石段を作っているのだと思います。

高祖父が何をしたのかはよく分かりませんが、もう少し暖かくなったら、子供を連れて石段を訪れてみようと思っています。

> 4年目の返信ありがとうございます。^^;
> 忘れずに当掲示板ロムしていただいていた事、感謝いたします。
>
> 開拓期の旭川は陸の孤島のようなものだったと思います。
> 鉄道が開通するまでは、上川道路の馬車道一本が唯一の輸送手段であり、できる限り自給自足で賄う事が急務でした。
> そんな状況の中、日本人の食生活に欠かせない味噌・醤油などの醸造品は、旭川において最も早く発生した製造業の一つです。
> ふくすけさんの先代の方もその一人だったのでしょうね。
>
> 古くからご商売をされてた家には、何かと古いものが残されている事も多いかと思います。
> 今後とも、もし何か情報がありましたら是非ともお知らせ下さい。
>
>
 

Re: 気付いたこと

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 4月 8日(金)15時19分22秒
返信・引用
  かんじさんへ
もう一つ追い討ちをかけるようですいません。

地主に名を連ねている塩野谷辰三は辰造ではありませんか?
だとすれば塩野谷酒造の塩野谷さんに間違いないと思われます。
この方は埼玉より移住し、明治30~32年頃に今の大町に旭川では3番目となる酒造会社を創業しています。
つまり当時の旭川の名士の一人だったわけです。

このような人物が地主の一人という事からも、付近はけっして不逞の輩が住み着いていたような場所とは思えません。
家を建てようとしたのか、あるいは新たな商売を始めようとしたのかは分かりませんが、
2191-4の地番って、もしかして八条市場の場所と一致してませんか?


当時旭川は東へ東へと中心街が広がっていましたから、
中島遊郭が決まった事で、ここに橋が架かれば中心街からは常盤通より近く、繁華街になると読んで払い下げを受けたのではないでしょうか。
もしかしたら、商売に有利な場所を確保するため、早々に払い下げるよう強く要望したかもしれません。
それで区画整理が後追いになってしまったのかも。
そうなると永隆橋の架橋にも絡んでいた可能性だって充分ありますよね。

いずれにしても、やはり早くても明治40年の中島遊郭設置前後の事になりますが、
塩野谷さんの名前で私は確信に近いものを感じてきましたよ。^_^;


 

Re: 気付いたこと

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 4月 8日(金)00時44分41秒
返信・引用
  かんじさんへ

こういう話題をきっかけに自分でも漠然としか把握してなかった部分を明確にするのは本当に楽しいですね。(^^)


中島遊郭は、設置計画ですったもんだ揉めたあげく明治40年に貸座敷免許を認可された人為的な遊郭です。
ですから認可が下りるのを待って、何もなかったところにかなり短期間に一気に造成されたものと思われます。

でもって、旭川にはもう一つ、曙遊郭というもっと古い遊郭がありましたよ。
こちらは屯田兵村建設が始まった頃、主に建設工事に携わった人夫相手が目的の私娼がはじまりです。
ちょうどかんじさんが考えられてる女郎屋みたいなもんだと思います。
その後まとまった娼館街を形成し、師団建設前の明治30年には公娼として認可されています。
もちろん他にも散在的に私娼があって、師団設置後には近隣の大町などにその類の歓楽街が存在しました。
ですから、かんじさんが心配?(笑)されてる若い兵隊の勢いを抑える場所は一応あったのです。
実は中島遊郭が設置されたのは、曙遊郭が師団から遠くて不便だった事と、膨らむ師団に対応仕切れなくなった事が理由です。


それはそれとして、
私が8条10丁目付近に”先住民”はいないだろうと拘るのにはもう一つ理由があります。
それは、当時の市街予定地の土地管理は、勝手に家を建てて住み着けるほど甘くはなかったという事です。
開村前後は誰もいない野っ原でしたから確かにそういう輩が相次いだようですが、
道庁による正式な貸下げ業務が始まると即座に発覚し、それなりのお咎めを受けたようです。
明治30年40年代ともなると人口も増え、住民の目もありますから貸下げ前の共有地に入り込めばすぐに分かります。

まして、問題の区画は元々が農事試作場の敷地であり、れっきとした公有地です。
試作場や測候所の役人もいる中で、敷地内に勝手に住み着くなんて有り得ないですよね?
やはり、最低限、正式な貸下げを受けての住人だと思います。

 

Re: 気付いたこと

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 4月 7日(木)18時27分3秒
返信・引用
  momongaさんへ

さぁ、面白くなってきました(^^;
さすがmomongaさん、年表を追ってみると解ってくることもありますよね。
ただ歴史的事実だけでは見えないものも沢山あるように思います。
例えば初代永隆橋の架設は大正元年ですが、公式な記述がありません。
なぜならこの橋は必要に駆られて発起人が一般からの寄付で大正元年に作られたという新聞記事があります。
つまりここには公式に架橋される前に川を渡る大きな需要があったということです。
川を渡るために渡船を利用したか、粗末な橋を作ったかはわかりませんが、
川を渡る大きな需要って「中島遊郭」以外にありえませんよね。
momongaさんは「私は8・9条10丁目付近に一般人が住み始めたとすれば、明治41年の上川農事試験場の永山移転後の事ではないかと思います。」と言っていますが、私はもっと早いと考えます。
区画整理して払い下げらてから人が住んだのなら、もっときれいな区画になっているはずです。
他にもそういった場所は沢山ありますが、正式に区画整理する前から人が住んでいたので、区画がおかしいという場所がほとんどです。

土地は確かに正式には41年の農試移転後に民間払い下げになったと思いますよ。
その時に2191-1番地という上川中学の学校用地が分筆され明治43年の地図に載ったように地番が付けられたのでしょう。明治43年当時の地主の名前が解りましたが。
みなさん地主であって、ここに住んでは居なかったようです。
持ち主を列記します。
2191-2 忽滑谷寅右衛門
2191-3 伊藤久米
2191-4 塩野谷辰三
2191-5 筒井松次郎
2191-6 秋山吉五郎
2191-7 松井ミヤ
2191-8 西田仁三郎
2191-9 立野庄吉
2191-10 細川藤次郎
塩野谷辰三さんは塩野谷酒造を起こした方のようですが、他はわかりませんでした。

中島遊郭はある日突然できたのでしょうか?
明治33年に師団が旭川へやってくるわけですが、若い兵隊が大勢やってくると女性を求めて旭川の町へやってきます。
その勢いを抑えるために、中島遊郭が出来たのは明白ですが、遊郭の設置が明治40年であればそれまでの間はどうなっていたのでしょう。
ちゃんとした遊郭になる前にそういうよからぬ場所というのは自然発生すると思いませんか?
中島遊郭の場所は現在で言えば町から離れたモーテルと同じです。
あくまで私の想像ですが、師団がやってきて40年に中島遊郭が出来るまでにも中島には怪しげな場所があり、いろんな人が集まっていた気がします。
明治40年に公的な遊郭が出来たころには、8条通10丁目辺りには既に人が住んでいたんですよ。そこでいち早く払い下げになったと思います。
だって区画整理もしないであの場所を払い下げる理由がないですもの。
そうしてそこに住んでいる人は中島遊郭となんらかの関係があり、常に川を渡りたいという要望があったからこそ、寄付で橋を作ったのではないでしょうか?
まぁ、8条通10丁目で女郎屋というのは過ぎた想像かも知れませんが、、、、。
想像が多くてスミマセン。
 

Re: 気付いたこと

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 4月 6日(水)23時00分13秒
返信・引用
  かんじさんへ

橋は初代の永隆橋ですよね。
明治40年頃になると街もどんどん広がって、常盤町から一本道しかなかった中島遊郭にも新たな連絡道路の必要性が増したのでしょうね。
常盤町は市街と師団の中間点という事もあり、特に中島遊郭への入口ということで商店街が発展しましたから、
牛朱別川を挟んで遊郭の対岸すぐ近くの8条付近が、橋が架けられた以降に栄えた事は充分考えられます。

でもそれ以前の女郎屋だけはまず有り得ないと思います。
と言いますのは、上川中学校ができたのが明治36年で、中島遊郭が開設されたのは明治40年です。
中学校は何と牛朱別川までが敷地でしたから、川を隔ててるとはいえ学校敷地から見える場所に遊郭ができるという事で当時大問題となり、反対運動も起きています。
結局、校舎からは500m以上も離れてるという事で遊郭設置が認められてしまうのですが、
川の向こうですら大騒ぎになったのに、ほとんど学校敷地内のようなところに女郎屋など1軒たりとも許されたはずはないと思われます。

私は8・9条10丁目付近に一般人が住み始めたとすれば、明治41年の上川農事試験場の永山移転後の事ではないかと思います。
中学校の設置と上川農試の移転までが何年か重なってますが、中学校の敷地に充てられた以外の土地がこの年の移転によって開放されたのではないでしょうか。
一部は同年に新設された営林區署に充てられ、残った土地が民間に払下げられたとしか考えられません。

この付近の土地利用を時系列で記すと、

明治31年 神居から上川測候所移転
明治33年 (第七師団司令部旭川へ移駐)
明治34年 1条2・3丁目から上川農事試作場移転 測候所以外の一帯が試作場となる
明治36年 上川中学校開校・農試敷地内に校舎建設
明治40年 中島遊郭設置
明治41年 上川農試永山へ移転 旭川営林區署開設

明治43年 旭川明細全図が作成される

大正×年 初代永隆橋架橋


となる訳で、明治41年に民間に払下げられていたとすれば、件の明治43年の明細全図に地番が描かれているのは不思議でも何でもありません。
遊郭との関係で言えば最低限明治40年以降になりますが、橋がない限り関係は薄かったと思われます。

永隆橋ができた以降はともかく、
それ以前の女郎屋は考え過ぎではないでしょうか?(^_^;



 

Re: 気付いたこと

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 4月 6日(水)10時11分51秒
返信・引用 編集済
  > No.1184[元記事へ]

momongaさんへ

> 今日近くを通ったので、8・9条10丁目付近をちょっと探索して来ました。
探索、お疲れ様です。
私も一度だけあの市場の中に入ったことがあります。
そう豆腐屋があるんです。
でも薄暗くてあまりの怖さに探索は出来ませんでした(^^;
その後に開店したsumikitchenはお弁当屋さんです。
安くておしゃれなお弁当を作ってます。

で、私も調べましてさっき気付いたことがあります。
それは大正3年の地図と見比べた時に思いついたんです。
大正3年になんとそこに橋が架かっているんです。
その橋の先は「中島遊郭」です。
つまり8条通10丁目界隈は当時川の淵で中島遊郭とのつながりのある場所なんです。
地図上では上川中学、測候所、営林署なんて硬い文字が並んでいますが、
まちがいなく中島遊郭との商売をやっていた人たちが住んでいたはずです。
または想像を働かせると、中島遊郭は公認の赤線ですが、青線と呼ばれる非公認女郎屋だったかも知れません。
中島遊郭に入りきれなかった兵隊さんが来たのかも、、、、。
そんな人達が区画整理する前に住んでしまっていたので、あそこは通りをきちんと整理できなかったと考えるのが自然ではないでしょうか?
明治43年の地図には橋がありませんが、大正3年には橋が出来ているという事は、明治43年にも行き来があり橋の要望があったと考えるべきでしょう。
いかがでしょうか?
ps.
この方向で考えると新師団通りから旭川に入る9条14、15丁目も青線だった可能性もありますけど、それは考えすぎかもしれません。

 

/28