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緑橋ビル

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 7月16日(木)11時45分50秒
返信・引用
  数年前、旭川最古のエレベーター設置ビルだった「旭ビル」が解体されました。
永年旭川駅前の顔とも言えるビルだっただけに、惜しむ声も多かったと思います。
旭川で昭和レトロを感じさせてくれる商業ビルは、もう本当に数限られてしまいましたが、
もう一つ、戦後の混乱期の落とし子とも言える建物があります。
「緑橋ビル」1号館、2号館です。



旭川の中心街で最も広い街路といえば緑橋通りですが、
この通りは最初から今の広さがあった訳ではなく、戦前までは他の主要街路と同じような広さでした。
太平洋戦争末期、空襲による火災に備え、
他の区画と同じ10号あった8丁目区画を、宮下から8条までの各条8~10号を強制疎開により建物を撤去、防火帯としたのです。

戦争が終わって混乱の世の中となりますが、
旭川もご他分に洩れず闇市経済となり、この強制疎開跡を次から次へと闇市が占拠して行きました。
闇市の店舗はピーク時400数十店にも及び、粗末ながら、中央、平和、ミドリ、四八、三央などのマーケットまで出来、
闇市組合も結成されて一定勢力を持つまでになっていました。
市では、強制収用した土地の半分を元の地主に返還する事にし、残り半分を道路拡幅用地として緑橋通りの整備に着手します。
8丁目の区画が、他の中心街区画より寸足らずなのはこのような経緯によるものです。

ところが、期限付き貸借契約によって出店を黙認されてきた闇市側は立ち退こうとせず、契約更新を求めて裁判を起こします。
この裁判は時間稼ぎに最高裁まで争われ、昭和29年の結審・強制撤去までに4年を要しました。
しかしこの間、83店の店主が結束し、きちっとした建物を建てた上で共同入居しようという事になりました。
この時建てられたのが、今の緑橋ビル1号館と2号館です。
当時の旭川としてはかなり立派な建物でした。



このビルの特徴である細かい店舗割りは、闇市だった店舗が寄り集まってできた名残りです。
また、1階が店舗で2階から上が住居や貸室となっており、この時代多かった職住一体型店舗の特色はそのままです。
緑橋通りに面した路面店に加え、建物中央を通路が縦断しており、路面店の裏側に通路を挟んでもう一列店舗が並びます。
店舗部分はそれなりに改装されていますが、いかにも昭和の時代を感じさせてくれる建物と言えます。
旭ビルもそうでしたが、このビルにも昔ながらの老舗が数店残っており、これら老舗店が独特の趣きを醸し出しています。

近年の平和通りと同様、緑橋ビルも入居店が1店また1店と閉じて一時は空き店舗だらけになりましたが、
ここ数年前から、やはり昭和レトロっぽさが見直されたせいか、路面側の店舗は大半が埋まっているようです。
建物が古く店舗割りも細かいため、家賃が安く済むというのも小さな小売店にとって魅力のようです。
また今となっては、マチのど真ん中に居住スペースがあるというのも隠れた人気のようです。


最近、このビルを建て直そうという構想が持ち上がってるそうです。
しかし、このビルが在り来たりの”綺麗な建物”になってしまったら、逆に見向く人がいなくなる気がします。
でき得るならこのままで、混沌から古き良き時代を感じさせる建物であり続けてほしいと願っています。






写真1:3条本通りを挟み、手前3条8丁目右が2号館で、向こう側3条8丁目左が1号館。
    2棟ともほぼ同じ造りで、建物側面の出入口から内部通路が貫いているが、
    1号館の4条側のみ、通路の出入口が緑橋通りを向いている。

写真2:1店舗当たりの間口が非常に狭いのが特徴的。闇市時代からの名残だ。
    しかしながらこのゴチャゴチャ感がこのビルの魅力でもある。

写真3:買物公園から一歩外れているだけに、個性を強調した店が多い。
    一番多いのはファッション系であるが、店種は見事にバラバラで、これも闇市時代からの伝統か?
    若い女性も思わず足を止めて見入っている。
 

緑橋ビル

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 7月16日(木)11時42分27秒
返信・引用
  写真4:とある店舗の前ではワンちゃんも店番兼日向ぼっこ。
    このマチのど真ん中で職住一体だからこその光景?

写真5:2号館の内部通路。右手が路面店の裏側に当たる。
    左手奥列で営業してる店舗の数が思ったよりも多かったので意外と明るい。

写真6:1号館の通路奥列(右手)は空き店舗ばかりで暗くて寂しい。
    和楽器を専門に扱う店だけが開いていた。
    やはり路面店以上に専門性の強い店でなければ営業は難しいのか?
 

Re: ん?大丈夫?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 7月13日(月)15時44分17秒
返信・引用
  かんじさんへ

> 航路がクロスすることはあるでしょうが、T字型の交差では無く、その先端がぶつかり合うタイミングというのは非常に珍しいのではないでしょうか。

そうなんです。
こういうケースでは、微妙な時間差で大抵はどちらかの飛行機が先に相手の航路を横切ってしまうんですが、
この時ばかりはピッタシのタイミングで交差しましたね。
同じ飛行機雲のクロスでも非常に珍しいのを撮影できました。(^^)v
 

Re: ん?大丈夫?

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 7月13日(月)14時26分1秒
返信・引用
  > No.1047[元記事へ]

momongaさんへ


> 同じ時間帯だと、たいていは同一方向へ向かう飛行機が多いんですが、
> この日、ちょっと珍しい光景を目にしたので急いでシャッターを切りました。

これは珍しい。
航路がクロスすることはあるでしょうが、T字型の交差では無く、その先端がぶつかり合うタイミングというのは非常に珍しいのではないでしょうか。
(真ん中の写真)
 

Re: ん?割り込み?

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 7月13日(月)14時23分20秒
返信・引用
  > No.1048[元記事へ]

momongaさんへ

> もちろん、管制からの指示を受けてるんでしょうが・・・、と思っていたら、
> 案の定、セスナ機はタッチアンドゴーで、そのまま上空へと舞い戻って行きました。

これは重大インシデントですね(^^;
 

ん?割り込み?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 7月13日(月)11時49分21秒
返信・引用
  もう一つ、旭川空港ではあまりない光景。


最終着陸コースへ向けて左旋回中のJAL機の前に、突然横からセスナ機が割り込み!?
セスナ機は、ちょっと前に旭川空港を離陸して、空港周辺を旋回飛行していたんですが、
よりによって、既に着陸態勢に入っているJAL機の前に小回りして入って来ました。

着陸ギアを出しているので、JAL機の前に降りるつもりのようです。
これ、どうなんでしょうねえ?
高速誘導路ではない旭川空港では、着陸間隔がなさ過ぎるような気が・・・

もちろん、管制からの指示を受けてるんでしょうが・・・、と思っていたら、
案の定、セスナ機はタッチアンドゴーで、そのまま上空へと舞い戻って行きました。
 

ん?大丈夫?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 7月13日(月)11時18分37秒
返信・引用
  旭川空港上空での1コマ。

快晴の日に空を見上げると、よく旭川上空かなり高いところを飛行機雲が走っているのを見かけます。
それも、一度に2筋3筋の飛行機雲が見えることも珍しくありません。

これは、北米と日本を結ぶ航空路の一つがちょうど旭川上空を通っているからなんですね。
ソ連時代は、いくら近道でもソ連領空を飛べなかったので、この航空路は無かったんですが、
ロシアになって以降、アラスカからベーリング海、カムチャッカ半島とオホーツク海を横切って北海道上空を飛ぶ航空路ができました。
以前は、カムチャッカ半島・千島列島を避けていたので、道東沖の太平洋上が航空路の北限でした。
北米各地と日本だけではなく、中国・韓国などを結ぶ飛行機も飛んでいます。


同じ時間帯だと、たいていは同一方向へ向かう飛行機が多いんですが、
この日、ちょっと珍しい光景を目にしたので急いでシャッターを切りました。

高度が違うだろうと分かっていても、やっぱりすれ違うまでは見てしまいます。



 

Re: 松浦武四郎

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 7月 8日(水)16時20分27秒
返信・引用
  かんじさんへ

伊能忠敬が沿岸部測量の功労者なら、松浦武四郎は内陸部探査の功労者と言えるかと思います。
こと蝦夷地に関しては、伊能忠敬が完成させた精密な地図でさえ内陸部はまっさらのままでしたからね。

当時の人々の旅や、こういった調査・探検はホントすごいですよね。
特に蝦夷地は、本州のように歩いていればいずれ人里に当たるのと違って、それこそ帰ってこれるかどうか分からない命がけだったと思います。
いかに旅渡りの上手な松浦武四郎でも、そもそもアイヌ以外に人がいないのだから大変だったではないでしょうか。

当時の常として、内陸部へは丸木舟で川を遡ったわけですから、最初から一人でというのは考えられません。
おそらく石狩や天塩などの場所請負人の下に出稼ぎに来ているアイヌと仲良くなって、コタンへ戻るアイヌの手を借りながら内陸へ向かったのでしょうね。
この辺り、ヒストリアの番組構成では前後関係や経緯が全く分かりません。
松前藩御用達の悪徳商人と断じていたのは、たぶん場所請負人の事を言ってるのだと思います。
確かに場所請負人にはあまりいい話が残ってませんね。
まあ、上川に住み着いた鈴木亀蔵も、元はと言えばこの場所請負人の雇われ人だったわけですが・・^^;

ただ、開拓使は一応場所請負制度を廃止し、アイヌに対しちゃんと報酬を払うようになってます。
開拓使判官時代の岩村通俊に上川の調査を命ぜられた高畑利宜なども、使役や通弁(通訳)としてアイヌを雇った上で石狩川を遡っています。
アイヌをいいように扱っていたのは、制度廃止をすり抜けた場所請負人と当時の開拓使次官黒田清隆でしょうね。



昔の書物、私も自分の読解力ではとても読めません。^_^;

 

Re: 松浦武四郎

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 7月 7日(火)11時10分14秒
返信・引用
  momongaさんへ

以前、NHKの番組歴史考証家の方の講演を聞いたことがあるのですが
、NHKは番組を面白くするため間違ってさえいなければどんな絵空事でも
勝手に史実を作るのだそうです。
つまり、わからない事は何を書いても良いという考え方です。
なるほどと思いながらも、知らない人はそれを見て事実と思い込みますよね。
それは置いておいて。

私にとっては松浦武四郎も伊能忠敬もあまり違いが解っていなかったんです。
どちらも北海道を探査した人くらいにしか。
今回のヒストリアをみて、松浦武四郎の人となりがわかって面白かったのです。
伊勢の出身で、一切お金を持たずに何年もの間旅をするなんて実に面白い。
きっと各地で暖かく迎えられるようなそんな性格だったのだと思いました。
それで、一緒に冒険をしたアイヌが迫害されていることに対して何とかしたかったその気持ち。
最後には自分が書いた膨大なアイヌに関する著書が、文字を持たぬアイヌにとって
現在になって最大の資料になったなんて下りは涙ものですよ(^^;

北海道命名の訳はこれまでも聞いていましたけどね。
もっと他にも候補があったことも。

PS.
松浦武四郎の著書が読みたくなって、石狩日誌とか十勝日誌とか見てみたのですが、
さすがに昔の草書体の原本の文字は私には判読不能でした。
昔の人はこれをスラスラ読んだんですねぇ。
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_03692/ru04_03692.pdf
 

Re: 松浦武四郎

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 7月 6日(月)22時03分46秒
返信・引用
  ヒストリア、見ましたヨ。
私も松浦武四郎については上川との関連でしか知識はありませんでしたので、番組は参考になりました。

人物像についてはかなりNHKの脚色が濃いと思いますが、けっこう変わり者には違いなかったようですね。
当時の常で「アイヌ」などとは呼ばれておらず、松浦武四郎の野帳にも「土人」と記述されてるはずです。
アイヌのチセに畳敷きらしき床があったりとか、NHKには史実をもう少し突っ込んで伝えてほしいと思いました。
(テレビでは土人なんて言葉は使えないんでしょうが、史実は史実として伝えるべきと思います)

脚色と言えば、松浦武四郎の調査にもけっこう脚色があるらしいですよ。
番組中にもあったように、彼はかなり多くの出版物を出しています。
浮世絵師としての側面もあったみたいですね。
北海道の調査においても、その記録には自身の後の出版を意識した面もあるみたいです。


ちょっと批判めいた話ばっかりですみませんです。m(__)m

そうは言っても、北海道という地名、内陸部の交通ルートの先鞭を付けたという功績は多大だと思います。
この交通ルートは、全て現在の北海道の主要国道に結びついている訳ですからね。

 

松浦武四郎

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 7月 6日(月)14時30分3秒
返信・引用
  momongaさん、先日NHKの歴史秘話ヒストリアで放送された、松浦武四郎の話見ました?
たぶん見ているでしょうけど、すっごく面白かったので紹介したく書くことにしました。
とくに旭川に関する放送ではありませんでしたが、北海道をくまなく歩いた先人である
松浦武四郎があのような人であったとは全く知りませんでした。
感動しました。2回見ました(^^;
単なる旅好きが高じて冒険家になり、アイヌとの交流を通して北海道を全国に知らしめ、
アイヌ解放の為に書き起こした沢山の書物が、今アイヌ研究の最大の資料になっているなんて。
北海道命名の地として中川町に史跡がありますが、それ以上のことはあまり知りませんでしたが、とても興味深く松浦武四郎が大好きになりました。
DVDにも撮ったしyoutubeにもアップされていますね。
 

高野町

 投稿者:雨粉104-23  投稿日:2015年 6月30日(火)02時01分54秒
返信・引用
  momongaさん 返答ありがとうございます。
9歳になる直前に高野町を離れたので小生の記憶は定かでありません。
バス通りにあった薬局は大きなカエルの人形がいつもあった記憶があります。

小生の家から銭湯までは子供の足で歩いて5分位でした。
お迎えが2階建てのアパート(よく一人で壁相手にキャッチボールをしました)であるお餅屋さんの家が堤防沿いにあって、そこから南高方向に3-4軒目だったと思います。バス通りでしたら駄菓子屋さんある場所からまっすぐ堤防に線を引いたら当たる場所だったと思います。

極まれに、その家に遊びに行くというかその場所に家を新築して住んでいる夢を見ます。
心のどこかの原風景に高野町の街並みが残っているだろうと思います。

ありがとうございました。

因みに美瑛川河川敷は毎日の遊び場でした。また南高の野球練習を良く見に行っていた記憶があります。確か南校にはレスリングや柔道の室内練習場近くのガキ大将につれられていって無理やり柔道をやらされて痛い目にあった記憶があります。
 

Re: 高野町

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 6月28日(日)19時10分3秒
返信・引用
  雨粉104-23さん、はじめまして。


高野町、懐かしいですねー。
残念ながら、私が住んでいたのは昭和36年から37年にかけての1年半ほどで、非常に短い期間でした。
年齢も私のほうが少し上のようで、数年違いですれ違ったみたいですネ。

私も幼かったですが、でも高野町の事は自分でも意外なほどはっきり覚えています。
私の家は今の平成大橋の通りと、高野線のバス通りの交差点のすぐ近くでした。
この交差点の角に豆腐屋さんと薬屋さんが道路を挟んでありました。
よく豆腐屋さんのオート三輪に勝手に乗り込んで遊んでましたよ(笑)
豆腐屋さんはとっくの昔に無くなってますが、この場所に常丸薬局という薬屋さんが今でもあります。
たぶん当時向い側にあったのと同じ薬屋さんだと思われます。
今の平成大橋の袂の辺りには銭湯がありましたから、雨粉104-23さんの家はその辺りだったのでは?

遊び場といえばもっぱら美瑛川堤防や河川敷で、川で泳いだり、中洲に渡ったりもしてました。
今じゃ絶対許されないですけどね(笑)
探検の場は、見本林や富良野線を越えて上川神社の鎮守の森など。
入学してわずか1学期だけ通った神楽小学校には、見本林近くにあった食品加工場の塀の隙間を抜けて南校川の丸木橋を渡り、田んぼの畦道を走って通ってました。
そうそう南校川といえば、当時高野町にあった南高の野球練習や、吹奏楽部の練習などもよく覗いてましたよ。


そんなこんなで、住んだ期間が短かったせいか、高野町の記憶は次から次へと出てきます。
キリがないのでこの辺にしときますが、ぜひまた遊びに来てください。
 

高野町

 投稿者:雨粉104-23  投稿日:2015年 6月28日(日)15時45分0秒
返信・引用
  momongaさん初めまして

昭和41-45年と高野町に住んでいました。家の裏は畑でその畑は美瑛川の堤防に接していました。もう旭川には35年も戻っていないですが、地図を確認するに昔の家は丁度平成大橋にその場所を譲って地上から去っていたようです。monmongaさんも同時期に高野町にお住まいだったと読んで、もし歳が近ければ一緒に遊んだこともあるのか思い投稿しました。

小生は今53歳となりました。
 

Re: これがあの射的場!?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 6月24日(水)21時27分8秒
返信・引用
  かんじさん、証拠写真ありがとうございます。

「永山11区生産組合之碑」だけは場所を少し移したみたいですね。
Google earthを見ても造成途中のノームの庭が写ってますが、明らかに射的会館を転用してます。
 

Re: これがあの射的場!?

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 6月24日(水)12時48分13秒
返信・引用
  > No.1037[元記事へ]

momongaさんへ

> > ここにあった「射的会館」も移転したのか無くなっていました。
>
> 自己レスです。
> 後で位置関係を確認してみたところ、どうやら射的会館の建物が東口のチケットブースに変身したみたいですね。
> まだ建物新しそうでしたもんね。
>

こういうことらしいですよ。
 

Re: これがあの射的場!?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 6月22日(月)10時26分24秒
返信・引用
  > ここにあった「射的会館」も移転したのか無くなっていました。

自己レスです。
後で位置関係を確認してみたところ、どうやら射的会館の建物が東口のチケットブースに変身したみたいですね。
まだ建物新しそうでしたもんね。
 

これがあの射的場!?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 6月21日(日)21時26分10秒
返信・引用
  新たなテーマのガーデンができたということで、久々に上野ファームへ行ってまいりました。
その名も「ノームの庭」です。


実際に行って見るまで、新しいガーデンがどの位置にできたのか知らなかったのですが、行ってみてビックリ、
射的山の、それこそ地肌剥き出しだった旧射的場の麓が華麗なガーデンに大変身!
ここにあった「射的会館」も移転したのか無くなっていました。
http://userimg.teacup.com/userimg/9008.teacup.com/momonga_farm/img/bbs/0000168.jpg


新たに東ゲートが設けられ、ゲートの前には観光バスも駐車できる広い駐車場もでき、かなり利便性は良くなりました。
いよいよ本格的な観光ガーデンになったという印象です。

従来のガーデンとは、ミラーボーダーの奥で繋がっており、ガーデン全体の敷地は一気に2倍くらいになりました。
ガーデンは今が1年で最も色んな花の咲き誇る時期、
北海道ガーデンショーが開催されている事もあるでしょうが、たくさんの観光客で賑わっていました。


その昔、ここで厳しい射撃訓練をしていた屯田兵も、
まさか120数年後に、この場がこんな風になるなんて、夢にも思えなかったでしょうね。


 

Re: 旭神社

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 6月17日(水)16時37分56秒
返信・引用
  > No.1034[元記事へ]

かんじさんへ

おおっ! はじめて知りましたが、太田神社の階段すごいですね!
旭神社も、もし参道を階段にしたら、上の方はやはりハシゴ状態になりそうな傾斜です。
でも実際こういう参道が存在するんだから、旭神社もそうすれば名物神社になるんですけどね。
今の荒れ放題のままじゃちょっとみっともないし、そもそも誰も参拝できない。

道路はセダンでも行けないことはないと思います。
ただ轍で道の真ん中が相対的に盛り上がっていたり、草が伸びてたりするので多少腹を擦る可能性はあります。
麓の鳥居からすぐに荒れた道になりますので、そこでダメなようなら即バックです。
途中に一箇所だけ転回可能な広場がありますが、そこまで行けたなら上まで行けます。


そうですか、やはりあの祠が本来の神殿なんですね。
見たところ、拝殿より古そうでしたが、年代を判別できる文字は見当たりませんでした。

参道も、必ずしも人間が通れなくとも、神様が通れれば良いという話を聞いた事があります。
もう少し神道や神社に関する知識を知っておくべきかもしれませんね。

 

Re: 旭神社

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 6月17日(水)10時57分41秒
返信・引用
  > No.1031[元記事へ]

momongaさんへ

> 写真9:現在の社殿の裏に隠れるようにもう一つ小さな祠があった。
>     覆っている小屋はおそらくこの祠を保護するために後から造られたと思われる。
>     これが元々祀られていた神社か?

旭神社に関するまとめありがとうございます。
興味深く読ませて頂きました。
こんど機会があったら寄ってみたいですが、私の4WDセダンでは無理なのかなぁ。
超急な参道ですが、私の知っている限り道内で最大の急な参道はせたな町の大成区にある太田神社だと思います。
一度行ったことがあり、その階段の急さに絶句して数段上って引き返しました(^^;
http://www.hiyama.pref.hokkaido.lg.jp/ss/srk/mame13.htm
どうして神社って急な参道でも平気なんでしょうかね。修業の一部なのかな?

それから余談ではありますが、小さな祠について私も最近知った知識を。
実はあの小さな祠が神殿です。神様はあそこに居ます。
で手前の立派な方が拝殿なのです。
人が集まって手を合わせる場所で、行事や飲み食いもします。
神殿のない神社もあり、その場合はご神体が山だったり祠に入らない場合のようです。
そういえば神社って裏に小さいのがありますよね。
まさか、あれが手を合わせるべきご神体とは、、、、、、、、、。ね。
 

旭神社

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 6月13日(土)11時45分3秒
返信・引用
  以前、美瑛の地名由来について当掲示板で話題になりましたが、
その美瑛発祥の地とされる旭地区へ行ってきました。
主な目的は旭神社の拝観です。


「旭」の地名は、かつてこの地に「旭農場」という広大な農場があったことに由来します。
神楽村から分村して美瑛村となる時に既に農場が拓かれていた事から、ここが美瑛発祥の地とされたのでしょうね。
美瑛とは言っても、辺別川に隔てられてるというだけで西聖和や千代ヶ岡市街に隣接しており、あまり美瑛という感じがしません。
ただ、旭地区の南端は「セブンスターの木」付近に達するほど広大で、平坦地と丘陵地とに大きく地形が分かれています。
旭神社は、旭川寄りの平坦地から丘陵地への変わり目の小山の上にあり、付近一帯を一望する事ができます。


旭農場は、兵庫県出身の小林直三郎という人が拓いた農場ですが、
この人は元々農家の生まれであるものの、カナダ・オンタリオ農学校を卒業し、米国・ウィスコンシン大学まで在籍した人で、
帰国後、日本での米国型農場・酪農経営を目指して新開拓地である上川にやってきました。
当時はまだ集団殖民や旧来の小作農が多かった時代ですが、
小林直三郎は単なる地主という事ではなく、共同経営で「旭農場合資会社」という姫路本社の会社組織で農場経営を始めました。
これ、今で言う農業法人ですね。

実際の農場経営は小林直三郎が受け持ち、明治27年に入地して以来苦難を重ね、数年後には軌道に乗り、
大正初期頃には小作人190戸を数える近代的経営の大農場となりました。
また、ホルスタイン牛を輸入しての酪農も同時に推し進め、旭川にも支場を設けて牛乳やバターの生産をしていました。
何と近文1線1号区割外地、つまり現在の本町(もとまち)から川端にかけてその牧場があったのです。

しかし、北海道の事情を理解せず、思ったほど利潤が上がらない事に疑念を持ち始めた会社・出資者らに嫌気をさし、
小林直三郎は、旭川の支場を自分個人の経営とし、旭農場からは手を引きました。
美瑛の農場は、洪水や凶作、治水改修工事資金の行き詰まりなどで大正6年に第三者に譲渡されてしまいます。

旭神社は、そんな旭農場・小林直三郎によって明治33年に建立された神社です。





写真1:西神楽市街を過ぎ、国道237号から未完の国道452号に入って辺別川に架かる「旭橋」を渡るとすぐ、
    「美瑛町発祥の地」「拓魂百年」の碑がある。比較的新しく、平成になってからの建立。

写真2:碑のある場所からさらに南方向に進むと平坦地から丘陵地帯に入って行く。
    丘陵地帯の端に当たるこんもりとした小山の頂上に旭神社はある。

写真3:麓の第一鳥居の奥はとんでもない急傾斜。
    しかも長い期間放置されてると見えて雑草が生い茂り、とても入り込めるような状況ではない。
 

旭神社

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 6月13日(土)11時43分10秒
返信・引用
  写真4:鳥居脇の狛犬も雑草に埋もれてしまいそうである。
    このような親子?の狛犬は初めて見ました。

写真5:正面から社殿へ向かうのは見た瞬間に諦め、鳥居脇から山を巻いて行く荒れた道を車で行く。
    社殿まで続いていると信じつつ登り続けるが、普通のセダンでは無理かと思われるような道だ。
    自分の車は四駆のRV車だが、それでも先がどうなってるか分からないだけに躊躇する。

写真6:何とか頂上の社殿にたどりつきホッとする。
    ここまでの道が道だけに朽ち果てた社殿を想像したが、さすがに社殿は維持されていた。
 

旭神社

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 6月13日(土)11時41分33秒
返信・引用
  写真7:社殿正面の第二鳥居から下を見下ろす。
    眺めは素晴らしいが、足元はほとんど崖のような急傾斜である。
    元々正面には参道がなかったのだろうか?そんなはずはないと思うが・・・
    これだけ傾斜がきついと真っ直ぐな階段にするのはとても無理だ。

写真8:社殿を正面から見たところ。
    この場で参拝する事ができるのは、今やここまでたどり着く事のできる人だけだ。

写真9:現在の社殿の裏に隠れるようにもう一つ小さな祠があった。
    覆っている小屋はおそらくこの祠を保護するために後から造られたと思われる。
    これが元々祀られていた神社か?

 

行ってきました

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 6月 8日(月)10時40分13秒
返信・引用
  6日の音楽行進行ってきました。
気温が上がらず、期待した日照もほとんどなく肌寒い1日でしたが、沿道は例年より多めの観客で賑わっていました。

やはり、トータルで5km以上は歩いたでしょうか。
歩くだけならこのくらい割と平気なのですが、音楽行進やアフターコンサートを見ている間もずっと立ちっぱなし。
終わる頃には股関節のあたりが痛~くなってました。

サンロクの居酒屋へ寄って帰ろうと思っていたのですが、
「ブラスカペレ・ベルンハルズバルト」のアフターコンサートを見るため駅前広場まで戻ったため、
またそこからサンロクまで歩く元気が残っていませんでした。(~_~;)
例年たどっている見学ルートですが、年々厳しくなるなぁ・・・

「ブラスカペレ・ベルンハルズバルト」は、いかにも町の音楽隊って雰囲気がとても良かったです。
観客の拍手に笑顔で手を振り返していました。



7日はF15を撮影すべく、混み合う駐屯地へは入らず、駐屯地外でカメラを構えていたのですが、ザンネン・・・
この日は天気が回復すると読んでいたんですが、意地悪な天気でしたね。
模擬戦の「音」だけ楽しんできました。


 

明後日は駐屯地解放

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 6月 5日(金)12時39分1秒
返信・引用 編集済
  明日の音楽大行進に続いて、明後日は第二師団の駐屯地解放、訓練展示ですね。
これがまた楽しいんだ。
なぜか赤い色の相手と模擬戦闘訓練があります。
戦車の号砲は空砲といえど物凄い迫力があり、へたな花火大会を上回ります。
ヘリの曲芸的な飛行や晴れていればF15も千歳から飛来するとか。
ちょっと秘密の駐車場を見つけたので今年は見に行こうと思っていますよ。

音楽大行進は例年通り5条でお仕事です。
終わった後サンロクでも行こうかな。
 

明日は音楽大行進

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 6月 5日(金)11時01分51秒
返信・引用
  今年も早やこの時期がやってきました。
護国神社祭に合わせるように降り出した涙雨は今日中に上がりそうですが、気温は明日もちょっと低そうですね。
ここんとこずっと夏日が続いて暑いくらいの好天だっただけに、ちょっと意地悪な天気です。
でもプレイヤーの皆さんにはちょうどいいか。


今回はドイツの吹奏楽団「ブラスカペレ・ベルンハルズバルト」がパレードに参加するとの事です。
どんな楽曲を披露してくれるのか、非常に楽しみです。
メンバーは既に旭川入りしてホームステイしており、音楽行進が終わるまで滞在するようです。

このバンド、14年ぶり2回目の参加だそうですが、実は私の記憶にありません。
よくよく考えてみると、その頃の私といえば、仕事に忙殺されて音楽行進どころではなかったかもしれません。


例年私はJRを使って音楽行進に出かけます。
従って、自宅と最寄駅の往復に加え、旭川駅→リベライン→永隆橋通り→平和通り→(サンロク)→旭川駅と、
山登りを除けば、この日が1年でいちばん歩く日かな?
さあ、明日はいったい何キロ歩くか。

 

ソフトボール

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 6月 1日(月)11時32分16秒
返信・引用
  旭川で初めて開催された、日本女子ソフトボールリーグの公式戦を見てまいりました。

北海道ではほとんど報道されないので、私も全くと言っていいほどリーグの知識がなかったんですが、
やはり日本代表で活躍の上野投手や、アボット投手の速球がどんなものか見たくて行ってまいりました。


いやぁ~、面白いもんですねぇ~

写真のように、スタルヒン球場のフィールド内に、一回り小さなフィールドをフェンスで仕切って造り、
ダッグアウト・ブルペンも観客から全て見えるオープンスタイルです。

野球よりマスが小さいぶん、非常にテンポ、展開が速く感じ、スピード感がありました。
いや、球の速さは野球と比べても全く損色ないので、実際に展開が速くて目が離せませんでした。
もちろん、上野投手やアポット投手の速球もすごかったですが、
野手の守備の良さ、送球の肩の強さが想像以上でしたね。

ちゃーんと鳴り物入りの私設応援団もあり、選手も応援団も元気いっぱいでした。


30・31日の2日間、計6試合が開催されましたが、私は31日の3試合を見てきました。
前売1000円で好きな方の日、出入り自由で3試合とも見られるというのも魅力です。
30日に30度近くまで気温が上がったのが一転、31日は未明から雨が降り出し、朝にもやや強い雨が降ったので心配しましたが、
午前中は気温が低いながらも雨は上がり、午後は北海道らしい爽やかな好天となりました。

意外と旭川にもソフトボールファンは多いみたいで、
この日、上野・アボット両投手が登場するビックカメラ対トヨタの試合時には、内野席がけっこう埋まってました。
公式ガイドブックも完売との放送がされてました。

ぜひ毎年旭川で開催してほしいものです。




写真上:両翼95mのスタルヒン球場に、一回り小さな両翼67mのフィールドをフェンスで仕切って造っている。
    これが女子ソフトボールリーグの公式サイズとの事。

写真中:圧巻の上野投手の投球。この日はトヨタ相手に完封勝ちしました。

写真下:やはり上野投手の人気が圧倒的のようです。
    試合後、ビックカメラチームのバスの周りには人だかりができ、
    次から次へとサインや写真を求められる上野投手だけがなかなかバスに乗り込めませんでした。
    最後はスタッフがファンに謝りながらやっと乗り込みました。

 

Re: 出合橋の位置

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 5月14日(木)23時50分20秒
返信・引用
  あっぢゃあー

あの稜線は神居山でなく常磐山でしたか。
わたし、今の今まであれを神居山と勘違いしてました。^^;
そう言われれば、ちょっと傾斜がゆるいですわ。

それにしても、バス停に名前が残ってたとは・・・
これはまったく思いも寄りませんでした。
なんせ、古い名称を平気で消し去って行く土地柄ですからネ。

やっぱり歴史ある名称はこうやって何らかの形で残しておく事が大事ですよね。

 

出合橋の位置

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 5月14日(木)17時14分7秒
返信・引用 編集済
  今の実際の位置からは木の陰になって山が見えません。
そこで文明の利器を使用しました。
Google Earthです。
少し鳥瞰になりますが、出会い橋の位置からバックが見えるような角度に視点をもっていった図を作ってみました。
すぐわきを滔々と流れる石狩川、山沿いの少し高い位置の上川道路。
そこにかかる出合橋。そして現在の出会沢という地名。
この位置で間違いなさそうですね。
出会沢のバス停を見た時には、「ヤッター!」って気分でしたよ。
 

Re: 国見峠ー2

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 5月14日(木)16時57分16秒
返信・引用
  > No.1023[元記事へ]

momongaさんへ

> バイパスされて使われなくなった道路だから、逆に当時の線形がそのまま残されたと考えて良さそうですね。
> それにしてもよく廃道にされずに残ったなと思います。
> 廃道として放置されたなら、とっくの昔に自然に帰化して跡形もなくなっていたでしょうに、造材か何かで多少は利用され続けていたんでしょうね。

あの坂道が上川道路だとの確信が湧くと同時にもう一度しっかりと見たくなりました。
前回は恐る恐る降りるのに精いっぱいだったもので、、、、。で、行ってきました(^^;
あの旧道が12号線に出るところにバス停があり、それが「国見峠」というバス停です。
今日は余裕をもって通って見たのですが、特に変わったものは無かったのですが
苔むした古い石垣が残されていました。

> 出合橋の位置ですが、
> かんじさんが添付された写真には、すぐ横を流れる石狩川の上流方向に明らかに神居山と思われる稜線が写っています。
> これに適合する場所といえば、国見峠を下りきって神居古潭方向へ1kmほどのところ。
> 現在の国道12号線から更進へ抜ける道のT字路の辺りかと思われます。

私も出会い橋の位置はすぐ横を流れる石狩川の位置から言って2カ所ほどしか考えられないなと
思っていましたが、神居山の稜線も考慮しての考察ですか、さすがです。
で実際の場所に行ってみました。(すっきやね)
momongaさんピンポンです。
今は橋は無くなっていますが、小さな川が流れておりカルバートで道路を横断しているようです。
でも、momongaさん推察の神居山ですが、実際に位置関係を精査すると、写真に写っているのは神居山ではなく常磐山ではないでしょうか。
常磐山の稜線もあの向きからだと非常によく似た形状です。神居山はもっと右だと思います。
では、なぜ現在のあの位置が出合橋の場所だと分かったのか、、、。
だってあの沢は「出会沢」って言うんですもの。ちょうどそこにあるバス停にしっかり書いてありました。
橋は無くなっても出会いの名前は沢に残したんですね。

 

Re: 国見峠ー2

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 5月13日(水)23時47分45秒
返信・引用
  かんじさんへ

> つまり今あまり利用されていない、国見峠の先の細い道は当時の上川道路そのものであると言えます。

バイパスされて使われなくなった道路だから、逆に当時の線形がそのまま残されたと考えて良さそうですね。
それにしてもよく廃道にされずに残ったなと思います。
廃道として放置されたなら、とっくの昔に自然に帰化して跡形もなくなっていたでしょうに、造材か何かで多少は利用され続けていたんでしょうね。

上川道路は、明治19年に幅2メートルの刈り分け道路で開通し、
明治20年から22年にかけての改修で幅6メートルに広げられ、馬車が通れるように中央部分3メートルに砂利を入れたそうです。
今残っている道路は確かにそれそのものという雰囲気を感じます。


出合橋の位置ですが、
かんじさんが添付された写真には、すぐ横を流れる石狩川の上流方向に明らかに神居山と思われる稜線が写っています。
これに適合する場所といえば、国見峠を下りきって神居古潭方向へ1kmほどのところ。
現在の国道12号線から更進へ抜ける道のT字路の辺りかと思われます。


 

Re: 国見峠ー2

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 5月13日(水)15時51分13秒
返信・引用 編集済
  > No.1021[元記事へ]

momongaさんへ

> かんじさん、やっぱし合成しましたネ。(^^)
はい、いつもの手法です(^^;

もう少しハッキリとした地図を手に入れました。
明治30年作成、明治43年修正の5万分の1地図です。

これを見ますと、まさに国見峠で大きな崖を上り下りしたであろうことがわかります。
さらにこの蛇行した道路線形はまさに、いまの道路とぴったり合うのです。
つまり今あまり利用されていない、国見峠の先の細い道は当時の上川道路そのものであると言えます。
この峠がいつまで使われたのかは定かではありませんが、上川道路は大正9年に旧道路法に基ずく路線認定として、現在の12号線のルートとなると書いてあるので、この時点で国見峠を通らずに石狩川沿いに路線変更になった可能性があります。
同時に鉄道の発達で大正期に音江法華の駅逓が廃止になったのもこの路線変更が影響した可能性があります。

PS.
5万分の1の地図は東旭川の兵村記念館特別展で展示されていたものの一部です。
 

Re: 国見峠ー2

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 5月13日(水)10時35分7秒
返信・引用
  かんじさん、やっぱし合成しましたネ。(^^)

上川道路全線を通じて峠の名が付いているのはこの国見峠だけかと思います。
道路ができる前までは、神居古潭の渓谷が石狩川最大の難所でしたが、
道路が通じてからの最大の難所は国見峠だったということなんでしょうね。
確かに馬車だとたいへんそうです。

 

Re: 国見峠ー2

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 5月12日(火)16時49分1秒
返信・引用
  > No.1019[元記事へ]

momongaさんへ

> 音江法華付近の地図画像がありました。
> 拡大してもボケちゃって文字はほとんど読み取れないんですが、上川道路のルートは概ね分かりますね。
>

おーーー、素晴らしい地図だ。
ルートがしっかりわかりますね。
文字は読めないけど、雰囲気では赤丸のところが国見峠ですよね。
やはり川と崖に阻まれ、峠を越えたってのが正解のようです。
となると、国見峠の先の細い急な下り坂は明治のころからあまり変わりない上川道路の一部という事が言えますね。

続いて上川道路が現在の道路とどう重なるのか試してみました。
現在の道路地図に昔の上川道路を重ねてみると、、、、。
おーーーーーー、ぴったり一致するではないですか。
まさに12号線のコンクリート工場のところから音江の町を抜け、国見峠を越えて12号線に戻ります。
さらにその先は神居古潭まで現在の12号線と上川道路はぴったり一致しています。
上川道路が蘇りました。(^^)/
 

Re: 国見峠ー2

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 5月12日(火)13時51分47秒
返信・引用
  音江法華付近の地図画像がありました。
拡大してもボケちゃって文字はほとんど読み取れないんですが、上川道路のルートは概ね分かりますね。

 

Re: 国見峠ー2

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 5月12日(火)11時06分11秒
返信・引用 編集済
  かんじさんへ

村上久吉著「旭川市史小話」の中に「おいはぎ橋」という話があり、
国見峠、出合(会)橋、音江駅逞など開拓当時の上川道路の様子が語られていますので抜粋を載せますね。

ただ文中では、国見峠や出会橋などが、あたかも神居古潭にあるような表現になってますが、これはそのまま受け取らないほうがいいと思います。
実際には昔でいう2里(約8km)も離れていますから、勘違いなのか、昔の人の距離感なのかは定かでありません。
出合橋はたぶんかなり神居古潭寄りなんでしょうね。



(以下抜粋)
上川道路は二十三年修築したとはいえ、密林をきり開いてもり土をしただけの開拓道路、
毎日百台をこえる馬車の往復に、いわゆるそろばん道路などのなまやさしいものではない。
わだちのあとに食いこんで車じくでささえる、丸太をしいてかつぎ上げる、雨のあとは全くのどろんこ道、しる粉道、
馬車で田のしろかきをしているようなもの、車がくいこんで動けなくなった馬のしりを丸太ン棒でたたきつけてはねあげさせる。
途中で馬のたおれてそのままになるものさえ珍しくなかった。それに道はばせまい。

上川入りの場合を上りといい、荷物はあるが、もどる場合は下りといってからの場合が多い。
そこで途中で行きちがうのにしぜんにもどりの馬がよけてやることになったまではよいが、気の荒い時代だ、
少しでもよけ方がわるいと、たちまちけんか、大立廻り、車も荷物も、時には人まで石狩川で泳がせられる。
たまたま下りに荷物があると、上りの連中から「こいつ、上り下りに荷をつけて、よくばりなやつだ」とののしられ、やはりよけねばならぬ。
そこで下り馬は五十頭から七、八十頭もまとまって隊を作るようになる。
当時の馬車追は大ていドスをしのばせて、いつでもけんかに応じられるようにしていた。

神居古潭の今のつり橋附近は、山道を永く上って来て、そこから急坂を下ることになっていた。国見峠である。
馬も三回ぐらい丸太を車にさして立ちもどり、息をつかねばならず、しばしば馬もたおれたもの。

今の古潭荘附近に出合橋があり、滝川と旭川との中間で、両地からの郵便逓送はこの辺で交換して引き返したので、この名がある。
それより上手に俗称おいはぎ橋あり、一方は絶壁、一方は川で追いはぎには屈強の地であった。

音江駅逞前の道路ばたには、角材を長さ一メートル、はば半メートルくらいにえぐったのが百くらいずつと並べておかれ、水を汲みこんでいたもの。
ここまでたどりついた馬が一度に八十頭でも九十頭でも休めるようにしたもので、人は中に入って一ぷくする。
大きなまんじゅうをふかして売る。五十個たべたらおれが払ってやるなどと多食競争、四十ぐらいで目を白黒し、残念がるという余興も時には見られた。


 

Re: 国見峠ー2

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 5月11日(月)17時21分54秒
返信・引用 編集済
  momongaさんへ

> 実は私も見過ごしてしまったんですが、
> 音江の市街から国見峠へ向かう途中に、音江法華駅逞跡の史跡もあるようです。
> 看板が建ってるだけで、建物の痕跡はいっさい残ってないようですが。

明日から天気が悪くなるとの予報だったので、今日思い切って行ってきました。
音江法華駅逓跡及び国見峠です。
同時に上川道路の名残を探すというか、上川道路が音江の町の前後付近どこを通っていたのだろうかなどという痕跡を探してきました。
音江の街中を通っている道路が滝川方面に向かって12号線にぶつかる先国道沿いに、沖里河神社という神社がありました。石碑を見ると20年前に100年記念とありましたので、1895年明治28年にあったわけですから、上川道路がこの付近を通っていたことは間違いありません。
そこをスタートして、音江の街中に向かいます。右手に法音寺という寺がありこの辺りが古いことがわかります。
音江の中心部交差点を過ぎると右手に深川市指定有形文化財旧鷲田農場事務所があります。
明治46年の建物でした。その先の左に音江法華駅逞跡がありました。
今は一般の方のお宅の敷地ですが、説明の看板がありました。
間違いなく上川道路はここを通っていたんですね。
当時の上川道路の様子を探してみると、空知群上川道路出会い橋という写真が見つかりました。
当時はこんな感じだったのですね。
さて音江法華駅逞のあと道路は国見峠に向かって続いています。
国見峠はmomongaさんの紹介の通りです。
そしてその先道路は急激に狭くなり、車で行くのをためらってしまうほどです。
はたしてここも上川道路の一部なのでしょうか?
たぶんそうだと思いました。というのも国見峠に上がるとわかるのですが、石狩川が直ぐ眼下を流れています。今は12号線が走っていますが、当時はどうだったのかそして川は常に氾濫し蛇行します。音江という町には深川の稲作発祥の地という看板もあります。
役場もここにあったそうです。
そうして考えると、町を抜けたあと上川道路は国見峠を越えて先に下っていったと考えるのが自然です。
山側に行ってもどんどん山に登ってゆくだけですので、ここは降りたと思われます。
細いけれどわずかに舗装されている様子があるので、恐々と降りてゆきました。
たぶん上川道路もここを通っていたのだとの強い関心だけを頼りに無事降りられました。
音江法華駅逞は大正に入り鉄道が深川を通ったため、次第に通行量が減り廃止になったそうですね。
地図で見ると鉄道は、この国見峠を避けるために江部乙を過ぎたあと国道12号線と分かれます。
そして石狩川を渡って石狩川の北側を走り妹背牛や深川(一已村)を通って神居古潭に通じることになります。
つまり上川道路は音江から峠を越えたのに対して、鉄道は国見峠を越えられないので、結果的に妹背牛や深川が出来たことになりますね。
ん~~、面白い。
 

Re: 国見峠ー2

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 5月 9日(土)12時27分59秒
返信・引用
  > No.1014[元記事へ]

かんじさんへ

実は私も見過ごしてしまったんですが、
音江の市街から国見峠へ向かう途中に、音江法華駅逞跡の史跡もあるようです。
看板が建ってるだけで、建物の痕跡はいっさい残ってないようですが。
 

Re: 3年過ぎたけど・・

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 5月 9日(土)12時21分30秒
返信・引用
  > No.1013[元記事へ]

かんじさんへ

なるほど、「揚屋」と書くと全然意味が違ってきちゃうわけですね。(笑)
専門用語は難しい。

う~~ん、基礎工事やってたんでしょうかね。
確かに昨年見た時は、仮設塀に遮られて建物の下の方は確認できませんでした。
今回たまたま塀の一部が開いてたので覗けましたが、
今まさにそれをやってるように思えたんですが、仮設シートの影で暗くて基礎の状況がよく分からないのです。

請負業者のお知り合いに直接聞けるなら間違いないですね。
私もまた見て来ます。
 

Re: 国見峠ー2

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 5月 8日(金)13時02分40秒
返信・引用
  momongaさんへ

あ、ここ昨年通った!
地図では旭川方面に抜けられそうだったので、真っ直ぐに行ったら下りになって急に道が細くなって、
あまりに細くって不安になってそのまま戻ってきました。
そうか、あの頂上の脇に国見峠の展望台があったのかぁ。
知っていたら寄って来たのになぁ。
こんど通ったら行ってみます。
あの旧道が上川道路でしたか。札幌方面から来るとコンクリート会社の前で右に入って音江の町の中を走るんですよね。
そういえばお寺もあったし、なるほど旧道か。
夏になると音江小学校辺りが花できれいなんですよ。
 

Re: 3年過ぎたけど・・

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 5月 8日(金)12時45分10秒
返信・引用 編集済
  > No.1008[元記事へ]

momongaさんへ

ジャッキアップしての基礎改修は外観上はわからない程度のものだと思いますけどね。
2013年に基礎工事の為に床を剥がしているので昨年やってるんじゃないかなぁ。
それにしても市のサイトの説明に
>揚屋をして基礎工事を行い、歪みの修正・壁面ほか各部の修理・塗装工事を行います。
って書いてあるけど、これは揚前の間違いですね。
http://www.hinodegumi.co.jp/hikiya/agemae_construction/about/
揚屋だと非常に恥ずかしい説明になります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8F%9A%E5%B1%8B


追伸
現在、偕行社の改修を行っている会社に知り合いが居たので進捗状況などを聞いてみますね。
 

国見峠ー1

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 5月 7日(木)18時51分39秒
返信・引用
  近文山の近く、嵐山展望台から江丹別側へ抜ける道路に国見峠という峠がありますが、
同じく国見峠を名乗る峠が、深川の音江町にもあります。
以前から一度行ってみなければ・・と思っていたんですが、ようやく行ってきました。


音江は昔「音江法華」と呼ばれ、高畑利宜が明治22年に札幌-旭川間の上川道路に設けた駅逞が発祥の町です。
現在も神居に建物が残る、忠別太駅逞が第一美英舎ですが、音江法華の駅逞が第二美英舎でした。
そして第三が空知太(滝川)と続きます。

だだ、音江の市街は現在の国道12号線沿いにはなく、国道と道央道深川インターとの間にあります。
つまり、かつての上川道路は、この付近では今の国道12号線より山側を通っていたということですね。
当時の石狩川の増水による水没を避けていたと思われます。
そしてその音江の市街から1.5kmほど旭川寄りに、国見峠があります。


思ってたよりも遥かに素晴らしい眺望でした。
いつも石狩川っ淵の国道12号線か、道央道を車で通り過ぎるだけだったので、今の今まで気付きませんでしたが、
地図上ではすぐ横を平行する旧道に、雨竜原野まで見渡せる、こんなに見晴らしの良い場所があったんですね。
国見峠という名に納得です。


永山武四郎は、近文山からの国見で上川原野を見渡して上川屯田兵村を拓きましたが、
この国見峠からは北竜の原野を見渡し、一已・納内に屯田兵村を拓いたのでしょうね。




写真:国見峠は標高約155mとさほど高くはないが、
   石狩川の流れる北側が川岸まで一気に急傾斜(ほぼ崖)になっており、
   見通しを遮るものがない。

 

国見峠ー2

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 5月 7日(木)18時48分47秒
返信・引用
  写真上:音江の市街側から国見峠への道路。(つまり旧上川道路)
    正面の頂上が国見峠だが、たいした傾斜でもないので道も真っ直ぐ峠に向かう。

写真中:峠の旭川側は今でも未舗装の山道だ。
    この先は傾斜がきついので道も曲がりくねっていて、
    数百メートル先で現在の国道12号線に合流し神居古潭へ向かう。
    旧上川道路と一致してるかどうかは定かでない。

写真下:石狩川河岸から見た国見峠。(あずま屋の見えてる所)
    下に見えるトレーラーが走ってるのが現在の国道12号線。
    こちらから見ると眺望の良さが見て取れる。
 

Re: 3年過ぎたけど・・

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 5月 5日(火)12時01分40秒
返信・引用 編集済
  かんじさんへ

> これまで何をやっていたか、確信はないのですが確か基礎を修復していたと思います。
> 建物全体を持ち上げて、不当沈下していた基礎を治したんじゃなかったかな。


これらの作業も含めてたぶんこれからだと思われます。
この3年間何度か様子を見に行ってますが、ジャッキアップはもちろん、少なくとも外観からは何の動きも見られませんでした。
ビフォーアフターなんか見てると^^; 建物持ち上げての基礎やり直しは、先に躯体だけの丸裸にしてからやってますよね。

想像するに、これまでは内部で壁・床・天井などの解体が進められていて、思ってたよりやっかいな工事だったのではないでしょうか。
どこまで解体されるのかが分からないので、今後はもう少しまめに見に行きたいと思います。



と思って再度調べてみたら、一応進捗状況が載ってました。(昨年の分がありませんが)
平成29年の再開館となってますから、やはりあと2年ですね。
http://www.city.asahikawa.hokkaido.jp/files/bunkashinko/sculpture_mus/kaisyuujoukyou/kaisyuu%20top.html

 

Re: 3年過ぎたけど・・

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 5月 1日(金)17時10分7秒
返信・引用
  > No.1006[元記事へ]

momongaさんへ

> うーん、まだ2年やそこらかかるかな?

これはかかりそうですね。
これまで何をやっていたか、確信はないのですが確か基礎を修復していたと思います。
建物全体を持ち上げて、不当沈下していた基礎を治したんじゃなかったかな。
自信はないですけど。(^^;

2年かかっても良いから丁寧に修復してもらいたいものです。
そして彫刻美術館ではなく、偕行社の建物として活用してもらうのが私の願いです。
 

3年過ぎたけど・・

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 4月30日(木)12時03分35秒
返信・引用
  偕行社の修復はまだしばらくかかりそうですね。

思えば、修復のために閉館したのは3年前の1月末。
http://9008.teacup.com/momonga_farm/bbs/index/detail/comm_id/554

当初計画では2年、場合によっては3年かかる予定、との事でしたが既に3年を経過。
これまでの3年は、工事用の仮設塀が周囲を囲んだだけで建物外観に変化はなく、進捗は全くうかがえませんでした。
たぶん建物内部では、修復に必要な調査や修復方法の検討などの地道な作業が進められていたのだと思われますが、
ここへ来てようやく写真のような外壁を覆う足場が組まれました。
これからがいよいよ本格的な修復工事の始まり、という事なんでしょうね。

うーん、まだ2年やそこらかかるかな?

 

カタクリ

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 4月24日(金)11時09分2秒
返信・引用
  昨日の旭川は20℃超え。クルマに乗ってたら暑いくらいでした。
札幌では桜の開花宣言が出ましたが、旭川もたぶん今日明日くらいには開花宣言すると思われます。
今年はやはり早いですねー


早いといえば・・・
この調子だとカタクリはとても連休まで持たない、と思い、
昨日の陽気に誘われて、仕事をサボっ・・もとい、仕事の合間を縫って撮ってまいりました。

ビンゴ!
やはり、男山の売店で聞くと「今日がピークっぽいですよ」との事。
平日ですが、けっこう人も来ていました。


ところが・・・
今年のカタクリはどれも色がくすんでいて、何だかひなびたような様子です。
群生の密度も疎らな感じです。
青いエゾエンゴサクも同様です。
真っ白な大雪山連邦も見えていたので、ぜひ山を入れて撮りたかったのですが、肝心のお花畑がちょっと・・・(-_-;)

どうしちゃったんでしょう。
やはり、冬の厳しさが甘いのも、雪解けが早過ぎるのも、
自然にとってはあまりありがたくない事なのかもしれないですね。

 

Re: 1963年

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 4月 9日(木)09時58分45秒
返信・引用
  記録更新の可能性は大ですよね。

何故か昨日の雪が記録されてないですが、記録されたとしても1~2センチでしょうか。
今日からまた気温が上がるみたいですし、週間予報でも雨マークはあっても雪マークはありませんよね。
稀にゴールデンウィーク前後に雪降ることがあるので最後までわかりませんが、まあ、間違いないでしょう。

3月に真冬日が1日もなかったというのも驚きでした。
ホント、毎冬がこのくらいだと楽だなぁーと思いましたよ。 ← しみじみ^_^;

フキノトウがもうすっかり顔出してますし、
この調子だと、桜の開花もかなり早くなる可能性が強いですネ。

 

Re: 1963年

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 4月 8日(水)11時08分19秒
返信・引用
  > No.987[元記事へ]

> 表題の1963年の小雪はちょっと特異です。
> 一冬の累積降雪量は374センチ。
> これに対しこの冬ここまでの累積降雪量は318センチ。
> 3月の降雪というのは非常にムラが多く、多い年と少ない年でかなり極端に数字が変動します。
> さて、どうなることやら・・・
>

今朝、少し雪が降りましたね。
これで終わりでしょうか?

現在364cm、今朝のは入っているのな。
このままだと、1963年の記録更新でしょうか、、、、、。
ワクワク。
 

Re: 鋲っぽい

 投稿者:IMAI  投稿日:2015年 3月23日(月)19時57分41秒
返信・引用
  > No.992[元記事へ]

momongaさんへ

ぬわんと

珍品ですか~ ^ ^

ことさら正体が気になりだした(???????)


> 私も頭にわざわざ屋号?を入れているところが気になってました。
> ああいった印を入れるということは、製造者を記すアピールが目的ですよね。
> 線路固定用のいわゆるイヌクギではないような気がします。
>
> IMAIさん、もしかしたら本当に珍品かもしれませんよ?
>
>
 

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