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函館本線消滅

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 2月28日(日)23時44分25秒
返信・引用
  函館本線は、明治13年に官営幌内鉄道として小樽手宮~札幌間が部分開通したのが始まりです。
幌内鉄道はその名の通り、小樽港と幌内(三笠)の炭鉱とを結ぶのが目的で明治15年に全線開通しました。
その後経営は北海道炭鉱鉄道となり、空知の炭田開発を追うように延伸され、明治25年には空知太(滝川付近)まで達しました。

この頃は、あくまで石炭を運ぶ事が目的の鉄道であって、旅客を乗せるのはついでの様なものでした。
事実、上川へ入植する屯田兵や一般移住者は、小樽から空知太まで”炭車”に載せられたそうです。
(今どき”炭車”と言われても分からない人が多いと思いますが・・・)
そこからさらに2日がかりで徒歩や荷馬車で忠別太・永山までたどり着きました。

その後、空知太~旭川間は北海道官設鉄道が明治31年に上川線として開通させ、
経営母体は異なるものの、旭川と小樽が鉄路で結ばれる事となります。
函館側はこれより少し遅れ、これまた経営母体の違う北海道鉄道が明治35年より順次延伸し、
明治38年、小樽にて北海道炭鉱鉄道に接続し、ついに旭川と函館が鉄路で繋がりました。

これら経営母体がバラバラだった鉄道は、国策により順次国有化が進められ、
全線国有化完了後の明治42年、国鉄「函館本線」と命名されました。
以来100余年、この路線は北海道を代表する基幹路線としてその名が続いてきました。

中間に札幌があるにも関わらず、あえて起終点を旭川としたこの長大路線は、
当時の鉄道交通の要が、札幌ではなく旭川であった事の証でもあるのです。



さて、ここからが本題です。
いよいよ北海道新幹線の開業まで1ヶ月を切りました。
北海道新幹線とは言っても、正直言って旭川人にとってほとんど”他県”の出来事みたいなもんですけどネ。^^;

当面の終点である新函館北斗までの平行在来線である木古内線は、3セク移管での運営が決まっています。
さて、何年もつでしょうか。

問題は、札幌までの延伸が実現した時です。
函館以北の平行在来線も同じように3セク移管となります。
つまり、函館本線の函館-札幌間がその対象になるわけです。
これは何を意味するか?

おそらく、函館-長万部-小樽-札幌間の鉄路が、明治時代のように経営母体がバラバラに分断されるでしょう。
函館-長万部間は室蘭線経由の貨物路線が残りますが、長万部-小樽間は鉄路の存続すらあやしい。

要するに、明治42年以来続いてきた旭川-函館間の鉄路は一貫した経営母体ではなくなるわけです。
へたをすると、鉄路自体が寸断される可能性もある。


もうお分かりでしょうが、その時点で「函館本線」を名乗れなくなるということです。
札幌-旭川間は(おそらく札幌-小樽間も)引き続きJR北海道が運営するでしょうが、
函館まで繋がっていないのに、路線名に函館を残す事は有り得ません。
たぶん、またぞろ札幌目線で「旭川線」とか「小樽線」とかに変えられてしまうのではないでしょうか。

まだしばらく先の事とはいえ、北海道新幹線の話題が高まるごとにそんな事を思い浮かべる次第です。





 

Re: この流れですみません、、、

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 2月27日(土)17時04分40秒
返信・引用
  ユーリさん、やっぱり書き込みうまく行かなかったのかナ・・・

 

Re: この流れですみません、、、

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 2月16日(火)23時04分14秒
返信・引用
  ユーリさん初めまして。
全然この掲示板の趣旨と外れてませんよ。


私が旭川の歴史に興味を持ったきっかけですか?
それはやはり上川離宮計画の存在ですね。
最初はただ漠然と「ふ~んそんな計画があったんだ」程度でした。

ところが、もっぱら「幻の計画」と呼ばれるこの離宮計画が、実はあと一歩で着工されるはずだった現実の計画だった、と知った時に俄然興味が湧きました。
オイオイ、幻どころかこの計画が旭川発祥の原点そのものじゃないか、屯田兵はそれに付随したものじゃないか、とね。
そこから色々調べるようになりました。
旭川の原点が上川離宮であるように、私の歴史への原点も上川離宮です。

あともう一つ、"旭川"という地名由来への疑問も大きいですね。
私が歴史に興味を持つようになる以前から、アイヌ語意訳による旭川の地名由来には全く説得力を感じていませんでした。
素人目にも「こりゃ完全にこじ付けだろう」という客観的感想です。

上川離宮と共に、地名に対するこだわりも私が郷土史への興味を強めるきっかけになりましたよ。




 

この流れですみません、、、

 投稿者:ユーリ  投稿日:2016年 2月16日(火)16時07分32秒
返信・引用
  初めまして!

HPとても勉強になります!
これを無料でやっているのに驚きです。

僕は気の向くままに郷土史を調べている
若輩者です。

掲示板の趣旨とは外れて、不躾な質問かもしれませんが
momongaさんが郷土史に興味を持った切っ掛けはなんでしたか?
もし宜しければ教えて頂きたいです。
 

Re: 緑が丘の住宅街

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 2月13日(土)13時08分47秒
返信・引用
  かんじさんへ

ご指摘の緑が丘ニュータウンは、開発の時期から推測してたぶん工業高校の南側一帯の事を指していると思われます。
工業高校の今の場所への移転もその頃ではなかったかな・・・
今の高等技専や中小企業大学の神楽岡通りを挟んだ向かい側で、住民の人達はサニータウンと呼んでます。
私もここが緑が丘ニュータウンの開発名が付いていたとはちょっと記憶にありませんでした。
開発主体が民間になってますが、3セクの旭川振興公社ではなかったかと思います。


> が、いつの間にか地名が緑が丘のせいなのでしょうか、全体を緑が丘ニュータウンと皆さん言っているのではないでしょうか

そのとおりです。
神楽岡ニュータウンの造成前の実際の町名は、神楽岡ですらなく、西神楽〇線〇号だったと思います。
神楽岡ニュータウンの名で造成が進んで、分譲が開始される頃に緑が丘の住居表示が実施されました。
今の環状線の内側までですね。(医大などはつい10数年前まで西神楽4線5号でした)
それ以降一般には神楽岡ニュータウンと呼んだり緑が丘ニュータウンと呼んだりしてましたが、
さすがに年月と共に町名である緑が丘が定着して行きましたね。
たぶん役所が使う開発名称は、あくまで神楽岡ニュータウンのままなんでしょうけど。


件の緑が丘ニュータウンは、緑が丘の町名が現れた後の造成ですから、開発名称にも緑が丘の名を使ったんでしょうね。
でも、医大と同じで実際の住所は長いこと西神楽3線5号でしたよ。
さらにややこしい事に、ここに並んでる道営住宅は「道営第二神楽岡団地」といって神楽岡の名を使ってるんですよ。^^;
まあ、皆さん区別なく以前からあの辺一帯を緑が丘と呼びますけどね。
(古くからの住人は西御料地区の一部としています)


> 驚いたのは、神楽岡ニュータウンの設計者が「天野太郎」という事でこの方は、かの有名な建築家FLライト(フランクロイドライト)の弟子です。

私は存じませんでしたが、そんな有名な方が設計してたんですね。
当時はどんどん人口も増えていたし、旭川始まって以来の本格的ニュータウンとして、たいへんな人気でしたよ。
「旭川じゃないみたい」と言う市民も多かったと思います。

 

Re: 緑が丘の住宅街

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 2月 9日(火)10時17分38秒
返信・引用
  > No.1136[元記事へ]

momongaさんへ

追加情報です。
区画が面白いのでなんとなく調べ始めたニュータウンですが、思わぬ収穫ですよ。
先ず、momongaさんも勘違いしているのではないかと思うのですが、
神楽岡ニュータウンが緑が丘ニュータウンに変わったのではなく、本来これは別物のようです。
-----------
神楽岡ニュータウン(新住宅市街地開発事業、開発主体:北海道庁・旭川市、設計:東京芸術大学天野太郎研究室、1970年(昭和45年)~1981年(昭和56年)
施行面積:94.0ha、計画戸数:2754戸-計画人口:10200人
道営旭川神楽岡ニュータウン
第2神楽岡ニュータウン
------------
緑が丘ニュータウン(都市計画法による開発許可、開発主体:民間開発、1981年(昭和56年)~1993年(平成5年)
施行面積:36.0ha、計画戸数:1098戸-計画人口:3600人
------------
となっています。
が、いつの間にか地名が緑が丘のせいなのでしょうか、全体を緑が丘ニュータウンと皆さん言っているのではないでしょうか。

驚いたのは、神楽岡ニュータウンの設計者が「天野太郎」という事でこの方は、かの有名な建築家FLライト(フランクロイドライト)の弟子です。
しかも旭川市市民文化会館の基本設計も行っていたとは、、、。

という事は、あのふるきのある一帯の住宅街は、当時そうとうな鳴り物入りで開発された場所だったんですね。
 

Re: 緑が丘の住宅街

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 2月 8日(月)11時35分10秒
返信・引用
  > No.1135[元記事へ]

momongaさんへ

なるほどぉ、期待以上の解説です。
歩道が無い!気付かなかった。
徹底した歩車分離政策だったんですね。
私は住宅を10軒ほどユニット化したようなコミュニティの為の政策なのかと思っていました。

> やはり車を分離しようという発想が強すぎて、実態にそぐわない街路設計ではなかったか?と思います。

理想郷を作ろうとしたけど、絵に描いた餅だったんですね。
でもそんな過去をもった地区だってことが分かっただけでも良かったです。
画一化されたものばかりでは楽しくないです。
歴史だって間違ったり方向転換したりを繰り返しながら豊かなものになってゆくわけで、
紆余曲折ってのはそれはそれで良い事なんだと思います。

PS.
momongaさんの解説を読んでから、歩車分離の宅地開発に関して調べたら、
こういった住宅地は「ラドバーン方式」という手法で、1920年代に提唱され
ニュータウンの開発に影響を与えたって書いてありました。
現在はどうかわかりませんが、緑が丘ニュータウンを作る頃に流行っていたのかも知れませんね。
 

Re: 緑が丘の住宅街

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 2月 5日(金)22時37分59秒
返信・引用
  かんじさんへ

あの頃は、排ガス公害や交通事故死者数がピークの時代で、
各地でノーカーデーを設けたり、自転車道を造ったり、かなり車を敵視する傾向にありましたよね。


緑が丘方式の道路構造が普及しなかったのは、結局のところ住民自身にとっても不便だったからではないでしょうか。
やはりあのどんづまり道路は、一箇所からしか出入りできない不便さと閉塞感がありますし、
ニュータウン内を車で行き来しようとする際の道路が、他の住宅街と比べるとかなり限定されるわけです。
抜けられると思ってあの袋小路に入り込んで来る車もけっこう多いですね。

それにお気づきかと思いますが、実は緑が丘ニュータウン内の車道は基本的に歩道が無いんですよ。
歩行者専用道が別にあるからという理屈なんでしょうが、歩行者用道路は各区画の内側に配置されているため、そこで生活する住民でない限り利用しません。
歩車道分離の押し付けのようなもので、今となっては逆に危険な道路が多いと言えます。
やはり車を分離しようという発想が強すぎて、実態にそぐわない街路設計ではなかったか?と思います。


米国式の住宅街なんかはおっしゃる通り曲線道路を組み合わせて構成されてますよね。
もともと車社会ですから車を排除しようという発想は毛頭なく、かといってあまりスピードの出せない構造という事で考えられています。
ダウンタウンが東西南北に真っ直ぐ線を引いただけの道路構造に対し、住宅街はかなり意図的に変化を持たせていますよね。
ただし、通りの名前を覚えてないと、自分がどこにいてどこを向いているのか皆目分からなくなるのが難点です。^_^;


 

Re: 緑が丘の住宅街

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 2月 4日(木)11時16分47秒
返信・引用
  > No.1131[元記事へ]

momongaさんへ

さすがmomongaさん、やっぱり答えてくれた。
なるほど、真中が広場になって通り抜けできないのは、住民と無関係の車を排除するためなんですね。
閑静な人重視のコミュニティを作ろうとしたわけか、五十嵐さんらしいんでしょうね。
でも結果的に他へ普及していないところを見ると、土地利用効率が悪いのかな。

住宅街の造成という意味では、アメリカをはじめとする諸外国では住宅地の道路は絶対に直線にはしません。わざと曲線を多用して曲がりだらけの住宅街を作ります。
それが変化があって人間的だと感じるんでしょうね。
https://www.google.co.jp/maps/@44.3867599,-79.7187492,1457m/data=!3m1!1e3?hl=ja
こんな感じです。
面白いですよね。
 

Re: 緑が丘の住宅街

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 2月 3日(水)22時23分27秒
返信・引用
  補足です。

緑が丘(神楽岡)ニュータウンが整備された当時は、神楽岡公園の裏手、現在の神楽岡通りはまだ未整備で、
東光側からは緑東大橋がかけられましたが、上川神社側からは飛び地のような状況でした。

 

Re: 緑が丘の住宅街

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 2月 3日(水)22時04分8秒
返信・引用
  モリゴロウさんへ

多少記憶違いがあるかと思います。
緑が丘ニュータウン造成の後、医大が誘致され、工業高も移転され、周辺がさらに開発されました。
ウッドタウンというのはたぶんリサーチパーク向かい側の住宅地の事かと思われ、緑が丘ニュータウン整備の後に分譲された宅地です。
あそこは確かに当時も医大先生目当ての高級住宅街と言われ、地元民にはちょっと手の出ない価格帯の住宅街でしたね。

現在の緑が丘東・南地区は、いわゆる緑が丘ニュータウンが造成された後の開発で、
元々の緑が丘ニュータウンは、モリゴロウさん言われる通り最初から地下横断歩道が造られるくらい整備されてましたよ。

 

Re: 緑が丘の住宅街

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 2月 3日(水)21時29分49秒
返信・引用
  かんじさんへ

緑が丘の住宅街は全て旭川市による造成&分譲ですね。
昭和45~6年頃の造成だったと思います。

当時の五十嵐広三市長の肝入りで、歩車道を完全分離した画期的な?住宅街として造成されました。
各区画の真ん中が広場の様になってるのは、意図的に車が通り抜けできないような構造にしたためです。
(私はけっして良い構造とは思ってませんが・・)

つまり、緑が丘のあの変わった道路構造は全て意図的に施したものです。
造成時は「神楽岡ニュータウン」と呼んでましたが、造成完了後は「緑が丘」なるどこにでもある町名が付けられました。
旭川市自ら造成した宅地というのは後にも先にもここだけじゃないかな。
分譲販売ももちろん旭川市で、確か2年か3年以内に家を建てるという条件があったはずです。

 

Re: 緑が丘の住宅街

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 2月 3日(水)18時39分15秒
返信・引用
  > No.1128[元記事へ]

かんじさんへ

momongaさんの質問に横ヤリしてすいません

余談として聞いて下さい

昭和49年当時、私の同級生が引っ越し(転校)した家に遊びに行ったのですが当時は「緑が丘ウッドタウン」と呼ばれ造成されていたと記憶してます(同級生が緑が丘ウッドタウンに家を建てたと自慢してたんで)

遊びに行った「緑が丘」は道路の端はまだジャリだったり、植樹や花壇の整備をしていた記憶もあります
やはり緑と融合した街づくりをイメージしていたのではないかと思いますが~旭川市が関与していたかはわかりません

車通りも少ないコンクリートと木の街並みに地下歩道橋があったのが今でも思い出されます
 

Re: ブーベの恋人

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 2月 3日(水)18時22分26秒
返信・引用
  かんじさんへ

お近くにお住まいでしたか!

この投稿後、私の父親と話す機会があり聞いてみると(父は43年からタクシー運転手をしてました)

「羽衣トルコは良く知ってるぞ」と

当時、旭川には3条の「旭川トルコ」(のちにコルトに改名)と「羽衣トルコ」があり
要望がある(笑)お客さんを乗せたそうです(旭橋観光センターはもう少し後で出来たようです)

「羽衣トルコ」の方はタクシーでお客さんを連れて行くと初乗りが80~100円くらいの時に、
管理しているおばちゃんが200円ものチップをくれたそうです

「旭川トルコ」の方はそのような心遣いも無かったのでタクシーの運転手さんは「ご利用」のお客さんの
指定がない限り「羽衣トルコ」に連れて行ったそうだす(笑)でも「タマ揃えは旭川トルコの方が良かった」と(爆)

「旭川西高校が移転する頃に無くなったなぁ」と付け加えていました

あ、momongaさん こんな下ネタを書き込んでスイマセン

ご不快になりましたらお取消し下さいませ<m(__)m>
 

緑が丘の住宅街

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 2月 3日(水)17時31分57秒
返信・引用
  momongaさんに質問です。
緑が丘の有名なラーメン屋のふるきの裏に広がる住宅街って、区画がなんか独特ですよね。
普通に道路が交差する区画割じゃなく、ワンブロック毎に中央に車が乗り入れる広場があります。
10世帯位が共同で生活するって感じなんですけど、他では見られない住宅街だと思うんです。
これって何かの実験的にこんな形にしたんでしょうか?
その後、他では見られないので成功したとも思えないのですが、
何をしようとして結果どうだったのかなんてわかりませんかね?

そういえばそこに知り合いが住んでいるんですが、その人が言うには
昔、その中央の処に花を植えなさいと、市から指導を受けたというのです。
という事はあそこは旭川市が造成して販売したんですか?
 

Re: ブーベの恋人

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 2月 3日(水)17時18分20秒
返信・引用
  > No.1126[元記事へ]

モリゴロウさんへ

> その右側ため池の周りに羽衣〇〇〇なる大人のアミューズセンターが(笑)
> ため池がありその引き込みは「近文オホーツナイ川」と思われます
>
> 当時、林産試験場や木工会社が多かった近文、川端地区にこんな施設(笑)があったなんて

ごく近くに住んでいました。
家の向かいが林業指導所(現林産試験場)で親が木材会社にいたものでね。
でも当時さすがに大人の世界の事はわからなかったなぁ(笑)
 

Re: ブーベの恋人

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 2月 1日(月)16時10分5秒
返信・引用
  > No.1125[元記事へ]

ブーベの恋人の続き~

日本地図編集社 昭和41年度の住宅地図を見てきました

昭和40年の謎の書き込みだった「ブーベの恋人」は編集され消されていました(笑)

やはりイタズラ書きだったのでしょうね

さらに41年度版には老人ホームから偕行社に復活していました(まだかなり怪しい姿ですが)
最初の調査人は、かなりいい加減な仕事をしていたのでしょうね(写真一枚目)

そして気になる?地区を発見したのを写真二枚目で紹介します

左側の道路は下に向かうと旭西橋、上方向はイオン旭川西になります
左の「瀬尾商店」あたりが今の血液センターにあたる場所です
その右側ため池の周りに羽衣〇〇〇なる大人のアミューズセンターが(笑)
ため池がありその引き込みは「近文オホーツナイ川」と思われます

当時、林産試験場や木工会社が多かった近文、川端地区にこんな施設(笑)があったなんて

ご報告まで


 

Re: ブーベの恋人

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 1月28日(木)18時32分31秒
返信・引用
  > No.1124[元記事へ]

momongaさん

やはりこの地図の信頼性はないようですね

偕行社の建物があまりにもボロくて何かわからず記載したくなかったのか?(笑)

ブーベの恋人も落書きと言うのも納得いきます

まぁこれからは楽しい読み物として閲覧してきますわ(笑)

私が初めて偕行社を見たのは昭和49年、旭川市郷土博物館として使用されていました

そんな事を思い出しました

また疑問が生まれたら教えてくださいね!

ありがとうございました!
 

Re: ブーベの恋人

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 1月28日(木)00時04分14秒
返信・引用
  う~ん、かなりいい加減な地図ですねえ~。
まあ、昔の手書きの住宅地図のようですから、個人宅名の記載を優先して実際とは建物や道路の位置がズレてるんでしょうね。
それにしても、園内路なんかもずいぶん実際とは違ってますね。

偕行社は建築当初から現在の場所に変わりがありません。
戦後は進駐軍が接収し、その後仮校舎などに使われたようですが、老人ホームというのは聞いた事がありません。
そんなものに利用できるような造りではないですよね。
ちなみに昭和40年頃はお化け屋敷でした。(笑)
http://homepage2.nifty.com/momonga_farm/gunto/kaikousya.html

昭和43年に復元され、建築当時の美しい姿に戻されました。
現在も大改修中で3年前から閉館中です。


 

Re: ブーベの恋人

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 1月27日(水)14時25分12秒
返信・引用
  > No.1122[元記事へ]

momongaさん、かんじさん、ご返答ありがとうございます。

やはり謎ですよね(笑)

かんじサンの言う通り、作成者のイタズラ書きっぽい気がしてきました

旭川図書館にはこの地図会社(日本地図編集社)の昭和40年、41年、42年、44年、45年、48年が
保管されているようですので全部調べてきますね!


そしてもう一つ同じ地図の他のページに腑に落ちない所がありましたのでお聞きしたいと思います

コレは春光園の所になりますが偕行社が無いんですよ

偕行社は1902年の建設当時からあの場所にあって移転してきた訳ではないですよね?

昭和40年当時は偕行社が老人ホームだったとか?

この地図自体が信頼性が無い物なのか気になります





 

Re: ブーベの恋人

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 1月26日(火)21時07分33秒
返信・引用
  モリゴロウさん、かんじさんが言われる通りバンザイです(笑)

確かにモーテルで昔「ブーベの恋人」というのがあったような気がしますが・・・記憶が定かではありません。
もちろん、あったとしても川の真ん中にある訳はありませんよね。

謎です。


 

Re: ブーベの恋人

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 1月26日(火)13時13分26秒
返信・引用
  モリゴロウさんへ

> 諸先輩方のご意見をお願いします!

あまりにも難問奇問ですね。
これにはいくら旭川の歴史に詳しいmomongaさんでもお手上げだと察します。

そこで私が珍解答を、、、、。
「ブーベの恋人」を色々と検索してみますと、当時相当に流行った映画のようですね。
ジョージチャキリスなんて私でも知っている俳優が主演しています。
さらには永遠のアイドル「ザ・ピーナッツ」、さらには「いしだあゆみ」までがブーベの恋人というシングルレコードを出しているではないですか。
当時の社会現象だったかも知れません。

ということで私の回答は、「地図の作者がいたずらでブーベの恋人という言葉を隠し入れた」です。
映画なんかでもカメオ出演とか、ちらっと冗談で有名人をいれたりしますよね。
昔の建物でも解体すると中にいたずら書きがあったりもします。

そんないたずらではないでしょうか、、、、。(^^;


 

ブーベの恋人

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 1月25日(月)11時43分45秒
返信・引用
  先日、市立図書館にて昭和40年旭川住宅明細地図を閲覧した時に謎の言葉を発見しました

まだ旭川大橋が掛る前の忠別川に「ブーペの恋人」なる文字が記載されていました
(文字の場所的には後の旭川大橋が掛る場所です)
当時の住宅地図ですので手書きの地図ですが川の部分はスクリーントーンが貼られていて削り込み文字が見えるようにしてあります

写真ではイタズラの様に見えますが後から書き込んだ物でもなくシッカリと印刷されています

後で「ブーベの恋人」を調べてみるとイタリアの小説で昭和38年に映画化されていると判明しました

しかし何故、川の真ん中に書いてあるのでしょうか?
そこに看板があったとか、川の中州に「ブーベの恋人」を名乗るモーテルがあったとか?(考えすぎ)笑

諸先輩方のご意見をお願いします!
 

Re: 近文25丁目

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 1月 7日(木)17時53分26秒
返信・引用
  > No.1118[元記事へ]

momongaさんへ

早速のご回答ありがとうございます!

友人の話はほぼ正解だったんですね~

私も親からそんな話を昔聞いた気がしてましたが「なぜ?」こんな離れた場所に??と

疑問符がついたまま月日は流れてうろ覚えな感じでした

友人は「今のイオンの前に鉄道学校があった」などと初耳の話ばかり聞いて

まだまだ修行が足りないと痛感中です

ありがとうございました!
 

Re: 近文25丁目

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 1月 7日(木)10時01分4秒
返信・引用
  モリゴロウさん今年も宜しくお願いします。

件の場所にあったのは、現在の医療センター(道北病院)の前身で、国立療養所ですね。
主に結核患者が入院し、療養していました。
昔は結核は不治の病と言われましたし、伝染の可能性もありますから、
その結核患者向け施設という事で隔離施設などという風評が立ったのでしょうね。

国立療養所道北病院となった時に、現在の40号線沿いに移転し、近文の跡地は空地になりました。
以来ずっと空地のままですが、今は確か市有地になってるんじゃなかったかな。

現在も医療センターの上階部分は結核患者向けの病室になってると思います。


 

近文25丁目

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 1月 6日(水)18時03分46秒
返信・引用
  諸先輩方今年もよろしくお願いします!

新年早々ですが友人と話をしていた時、近文25丁目(現在は排雪の雪置き場)に

病院関係?隔離施設のようなモノがあったと言う話を聞きました

昭和59年頃に平屋の建物が何軒か残っていたのを記憶していますが

あの広い敷地で木に囲まれていた場所に何があったのかご存知でしたら

ぜひ教えて頂きたいと思います

よろしくお願いします
 

謹賀新年

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 1月 3日(日)11時40分48秒
返信・引用
  あけましておめでとうございます。
昨年は、旧第七師団司令部の基礎が発掘された事を、いち早くこの掲示板読者が発見し、新聞報道を通じて社会に公開されるなど、大きな意義のある年だったと思います。
今年もまた更に旭川の歴史の探求に努め新たな発見でもあれば良いですね。
よろしくお願い申し上げます。
                                かんじ
 

新年

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 1月 3日(日)09時20分27秒
返信・引用 編集済
  明けましておめでとうございます。

本年も皆様との歴史談義・まち談義を楽しみにしております。
宜しくお願い申し上げます。



 

ようやく休みです

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年12月31日(木)12時42分19秒
返信・引用
  この年末、とうとう昨日ぎりぎりまで仕事に追われました。
ようやく今日大晦日から年末年始休暇に入れました。

それでなくとも今年の年末年始のカレンダーの巡り合わせはあまり良ろしくないですが、
私はさらに縮まりそうです。(涙)
こんな事言ってたら、正月も休み無く働く方々に叱られるかな。


天気もこの年末年始は荒れる事はなさそうですが、当たる事を願っています。
皆さま、良いお年を。


 

久々に冷え込みましたね

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年12月23日(水)21時45分37秒
返信・引用
  気が付いたらひと月以上書き込んでませんでした。m(__)m
この12月、仕事やら何やらで忙殺されております。
私の大嫌いな年末が未だ進行中です。(笑)

でも不幸中の幸いは、今冬もここまでは雪が少ない事ですね。
12月に入ってからずっと日中の気温がプラスで、真冬日がほとんどないってのは旭川ではちょっと異常です。
一時けっこう積もった雪も融けてしまったので、記録的な小雪だった昨冬の積雪をも下回っていますよね。
http://www.jma-net.go.jp/sapporo/tenki/kansoku/snow/snowmap/snowgraph.html?&no=14&element=Snc9am&dateSelect=2015-12-23

まあ、このままで済むとは思ってませんが、
それにしても天気予報の外しっぷりは益々ひどくなってますねぇ・・・
以前にも指摘した事がありますが、降雪の予報はもちろん、気温の予報も平気で±3℃以上外します。
http://9008.teacup.com/momonga_farm/bbs/700
今朝の気温も、昨日の降雪も、やっぱり外してましたよね。

いい加減考え直したほうがよろしいのではないでしょうか、予報屋さん。


 

Re: 門柱移設は24日

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年11月19日(木)10時07分30秒
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  > No.1111[元記事へ]

momongaさんへ

> 11tって・・・とんでもなく重たいんですねぇ、想像を遥かに超えてます。
1mx1mx4.5mx2.4=10.8t
こんなレベルだと思います。
25tクレーンを使うと言っていましたが、一般的には表示の4分の1程度のものしか吊らないので、無理があれば2つに切断も考えているとも言っていました。

> 門柱周りでの構築物といえば哨舎くらいしかないですから、その残骸のような気がします。
なるほど。自衛隊の方は古い門柱の基礎かなぁなんて言っていましたがわからなさそうでした(^^;

> ちなみに、自衛隊員の方が作業をしてるんですネ。
そうなんです。門柱の移設はあくまでも訓練のいっかんとして自衛隊が行うそうです。

あと北側の広い土地を掘り返して埋設物調査をやっていますが、何も出てこないと言っていました。確かに昔の写真を見ても北側にはたいして建物が無かったように思います。

 

Re: 門柱移設は24日

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年11月18日(水)21時17分37秒
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  かんじさんへ

いよいよか、という感じですね。
11tって・・・とんでもなく重たいんですねぇ、想像を遥かに超えてます。

何か不明の基礎が出てきたという事ですが、大きさからしてもしかしたら歩哨の立ってた哨舎の基礎ではないでしょうか?
明治時代に造られた哨舎は木造ですが、背面にコンクリート製の防弾壁が建てられています。
たぶん門柱がコンクリート製になった時に哨舎もコンクリート製に造り替えられたと思われますが、
レンガ製の基礎はそのまま生かされたとか?
門柱周りでの構築物といえば哨舎くらいしかないですから、その残骸のような気がします。


ちなみに、自衛隊員の方が作業をしてるんですネ。



 

門柱移設は24日

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年11月18日(水)15時32分20秒
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  門柱の移設が報じられていますが、今日作業をしているところを見てきました。
現在は緩衝材で保護され丈夫なラップのようなもので幾重にも巻かれている状態です。
基礎を確認する為に周囲を掘り下げています。
25tクレーンを使っての実際の移設は24日から行うそうです。ただ門柱が非常に重く
大きいもので11tほどもありなかなか難航しそうとの事でした。
上部の方は風化が進んでいますが地中はしっかりした状態で、やはり非常に硬いそうです。
周囲を掘ると1.5mほど離れた場所で写真のように何かの基礎煉瓦が出てきたそうですが、何かは不明との事。

司令部の基礎部分は防衛省や教育委員会で検討した結果、そのまま埋め戻すことになり
現在は既に埋め戻されていました。
掘り返せばたぶん司令部全体の基礎が埋まっているだろうとの事ですが、現在進めている調査が終われば民間に売却が決まっているようで、そうなると司令部の半分は民間に売り渡されます。
その後何かの建てものが立つのであれば、その時点で無くなってしまうでしょうね。
それでも半分は自衛隊の宿舎の駐車場の形でしばらくは地中で眠りそうです。

そうそう。司令部基礎の煉瓦をすこし頂いてきました(^^;

 

旧七師団司令部門柱移設

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年11月13日(金)10時33分31秒
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  今朝、報じられましたね。

私もかんじさんと考えが一緒で、こういった遺構・遺跡は「その場所にある」ことが最も重要な要素だと思います。
移設してしまったら単に形を残したというだけで、存在価値としては半減以下。
中には形そのものが貴重な文化財も多いでしょうが、
特にこの門柱の場合は「ここに司令部があった」という指標的な意味での価値が大半ではなかったでしょうか。
造形的な文化価値はそれほど高いとは思えません。
つまり場所を移した時点でその価値はほぼ無くなるに等しいと思うのです。

何とか今の場所で環境整備してほしかったのに、とても残念です。




PS:門柱のそばに立っている松の木も確か司令部時代からのものだと思いますが、
   あれはどうなるのかな?
 

Re: 明治35年のコンクリート

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2015年11月 9日(月)16時24分18秒
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  > No.1102[元記事へ]

昨日現在の工事現場の状況です

キレイにまわりの土もよけられていてしっかりと観察出来ました

レンガとコンクリート片は一か所にまとめられて置かれていました

遺跡跡を発掘している雰囲気が醸し出されているようでした

このまま保存して欲しいものです
 

Re: こんなことに…

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年11月 9日(月)13時52分49秒
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  あずさんへ

> コンクリートネタとしては、小樽の北防波堤だったかな?100年以上も現存していて、たしか火山灰を練り込み強度を増したとか…。ラジオで聞いたような記憶があります。確かそうですよね、かんじさん。

お詳しいですね。
私も専門家ではありませんが、明治時代に小樽の北防波堤を設計し作った方は広井勇といいまして日本のコンクリートの父であり、その時に6万個もの強度試験体を作り100年を過ぎた今も強度試験を続けているそうです。
興味のある方はこちらを読んでください。
http://www1.hus.ac.jp/~hit_doboku/doboku/1_hiroi.html


旭川市役所が老朽化で建て替えを余儀なくされていると聞くと、コンクリートも老朽化するんだと思われがちですが、私には老朽化しているのは設備関係であり躯体が老朽化しているとは思えません。
残念なことに57年前には耐震設計ではありませんので、いまの耐震基準ではアウトなのでしょう。
ただこの耐震診断も建築の友人に言わせると、何通りもの診断方法がありアウトになった診断方法ではないものも試すべきだと主張しています。
57年前と聞くと、わー古いんだね→壊してもあたりまえという感覚が多くの人にあるのが残念です。50年も経てば古くなって壊すのが当たり前なのは、「ウサギ小屋」と揶揄された日本の粗末な住宅だけです。
公共建築物は100年以上持つのがあたりまえという感覚でものを作ってもらいたいものです。


自衛隊の官舎のある場所は、国の土地を防衛省が借りているそうですね。
そこで一旦財務省に返却して、地下1.5mまでの深さにおかしなものが埋まってはいないかを調査の上売却されると聞きました。
 

Re: こんなことに…

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年11月 7日(土)12時50分12秒
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  あずさん、世間は大騒ぎですよ。(笑)
と言えば少々大袈裟ですが、でもあずさんの情報が発端なのは間違いないです。

私もコンクリートは年数が経つほどに固さが増して行くという話しを聞いた事があります。
これが、かんじさんの言われるセメントの質なのか、元々コンクリートが持つ特性なのかは分かりませんが・・・
ダムなんかも、何十年かで限界が来ないのかな?なんて考えますが、あまりそういう話は聞かないですよね。
市役所は60年経って老巧化が激しいなんて言われてるのに・・・


それはともかく、
今回話題の春光の自衛隊宿舎一帯は、更地がかなりの部分を占めてますし、空家も増えているようですが、
あの辺の国有地は全て売却されるという事なんでしょうかね?
他の場所に新たな宿舎を建ててる話も聞かないし、それだけ隊員が減ったという事なのかな?


 

Re: 北海道東海大学

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年11月 7日(土)12時26分1秒
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  モリゴロウさんへ

私は東海大学の撤退をあっさり許してしまった旭川市にも少し憤りを感じています。
「私大の経営方針だから仕方ない」で、ほとんど何もしなかったのではないでしょうか。

単に大学が1つ減るというだけではなく、私が最も残念に思うのは、東海大学旭川校は数少ないデザインを学べる学科を有していたという事です。
昔と比べ衰退したとはいえ、旭川は依然日本有数の家具のマチで、現在でも全国的に一目置かれる地位を保っているのはそのデザイン力です。
昔はごっつい箱物家具ばかりつくってましたが、
先日亡くなられたカンディハウスの長原氏を中心に数十年前からデザインを重視し、
国際家具デザインフェアを開催するなど、デザイン力の向上に力を入れてきました。

そのデザイン力向上の一翼を担ってきたのが東海大学旭川校ではなかったでしょうか。
地元の木材屋さんに頼んでつくってもらった私の家のテレビ&オーディオ棚も、
デザインしてくれたのは、東海大の卒業生でした。
「旭川の歴史的建物の保存を考える会」の川島先生も元々東海大ですよね。

旭川にこそ、こういった大学は必要なんですけどねぇ。
今さら手遅れですが・・・
 

こんなことに…

 投稿者:あず  投稿日:2015年11月 7日(土)09時36分29秒
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  momongaさん、かんじさん、一週間ぶりですね。
道新の記事も見ていなかったので、まさかこんなことになっているなんて驚きです。

コンクリートネタとしては、小樽の北防波堤だったかな?100年以上も現存していて、たしか火山灰を練り込み強度を増したとか…。ラジオで聞いたような記憶があります。確かそうですよね、かんじさん。

それにしても、どこまで記録・保存されるのかが楽しみです。
とりあえず、処分しなくてはいけない残土や「ガラ」も、多少はサンプルとして残したり…。

かんじさん情報の、目的は国有地の売却のための埋設物調査…ですが、このエリアは自衛隊の官舎が建っていたので、多くは昭和40年代~に一度掘った場所も多いのですが、その当時でも古い建物が残っていました。上物は無くなった後も、そのままになっている場所が北西側にあります。解体時に基礎まで撤去したかどうかは分かりませんが…。

古い資料を頼りに調査するのでしょうけど、もし国有地が売却された後に何かしらの建物がいざ新築って時に過去の埋蔵物が出るわ出るわ…。なんてことになりかねないですものね。

たぶんやるからには、徹底的にすることでしょう。
楽しみ~。



 

北海道東海大学

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2015年11月 6日(金)17時43分55秒
返信・引用
  9月に入ってから北海道東海大学旭川キャンパスのシンボル「赤い鉄塔」が外され
何日かで白い校舎も解体されてしまいました

我が母校であるこの場所に行ってみようと思いましたが工事関係者以外立ち入り禁止

通学に使っていたケモノ道も閉鎖されていましたが一目見たくて嵐山展望台から眺めてきました

今日の新聞に載っていましたが体育館も解体された事実を知りショック。。。

跡地が旭川市に無償譲渡されるとの事で、どんな施設が出来て訪問出来る日を楽しみにしている次第です
(おセンチな話題でスイマセン)

 

明治35年のコンクリート

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年11月 6日(金)15時44分3秒
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  今日、大変ご迷惑をおかけしている工事現場の代理人さんと少しだけど話をしてきました。
もともと歴史に関心のなかった代理人さんは、まさかこんな事になるとは思っていなかったという事です。
新聞にも載って今後どんな動きになるかはわからないのですが、防衛庁の方から新しい指示として、師団基礎の位置や深さなど詳細を図示した資料を早急に作るように言われたそうです。
その資料を基に何か検討を行うのではないでしょうか?

それから明治35年頃のコンクリートの品質について質問したところ、「信じられないほど硬い」そうです。
工事に支障になる部分を削ろうとピック(削岩機)で叩いてもなかなか壊れないほどの硬さだという事です。
現在の縁石なんかのベースコンクリート基礎は160kg/cm2程度の強度なんですがそれほど硬いものではありません。
昔のコンクリートって硬いんですよね。今よりはるかに品質が良いんです。
さらに高強度のコンクリートは数十年も年数を経るごとに強度を増してゆくんです。
話には聞いていましたが改めて昔のコンクリートの品質の良さを実感しました。
 

Re: 師団司令部の確証

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年11月 6日(金)11時33分30秒
返信・引用 編集済
  かんじさんへ

相変わらずすばらしい立証ですね!
司令部本庁舎の一部であると疑いようのない事が、視覚的に一発で確認できます。

昔だったら専門家が時間をかけて当時の写真や図面を照合して行なった作業が、
Google Earthや画像処理ソフトを使えば、一般人でもあっと言う間にこういった合成ができる・・・
今の世の中本当に便利になりました。

私も少し見習わなくっちゃ。(^^)



PS:司令部門柱の移設は本決まりですか!?
   ショックだなあ・・・
   つい先日も「門柱の周辺をもっと何とかしろ」と話してたばかりじゃないですか。
 

師団司令部の確証

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年11月 5日(木)18時09分13秒
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  間藤さんが紙面で、あの遺構は師団司令部正面右側の基礎の一部と言っていますが、それを確証してみました。
私の得意なPhotoShopによる重ね合わせです。
まず左に終戦時の司令部の写った白黒写真と、右に最新版のGoogleMapによる2枚の写真を用意します。
次にこの2枚を重ね合わせます。
そしてフォトショップの機能で透過率を変化させると2枚の写真が重なって見えます。
左は古い写真が見えやすい透過率で、右は新しい写真が見えやすい透過率にしました。
屋根の青い斜めの建物は現在の自衛隊のアパートで、その上に白く長く見えるのが、
旧師団司令部です。
現在の見えやすい写真で、今回の工事個所を赤線でくくってみますと、、、、。
なるほど現在見えている基礎は、師団司令部真正面をわずかに含む司令部の右側であることが
この写真から良くわかります。
間藤さん、さすがです。


 

Re: 道新に報じられました

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年11月 5日(木)17時26分49秒
返信・引用
  あずさんへ

> あずさんからの情報が発端でコンクリート論議となりましたが、
> 今朝の道新に写真入りで『旧七師団司令部の遺構か』と道内版でけっこう大きく報じられましたね。

今回の最大の功績者はあずさんです。
あずさんの情報が拡散した結果なんです。
新聞記事中で名前の出ていた間藤さんは、元旭川市の建築に携わっていた方ですが、
いまでは古建築研究家として第七師団の建築物に関しては最も知識の豊富な方です。
今回、自らの研究対象の第七師団の遺構を見られたこと、そしてそれが道内版の紙面に公表され
広く世間に知らしめられるという結果となったことを非常に喜んでいました。
あずさん、本当にありがとうございました。

追加情報として、あの辺り一帯の調査が行われるそうです。
目的は国有地の売却のための埋設物調査だそうですが、今後まだまだいろいろ出てきそうです。
でも、それは撤去される可能性が高いですが。
そうそう、大情報として司令部の門柱は北鎮記念館に移設だそうです。
残念だぁぁぁぁぁぁ。
形が残ることは悪くはありませんが、元の場所にあるという事が私にとっては重要なんですけどねぇ。
昔、ここに確かに司令部があったという証(あかし)
なので今回の司令部の基礎が出てきたこと、そのまま埋められそうなことは逆に嬉しいことなのです。
まさかポンペイの遺跡のように保存するほどのものでもないでしょうからね(^^;
 

道新に報じられました

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年11月 5日(木)15時34分29秒
返信・引用 編集済
  あずさんからの情報が発端でコンクリート論議となりましたが、
今朝の道新に写真入りで『旧七師団司令部の遺構か』と道内版でけっこう大きく報じられましたね。
ウェブ版でも途中まで見られます。
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0198328.html

あずさんの情報の方が5日も早かった訳ですが、
これまたタイミング良く新聞も採り上げてくれたもんだなあと思っていたところ、
どうやらこの記事の仕掛人は、当掲示板の中におられたようです。^^;(汗)

ま、どのような形であれ、色んな媒体がこういった話題を採り上げてくれる事は良い事だと思います。
旭川は歴史(近代史)好きの方が、実は意外と多いような気がするんですよね。
昔の街を懐かしむ年輩の方々が多いのかもしれませんが、
たまに開かれる郷土史セミナーや昔の写真展などはけっこう盛況です。
でも、やはり情報が限られているので、こういった情報はどんどん発信してほしいものです。


PS:道新の記事の写真を見ると、既に砂利を入れ始めたようです。
   ここ一両日中くらいしか見られる機会はなさそうですね。

 

Re: 速報です!

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年11月 4日(水)09時13分54秒
返信・引用
  > No.1096[元記事へ]

momongaさんへ

> なるほど、コンクリートは我々が思ってる以上に古いという事なんですね。
偉そうに言いましたが(^^;わたしも最近知ったことです。
私もコンクリートいうと煉瓦のあとの昭和に入ったころからの物ってイメージでしたが、
古くはエジプトのピラミッドやローマの建築物にもたくさん使われていると知った時には
けっこうカルチャーショックでした。
ではなぜコンクリートが近代のものと思ったかという答えが鉄筋なんですよね。
鉄筋コンクリートの普及こそが煉瓦の後のコンクリート構造物の普及だったようです。
でも日本は古くから木造構造物の文化ですから、古くにはコンクリートやモルタルはありません。
日本でモルタルやコンクリートが使われるようになったのは、明治初期に煉瓦が使われるようになったのと同時期になります。
レンガもコンクリートも明治維新による輸入産物で同時ってわけですね。
 

Re: 速報です!

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年11月 3日(火)23時53分42秒
返信・引用
  かんじさんへ

なるほど、コンクリートは我々が思ってる以上に古いという事なんですね。
考えてみれば、レンガを積むにしても間にはモルタルが詰められてますもんね。
セメント自体は明治の早い時期から使われていたという事ですか。

この時代、まさかレンガ基礎の下にコンクリートが現れるとは思いもよりませんでした。
今後の参考になります。m(__)m

 

Re: 速報です!

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年11月 3日(火)19時06分59秒
返信・引用 編集済
  momongaさんへ

> という事は、明治32年の建築当初から、既に基礎にコンクリートが使われていたという事なんでしょうか?

そうです。
コンクリート自体ははるかに古いものなのです。
セメント、モルタル、コンクリートは極端な話1000年以上前からあります。
イタリアのローマのコロッセオも石材とレンガとコンクリートの合体です。
無かったのは鉄筋です。
石材やレンガの繋ぎは遥か昔からモルタルであり圧縮部材や粘着部材としてのセメントは昔からあります。
なので、第七師団のレンガ基礎のその下のベースと呼ばれる基礎材がモルタルやコンクリートであることは不思議ではありません。
安易な建物の場合、基礎材として砂利なんかを均して固めてその上にレンガを積んで行くこともあったでしょうが、重要な建物はさらにベースにモルタルやコンクリートで基礎をつくりその上にレンガを積んで行くという手法だったようです。
写真を見る限り結構大きなコンクリート基礎の上にレンガ基礎を積んでいますね。
セメントが高価なものであったことは違い無いので、それだけ重要な建物だったってことかな。
司令部ですものね。
建物にレンガや石材が使われなくなったのは昭和に入って鉄筋コンクリートという手法が利用されるようになり、壁材としてコンクリートが使えるようになり、その単価が石材やレンガよりも安くなったからです。

 

Re: 速報です!

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年11月 2日(月)22時30分3秒
返信・引用
  かんじさんへ

> コンクリートという事ですが、別の情報では煉瓦基礎をコンクリートで補強してあるのでは?
> その情報も流れてきております。

ここはかんじさんの方が専門家でしょうが、実際に見た限りではちょっと違う気がします。
時系列で考えると、レンガ基礎が先にあってその後にコンクリートで補強、という順番になるかと思いますが、
アップで写した写真で分かると思いますが、コンクリートの断面にレンガの痕跡が見えません。
明らかにコンクリートだけの基礎の上にレンガ基礎を積んでいるように見えます。
これ、私もちょっと不思議に思いました。

という事は、明治32年の建築当初から、既に基礎にコンクリートが使われていたという事なんでしょうか?


 

Re: 速報です!

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年11月 2日(月)18時12分17秒
返信・引用
  > No.1090[元記事へ]

あずさんへ

> momongaさん、かんじさん、【論・旭川】掲示板をご覧の皆さまへ速報です!
> 第七師団司令部の基礎部分が見られますよ~。
>
あずさん、素晴らしい発見です。
司令部の基礎がそのまま残っていたなんて。
見事なレンガ基礎ですね。
防衛庁の仕事でしょうが、旧師団の遺構を壊さずに残してくれたことに感謝です。
また、今回もそのままにするようにとの指示だそうで、このまま埋めてしまえば、
ふたたび後世に残るという事で嬉しく思います。
コンクリートという事ですが、別の情報では煉瓦基礎をコンクリートで補強してあるのでは?
その情報も流れてきております。
司令部は昭和10年頃でしたか、大幅な改築を行っていますが、その際に基礎の補強をしたのではとの仮説もあります。
司令部の門柱も直されていますが、煉瓦積の門柱をコンクリートで包む形で補強されています。
レンガ基礎にコンクリートがという事ですが、セメントやコンクリートは相当に古い時代からあります。
昭和になって普及が始まったのは鉄筋コンクリートです。
レンガ積の構造もレンガの間にはモルタル(セメント+砂)で積み上げられています。
なので煉瓦の基礎にモルタルやコンクリート(セメンと+砂利+砂)が使われていても不思議ではありません。
もちろんセメントは高価なものでしたので、主要材は煉瓦や石材をつかっていたわけですけどね。

 

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