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戦闘食

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年11月10日(土)13時32分7秒
返信・引用
  地震とブラックアウト騒ぎの時、いち早く心配してメールをくれた東京の友人が、面白いモノを送ってくれました。
写真の『防衛糧食』です。

埼玉の自衛隊朝霞駐屯地で一般向けに販売してるそうで、陸型Ⅰ・陸型Ⅱ・陸型Ⅲと称する3種類。
陸型Ⅰはカレー、陸型Ⅱは牛丼、陸型Ⅲはシチューです。

自衛隊は後方支援部隊が派遣先での食事や風呂を用意しますが(災害時によく見るアレです)、それはあくまでベースキャンプとなる場が確保された場合のみ。
オペレーションの最前線ではそんな余裕はありませんから、隊員個々人がいわゆる「戦闘食」を携行します。
最近の戦闘食は大変優れもので、要はレトルト食品なのですが、発熱剤が内包された「自己完結」型。
つまり、いかなる時・場所でも熱源無しに温かい糧食がいただけるというわけです。
蒸気が噴出して熱々になるまで30分ほどかかりますが、その分美味い。
しかも、保存期間が3年も4年もある!

これは正に災害時のストック用非常食としてもピッタリです。
写真は一般向け販売品ということでパッケージもでかいですが、実際の糧食はもっとコンパクトでたくさんのメニューがあります。
皆さんも参考にしてみてはいかがでしょうか。(^^)


 

旭川は“北のトップランナー”!?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年10月27日(土)13時44分28秒
返信・引用
  9月6日の厚真地震とブラックアウト騒ぎの2日前、
神居古潭で偶然にも遭遇したブラタモリのロケでしたが、放送日が決まったようです。
https://www.nhk.or.jp/buratamori/yokoku.html


11月17日が、#118 富良野・美瑛  ~富良野・美瑛の合言葉 残りモノには福がある~

11月24日が、#119 旭川      ~旭川は“北のトップランナー”!?~


なんと、富良野・美瑛と旭川、2週に渡っての放送ですね。
さてさて、タモリさんがどんな形でこの地域の歴史と地形に突っこんでくれるのか、今から楽しみです。
実際には地元の人間が用意したストーリーでしょうけど・・・^^;


 

Re: 歴史が古いお寺がない神楽地区

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年10月27日(土)12時41分16秒
返信・引用 編集済
  補足です。
明治33年と大正7年の地図です。

美瑛川と忠別川が好き勝手に蛇行していたため、神楽地域は意外とタイトだったことが分かりますよね。
そのど真ん中を占めているのが御料局の種苗畑です。
この種苗畑で収穫される種苗が、西御料・東御料の農地に入植した農家に対し供給されていたそうです。
地図には記されていませんが、この頃既に美瑛川寄りの一帯には見本林が形成されています。
あと面白いのは、いわゆる高野町(現神楽中や平成大橋のある一帯)が神居村(雨紛)から突き出た地域で、元々神楽村ではなかった事が分かります。

ご覧になってお分かりかと思いますが、明治期の神楽は一般住人はごく限られており、
大正期頃までに美瑛橋と忠別橋の間の街道沿いを中心に小さな市街地が形成されたようです。
地図にも載ってますが、この頃既に橋を渡ればすぐ東本願寺があり、そのまま5条まで行けば寺町だったわけで、
神楽の住人は特に寺には不自由しなかったのではないでしょうか。

 

Re: 歴史が古いお寺がない神楽地区

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年10月24日(水)22時06分12秒
返信・引用
  lsxxさん、お久しぶりです。

なかなか興味深い疑問ですねー。
そう言われてみれば今の神楽市街付近には古くからあるお寺が一つも見当たりませんよね。
一番近いところでも西御料地小学校の隣にある聖台寺かな?

私の推測ですが、神道色が強いとかは関係ないと思います。
単に寺を建立するほど住民がいなかっただけだと思います。^^;

と言いますのは、今の神楽市街、つまり両神橋と忠別橋を結ぶ旧街道から上川神社の麓にかけては、全て御料局直轄の農園(種苗畑)だったんですね。
見本林なんかもその一環を成す試験林でした。
旧営林署(今は森林管理局?)の付近には御料局事務所がありました。
つまり、今の神楽市街一帯は殆どが御料局の直轄地だったので、一般入植者向けの殖民区画はなかったんです。
さらに上川神社の周辺一帯も離宮予定地(世伝御料地)であったので一般人はもちろん住み着けません。
一般入植者向けの御料農地区画が設けられたのは、今の神楽岡からさらに美瑛側なのです。
西神楽に集落ができて神楽神社があるのもそんな理由かと思われます。
そういう意味では、今の神楽市街は逆に郊外だったというのは当たってるかもしれませんね。

そんな訳で、御料地が解除される大正時代以降まで寺を建てるほど住人がいなかったというのが要因ではないでしょうか?
あと、街道沿いの僅かな住民にとっては、忠別橋を渡りさえすれば旭川市街に寺がありましたから、必要性も薄かったかもしれません。

 

歴史が古いお寺がない神楽地区

 投稿者:lsxx  投稿日:2018年10月23日(火)22時39分16秒
返信・引用
  かつて神楽地区に7年勤務していました。神楽の十字街から南下し,大雪アリーナ前を通過する国道沿いや神楽岡駅から東方に坂を登って神楽岡地域に入っても古くからのお寺がないのが不思議でした。上川神社と御料地を擁し神道の色が濃い旧神楽地区に仏教はふさわしくなかったでは,との話も聞きます。また,旧神楽地区の中心地は神楽神社がある西神楽で,今賑わっている神楽地区は旧神楽地区の郊外だった。そのためお寺は建てられなかった。との話も聞きます。実際はどうだったんでしょう?中央図書館に行って旧神楽町史でも読めばはっきりするのでしょうか。  

停電明けのマルシェは大盛況

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 9月17日(月)19時44分25秒
返信・引用
  6日未明の震災とそれに続く全道ブラックアウト、、、
旭川でも揺れることは揺れましたが、この大停電まではちょっと想定外でしたね。
幸い翌日中には市内大半の地域で電気は復旧しましたが、一旦止まった製造や物流の復旧には思ったより時間がかかるようです。
真冬でなくて良かった、と考えるのは皆さん一緒だと思います。

そんな中、開催が危ぶまれた「食べマルシェ」ですが、予定通り開催ということで昨日行って参りました。
数店舗が地震の影響で出店をキャンセルしたという事ですが、なんのなんの・・・
これまで以上の人出と活況でした。

こんな時にやるべきじゃない、という声もあったようですが、
正直申し上げて、じゃあ既に影響を脱している地域でのイベントを中止したところで何の得がある?とも思います。
もちろん損得だけの問題ではありませんが、既に北海道観光への多大な影響が出ており、今後も懸念されています。
ただ沈んでばかりいるのではなく、いち早く元気な姿を発信すべきではないでしょうか。

何よりも、この人出の多さがその想いを物語っているように感じます。



 

旭川にブラタモリが来た!

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 9月 4日(火)20時34分4秒
返信・引用
  今日、9日に予定されている「旭川の歴史的建物の保存を考える会」主催の「旭川近郊の歴史的建物ツアー」スタッフによる下見がありました。
(既に定員締め切りとなっております)
不肖わたくしも参加させていただきました。

初っぱなは旧神居古潭駅舎へ向かったのですが、吊り橋に着くと平日だというのに何やら人の一団・・・
駐車場に車を止めるとすぐに「すみませーんNHKの者ですが今ロケをやってますんでー」との事。

我「え?何のロケ?」
N「実は・・・タモリさんが来てます」
我「えぇ~~~!」

さりげなく吊り橋真ん中でのロケをやり過ごして旧駅舎へ向かうも、ロケ一行も追うように駅舎へやって来る~
てなわけで、しばらくロケと同行する格好になってしまい、本来の目的は上の空。
全くの偶然ですが、神居古潭へ向かう車中で「ブラタモリが来るといいのになぁ」と話してた中での出来事でした。

放映日はまだ未定という事ですが、「ブラタモリin旭川」楽しみです。



 

ちゃらんぽらんな表示板

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 9月 2日(日)19時21分25秒
返信・引用
  地名由来の話題が一休みしたところで、
既成事実というものはこのようにしてつくり上げて行かれる、という悪例をご紹介しましょう。

下の写真は、ご覧になった事がある方もおられると思いますが、旭川空港の到着ロビーの真ん前に建てられている地名表示板です。
いつ建てられたのか私も気付いてなかったのですが、けっこう立派な表示板です。
旭川空港に到着してこの表示板を見た人々は、ああそうなのか、と信じて疑う事はないでしょう。

しかしながら、書かれている内容と言えば、、、ひどいもんです。
旭川の地名由来というのは、旭川市のHPを見ても分かるように未だ「諸説があって定かではない」とされています。
にも関わらず、どうでしょう? この断定的な物言いと、諸説に対する勘違いぶりは・・・
短文ながら突っ込みどころ満載のこの説明文は、いったい誰の説なのでしょうか?
検証してみたいと思います。

まず、アイヌ人から「チュクペッ」と聞いた和人とはいったい誰のことを指しているのか?
幕末から明治半ばの旭川開村時まで、忠別川の「聞こえ方」については様々な表現が記録されており、チュクペッはその一つに過ぎません。
さらにそれを「チュプペッ」と解釈した、というのはいったい誰のことでしょう?
永田方正の事を言っているに違いないと思いますが、永田方正は自ら調査し、アイヌ人から直接自分の耳で聞いたはずではなかったのか?
この説明を見る限り、「チュクペッ」と聞いた和人(達)と、それを「チュプペッ」と解釈した人間が別人のように受け取れます。
さらにそれに続く、cuk-pet、cuk-cep、ciw-pet、の3つの説があると、旭川の地名とはまるで関係のない、川そのもののアイヌ語解釈の紹介・・・

端的に申し上げましょう。
これは、山田秀三氏が唱えた説を脚色しているに過ぎません。
山田秀三氏は知里真志保氏と並び、昭和の戦前戦後を通じた著名なアイヌ語研究者です。
忠別川の語源について、山田秀三氏は「チュクペッ=cuk-pet」であると唱え、知里真志保氏は「チウペッ=ciw-pet」と主張しました。
しかしこれらの説は、実際の命名時期とは時代も異なる、ずっと後年になってからの学者の忠別川に対する語源解釈に過ぎません。
しかも何れも自分達の説が旭川という名に結び付くと主張したわけではなく、「永田方正の誤訳から旭川の名は生まれた」としているのです。
従って、これらの説はけっして旭川の地名由来の「諸説」でもなんでもありません。
『チュクペッと呼んでいると和人が聞き取り』などと断定できるような史料も存在しません。

この表示板を監修したのは、旭川市教育委員会の主催による『アイヌ語地名表記推進懇談会』という懇談会です。
その名の通り、地名についてはアイヌ語の観点からしか物事を協議しません。
僅か数名の指名されたメンバーから成る会議で、アイヌ語を研究されている一部個人の見解がほとんどそのまま反映されていると言えます。
この解説文を主導した方は、おそらく山田秀三氏の解釈に賛同されているのでしょう。
限りなく個人の意見に近い懇談会で旭川の地名由来が断定的に決めつけられ、教育委員会の名の下に公にされてしまって良いのでしょうか?
しかも同じ教育委員会の名で神楽岡公園に建っているアイヌ語表示板では、忠別川の語源をチゥペッ=ciw-petとしているちゃらんぽらんさです。
http://www.city.asahikawa.hokkaido.jp/hakubutukan/chimei_display/p000105.html


独断的で矛盾に満ちた解説文を、旭川の玄関口に堂々と表示されている事に対し、大変疑問に思います。


 

Re: 綸言汗の如し

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 8月22日(水)21時02分37秒
返信・引用
  マニアックさんへ

つまりマニアックさんは、永山武四郎が明治天皇に上川の状況を申し上げたとき、村名としてアサンカラから発想した旭川という名を用意していたと・・。
それが思わぬ事に、明治天皇が「永山村と名付けるがよい」とお言葉を発したものだから旭川は一旦お蔵入りとなってしまったと、こう言いたいわけですね?
それも一つの考え方であると思います。

しかしながら、屯田兵村はこの時既に3村が置かれる事が決まっています。
つまり村名も3つは用意しなければならないわけで、その内の一つを陛下から授かったと考えればボツでもなんでもありませんよね。
最初に開く兵村地域に永山を冠した事で、陛下のお言葉通りとしたわけです。
最初に開いたのは確かに永山兵村ですが、岩村長官の時から市街予定地の中核は忠別地域とされています。
すなわち、自治体の村としてのメインはこちらであって、永山村となった地域とは違います。
永山武四郎が第一案で考えたとすれば、メインとなる忠別地域か、或いは御料地となる地域の村名と考えるのが妥当です。
結果的に永山村に2兵村、旭川村に1兵村という配置になり、やはり市街地として予定された神居村が追加されますけどね。(当麻兵村は後に分村)
そもそも論・旭川にとっての都合、なんてのはどうでも良い話です。



>馴染みの記者に、リークしたか?orすっぱ抜かれたのでしょう。会見という解釈は微妙と思っています。
>軽々しくも町名案をポロポロと数案いってしまう口の軽さを見る限り、どの程度、永山将軍から信頼されていた人なのか....なと感じています。

山室方幾すなわち岡部方幾に関して、どの程度調査されていますか?
この人物とアイヌ語や永田方正との関り、また、どういう経過を経て新聞発表に至ったか・・・
私は山室(岡部)方幾と永山武四郎との関係を探る事が、旭川という名称の出処を解明するキーポイントと捉えています。
アサンカラも一つの仮説には違いありませんが、あまり固執しないほうがいいと思いますよ。
一部の論文だけに基づいた想像で物申す事も地名由来の問題解決に繋がらず、おっしゃる通りいつまで経っても答えは出ません。


 

Re: 綸言汗の如し

 投稿者:マニアック  投稿日:2018年 8月22日(水)00時07分22秒
返信・引用
  > No.1524[元記事へ]

momongaさんへ

> おっとマニアックさん、博物館の研究報告とは、、かなり深く研究されているんですね。

momongaさんがこれをソースとしてHPで紹介しない理由がわかりません。
アサンカラの永田訳、魚井訳まで掲載しています。
アサンカラは永山村内らしいですが、陛下が永山村にせよといったら、そりゃ案はボツ。
気に入ってた村名は宙に浮く。論旭川にとって都合が悪いわけではないでしょうに。

> ただし、それは永田方正ではなく、山室方幾ですね。

山室某という方は、地名調査などに同行するなどする馴染みの記者に、リークしたか?orすっぱ抜かれたのでしょう。会見という解釈は微妙と思っています。宮内庁の建議は、離宮の設置ついて、陛下の御意向があることを書いています。屯田兵司令部としては慎重に対応しなければならない案件で、かつ町名に関する長官訓令よりも前の掲載ですから、軽々しくも町名案をポロポロと数案いってしまう口の軽さを見る限り、どの程度、永山将軍から信頼されていた人なのか....なと感じています。

いろいろ書きましたが、この旭川由来関係について、専門家といわれる人は、皆、我田引水で他の人の研究を引用したり参考にしたりするスタンスが見受けられませんから、20年後も答えは出ないでしょう。というのが私の読みです。
 

Re: 綸言汗の如し

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 8月21日(火)22時20分51秒
返信・引用
  おっとマニアックさん、博物館の研究報告とは、、かなり深く研究されているんですね。

魚井一由・廣田徹氏のアイヌ語地名由来考は以前読んだ事がありますが、再度確認のため目を通してみました。
この御二方は、とかく何が何でもアイヌ語解釈から離れようとしないアイヌ語学者としては、非常に考え方が柔軟な方々だと思います。
なんせ、松井恒幸氏の「アイヌ語後付け」論を肯定的に扱っている訳ですから・・・
それだけ永田方正や、それに対する後世の知里真志保氏らの解釈に対して、同じアイヌ語学者として強い疑問を持っておられるのでしょうね。
(実は元々が永田方正の意訳ではなかった事がほぼ判明していますが)

ただ、永山武四郎がアサンカラ川から連想して旭川の名を想い付いたのではないか、との推論にはちょっと無理がある気がします。
永山武四郎が先に旭川の名を想いついて永田方正にアイヌ語意訳を付けさせた、という論法には大いに賛同できます。
ただし、それは永田方正ではなく、山室方幾ですね。


 

Re: 綸言汗の如し

 投稿者:マニアック  投稿日:2018年 8月20日(月)22時50分25秒
返信・引用
  > No.1522[元記事へ]

momongaさんへ

> それを何の根拠も示さず頭ごなしに否定するのは大変失礼であり、歴史家のやる事ではありません。

ネットをみると、いろいろですね。wikiは特に。まぁいろいろな旭川愛があるのかもしれないですが。

ところで、momongaさんの「旭」にご興味があるあたりについては、

魚井一由、廣田徹:アイヌ語地名由来考 ー札幌・函館・松前・旭川ー、旭川市博物館研究報告7号 P17-21、2001
に、命名者、根拠...結構深い論考がございますが、なぜアイヌ語地名を研究されている方は、放置なのでしょうかね。いまさら、引っ込みがつかないのか....。
momongaさんは上記文献は初見ですか?



 

Re: 綸言汗の如し

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 8月19日(日)12時45分37秒
返信・引用
  マニアックさんへ

>永山将軍以外の方が命名しているというご提案の歴史家がいらっしゃるのでしょうか?

私が知る限り、永山村の命名者として他に具体的な名前を挙げている方は見た事がありませんが、
明治天皇命名説について、根拠も上げずに「突飛な空論」と否定している郷土史家はおられます。
明治天皇命名説は『旭川市史』や『永山町史』の編纂を手掛けた村上久吉氏が、発見した史料を元に東京の大学病院で医師をしていた永山武四郎の三男武美氏にも直接確認した、それなりに根拠がある話です。
それを何の根拠も示さず頭ごなしに否定するのは大変失礼であり、歴史家のやる事ではありません。


>「旭川がもし軍都にならなかったら、どんな町になっていましたかね?」

これは大変興味深い質問をされましたね。
私も川島先生のおっしゃられた通りだと思います。
かつて屯田兵村が置かれた道内の内陸の町で、道庁の置かれた札幌、師団が置かれた旭川以外の町を見れば一目瞭然だと思います。
炭鉱がらみで人口が増えた町はありますが、屯田兵村は元来が農地に違いはありませんのでそれ自体が市街の発展に繋がる要素は少ないと思われます。
道内四方への交通の要所でもあった旭川は、滝川よりはもう少し発展したかも知れませんが、町の「格」という意味では変わらなかったでしょうね。

旭川は元を正せば広大な上川全域の殖民核都市として、当初から10万人以上を想定して設計された都市ではありますが、
これはあくまで将来大師団を置くことを前提としていたフシがあり、屯田兵村や一般殖民だけではそうはならなかったと思われます。
それこそ上川離宮が実現していれば話はまた大きく変わっていたでしょうけど・・・。


 

Re: 綸言汗の如し

 投稿者:マニアック  投稿日:2018年 8月17日(金)22時03分46秒
返信・引用
  > No.1520[元記事へ]

永山村の命名が陛下で、陛下は「力を尽くすお前の姓」という風にいっておられる。すなわち、陛下は永山村以外の命名をするつもりはないということ。この状況で、他の兵村の命名を永山将軍以外ができるわけがございませんが、永山将軍以外の方が命名しているというご提案の歴史家がいらっしゃるのでしょうか?

永山の菊の御紋は、明治35年。第七師団造営完了の年。東旭川ががんばった異例の伊勢御分霊あたりのはなしもそうですが、例えば、編入に伴う兵村共有地の帰属問題が絡みますから複雑です。土地はかんがい用水路整備費の資金源でもあり、旭?日章?に奉じた代償ともみることができますので。

なお、「日章」は統一的な書き方が規定される前は「日像」「日昇」とも書きまして、奥田氏は「日像」の略字として「日象」と書いた。日像といえば「日像纛旛(にっしょうとうばん)」をイメージされていたのでしょうかね。「日昇」の方であればライジングサン「旭日」に近い意味ですが。

ところで、
このブログに書き込もうと思ったのは、宮川仏壇店の書き込みをみて川島先生と軍都の話をしたことを思い出したためです。話がとんだ方向に行ってしまいましたが。
先生に「旭川がもし軍都にならなかったら、どんな町になっていましたかね?」と質問したところ、「4万人の農村都市になっていた」と回答がありました。あまりにシャープだったので、「どこか具体の町があるんですか?」と聞いたところ、ボソっと「滝川だよ。調べごとするのにいいこと言うだろう。論文にはしていないがね。電話帳はよく調べた」と教えてくれました。ついでに、「旭川が軍都であることの特徴は?」ときいたところ、「仏壇店と床屋が多いことだよ」とおっしゃいました。その後、仏壇店が繁盛するための必須条件の話をききながら、宮川仏壇店の内部階段を紹介してくださいまして、大変おもしろかった。何かの記録にでもしていただきたく、書き込みをいたします。

 

綸言汗の如し

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 8月15日(水)10時51分12秒
返信・引用 編集済
  明治天皇の

『お前が力を尽くす村だからお前の姓を取って永山村と名づけるがよい』

この一言で全てが決まりですね。
誰にも覆すことはできません。

ただこの一件は明治22年9月の事で、神輿が制作されたのは明治35年頃と言われますから、だいぶ年代が離れています。
永山武四郎が師団長の職を退いてから、宮内省を通じて菊の御紋の使用を勅許されたものとされています。

 

Re: 永山武四郎と旭日旗説

 投稿者:マニアック  投稿日:2018年 8月 9日(木)23時09分57秒
返信・引用
  > No.1518[元記事へ]

> それはともかく、私自身はけっして旭日旗にこだわっているわけではありません。
> それが旭日章であっても不思議でも何でもないと思います。
> 要するに、旭川の「旭」の文字がどのようにして発想されたのか?

思いのほか、旭日旗のこだわりがないのがわかりました。

・西南戦争時、黒田長官の命を受け、故郷の大先輩の西郷隆盛を討つため、旧会津藩士の屯田兵部隊を率いて出陣した永山大隊長は、その功をみとめられ、旭日章を受章しています。
・西郷が強く主張した士族による北方警備(士族屯田)受け入れてスタートした屯田兵制度ですが、それが立ち行かなくなり、開拓使が廃止され、新たな屯田兵増置案として、平民屯田の導入を提案実践した。その功を認められ、旭日章を受章しています。
・受章年は、永山神社のHPに載っていますね。
出世と武人の義理について「旭」に深い想いがあるかもしれませんね。旭に対する永山将軍の想いは、身近な部下は中隊長クラスなら知っていて当然でしょう。
なお、屯田兵は志願兵であることもそうですが、特殊な生い立ちでほかの地の日本の軍とはちょっと違いますね。

初の平民屯田のまちを計画し、陛下に上申し、ハクと人気が出ることを願って、村名をつけてもらおうとした。天皇陛下は通常、自らの意見を言わないというのが通常スタンスであるから、おまえの考えは?と言われることを想定し、町名の腹案も用意し、裁可をいただくつもりだった。が、陛下は永山将軍の熱心ぶりの空気を読んだのか自分の意見をおっしゃり、結果、永山村となってしまった。永山将軍は、ずっこけてしまい、腹案は披露する機会を失った。という感じでしょうかね。陛下が関与したエビデンスを残すため、慌てて菊のご紋を神社の神輿で使わせてほしいとお願いしたかもしれません。これは、momongaさんと同意見です。
 

Re: 永山武四郎と旭日旗説

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 8月 8日(水)22時39分10秒
返信・引用
  マニアックさん、こんばんは
今回はサイトのコンテンツに関するレスですよね?

> 大日本帝国の陸軍・海軍旗は、旭日旗ですが、これは制定が明治22年でしたっけ。制定されてまもなくはメジャーな旗ではなく、日露戦争後ですよね有名になるのは。
> 北辰旗がシンボルの永山武四郎率いる屯田兵部隊は、石狩は士族屯田なのに百姓部隊とバカにされてもいたはず。このへんも含めて、やはりなんだか旭日旗説は腑に落ちない。

私の認識では、当時の軍人にとって軍旗である旭日旗も天皇陛下から貸与されたもので、どんな事があっても死守すべきもの、、
まだメジャーじゃないとか有名でないとか、そんな現代の一般人感覚とは全く異質のものだと考えます。
それと、屯田師団も七師団も旭川開村後の話で、旭川命名とは関連性がありません。
関係あるとすれば、旭川命名当時の永山武四郎の陸軍少将・屯田司令官としての旭日旗に対する感性だと思います。


それはともかく、私自身はけっして旭日旗にこだわっているわけではありません。
それが旭日章であっても不思議でも何でもないと思います。
要するに、旭川の「旭」の文字がどのようにして発想されたのか?
一般に言われるアイヌ語由来なのか?そうじゃないのか?
その一つとして旭日旗説を挙げたに過ぎないのです。

ま、そうは言っても永山武四郎が命名者であろうという想いはありますけどね。
あくまで「想い」です。

 

永山武四郎と旭日旗説

 投稿者:マニアック  投稿日:2018年 8月 7日(火)21時39分27秒
返信・引用
  momongaさんの旭川由来は、その通りと思っており、それがなければ、市街地の北側に旭町や旭橋があることを説明しにくいのですが、ちょっとアイデアを書いておきます。

大日本帝国の陸軍・海軍旗は、旭日旗ですが、これは制定が明治22年でしたっけ。制定されてまもなくはメジャーな旗ではなく、日露戦争後ですよね有名になるのは。
北辰旗がシンボルの永山武四郎率いる屯田兵部隊は、石狩は士族屯田なのに百姓部隊とバカにされてもいたはず。このへんも含めて、やはりなんだか旭日旗説は腑に落ちない。

ちなみに、日本最古の勲章は「旭日章」でして、明治8年制定。確か永山将軍は、2度(明治18年ときと死亡日)受けていますね。もちろん、大日本帝国といえば旭日章。縁起の良いもので、陛下から授かるありがたいものです。旭日というのは、勲章の意ととらえるとどんな感じになりますかね。スムーズなストーリーになりますか?

 

Re: ソースが見つからない・・

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 7月28日(土)10時56分30秒
返信・引用
  > No.1515[元記事へ]

マニアックさんへ

いろいろな情報参考になりました。
こちらこそありがとうございます。


 

Re: ソースが見つからない・・

 投稿者:マニアック  投稿日:2018年 7月27日(金)01時56分0秒
返信・引用
  > No.1514[元記事へ]

momongaさんへ

> ただ私としては、発見されてる史料だけでは読み取れない何かが影にあったのではないか? と、楽しんでおります。

日章、旭光日章、五稜星などを引用するのであれば、デザイナーはそのマークが何を意味しているのかわかりますし、採用された暁には解説しなければならないので、それぞれのマークを使っている組織のしかるべき方に、裁可をいただくまではないにしても、このデザインはどうか等デッサンを見せてご相談されるでしょうね。北海道の七稜星(七光星)は、少し資料が発見されていますが、奥田町長は、いろいろな書簡が残っているようですから、そのうちソースが出てくるのかもしれません。

デザインは感覚ではなく、記号論、様式論でもあって、それが引き継がれることで歴史にもなったりします。川島先生は様式が得意な方で面白い解釈と解説をしていたこともあり、機が熟しましたらまた来たいと思います。ありがとうございました




 

ソースが見つからない・・

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 7月26日(木)22時13分23秒
返信・引用
  >かんじさんへ

奥田町長の絵には、おっしゃる通り中央の「日象」から五光星の各先端に向かって5本の線が延びています。
私が聞いたことがあるというのは、この線が旭日の条光を表しているという説です。

新旭川市史によれば、奥田町長は北斗星について北海道の徽章である星象(五光星)を借りた、とありますから、
当時の北海道の徽章と言えば、フラットな五稜星(五光星)しかないでしょうから、立体を表そうとしたとなると少々疑問があります。

また、この五光星は、実は師団(陸軍)の五光星を表している、というのも聞いた事があります。
確かにこの当時の旭川は、師団の比重が最大値の時代であったでしょうから、考えられなくもない話です。

しかしいずれもそれを証する史料の明示がある訳ではなく、市史としては採り上げる訳には行かないでしょうね。
私もこの話がどこに書かれていたものなのか、ざっと当たってみましたが手元にはソースが見つかりませんでした。

ただ私としては、発見されてる史料だけでは読み取れない何かが影にあったのではないか? と、楽しんでおります。



>旭川の人さん

「またいつか」などとは言わず、もっとどんどん遊びに来てください。


 

(無題)

 投稿者:かんじ  投稿日:2018年 7月26日(木)10時57分32秒
返信・引用
  旭川の人さん、momongaさんお疲れ様でした(^^)

なかなか興味深く読ませてもらっていました。
私としては徽章を発案した奥田千春自身が編纂した「昭和6年発行の旭川市史稿」の解説を大切にすべきと思いました。
でも、その後「旭川市史」あるいは「新旭川市史」で表現が変わった裏には何があったのかは思い知ることができません。
新しい事実、あるいはヒントが見つかればその時は改めて知りたいですね。

奥田千春が書いた絵には五光星の中に線が引かれていますね。
これは山形の立体を示したのかな?解説がないのでわかりませんね。

それから、「北斗星に日章」とのことですが、問題の日章では無く「北斗星」という言葉に引っ掛かりました。
普通に書いていますが、北斗星って星はないですよね。北斗星という言葉が五光星をあらわすのですか?
列車の名前にもなっているし、よく聞く言葉なのですが北斗星って改めてみると何のことだろうって思いました。余談ですが、、、。
 

では

 投稿者:旭川の人  投稿日:2018年 7月25日(水)00時46分41秒
返信・引用
  資料あさりはとても疲れました。
またいつか、軍都関連のことでおはなしできればと思います。
 

Re: 新市史は

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 7月25日(水)00時29分35秒
返信・引用
  旭川の人さんへ

なるほど、お気持ちは察しました。
私にも少し誤解があったようで申し訳ありませんでした。

私も徽章に関して新旧市史や市史稿に書かれている以上の知識は持ち合わせておりません。
これら記述の違いは何なんだろう?と疑問に思うばかりです。
旭日に関しては奥田町長の素案図に対する多少見聞した情報がありますが、あくまで推測になります。
ソースがもし見つかればご報告しますが、今夜はもう遅いのでまた明日にでも書込みます。

 

新市史は

 投稿者:旭川の人  投稿日:2018年 7月25日(水)00時08分59秒
返信・引用
  日象とした理由はなんとなく分かります。
旭川市には明治記の公文書は非常に乏しく、恐らく奥田千春の案が最終的にどのように告示されたか分からないのでしょう。
ここらあたりがわかれば、実は「旭日」あるいは別の言葉だったり、現在の例規集とは異なるものだった可能性もあります。
ただ、新市史は史料の扱いに非常に慎重ですので、以前管理人様が書かれていたように、無難なところでとどめたのではないかとも思われます。
 

誤解があるようですが

 投稿者:旭川の人  投稿日:2018年 7月25日(水)00時03分40秒
返信・引用
  軍都と都市は非常に興味深い、昨今の歴史学のホットなテーマです。
ただ、根拠となるきちんとした史料と正しい史料批判を経た後でなければ後世の役に立つ教訓は得られないのではないでしょうか?
その意味で「旭日」は、この段階ではなんとも言えないな、と思います。いかがでしょうか?
 

いや、それは

 投稿者:旭川の人  投稿日:2018年 7月24日(火)23時59分17秒
返信・引用
  本文と引用文献は熟読するでしょう
また「自治体史」であったとしても、信頼のおける史料をきちんとした史料批判を経た後、「旭日」が本来の意であった!ということであれば、すぐに転向します。
 

Re: 結局のところ

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 7月24日(火)23時55分37秒
返信・引用
  旭川の人さんへ

こことばかりに立て続けにレスされたという事は、予め本文は熟読していたという事ですよね?
何故最初からまっとうな本筋の議論をされないのでしょう?
当掲示板は言い負かす事が目的ではありません。

新旭川市史では確かに「日章」としてもよいくらいと思いますが、あえて「日象」の表現に留めたのはそれなりの理由があるんじゃないですか?
旭川市史での「旭日」も、市史稿の「日章」を敢えて変えたのにはそれなりの史料に基づく根拠があるはずです。
でなきゃそれこそ市史編集のルールに合致しないから不採用になりますよね?

結局のところ旭川の人さんは、日章ありきなのではありませんか?

 

日章訂正

 投稿者:旭川の人  投稿日:2018年 7月24日(火)23時55分18秒
返信・引用
  > No.1503[元記事へ]

「上記の如く日章は赤色に現はし」(誤)
「上記の如く日章は之を赤色に現わし」(正)

「星章についても」(誤)
「星象についても」(正)
 

結局のところ

 投稿者:旭川の人  投稿日:2018年 7月24日(火)23時08分28秒
返信・引用
  そもそも、時代も近接し、奥田千春が編集委員となっている「旭川市史稿」の記述が、現段階では一番信頼がおけるのではないでしょうか?
奥田千春は自らが徽章の原案を作成したことを大変誇りに思っている旨、記しています。
誤った記述は許さないのではないでしょうか?

以上、本文を読んだ後の私見です。
 

旭日については

 投稿者:旭川の人  投稿日:2018年 7月24日(火)23時02分44秒
返信・引用 編集済
  何を典拠にしているのか分からないため、評価不能です。  

日象については・・・

 投稿者:旭川の人  投稿日:2018年 7月24日(火)23時01分29秒
返信・引用
  「新旭川市史」3巻77pの奥田千春「事実考」の図で「日章」という単語がみられます。
図では文章が見切れていますが事実考では「上記の如く日章は赤色に現はし以て衆の意見を問う」と続きます。正直この部分の記述は事実考の引用と市史の説明がごっちゃになっているのですが、星章についても星章と記されていたりします。
何故、本文で「日章」についてはスルーしているのかは謎ですが、「象」は「形」の意であることもあり、どちらともとれる書き方をしたのかもしれませんね。
 

Re: それでは

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 7月24日(火)22時59分3秒
返信・引用
  旭川の人さんへ

年表の索引だけを見て判断してるのですか?
申し訳ないですが、『旭川市史稿』『旭川市史』『新旭川市史』いずれも本文をきちっとお読みになった上でお答えください。
あなたが見ているのは単なる目次であって本文ではありません。

> 判で押したように例規どおり記述しています。「旭川市史」も後から気づいたのか、執筆者が変わったのか?この本文と離れたところに、しれっと書いておくやり方はイライラしますがね。

私の方がこの言葉を聞いてイラっとしてますよ。


 

すいません

 投稿者:旭川の人  投稿日:2018年 7月24日(火)22時26分54秒
返信・引用 編集済
  下と同じ投稿をしてしまいました。  

それでは

 投稿者:旭川の人  投稿日:2018年 7月24日(火)22時25分41秒
返信・引用
  ちょっと、くどかったですかね?
ではルールの話しではなく市史本文のことですが、
実のところ、例規の旭川市徽章や旭川市史稿から特に解釈はかわっていない様に思われます。
例として
●「新旭川市史」5巻 114p 「6.29 旭川町徽章制定(北斗星に赤色日章、現在の市徽章)
ついでに、
●「旭川市史」4巻 40p「六月?旭川町徽章決定告示(現在の市徽章、北斗星に赤色日章)
●「旭川市史年表資料」100p 旭川町徽章決定(6月29日告示、北斗星に赤色日章)

判で押したように例規どおり記述しています。「旭川市史」も後から気づいたのか、執筆者が変わったのか?この本文と離れたところに、しれっと書いておくやり方はイライラしますがね。
(短めに書きました)
 

Re: 自治体史ですから・・・

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 7月24日(火)22時10分56秒
返信・引用
  旭川の人さんへ
前レスの通り、まずは私の記憶違いを訂正お詫びした上で、改めてレスしたいと思います。


あんまり難しい文言を並べないでくださいな。
おっしゃってる事が法律条例Onlyのお役人さんのごとくですので、素人の私としては一つ一つに返答させていただきます。


>改正の痕跡が無いということは、「旭川市徽章」については当初から「北斗星に赤色日章」であったのでしょう。

その通りです。結局のところ旧市史の解釈も新市史の解釈も反映する事なく、それを怠ってきたという事ではないでしょうか?


>既に旧市史発行以前から市の意思決定として公に決定告示されている規定があるのならば、その文言を間違いなく使用するのが「自治体史」としては正解です。
>史料批判以前に、外形的にそれ以外の書きようがないということです。

決定告示されている文言を間違いなく使用するのは当たり前の事ですが、ではこの場合、徽章の解釈の意思決定は何を根拠に成されたものなのでしょうか?
今問題としているのはこの解釈の根拠についてです。


>市の例規類集については、荒っぽく例えると六法全書のようなものでしょうか。
>掲載されている内容は政治的に揉まれた後に、決められたルール(例えば議会の議決など)を経て最終的に決定し、告示等がなされたものが掲載されています。
>ですから、既に「政治的な判断」終了後の自治体としての公式の「決定」しか記されていません。また、当然に文言の誤りは許されません。

これは前述の繰り返しですよね。例規集に記載されるまでのルールは分かりました。


>条例などの個々の条文の「解釈」が争われることはありますが、条文の言葉自体を別のものに置き換えるということはあり得ません。もし時代の要請等で変更が必要な場合は、決められたルールを経て改正しなければなりません。
>徽章についても当然同様で、規定されている言葉自体は改正の手続きを経なければ、別の言葉に置き換えることはできませんし、徽章を市として説明するなら規定どおり説明すべきでしょう。

これもまたルールに従わなければ改正はできないという話ですよね、当然だと思います。ではルールに従った改正を何故履行して来なかったのでしょうか?
市自らが編集委員会を設けて市史を編集しているのですから、当然この解釈をもって少なくとも2回は改正すべきでしたよね?


旭川の人さんは、ルールの話ばかりおっしゃって、肝心な事には何一つお答えになっていません。
>「旭日」の記述は自治体史としては誤り
というのも全く説明になっていません。
あたかも旧市史の「旭日」という記述そのものがルール無視の違法であるかのごときにしか受け取れません。
では新市史での「日象」の記述が改定対象にならないのはやはり自治体史として誤りなのですか?


要するに旭川市は、徽章の解説文においては旧市史のみならず新市史の見解も、両方とも規例集に反映させていないという事です。
強いて言うなら昭和6年発刊の『旭川市史稿』に記述された日章を使い続けているという事なのかな。
つまり、規例集における徽章の解説文は市史とリンクしてるわけではなく、当然そのまま放っておいては改訂とはならない訳ですよね。
旧市史の旭日の記述が誤りだからとか、そんなおかしな理由ではないわけです。
あくまで改訂するしないは市の意向次第です。
言い方悪いですが、徽章の解説文をどうするかは市の勝手で、2度に渡る市史の解釈変更後も更新をサボって来たという事です。
つまりこの事が、結果として徽章の解釈における旧市史の「旭日」を飛ばす事になり、新市史の「日象」についても未だ反映されずにいるという事だと思います。

 

自治体史ですから・・・

 投稿者:旭川の人  投稿日:2018年 7月24日(火)19時03分17秒
返信・引用 編集済
  >うーん、、それもまたおかしな話ではありませんか?
>市の例規集に改正記録がないから旧市史の記述は誤りだと?

改正の痕跡が無いということは、「旭川市徽章」については当初から「北斗星に赤色日章」であったのでしょう。
既に旧市史発行以前から市の意思決定として公に決定告示されている規定があるのならば、その文言を間違いなく使用するのが「自治体史」としては正解です。
史料批判以前に、外形的にそれ以外の書きようがないということです。

>しかも、市の公的機関である市史編集委員会が編集した記述や史料が正しいかどうか、まして正解」である事を検証できる人間が他にいるのですか?
>いるとすればそれは「正解」ではなく「政治的判断」をする人ではないでしょうか?

市の例規類集については、荒っぽく例えると六法全書のようなものでしょうか。
掲載されている内容は政治的に揉まれた後に、決められたルール(例えば議会の議決など)を経て最終的に決定し、告示等がなされたものが掲載されています。
ですから、既に「政治的な判断」終了後の自治体としての公式の「決定」しか記されていません。また、当然に文言の誤りは許されません。

条例などの個々の条文の「解釈」が争われることはありますが、条文の言葉自体を別のものに置き換えるということはあり得ません。もし時代の要請等で変更が必要な場合は、決められたルールを経て改正しなければなりません。
徽章についても当然同様で、規定されている言葉自体は改正の手続きを経なければ、別の言葉に置き換えることはできませんし、徽章を市として説明するなら規定どおり説明すべきでしょう。

例えば「旭川市例規類集」第1章 通則  第1節 市制 「市民憲章」
http://www1.city.asahikawa.hokkaido.jp/files/soumu_soumu/d1w_reiki/335909100920A00000NH/335909100920A00000NH/335909100920A00000NH.html
これを説明するとして、任意の単語を意味が微妙に異なるものに置き換えることはあり得ませんよね。

以上から旧市史本文の「旭日」の記述は自治体史としては誤りといえるでしょう。
 

訂正とお詫び

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 7月24日(火)00時13分4秒
返信・引用
  私はここまで旭川の徽章について、『旭川市史』では旭日、『新旭川市史』においてこれを日章に書き換わったと説明して来ましたが、
これは私のとんでもない記憶違いでした。
『新旭川市史』でも実は日章の言葉は使っておらず、無難に「日象」を使っています。
「日章」の言葉を使用しているのは、旭川市のHPをはじめとする広報であり、
これを『新旭川市史』の記述と思い違いしておりました。

訂正してお詫びいたします。


つまり、旭川市は旧市史にも新市史にも表現されていない「日章」を独自に使っている事になります。
どういう事でしょうね?




 

Re: またしても言葉足らずで。。。

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 7月23日(月)20時49分45秒
返信・引用 編集済
  > No.1495[元記事へ]

旭川の人さんへ

うーん、、それもまたおかしな話ではありませんか?
市の例規集に改正記録がないから旧市史の記述は誤りだと?
しかも、市の公的機関である市史編集委員会が編集した記述や史料が正しいかどうか、まして「正解」である事を検証できる人間が他にいるのですか?
いるとすればそれは「正解」ではなく「政治的判断」をする人ではないでしょうか?

私はてっきり新旧問わず、市史に記述された内容は市の公式見解として一歩もはみ出ることなく反映されるものと思ってましたよ。
あんまり詳しくはないけれど、例規集の徽章の説明って、デザインに変更がない限り、解釈のみ現在のものを記しているという事はないんですか?
そうでもなければ昭和30年代に発刊された旧市史の記述は、発刊後ただちに何者かによって誤りの烙印を押され、新市史発刊までの何十年間も無視されていた事になりますよね。
市が発刊する市史の記述にいちいち検証を加える必要があるならば、市にとって市史っていったい何なんですか?
その割には『旭川80年のあゆみ』のような市の刊行物には旭日がそのまま使われてますが。

 

またしても言葉足らずで。。。

 投稿者:旭川の人  投稿日:2018年 7月23日(月)02時01分0秒
返信・引用 編集済
  単なる誤り というのはネット上の旭川市例規集を見る限りは、旧市史の書き手が当然行わなければならない資料の確認を怠り、誤った記述をしている可能性が高いという意です。先にも記しましたが条例規則等で規定されている事項については、編集委員の解釈では無く、当然「正解」を書かなければならないですよね。徽章は市旗にもリンクしているのでなおさらです。
プロセスとしては、
1 過去の紙で残っている条例規則集(というか条文を確認できる資料)を再確認
2 その結果、例えば戦後一貫して条文が改められていない場合
3 旧市史の記述は市の歴史書としては不正確な記述といえ
4 逆に新市史は正確な記述をしている
と判断できるのではないでしょうか
上記を経て新市史が何らかの意図により説明を微調整したのか否かが明確になるでしょう。
これも繰り返しになりますが、ネット上の旭川市例規集では徽章について改正が1度も行われていないことになっています。が、やはり紙での確認は必要になると思います。
 

Re: 了解です

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 7月23日(月)01時22分58秒
返信・引用
  > No.1493[元記事へ]

旭川の人さんへ

『旭川市史』第一巻474ページに「旭川の徽章」について記述されています。
失礼ながら、読んでもいないのに「単なる誤りの可能性が高い」というのは何か根拠があるのですか?


 

了解です

 投稿者:旭川の人  投稿日:2018年 7月23日(月)00時47分15秒
返信・引用
  > No.1492[元記事へ]

momongaさんへ

なるほど、了解しました。
ところで、「旭川市史」に旭日と記述があったとしたら(何巻の何ページでしょうか?)、
それは単なる誤りの可能性が高いように思われます。

市旗などと同様に徽章についても旭川市の条例規則の内に入るものであり、
具体的には
http://www1.city.asahikawa.hokkaido.jp/files/soumu_soumu/d1w_reiki/144909100629A00000NH/144909100629A00000NH/144909100629A00000NH.html

市の歴史書として叙述するならば、(条例規則は法令ですから)ここは正解を書かないとおかしな事になりますし。
この場合新市史は恣意的に記述を変えたのではなく、正解に改めたということになります。
ネット上では改正の記録はありませんが、過去の条例・規則集を確認しないと断言できませんがね。

> 旭川の人さんへ
>
> 確かに「本来は」という言い方は誤解を招いたかもしれませんので訂正いたします。
> 正しくは『旭川市史』において、です。
> それが『新旭川市史』では変えられたという意図です。
> マニアックさんとのやりとりの中で「軍都コンプレックス」を説明する上でそういう表現をしました。
>
>
 

Re: んんん?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 7月23日(月)00時36分7秒
返信・引用
  旭川の人さんへ

確かに「本来は」という言い方は誤解を招いたかもしれませんので訂正いたします。
正しくは『旭川市史』において、です。
それが『新旭川市史』では変えられたという意図です。
マニアックさんとのやりとりの中で「軍都コンプレックス」を説明する上でそういう表現をしました。

 

んんん?

 投稿者:旭川の人  投稿日:2018年 7月23日(月)00時15分40秒
返信・引用
  > No.1476[元記事へ]

論点がズレてきているように感じます。
管理人様の↓の発言についての質問です。
市史の解釈の話ではなく、管理人様の

> 大正時代に制定された旭川の徽章の説明も、現在では「北斗星に日章」となってますが、本来は「北斗星に旭日」です。

について、「本来」を確認できる史料は存在するのだろうか・・・という点でなのですが。



momongaさんへ

> マニアックさんへ
>
>
> なるほど、「軍都コンプレックス」とは当を得た言葉ですね。(^^)
>
> そうなんです。
> 旭川は、自らをかつての軍都と称しながら、その実、それをボカそうとしてきた節があります。
> 地名由来がいい例で、旭川の名にはアイヌ語意訳と大日本帝国に縁ありとする2つの意図が含まれていますが、もっぱらアイヌ語意訳のみしか触れられません。
> 常磐公園入口にある永山武四郎の像は軍服を着てませんし、
> 大正時代に制定された旭川の徽章の説明も、現在では「北斗星に日章」となってますが、本来は「北斗星に旭日」です。
>
> 建物に限らず、旭川の歴史を紐解いて行くと、随所にこういった隠匿を施されている事が見受けられます。
> おそらく、師団通りを平和通りに改名したように、意識して旧軍のイメージを排除しようという時期があったせいではないかと私は思ってますが、
> 革新思想に限らず、一般市民にもそういう意識があったのは確かなわけで、
> そういう意味で「軍都コンプレックス」という言葉の方が適切かもしれませんね。
>
> ただ、私が思うに、もういい加減このコンプレックスから抜け出して、旭川の歴史を本音で語るべきだと考える次第です。
> (実際には今の市民の大半はコンプレックスなど持ってる世代と思えませんが、市史が旧来のコンプレックスを抱えたままです)
>
>
> ちなみに私は、五十嵐公三氏の最大の功績は、偕行社を残した事だと思っております。
>
>  
 

Re: ん?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 7月23日(月)00時05分56秒
返信・引用
  > No.1488[元記事へ]

旭川の人さんへ

元々の奥田町長の素案に記されているのは手書きの「日象」です。
この解釈が分かれているのであり、どちらが正しいとかではありません。

問題は、『旭川市史』にて戦後長らく旭日とされていた解釈が、日章に変わった事への疑問ではないでしょうか?


 

Re: マニアックさん

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 7月22日(日)23時55分12秒
返信・引用
  > No.1485[元記事へ]

正直申し上げてマニアックさんの言われている事は本質から外れております。
条光があるとかないとか、軍事的な事を排除とか、神社の社紋がどうのこうのとか、全く関係ありません。

私は『旭川市史』と『新旭川市史』との徽章に対する双方の市史編集委員の解釈の違いを言っているのであり、
マニアックさんご自身が指摘された「軍都コンプレックス」の存在について語っているつもりです。

旭日に対するマニアックさんの想いは理解できますが、
ここではマニアックさんの個人的デザイン感覚と解釈は必要ありません。
あくまで、市史に記述された文言を持って議論される事を望みます。


 

ん?

 投稿者:旭川の人  投稿日:2018年 7月22日(日)23時34分53秒
返信・引用
  urlを変に貼付けてしまいました。
> 私の疑問は、”新旭川市史の時代”になって、何故また日章に変えたのか?という事なのです。
シンプルにもともと日章であったからではないでしょうか。

また、そもそもの
>現在では「北斗星に日章」となってますが、本来は「北斗星に旭日」です
「本来」を説明可能な同時代に近い史料が存在するのでしょうか?

 

便利な時代。。。

 投稿者:旭川の人  投稿日:2018年 7月22日(日)23時20分41秒
返信・引用
  旭川市史稿の該当ページ。うろ覚えでしたがGoogleブックスで見つけられました。


https://books.google.co.jp/books?id=m8gBAz-qZugC&pg=PT570&dq=旭川市史稿%E3%80%80北斗&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjJo42H96_cAhVRFYgKHVlABZwQ6AEIJDAA#v=onepage&q=旭川市史稿%E3%80%80北斗&f=false
 

Re: 言葉足らずで。。。

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 7月22日(日)23時18分52秒
返信・引用
  旭川の人さんへ

おっしゃる通り、戦前の『旭川市史稿』では逆に「日章」の言葉を使ってます。
ただ、戦前に旭日の言葉を使う事をはばかっていたなんて事は有り得ないと思いますよ。
要するに、旭日も日章も、両方とも戦前戦後を通じて抵抗なく使われていた言葉だという事に尽きると思います。
ですから『旭川市史』でも旭日の解釈が成されたのだと思いますし、
それこそ五十嵐市長の時代ですら市の刊行物で旭日が使われていたくらいですからね。

私の疑問は、”新旭川市史の時代”になって、何故また日章に変えたのか?という事なのです。
 

Re: マニアックさん

 投稿者:マニアック  投稿日:2018年 7月22日(日)23時09分23秒
返信・引用
  > No.1483[元記事へ]

momongaさんへ

> 奥田町長の「日象」の意図はともかく、この世代の人々にとってごく普通の表現である旭日を、旭川に掛け合わせて使っただけではないでしょうか。

軍事的なことは、排除してみるのがよいでしょう。デザイン図案は正直です。
日章と旭日は、違う図案ですし、戦前の市長は、どなたも使い方のプロトコルを知っていて当然です。
区別して使うのが当然で、だから日章旗と旭日旗の二つが存在します。デザインは誤解されないことが極めて大事なことです。ですので、旭日には条光をいれますし、条光の本数も意味があります。

条光のないものを旭日と解説するのは、少なくとも市史の正しい解説ではありませんよ。そう解説すると、条光の入っている方をどのように説明いたしますか?
元々、日章(日象)なものを、デザインやマークの使い方に詳しくないどなたかが後から旭日としたのでしょう。

この旭川のマークは、町長さんのデザインなんですね。とても素人のデザインとは思えないくらいに洗練されよく考えられられたデザインです。旭日をイメージされているのであれば、どこか図案に残すでしょうね。強引に日章と誤解される図案にはしないでしょう。

> むしろ余計な気を使ってこれを修正した『新旭川市史』の戦後世代の編集委員の方に、マニアックさん言われる「軍都コンプレックス」を感じないでしょうか?

軍都コンプレックスはまったく感じません。旧にしろ新にしろ随分ズサンで、少し斜に構えてみなければならないものなのだなぁと思いましたが。
上川神社の社紋は、朝日にかけて「山桜花」です。ご存知ですよね。上川神社の名前の文字に旭川が含まれていない理由、忠別神社でもございません。でも山桜花で旭川。山桜花を社紋にしている神社は珍しいですから、みなさん由緒は気になります。本居宣長の和歌を教えてもらい、納得する。スマートな図案ですね。

> 申し訳ありませんが、これはいったい何をおっしゃりたいのかよく分かりません。

そうかもしれませんね。なぜ北京を設けたかったかの本質ですしね。いろいろな考えの方もありましょう。

 

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