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Re: 北彩都

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年10月18日(日)09時53分42秒
返信・引用
  おお~、IMAIさんお久しぶりです。

北彩都からの夜景、すっごくいいですねー
旭川とは思えない新スポットですよね。

私も撮りに行こうっと。

 

北彩都

 投稿者:IMAI  投稿日:2015年10月17日(土)19時31分4秒
返信・引用
  ご無沙汰で~す-^ ^-

思い出した様に来ました

駅裏すっかり綺麗になりましたね~
新しい撮影スポットとしてもテンション上がります。
 

Re: 夕張鹿鳴館

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 9月18日(金)10時29分19秒
返信・引用
  > えーーーっ!
> そうだったんですか、北海ホテルが国策パルプのものだったとは、、、。

あら、、やっぱしかんじさんも知りませんでしたか。
これ、意外と市民でも知らなかったという人が多いんですよね。
本業に専念するということで手放したのは割と最近の事で、5年くらい前だったろか。
今のグランドホテルになって、しばらくしてからですね。

ついでながら、大手都市銀行で唯一旭川に店舗を持つみずほ銀行(旧富士銀行)はパルプのために支店をつくりました。^^;


まあ、こういう諸々の事も含めて、大企業の力ってやっぱり大きいですよね。
そのマチの歴史や、盛衰に大きく関わるわけですから。
軍隊も使うカネの出所こそ税金ですが、関連産業・周辺産業・インフラ・雇用への寄与は非常に大きいものがあります。
旭川の場合特に、日本最大の集約衛戍地でしたから、どこの師団よりもその影響は大きかったでしょうね。
ただ、ツアーでも川島先生おっしゃってましたが、炭鉱のように、それがいっぺんに引いた時が恐ろしいですよね。
ある意味旭川も終戦後は炭鉱と一緒だったかもしれません。

 

Re: 夕張鹿鳴館

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 9月17日(木)21時55分14秒
返信・引用
  > No.1079[元記事へ]

momongaさんへ

> 国策パルプ(現日本製紙)が、ニュー北海ホテル(現グランドホテル)を所有していた理由も、
> 昔の旭川にはやはり本来のホテルと呼べるホテルがなく、お偉方を安っぽいホテルもどきか旅館に泊めるしかなかったからです。
> そこでパルプ側は、小樽北海ホテル旭川支店を買収して旭川初の本格的ホテルに改修したわけですね。

えーーーっ!
そうだったんですか、北海ホテルが国策パルプのものだったとは、、、。
やっぱりこうやって話が膨らむと色々な事実が聞けるんですね。楽しいです。
倶楽部文化というか私はステータスだとばかり思っていましたが、お偉いさんを泊めるところが無いという切実な必要性から生まれたものでもあったのですねぇ。
話はそれますが、よく企業誘致って言って行政が主体となって街に企業を呼び込もうみたいな議論がありますが、私は少し違和感を持っています。
今回夕張に行って企業が街を作っていたというのを見た事に象徴されるのですが、所詮人々が働いて糧を得る手段がなければそこに人は来ないと思うのです。
つまり街を形作っているのは働く場であり企業であり産業なわけです。
行政なんて何も生産をしないのですから。
お金儲けの手段、つまり働く場さえあれば街は自然と発展するのだと思うんですよね。
役人が「この街は良いからみんな来てください」とか街の魅力とか大げさに言っていますが、そんなものは極めて微力で、しっかりとした働く場があるかどうかが街の魅力そのものだと思うんです。
そういう意味では旭川はもともと軍都だったわけで、軍隊にあつまる多くの人が落とすお金が自然と活気あふれる街を作っていたのでしょう。
観光地はまた別な側面をもつでしょうけどね。
 

Re: 夕張鹿鳴館

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 9月17日(木)17時28分57秒
返信・引用
  > いまでも北電やかつての北洋銀行も倶楽部を持っていましたね。北電はまだありますけど。
> 私の父の勤める会社にもあったので、昔はちょっとした企業はすぐに自社の倶楽部を作るというのが普通だったのでしょうねぇ。
> 企業の文化でしょうか。

理由の一つとして、昔はホテルがまだ普及してなかった、というのがあるみたいですよ。
特に炭鉱のような山の町の場合、本社からお偉方が来たり、来賓を招いたりするにも、
宿泊したり食事を振舞ったりするためのまっとうなホテルや旅館が地元になかったわけです。
そこで会社としては、こういった迎賓施設を自前で持つしかなかったみたいですね。
会社の力を誇示するためのステータスシンボル的な一面もあったかもしれませんが。

国策パルプ(現日本製紙)が、ニュー北海ホテル(現グランドホテル)を所有していた理由も、
昔の旭川にはやはり本来のホテルと呼べるホテルがなく、お偉方を安っぽいホテルもどきか旅館に泊めるしかなかったからです。
そこでパルプ側は、小樽北海ホテル旭川支店を買収して旭川初の本格的ホテルに改修したわけですね。

 

Re: 夕張鹿鳴館

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 9月17日(木)10時27分13秒
返信・引用 編集済
  > No.1077[元記事へ]

momongaさんへ

お疲れ様でした。
あいにくの雨でしたが、見学会自体はまぁまぁ盛況だったと思います。
炭鉱、かつての栄華は私にはわからないのですが、夕張などあの狭い範囲に十万人以上いた人口が、1万人以下になってしまったのですね。
それはすごい賑やかな町だったことでしょう。
炭住と呼ばれるかつての長屋は、私が小さいころよく遊びに行った親が国鉄の友人の家そのものでした。
50年のタイムスリップでした。
鹿鳴館はその前は「鹿の谷倶楽部」と呼ばれる北炭のおもてなし場ですね。
いまでも北電やかつての北洋銀行も倶楽部を持っていましたね。北電はまだありますけど。
私の父の勤める会社にもあったので、昔はちょっとした企業はすぐに自社の倶楽部を作るというのが普通だったのでしょうねぇ。
企業の文化でしょうか。

今回、私が一番気に入ったのは「料理」です(^^;
実は行くまで、あそこがオーベルジュと呼ばれる、食事をメインとした宿泊施設だって知らなかったんです。
なるほど美味しいはずです。
あの食事を目当てに全国から泊りに来るのですから。
ランチでしたので2300円の一番安いコースでしたが、それでも料理の美味しさはしっかり感じることが出来ました。
もう一つは教会ですね。
あの天井の造詣は珍しいし、シンプルで美しいと思いました。

またどっか行きましょう。
 

夕張鹿鳴館

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 9月15日(火)21時11分42秒
返信・引用
  かんじさんのお誘いを受け「旭川の歴史的建物の保存を考える会」主催の、炭鉱の町芦別・夕張の見学会に参加してまいりました。
あいにくの雨がなかなか上がらず、愛用の一眼レフを抱えて行きましたが写真撮影は早々に放棄しました。(^^ゞ

でも今回の見学会のメインでもあった夕張鹿鳴館は、私も初めてだったので参加した甲斐がありました。
けっしてフレンチコースの食事の事ではありません、あ、食事ももちろん良かったですが、
やはり古い建築というのは貫禄がありますねぇー。

私は建築に関しては全くの素人ですが、実に巧妙に和と洋を取り入れてるのが分かりました。
内部の造作は、明治大正期に見られる典型的な洋風建築の造りに思えますが、
庭園に面した側に行って連想させられるものは、紛れもなく藩主・殿様の屋敷でしたね。
パンフレットを見ると、なるほど、二条城二の丸御殿や桂離宮の建築形式にならったとあります。
これだけの迎賓館を造るだけの力があった、最盛期の炭鉱会社のパワーを感じました。


私は小学生の一時期を炭鉱の町で過ごしました。
当時既に炭鉱は完全に斜陽産業であり、閉山が相次いで山元の炭住街は空家だらけになっていましたが、
まだ最盛期の炭鉱街がそのまま残っており、その記憶ははっきりと残っています。
それだけに今回、昔の炭住街がゴーストタウンになり、更地となり、場所によっては原始の姿に戻りつつある姿を見せつけられると一抹の寂しさを感じました。

今回のツアーで改めて認識させられたのは、思ってた以上に炭鉱の遺構が残っていない事ですね。
一時期、夕張の財政破綻で建物の存続すら危ぶまれた鹿鳴館ですが、
何とか今後も健全な形で残って行く事を願っています。

 

Re: 高野町

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2015年 9月12日(土)12時44分28秒
返信・引用
  > No.1075[元記事へ]

momongaさん

モヤモヤも吹き飛ぶ回答ありがとうございました!

今まで疑問に思っていた案件でした

高野町の方が良かったのではないかと私も思います

変わり行く街並みを忘れないようこれからも精進します!

 

Re: 高野町

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 9月12日(土)10時32分25秒
返信・引用
  モリゴロウさん、お久しぶりです。

美瑛川と南校川に囲まれた一帯は、昔「高野牧場」という牧場だったんですよ。
昭和31年頃ここに当時私立の南高校ができることになり、それを機に牧場を宅地として分譲したのが始まりです。
元々が高野牧場だったので「高野町」ですね。

その時設立された会社が「高野観光開発」で、その後も神居・神楽や忠和地域を中心に旭川の宅地開発を手がけました。
観音霊園なども高野観光開発による造成です。
ご存知かと思いますが、現在ではもっぱら分譲マンションを建てている「タカノ」の前身ですね。

ちなみに、高野町は正式な町名ではなく、神居町雨紛が正式な町名でした。
え?神楽なのに雨紛?と思いますよね。
今でこそ美瑛川は南北方向に真っ直ぐ流れてますが、かつては今の南校川のルートを大きく蛇行して流れていたため、高野牧場は雨紛側と地続きでした。
それが治水による美瑛川の直線化の結果、神楽町側に取り残された飛地となってしまったわけです。
ですから誰も雨紛とは呼ばず、旭川市高野町の名が一般に通っていました。
(当時は神居町は既に旭川市でしたが神楽町はまだ合併前でした)

今では画一的に神楽〇条〇丁目に統一されてしまいましたが、
私はどうせならこの辺りを高野〇条〇丁目としてほしかったです。
モリゴロウさんのように、高野町の由来が分からない市民が増えるのは当たり前ですよね。


参考までに
http://homepage2.nifty.com/momonga_farm/machi/mihonrin.html
 

Re: 高野町

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2015年 9月11日(金)18時04分22秒
返信・引用
  > No.1073[元記事へ]

補足です

年代はわかりませんが高野町で親戚が洋服店を営んでいました
 

Re: 高野町

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2015年 9月11日(金)17時34分5秒
返信・引用
  > No.1060[元記事へ]

こんにちわ!

お久しぶりにバカな質問します

なぜこの地区が高野町と呼ばれていたんでしょうか?

最初に住んでた人の人名?なのか~何なのか

気になって質問しました
 

Re: 銀座通り

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 9月11日(金)10時07分33秒
返信・引用
  > No.1071[元記事へ]

momongaさんへ

> かんじさん、あれ鳥居じゃありません。^_^;
> あくまで鳥居をイメージしたモニュメントと言いますか、オブジェですね。

えーーーー。鳥居じゃないの。
単なるオブジェとわ、、、、、、。
確かに宗教色強いですよね。
上川神社と関係あると当然思いましたし、位置的には裏参道にあたりますよね。
それを利用した宗教キャラでしたか。
弁天様のゆるキャラもいましたよね。

三番館の社長がタイガースの熱狂的なファンと聞きましたが
なんか洒落のきつい大阪的なノリの雰囲気がありますよねあの辺り、、、。

そうかなんか勘違いしてたような気が、、、、。

 

Re: 銀座通り

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 9月10日(木)11時31分1秒
返信・引用 編集済
  かんじさん、あれ鳥居じゃありません。^_^;
あくまで鳥居をイメージしたモニュメントと言いますか、オブジェですね。

私の記憶違いかもしれませんが、何年か前に弁天さまを祀った時に、同じ朱塗りの街路灯などと一緒に設置したはずです。
全体的に宗教色が強くなり過ぎるということで、賛否両論はあったようですよ。
その後も七福神などがマスコットとして登場してますが・・(笑)

銀座通りは元々上川神社のお膝元という意識があって、その辺寛容なのかもしれませんんね。
上川神社祭の露店も、昔は3条通りの9丁目から18丁目まで並んでいたのが、今は銀座通り周辺だけですしね。

 

Re: 銀座通り

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 9月10日(木)10時00分53秒
返信・引用
  > No.1068[元記事へ]

momongaさんへ

銀座通り商店街、楽しく読ませて頂きました。
新師団道路という言葉は知っていましたが、その存在が15丁目の銀座商店街の発生の元になっていたとは勉強になりました。
確かになんであそこに大きな商店街があるのかなぁと疑問だったんですよ。
へ~~~。(古っ!)ですね。

そこで質問、15丁目の商店街には赤い鳥居が特徴的ですが、あの鳥居はなぜ真ん中が切れているのですか?
これも初めて見た時から疑問だったんです。
ざっと調べても、真ん中の切れた取り入って全国的にもかなり珍しいみたいじゃないですか。
他には一か所しか見つかりませんでした。
 

新師団道路

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 9月 6日(日)10時46分28秒
返信・引用
  銀座通りに補足して、かつての新師団道路のルートを付け加えておきます。
画像は昭和22年の終戦直後のものですが、ルートは戦前から変わっておらず、秋月橋以外は現在も道を辿る事ができます。
秋月橋は戦前から流失したままの状態で、この残骸は昭和40年代まで残っており、私も覚えています。
 

銀座通り

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 9月 6日(日)10時26分16秒
返信・引用
  17丁目オール商店街の書き込みの中で、ここには下町風情がある、と申しましたが、
旭川で古くから「市民の台所」と呼ばれ、やはり下町風情を感じると言われるのが銀座通り商店街です。
17丁目オール商店街にも近く、同じ下町でもオール商店街が”裏町”の趣きなら、こちらは表通りとでも言えましょう。



よく銀座通りは旭川では平和通りに次ぐ商店街と言われます。
でもどちらかと言うと、昔ながらの市場や生鮮食料品店や飲食店が多く、市民の台所と呼ばれるに相応しい商店街と言えます。
では何故、平和通りのような駅前通りという訳でもないこの通りに商店街が形成されたのか?


あまり知られていませんが、実はこの通りは「新師団道路」と呼ばれた道路だったのです。
14・15丁目の通りから日の出橋を渡って北上し、さらに石狩川を川渡りして師団競馬場・工兵大隊付近に至る道路でした。
それまで師団に通ずる道路は、初代旭橋を渡る師団通り(今の平和通り)のみでしたが、
明治40年代に入り、師団へ通ずる第二の道路として開削されたのです。
これが新師団道路と呼ばれた所以です。

開通当初は石狩川を渡る橋はなく、大正3年、工兵部隊によって初代秋月橋が架橋されました。
この時は、現在の秋月橋に近い下流に架けられ、どちらかと言うと師団と永山屯田とを結ぶのが目的の橋でした。
その後の流失を機に、さらに下流に架け直され、新師団道路を繋ぐ橋として衛戍病院・刑務所附近に至るルートに変更されています。

この新師団道路と、一条通りや二、三、四条通りと交差する付近には、自然発生的に商売を始める者が増え、
これが後の銀座通りの繁華街へと発展して行く事となります。
大正時代には、旭川初の民間市場である「第一市場」ができるなど、既にかなりの賑わいを見せていました。


では何故「銀座通り」なのでしょう?
昔「銀映座」という映画館があって、そこから名付けられたと言う説がありますが、それは間違いです。
戦前の昭和一桁時代には既に銀座通りと呼ばれ始めており、銀映座ができたのは戦後の事です。
ただ、この通りの名称と劇場には過去密接な関係があったのは事実です。
実は銀座通りは、劇場によって何度も呼び名が代わっているのです。

この通りに最初にできた劇場は明治42年にできた「大黒座」という芝居小屋です。
この大黒座が大正9年に「錦座」と改名し、さらに数年後「錦市場」という市場ができた頃から「錦座通り」と呼ばれ始めました。
錦座は廻り舞台を備えた、当時旭川一の劇場だったそうです。
しかしその後、劇場は松竹に経営が移り、名前も「松竹座」と改められたため、通りも「松竹座通り」と呼ばれるようになります。

昭和8年、歩道の舗装と鈴蘭灯が整備されたのを機に、商店街によって意図的に誕生したのが「銀座通り」という名です。
言うまでもなく、銀座は東京銀座のことであり、当時から繁華街の代名詞となっていました。
その名にあやかって、全国中の商店街や通りの名称に銀座の名が使われていますが、ここも例外ではなかったという事なのでしょう。
以降、長きに渡り銀座通りの名が定着していますが、
実は、銀座通りが歩行者天国になった昭和53年の時も「柳通り」に改名しよう、などという声もありました。
街路樹の柳の木が象徴的だったからです。
今では「銀座仲見世通り」とか「銀座しあわせ広場」などという呼称も併用されています。


松竹座は、終戦後の昭和21年に火災で焼け落ちましたが、その跡にできたのが本間興行による前出の銀映座です。
つまり、銀映座よりも銀座通りの名の方がずっと古いのです。
銀映座もテレビの台頭と共に閉館となりましたが、昭和42年、その跡に今の銀座センタービル、通称「銀ビル」が建てられました。

このように現在の銀座通りの名は、結果として劇場の名とは何ら関係のない名称ですが、
歴代この通りに存在した劇場によってその名を変えて来た歴史があるのは事実です。





写真1:昔には及ばないが、下町風の活気を見せる銀座通りの3条から4条。昭和の香りが漂う。
    中央がランドマークとも言える「銀ビル」だが往年の華やかさは微塵もない。
    1F路面に果実店とおやき屋があるだけで、あとは2Fの囲碁クラブの看板が見えるだけである。
    円い屋上階はかつて旭川唯一の回転展望レストランであったが、今ではそれも回る事はなくなった。
    右隣が旭川最古の民間市場である「第一市場」、左隣は名前は「銀座デパート」であるがデパートではない。

写真2:第一市場内は路面店の酒店を除いて全てシャッターが降りていた。
    昔は主婦の買物時ともなれば毎日賑わっていたし、年末などは身動きできないほどの人出であった。
    数年前まではほとんどの店がまだ営業していたので、もしかしたら建物の限界?

写真3:3条界隈には昔ながらの青果店などが並び活気の源になっている。
    スーパーなどの大型店に押される中、この界隈がひとかたまりで生鮮食料品店街を形成している。
 

銀座通り

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 9月 6日(日)10時24分21秒
返信・引用
  写真4:3・4条仲通りは「銀座広小路」と呼ばれ飲食店が軒を並べる。
    かつては”色街”の趣きもあったらしく料亭をはじめ数件の娼館もあったようである。

写真5:広小路から3条本通りまでを細長く貫く食品市場の「ニュー銀座」内。
    こちらは第一市場と対照的にシャッターを下ろしている店もなく元気である。

写真6:老舗店が大半を占める中で「まんだら庭園」という小規模なモールも数年前に誕生している。
    4条通り側の駐車場には可愛らしい七福神が並ぶ。
    ホコテン反対側の2条には弁天さまも祀られており、鳥居に似たモニュメントが並ぶなど全体的に参道をイメージしている。
    例年七夕祭りやマルシェなどのイベントも行われており結束の固さが伺える商店街である。

 

鹿鳴館でのコースランチと旧炭鉱の町夕張/芦別

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 8月24日(月)16時54分23秒
返信・引用
  momongaさんの許可を得ましてここで告知させて頂きます。

旭川の歴史的建物の保存を考える会
第35回見学会 参加者募集
2015年9月13日(日) 7時30分~18時00分到着予定
炭鉱の町 夕張・芦別の建物見学
---見学内容---
芦別炭住跡(内部見学有)
夕張教会
旧商店街散策
鹿鳴館(旧迎賓館でランチと内部見学)
黄色いハンカチ炭住
煉瓦造発電所、等
----------------
締切9月4日(金)まで
費用負担 7,500円 (バス代、鹿鳴館コースランチ代、保険代)
申込方法 FAX 0166-34-6900 又はメール hozonnokai@gmail.com にて参加者人数、氏名、連絡先をお伝えください。

私(かんじ)とmomongaさんも参加しま~す。
参照URL
http://genki365.net/gnka07/mypage/mypage_sheet.php?id=57340
 

Re: 鷹栖の地名由来

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 8月24日(月)12時14分44秒
返信・引用
  市太郎さん、レスありがとうございます。
少し補足させてください。

北海道は、鷹栖村の開村と同じ年の明治25年に「貸付地予定存置制」という制度を施行しています。
この制度は、北海道への団体移住を促進するための優遇制度で、
簡単に言いますと、
30戸以上の移住団体を組織して、総代者が予め入植地を定めて1年以内に移住を開始し、
3年以内に移住を完了して一定以上の開墾実績を挙げれば土地は無償で払い下げられるというものです。
この制度によって、北海道への移住は大きく前進したといいます。

北海道ではこの制度を全国の府県に向けて発信しており、
中でも富山県をはじめとする数県が県を挙げて北海道への移住を奨励したと言われます。
旭川周辺に富山県出身者が多いのはこのためですよね。


北海道庁は、この制度の施行に合わせて鷹栖村と神楽村(御料地含む)を開村させたように思います。
ですから正確には開村の時点と言うよりも、制度の施行に合わせて実際の団体移住が始まった可能性が強いですね。
開村当初に移住者が殆ど見当たらないのはそのせいかと思われます。

>富山県人からも道庁への照会は多数あったでしょうし、実地調査は
>はしたが頓挫した計画も多いでしょうから、道庁のお役人が砺波か
> らの団体入植を期待してネーミングするような状況があっても、
>おかしくありませんね。

まさにそこだと思います。
あるいは開村時点での、民間ベースでの実際の移住申請はなかったかもしれませんが、
制度施行へ向けて移住を推進する北海道庁と、それに応諾して奨励する富山県側との、役人ベースの事前のやりとりがあっても不思議でも何でもありません。
富山県側から「制度が施行したら砺波郡辺りから○○戸見込めるからヨロシク!」
などと妄想するしかありませんが、
私は、鷹栖の名前に親近感を持って移住して来た、と言うよりは現実味があると思います。

あるいは、そんなやりとりの中で、
「砺波郡には鷹栖という村がある。これはチカップニの意味に通じる」
と気づいた人間がいたかもしれませんね。


 

Re: 鷹栖の地名由来

 投稿者:市太郎  投稿日:2015年 8月23日(日)09時11分29秒
返信・引用
  > No.1063[元記事へ]

momongaさんへ

団体移住の計画があったかもしれないというのは、たしかにあり
得ますね。

結果としては、鷹栖村の初期の団体移住に、富山からのものはない
のですが、石川県からは最初期に団体移住がありますし、富山から
は松平農場をはじめとする大規模農場の小作人として多数の人が来
ており、北陸地方は有力な上川開拓の人材供給源でしょうから。

砺波市側の郷土史家が調査しても、砺波の鷹栖村から上川の鷹栖村
への移住者はほとんどいないそうなのですが、上川の開拓前には、
富山県人からも道庁への照会は多数あったでしょうし、実地調査は
はしたが頓挫した計画も多いでしょうから、道庁のお役人が砺波か
らの団体入植を期待してネーミングするような状況があっても、
おかしくありませんね。
 

Re: 鷹栖の地名由来

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 8月22日(土)18時59分5秒
返信・引用
  市太郎さん、はじめまして。
鷹栖の地元の方でしょうか?お詳しいですね。
よろしくお願いします。


なるほど、アイヌ語由来の鷹栖の名が先にあって、その名に親近感を持った砺波の人々が移住してきたという事ですね?
鷹栖がアイヌ語由来の地名だとすれば、確かに砺波との関連はそれしか考えられないでしょうね。
偶然の一致はまず有り得ないと思います。

おっしゃる通り、鷹栖村が開村する明治25年以前に住み着いてる者がいたとすればそれはフライングですよね。
たとえ砺波からの移住者が既にいたとしても、まだ道庁の正式な許可が下りる前の、言わば不正移住です。
旭川村開村時にもそういった輩がいて、道庁側から立退きなどの懲罰があったようです。
村名を決めるにあたって、そのような不正な移住者に村名の由来を求めるというのは有り得ないでしょうね。


当時の上川地方の農地集団殖民は、いきなり全員で未開の地に引っ越して来たわけではなく、
ほとんどの場合、代表者が前の年くらいに現地を確認した上で道庁に払い下げ申請をし、許可が下りるのを待ちます。
その上で地元からの移住希望者を引き連れ、時には2年3年に分けて移住を開始するわけです。
そりゃそうでしょうね。
どんな土地か分からない、作物が育つかどうかも分からない、生きて行ける見込みすら全く分からない未開の原野へ来るのですから。

既に開村済みの殖民区画は割りとすぐに払い下げ許可が下りたようですが、
鷹栖村の場合、明治23年に開村済みの旭川・永山・神居村の何れにも属しておらず、
正式な開村告示がされるまでは、払い下げ申請の受付に留まっていたものと思われます。

この払い下げ申請の段階で、砺波の鷹栖村からの集団移住希望があったとしたらどうでしょう?
広島村(現北広島市)や新十津川村のように、その後付けられる村名に影響を及ぼした可能性はあると思います。
また、開村告示前には実際にも記録上にも移住者は存在しませんが、村名告示後に初めて移住者が記録されるという事になりますよね。
この辺りはあくまで私の推測に過ぎませんが、
当時の道庁側の記録は、おそらく明治42年の道庁火災によって消失してしまったと思われます。



ただ私は、やはりチカップニの意訳というのには全く説得力を感じません。
当時既に「近文」という漢字表記が使われており、同じ地域なのになぜそのまま近文村としなかったのか?
道内他の地域がアイヌ語をそのまま漢字に置き換える中、なぜ敢えてチカップニを意訳する必要があったのか?
いったい誰が意訳したのか?
といった、旭川の地名由来問題と共通する疑問が鷹栖の地名にも当てはまるのです。


 

Re: 鷹栖の地名由来

 投稿者:市太郎  投稿日:2015年 8月22日(土)08時42分13秒
返信・引用
  momongaさんへ

鷹栖村と砺波の鷹栖(タカノス)との関係は昔から言われるところですが…

鷹栖村が置かれたのは明治25年。その後、多数の団体・個人が入植し、
開拓が行われました。
富山からの移住者も多く、特に松平農場の小作人として来た人が多くいます。
北野獅子舞は明治31年ころに、このあたりの入植者が持ち込んだのがルーツ
とされています。
中には「鷹栖」だから親近感を持って移住を決めたという砺波地方の方もいた
ようです。

しかし、明治25年までの入植者は、フライングして来た埼玉県人グループが
道庁で内田瀞の許可を得てコマヤ薬局付近の開拓したのをはじめとして、僅か
な人数ですが、この中に砺波地方からの個人入植者は記録にありません。

鷹栖は、基本的には、チカップの言葉の持つイメージをもとにしたものではな
いでしょうか。近代のお役人が「鳥の巣」よりも雄々しい「鷹」の字を選択す
るのも、わりと自然な発想だと思います。勿論、どのような漢字をあてていく
なかで、全国の地名を考察し、富山や京都の鷹栖という地名を勘案したかもし
れませんが、直接的な関係は見出しにくいと思います。

 

鷹栖の地名由来

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 8月20日(木)15時19分7秒
返信・引用
  昨日の道新夕刊「マイたうん旭川」に注目すべき記事がありました。
鷹栖町の無形文化財に指定されている「北野神社獅子舞」に関する記事です。
この獅子舞は富山県砺波市にルーツを持ち、移住者によって持ち込まれて明治・大正・昭和と受け継がれてきたとの事です。
そして1978年に町の文化財第1号に指定されたそうです。


なーんだ、知ってたんじゃないか・・・


さて、この富山県砺波市とはどういう所でしょうか?
当サイト「旭川の名の謎」の中でも触れていますが、まさに富山県砺波郡鷹栖村のあった地域です。
現在は合併によって砺波市の一部になっています。
開拓当初は地域からの集団入植が一般的でしたから、故郷を懐かしむ伝統文化を同郷の人々で持ち込んだのでしょうね。


ここまで言えば後はもうお解りかと思いますが、もしこれが偶然の一致とすれば、1枚だけ買った宝クジに当たるようなものです。
しかも一般的な「鷹巣」ではなく「鷹栖」という字まで一緒なのです。
こういった伝統文化や記録として残っていながら、何故鷹栖の名の由来はここにあると言わないのでしょうか?


ここまで分かっていながら、また、これを根拠に町の文化財にまで指定しておきながら、
未だに鷹栖の地名由来はアイヌ語「チカップニ」の意訳としている神経が私には理解できません。
http://www.town.takasu.hokkaido.jp/intro/index.html

 

Re: 高野町

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 8月20日(木)14時07分4秒
返信・引用
  lsxxさんお久しぶりです。

今の神楽岡との境の14丁目辺りまでが高野町でしたよ。高野0号というバスの終点でした。
 

Re: 高野町

 投稿者:lsxx  投稿日:2015年 8月19日(水)21時48分48秒
返信・引用
  > No.1041[元記事へ]

現在,あの地域は住所表記は神楽5~7条10~12丁目って感じでしょうか。『高野』という地名は町内会やあの辺りを通る道北バス43番は高野線と呼ばれています。
 

Re: 国見の碑

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 8月11日(火)11時50分49秒
返信・引用
  > No.1057[元記事へ]

momongaさんへ

年代がハッキリしないのですが、昭和30年前後と思われます。
この写真は市の図書館のページから「村上久吉」と検索すると出てきます。
「国見の碑」で検索した方が面白いですけど。
http://www3.library.pref.hokkaido.jp/digitallibrary/public-library/public5.html
説明書きには---
編集委員会旧蹟調査 調査員記念撮影 岩村通俊 宮北繁(後列右) 村上久吉(前列右から2番目) 薄正義(前列左) 嵐山公園内
----とありますが。
岩村通俊の意味は不明です。
 

Re: 国見の碑

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 8月11日(火)11時32分45秒
返信・引用
  ありゃ~、懐かしい顔が写ってますね。
シャキっとしてて、まだ目も見えてる頃の写真ですね、昭和30年頃ですか?
どういうメンバーなんでしょう。市史編纂委員かな、それとも東高の先生方かな。

やはり近文山も昔はあまり高い樹木は茂ってなかったんですね。
嵐山なんかも、中学生の頃に登った時は、今のような2階建ての展望台じゃなくてもちゃんと見えましたからね。
樹木の背丈が伸びてきたのは比較的近年の事みたいですね。

写真は持ってないです。
おかげで懐かしい顔が見られました。ありがとうございます。

 

国見の碑

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 8月10日(月)16時14分45秒
返信・引用 編集済
  旭川の原点、国見の碑ですがおもしろい写真を見つけました。
momongaさんならすでに持っているのかな?
横写真の前列右から2番目は「村上久吉」さんとなっています。
momongaさんの○○ですよね。
そうなると縦写真に写っている方も村上久吉さんですよね。
また、写真では国見の碑の周囲には大きな木々も無く
かなり見渡しがよさそうですねぇ。
 

17丁目オール商店街

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 7月28日(火)11時02分46秒
返信・引用
  緑橋ビルに関連して旭川の闇市の歴史に触れましたが、
同じ闇市をルーツに持つ商店街として、もう一つ忘れてならないのが「17丁目オール商店街」です。


緑橋ビルを建てて入居できたのは、闇市の中でも最も恵まれていた店で、他の店の大半は強制撤去により路頭に迷う事になります。
400数十店という数は緑橋通りだけの数で、銀座通りや昭和通りなどにもあった闇市を含めると800店以上になったそうです。
それらが昭和29年の一斉撤去により、ある者は他の場所へ移り、ある者は廃業し、散り散りとなりました。

そんな中で、緑橋ビルと同様、撤去前から手を打ったのが別の62店の店主でした。
オール商店街商業協同組合を結成して市に陳情し、17丁目の宗谷線沿いを流れていた市の排水路を借り受ける事にし、
さらに排水路に接する国鉄用地を譲り受ける事で、合法的に商売を続けられる場を確保したのです。
何と、この排水路に木の板で蓋をして通路とし、
その通路沿いに1店舗当たり僅か3坪を割り当て、タル木で組んだ掘っ立て小屋のような細長いマーケットを1条から6条まで連ねたのです。
まさに闇市がそのまま移って来たようなドブ板マーケット、それが17丁目オール商店街の始まりです。
この排水路の上流でガソリンが流れ込み、商店街で爆発事故が起きた事もあります。

しかし、店舗環境は劣悪ながらも当時ここには旭川電気軌道の四条駅があり、東川と東旭川への電車の玄関口でした。
さらに昭和32年、宗谷線にも四条乗降所が設けられ、まさに交通の要所となりました。
このため、昭和30年代から40年代にかけてのオール商店街は、いつも人の往来が絶えませんでした。


そんなオール商店街にも大きな転機が訪れます。
昭和48年、交通の大きなネックとなっていた宗谷線が高架化され、電気軌道の電車も廃止となったのです。
幸い、宗谷線四条駅は北海道初の高架駅として残される事になりましたが、
この高架化を機に、オール商店街のマーケットも全て一新する事になりました。
この時建てられたのが現在の1号館から10号館です。
闇市時代からの商店街の夢がようやく叶ったと言えます。



それから既に40年以上経つとはいえ、現在の建物にまだそれほどレトロさは感じません。
しかしながら、この高架沿いを歩くと、何とも言えぬ情緒を感じます。
それは昭和レトロと言うよりも、どこか東京の下町風情に似ている気がします。
元々は闇市という生い立ちが、自然とそういう情緒を醸し出しているのかもしれません。
街を貫く高架沿いの商店街というロケーションも、北海道では珍しいと言えます。

残念ながら、今ではこの商店街の多くはシャッターが降りたままです。
夜の飲食店が多くを占めていた事から、バブル後の不況と経営者の高齢化で次から次へと店が閉じられて行きました。
闇市時代に結成されたオール商店街の組合も、最近になってとうとう解散したと聞きます。
ただ、シャッターが降りている割に生活感が漂うのは、やはりここも職住一体の建物であり、人が住み続けているからです。

一方で新たに開店した、個性的と言いますか、ちょっとオタな店も見られます。
高架沿いの景観と、数少なくなった老舗とのコラボがとても斬新に感じます。
こういった新しい経営者達の手で、何とかこの下町風情のある商店街を再興してほしいと願います。





写真1:オール商店街は宗谷線高架沿いに1条から6条まで10棟の細長い建物が連なり、総延長は600メートルにもなる。
    建物は2階建と3階建が混在し、やはり1階が店舗で上階が住居スペースになっている。
    緑橋ビルのように建物内に公共の通路や階段はないので、店主がそれぞれ自分の店の上に住む完全職住一体型だ。

写真2:現在も一番賑やかなのはやはり四条駅付近だ。
    というか、営業している店舗で埋まっているのは最早この6号館だけである。
    角の「ぽっぽや」は鉄道マニアの店として最近よくテレビ番組などで紹介される。

写真3:中にはこんな可愛らしい美容室もあります。
    たぶん最近の店だと思いますが店主はそうとうなパンダ好きのようです。

 

17丁目オール商店街

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 7月28日(火)11時00分54秒
返信・引用
  写真4:4条以北は2階建ての棟がほとんどで、既に住居専用として使われているところが多い。
    店を畳んでしまったところの多くはシャッターを取り払い住居専用玄関に改装している。
    そのせいか商店街というイメージが徐々に薄れつつある。

写真5:このように軒先を利用する光景があちこちで見られるのがこの商店街の特色だ。
    店舗が狭いという事情なのだろうが、逆にこれが北海道ではあまり見られない下町情緒を醸し出している。

写真6:3条の5号館。かっこいい店主がさっそうとバイクで乗り付けてきた。
    旭川ではちょっとレアなブランドを扱っている店だそうだ。
    高架沿いの下町情緒が気に入ってここに店を開いたそうであるが、こういった店が増えてくれると嬉しいですね。
 

緑橋ビル

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 7月16日(木)11時45分50秒
返信・引用
  数年前、旭川最古のエレベーター設置ビルだった「旭ビル」が解体されました。
永年旭川駅前の顔とも言えるビルだっただけに、惜しむ声も多かったと思います。
旭川で昭和レトロを感じさせてくれる商業ビルは、もう本当に数限られてしまいましたが、
もう一つ、戦後の混乱期の落とし子とも言える建物があります。
「緑橋ビル」1号館、2号館です。



旭川の中心街で最も広い街路といえば緑橋通りですが、
この通りは最初から今の広さがあった訳ではなく、戦前までは他の主要街路と同じような広さでした。
太平洋戦争末期、空襲による火災に備え、
他の区画と同じ10号あった8丁目区画を、宮下から8条までの各条8~10号を強制疎開により建物を撤去、防火帯としたのです。

戦争が終わって混乱の世の中となりますが、
旭川もご他分に洩れず闇市経済となり、この強制疎開跡を次から次へと闇市が占拠して行きました。
闇市の店舗はピーク時400数十店にも及び、粗末ながら、中央、平和、ミドリ、四八、三央などのマーケットまで出来、
闇市組合も結成されて一定勢力を持つまでになっていました。
市では、強制収用した土地の半分を元の地主に返還する事にし、残り半分を道路拡幅用地として緑橋通りの整備に着手します。
8丁目の区画が、他の中心街区画より寸足らずなのはこのような経緯によるものです。

ところが、期限付き貸借契約によって出店を黙認されてきた闇市側は立ち退こうとせず、契約更新を求めて裁判を起こします。
この裁判は時間稼ぎに最高裁まで争われ、昭和29年の結審・強制撤去までに4年を要しました。
しかしこの間、83店の店主が結束し、きちっとした建物を建てた上で共同入居しようという事になりました。
この時建てられたのが、今の緑橋ビル1号館と2号館です。
当時の旭川としてはかなり立派な建物でした。



このビルの特徴である細かい店舗割りは、闇市だった店舗が寄り集まってできた名残りです。
また、1階が店舗で2階から上が住居や貸室となっており、この時代多かった職住一体型店舗の特色はそのままです。
緑橋通りに面した路面店に加え、建物中央を通路が縦断しており、路面店の裏側に通路を挟んでもう一列店舗が並びます。
店舗部分はそれなりに改装されていますが、いかにも昭和の時代を感じさせてくれる建物と言えます。
旭ビルもそうでしたが、このビルにも昔ながらの老舗が数店残っており、これら老舗店が独特の趣きを醸し出しています。

近年の平和通りと同様、緑橋ビルも入居店が1店また1店と閉じて一時は空き店舗だらけになりましたが、
ここ数年前から、やはり昭和レトロっぽさが見直されたせいか、路面側の店舗は大半が埋まっているようです。
建物が古く店舗割りも細かいため、家賃が安く済むというのも小さな小売店にとって魅力のようです。
また今となっては、マチのど真ん中に居住スペースがあるというのも隠れた人気のようです。


最近、このビルを建て直そうという構想が持ち上がってるそうです。
しかし、このビルが在り来たりの”綺麗な建物”になってしまったら、逆に見向く人がいなくなる気がします。
でき得るならこのままで、混沌から古き良き時代を感じさせる建物であり続けてほしいと願っています。






写真1:3条本通りを挟み、手前3条8丁目右が2号館で、向こう側3条8丁目左が1号館。
    2棟ともほぼ同じ造りで、建物側面の出入口から内部通路が貫いているが、
    1号館の4条側のみ、通路の出入口が緑橋通りを向いている。

写真2:1店舗当たりの間口が非常に狭いのが特徴的。闇市時代からの名残だ。
    しかしながらこのゴチャゴチャ感がこのビルの魅力でもある。

写真3:買物公園から一歩外れているだけに、個性を強調した店が多い。
    一番多いのはファッション系であるが、店種は見事にバラバラで、これも闇市時代からの伝統か?
    若い女性も思わず足を止めて見入っている。
 

緑橋ビル

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 7月16日(木)11時42分27秒
返信・引用
  写真4:とある店舗の前ではワンちゃんも店番兼日向ぼっこ。
    このマチのど真ん中で職住一体だからこその光景?

写真5:2号館の内部通路。右手が路面店の裏側に当たる。
    左手奥列で営業してる店舗の数が思ったよりも多かったので意外と明るい。

写真6:1号館の通路奥列(右手)は空き店舗ばかりで暗くて寂しい。
    和楽器を専門に扱う店だけが開いていた。
    やはり路面店以上に専門性の強い店でなければ営業は難しいのか?
 

Re: ん?大丈夫?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 7月13日(月)15時44分17秒
返信・引用
  かんじさんへ

> 航路がクロスすることはあるでしょうが、T字型の交差では無く、その先端がぶつかり合うタイミングというのは非常に珍しいのではないでしょうか。

そうなんです。
こういうケースでは、微妙な時間差で大抵はどちらかの飛行機が先に相手の航路を横切ってしまうんですが、
この時ばかりはピッタシのタイミングで交差しましたね。
同じ飛行機雲のクロスでも非常に珍しいのを撮影できました。(^^)v
 

Re: ん?大丈夫?

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 7月13日(月)14時26分1秒
返信・引用
  > No.1047[元記事へ]

momongaさんへ


> 同じ時間帯だと、たいていは同一方向へ向かう飛行機が多いんですが、
> この日、ちょっと珍しい光景を目にしたので急いでシャッターを切りました。

これは珍しい。
航路がクロスすることはあるでしょうが、T字型の交差では無く、その先端がぶつかり合うタイミングというのは非常に珍しいのではないでしょうか。
(真ん中の写真)
 

Re: ん?割り込み?

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 7月13日(月)14時23分20秒
返信・引用
  > No.1048[元記事へ]

momongaさんへ

> もちろん、管制からの指示を受けてるんでしょうが・・・、と思っていたら、
> 案の定、セスナ機はタッチアンドゴーで、そのまま上空へと舞い戻って行きました。

これは重大インシデントですね(^^;
 

ん?割り込み?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 7月13日(月)11時49分21秒
返信・引用
  もう一つ、旭川空港ではあまりない光景。


最終着陸コースへ向けて左旋回中のJAL機の前に、突然横からセスナ機が割り込み!?
セスナ機は、ちょっと前に旭川空港を離陸して、空港周辺を旋回飛行していたんですが、
よりによって、既に着陸態勢に入っているJAL機の前に小回りして入って来ました。

着陸ギアを出しているので、JAL機の前に降りるつもりのようです。
これ、どうなんでしょうねえ?
高速誘導路ではない旭川空港では、着陸間隔がなさ過ぎるような気が・・・

もちろん、管制からの指示を受けてるんでしょうが・・・、と思っていたら、
案の定、セスナ機はタッチアンドゴーで、そのまま上空へと舞い戻って行きました。
 

ん?大丈夫?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 7月13日(月)11時18分37秒
返信・引用
  旭川空港上空での1コマ。

快晴の日に空を見上げると、よく旭川上空かなり高いところを飛行機雲が走っているのを見かけます。
それも、一度に2筋3筋の飛行機雲が見えることも珍しくありません。

これは、北米と日本を結ぶ航空路の一つがちょうど旭川上空を通っているからなんですね。
ソ連時代は、いくら近道でもソ連領空を飛べなかったので、この航空路は無かったんですが、
ロシアになって以降、アラスカからベーリング海、カムチャッカ半島とオホーツク海を横切って北海道上空を飛ぶ航空路ができました。
以前は、カムチャッカ半島・千島列島を避けていたので、道東沖の太平洋上が航空路の北限でした。
北米各地と日本だけではなく、中国・韓国などを結ぶ飛行機も飛んでいます。


同じ時間帯だと、たいていは同一方向へ向かう飛行機が多いんですが、
この日、ちょっと珍しい光景を目にしたので急いでシャッターを切りました。

高度が違うだろうと分かっていても、やっぱりすれ違うまでは見てしまいます。



 

Re: 松浦武四郎

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 7月 8日(水)16時20分27秒
返信・引用
  かんじさんへ

伊能忠敬が沿岸部測量の功労者なら、松浦武四郎は内陸部探査の功労者と言えるかと思います。
こと蝦夷地に関しては、伊能忠敬が完成させた精密な地図でさえ内陸部はまっさらのままでしたからね。

当時の人々の旅や、こういった調査・探検はホントすごいですよね。
特に蝦夷地は、本州のように歩いていればいずれ人里に当たるのと違って、それこそ帰ってこれるかどうか分からない命がけだったと思います。
いかに旅渡りの上手な松浦武四郎でも、そもそもアイヌ以外に人がいないのだから大変だったではないでしょうか。

当時の常として、内陸部へは丸木舟で川を遡ったわけですから、最初から一人でというのは考えられません。
おそらく石狩や天塩などの場所請負人の下に出稼ぎに来ているアイヌと仲良くなって、コタンへ戻るアイヌの手を借りながら内陸へ向かったのでしょうね。
この辺り、ヒストリアの番組構成では前後関係や経緯が全く分かりません。
松前藩御用達の悪徳商人と断じていたのは、たぶん場所請負人の事を言ってるのだと思います。
確かに場所請負人にはあまりいい話が残ってませんね。
まあ、上川に住み着いた鈴木亀蔵も、元はと言えばこの場所請負人の雇われ人だったわけですが・・^^;

ただ、開拓使は一応場所請負制度を廃止し、アイヌに対しちゃんと報酬を払うようになってます。
開拓使判官時代の岩村通俊に上川の調査を命ぜられた高畑利宜なども、使役や通弁(通訳)としてアイヌを雇った上で石狩川を遡っています。
アイヌをいいように扱っていたのは、制度廃止をすり抜けた場所請負人と当時の開拓使次官黒田清隆でしょうね。



昔の書物、私も自分の読解力ではとても読めません。^_^;

 

Re: 松浦武四郎

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 7月 7日(火)11時10分14秒
返信・引用
  momongaさんへ

以前、NHKの番組歴史考証家の方の講演を聞いたことがあるのですが
、NHKは番組を面白くするため間違ってさえいなければどんな絵空事でも
勝手に史実を作るのだそうです。
つまり、わからない事は何を書いても良いという考え方です。
なるほどと思いながらも、知らない人はそれを見て事実と思い込みますよね。
それは置いておいて。

私にとっては松浦武四郎も伊能忠敬もあまり違いが解っていなかったんです。
どちらも北海道を探査した人くらいにしか。
今回のヒストリアをみて、松浦武四郎の人となりがわかって面白かったのです。
伊勢の出身で、一切お金を持たずに何年もの間旅をするなんて実に面白い。
きっと各地で暖かく迎えられるようなそんな性格だったのだと思いました。
それで、一緒に冒険をしたアイヌが迫害されていることに対して何とかしたかったその気持ち。
最後には自分が書いた膨大なアイヌに関する著書が、文字を持たぬアイヌにとって
現在になって最大の資料になったなんて下りは涙ものですよ(^^;

北海道命名の訳はこれまでも聞いていましたけどね。
もっと他にも候補があったことも。

PS.
松浦武四郎の著書が読みたくなって、石狩日誌とか十勝日誌とか見てみたのですが、
さすがに昔の草書体の原本の文字は私には判読不能でした。
昔の人はこれをスラスラ読んだんですねぇ。
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_03692/ru04_03692.pdf
 

Re: 松浦武四郎

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 7月 6日(月)22時03分46秒
返信・引用
  ヒストリア、見ましたヨ。
私も松浦武四郎については上川との関連でしか知識はありませんでしたので、番組は参考になりました。

人物像についてはかなりNHKの脚色が濃いと思いますが、けっこう変わり者には違いなかったようですね。
当時の常で「アイヌ」などとは呼ばれておらず、松浦武四郎の野帳にも「土人」と記述されてるはずです。
アイヌのチセに畳敷きらしき床があったりとか、NHKには史実をもう少し突っ込んで伝えてほしいと思いました。
(テレビでは土人なんて言葉は使えないんでしょうが、史実は史実として伝えるべきと思います)

脚色と言えば、松浦武四郎の調査にもけっこう脚色があるらしいですよ。
番組中にもあったように、彼はかなり多くの出版物を出しています。
浮世絵師としての側面もあったみたいですね。
北海道の調査においても、その記録には自身の後の出版を意識した面もあるみたいです。


ちょっと批判めいた話ばっかりですみませんです。m(__)m

そうは言っても、北海道という地名、内陸部の交通ルートの先鞭を付けたという功績は多大だと思います。
この交通ルートは、全て現在の北海道の主要国道に結びついている訳ですからね。

 

松浦武四郎

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 7月 6日(月)14時30分3秒
返信・引用
  momongaさん、先日NHKの歴史秘話ヒストリアで放送された、松浦武四郎の話見ました?
たぶん見ているでしょうけど、すっごく面白かったので紹介したく書くことにしました。
とくに旭川に関する放送ではありませんでしたが、北海道をくまなく歩いた先人である
松浦武四郎があのような人であったとは全く知りませんでした。
感動しました。2回見ました(^^;
単なる旅好きが高じて冒険家になり、アイヌとの交流を通して北海道を全国に知らしめ、
アイヌ解放の為に書き起こした沢山の書物が、今アイヌ研究の最大の資料になっているなんて。
北海道命名の地として中川町に史跡がありますが、それ以上のことはあまり知りませんでしたが、とても興味深く松浦武四郎が大好きになりました。
DVDにも撮ったしyoutubeにもアップされていますね。
 

高野町

 投稿者:雨粉104-23  投稿日:2015年 6月30日(火)02時01分54秒
返信・引用
  momongaさん 返答ありがとうございます。
9歳になる直前に高野町を離れたので小生の記憶は定かでありません。
バス通りにあった薬局は大きなカエルの人形がいつもあった記憶があります。

小生の家から銭湯までは子供の足で歩いて5分位でした。
お迎えが2階建てのアパート(よく一人で壁相手にキャッチボールをしました)であるお餅屋さんの家が堤防沿いにあって、そこから南高方向に3-4軒目だったと思います。バス通りでしたら駄菓子屋さんある場所からまっすぐ堤防に線を引いたら当たる場所だったと思います。

極まれに、その家に遊びに行くというかその場所に家を新築して住んでいる夢を見ます。
心のどこかの原風景に高野町の街並みが残っているだろうと思います。

ありがとうございました。

因みに美瑛川河川敷は毎日の遊び場でした。また南高の野球練習を良く見に行っていた記憶があります。確か南校にはレスリングや柔道の室内練習場近くのガキ大将につれられていって無理やり柔道をやらされて痛い目にあった記憶があります。
 

Re: 高野町

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 6月28日(日)19時10分3秒
返信・引用
  雨粉104-23さん、はじめまして。


高野町、懐かしいですねー。
残念ながら、私が住んでいたのは昭和36年から37年にかけての1年半ほどで、非常に短い期間でした。
年齢も私のほうが少し上のようで、数年違いですれ違ったみたいですネ。

私も幼かったですが、でも高野町の事は自分でも意外なほどはっきり覚えています。
私の家は今の平成大橋の通りと、高野線のバス通りの交差点のすぐ近くでした。
この交差点の角に豆腐屋さんと薬屋さんが道路を挟んでありました。
よく豆腐屋さんのオート三輪に勝手に乗り込んで遊んでましたよ(笑)
豆腐屋さんはとっくの昔に無くなってますが、この場所に常丸薬局という薬屋さんが今でもあります。
たぶん当時向い側にあったのと同じ薬屋さんだと思われます。
今の平成大橋の袂の辺りには銭湯がありましたから、雨粉104-23さんの家はその辺りだったのでは?

遊び場といえばもっぱら美瑛川堤防や河川敷で、川で泳いだり、中洲に渡ったりもしてました。
今じゃ絶対許されないですけどね(笑)
探検の場は、見本林や富良野線を越えて上川神社の鎮守の森など。
入学してわずか1学期だけ通った神楽小学校には、見本林近くにあった食品加工場の塀の隙間を抜けて南校川の丸木橋を渡り、田んぼの畦道を走って通ってました。
そうそう南校川といえば、当時高野町にあった南高の野球練習や、吹奏楽部の練習などもよく覗いてましたよ。


そんなこんなで、住んだ期間が短かったせいか、高野町の記憶は次から次へと出てきます。
キリがないのでこの辺にしときますが、ぜひまた遊びに来てください。
 

高野町

 投稿者:雨粉104-23  投稿日:2015年 6月28日(日)15時45分0秒
返信・引用
  momongaさん初めまして

昭和41-45年と高野町に住んでいました。家の裏は畑でその畑は美瑛川の堤防に接していました。もう旭川には35年も戻っていないですが、地図を確認するに昔の家は丁度平成大橋にその場所を譲って地上から去っていたようです。monmongaさんも同時期に高野町にお住まいだったと読んで、もし歳が近ければ一緒に遊んだこともあるのか思い投稿しました。

小生は今53歳となりました。
 

Re: これがあの射的場!?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 6月24日(水)21時27分8秒
返信・引用
  かんじさん、証拠写真ありがとうございます。

「永山11区生産組合之碑」だけは場所を少し移したみたいですね。
Google earthを見ても造成途中のノームの庭が写ってますが、明らかに射的会館を転用してます。
 

Re: これがあの射的場!?

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 6月24日(水)12時48分13秒
返信・引用
  > No.1037[元記事へ]

momongaさんへ

> > ここにあった「射的会館」も移転したのか無くなっていました。
>
> 自己レスです。
> 後で位置関係を確認してみたところ、どうやら射的会館の建物が東口のチケットブースに変身したみたいですね。
> まだ建物新しそうでしたもんね。
>

こういうことらしいですよ。
 

Re: これがあの射的場!?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 6月22日(月)10時26分24秒
返信・引用
  > ここにあった「射的会館」も移転したのか無くなっていました。

自己レスです。
後で位置関係を確認してみたところ、どうやら射的会館の建物が東口のチケットブースに変身したみたいですね。
まだ建物新しそうでしたもんね。
 

これがあの射的場!?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 6月21日(日)21時26分10秒
返信・引用
  新たなテーマのガーデンができたということで、久々に上野ファームへ行ってまいりました。
その名も「ノームの庭」です。


実際に行って見るまで、新しいガーデンがどの位置にできたのか知らなかったのですが、行ってみてビックリ、
射的山の、それこそ地肌剥き出しだった旧射的場の麓が華麗なガーデンに大変身!
ここにあった「射的会館」も移転したのか無くなっていました。
http://userimg.teacup.com/userimg/9008.teacup.com/momonga_farm/img/bbs/0000168.jpg


新たに東ゲートが設けられ、ゲートの前には観光バスも駐車できる広い駐車場もでき、かなり利便性は良くなりました。
いよいよ本格的な観光ガーデンになったという印象です。

従来のガーデンとは、ミラーボーダーの奥で繋がっており、ガーデン全体の敷地は一気に2倍くらいになりました。
ガーデンは今が1年で最も色んな花の咲き誇る時期、
北海道ガーデンショーが開催されている事もあるでしょうが、たくさんの観光客で賑わっていました。


その昔、ここで厳しい射撃訓練をしていた屯田兵も、
まさか120数年後に、この場がこんな風になるなんて、夢にも思えなかったでしょうね。


 

Re: 旭神社

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 6月17日(水)16時37分56秒
返信・引用
  > No.1034[元記事へ]

かんじさんへ

おおっ! はじめて知りましたが、太田神社の階段すごいですね!
旭神社も、もし参道を階段にしたら、上の方はやはりハシゴ状態になりそうな傾斜です。
でも実際こういう参道が存在するんだから、旭神社もそうすれば名物神社になるんですけどね。
今の荒れ放題のままじゃちょっとみっともないし、そもそも誰も参拝できない。

道路はセダンでも行けないことはないと思います。
ただ轍で道の真ん中が相対的に盛り上がっていたり、草が伸びてたりするので多少腹を擦る可能性はあります。
麓の鳥居からすぐに荒れた道になりますので、そこでダメなようなら即バックです。
途中に一箇所だけ転回可能な広場がありますが、そこまで行けたなら上まで行けます。


そうですか、やはりあの祠が本来の神殿なんですね。
見たところ、拝殿より古そうでしたが、年代を判別できる文字は見当たりませんでした。

参道も、必ずしも人間が通れなくとも、神様が通れれば良いという話を聞いた事があります。
もう少し神道や神社に関する知識を知っておくべきかもしれませんね。

 

Re: 旭神社

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 6月17日(水)10時57分41秒
返信・引用
  > No.1031[元記事へ]

momongaさんへ

> 写真9:現在の社殿の裏に隠れるようにもう一つ小さな祠があった。
>     覆っている小屋はおそらくこの祠を保護するために後から造られたと思われる。
>     これが元々祀られていた神社か?

旭神社に関するまとめありがとうございます。
興味深く読ませて頂きました。
こんど機会があったら寄ってみたいですが、私の4WDセダンでは無理なのかなぁ。
超急な参道ですが、私の知っている限り道内で最大の急な参道はせたな町の大成区にある太田神社だと思います。
一度行ったことがあり、その階段の急さに絶句して数段上って引き返しました(^^;
http://www.hiyama.pref.hokkaido.lg.jp/ss/srk/mame13.htm
どうして神社って急な参道でも平気なんでしょうかね。修業の一部なのかな?

それから余談ではありますが、小さな祠について私も最近知った知識を。
実はあの小さな祠が神殿です。神様はあそこに居ます。
で手前の立派な方が拝殿なのです。
人が集まって手を合わせる場所で、行事や飲み食いもします。
神殿のない神社もあり、その場合はご神体が山だったり祠に入らない場合のようです。
そういえば神社って裏に小さいのがありますよね。
まさか、あれが手を合わせるべきご神体とは、、、、、、、、、。ね。
 

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