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Re: 台場東町

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 3月17日(木)21時12分42秒
返信・引用
  kazeさん、はじめまして。

私は不動産取引にはまったくの素人ですので、あくまで一市民の目で見る返答である事をご了承ください。

ご質問の台場東エリアは、スキー場の麓の傾斜地に広がるかなり古い宅地です。
国道12号線寄りは、今でこそ数がかなり減りましたが、かつては旭川一のラブホテル街でした。
その国道12号線も、高速道路が開通してからはかつての交通量はなく、
沿線には閉じたままの飲食店やガソリンスタンドなども数多く見受けられます。
旭川市街側から見ると、札幌寄りとはいえ丘を一つ越えた”離れ”であり、
お世辞にも人気のある住宅地とは言えません。
はっきり申し上げて、同じ旭川市内なら他にいくらでも良質な住宅地・物件はたくさんあります。


それよりも何よりも、失礼ながら、
賃貸経営が目的で不動産を購入しようというのに、
自ら現地を確かめもせず、こんな一介の掲示板に情報を求めようとしてる事が私には信じられないのですが・・・


 

台場東町

 投稿者:kazeメール  投稿日:2016年 3月17日(木)00時59分28秒
返信・引用 編集済
  こんばんは。
台場東町の一軒家を買って賃貸経営しようかと検討しているのですが、
旭川のものではないため今ひとつわかりません。

もちろん駅前でも街中でもないエリアでスーパーもコンビニも無いことはわかっていますが、
町として居住はあるようです。12号に近いことがメリットになっているかわかりませんが。
台場東というエリアは、物件を購入しても入居が入りそうでしょうか?

また旭川全体的に、雰囲気というか景気というかはいかがでしょうか?
旭川の他の町でも物件の購入を考えていますが、おすすめでしょうか?やめたほうが良いでしょうか?
旭川の方々は、賃貸で借りますか?それとも買われますか?

その他なんでも、旭川の各町のことや物件を購入する際に気をつけるべき点ほか、お教えいただければ幸いです。
突然の投稿で恐縮ですが、旭川の掲示板ではこの掲示板が一番まともにやり取りされているようにお見受けしました。
ぜひとも、よろしくお願いいたします。
 

西武撤退は時代の流れ

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 3月13日(日)21時07分46秒
返信・引用
  報道では、あたかもイオン開店が要因のように言われている西武の撤退ですが、私は少々違うと思っています。

西武は7年前の丸井今井撤退騒動の際に、一度表明した撤退を覆しました。
丸井今井の閉店が正式に決まった事から「百貨店一店舗なら状況好転が見込まれる」というのが理由でした。
確かにその時点では、まさかイオンが駅直結で目と鼻の先にできるなんて誰も想像しなかった事です。
しかしながら、丸井今井撤退によって実際に西武の売上が大きく好転したのは直後の1~2年くらいなもので、
以降は駅イオンがなくとも毎年のように前年割れを続けていたのです。

全国的にも、地方都市はもちろん、東京や大阪などの大都市圏ですら百貨店の統廃合や撤退が相次ぎ、
札幌においても、今後最終的に残れる店舗は2~3店であろうと言われているくらいです。


つまり、もはや時代の趨勢というやつですね。
百貨店という形態そのものが、バブル以降完全に斜陽産業化しています。
と言いますか、デフレ傾向だったにも関わらず、高額・高級志向一辺倒に特化してきた百貨店自らが、一部の大都市でしか生き残れない、地方都市での存続を難しくしたと言えます。
ぶっちゃけた話、旭川のような地方都市では、大規模な高級百貨店を潤すだけの金持ちは少ないという事ですね。


私も、旭川から百貨店が一つも無くなってしまうのは寂しく思う一人です。
2棟ある建物を1棟に縮小すればまだやって行けるんじゃないか?と考えたりもします。
実際問題、いくら衰退だ赤字だとは言え、ここにはまだ道内有数の年間100億円の市場がある訳ですから。

しかし、いつまでもコスト高の百貨店形態に拘っていては、この先ジリ貧を繰り返すだけです。
ブランド需要・高級志向をある程度留めつつ、コスト的に見合う業態に早期に転換したほうが良いのではないでしょうか。
100億円の市場が現実に旭川から逃げて行かないようにする事が急務かと思います。

 

Re: 謝罪

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 3月10日(木)22時45分30秒
返信・引用 編集済
  五黄の虎さん、ご理解ありがとうございます。
私も少々偉そうにしてかえって申し訳ありませんでした。
以降はもっと力を抜いて気軽に書き込んで頂けたらと思います。

今回の西武撤退についての私の考えは、また改めて書き込みたいと思います。
 

謝罪

 投稿者:五黄の虎メール  投稿日:2016年 3月10日(木)10時05分48秒
返信・引用
  気が昂ぶっていたとはいえ、大変失礼致しました。
今後、気をつけます。
 

Re: 旭川を憂う

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 3月 9日(水)23時21分16秒
返信・引用
  五黄の虎さん、はじめまして。

お気持ちは重々察します。
しかしながら、ここは私が開設し管理している私的掲示板です。
いくら旭川に関する自由な発言を認めてるとはいえ、
ここに出入りする皆さんに意見を問いたいならば、
必要最低限の挨拶と敬語を使うくらいの常識はわきまえて頂きたいものです。

 

旭川を憂う

 投稿者:五黄の虎メール  投稿日:2016年 3月 9日(水)18時03分56秒
返信・引用 編集済
  とうとう旭川の人口は34万人を割り、満足な就職先がないから若者は旭川を見限る。
西武の撤退が決まり、事ここに至って西川市長が慌てふためいている。
市長の公約の中に、経済活性化も入っているが駅ビルイオンの誘致がその一助になると考えていた節がある。
旭川の小売業の過当競争の実態を肌で感じていたとは思えない。
旭川市の一人当たりの所得は、200万円以下どの業種でも最低賃金のパートさんばかりだ。
道内国立大学を卒業した40歳前後の男性を、月給15万円で雇えるまちなのだ。
弊社でも3人存在している。
市会議員もほとんどの人が危機感なし。皆さんの意見が聞きたい。
 

Re: 鉄筋コンクリート(RC)構造物の老朽化?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 3月 4日(金)00時27分29秒
返信・引用
  かんじさんへ

おっしゃる通り、減価償却期間と実際の耐用年数とはまったく別物ですよね。

私も一応、法人として決算申告する側の人間ですので最低限の知識は持ってるつもりですが、
減価償却というのは、あくまで経費の多年度分散の考え方です。

例えば、企業がパソコンなどの機器類を何百万円も一括購入したとすれば、
これは少なくとも4年5年は使用するものですから、購入した年度だけの一括経費としては認められません。
償却資産として計上する必要があり、定められた年数に従って分割経費計上しなければなりません。

そうしなければ、その年度に大きな利益が見込まれる企業が、
「税金で持ってかれるくらいならこの際でかいモノを買って利益を圧縮しよう」
となる訳で、税金を徴収する側にとっては、まこと好ましからず事態になる訳です。

この償却年数はモノによって細かく法律で定められてる訳ですが、その時の経済状況や政策によっても左右されます。
特にパソコンのような短期償却期間の機器類は、状況によって一括償却を認められたり、3年償却を認めたり、と変動します。
建物などの不動産もこういった短期償却資産ほどでないにしても、その時々の政策の影響は受けてます。
いずれにしても、少なくとも実際の耐用年数とは関係なく、あくまで金銭的な評価価値が基準です。
この考え方は何も企業に限らず、自治体の資産においても同じだと思います。


つまり、かんじさんのおっしゃるように、
もしこの減価償却期間をベースに市庁舎の”老朽化”を言ってるとすれば、あまりにも無駄な事をやろうとしてる訳で、
ぜひとも専門的な分析をもっと実施すべきだと思います。
震度3で倒壊の恐れ、などという報道もなされてましたが、
ちょっと前に震度3を記録したのに、ひび一つ入ったという話すら聞きませんよね。

 

鉄筋コンクリート(RC)構造物の老朽化?

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 3月 3日(木)10時10分28秒
返信・引用
  少し長くなりますが、最近思っている事を書かせてください。
現在、旭川市庁舎の建替え計画が着々と進んでいるようですが、それに関する記事が報道されるたびに引っ掛かることがあります。
それは「老朽化」という言葉です。
老朽化という言葉には非常にネガティブな響きがあります。
古くなった建物を建替えるというのは一般的な感覚ではありますが、では何をもってして古くなったというのでしょうか?
現在の旭川市役所が完成したのは1958年10月です。
いまは2016年ですから58年経過していることになります。
58年前の鉄筋コンクリート構造物を、「いやぁ、古いね」というのか「58年ですかまだまだ新しいんですね」というのか?
「旭川市役所は建築後58年経過して老朽化している為、建て替えを行う」
良く聞きませんか?

そこで先日の庁舎建て替えに関する市民説明会に行きました。
そして、そこで聞いたのです「市庁舎が老朽化していると言いますが、具体的に何がどのくらい老朽化しているのですか?」と。
総務課長さんは言葉に詰まりました。
設備が古くなって、、、。
そう確かに配管や電気など設備はとうの昔に古くなっています。これは20年も経てば古くなりますから、常に更新してゆかなければなりません。
私は「鉄筋コンクリートの躯体が50年やそこらで老朽化するなんて事実は聞いたことがありません」「鉄筋コンクリート構造物の寿命はゆうに100年を超えるはずです」
「鉄筋コンクリート構造物が50年足らずで老朽化してしまうような間違った認識を広めて頂きたく無い」と強く申しました。

そこで出てきた答えが「耐用年数」という言葉だったのです。
つまり税法上減価償却される構造物の耐用年数が「鉄筋コンクリート50年、木造建物24年」と定義されているのです。
この例にならえばカメラは5年が耐用年数です。
つまり旭川市役所が老朽化しているとする定義は、税法上の耐用年数を過ぎているので老朽化しているという事なのです。
劣化してタイルが剥がれて来ているとも言っていましたが、それは補修すれば良いことで旭川市役所が構造物として老朽化しているという理由はどこにもないのです。
名機と呼ばれる良いカメラは5年で既に老朽化しているのでしょうか?

構造物も同じです。
木造建物の耐用年数は24年ですが、木造建物である法隆寺は1300年以上経っています。
イギリスでは100年を超えた住宅は価格が上がってゆきます。
ヨーロッパでは石造りの建物が多く築200年を超えるアパートも多いです。
コンクリートは1000年以上前から使われており、ローマのコロッセオの闘技場も煉瓦やコンクリート造りです。
鉄筋コンクリートが50年で老朽化するわけがない。

実は耐用年数の元になったものがあります。
現在の耐用年数は昭和40年に改訂され公表されていますが、改定前のものは昭和26年にあった「固定資産税の耐用年数の算定方式」というものです。
これには鉄筋コンクリート構造物の耐用年数を
防水  20年
床   30年
外装  50年
窓   30年
構造体150年
としているのです。
でも寿命が長いと減価償却期間が長くなり税金が入ってこなくなることから、当初加重平均により75年としていた耐用年数は次第に短くされ75年→65年→50年と構造物の寿命には全く関係なく短くされてしまいました。
このように鉄筋コンクリート構造物の構造体は100年以上はゆうに持つ物です。
それでも実際には50年も経たずに取り壊される建物が多いのは老朽化からではなく、諸般の理由から流行らないとか設備が使いにくいとか売れないとかの理由です。

鉄筋コンクリート構造物は50年では老朽化しません。
だからデザインも含め良く吟味して良いものを作ってください。
良いものは時代を経ても残す価値があります。
特に大規模公共建築物は50年なんてとんでもない、良いものを100年以上使う事を前提として作ってくださいと提言します。
ニューヨークのエンパイヤーステートビルは80年経っているのに全く老朽化はしていないそうです。
50年足らずで公共構造物を壊して建て直すなんて国は世界中で日本だけじゃないかな。
耐用年数50年という国税庁の根拠のない年数をもとに、、、、、、。
 

Re: 函館本線消滅

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 3月 1日(火)17時05分14秒
返信・引用 編集済
  > No.1143[元記事へ]

momongaさんへ

興味深い話、ありがとうございます。
どんどん寂しくなる鉄道路線ですが、最盛期には北海道中くまなく繋がっていたんですね。
添付の路線図はたぶん昭和30年代の物だと思うのですが、すべての町は鉄路で繋がり
街は駅を中心に賑わっていたのでしょう。
http://s1.gazo.cc/up/179308.jpg(でかい画像)

http://s1.gazo.cc/up/179308.jpg

 

Re: 函館本線消滅

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 3月 1日(火)12時54分38秒
返信・引用
  momongaさんへ

私も新幹線効果に浮かれている状況に不安と憤りを感じています

今まで人気で乗車券の入手も困難だった北斗星やカシオペアなど辞めてまでも新幹線を通すやり方は
海外の観光客だけを相手にした誘致だと思います

木古内線は「いさりび鉄道」として復活しますが
路線をブツブツと切り刻んだやり方では「見殺し」になる第三セクターになりかねません

2030年には札幌まで新幹線が延長になり札幌~小樽間まではJRとして営業し、その先は第三セクター化の様です

気になるのは存続されるかどうかの「函館本線」の名称ですが、別な例としては「札沼線」と呼ばれる札幌~新十津川間の路線があります
昭和31年に札幌~石狩沼田(沼田町)まで開通しましたが昭和47年には新十津川~石狩沼田間が廃止になりました。今では「学園都市線」と言う愛称で呼ばれ医療大学駅まで電化されています

きっと「函館本線」と言う呼び名は無くならないで「動物園都市線」とか(笑)
今のJR首脳陣レベルじゃそれくらいしか浮かばないでしょうね



 

函館本線消滅

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 2月28日(日)23時44分25秒
返信・引用
  函館本線は、明治13年に官営幌内鉄道として小樽手宮~札幌間が部分開通したのが始まりです。
幌内鉄道はその名の通り、小樽港と幌内(三笠)の炭鉱とを結ぶのが目的で明治15年に全線開通しました。
その後経営は北海道炭鉱鉄道となり、空知の炭田開発を追うように延伸され、明治25年には空知太(滝川付近)まで達しました。

この頃は、あくまで石炭を運ぶ事が目的の鉄道であって、旅客を乗せるのはついでの様なものでした。
事実、上川へ入植する屯田兵や一般移住者は、小樽から空知太まで”炭車”に載せられたそうです。
(今どき”炭車”と言われても分からない人が多いと思いますが・・・)
そこからさらに2日がかりで徒歩や荷馬車で忠別太・永山までたどり着きました。

その後、空知太~旭川間は北海道官設鉄道が明治31年に上川線として開通させ、
経営母体は異なるものの、旭川と小樽が鉄路で結ばれる事となります。
函館側はこれより少し遅れ、これまた経営母体の違う北海道鉄道が明治35年より順次延伸し、
明治38年、小樽にて北海道炭鉱鉄道に接続し、ついに旭川と函館が鉄路で繋がりました。

これら経営母体がバラバラだった鉄道は、国策により順次国有化が進められ、
全線国有化完了後の明治42年、国鉄「函館本線」と命名されました。
以来100余年、この路線は北海道を代表する基幹路線としてその名が続いてきました。

中間に札幌があるにも関わらず、あえて起終点を旭川としたこの長大路線は、
当時の鉄道交通の要が、札幌ではなく旭川であった事の証でもあるのです。



さて、ここからが本題です。
いよいよ北海道新幹線の開業まで1ヶ月を切りました。
北海道新幹線とは言っても、正直言って旭川人にとってほとんど”他県”の出来事みたいなもんですけどネ。^^;

当面の終点である新函館北斗までの平行在来線である木古内線は、3セク移管での運営が決まっています。
さて、何年もつでしょうか。

問題は、札幌までの延伸が実現した時です。
函館以北の平行在来線も同じように3セク移管となります。
つまり、函館本線の函館-札幌間がその対象になるわけです。
これは何を意味するか?

おそらく、函館-長万部-小樽-札幌間の鉄路が、明治時代のように経営母体がバラバラに分断されるでしょう。
函館-長万部間は室蘭線経由の貨物路線が残りますが、長万部-小樽間は鉄路の存続すらあやしい。

要するに、明治42年以来続いてきた旭川-函館間の鉄路は一貫した経営母体ではなくなるわけです。
へたをすると、鉄路自体が寸断される可能性もある。


もうお分かりでしょうが、その時点で「函館本線」を名乗れなくなるということです。
札幌-旭川間は(おそらく札幌-小樽間も)引き続きJR北海道が運営するでしょうが、
函館まで繋がっていないのに、路線名に函館を残す事は有り得ません。
たぶん、またぞろ札幌目線で「旭川線」とか「小樽線」とかに変えられてしまうのではないでしょうか。

まだしばらく先の事とはいえ、北海道新幹線の話題が高まるごとにそんな事を思い浮かべる次第です。





 

Re: この流れですみません、、、

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 2月27日(土)17時04分40秒
返信・引用
  ユーリさん、やっぱり書き込みうまく行かなかったのかナ・・・

 

Re: この流れですみません、、、

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 2月16日(火)23時04分14秒
返信・引用
  ユーリさん初めまして。
全然この掲示板の趣旨と外れてませんよ。


私が旭川の歴史に興味を持ったきっかけですか?
それはやはり上川離宮計画の存在ですね。
最初はただ漠然と「ふ~んそんな計画があったんだ」程度でした。

ところが、もっぱら「幻の計画」と呼ばれるこの離宮計画が、実はあと一歩で着工されるはずだった現実の計画だった、と知った時に俄然興味が湧きました。
オイオイ、幻どころかこの計画が旭川発祥の原点そのものじゃないか、屯田兵はそれに付随したものじゃないか、とね。
そこから色々調べるようになりました。
旭川の原点が上川離宮であるように、私の歴史への原点も上川離宮です。

あともう一つ、"旭川"という地名由来への疑問も大きいですね。
私が歴史に興味を持つようになる以前から、アイヌ語意訳による旭川の地名由来には全く説得力を感じていませんでした。
素人目にも「こりゃ完全にこじ付けだろう」という客観的感想です。

上川離宮と共に、地名に対するこだわりも私が郷土史への興味を強めるきっかけになりましたよ。




 

この流れですみません、、、

 投稿者:ユーリ  投稿日:2016年 2月16日(火)16時07分32秒
返信・引用
  初めまして!

HPとても勉強になります!
これを無料でやっているのに驚きです。

僕は気の向くままに郷土史を調べている
若輩者です。

掲示板の趣旨とは外れて、不躾な質問かもしれませんが
momongaさんが郷土史に興味を持った切っ掛けはなんでしたか?
もし宜しければ教えて頂きたいです。
 

Re: 緑が丘の住宅街

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 2月13日(土)13時08分47秒
返信・引用
  かんじさんへ

ご指摘の緑が丘ニュータウンは、開発の時期から推測してたぶん工業高校の南側一帯の事を指していると思われます。
工業高校の今の場所への移転もその頃ではなかったかな・・・
今の高等技専や中小企業大学の神楽岡通りを挟んだ向かい側で、住民の人達はサニータウンと呼んでます。
私もここが緑が丘ニュータウンの開発名が付いていたとはちょっと記憶にありませんでした。
開発主体が民間になってますが、3セクの旭川振興公社ではなかったかと思います。


> が、いつの間にか地名が緑が丘のせいなのでしょうか、全体を緑が丘ニュータウンと皆さん言っているのではないでしょうか

そのとおりです。
神楽岡ニュータウンの造成前の実際の町名は、神楽岡ですらなく、西神楽〇線〇号だったと思います。
神楽岡ニュータウンの名で造成が進んで、分譲が開始される頃に緑が丘の住居表示が実施されました。
今の環状線の内側までですね。(医大などはつい10数年前まで西神楽4線5号でした)
それ以降一般には神楽岡ニュータウンと呼んだり緑が丘ニュータウンと呼んだりしてましたが、
さすがに年月と共に町名である緑が丘が定着して行きましたね。
たぶん役所が使う開発名称は、あくまで神楽岡ニュータウンのままなんでしょうけど。


件の緑が丘ニュータウンは、緑が丘の町名が現れた後の造成ですから、開発名称にも緑が丘の名を使ったんでしょうね。
でも、医大と同じで実際の住所は長いこと西神楽3線5号でしたよ。
さらにややこしい事に、ここに並んでる道営住宅は「道営第二神楽岡団地」といって神楽岡の名を使ってるんですよ。^^;
まあ、皆さん区別なく以前からあの辺一帯を緑が丘と呼びますけどね。
(古くからの住人は西御料地区の一部としています)


> 驚いたのは、神楽岡ニュータウンの設計者が「天野太郎」という事でこの方は、かの有名な建築家FLライト(フランクロイドライト)の弟子です。

私は存じませんでしたが、そんな有名な方が設計してたんですね。
当時はどんどん人口も増えていたし、旭川始まって以来の本格的ニュータウンとして、たいへんな人気でしたよ。
「旭川じゃないみたい」と言う市民も多かったと思います。

 

Re: 緑が丘の住宅街

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 2月 9日(火)10時17分38秒
返信・引用
  > No.1136[元記事へ]

momongaさんへ

追加情報です。
区画が面白いのでなんとなく調べ始めたニュータウンですが、思わぬ収穫ですよ。
先ず、momongaさんも勘違いしているのではないかと思うのですが、
神楽岡ニュータウンが緑が丘ニュータウンに変わったのではなく、本来これは別物のようです。
-----------
神楽岡ニュータウン(新住宅市街地開発事業、開発主体:北海道庁・旭川市、設計:東京芸術大学天野太郎研究室、1970年(昭和45年)~1981年(昭和56年)
施行面積:94.0ha、計画戸数:2754戸-計画人口:10200人
道営旭川神楽岡ニュータウン
第2神楽岡ニュータウン
------------
緑が丘ニュータウン(都市計画法による開発許可、開発主体:民間開発、1981年(昭和56年)~1993年(平成5年)
施行面積:36.0ha、計画戸数:1098戸-計画人口:3600人
------------
となっています。
が、いつの間にか地名が緑が丘のせいなのでしょうか、全体を緑が丘ニュータウンと皆さん言っているのではないでしょうか。

驚いたのは、神楽岡ニュータウンの設計者が「天野太郎」という事でこの方は、かの有名な建築家FLライト(フランクロイドライト)の弟子です。
しかも旭川市市民文化会館の基本設計も行っていたとは、、、。

という事は、あのふるきのある一帯の住宅街は、当時そうとうな鳴り物入りで開発された場所だったんですね。
 

Re: 緑が丘の住宅街

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 2月 8日(月)11時35分10秒
返信・引用
  > No.1135[元記事へ]

momongaさんへ

なるほどぉ、期待以上の解説です。
歩道が無い!気付かなかった。
徹底した歩車分離政策だったんですね。
私は住宅を10軒ほどユニット化したようなコミュニティの為の政策なのかと思っていました。

> やはり車を分離しようという発想が強すぎて、実態にそぐわない街路設計ではなかったか?と思います。

理想郷を作ろうとしたけど、絵に描いた餅だったんですね。
でもそんな過去をもった地区だってことが分かっただけでも良かったです。
画一化されたものばかりでは楽しくないです。
歴史だって間違ったり方向転換したりを繰り返しながら豊かなものになってゆくわけで、
紆余曲折ってのはそれはそれで良い事なんだと思います。

PS.
momongaさんの解説を読んでから、歩車分離の宅地開発に関して調べたら、
こういった住宅地は「ラドバーン方式」という手法で、1920年代に提唱され
ニュータウンの開発に影響を与えたって書いてありました。
現在はどうかわかりませんが、緑が丘ニュータウンを作る頃に流行っていたのかも知れませんね。
 

Re: 緑が丘の住宅街

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 2月 5日(金)22時37分59秒
返信・引用
  かんじさんへ

あの頃は、排ガス公害や交通事故死者数がピークの時代で、
各地でノーカーデーを設けたり、自転車道を造ったり、かなり車を敵視する傾向にありましたよね。


緑が丘方式の道路構造が普及しなかったのは、結局のところ住民自身にとっても不便だったからではないでしょうか。
やはりあのどんづまり道路は、一箇所からしか出入りできない不便さと閉塞感がありますし、
ニュータウン内を車で行き来しようとする際の道路が、他の住宅街と比べるとかなり限定されるわけです。
抜けられると思ってあの袋小路に入り込んで来る車もけっこう多いですね。

それにお気づきかと思いますが、実は緑が丘ニュータウン内の車道は基本的に歩道が無いんですよ。
歩行者専用道が別にあるからという理屈なんでしょうが、歩行者用道路は各区画の内側に配置されているため、そこで生活する住民でない限り利用しません。
歩車道分離の押し付けのようなもので、今となっては逆に危険な道路が多いと言えます。
やはり車を分離しようという発想が強すぎて、実態にそぐわない街路設計ではなかったか?と思います。


米国式の住宅街なんかはおっしゃる通り曲線道路を組み合わせて構成されてますよね。
もともと車社会ですから車を排除しようという発想は毛頭なく、かといってあまりスピードの出せない構造という事で考えられています。
ダウンタウンが東西南北に真っ直ぐ線を引いただけの道路構造に対し、住宅街はかなり意図的に変化を持たせていますよね。
ただし、通りの名前を覚えてないと、自分がどこにいてどこを向いているのか皆目分からなくなるのが難点です。^_^;


 

Re: 緑が丘の住宅街

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 2月 4日(木)11時16分47秒
返信・引用
  > No.1131[元記事へ]

momongaさんへ

さすがmomongaさん、やっぱり答えてくれた。
なるほど、真中が広場になって通り抜けできないのは、住民と無関係の車を排除するためなんですね。
閑静な人重視のコミュニティを作ろうとしたわけか、五十嵐さんらしいんでしょうね。
でも結果的に他へ普及していないところを見ると、土地利用効率が悪いのかな。

住宅街の造成という意味では、アメリカをはじめとする諸外国では住宅地の道路は絶対に直線にはしません。わざと曲線を多用して曲がりだらけの住宅街を作ります。
それが変化があって人間的だと感じるんでしょうね。
https://www.google.co.jp/maps/@44.3867599,-79.7187492,1457m/data=!3m1!1e3?hl=ja
こんな感じです。
面白いですよね。
 

Re: 緑が丘の住宅街

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 2月 3日(水)22時23分27秒
返信・引用
  補足です。

緑が丘(神楽岡)ニュータウンが整備された当時は、神楽岡公園の裏手、現在の神楽岡通りはまだ未整備で、
東光側からは緑東大橋がかけられましたが、上川神社側からは飛び地のような状況でした。

 

Re: 緑が丘の住宅街

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 2月 3日(水)22時04分8秒
返信・引用
  モリゴロウさんへ

多少記憶違いがあるかと思います。
緑が丘ニュータウン造成の後、医大が誘致され、工業高も移転され、周辺がさらに開発されました。
ウッドタウンというのはたぶんリサーチパーク向かい側の住宅地の事かと思われ、緑が丘ニュータウン整備の後に分譲された宅地です。
あそこは確かに当時も医大先生目当ての高級住宅街と言われ、地元民にはちょっと手の出ない価格帯の住宅街でしたね。

現在の緑が丘東・南地区は、いわゆる緑が丘ニュータウンが造成された後の開発で、
元々の緑が丘ニュータウンは、モリゴロウさん言われる通り最初から地下横断歩道が造られるくらい整備されてましたよ。

 

Re: 緑が丘の住宅街

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 2月 3日(水)21時29分49秒
返信・引用
  かんじさんへ

緑が丘の住宅街は全て旭川市による造成&分譲ですね。
昭和45~6年頃の造成だったと思います。

当時の五十嵐広三市長の肝入りで、歩車道を完全分離した画期的な?住宅街として造成されました。
各区画の真ん中が広場の様になってるのは、意図的に車が通り抜けできないような構造にしたためです。
(私はけっして良い構造とは思ってませんが・・)

つまり、緑が丘のあの変わった道路構造は全て意図的に施したものです。
造成時は「神楽岡ニュータウン」と呼んでましたが、造成完了後は「緑が丘」なるどこにでもある町名が付けられました。
旭川市自ら造成した宅地というのは後にも先にもここだけじゃないかな。
分譲販売ももちろん旭川市で、確か2年か3年以内に家を建てるという条件があったはずです。

 

Re: 緑が丘の住宅街

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 2月 3日(水)18時39分15秒
返信・引用
  > No.1128[元記事へ]

かんじさんへ

momongaさんの質問に横ヤリしてすいません

余談として聞いて下さい

昭和49年当時、私の同級生が引っ越し(転校)した家に遊びに行ったのですが当時は「緑が丘ウッドタウン」と呼ばれ造成されていたと記憶してます(同級生が緑が丘ウッドタウンに家を建てたと自慢してたんで)

遊びに行った「緑が丘」は道路の端はまだジャリだったり、植樹や花壇の整備をしていた記憶もあります
やはり緑と融合した街づくりをイメージしていたのではないかと思いますが~旭川市が関与していたかはわかりません

車通りも少ないコンクリートと木の街並みに地下歩道橋があったのが今でも思い出されます
 

Re: ブーベの恋人

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 2月 3日(水)18時22分26秒
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  かんじさんへ

お近くにお住まいでしたか!

この投稿後、私の父親と話す機会があり聞いてみると(父は43年からタクシー運転手をしてました)

「羽衣トルコは良く知ってるぞ」と

当時、旭川には3条の「旭川トルコ」(のちにコルトに改名)と「羽衣トルコ」があり
要望がある(笑)お客さんを乗せたそうです(旭橋観光センターはもう少し後で出来たようです)

「羽衣トルコ」の方はタクシーでお客さんを連れて行くと初乗りが80~100円くらいの時に、
管理しているおばちゃんが200円ものチップをくれたそうです

「旭川トルコ」の方はそのような心遣いも無かったのでタクシーの運転手さんは「ご利用」のお客さんの
指定がない限り「羽衣トルコ」に連れて行ったそうだす(笑)でも「タマ揃えは旭川トルコの方が良かった」と(爆)

「旭川西高校が移転する頃に無くなったなぁ」と付け加えていました

あ、momongaさん こんな下ネタを書き込んでスイマセン

ご不快になりましたらお取消し下さいませ<m(__)m>
 

緑が丘の住宅街

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 2月 3日(水)17時31分57秒
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  momongaさんに質問です。
緑が丘の有名なラーメン屋のふるきの裏に広がる住宅街って、区画がなんか独特ですよね。
普通に道路が交差する区画割じゃなく、ワンブロック毎に中央に車が乗り入れる広場があります。
10世帯位が共同で生活するって感じなんですけど、他では見られない住宅街だと思うんです。
これって何かの実験的にこんな形にしたんでしょうか?
その後、他では見られないので成功したとも思えないのですが、
何をしようとして結果どうだったのかなんてわかりませんかね?

そういえばそこに知り合いが住んでいるんですが、その人が言うには
昔、その中央の処に花を植えなさいと、市から指導を受けたというのです。
という事はあそこは旭川市が造成して販売したんですか?
 

Re: ブーベの恋人

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 2月 3日(水)17時18分20秒
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  > No.1126[元記事へ]

モリゴロウさんへ

> その右側ため池の周りに羽衣〇〇〇なる大人のアミューズセンターが(笑)
> ため池がありその引き込みは「近文オホーツナイ川」と思われます
>
> 当時、林産試験場や木工会社が多かった近文、川端地区にこんな施設(笑)があったなんて

ごく近くに住んでいました。
家の向かいが林業指導所(現林産試験場)で親が木材会社にいたものでね。
でも当時さすがに大人の世界の事はわからなかったなぁ(笑)
 

Re: ブーベの恋人

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 2月 1日(月)16時10分5秒
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  > No.1125[元記事へ]

ブーベの恋人の続き~

日本地図編集社 昭和41年度の住宅地図を見てきました

昭和40年の謎の書き込みだった「ブーベの恋人」は編集され消されていました(笑)

やはりイタズラ書きだったのでしょうね

さらに41年度版には老人ホームから偕行社に復活していました(まだかなり怪しい姿ですが)
最初の調査人は、かなりいい加減な仕事をしていたのでしょうね(写真一枚目)

そして気になる?地区を発見したのを写真二枚目で紹介します

左側の道路は下に向かうと旭西橋、上方向はイオン旭川西になります
左の「瀬尾商店」あたりが今の血液センターにあたる場所です
その右側ため池の周りに羽衣〇〇〇なる大人のアミューズセンターが(笑)
ため池がありその引き込みは「近文オホーツナイ川」と思われます

当時、林産試験場や木工会社が多かった近文、川端地区にこんな施設(笑)があったなんて

ご報告まで


 

Re: ブーベの恋人

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 1月28日(木)18時32分31秒
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  > No.1124[元記事へ]

momongaさん

やはりこの地図の信頼性はないようですね

偕行社の建物があまりにもボロくて何かわからず記載したくなかったのか?(笑)

ブーベの恋人も落書きと言うのも納得いきます

まぁこれからは楽しい読み物として閲覧してきますわ(笑)

私が初めて偕行社を見たのは昭和49年、旭川市郷土博物館として使用されていました

そんな事を思い出しました

また疑問が生まれたら教えてくださいね!

ありがとうございました!
 

Re: ブーベの恋人

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 1月28日(木)00時04分14秒
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  う~ん、かなりいい加減な地図ですねえ~。
まあ、昔の手書きの住宅地図のようですから、個人宅名の記載を優先して実際とは建物や道路の位置がズレてるんでしょうね。
それにしても、園内路なんかもずいぶん実際とは違ってますね。

偕行社は建築当初から現在の場所に変わりがありません。
戦後は進駐軍が接収し、その後仮校舎などに使われたようですが、老人ホームというのは聞いた事がありません。
そんなものに利用できるような造りではないですよね。
ちなみに昭和40年頃はお化け屋敷でした。(笑)
http://homepage2.nifty.com/momonga_farm/gunto/kaikousya.html

昭和43年に復元され、建築当時の美しい姿に戻されました。
現在も大改修中で3年前から閉館中です。


 

Re: ブーベの恋人

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 1月27日(水)14時25分12秒
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  > No.1122[元記事へ]

momongaさん、かんじさん、ご返答ありがとうございます。

やはり謎ですよね(笑)

かんじサンの言う通り、作成者のイタズラ書きっぽい気がしてきました

旭川図書館にはこの地図会社(日本地図編集社)の昭和40年、41年、42年、44年、45年、48年が
保管されているようですので全部調べてきますね!


そしてもう一つ同じ地図の他のページに腑に落ちない所がありましたのでお聞きしたいと思います

コレは春光園の所になりますが偕行社が無いんですよ

偕行社は1902年の建設当時からあの場所にあって移転してきた訳ではないですよね?

昭和40年当時は偕行社が老人ホームだったとか?

この地図自体が信頼性が無い物なのか気になります





 

Re: ブーベの恋人

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 1月26日(火)21時07分33秒
返信・引用
  モリゴロウさん、かんじさんが言われる通りバンザイです(笑)

確かにモーテルで昔「ブーベの恋人」というのがあったような気がしますが・・・記憶が定かではありません。
もちろん、あったとしても川の真ん中にある訳はありませんよね。

謎です。


 

Re: ブーベの恋人

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 1月26日(火)13時13分26秒
返信・引用
  モリゴロウさんへ

> 諸先輩方のご意見をお願いします!

あまりにも難問奇問ですね。
これにはいくら旭川の歴史に詳しいmomongaさんでもお手上げだと察します。

そこで私が珍解答を、、、、。
「ブーベの恋人」を色々と検索してみますと、当時相当に流行った映画のようですね。
ジョージチャキリスなんて私でも知っている俳優が主演しています。
さらには永遠のアイドル「ザ・ピーナッツ」、さらには「いしだあゆみ」までがブーベの恋人というシングルレコードを出しているではないですか。
当時の社会現象だったかも知れません。

ということで私の回答は、「地図の作者がいたずらでブーベの恋人という言葉を隠し入れた」です。
映画なんかでもカメオ出演とか、ちらっと冗談で有名人をいれたりしますよね。
昔の建物でも解体すると中にいたずら書きがあったりもします。

そんないたずらではないでしょうか、、、、。(^^;


 

ブーベの恋人

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 1月25日(月)11時43分45秒
返信・引用
  先日、市立図書館にて昭和40年旭川住宅明細地図を閲覧した時に謎の言葉を発見しました

まだ旭川大橋が掛る前の忠別川に「ブーペの恋人」なる文字が記載されていました
(文字の場所的には後の旭川大橋が掛る場所です)
当時の住宅地図ですので手書きの地図ですが川の部分はスクリーントーンが貼られていて削り込み文字が見えるようにしてあります

写真ではイタズラの様に見えますが後から書き込んだ物でもなくシッカリと印刷されています

後で「ブーベの恋人」を調べてみるとイタリアの小説で昭和38年に映画化されていると判明しました

しかし何故、川の真ん中に書いてあるのでしょうか?
そこに看板があったとか、川の中州に「ブーベの恋人」を名乗るモーテルがあったとか?(考えすぎ)笑

諸先輩方のご意見をお願いします!
 

Re: 近文25丁目

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 1月 7日(木)17時53分26秒
返信・引用
  > No.1118[元記事へ]

momongaさんへ

早速のご回答ありがとうございます!

友人の話はほぼ正解だったんですね~

私も親からそんな話を昔聞いた気がしてましたが「なぜ?」こんな離れた場所に??と

疑問符がついたまま月日は流れてうろ覚えな感じでした

友人は「今のイオンの前に鉄道学校があった」などと初耳の話ばかり聞いて

まだまだ修行が足りないと痛感中です

ありがとうございました!
 

Re: 近文25丁目

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 1月 7日(木)10時01分4秒
返信・引用
  モリゴロウさん今年も宜しくお願いします。

件の場所にあったのは、現在の医療センター(道北病院)の前身で、国立療養所ですね。
主に結核患者が入院し、療養していました。
昔は結核は不治の病と言われましたし、伝染の可能性もありますから、
その結核患者向け施設という事で隔離施設などという風評が立ったのでしょうね。

国立療養所道北病院となった時に、現在の40号線沿いに移転し、近文の跡地は空地になりました。
以来ずっと空地のままですが、今は確か市有地になってるんじゃなかったかな。

現在も医療センターの上階部分は結核患者向けの病室になってると思います。


 

近文25丁目

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 1月 6日(水)18時03分46秒
返信・引用
  諸先輩方今年もよろしくお願いします!

新年早々ですが友人と話をしていた時、近文25丁目(現在は排雪の雪置き場)に

病院関係?隔離施設のようなモノがあったと言う話を聞きました

昭和59年頃に平屋の建物が何軒か残っていたのを記憶していますが

あの広い敷地で木に囲まれていた場所に何があったのかご存知でしたら

ぜひ教えて頂きたいと思います

よろしくお願いします
 

謹賀新年

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 1月 3日(日)11時40分48秒
返信・引用
  あけましておめでとうございます。
昨年は、旧第七師団司令部の基礎が発掘された事を、いち早くこの掲示板読者が発見し、新聞報道を通じて社会に公開されるなど、大きな意義のある年だったと思います。
今年もまた更に旭川の歴史の探求に努め新たな発見でもあれば良いですね。
よろしくお願い申し上げます。
                                かんじ
 

新年

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 1月 3日(日)09時20分27秒
返信・引用 編集済
  明けましておめでとうございます。

本年も皆様との歴史談義・まち談義を楽しみにしております。
宜しくお願い申し上げます。



 

ようやく休みです

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年12月31日(木)12時42分19秒
返信・引用
  この年末、とうとう昨日ぎりぎりまで仕事に追われました。
ようやく今日大晦日から年末年始休暇に入れました。

それでなくとも今年の年末年始のカレンダーの巡り合わせはあまり良ろしくないですが、
私はさらに縮まりそうです。(涙)
こんな事言ってたら、正月も休み無く働く方々に叱られるかな。


天気もこの年末年始は荒れる事はなさそうですが、当たる事を願っています。
皆さま、良いお年を。


 

久々に冷え込みましたね

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年12月23日(水)21時45分37秒
返信・引用
  気が付いたらひと月以上書き込んでませんでした。m(__)m
この12月、仕事やら何やらで忙殺されております。
私の大嫌いな年末が未だ進行中です。(笑)

でも不幸中の幸いは、今冬もここまでは雪が少ない事ですね。
12月に入ってからずっと日中の気温がプラスで、真冬日がほとんどないってのは旭川ではちょっと異常です。
一時けっこう積もった雪も融けてしまったので、記録的な小雪だった昨冬の積雪をも下回っていますよね。
http://www.jma-net.go.jp/sapporo/tenki/kansoku/snow/snowmap/snowgraph.html?&no=14&element=Snc9am&dateSelect=2015-12-23

まあ、このままで済むとは思ってませんが、
それにしても天気予報の外しっぷりは益々ひどくなってますねぇ・・・
以前にも指摘した事がありますが、降雪の予報はもちろん、気温の予報も平気で±3℃以上外します。
http://9008.teacup.com/momonga_farm/bbs/700
今朝の気温も、昨日の降雪も、やっぱり外してましたよね。

いい加減考え直したほうがよろしいのではないでしょうか、予報屋さん。


 

Re: 門柱移設は24日

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年11月19日(木)10時07分30秒
返信・引用
  > No.1111[元記事へ]

momongaさんへ

> 11tって・・・とんでもなく重たいんですねぇ、想像を遥かに超えてます。
1mx1mx4.5mx2.4=10.8t
こんなレベルだと思います。
25tクレーンを使うと言っていましたが、一般的には表示の4分の1程度のものしか吊らないので、無理があれば2つに切断も考えているとも言っていました。

> 門柱周りでの構築物といえば哨舎くらいしかないですから、その残骸のような気がします。
なるほど。自衛隊の方は古い門柱の基礎かなぁなんて言っていましたがわからなさそうでした(^^;

> ちなみに、自衛隊員の方が作業をしてるんですネ。
そうなんです。門柱の移設はあくまでも訓練のいっかんとして自衛隊が行うそうです。

あと北側の広い土地を掘り返して埋設物調査をやっていますが、何も出てこないと言っていました。確かに昔の写真を見ても北側にはたいして建物が無かったように思います。

 

Re: 門柱移設は24日

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年11月18日(水)21時17分37秒
返信・引用
  かんじさんへ

いよいよか、という感じですね。
11tって・・・とんでもなく重たいんですねぇ、想像を遥かに超えてます。

何か不明の基礎が出てきたという事ですが、大きさからしてもしかしたら歩哨の立ってた哨舎の基礎ではないでしょうか?
明治時代に造られた哨舎は木造ですが、背面にコンクリート製の防弾壁が建てられています。
たぶん門柱がコンクリート製になった時に哨舎もコンクリート製に造り替えられたと思われますが、
レンガ製の基礎はそのまま生かされたとか?
門柱周りでの構築物といえば哨舎くらいしかないですから、その残骸のような気がします。


ちなみに、自衛隊員の方が作業をしてるんですネ。



 

門柱移設は24日

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年11月18日(水)15時32分20秒
返信・引用
  門柱の移設が報じられていますが、今日作業をしているところを見てきました。
現在は緩衝材で保護され丈夫なラップのようなもので幾重にも巻かれている状態です。
基礎を確認する為に周囲を掘り下げています。
25tクレーンを使っての実際の移設は24日から行うそうです。ただ門柱が非常に重く
大きいもので11tほどもありなかなか難航しそうとの事でした。
上部の方は風化が進んでいますが地中はしっかりした状態で、やはり非常に硬いそうです。
周囲を掘ると1.5mほど離れた場所で写真のように何かの基礎煉瓦が出てきたそうですが、何かは不明との事。

司令部の基礎部分は防衛省や教育委員会で検討した結果、そのまま埋め戻すことになり
現在は既に埋め戻されていました。
掘り返せばたぶん司令部全体の基礎が埋まっているだろうとの事ですが、現在進めている調査が終われば民間に売却が決まっているようで、そうなると司令部の半分は民間に売り渡されます。
その後何かの建てものが立つのであれば、その時点で無くなってしまうでしょうね。
それでも半分は自衛隊の宿舎の駐車場の形でしばらくは地中で眠りそうです。

そうそう。司令部基礎の煉瓦をすこし頂いてきました(^^;

 

旧七師団司令部門柱移設

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年11月13日(金)10時33分31秒
返信・引用
  今朝、報じられましたね。

私もかんじさんと考えが一緒で、こういった遺構・遺跡は「その場所にある」ことが最も重要な要素だと思います。
移設してしまったら単に形を残したというだけで、存在価値としては半減以下。
中には形そのものが貴重な文化財も多いでしょうが、
特にこの門柱の場合は「ここに司令部があった」という指標的な意味での価値が大半ではなかったでしょうか。
造形的な文化価値はそれほど高いとは思えません。
つまり場所を移した時点でその価値はほぼ無くなるに等しいと思うのです。

何とか今の場所で環境整備してほしかったのに、とても残念です。




PS:門柱のそばに立っている松の木も確か司令部時代からのものだと思いますが、
   あれはどうなるのかな?
 

Re: 明治35年のコンクリート

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2015年11月 9日(月)16時24分18秒
返信・引用
  > No.1102[元記事へ]

昨日現在の工事現場の状況です

キレイにまわりの土もよけられていてしっかりと観察出来ました

レンガとコンクリート片は一か所にまとめられて置かれていました

遺跡跡を発掘している雰囲気が醸し出されているようでした

このまま保存して欲しいものです
 

Re: こんなことに…

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年11月 9日(月)13時52分49秒
返信・引用
  あずさんへ

> コンクリートネタとしては、小樽の北防波堤だったかな?100年以上も現存していて、たしか火山灰を練り込み強度を増したとか…。ラジオで聞いたような記憶があります。確かそうですよね、かんじさん。

お詳しいですね。
私も専門家ではありませんが、明治時代に小樽の北防波堤を設計し作った方は広井勇といいまして日本のコンクリートの父であり、その時に6万個もの強度試験体を作り100年を過ぎた今も強度試験を続けているそうです。
興味のある方はこちらを読んでください。
http://www1.hus.ac.jp/~hit_doboku/doboku/1_hiroi.html


旭川市役所が老朽化で建て替えを余儀なくされていると聞くと、コンクリートも老朽化するんだと思われがちですが、私には老朽化しているのは設備関係であり躯体が老朽化しているとは思えません。
残念なことに57年前には耐震設計ではありませんので、いまの耐震基準ではアウトなのでしょう。
ただこの耐震診断も建築の友人に言わせると、何通りもの診断方法がありアウトになった診断方法ではないものも試すべきだと主張しています。
57年前と聞くと、わー古いんだね→壊してもあたりまえという感覚が多くの人にあるのが残念です。50年も経てば古くなって壊すのが当たり前なのは、「ウサギ小屋」と揶揄された日本の粗末な住宅だけです。
公共建築物は100年以上持つのがあたりまえという感覚でものを作ってもらいたいものです。


自衛隊の官舎のある場所は、国の土地を防衛省が借りているそうですね。
そこで一旦財務省に返却して、地下1.5mまでの深さにおかしなものが埋まってはいないかを調査の上売却されると聞きました。
 

Re: こんなことに…

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年11月 7日(土)12時50分12秒
返信・引用
  あずさん、世間は大騒ぎですよ。(笑)
と言えば少々大袈裟ですが、でもあずさんの情報が発端なのは間違いないです。

私もコンクリートは年数が経つほどに固さが増して行くという話しを聞いた事があります。
これが、かんじさんの言われるセメントの質なのか、元々コンクリートが持つ特性なのかは分かりませんが・・・
ダムなんかも、何十年かで限界が来ないのかな?なんて考えますが、あまりそういう話は聞かないですよね。
市役所は60年経って老巧化が激しいなんて言われてるのに・・・


それはともかく、
今回話題の春光の自衛隊宿舎一帯は、更地がかなりの部分を占めてますし、空家も増えているようですが、
あの辺の国有地は全て売却されるという事なんでしょうかね?
他の場所に新たな宿舎を建ててる話も聞かないし、それだけ隊員が減ったという事なのかな?


 

Re: 北海道東海大学

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年11月 7日(土)12時26分1秒
返信・引用
  モリゴロウさんへ

私は東海大学の撤退をあっさり許してしまった旭川市にも少し憤りを感じています。
「私大の経営方針だから仕方ない」で、ほとんど何もしなかったのではないでしょうか。

単に大学が1つ減るというだけではなく、私が最も残念に思うのは、東海大学旭川校は数少ないデザインを学べる学科を有していたという事です。
昔と比べ衰退したとはいえ、旭川は依然日本有数の家具のマチで、現在でも全国的に一目置かれる地位を保っているのはそのデザイン力です。
昔はごっつい箱物家具ばかりつくってましたが、
先日亡くなられたカンディハウスの長原氏を中心に数十年前からデザインを重視し、
国際家具デザインフェアを開催するなど、デザイン力の向上に力を入れてきました。

そのデザイン力向上の一翼を担ってきたのが東海大学旭川校ではなかったでしょうか。
地元の木材屋さんに頼んでつくってもらった私の家のテレビ&オーディオ棚も、
デザインしてくれたのは、東海大の卒業生でした。
「旭川の歴史的建物の保存を考える会」の川島先生も元々東海大ですよね。

旭川にこそ、こういった大学は必要なんですけどねぇ。
今さら手遅れですが・・・
 

こんなことに…

 投稿者:あず  投稿日:2015年11月 7日(土)09時36分29秒
返信・引用
  momongaさん、かんじさん、一週間ぶりですね。
道新の記事も見ていなかったので、まさかこんなことになっているなんて驚きです。

コンクリートネタとしては、小樽の北防波堤だったかな?100年以上も現存していて、たしか火山灰を練り込み強度を増したとか…。ラジオで聞いたような記憶があります。確かそうですよね、かんじさん。

それにしても、どこまで記録・保存されるのかが楽しみです。
とりあえず、処分しなくてはいけない残土や「ガラ」も、多少はサンプルとして残したり…。

かんじさん情報の、目的は国有地の売却のための埋設物調査…ですが、このエリアは自衛隊の官舎が建っていたので、多くは昭和40年代~に一度掘った場所も多いのですが、その当時でも古い建物が残っていました。上物は無くなった後も、そのままになっている場所が北西側にあります。解体時に基礎まで撤去したかどうかは分かりませんが…。

古い資料を頼りに調査するのでしょうけど、もし国有地が売却された後に何かしらの建物がいざ新築って時に過去の埋蔵物が出るわ出るわ…。なんてことになりかねないですものね。

たぶんやるからには、徹底的にすることでしょう。
楽しみ~。



 

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