投稿者
 メール
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL


Re: 北海道東海大学

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年11月 7日(土)12時26分1秒
返信・引用
  モリゴロウさんへ

私は東海大学の撤退をあっさり許してしまった旭川市にも少し憤りを感じています。
「私大の経営方針だから仕方ない」で、ほとんど何もしなかったのではないでしょうか。

単に大学が1つ減るというだけではなく、私が最も残念に思うのは、東海大学旭川校は数少ないデザインを学べる学科を有していたという事です。
昔と比べ衰退したとはいえ、旭川は依然日本有数の家具のマチで、現在でも全国的に一目置かれる地位を保っているのはそのデザイン力です。
昔はごっつい箱物家具ばかりつくってましたが、
先日亡くなられたカンディハウスの長原氏を中心に数十年前からデザインを重視し、
国際家具デザインフェアを開催するなど、デザイン力の向上に力を入れてきました。

そのデザイン力向上の一翼を担ってきたのが東海大学旭川校ではなかったでしょうか。
地元の木材屋さんに頼んでつくってもらった私の家のテレビ&オーディオ棚も、
デザインしてくれたのは、東海大の卒業生でした。
「旭川の歴史的建物の保存を考える会」の川島先生も元々東海大ですよね。

旭川にこそ、こういった大学は必要なんですけどねぇ。
今さら手遅れですが・・・
 

こんなことに…

 投稿者:あず  投稿日:2015年11月 7日(土)09時36分29秒
返信・引用
  momongaさん、かんじさん、一週間ぶりですね。
道新の記事も見ていなかったので、まさかこんなことになっているなんて驚きです。

コンクリートネタとしては、小樽の北防波堤だったかな?100年以上も現存していて、たしか火山灰を練り込み強度を増したとか…。ラジオで聞いたような記憶があります。確かそうですよね、かんじさん。

それにしても、どこまで記録・保存されるのかが楽しみです。
とりあえず、処分しなくてはいけない残土や「ガラ」も、多少はサンプルとして残したり…。

かんじさん情報の、目的は国有地の売却のための埋設物調査…ですが、このエリアは自衛隊の官舎が建っていたので、多くは昭和40年代~に一度掘った場所も多いのですが、その当時でも古い建物が残っていました。上物は無くなった後も、そのままになっている場所が北西側にあります。解体時に基礎まで撤去したかどうかは分かりませんが…。

古い資料を頼りに調査するのでしょうけど、もし国有地が売却された後に何かしらの建物がいざ新築って時に過去の埋蔵物が出るわ出るわ…。なんてことになりかねないですものね。

たぶんやるからには、徹底的にすることでしょう。
楽しみ~。



 

北海道東海大学

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2015年11月 6日(金)17時43分55秒
返信・引用
  9月に入ってから北海道東海大学旭川キャンパスのシンボル「赤い鉄塔」が外され
何日かで白い校舎も解体されてしまいました

我が母校であるこの場所に行ってみようと思いましたが工事関係者以外立ち入り禁止

通学に使っていたケモノ道も閉鎖されていましたが一目見たくて嵐山展望台から眺めてきました

今日の新聞に載っていましたが体育館も解体された事実を知りショック。。。

跡地が旭川市に無償譲渡されるとの事で、どんな施設が出来て訪問出来る日を楽しみにしている次第です
(おセンチな話題でスイマセン)

 

明治35年のコンクリート

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年11月 6日(金)15時44分3秒
返信・引用
  今日、大変ご迷惑をおかけしている工事現場の代理人さんと少しだけど話をしてきました。
もともと歴史に関心のなかった代理人さんは、まさかこんな事になるとは思っていなかったという事です。
新聞にも載って今後どんな動きになるかはわからないのですが、防衛庁の方から新しい指示として、師団基礎の位置や深さなど詳細を図示した資料を早急に作るように言われたそうです。
その資料を基に何か検討を行うのではないでしょうか?

それから明治35年頃のコンクリートの品質について質問したところ、「信じられないほど硬い」そうです。
工事に支障になる部分を削ろうとピック(削岩機)で叩いてもなかなか壊れないほどの硬さだという事です。
現在の縁石なんかのベースコンクリート基礎は160kg/cm2程度の強度なんですがそれほど硬いものではありません。
昔のコンクリートって硬いんですよね。今よりはるかに品質が良いんです。
さらに高強度のコンクリートは数十年も年数を経るごとに強度を増してゆくんです。
話には聞いていましたが改めて昔のコンクリートの品質の良さを実感しました。
 

Re: 師団司令部の確証

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年11月 6日(金)11時33分30秒
返信・引用 編集済
  かんじさんへ

相変わらずすばらしい立証ですね!
司令部本庁舎の一部であると疑いようのない事が、視覚的に一発で確認できます。

昔だったら専門家が時間をかけて当時の写真や図面を照合して行なった作業が、
Google Earthや画像処理ソフトを使えば、一般人でもあっと言う間にこういった合成ができる・・・
今の世の中本当に便利になりました。

私も少し見習わなくっちゃ。(^^)



PS:司令部門柱の移設は本決まりですか!?
   ショックだなあ・・・
   つい先日も「門柱の周辺をもっと何とかしろ」と話してたばかりじゃないですか。
 

師団司令部の確証

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年11月 5日(木)18時09分13秒
返信・引用
  間藤さんが紙面で、あの遺構は師団司令部正面右側の基礎の一部と言っていますが、それを確証してみました。
私の得意なPhotoShopによる重ね合わせです。
まず左に終戦時の司令部の写った白黒写真と、右に最新版のGoogleMapによる2枚の写真を用意します。
次にこの2枚を重ね合わせます。
そしてフォトショップの機能で透過率を変化させると2枚の写真が重なって見えます。
左は古い写真が見えやすい透過率で、右は新しい写真が見えやすい透過率にしました。
屋根の青い斜めの建物は現在の自衛隊のアパートで、その上に白く長く見えるのが、
旧師団司令部です。
現在の見えやすい写真で、今回の工事個所を赤線でくくってみますと、、、、。
なるほど現在見えている基礎は、師団司令部真正面をわずかに含む司令部の右側であることが
この写真から良くわかります。
間藤さん、さすがです。


 

Re: 道新に報じられました

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年11月 5日(木)17時26分49秒
返信・引用
  あずさんへ

> あずさんからの情報が発端でコンクリート論議となりましたが、
> 今朝の道新に写真入りで『旧七師団司令部の遺構か』と道内版でけっこう大きく報じられましたね。

今回の最大の功績者はあずさんです。
あずさんの情報が拡散した結果なんです。
新聞記事中で名前の出ていた間藤さんは、元旭川市の建築に携わっていた方ですが、
いまでは古建築研究家として第七師団の建築物に関しては最も知識の豊富な方です。
今回、自らの研究対象の第七師団の遺構を見られたこと、そしてそれが道内版の紙面に公表され
広く世間に知らしめられるという結果となったことを非常に喜んでいました。
あずさん、本当にありがとうございました。

追加情報として、あの辺り一帯の調査が行われるそうです。
目的は国有地の売却のための埋設物調査だそうですが、今後まだまだいろいろ出てきそうです。
でも、それは撤去される可能性が高いですが。
そうそう、大情報として司令部の門柱は北鎮記念館に移設だそうです。
残念だぁぁぁぁぁぁ。
形が残ることは悪くはありませんが、元の場所にあるという事が私にとっては重要なんですけどねぇ。
昔、ここに確かに司令部があったという証(あかし)
なので今回の司令部の基礎が出てきたこと、そのまま埋められそうなことは逆に嬉しいことなのです。
まさかポンペイの遺跡のように保存するほどのものでもないでしょうからね(^^;
 

道新に報じられました

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年11月 5日(木)15時34分29秒
返信・引用 編集済
  あずさんからの情報が発端でコンクリート論議となりましたが、
今朝の道新に写真入りで『旧七師団司令部の遺構か』と道内版でけっこう大きく報じられましたね。
ウェブ版でも途中まで見られます。
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0198328.html

あずさんの情報の方が5日も早かった訳ですが、
これまたタイミング良く新聞も採り上げてくれたもんだなあと思っていたところ、
どうやらこの記事の仕掛人は、当掲示板の中におられたようです。^^;(汗)

ま、どのような形であれ、色んな媒体がこういった話題を採り上げてくれる事は良い事だと思います。
旭川は歴史(近代史)好きの方が、実は意外と多いような気がするんですよね。
昔の街を懐かしむ年輩の方々が多いのかもしれませんが、
たまに開かれる郷土史セミナーや昔の写真展などはけっこう盛況です。
でも、やはり情報が限られているので、こういった情報はどんどん発信してほしいものです。


PS:道新の記事の写真を見ると、既に砂利を入れ始めたようです。
   ここ一両日中くらいしか見られる機会はなさそうですね。

 

Re: 速報です!

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年11月 4日(水)09時13分54秒
返信・引用
  > No.1096[元記事へ]

momongaさんへ

> なるほど、コンクリートは我々が思ってる以上に古いという事なんですね。
偉そうに言いましたが(^^;わたしも最近知ったことです。
私もコンクリートいうと煉瓦のあとの昭和に入ったころからの物ってイメージでしたが、
古くはエジプトのピラミッドやローマの建築物にもたくさん使われていると知った時には
けっこうカルチャーショックでした。
ではなぜコンクリートが近代のものと思ったかという答えが鉄筋なんですよね。
鉄筋コンクリートの普及こそが煉瓦の後のコンクリート構造物の普及だったようです。
でも日本は古くから木造構造物の文化ですから、古くにはコンクリートやモルタルはありません。
日本でモルタルやコンクリートが使われるようになったのは、明治初期に煉瓦が使われるようになったのと同時期になります。
レンガもコンクリートも明治維新による輸入産物で同時ってわけですね。
 

Re: 速報です!

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年11月 3日(火)23時53分42秒
返信・引用
  かんじさんへ

なるほど、コンクリートは我々が思ってる以上に古いという事なんですね。
考えてみれば、レンガを積むにしても間にはモルタルが詰められてますもんね。
セメント自体は明治の早い時期から使われていたという事ですか。

この時代、まさかレンガ基礎の下にコンクリートが現れるとは思いもよりませんでした。
今後の参考になります。m(__)m

 

Re: 速報です!

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年11月 3日(火)19時06分59秒
返信・引用 編集済
  momongaさんへ

> という事は、明治32年の建築当初から、既に基礎にコンクリートが使われていたという事なんでしょうか?

そうです。
コンクリート自体ははるかに古いものなのです。
セメント、モルタル、コンクリートは極端な話1000年以上前からあります。
イタリアのローマのコロッセオも石材とレンガとコンクリートの合体です。
無かったのは鉄筋です。
石材やレンガの繋ぎは遥か昔からモルタルであり圧縮部材や粘着部材としてのセメントは昔からあります。
なので、第七師団のレンガ基礎のその下のベースと呼ばれる基礎材がモルタルやコンクリートであることは不思議ではありません。
安易な建物の場合、基礎材として砂利なんかを均して固めてその上にレンガを積んで行くこともあったでしょうが、重要な建物はさらにベースにモルタルやコンクリートで基礎をつくりその上にレンガを積んで行くという手法だったようです。
写真を見る限り結構大きなコンクリート基礎の上にレンガ基礎を積んでいますね。
セメントが高価なものであったことは違い無いので、それだけ重要な建物だったってことかな。
司令部ですものね。
建物にレンガや石材が使われなくなったのは昭和に入って鉄筋コンクリートという手法が利用されるようになり、壁材としてコンクリートが使えるようになり、その単価が石材やレンガよりも安くなったからです。

 

Re: 速報です!

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年11月 2日(月)22時30分3秒
返信・引用
  かんじさんへ

> コンクリートという事ですが、別の情報では煉瓦基礎をコンクリートで補強してあるのでは?
> その情報も流れてきております。

ここはかんじさんの方が専門家でしょうが、実際に見た限りではちょっと違う気がします。
時系列で考えると、レンガ基礎が先にあってその後にコンクリートで補強、という順番になるかと思いますが、
アップで写した写真で分かると思いますが、コンクリートの断面にレンガの痕跡が見えません。
明らかにコンクリートだけの基礎の上にレンガ基礎を積んでいるように見えます。
これ、私もちょっと不思議に思いました。

という事は、明治32年の建築当初から、既に基礎にコンクリートが使われていたという事なんでしょうか?


 

Re: 速報です!

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年11月 2日(月)18時12分17秒
返信・引用
  > No.1090[元記事へ]

あずさんへ

> momongaさん、かんじさん、【論・旭川】掲示板をご覧の皆さまへ速報です!
> 第七師団司令部の基礎部分が見られますよ~。
>
あずさん、素晴らしい発見です。
司令部の基礎がそのまま残っていたなんて。
見事なレンガ基礎ですね。
防衛庁の仕事でしょうが、旧師団の遺構を壊さずに残してくれたことに感謝です。
また、今回もそのままにするようにとの指示だそうで、このまま埋めてしまえば、
ふたたび後世に残るという事で嬉しく思います。
コンクリートという事ですが、別の情報では煉瓦基礎をコンクリートで補強してあるのでは?
その情報も流れてきております。
司令部は昭和10年頃でしたか、大幅な改築を行っていますが、その際に基礎の補強をしたのではとの仮説もあります。
司令部の門柱も直されていますが、煉瓦積の門柱をコンクリートで包む形で補強されています。
レンガ基礎にコンクリートがという事ですが、セメントやコンクリートは相当に古い時代からあります。
昭和になって普及が始まったのは鉄筋コンクリートです。
レンガ積の構造もレンガの間にはモルタル(セメント+砂)で積み上げられています。
なので煉瓦の基礎にモルタルやコンクリート(セメンと+砂利+砂)が使われていても不思議ではありません。
もちろんセメントは高価なものでしたので、主要材は煉瓦や石材をつかっていたわけですけどね。

 

速報の続き

 投稿者:あず  投稿日:2015年11月 2日(月)00時16分47秒
返信・引用
  現場の方に確認させていただいたのは、遺跡の発掘などでは無くあくまでも防衛省の工事の一環の中での発見で、報告すると撤去はせずに現状を残しつつ工事を進めるように指示があったということでした。

それにしても約100年ぶりに陽を見た遺構と考えると、当時の職人たちの姿はもちろん、工法についても興味がつきませんね。

偕行社の基礎部分は軟石が積まれていますので、「砂利+組積造の基礎」が基本なのだと思い込んでいましたが、まさか基礎のベースにコンクリートが使われているなんて想像もしませんでした。

明治の30年前後にどこからセメントがやって来たのか。
ベースコンクリート上の基礎の立上げ部分に使用されているレンガの産地は?
またまた謎が深まります。

momongaさんの写真に写っている自衛隊官舎は、「特7」と言っていたものでこの地区最後に建設されたものです。
ちなみに、すでに解体されましたが最初に建設された「特1官舎」完成と同時に移り住んだのが幼き私です。(笑)

たしか引っ越し後も、数年は司令部の建物が「お化け屋敷」のように現存していて何回か「探検」に行きました。
ギシギシと階段を上がり、広い部屋の木の机の上に黒電話があったり…。

そんな消えてしまった建物の名残りに遭えるなんて感動しました。
momongaさんが、早速反応してくれてお知らせしてよかったなぁ~と。。。

 

Re: 速報です!

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年11月 1日(日)22時36分19秒
返信・引用
  あずさん、お久しぶりです。
そして貴重な情報をありがとうございます。
教えて下さらなければ、たぶん知らずに終わってしまっていたでしょう。

今日さっそく見てきました。
門柱に平行している事と、その距離から、司令部建物の基礎である事は間違いなさそうですね。
明らかにコンクリートにレンガも混じっているみたいです。
素人の私にはこれがどういう事なのかは分かりませんが、地中にこんな基礎が残っていたとは驚きです。
まるで遺跡ですネ。

でもこれ、どう見ても道路工事ですよね。
近日中に砂利で埋め戻されて舗装をかけられてしまいそうです。

う~~~ん、いいのかな?

 

速報です!

 投稿者:あず  投稿日:2015年10月31日(土)22時19分13秒
返信・引用
  momongaさん、かんじさん、【論・旭川】掲示板をご覧の皆さまへ速報です!
第七師団司令部の基礎部分が見られますよ~。

今日たまたま通りすがりに、何やら工事をしているなと思ったら、基礎らしきものが…。
これはひょっとしてと思い急停車。

工事関係の人とお話しして写真を撮らせてもらいました。
こんな機会はそうそう無いでしょうから…。ぜひ。

 

Re: 戦車は実際に渡っていた!?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年10月31日(土)11時34分26秒
返信・引用
  かんじさん、記事をメールしてくださり、たいへんありがとうございました。

なるほど、戦車の耐寒試験などの意味合いもあったんですね。
現在の自動車メーカーが寒冷地テストコースを持ってるのと一緒ですね(笑)

昭和10年といえば、日中戦争やノモンハン事件などに突入する前ですから、
やはり大陸を意識してこういった演習や性能試験を旭川でも行っていたという事でしょうか。
当時も市民に演習まで見学させていたというのはちょっと意外でした。


それにしても、これだけ当時話題になり、新聞記事も残っていながら、
今の今まで戦車が旭橋を渡ったかどうか不明だったというのが不思議ですよね。
やはり興味を持って調べれば、まだまだ色々出てきそうです。
いくら通説となっていても、間違いもけっこうありそうですね。

 

Re: 戦車は実際に渡っていた!?

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年10月30日(金)10時32分33秒
返信・引用 編集済
  > No.1087[元記事へ]

momongaさんへ

その後記事の真相を探るべく、図書館に行きまして昭和10年当時の戦車に関する新聞記事を検索しマイクロフィルムから新聞記事を調べてきました。
戦車に関する記事はかなりあり、当時旭川には戦車部隊がなかったものの、戦車の耐寒性能試験と大陸寒地での戦闘訓練も兼ねて、何度か戦車が旭川にやってきていました。

その中で、戦車が旭橋を渡ったであろう記述のある記事は以下の2つです。

いずれも小樽新聞ですが、

S10.1.22 「千葉の戦車隊旭川へ着く愈よあすから演習」
・・・・千葉県津田沼戦車第二連隊の戦車及び装甲自動車11台は21日午後二時過ぎ怪異な姿を旭川駅頭に現し電車線路を進行し歩兵第27連隊前の練兵場に繰込んだ・・・・・


S10.8.21 「春光台を中心に精鋭戦車隊活躍 24日から5日間」
・・・・24日は旭川駅において戦車の積下しに午前中を費やし午後から○台の戦車が体系をととのへて旭川師団通りを練兵場へと前進25日○○より正午頃歩兵26連隊と連合・・・・。

両記事とも旭橋を渡ったという直接的記述はありませんが、師団通りを通ってとか電車線路をとかいった記述から旭橋を渡ったことは確実であろうと思います。

なぜ近文からの支線ではなく旭川駅にという疑問ですが、戦車が来るたびに演習が大勢の市民に見学されているところから、時代背景から言っても国民の士気を鼓舞するという意味があったように思います。

添付写真は旭川で演習中の戦車です。
 

Re: 戦車は実際に渡っていた!?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年10月27日(火)10時11分37秒
返信・引用 編集済
  かんじさんへ

あの記事の記者さんに会ったわけですね。
私も色々聞いてみたかったです。

何かの特別演習だったのですね?
演習に必要なので、一時的にどこか別の師団から戦車を搬入したという事でしょうか。
旭川駅を使ったのはやはりアピールのためとしか考えようがありませんよね。

当時ゴムキャタピラなんてあったのかどうか知りませんが、
街中の師団通りは既に舗装されていたはずですから、道路は大丈夫だったのかなぁ、なんて思いましたよ。
当時の日本の戦車は小さいですから、電車の軌道は避けられたかもしれません。

旭橋はぜんぜんへっちゃらだったけど、周りの道路がガチャガチャだったりして・・・(笑)



PS:写真お褒めの言葉ありがとうございます。
  3年程前に写したものですが、ちょうどこの時橋脚の補修工事をやっていました。

 

Re: 戦車は実際に渡っていた!?

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年10月26日(月)16時17分30秒
返信・引用 編集済
  > No.1085[元記事へ]

momongaさんへ

あの記事には私もビックリしました。
え?戦車が渡ったの????
って感じです。

偶然ではあったのですが、昨日郷土史家T氏のもとを訪ねるとあの記事を書いた道新の記者さんがいたんです。
それで元記事のコピーも見ました。戦車が来るよという記事と戦車が来たよという2本の記事でしたよ。
それを見ながらT氏と3人で、なんで旭川駅まで行ったんだろうねとか、電車の軌道は邪魔にならないのかとかいろいろ言っておりました。
結論はでませんが、演習のアピール的な要素はあったのじゃないかという話になっていましたよ。
記事には戦車の台数は書かれておらず。戦車○台となっています。
軍事秘密だろうという事や、大した数じゃなかったのだろうなんて想像していました。
ただ、当時としても戦車が来て旭橋を渡るのはかなりインパクトのあることなので、なんで写真や記録に無いんだろうねぇというのはかなりの疑問です。
戦車は夜中の0時に駅に到着して、翌日昼からの演習に参加しています。
そのうちに基記事も手に入れておきます。
などなど、もっと調べがいのある記事ですね。

ps
旭橋の写真、良い写真ですねぇ。
 

戦車は実際に渡っていた!?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年10月25日(日)18時22分34秒
返信・引用
  これまで私はサイトの中や当掲示板にて、旭橋の架橋時の性格を「戦車の渡れる軍事橋」と表現してきました。
もっともこの表現は、なにも私が発想した訳でも何でもなく、設計時の強度を表す言葉として昔から言われていたものです。
架橋に当たって、軍が深く関与した事は間違いないでしょうが、
実際に戦車が渡ったか?と問われると、たぶんそれはなかっただろうと考えてました。

http://homepage2.nifty.com/momonga_farm/gunto/asahibashi.html
http://9008.teacup.com/momonga_farm/bbs/945

実際問題、旭川には歩兵・騎兵・砲兵など一通りの部隊が集中していたものの、戦車を保有してたかどうか定かでありません。
少なくとも、戦前から残る軍にまつわる写真の中に、戦車の写ってる写真は見たことがありませんし、
また、戦前を回顧する記述等でも戦車が登場するシーンに出くわした事がありません。


ところがどっこい、旭川での戦車の演習を報じた昭和15年8月21日付小樽新聞の記事が見つかったそうです。
(北海道新聞10月23日朝刊道北面より)
しかも、『戦車が体系をとゝのへて旭川師団通りを練兵場へと前進』とあるそうで、
これを言葉通りに受け取れば、戦車の隊列が旭橋を渡った事になります。

これには私もちょっとビックリしました。
実際に戦車があったとして、何の目的で市街地側へ入ったのか?
石狩川から南側に演習地はありませんから、おそらく何かのイベントだったと見るべきでしょうか。
もしかして、新たに配備された戦車を敢えて師団線を使わずに旭川駅まで運搬し、自走で師団へ向かったのかもしれません。
記事の全文が紹介されてないので詳細は全く不明ですが・・・。



その旭橋ですが、来月11月3日で架橋83年を向かえます。
北海道開発局が管理する3622の橋の中ではダントツ最も古い橋です。
3年前には橋桁をジャッキアップしながら行うという橋脚の大改修も実施されました。

この美しい橋を、まだまだ、日本一古い現役橋となるまで守ってほしいと願います。

 

北の誉

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年10月18日(日)22時12分32秒
返信・引用
  北海道を代表する日本酒の銘柄である「北の誉」が、発祥の地小樽での醸造を終了するそうです。

北の誉酒造は、現在でこそ札幌に本社を置いてますが、元々は小樽の野口吉次郎商店がその前身です。
そして、旭川とも実に深い関わりがあります。


野口商店は、小樽で北の誉の醸造を開始して間もない明治40年に野口合資会社とし、旭川でも醸造を始めます。
そしてその時の旭川のオーナーが、出資者の一人である岡田重次郎氏でした。
後に5条16丁目に岡田邸を建てたその人です。
つまり北の誉という銘柄は、旭川産のブランドでもあったわけです。


これとは別に、当時、東京浅草が本拠地の神谷酒造が旭川に蒸留酒工場を持っていました。
神谷酒造は、当時としてはハイカラな「神谷バー」という日本初のバーを浅草に開き、
「電気ブラン」なる、ブランデーを模したカクテルなども販売していました。
また茨城に国内初のワイナリーを造るなど、先進的な経営を手広く行なっていましたが、
大正12年の関東大震災によって都内の店舗などが被災し、大きな損害を受けました。

そこで、救済のため立ち上がったのが野口商店です。
旭川の蒸留酒工場を買い取る形で神谷酒造に助け舟を出しました。
さらに、道内の焼酎会社3社を合併して誕生したのが合同酒精です。

合同酒精は焼酎製造の大手として戦前戦後を通じて発展して上場し、
自身の発祥である神谷酒造を傘下に入れ、昭和38年に東京へ本社を移しました。
その後のビール・洋酒ブームで一時期経営不振だったものの、昭和50年代の焼酎ブームで息を吹き返しました。
そして平成15年、合同酒精を主幹とする持株会社オエノンホールディングスを設立し、
平成19年、生みの親とも言える北の誉酒造をも子会社としたのです。
また、旭川の地元酒蔵の一つである「大雪の蔵」も、合同酒精旭川工場の日本酒部門と言えます。

このように、過去と現在で立場は逆転しているものの、
北の誉という銘柄を通じた、小樽と旭川、そして合同酒精、神谷酒造の間には切っても切れない深い縁があるのです。


相変わらず日本酒業界はけっして盛況とはいい難い状況にありますが、
今回の、北の誉発祥の地小樽での醸造終了の報道は、そのような歴史を知っている方なら感慨深いものがあるかもしれません。
オエノンホールディングス=合同酒精にとっても苦渋の決断だった?

北の誉の第二の故郷である旭川で、その醸造が続けられる事になったのはせめてもの幸いだと思います。

 

Re: 北彩都

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年10月18日(日)09時53分42秒
返信・引用
  おお~、IMAIさんお久しぶりです。

北彩都からの夜景、すっごくいいですねー
旭川とは思えない新スポットですよね。

私も撮りに行こうっと。

 

北彩都

 投稿者:IMAI  投稿日:2015年10月17日(土)19時31分4秒
返信・引用
  ご無沙汰で~す-^ ^-

思い出した様に来ました

駅裏すっかり綺麗になりましたね~
新しい撮影スポットとしてもテンション上がります。
 

Re: 夕張鹿鳴館

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 9月18日(金)10時29分19秒
返信・引用
  > えーーーっ!
> そうだったんですか、北海ホテルが国策パルプのものだったとは、、、。

あら、、やっぱしかんじさんも知りませんでしたか。
これ、意外と市民でも知らなかったという人が多いんですよね。
本業に専念するということで手放したのは割と最近の事で、5年くらい前だったろか。
今のグランドホテルになって、しばらくしてからですね。

ついでながら、大手都市銀行で唯一旭川に店舗を持つみずほ銀行(旧富士銀行)はパルプのために支店をつくりました。^^;


まあ、こういう諸々の事も含めて、大企業の力ってやっぱり大きいですよね。
そのマチの歴史や、盛衰に大きく関わるわけですから。
軍隊も使うカネの出所こそ税金ですが、関連産業・周辺産業・インフラ・雇用への寄与は非常に大きいものがあります。
旭川の場合特に、日本最大の集約衛戍地でしたから、どこの師団よりもその影響は大きかったでしょうね。
ただ、ツアーでも川島先生おっしゃってましたが、炭鉱のように、それがいっぺんに引いた時が恐ろしいですよね。
ある意味旭川も終戦後は炭鉱と一緒だったかもしれません。

 

Re: 夕張鹿鳴館

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 9月17日(木)21時55分14秒
返信・引用
  > No.1079[元記事へ]

momongaさんへ

> 国策パルプ(現日本製紙)が、ニュー北海ホテル(現グランドホテル)を所有していた理由も、
> 昔の旭川にはやはり本来のホテルと呼べるホテルがなく、お偉方を安っぽいホテルもどきか旅館に泊めるしかなかったからです。
> そこでパルプ側は、小樽北海ホテル旭川支店を買収して旭川初の本格的ホテルに改修したわけですね。

えーーーっ!
そうだったんですか、北海ホテルが国策パルプのものだったとは、、、。
やっぱりこうやって話が膨らむと色々な事実が聞けるんですね。楽しいです。
倶楽部文化というか私はステータスだとばかり思っていましたが、お偉いさんを泊めるところが無いという切実な必要性から生まれたものでもあったのですねぇ。
話はそれますが、よく企業誘致って言って行政が主体となって街に企業を呼び込もうみたいな議論がありますが、私は少し違和感を持っています。
今回夕張に行って企業が街を作っていたというのを見た事に象徴されるのですが、所詮人々が働いて糧を得る手段がなければそこに人は来ないと思うのです。
つまり街を形作っているのは働く場であり企業であり産業なわけです。
行政なんて何も生産をしないのですから。
お金儲けの手段、つまり働く場さえあれば街は自然と発展するのだと思うんですよね。
役人が「この街は良いからみんな来てください」とか街の魅力とか大げさに言っていますが、そんなものは極めて微力で、しっかりとした働く場があるかどうかが街の魅力そのものだと思うんです。
そういう意味では旭川はもともと軍都だったわけで、軍隊にあつまる多くの人が落とすお金が自然と活気あふれる街を作っていたのでしょう。
観光地はまた別な側面をもつでしょうけどね。
 

Re: 夕張鹿鳴館

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 9月17日(木)17時28分57秒
返信・引用
  > いまでも北電やかつての北洋銀行も倶楽部を持っていましたね。北電はまだありますけど。
> 私の父の勤める会社にもあったので、昔はちょっとした企業はすぐに自社の倶楽部を作るというのが普通だったのでしょうねぇ。
> 企業の文化でしょうか。

理由の一つとして、昔はホテルがまだ普及してなかった、というのがあるみたいですよ。
特に炭鉱のような山の町の場合、本社からお偉方が来たり、来賓を招いたりするにも、
宿泊したり食事を振舞ったりするためのまっとうなホテルや旅館が地元になかったわけです。
そこで会社としては、こういった迎賓施設を自前で持つしかなかったみたいですね。
会社の力を誇示するためのステータスシンボル的な一面もあったかもしれませんが。

国策パルプ(現日本製紙)が、ニュー北海ホテル(現グランドホテル)を所有していた理由も、
昔の旭川にはやはり本来のホテルと呼べるホテルがなく、お偉方を安っぽいホテルもどきか旅館に泊めるしかなかったからです。
そこでパルプ側は、小樽北海ホテル旭川支店を買収して旭川初の本格的ホテルに改修したわけですね。

 

Re: 夕張鹿鳴館

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 9月17日(木)10時27分13秒
返信・引用 編集済
  > No.1077[元記事へ]

momongaさんへ

お疲れ様でした。
あいにくの雨でしたが、見学会自体はまぁまぁ盛況だったと思います。
炭鉱、かつての栄華は私にはわからないのですが、夕張などあの狭い範囲に十万人以上いた人口が、1万人以下になってしまったのですね。
それはすごい賑やかな町だったことでしょう。
炭住と呼ばれるかつての長屋は、私が小さいころよく遊びに行った親が国鉄の友人の家そのものでした。
50年のタイムスリップでした。
鹿鳴館はその前は「鹿の谷倶楽部」と呼ばれる北炭のおもてなし場ですね。
いまでも北電やかつての北洋銀行も倶楽部を持っていましたね。北電はまだありますけど。
私の父の勤める会社にもあったので、昔はちょっとした企業はすぐに自社の倶楽部を作るというのが普通だったのでしょうねぇ。
企業の文化でしょうか。

今回、私が一番気に入ったのは「料理」です(^^;
実は行くまで、あそこがオーベルジュと呼ばれる、食事をメインとした宿泊施設だって知らなかったんです。
なるほど美味しいはずです。
あの食事を目当てに全国から泊りに来るのですから。
ランチでしたので2300円の一番安いコースでしたが、それでも料理の美味しさはしっかり感じることが出来ました。
もう一つは教会ですね。
あの天井の造詣は珍しいし、シンプルで美しいと思いました。

またどっか行きましょう。
 

夕張鹿鳴館

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 9月15日(火)21時11分42秒
返信・引用
  かんじさんのお誘いを受け「旭川の歴史的建物の保存を考える会」主催の、炭鉱の町芦別・夕張の見学会に参加してまいりました。
あいにくの雨がなかなか上がらず、愛用の一眼レフを抱えて行きましたが写真撮影は早々に放棄しました。(^^ゞ

でも今回の見学会のメインでもあった夕張鹿鳴館は、私も初めてだったので参加した甲斐がありました。
けっしてフレンチコースの食事の事ではありません、あ、食事ももちろん良かったですが、
やはり古い建築というのは貫禄がありますねぇー。

私は建築に関しては全くの素人ですが、実に巧妙に和と洋を取り入れてるのが分かりました。
内部の造作は、明治大正期に見られる典型的な洋風建築の造りに思えますが、
庭園に面した側に行って連想させられるものは、紛れもなく藩主・殿様の屋敷でしたね。
パンフレットを見ると、なるほど、二条城二の丸御殿や桂離宮の建築形式にならったとあります。
これだけの迎賓館を造るだけの力があった、最盛期の炭鉱会社のパワーを感じました。


私は小学生の一時期を炭鉱の町で過ごしました。
当時既に炭鉱は完全に斜陽産業であり、閉山が相次いで山元の炭住街は空家だらけになっていましたが、
まだ最盛期の炭鉱街がそのまま残っており、その記憶ははっきりと残っています。
それだけに今回、昔の炭住街がゴーストタウンになり、更地となり、場所によっては原始の姿に戻りつつある姿を見せつけられると一抹の寂しさを感じました。

今回のツアーで改めて認識させられたのは、思ってた以上に炭鉱の遺構が残っていない事ですね。
一時期、夕張の財政破綻で建物の存続すら危ぶまれた鹿鳴館ですが、
何とか今後も健全な形で残って行く事を願っています。

 

Re: 高野町

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2015年 9月12日(土)12時44分28秒
返信・引用
  > No.1075[元記事へ]

momongaさん

モヤモヤも吹き飛ぶ回答ありがとうございました!

今まで疑問に思っていた案件でした

高野町の方が良かったのではないかと私も思います

変わり行く街並みを忘れないようこれからも精進します!

 

Re: 高野町

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 9月12日(土)10時32分25秒
返信・引用
  モリゴロウさん、お久しぶりです。

美瑛川と南校川に囲まれた一帯は、昔「高野牧場」という牧場だったんですよ。
昭和31年頃ここに当時私立の南高校ができることになり、それを機に牧場を宅地として分譲したのが始まりです。
元々が高野牧場だったので「高野町」ですね。

その時設立された会社が「高野観光開発」で、その後も神居・神楽や忠和地域を中心に旭川の宅地開発を手がけました。
観音霊園なども高野観光開発による造成です。
ご存知かと思いますが、現在ではもっぱら分譲マンションを建てている「タカノ」の前身ですね。

ちなみに、高野町は正式な町名ではなく、神居町雨紛が正式な町名でした。
え?神楽なのに雨紛?と思いますよね。
今でこそ美瑛川は南北方向に真っ直ぐ流れてますが、かつては今の南校川のルートを大きく蛇行して流れていたため、高野牧場は雨紛側と地続きでした。
それが治水による美瑛川の直線化の結果、神楽町側に取り残された飛地となってしまったわけです。
ですから誰も雨紛とは呼ばず、旭川市高野町の名が一般に通っていました。
(当時は神居町は既に旭川市でしたが神楽町はまだ合併前でした)

今では画一的に神楽〇条〇丁目に統一されてしまいましたが、
私はどうせならこの辺りを高野〇条〇丁目としてほしかったです。
モリゴロウさんのように、高野町の由来が分からない市民が増えるのは当たり前ですよね。


参考までに
http://homepage2.nifty.com/momonga_farm/machi/mihonrin.html
 

Re: 高野町

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2015年 9月11日(金)18時04分22秒
返信・引用
  > No.1073[元記事へ]

補足です

年代はわかりませんが高野町で親戚が洋服店を営んでいました
 

Re: 高野町

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2015年 9月11日(金)17時34分5秒
返信・引用
  > No.1060[元記事へ]

こんにちわ!

お久しぶりにバカな質問します

なぜこの地区が高野町と呼ばれていたんでしょうか?

最初に住んでた人の人名?なのか~何なのか

気になって質問しました
 

Re: 銀座通り

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 9月11日(金)10時07分33秒
返信・引用
  > No.1071[元記事へ]

momongaさんへ

> かんじさん、あれ鳥居じゃありません。^_^;
> あくまで鳥居をイメージしたモニュメントと言いますか、オブジェですね。

えーーーー。鳥居じゃないの。
単なるオブジェとわ、、、、、、。
確かに宗教色強いですよね。
上川神社と関係あると当然思いましたし、位置的には裏参道にあたりますよね。
それを利用した宗教キャラでしたか。
弁天様のゆるキャラもいましたよね。

三番館の社長がタイガースの熱狂的なファンと聞きましたが
なんか洒落のきつい大阪的なノリの雰囲気がありますよねあの辺り、、、。

そうかなんか勘違いしてたような気が、、、、。

 

Re: 銀座通り

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 9月10日(木)11時31分1秒
返信・引用 編集済
  かんじさん、あれ鳥居じゃありません。^_^;
あくまで鳥居をイメージしたモニュメントと言いますか、オブジェですね。

私の記憶違いかもしれませんが、何年か前に弁天さまを祀った時に、同じ朱塗りの街路灯などと一緒に設置したはずです。
全体的に宗教色が強くなり過ぎるということで、賛否両論はあったようですよ。
その後も七福神などがマスコットとして登場してますが・・(笑)

銀座通りは元々上川神社のお膝元という意識があって、その辺寛容なのかもしれませんんね。
上川神社祭の露店も、昔は3条通りの9丁目から18丁目まで並んでいたのが、今は銀座通り周辺だけですしね。

 

Re: 銀座通り

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 9月10日(木)10時00分53秒
返信・引用
  > No.1068[元記事へ]

momongaさんへ

銀座通り商店街、楽しく読ませて頂きました。
新師団道路という言葉は知っていましたが、その存在が15丁目の銀座商店街の発生の元になっていたとは勉強になりました。
確かになんであそこに大きな商店街があるのかなぁと疑問だったんですよ。
へ~~~。(古っ!)ですね。

そこで質問、15丁目の商店街には赤い鳥居が特徴的ですが、あの鳥居はなぜ真ん中が切れているのですか?
これも初めて見た時から疑問だったんです。
ざっと調べても、真ん中の切れた取り入って全国的にもかなり珍しいみたいじゃないですか。
他には一か所しか見つかりませんでした。
 

新師団道路

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 9月 6日(日)10時46分28秒
返信・引用
  銀座通りに補足して、かつての新師団道路のルートを付け加えておきます。
画像は昭和22年の終戦直後のものですが、ルートは戦前から変わっておらず、秋月橋以外は現在も道を辿る事ができます。
秋月橋は戦前から流失したままの状態で、この残骸は昭和40年代まで残っており、私も覚えています。
 

銀座通り

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 9月 6日(日)10時26分16秒
返信・引用
  17丁目オール商店街の書き込みの中で、ここには下町風情がある、と申しましたが、
旭川で古くから「市民の台所」と呼ばれ、やはり下町風情を感じると言われるのが銀座通り商店街です。
17丁目オール商店街にも近く、同じ下町でもオール商店街が”裏町”の趣きなら、こちらは表通りとでも言えましょう。



よく銀座通りは旭川では平和通りに次ぐ商店街と言われます。
でもどちらかと言うと、昔ながらの市場や生鮮食料品店や飲食店が多く、市民の台所と呼ばれるに相応しい商店街と言えます。
では何故、平和通りのような駅前通りという訳でもないこの通りに商店街が形成されたのか?


あまり知られていませんが、実はこの通りは「新師団道路」と呼ばれた道路だったのです。
14・15丁目の通りから日の出橋を渡って北上し、さらに石狩川を川渡りして師団競馬場・工兵大隊付近に至る道路でした。
それまで師団に通ずる道路は、初代旭橋を渡る師団通り(今の平和通り)のみでしたが、
明治40年代に入り、師団へ通ずる第二の道路として開削されたのです。
これが新師団道路と呼ばれた所以です。

開通当初は石狩川を渡る橋はなく、大正3年、工兵部隊によって初代秋月橋が架橋されました。
この時は、現在の秋月橋に近い下流に架けられ、どちらかと言うと師団と永山屯田とを結ぶのが目的の橋でした。
その後の流失を機に、さらに下流に架け直され、新師団道路を繋ぐ橋として衛戍病院・刑務所附近に至るルートに変更されています。

この新師団道路と、一条通りや二、三、四条通りと交差する付近には、自然発生的に商売を始める者が増え、
これが後の銀座通りの繁華街へと発展して行く事となります。
大正時代には、旭川初の民間市場である「第一市場」ができるなど、既にかなりの賑わいを見せていました。


では何故「銀座通り」なのでしょう?
昔「銀映座」という映画館があって、そこから名付けられたと言う説がありますが、それは間違いです。
戦前の昭和一桁時代には既に銀座通りと呼ばれ始めており、銀映座ができたのは戦後の事です。
ただ、この通りの名称と劇場には過去密接な関係があったのは事実です。
実は銀座通りは、劇場によって何度も呼び名が代わっているのです。

この通りに最初にできた劇場は明治42年にできた「大黒座」という芝居小屋です。
この大黒座が大正9年に「錦座」と改名し、さらに数年後「錦市場」という市場ができた頃から「錦座通り」と呼ばれ始めました。
錦座は廻り舞台を備えた、当時旭川一の劇場だったそうです。
しかしその後、劇場は松竹に経営が移り、名前も「松竹座」と改められたため、通りも「松竹座通り」と呼ばれるようになります。

昭和8年、歩道の舗装と鈴蘭灯が整備されたのを機に、商店街によって意図的に誕生したのが「銀座通り」という名です。
言うまでもなく、銀座は東京銀座のことであり、当時から繁華街の代名詞となっていました。
その名にあやかって、全国中の商店街や通りの名称に銀座の名が使われていますが、ここも例外ではなかったという事なのでしょう。
以降、長きに渡り銀座通りの名が定着していますが、
実は、銀座通りが歩行者天国になった昭和53年の時も「柳通り」に改名しよう、などという声もありました。
街路樹の柳の木が象徴的だったからです。
今では「銀座仲見世通り」とか「銀座しあわせ広場」などという呼称も併用されています。


松竹座は、終戦後の昭和21年に火災で焼け落ちましたが、その跡にできたのが本間興行による前出の銀映座です。
つまり、銀映座よりも銀座通りの名の方がずっと古いのです。
銀映座もテレビの台頭と共に閉館となりましたが、昭和42年、その跡に今の銀座センタービル、通称「銀ビル」が建てられました。

このように現在の銀座通りの名は、結果として劇場の名とは何ら関係のない名称ですが、
歴代この通りに存在した劇場によってその名を変えて来た歴史があるのは事実です。





写真1:昔には及ばないが、下町風の活気を見せる銀座通りの3条から4条。昭和の香りが漂う。
    中央がランドマークとも言える「銀ビル」だが往年の華やかさは微塵もない。
    1F路面に果実店とおやき屋があるだけで、あとは2Fの囲碁クラブの看板が見えるだけである。
    円い屋上階はかつて旭川唯一の回転展望レストランであったが、今ではそれも回る事はなくなった。
    右隣が旭川最古の民間市場である「第一市場」、左隣は名前は「銀座デパート」であるがデパートではない。

写真2:第一市場内は路面店の酒店を除いて全てシャッターが降りていた。
    昔は主婦の買物時ともなれば毎日賑わっていたし、年末などは身動きできないほどの人出であった。
    数年前まではほとんどの店がまだ営業していたので、もしかしたら建物の限界?

写真3:3条界隈には昔ながらの青果店などが並び活気の源になっている。
    スーパーなどの大型店に押される中、この界隈がひとかたまりで生鮮食料品店街を形成している。
 

銀座通り

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 9月 6日(日)10時24分21秒
返信・引用
  写真4:3・4条仲通りは「銀座広小路」と呼ばれ飲食店が軒を並べる。
    かつては”色街”の趣きもあったらしく料亭をはじめ数件の娼館もあったようである。

写真5:広小路から3条本通りまでを細長く貫く食品市場の「ニュー銀座」内。
    こちらは第一市場と対照的にシャッターを下ろしている店もなく元気である。

写真6:老舗店が大半を占める中で「まんだら庭園」という小規模なモールも数年前に誕生している。
    4条通り側の駐車場には可愛らしい七福神が並ぶ。
    ホコテン反対側の2条には弁天さまも祀られており、鳥居に似たモニュメントが並ぶなど全体的に参道をイメージしている。
    例年七夕祭りやマルシェなどのイベントも行われており結束の固さが伺える商店街である。

 

鹿鳴館でのコースランチと旧炭鉱の町夕張/芦別

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 8月24日(月)16時54分23秒
返信・引用
  momongaさんの許可を得ましてここで告知させて頂きます。

旭川の歴史的建物の保存を考える会
第35回見学会 参加者募集
2015年9月13日(日) 7時30分~18時00分到着予定
炭鉱の町 夕張・芦別の建物見学
---見学内容---
芦別炭住跡(内部見学有)
夕張教会
旧商店街散策
鹿鳴館(旧迎賓館でランチと内部見学)
黄色いハンカチ炭住
煉瓦造発電所、等
----------------
締切9月4日(金)まで
費用負担 7,500円 (バス代、鹿鳴館コースランチ代、保険代)
申込方法 FAX 0166-34-6900 又はメール hozonnokai@gmail.com にて参加者人数、氏名、連絡先をお伝えください。

私(かんじ)とmomongaさんも参加しま~す。
参照URL
http://genki365.net/gnka07/mypage/mypage_sheet.php?id=57340
 

Re: 鷹栖の地名由来

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 8月24日(月)12時14分44秒
返信・引用
  市太郎さん、レスありがとうございます。
少し補足させてください。

北海道は、鷹栖村の開村と同じ年の明治25年に「貸付地予定存置制」という制度を施行しています。
この制度は、北海道への団体移住を促進するための優遇制度で、
簡単に言いますと、
30戸以上の移住団体を組織して、総代者が予め入植地を定めて1年以内に移住を開始し、
3年以内に移住を完了して一定以上の開墾実績を挙げれば土地は無償で払い下げられるというものです。
この制度によって、北海道への移住は大きく前進したといいます。

北海道ではこの制度を全国の府県に向けて発信しており、
中でも富山県をはじめとする数県が県を挙げて北海道への移住を奨励したと言われます。
旭川周辺に富山県出身者が多いのはこのためですよね。


北海道庁は、この制度の施行に合わせて鷹栖村と神楽村(御料地含む)を開村させたように思います。
ですから正確には開村の時点と言うよりも、制度の施行に合わせて実際の団体移住が始まった可能性が強いですね。
開村当初に移住者が殆ど見当たらないのはそのせいかと思われます。

>富山県人からも道庁への照会は多数あったでしょうし、実地調査は
>はしたが頓挫した計画も多いでしょうから、道庁のお役人が砺波か
> らの団体入植を期待してネーミングするような状況があっても、
>おかしくありませんね。

まさにそこだと思います。
あるいは開村時点での、民間ベースでの実際の移住申請はなかったかもしれませんが、
制度施行へ向けて移住を推進する北海道庁と、それに応諾して奨励する富山県側との、役人ベースの事前のやりとりがあっても不思議でも何でもありません。
富山県側から「制度が施行したら砺波郡辺りから○○戸見込めるからヨロシク!」
などと妄想するしかありませんが、
私は、鷹栖の名前に親近感を持って移住して来た、と言うよりは現実味があると思います。

あるいは、そんなやりとりの中で、
「砺波郡には鷹栖という村がある。これはチカップニの意味に通じる」
と気づいた人間がいたかもしれませんね。


 

Re: 鷹栖の地名由来

 投稿者:市太郎  投稿日:2015年 8月23日(日)09時11分29秒
返信・引用
  > No.1063[元記事へ]

momongaさんへ

団体移住の計画があったかもしれないというのは、たしかにあり
得ますね。

結果としては、鷹栖村の初期の団体移住に、富山からのものはない
のですが、石川県からは最初期に団体移住がありますし、富山から
は松平農場をはじめとする大規模農場の小作人として多数の人が来
ており、北陸地方は有力な上川開拓の人材供給源でしょうから。

砺波市側の郷土史家が調査しても、砺波の鷹栖村から上川の鷹栖村
への移住者はほとんどいないそうなのですが、上川の開拓前には、
富山県人からも道庁への照会は多数あったでしょうし、実地調査は
はしたが頓挫した計画も多いでしょうから、道庁のお役人が砺波か
らの団体入植を期待してネーミングするような状況があっても、
おかしくありませんね。
 

Re: 鷹栖の地名由来

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 8月22日(土)18時59分5秒
返信・引用
  市太郎さん、はじめまして。
鷹栖の地元の方でしょうか?お詳しいですね。
よろしくお願いします。


なるほど、アイヌ語由来の鷹栖の名が先にあって、その名に親近感を持った砺波の人々が移住してきたという事ですね?
鷹栖がアイヌ語由来の地名だとすれば、確かに砺波との関連はそれしか考えられないでしょうね。
偶然の一致はまず有り得ないと思います。

おっしゃる通り、鷹栖村が開村する明治25年以前に住み着いてる者がいたとすればそれはフライングですよね。
たとえ砺波からの移住者が既にいたとしても、まだ道庁の正式な許可が下りる前の、言わば不正移住です。
旭川村開村時にもそういった輩がいて、道庁側から立退きなどの懲罰があったようです。
村名を決めるにあたって、そのような不正な移住者に村名の由来を求めるというのは有り得ないでしょうね。


当時の上川地方の農地集団殖民は、いきなり全員で未開の地に引っ越して来たわけではなく、
ほとんどの場合、代表者が前の年くらいに現地を確認した上で道庁に払い下げ申請をし、許可が下りるのを待ちます。
その上で地元からの移住希望者を引き連れ、時には2年3年に分けて移住を開始するわけです。
そりゃそうでしょうね。
どんな土地か分からない、作物が育つかどうかも分からない、生きて行ける見込みすら全く分からない未開の原野へ来るのですから。

既に開村済みの殖民区画は割りとすぐに払い下げ許可が下りたようですが、
鷹栖村の場合、明治23年に開村済みの旭川・永山・神居村の何れにも属しておらず、
正式な開村告示がされるまでは、払い下げ申請の受付に留まっていたものと思われます。

この払い下げ申請の段階で、砺波の鷹栖村からの集団移住希望があったとしたらどうでしょう?
広島村(現北広島市)や新十津川村のように、その後付けられる村名に影響を及ぼした可能性はあると思います。
また、開村告示前には実際にも記録上にも移住者は存在しませんが、村名告示後に初めて移住者が記録されるという事になりますよね。
この辺りはあくまで私の推測に過ぎませんが、
当時の道庁側の記録は、おそらく明治42年の道庁火災によって消失してしまったと思われます。



ただ私は、やはりチカップニの意訳というのには全く説得力を感じません。
当時既に「近文」という漢字表記が使われており、同じ地域なのになぜそのまま近文村としなかったのか?
道内他の地域がアイヌ語をそのまま漢字に置き換える中、なぜ敢えてチカップニを意訳する必要があったのか?
いったい誰が意訳したのか?
といった、旭川の地名由来問題と共通する疑問が鷹栖の地名にも当てはまるのです。


 

Re: 鷹栖の地名由来

 投稿者:市太郎  投稿日:2015年 8月22日(土)08時42分13秒
返信・引用
  momongaさんへ

鷹栖村と砺波の鷹栖(タカノス)との関係は昔から言われるところですが…

鷹栖村が置かれたのは明治25年。その後、多数の団体・個人が入植し、
開拓が行われました。
富山からの移住者も多く、特に松平農場の小作人として来た人が多くいます。
北野獅子舞は明治31年ころに、このあたりの入植者が持ち込んだのがルーツ
とされています。
中には「鷹栖」だから親近感を持って移住を決めたという砺波地方の方もいた
ようです。

しかし、明治25年までの入植者は、フライングして来た埼玉県人グループが
道庁で内田瀞の許可を得てコマヤ薬局付近の開拓したのをはじめとして、僅か
な人数ですが、この中に砺波地方からの個人入植者は記録にありません。

鷹栖は、基本的には、チカップの言葉の持つイメージをもとにしたものではな
いでしょうか。近代のお役人が「鳥の巣」よりも雄々しい「鷹」の字を選択す
るのも、わりと自然な発想だと思います。勿論、どのような漢字をあてていく
なかで、全国の地名を考察し、富山や京都の鷹栖という地名を勘案したかもし
れませんが、直接的な関係は見出しにくいと思います。

 

鷹栖の地名由来

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 8月20日(木)15時19分7秒
返信・引用
  昨日の道新夕刊「マイたうん旭川」に注目すべき記事がありました。
鷹栖町の無形文化財に指定されている「北野神社獅子舞」に関する記事です。
この獅子舞は富山県砺波市にルーツを持ち、移住者によって持ち込まれて明治・大正・昭和と受け継がれてきたとの事です。
そして1978年に町の文化財第1号に指定されたそうです。


なーんだ、知ってたんじゃないか・・・


さて、この富山県砺波市とはどういう所でしょうか?
当サイト「旭川の名の謎」の中でも触れていますが、まさに富山県砺波郡鷹栖村のあった地域です。
現在は合併によって砺波市の一部になっています。
開拓当初は地域からの集団入植が一般的でしたから、故郷を懐かしむ伝統文化を同郷の人々で持ち込んだのでしょうね。


ここまで言えば後はもうお解りかと思いますが、もしこれが偶然の一致とすれば、1枚だけ買った宝クジに当たるようなものです。
しかも一般的な「鷹巣」ではなく「鷹栖」という字まで一緒なのです。
こういった伝統文化や記録として残っていながら、何故鷹栖の名の由来はここにあると言わないのでしょうか?


ここまで分かっていながら、また、これを根拠に町の文化財にまで指定しておきながら、
未だに鷹栖の地名由来はアイヌ語「チカップニ」の意訳としている神経が私には理解できません。
http://www.town.takasu.hokkaido.jp/intro/index.html

 

Re: 高野町

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 8月20日(木)14時07分4秒
返信・引用
  lsxxさんお久しぶりです。

今の神楽岡との境の14丁目辺りまでが高野町でしたよ。高野0号というバスの終点でした。
 

Re: 高野町

 投稿者:lsxx  投稿日:2015年 8月19日(水)21時48分48秒
返信・引用
  > No.1041[元記事へ]

現在,あの地域は住所表記は神楽5~7条10~12丁目って感じでしょうか。『高野』という地名は町内会やあの辺りを通る道北バス43番は高野線と呼ばれています。
 

Re: 国見の碑

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 8月11日(火)11時50分49秒
返信・引用
  > No.1057[元記事へ]

momongaさんへ

年代がハッキリしないのですが、昭和30年前後と思われます。
この写真は市の図書館のページから「村上久吉」と検索すると出てきます。
「国見の碑」で検索した方が面白いですけど。
http://www3.library.pref.hokkaido.jp/digitallibrary/public-library/public5.html
説明書きには---
編集委員会旧蹟調査 調査員記念撮影 岩村通俊 宮北繁(後列右) 村上久吉(前列右から2番目) 薄正義(前列左) 嵐山公園内
----とありますが。
岩村通俊の意味は不明です。
 

Re: 国見の碑

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 8月11日(火)11時32分45秒
返信・引用
  ありゃ~、懐かしい顔が写ってますね。
シャキっとしてて、まだ目も見えてる頃の写真ですね、昭和30年頃ですか?
どういうメンバーなんでしょう。市史編纂委員かな、それとも東高の先生方かな。

やはり近文山も昔はあまり高い樹木は茂ってなかったんですね。
嵐山なんかも、中学生の頃に登った時は、今のような2階建ての展望台じゃなくてもちゃんと見えましたからね。
樹木の背丈が伸びてきたのは比較的近年の事みたいですね。

写真は持ってないです。
おかげで懐かしい顔が見られました。ありがとうございます。

 

国見の碑

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 8月10日(月)16時14分45秒
返信・引用 編集済
  旭川の原点、国見の碑ですがおもしろい写真を見つけました。
momongaさんならすでに持っているのかな?
横写真の前列右から2番目は「村上久吉」さんとなっています。
momongaさんの○○ですよね。
そうなると縦写真に写っている方も村上久吉さんですよね。
また、写真では国見の碑の周囲には大きな木々も無く
かなり見渡しがよさそうですねぇ。
 

/28