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川島洋一先生

 投稿者:マニアック  投稿日:2018年 7月15日(日)22時49分59秒
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  > No.1472[元記事へ]

momongaさんへ

momongaさんの記述をみまして、現在の北鎮記念館の外観デザインに込めた川島先生のお気持ち・メッセージがわかりました。なるほど、ありがとうございます。
冗談好きで毒舌な先生でしたが、極めて真面目でシャイな人情派。敬虔なクリスチャンで、教会建築が専門。旭川がほんとに好きで、旧軍施設も徹底して調べる。

記念館の歴史は、推論を入れるにせよ保守・革新のような安っぽい話を書くべきではないでしょうね。

あえて確信犯で自衛隊の北鎮記念館のデザインを旧陸軍の兵器庫にした意図は?。古いほうの記念館だって結構かわいいデザインじゃないですか。旧軍施設を選ぶにせよ数ある中でもよりによって兵器庫ですよ。防衛施設局はずいぶん肝を冷やされたでしょうに先生も随分いじわるですね。と質問したところ、大笑いされ、はぐらかされましたがね。

 

Re: 旭川の洪水と曙遊郭

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 7月12日(木)21時11分20秒
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  > No.1470[元記事へ]

マニアックさん、はじめまして。

旧北鎮記念館は、私も「馬屋」と称してますが、実際には一度隊舎として再利用されたものを遠軽駐屯地から持ってきたみたいですね。
戦前の厩舎を、人間が使う隊舎として再利用したというのも、それはそれで今となってはすごい話ですよね。

この頃の時代、自衛隊というのは今と比べても非常に肩身の狭い存在で、
それに加え、旭川においては革新(社会党)市長が誕生し、一時は旭川駐屯地移転計画まで飛び出したくらいです。
駐屯地の周辺には旧師団司令部はじめ旧軍時代の施設がまだ残っていましたが、市の管理となっており、北鎮記念館としては使わせてもらえなかったそうです。
こういった社会背景を指して「馬屋に押し込められてきた・・」という表現になっています。
こんな不憫な時代を過ごしてきたせいか、自衛隊には節約精神が根付いているのでしょうね。
 

Re: 旭川の洪水と曙遊郭

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 7月12日(木)20時55分17秒
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  > No.1469[元記事へ]

さとうさんへ

たいへんありがとうございます。
旭橋の軍人勅諭については、その色が当掲示板でも話題になりました。
吉田初三郎が描いた鳥瞰図では赤(えんじ)で描かれているにも関わらず、証言では緑だったり、180度違うんですね。
はっきり色を覚えている方がほとんど見つからなくて、
結局出した結論は、青銅製がために初期はえんじ色、だんだんくすんだ黒っぽい色となり、最後は錆びて緑青が浮く、というものでした。

ですから、
>「旭橋には銅が錆びて汚い緑色になったプレートが掛っていた」
といった具体的な状況はぴったり合致しており、推測を補完してくれる証言として貴重です。
戦前の記憶を語れる方がどんどん減りつつあります。
若いうちに聞いといてくださって感謝です。
 

Re: 旭川の洪水と曙遊郭

 投稿者:マニアック  投稿日:2018年 7月11日(水)23時37分2秒
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  > No.1465[元記事へ]

はじめまして
やきそばさん
貼り付けの画像は、きっと、北鎮記念館で行われた「旭川の歴史展」のプレゼンボードなのかなぁと拝見いたしました。過去、記念館のWEBにもアップされており、当時のままの資料ではないですが、現在も「特設ページ」に残っていますね。goドメインへの掲載です。どなたの作品だったかは忘れましたが、手作り感満載?の資料。でも1ページづつわかりやすく丁寧に作られていますね。地道に掲載し続ける自衛隊さんも粋です。やはり先日、北鎮記念館で、春光地区の旧軍官舎の残存状況を徹底的に調べ上げた教育大の学生さん?の資料が展示されていました。なかなかの力作でした。さすがに来訪者限定。webには載せないでしょうね。ということで訪問ついでに写メをしちゃいました。

momongaさん
旧北鎮記念館は、遥か100km離れた遠軽駐屯地から移築した元厩舎を改造した隊舎ですが、遠軽駐屯地の親睦団体の名称は「馬小屋(灯)会」。同地の駐屯地史料館は、今も馬小屋時代からのものを大切に活用し、隊の誇りのひとつになっていますね。また、真駒内駐屯地に参りますと、サイロ隊舎というのもありまして、これも大事に駐屯地史料館として利用されています。屈強さに併せ、モノを大切にする。主婦も真っ青な節約を徹底するというのは、古くからの伝統だそうです。やむをえず・押し込められてきたというのは、大切な遺品を寄贈してくださった方に対しての師団長さんのお言葉としては至極まっとうなのでしょうけど、そればかりが強調されると、何か歴史の流れの説明がつきにくい部分が出てくるようにもみえました。今回の豪雨被災地派遣はETC割引を使うのでしょうかね。災害のたびに出動の自衛隊さん。貢献も大事で人知れず節約も大事。記念館の隊員さんはこっそり教えてくれるかもしれません。
 

Re: 旭川の洪水と曙遊郭

 投稿者:さとう  投稿日:2018年 7月11日(水)21時26分37秒
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  > No.1468[元記事へ]

momongaさんへ

> この情報は、年代的にどういった方からの情報なのでしょうか?
40年近く昔の話で曖昧なのですが、情報ソースはおそらく祖母、或いは小学校の担任だと思います。
祖母は明治40年生まれ、担任は昭和10年頃の生まれだったと記憶しています。

他におぼろげに記憶しているのは
・10円玉の錆よりも黒かった
・戦争に関係するものだったので、戦争が終わったら外された
程度です。

何時の時点で錆び色だったのかはわかりませんが、あまり奇麗ではない物として聞きました。

あまりお役に立てる情報は持っていなくて・・すいません。
 

Re: 旭川の洪水と曙遊郭

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 7月10日(火)21時22分35秒
返信・引用
  さとうさん、はじめまして。
書込みありがとうございます。

そうか、、やきそばさんの1枚目の写真は「写真が語る旭川」にも載ってたんですね。
私もこの写真集は持ってますのでさっそく確認しましたが、確かに載ってました。
ただこの写真集が発刊されたのはつい3年ほど前の事ですから、やきそばさんが昔入手したというソースは別物でしょうね。
でも情報ありがとうございます。


> 子供の頃「旭橋には銅が錆びて汚い緑色になったプレートが掛っていた」と聞いた気がします。

この情報は、年代的にどういった方からの情報なのでしょうか?
たいへん失礼ながら、さとうさんの年齢も気になりますが、
もしこれが軍人勅諭を指しているとすれば、戦前の旭橋の状況を明確に覚えている方だとお見受けします。
当掲示板のログをご覧になったのであればお分かりかと思いますが、
軍人勅諭に関しては明確な証言が得られず、結局判らず仕舞いの事が多いのです。

もし他に情報をお持ちであれば是非お知らせください。m(__)m

 

Re: 旭川の洪水と曙遊郭

 投稿者:さとう  投稿日:2018年 7月10日(火)17時35分32秒
返信・引用
  はじめまして。
旭川市内の昭和初期の写真、地図を探しているうちに、こちらに辿り着きました。

やきそばさんへ

> それがどの資料だったのか思い出すことが出来ません。(※画像に書き込まれているキャプションも私が付けたものではなくPDFに記載されていたものです)

「写真が語る旭川(北海道新聞社)」97Pに掲載されている写真が、一枚目の写真と同じモノの様な気がします。
元ネタは「上川支庁管内大洪水写真帳」となっていました。
御参考になれば幸いです。



今は旭川を離れていますが、小学生の頃は旭橋、常磐公園界隈は遊び場でした。
ロッキングカラムの件、温度変化で動作しているのを観察しに行った記憶が有ります。
懐かしいですね。
子供の頃「旭橋には銅が錆びて汚い緑色になったプレートが掛っていた」と聞いた気がします。こちらで話題に上っていた、軍人勅諭の事だったんでしょうかね。
 

Re: 旭川の洪水と曙遊郭

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 7月 4日(水)23時29分5秒
返信・引用 編集済
  やきそばさんこんばんは!
さて、ご無沙汰という事ですが、以前は何ていうハンドルネームだったでしょうね? ^^;

今回の旭川の大雨、観測史上最大の雨量という事でしたが、
大規模水害と言うには報道が少々大袈裟なような気がします。
確かに川はかなり危険な状態でしたが、犠牲者が出たわけではなく、実際に冠水したのは一部地域だけでした。
永山新川や愛宕放水路など、市内を流れる河川の治水は各段に進化しており、
昔のように市街地のあちこちが水没したということはありません。

それはともかく、たいへん珍しい写真をありがとうございます。
この写真は、私も見た事があるようなないような・・・たぶん初めてだと思います。
曙遊郭は、第七師団建設時に大量に入り込んだ工夫相手が目的の私娼が始まりと言われ、その後、公娼として認められた遊郭街です。
中島遊郭よりも古い歴史を持った遊郭街という事ですね。
現在もここの道路はやや広めです。
この写真は、旭川区となっていますから、大正時代のもののようですね。

 

旭川の洪水と曙遊郭

 投稿者:やきそば  投稿日:2018年 7月 3日(火)21時25分33秒
返信・引用
  大変ご無沙汰しております
10年ぐらいに書き込みをさせて頂いたと記憶しております。
当時は旭川の郷土史に物凄く興味を持っていて、旭川に帰省する度に市立図書館の郷土資料室に入り浸る日々を送っておりました
そんな熱中も一段落し、今は都内で平凡に暮らしているのですが、先程、某匿名掲示板を覗いていたら旭川が大規模な水害に見舞われて大変だということを知り驚きました。

水害といえば遥か昔、中島遊郭と曙遊郭の資料を片っ端から検索していた時、偶然、曙遊郭が洪水に見舞われた時の画像を拾ったのを思い出しました。
この画像、どなたかが郷土資料としてまとめたものをPDF化してアップロードしていたものを、該当部分だけキャプチャーしたということだけ記憶しているのですが、
それがどの資料だったのか思い出すことが出来ません。(※画像に書き込まれているキャプションも私が付けたものではなくPDFに記載されていたものです)

曙遊郭は中島遊郭と比較しても資料が極めて少なく、その全貌が分かる画像は全くといって見つけることが出来なかったのですが、
あの狭いエリアにこのような街が形成されていたのか?と思うと感慨に浸ったものでございます。
 

「高畑利宜のイシカリ探検とアイヌ美術の世界」

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 6月17日(日)19時15分57秒
返信・引用 編集済
  滝川美術自然史館で昨日から開催されている企画展へ行って来ました。

正直申し上げて、旭川でもたまに開催される企画展なんかよりずっと充実してましたね。
高畑利宜にテーマを絞っているということもあるんでしょうけど、さすが地元という感がしました。
会場は結構なスペースがあって、2/3が高畑関連、1/3がアイヌ美術関連と古地図等でした。


高畑利宜は、上川道路の5つの駅逓開設以降、結果的に中間の滝川に住み着いて町の開基功労者となりましたが、
元々は岩村通俊の意に沿って自ら未開の上川の調査に赴き、上川道路の建設に従事し、農作試験場(後の駅逓第一美英舎)を建て、旭川の礎づくりにも多大な貢献をした人です。
ゆくゆくは上川に居を構える意図だったとも言われています。
旭川において、この人の名がほとんど語られず知られていないというのは市史上の欠陥ではないでしょうか。

会場を出る時のアンケートには「旭川でも開いてほしい」と書いておきました。
それにしても、滝川にはこんなに立派な施設があるんですね。




 

ちなみに・・

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 6月 3日(日)20時33分37秒
返信・引用 編集済
  今日の午後3時過ぎ、天気予報にはまったく無かった雨が降りましたね。
明日から護国神社祭、音楽行進との狭間に涙雨、という事でしょうか・・・

 

行ってまいりました

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 6月 3日(日)20時16分10秒
返信・引用
  音楽行進、最高の天気に恵まれました!
もう何も言うことはございません。行かれなかった方はちょっとだけ雰囲気を味わってください。



 

音楽大行進

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 5月30日(水)20時22分44秒
返信・引用
  毎年恒例の話題の時期がやってまいりました。(^^)v

今週6月2日の土曜日、北海道音楽大行進が行われます。
今年は護国神社祭本祭日より3日早い開催ですね。
一部の天気予報では曇り&傘マークも表示してますが、殆どの予報では曇りのようです。 ← かなり疑心暗鬼
もしかしたらパラつくかもしれませんが、少なくとも季節外れの低温はなさそうです。

昨年は雨こそ降らなかったものの、気温が低くて見てる間に体が冷え切りましたし、
一昨年はご存知の通り、史上初の悪天候(雨+低温+雷)による前日中止決定でした。
今年は是非とも良いコンディションの中で演奏を楽しみたいものです。


それはそうと、この音楽行進の日程を未だに6月第一土曜日固定と思われている方が多いようです。
私も変わったのを知らずHPに掲載し続け、5年前に実行委員会の方からメールで指摘された事がありますので偉そうな事は言えませんが、
かなり以前からその年ごとに日程調整するように変わっているようです。
殆どの場合は第一土曜日となりますが、確かに第二土曜日に開催した事もありますよね。

いつの間に?という感が無きにしも非ずですが、
この音楽行進は、PRもしなければ一般向け広報があまりにも貧弱過ぎだと思います。
市民であれば護国神社祭が近づけば連想して音楽行進の事も思い起こしますが、それは市民に限った話です。
北海道を代表するに値する規模と伝統あるイベントなのですから、もっと対外的にアピールすべきではないでしょうか。
せっかく伝統を曲げてまで土曜日開催にしたのは、けっして参加者のためだけではないはずです。


 

Re: 再び観魚橋

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 5月20日(日)11時11分21秒
返信・引用
  かんじさんへ

観魚橋の詳しいレポートありがとうございます。
雪が無くなり、春の陽気ともなるとやはりブラタモリよろしくムズムズしてきますよね。(^^)
私は先週埼玉へ行ったついでに、以前ブラタモリでやってた伊香保温泉の石段が見たくて群馬まで足を延ばして来ましたよ。


私もこの一番古い橋をマジマジと見た事は無いのですが、レンガの橋脚が残ってるとは思いませんでした。
春志内トンネルができる前までは、国道12号線は真ん中の橋を渡っており、まだ高速も通ってない時代なのでよく通りました。
その頃は「古い橋がまだ残ってるんだなぁ」などと漠然と横目で見ていただけでしたが・・・
その後今の橋ができたわけですが、新旧3代の橋が残ってるというのは非常にレアですよね。

さすがに上川道路の初期の頃は土橋や木橋だったでしょうが、
旭川でレンガの生産が本格化したのは鉄道開通や師団建設のあった明治30年代ですから、それ以降に造られた橋脚かな。
おそらく、度重なる石狩川の増水が関係してるでしょうね。
かなり低い位置に架かってますから木橋だと橋脚ごと簡単に流されてしまう。
すぐ復旧できるように橋脚だけでも残るようにレンガで組んだとか?
橋脚の”穴”は水没した際の水の抵抗を減らすためとか?
かんじさんがおっしゃるように、橋桁までレンガのアーチ橋だった可能性もありますよね。

現物残ってるだけに興味をそそられる橋です。



PS:そういえば旧神居古潭駅のところにある線路跡に架かる橋の橋台もレンガでした。

 

再び観魚橋

 投稿者:かんじ  投稿日:2018年 5月16日(水)10時38分13秒
返信・引用 編集済
  雪が消えて新緑が出始めた今日この頃、景色としては決して良い時期ではありませんが、この時期だけの良い点があります。
それは木々に葉が生い茂ると見えなくなってしまう景色が葉に邪魔されることなく見えることです。
昨年、私はひょっとして明治期の遺構ではないかという観魚橋を探査してきましたが、その時には入ってゆくのも大変だったし、橋も木々に隠され十分に見ることができませんでした。
そこで先日、草木が生える前のこの時期に再び観魚橋の探索に行ってきました。
現在の国道12号線、自転車道になった旧国道、そしてその下に並ぶ上川道路?という3つ道路にかかる観魚橋は永田方正の北海道蝦夷語地名解にも登場する歴史的な橋であり、この橋を調査する事はそのルーツに繋がる事にもなります。

今回、草木が無かったおかげで3つの橋が並ぶ勇壮な姿を写真に収めることができた事、一番古い橋の上に立つことができた事、そして河原に降りてレンガの橋脚を直に見ることができた事が収穫でした。

3代に渡る観魚橋という言い方をしましたが、実はレンガ橋脚の前前観魚橋はかなり大幅な改修を受けています。
それはレンガ橋脚を囲むようにコンクリートで補強され、橋げたもコンクリート製のしっか
りした桁がかかっており、これは明らかにレンガ橋脚とは時代を異にするものです。
つまりここには4代に渡る観魚橋の痕跡がある事になります。

レンガ橋脚はイギリス積という積み方がされていますが、これが明治20年以降に見られる積み方で、強度が強く橋脚のようなものはこの積み方をされたようです。
旭川まで鉄道が通ったのが明治31年であり、この時に鉄道関係にはトンネルや鉄橋の建設に大量のレンガが使われました。
レンガ積の橋脚はこの頃のものと想像は出来ますが年代特定は難しいですね。
レンガ橋脚に対して両側の橋台部分はコンクリート製であることも、この橋が改修されている事を物語っています。
コンクリートでの改修がいつ行われたのかもわからないのですが、それほど大きくないにも関わらず橋脚を残して橋を作り直したことになります。

そしてこの橋脚には特徴がありますね。
橋脚の下中央部にはアーチ型の穴があいています。
これは京都の南禅寺にある琵琶湖疏水の有名なアーチ橋レンガ橋脚に見られますが、力学的に間を抜いても影響が少ないので材料を減らすために穴をあけたのか、装飾的な意味で開けたのかわかりません。
ただ、アーチ部の頂上に要石があるのですが、観魚橋の要石は比較的大きくしっかりと装飾の意味を持たせています。
また、橋脚上部には凸凸とした出っ張った石が並んでいますが、これが珍しいです。
これは有名なレンガアーチ橋である碓井川橋梁に見られる突起であり、この突起を利用してさらに上部のアーチ型レンガを積み上げたとあります。
観魚橋の突起がこの為のものならば、ひょっとしたらコンクリート改修前には観魚橋はアーチ橋だった可能性さえあります。
いずれにしても、下部のアーチ構造と上部の突起ぶが装飾的な味も出しており、単にレンガを積んだというだけではありません。
この橋脚をわざわざ残した理由の一つかも知れません。

この橋が残った理由は、単に取壊し費用がかかるからかもしれませんが、私の様なものが見るとそこに歴史を感じ、思いをはせることができる貴重な遺構に見えます。
ひょっとしたら壊すのは惜しいと思った人達の想いがこの橋を存続させているのかも知れません。
旧国道が残ったのは自転車道としての再利用が目的でしょうが、偶然が重なって3つの観魚橋がいまここにあります。
この風景には100年を超える歴史が重なり合っています。
整備すれば立派な観光資源にもなりかねない重要さをそこに感じることが出来ます。
ここまで残ったら逆に今後は積極的に残してほしいですね。
 

Re: 仏檀の宮川、家具の宮川の件

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 5月 1日(火)22時29分28秒
返信・引用
  まろんさんへ
そうですか、元従業員さんでしたか。

宮川本店は「旭川の歴史的建物の保存を考える会」の建築賞を受賞している建物です。
旭川において、貴重な建築物の一つであることは間違いありません。
ただ、おっしゃる通り生かすも殺すも経営者の一存、といいますか、やっぱり経営的経済的事情なんだと思います。
建物を残したいのは山々だけど・・・というのが実態なのでは?
傍から「残すべき!」と唱えるのは簡単ですが、誰もお金を出してくれるわけではありません。

昨年同じく建築賞を受賞された上川倉庫の井内治弥さんがその事を指して、
「残すためには建物を使い続けるしかない」旨のことをおっしゃってました。
その言葉と実践にはすごい重みがありましたね。
歴史ある建物のオーナーに共通した問題ではないかと思います。


あ、ちなみに「旭川の歴史的建物の保存を考える会」は、あくまで「考える会」であって「唱える会」ではありません。

 

仏檀の宮川、家具の宮川の件

 投稿者:まろん  投稿日:2018年 5月 1日(火)14時57分13秒
返信・引用
  momongaさんへ

>実は私、元従業員なんです。
内部事情を知ってるだけに、旭川市民の皆様があの建物がなくなるという、惜しい気持ちを多くのお客さんから言われて、凄く辛かったです。閉店させるのは、あくまでも経営者の一存です。
私たちにはなすすべもなく…でした。
外観の建物は立派に見えますが、中はかなりの老朽化でしたので、中の改装さえしてくれたら老若男女問わずに訪れるお客さんも多かったかな~と思っていました。
どんどん昔からの建物がなくなり、旭川は、とても薄っぺらい街になりつつありますね。
地味な街だけど、私は生まれも育ちも旭川で大好きな街だからこのままで、大丈夫なのかこの先が不安ですね。
人口も凄いスピードで減っているし、近い将来北海道第2の都市から降格してしまう気がしてなりません。
> 余計な話をすみません。失礼しました(*_*)
>
>
>
 

ちょっと一服

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 4月26日(木)21時08分15秒
返信・引用
  ここのところ続いている陽気で一気に花が開いたようです。
22日に撮った画像ですので、今がピークですね。
 

Re: またまた北海道経済誌に掲載!

 投稿者:かんじ  投稿日:2018年 4月25日(水)16時18分17秒
返信・引用
  momongaさんへ

ご紹介ありがとうございます。
皆さんも是非とも北海道経済を購入、または病院の待合室、銀行のロビーでご覧になってください(笑)
ちなみに原稿料は頂いておりません。掲載誌一冊だけ。
momongaさんがおっしゃるように決して新説ではありません。
これまでのmomongaさんの説の一部に、新たに見つかった永田方正の書簡の内容を加え整理し考察しなおしたものです。
特に「岡部方幾」という人間の存在を世間に知らしめる事により、地名の問題に関心を持ってほしかったというところですね。

内容が内容だけに、私への反応も微妙でして5ページもの内容を記事にしたということで「凄い!」という単純な反応がおおいのですが、中身は読みにくいとか、なかなか理解できないとか、そもそも旭川の地名の発祥が様々あるとされている事さえ知らない人が多いわけですから。
私もmomongaさんも、旭川の地名由来は沢山なんてない、もともと2つしかないのですが、「新説」ではさらに説が増えてしまった事になります。
「これは失敗だったかな」
「正説」だったでしょうか(^^;

但し北海道経済のようなメディアはそれなりに影響力はあるものの、正式な学術的な意味づけは持っていません。
本来であれば、日本歴史学会の会員となり学会誌に投稿する事で歴史学者の検証を受けることにより正式に認められてゆくものなのです。
そう言った権威のある団体の発する訳であれば、旭川市などの見解も変わるんでしょうけど。
私の様な素人郷土史家が経済誌に投稿した記事で、旭川市の解釈が変わるとは思えないですね。
逆に公的に歴史を扱う内部の方が(図書館の司書さんや博物館の学芸員さん等)が、自ら不要な説を削除し、新しい解釈を行っていただけるとありがたいのですが、、、。

従来の解釈を踏襲するだけでは、いつまでたってもおかしな解釈を続けているようで、滑稽ですらあります。


 

またまた北海道経済誌に掲載!

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 4月22日(日)20時10分33秒
返信・引用
  今月の北海道経済5月号をご覧になった方はおられるでしょうか。
【 新説「旭川の名付け親」考 】と題して旭川地名由来に関する記事がなんと5ページにも渡って掲載されています。
この調査をされたのは「旭川の歴史的建物の保存を考える会」の竹田完二さんとおっしゃる方です。

ん? 当掲示板の常連にも確か「かんじ」さんがおられますが、、、(笑)


まあ、ネタばらしをしますと、わたくしmomongaも一枚かんでおります。
かんじさんとは、昨年8~9月に行なったWikipediaの旭川・地名由来の書き換え以降、岡部方幾に関して共に調べておりました。


「新説」と紹介されていますが、そうではなく、現状認識の誤りを新たな補足資料をもって指摘したものです。
これまで知られていた資料だけでも従来アイヌ語由来説の矛盾は明らかなのですが、誰もそれを指摘しようとも認めようともしません。
当サイトのコンテンツに、「日の出づる川」のウソ・・・旭川の名の謎、がありますが、
その中の「日の出」は実はパクリ? が今回指摘した部分に相当します。

記事中では推論を極力排して事実の時系列的考察に特化し、まずは既成事実化している永田方正意訳説の大矛盾を突いています。
「旭川の地名由来はアイヌ語のチュプペッの意訳」と唱える方々は、その殆どが永田方正の意訳である事を前提としているからです。
また、旭川市の見解も、お役所らしくなかなかここから一歩も出ようとしません。

今回の記事では岡部方幾という異色の軍人にスポットを当て、かんじさんが”気を入れて”まとめてくださった内容が詳しく紹介されています。
長くなりますのでここではこれ以上紹介できませんが、詳しくは是非とも北海道経済をご覧ください。




 

Re: 仏檀の宮川、家具の宮川

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 4月19日(木)21時26分9秒
返信・引用
  まろんさんへ

情報書き込みありがとう。(^-^)

 

仏檀の宮川、家具の宮川

 投稿者:まろん  投稿日:2018年 4月18日(水)22時45分55秒
返信・引用
  どちらも閉店ですよ。
家具屋さんの閉店は5月の予定。

 

Re: 宮川仏壇店

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 4月 2日(月)20時47分49秒
返信・引用
  おゆきさん、書込みありがとうございます。
お久しぶりという事は、旭橋の軍人勅諭旭日章の話題の時に貴重な資料をUPしてくださったおゆきさんですよね?
どうもお久しぶりです。

老舗宮川本店の閉店、とても残念です。
私もあの建物だけは残してほしいと願ってますが、
先日の道新報道によれば、どうやら建物は取り壊すみたいです。
どんなに貴重な建物でも、壊すも維持するも結局は所有者の意思次第・・・
誰もお金を出してくれるわけではないので致し方ないところです。
旧岡田邸のように、建物に価値を見出す新たな所有者が現れる事を祈るしかなさそうです。

 

宮川仏壇店

 投稿者:おゆき  投稿日:2018年 4月 2日(月)03時18分48秒
返信・引用
  お久しぶりです。
大正6年 創業,今年で100年を迎えた老舗
宮川仏壇店が廃業しましたね。
家具店は継続される様なのですが
あの建物は、これからも残して戴きたい・・・ですね。
 

Re: 「旭川」再始動

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 3月 3日(土)22時08分55秒
返信・引用
  かんじさんへ

もし無視されるようであれば、それは要するに反論できる材料を持ち合わせていないという事だと思います。
と言いますか、元々自分でそこまで詳しく調べている方なのでしょうか?

高橋基さんですら論文中で岡部方幾に関しては良く分かっていないとしていますし、永田方正の命名と言うのもあくまで『だろう』に過ぎません。
それも自ら提示している資料にも関わらず時系列を全く無視した推論です。

判明している資料や出来事を時系列に並べるだけで、少なくとも永田方正のチュプペッ意訳説は覆ります。
つまり、かんじさんが示した通りで、永田方正の旭川命名というのはとっくに根拠を失っているのです。
この点、新旭川市史でも件の新聞記事を掲載していながら何故に疑問を呈しなかったのか不思議でなりません。

もし『大日本帝国等の意味に縁あり』という一文が気に入らない、という事で旧来からのアイヌ語意訳のみに固執しているとすれば、
それこそ私には何かのプロパカンダと思えてなりません。
史実を語る資格はないと思いますが、編集長がそうではない事を祈ります。

 

Re: 「旭川」再始動

 投稿者:かんじ  投稿日:2018年 2月26日(月)15時16分40秒
返信・引用
  > No.1445[元記事へ]

momongaさんへ

私は工藤編集長とは何度かお会いして、私の主張を紙面に反映させて頂いたことも2度ほどあります。
でも、旭川の地名はアイヌ語起源説を唱える完全なる高橋基さんよりの方です。
どうりでというか、リアクションは現在のところありません。
そっかぁ本丸に直接乗り込んでしまったのか、、、、、。

> チュプペッ意訳が永田方正によるものではないとなると根本的にその論理が崩れます。
そうなんですか?
それは困るでしょうね。
私にも返事をしにくい事でしょう。


> 私が何よりも重要視しているのは岡部方幾の次の言葉です。
>
> 『旧称の意義を存し且つ大日本帝国等の意味に縁あり』

これはあえて避けました。
これを避けても旭川を岡部方幾が意訳した事を認めさせることが第一だからです。
余計な拒否反応は正確な歴史には不要ですから。
同じく永山武四郎の存在も無視はできないのですが証拠がない以上憶測では限界があります。

> とりあえず、あさひかわ新聞の件は反応が楽しみですね。
これは無視されるかもしれないなぁ、、、。
 

Re: 「旭川」再始動

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 2月25日(日)15時16分1秒
返信・引用
  かんじさん、動き出しましたか。私はまだです。^^;

私自身は普段「あさひかわ新聞」は読んでませんし、もちろん編集者とも面識はありませんので、
この新聞が郷土史・旭川地名由来に関しどういった見解を持ってるのかは分かりません。
ただ、高橋基さんのような論調を一方的に扱っているとすれば、それは何が何でもアイヌ語信仰的な考え方に染まっていると思われます。

高橋基さんについては、以前にもこの掲示板で触れた事があるかもしれませんが、
滝川と同様、旭川についても永田方正がチュプペッの意訳をして名付けた、としている方です。
チュプペッ意訳が永田方正によるものではないとなると根本的にその論理が崩れます。
不思議な事に、岡部方幾や北海道毎日新聞・学友会誌の記事の存在を知っていながら、それをあっさり無視しています。
非常に綿密な調査をしていながら、時系列的な事実はパスしている・・・
重箱の隅を突き過ぎて大局的な見方ができないのか、意図的にそうしているのかは分かりません。

それはともかく、岡部(山室)方幾の経歴・人物像、特に永山武四郎との関係について、これ以上の資料が見つからないのが残念ですよね。
私も追ってみましたが、かんじさんと似たり寄ったりでした。
そうは言っても、やはり北海道毎日新聞の記事については新旭川市史にも載ってるくらいですから決定的事実ですし、それを補完する形の学友会誌の投稿も強力です。


私が何よりも重要視しているのは岡部方幾の次の言葉です。

『旧称の意義を存し且つ大日本帝国等の意味に縁あり』

語源をチュプペッとし、それを意訳したのは岡部方幾に間違いないでしょうし、永田方正はそれを追認したと思われます。
ただし、岡部方幾は単にアイヌ語の訳というだけではなく『大日本帝国等の意味に縁あり』としているのです。
アイヌ語意訳と併せた2つの意が命名者の意図であり、旭川の名の由来である事は疑いようがありません。
問題は「旭川」という漢字命名までが岡部方幾によるものかどうか、という点です。
岡部方幾は当初「日出川」と訳していたのが、新聞発表時点で「旭川」と変えています。
私はここに必ず永山武四郎が絡んでいると見ていますが、それを裏付ける資料が見つからないのが残念です。


とりあえず、あさひかわ新聞の件は反応が楽しみですね。


 

「旭川」再始動

 投稿者:かんじ  投稿日:2018年 2月22日(木)09時47分40秒
返信・引用
  momongaさん、私は再始動しました。
旭川の名前の起源についてメディアを引き込むべく、かなりの強敵と思われる「あさひかわ新聞の工藤編集長」に私の解説メールを送りました。

-------以下 直メール------------------
工藤編集長様

○○○○のかんじです。いつもお世話になっております。
今日は「旭川」という名前の起源について私の思うところを説明させてください。
編集長は「岡部方幾」という人物をご存知ですよね?
明治23年旭川開村当時、屯田兵司令部付曹長という立場にありながら、博学のアイヌ語言語学者であり、アイヌ民族研究家であり、学友会という当時の北大を中心とした自由民権運動に参加して機関誌にアイヌ民族研究を投稿し、博物学会の司会を務め、後に道庁の職員となった異色の人物です。

なぜこの人物の話をするかと言いますと、この人物こそが忠別(Chu-ppet)を旭川と訳した人物だからです。
そう断言する資料がありますので説明させてください。
一般に旭川の語源を語る時、当時のアイヌ言語学の大家「永田方正」の訳として紹介されることが多いですが、それは誤りで岡部方幾は永田方正に先んじて旭川の訳を行っている資料があります。
時系列が重要ですので日付を追ってご説明します。

【明治22年5月24日】
山室方幾が陸軍工兵曹長から屯田兵司令部陸地測量部に転科(資料有)

【明治23年1月】
自由民権結社北海道学友会機関紙「北海道(第九号)」(資料有)
山室方幾が北海道地名考という投稿で9つの北海道の地名をアイヌ語から意訳しています。
札幌、忠別、空知太、幌内太、石狩、琴似、手稲、夕張、幌向
このなかで【忠別】の意訳として「チュプは日或いは東、又は日出といふ意にしてペトは川の義なり、故に日出川或いは東川と訳するを適当とす」としています。
【空知太】の項では、永田方正先生は空知太を意訳して瀧川村となせり、とも書いています。
つまりこの時点で山室方幾は永田方正が各地のアイヌ語地名を調査している事も知りながら各地の地名を意訳して雑誌に投稿しているわけです。

【明治23年2月8日】
岡部方幾は北海道毎日新聞を訪れ上川離宮にふさわしい名前として旭川の名前を上げた記事があります。(資料有)
上川離宮の御名称 - 昨8日岡部(山室改)方幾氏が弊社に来られ
   「上川離宮の御名称の事に就いては夫々の御詮議も在らせらるべきは勿論のことなれとも
   九重の深き雲の上の事なれば素より窺い奉るべき様なきことなるが
   然るに彼の上川郡の忠別はアイヌ人の発音に従ふ時はチユプぺト(Chuppet)にして
   「チユプ」は太陽、日、東等の意、又た「ペト」は川の義なり
   故に離宮の御名称は旭川或いは東川等の文字を御用い遊ばさるゝに至らば
   旧称の意義を存し且つ大日本帝国等の意味に縁あり旁々適当ならんか」
   との談話ありし

【明治23年3月】北海道学友会機関紙「北海道(第十号)」(資料有)
この号でも岡部(山室)方幾は茨戸、幌別、古丹別、等を意訳していますが、重要なのはこの号に「永田方正の書簡」という記事が掲載されています。
「前号に掲載せし岡部(山室)方幾氏の北海道地名考に就て有名なる蝦夷語学者永田先生は左の如き書簡を岡部に送られたり」
「拝啓陳は本年1月発刊北海道雑誌に北海道地名考と題する1編を拝読いたし候、右当道人民のため大利益ある御思考にて感服之至御座候中に就きて小生聞及たるに少異御座候間御参考の一端とも可相成哉と存し左に記載入尊覧候」
私なりに訳しますと「北海道地名考という一編をみて感服したけど、ちょっとだけ違うと思うところもあるので参考にしてほしい」と読みました。
そして違うと指摘しているのが、琴似村、手稲村、石狩の3つです。
先にあげた忠別を含む9個の地名の内3つに若干の異を唱え、忠別の意訳を含む6つに関しては感服したと岡部方幾の意訳を認めているわけです。

【明治23年3月】
永田方正が上川地域の調査を終える。(資料有)
「北海道蝦夷語地名解」調査終了

【明治23年9月20日】
旭川開村
開村公告を掲載した函館毎日新聞に村名由来という記事があります。(資料有)
「旭川村は土人名チュプペツでチュプこれ日月ペツこれ川の事なり日月此川源の方より出て川口の方に没す故にチュプペツと名付しを今訳名をもちいて旭川村とす」

【明治24年3月30日】
「北海道蝦夷語地名解」永田方正著 出版(資料有)
この中で永田方正は忠別を岡部方幾と同じくchup petと発音し、【東川】と意訳しています。
同時に日月の出でるところとも記していますが、旭川とは訳していません。
「明治23年旭川村を置く」は前年の事実を記しただけです。

工藤さんも知っている事を長々と申し訳ありません。
つまり、明治23年1月にはじまる一連の流れの中で、旭川と言い出したのは岡部方幾であり永田方正ではありません。
山室方幾は明治23年1月発行の雑誌「北海道(第9号)」の中でチュプペツを明確に日出川と訳しています。
岡部(山室)方幾は明治23年2月に上川離宮の名称として北海毎日新聞紙上でチュプペツを太陽、日、東、川と訳して旭川か東川がふさわしいと言いました。
永田方正は明治23年3月発行の「北海道(10号)」の中で岡部方幾のチュプペツ(日出川、東川)を認めています。
永田方正が明治24年に出版した「北海道蝦夷語地名解」では岡部方幾のチュプペツchuppetの訳をそのまま用いています。
以上の経緯から旭川の名付け者は「岡部方幾」であると断定したいと思っています。

岡部方幾がどのような人物だったのかずいぶん調べたのですが、詳細なデータまでは調べられませんでした。
旭川市中央図書館、北海道立図書館、国立国会図書館、教育大学図書館、も調べましたが永山武四郎との関係や上川離宮の名称を発表する事になった詳細なところは解りません。

工藤編集長いかがでしょうか?

追記
後の議論としてチュプペツは誤訳であるとされましたが、確かに誤訳かも知れません。

しかし誤訳をしたのは「岡部方幾」であり、岡部方幾がアイヌ語をchup petと聞き日出川→旭川と意訳した人物である事は間違いなく、旭川という言葉の起源はここにあるのだと思います。
その最初の資料が「北海道(9)」の忠別チュプペツchup-pet→日出川、東川 です。



------岡部方幾 年表----------------

明治10年        伍長 山室方幾助
明治12~13年  東京に居たと記述
明治13年 谷干城が東部検閲史として函館に来た時に「召使」であったと記述
明治14年12月28日 陸軍工兵軍正 山室方幾
明治15年 東京  陸軍工兵軍曹 山室方幾
明治15年1月1日から1月7日 参謀本部附 陸軍工兵軍曹山室方幾
測量課に配属
明治15年3月31日 長女が生まれる
明治15年9月 出張中の棒給と宅料を、、、、  参謀本部長 大山巌

明治17年   東京  工兵曹長
明治20年12月16日  [特2888] 帝王護法録(ていおうごほうろく) 水谷涼然∥編 明治19刊 (活版)
          上記本を陸軍書庫へ献納

明治21年5月 東京 陸軍工兵曹長
明治22年5月 東京 陸軍工兵〇〇
明治22年5月24日 陸軍工兵曹長から屯田兵陸地測量部へ転科
       屯田兵本部長 永山武四郎より陸軍大臣大山巌へ

明治23年1月  北海道学友会 北海道九号に投稿  山室方幾
明治23年2月8日 北海道毎日新聞に「上川離宮の名前候補を語る」 この頃、永田方正より書簡が届く
明治23年3月  北海道学友会 北海道十号に投稿 岡部方幾


明治26年2月発行 雑誌史海 にて永田方正により「友」と記述
明治26年2月11日 札幌博物学会第二回公開演説会の司会を担当
明治26年4月15日 第27回月例会にて「アイヌ勘定法」を講演
明治26年7月31日 東京の谷干城宅を訪ねる。この時の道庁勤を名乗る。
明治27年8月発行 北海の殖産 に蝦夷の経緯度を投稿
その他不明

--------メールはここまで------------
さて、どのような動きになるでしょうか。
こうご期待
 

Re: 開道150年目

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 2月 4日(日)18時03分3秒
返信・引用
  まあ、こじつけも甚だしいですね。

それならちゃんと「150年目」(を迎える)と言うべきでしょう。
年齢でも何でも1年経ったから1歳なのであり、50年経ってはじめて50歳です。
普通に命名150年と聞いたら「ああ150年経ったんだ」と思われるに決まってます。
少なくとも今年中には満150年の誕生日を迎えるんだな、と受け取ります。
誰も実際には来年が満150年とは考えないでしょう。

たぶん明治150年と語呂合わせしたかったんでしょうね。
歴史にそんな語呂合わせしたってしょうがないと思うんですけどね・・・。


 

開道150年目

 投稿者:かんじ  投稿日:2018年 1月26日(金)09時53分51秒
返信・引用 編集済
  自己レスになりますが開道150年のズレに対して、北海道150年事業実行委員会事務局から回答がありましたのでご紹介します。
https://hokkaido150.jp/
以下私の質問は
----------------------
【タイトル】
開道150年は2019年ではないのですか?

【内容】
ご苦労様です。今年は北海道命名150年の年として様々な行事が予定されていますが、
松浦武四郎によって北海道と命名されたのは明治2年(1869年)の事です。
そうすると命名150年は2019年ではないのでしょうか?
同時に今年は明治150年という事で政府が中心となり行事も行われているようです。
命名されたのが明治2年なら矛盾しませんか?
但し、調べたところ開道50周年は1918年に行われ、開道100周年は1968年に様々な行事が行われています。
開道150周年と明治150年の関係について教えて頂きたく問い合わせいたします。
-----------------------
というものでした。
それに対して事務局からの回答は
-----------------------
○○ 様
この度はお問い合わせありがとうございます。
北海道150年事業実行委員会事務局(道庁北海道150年事業室)の○○と申します。
以下、お答えします。
本年、2018年に「北海道150年事業」を実施してまいります。
○○様ご指摘の点についてですが、
2018年は「北海道150年目」であり、「北海道150周年」ではございません。
北海道150年事業実行委員会から発出している文書等において、
「周年」という記載は用いてございません。
一方、いわゆる明治維新150年は、「明治維新150周年」のことと存じております。
○○様おっしゃるとおり、
開道50年は1918年に、
北海道百年は1968年に記念事業を実施しておりますが、
いずれも、「周年」ではなく「年目」の数え方により、
当該年に実施したものでございます。

以上、ご不明な点等ございましたら、いつでもご連絡ください。
どうぞよろしくお願いいたします。

☆2018年、北海道命名150年☆
------------------------
というものでした。
スッキリ納得という感じでもありませんが、なるほどそういう事かです。
つまり松浦武四郎が提案し命名されたのは明治2年8月15日ですから今年は149年であるけれど、
8月15日を過ぎると150年目のカウントが始まるということです。
命名1年目というのが明治2年8月15日から明治3年8月15日
命名2年目というのが明治3年8月15日から明治4年8月15日
命名3年目というのが明治4年8月15日から明治5年8月15日
      :
命名150年目というのが平成30年8月15日から平成31年8月15日
平成31年8月15日でちょうど150年、つまり150周年、満150年ということです。

北海道命名150年目 と言えば少しは解ったのですけどね、
北海道命名150年 ではまるで150年経ったかのようなニュアンスを受けます。
それにしても今現在は149年も経っていない148年と5ヶ月目なわけで、
今年は命名150年と言われるとさすがに違和感があります。

 

今年もよろしくお願いします。

 投稿者:かんじ  投稿日:2018年 1月10日(水)11時01分31秒
返信・引用 編集済
  気付いたら前回の書き込みから2か月過ぎてますね。
ばたばたと正月も過ぎましたが、皆様宜しくお願いします。
momongaさんは喪中ということですが、私も「旭川の歴史的建物の保存を考える会」の会長であった、川島洋一先生を昨年亡くしましたもので、心はほぼ喪中です。
ということでお祝いではなく新年のあいさつを申し上げるためにカードを作りました。
「建物は生きている」とは川島先生の残した言葉です。
ということで今年も宜しくお願いします。

さて、最近北海道命名150周年ということで色々な催し物も用意されているようです。
が、なんか腑に落ちないんですよ。
今年は明治150年です。明治150年という記念行事もたくさんあるんです。
そして松浦武四郎によって北海道と命名されたのは明治2年(1869年)のことです。
なので今年は北海道命名149年だと思うんですけど、、、、、。

明治元年が1868年
明治2年は1869年 2年の7月に命名
明治3年は1870年 1870年の7月で丸1年
2018年の7月で丸149年2019年の7月で丸150年
????

追伸
その後、開道50年、開道100年の記念行事を調べてみると
開道50年は大正7年(1918年)、開道100年は昭和43年(1968年)
に記念行事を行っています。
あれれ????
昔から1年ずれてますね。
 

今年もよろしくお願いします

 投稿者:momongaメール  投稿日:2018年 1月 2日(火)09時51分59秒
返信・引用
  すみません。
すっかり書込みをサボっているうちにあっと言う間に年が明けてしまいました。m(__)m
皆さま、今年もよろしくお願いいたします。
昨年親父を亡くしたため、新年のご挨拶は簡略にさせていただきます。

ちょっと仕事の方が立て込んでおりまして、しばらく書込みが疎かになっております。
けっして飽きた訳でも何でもありませんので、落ち着きましたらまた歴史談義を再開いたしますので、
皆さまこれからも時々チェックしてやってください。
できれば話題を提供していただければありがたいです。
よろしくお願いいたします。
 

Re: 偕行社再開

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年11月 2日(木)10時35分15秒
返信・引用 編集済
  momongaさんへ

> 地図を開いても「彫刻美術館」の名しか載ってませんし、玄関前の施設名表示にも偕行社の名は書かれていません。
> 端の方に旭川市の指定文化財の表示版があるだけです。
> 旭川市はこの建物の存在価値をどのように考えているのでしょうか?
>
> こんな感じ方するのは私だけなのかなぁ。

まったく仰るとおりです。
偕行社の表示ありませんでしたっけ?
実はこの建物は上川管内で唯一の「国指定 重要文化財」です。

国登録 有形文化財であれば
・上川倉庫事務所
・上川倉庫
・あさでん春光整備工場(旧陸軍第七師団騎兵第七連隊覆馬場)
・松岡家住宅
・最創山光岸寺本堂
・旧岡田家住宅主屋
・旧岡田家住宅蔵
・山崎家住宅主屋
・旭川市市民活動交流センター市民活動支援棟(旧国鉄旭川車両センター木機乾燥場)?
・旭川市市民活動交流センターホール棟(旧国鉄旭川車両センター第二木機職場)??
・北海道護国神社平成館(旧陸軍第七師団北鎮兵事記念館)?
があります。

つまり偕行社は上川管内で最も文化的価値の高い建物なんです。
もちろん登録名称は「旧偕行社」です。
当たり前ですよね、建てられた本来の名前であり、現在の使用名称なんて使ってたら、その度に変わってしまいますからね。
もちろんこの重要文化財には札幌の豊平館や函館の公会堂も含まれていますが、札幌や函館には他にもかなりの数の重要文化財があるにも関わらず、上川管内には「旧偕行社」だけなんです。
それだけきちんと建物の価値を評価し発信する必要があるのに、旭川ではその扱いが全くなされていません。
しかし、評価する人によっては旧偕行社の価値を認めている組織もあり、日経新聞の選んだ日本の近代遺産50選に旧偕行社が選ばれています。
これは豊平館や公会堂が単なる旅館であったのに比べて、旧偕行社はその役割に置いてより重要な歴史的背景を含んでいたからであろうことがサイトから読み取れます。
もっと旭川の歴史を正面から見据え「旧偕行社」の価値を評価し広く利用すべきだと私も思います。
 

Re: 偕行社再開

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年10月24日(火)21時06分8秒
返信・引用
  気になってることが一つ。

偕行社の再開前後にかけて新聞や広報誌等で施設再開を伝える報道が色々されていましたが、
いずれも『彫刻美術館の改修工事が終わり・・・』という言い方をしてるんですよね。
偕行社については一応説明は付くものの主役にはなっていません。

おかしくないですか?

改修をしたのはあくまで国の重要文化財である旧偕行社の「建物」であるはずです。
彫刻美術館というのは、言い方悪いかもしれませんが言わば間借りしてる存在に過ぎません。
改修の主語は旧偕行社であって然るべきなのですが・・・


今回偕行社資料室が設けられたのは良いとして、あまりにもその扱いが小さ過ぎると思います。
地図を開いても「彫刻美術館」の名しか載ってませんし、玄関前の施設名表示にも偕行社の名は書かれていません。
端の方に旭川市の指定文化財の表示版があるだけです。
旭川市はこの建物の存在価値をどのように考えているのでしょうか?

こんな感じ方するのは私だけなのかなぁ。

 

Re: 偕行社再開

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年10月19日(木)11時22分22秒
返信・引用
  momongaさんへ

私も見てきました。(無料のうちにって訳では無く、、、)
綺麗にはなったけどほとんど変化なし、それで良いんですよね。
ちょっと事務局へいって話を聞くことが出来ました。
5年間にわたる修復でしたが、その内容は中央図書館へ行くと報告書という形でまとめられているそうです。
私も機会があったら見てみたいと思います。
今回は建物全体を浮かせる形で、基礎のゆがみから直したわけですが、軟石材の基礎を取り除いたところ底に栗石と呼ばれる小さ目の玉石がさらに敷き詰められていたそうで、本来は軟石材の下に厚くコンクリートを敷いて基礎とする予定だったのですが、栗石がでてきたのでそれをどうするかが問題になったそうです。

栗石と言えども当時の工事の象徴ともなるもので、保存する必要があるとの判断から栗石を残しながらコンクリートを薄く敷いて修復する事にしたそうです。
これで1年間くらいは工事が伸びたのかな。

あとは修復後は見えませんが、壁面内にブレス(筋交い)をいれて耐震性を高める工事を行っていますが、この筋交いも本来の部材を傷付けることなく内部に入れるために、単純な形状では無く昔の部材を複雑に避ける構造の筋交いが入っているそうです。

などなど苦労があったのですね。

今回、偕行社を紹介する部屋ができたことは嬉しいですが、とても小さく十分ではありません。
小樽の日本郵船や函館の公会堂のように、内部も当時の雰囲気を再現する努力をしていただきたいものです。
明治44年に時の皇太子が宿泊されているのだから、その部屋を再現するとかね。
私は彫刻が理解できないので建物ばかり見ていたのですが、見学に来ていた方をウオッチングして会話を聞いていると、半数以上の方が建物を見に来ていると思われます。
それも女性の方が建物の文様や装飾を指さしいろいろと会話しているのです。

彫刻を否定はしませんが、彫刻の価値と建物の価値、市民や観光客がどう感じているのか、市はキチンと把握する必要があると思います。
行政ですから「両方大事です」って言うに決まってますよね。
では「現在の彫刻美術館としての使い方は、偕行社本来の魅力や価値を引き出していると思いますか?」としましょうか。

ロビーの白い彫刻も邪魔ですよね~。
偕行社の魅力に奥の階段室があります。
実にすばらしい造形美を見せています。
その前に、あの彫刻を置くって事は偕行社の魅力をぜんぜん理解していないことがわかります。

それから今回偕行社の展示室に大きな棟札が展示されました。当時を知ることのできる貴重な展示です。偕行社を作ったのは「大倉組」(現大成建設)と永らくされており、後年の資料にもそう書かれた文献が多々ありますが、ここでは請負人としてハッキリ「阿部久四郎」と書かれているのです。
これは一説によると、第七師団全体を請け負った大倉組は巨万の富を手にするわけですが、余りにも儲かったので、偕行社は大倉組が自分の金で作り、師団に寄付を行ったという話があります。
つまりこの場合は、発注者が大倉組であり、請負人がその下の阿部久四郎であった事を示す棟札でもあります。
阿部久四郎の左2つ隣には伊藤亀太郎という名前があり、これは現在の伊藤組土建の創業者でもあります。
ただ、この建物を作った阿部久四郎は当時道内では最大の建築請負人であったにも関わらずその後会社の跡継ぎに恵まれず、その後継となる会社は現在ありません。

 

偕行社再開

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年10月10日(火)20時27分37秒
返信・引用
  ようやく再開しましたので見てきました。
再開初日はイベントもあって混み合うだろうと思い、9日に行きましたが思ったより空いてましたね。
それでも、いつもはひっそりとしているこの施設に見学者が絶えることなく訪れていました。

外観はすっかり綺麗になりましたが、建物内部はほとんど変化が見られませんでした。
国の重要文化財ですから改造はもちろん不可、元の姿を忠実に保つのが鉄則ですので当然と言えば当然ですが、
床板がツヤツヤに光ってた以外は修復の痕跡が思ってた以上に無かったです。
逆に言うと、床も壁も全部剥がして基礎から修復し、耐震化工事を施しておきながら見た目この変化の無さはすごい。


ただ、改造が許されないだけに、やはりこの建物は彫刻美術館には向いてないと思います。
2階大ホールの、邪魔っけなパーテーションを取り払ったのは良いとして、
写真をご覧になればお分かりの通り、広いホールに、ただ彫刻を”いっぱい置いただけ”感が否めません。
それと、1階入口を入って真正面の階段に立ち塞がるように新たな造形物がドーンと置かれました。

はっきり言って興ざめです・・・(-_-;)


今回新たに「偕行社資料室」が設けられました。
展示物は、棟札、鬼瓦、柱頭の3点のみとあとは説明パネル数枚だけ。
ちょっと寂し過ぎですね。

美術のド素人である私から見ても、これだけは分かります。
建物の素晴らしさと彫刻・造形美術の素晴らしさが完全にケンカしてますね。


 

Re: 旭川市から回答がありました。

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 9月21日(木)12時34分52秒
返信・引用 編集済
  momongaさんへ

旭川のwikipediaにも書かせて頂きましたが。
旭川という地名の意訳者は岡部方幾であるという証拠となる資料を提示します。
まず、明治23年1月に北海道学友会が出版した「北海道」という雑誌の第九号に、岡部方幾が北海道地名考と題して投稿を行っており、札幌、忠別、空知太、幌内太、石狩、琴似、手稲、夕張、幌向という9つの地名の意訳を行っています。
その中で空知太に関連して瀧川村という地名は永田方正先生が意訳したものだと記しています。
この「北海道 第九号」という雑誌を見た永田方正が、岡部方幾に書簡を送りその書簡の内容が明治23年3月に発行された「北海道 第十号」に掲載されています。
その書簡のなかで永田方正は「北海道地名考という投稿を見て感服したけど、私の考えも参考にして欲しいと、琴似村、手稲村、石狩の3つの意訳に対して永田方正自身の考えを述べています。
つまり岡部方幾が行ったの先の9つの意訳のうち3つに意見を述べ、他の6つに関しては感服したという形で岡部方幾の訳をその時点では受け入れているのです。

---------------------------------------------

この間に明治23年2月8日に岡部方幾は北海道毎日新聞を訪れ、上川離宮にふさわしい名前として旭川の文字を言葉にしています。
永田方正の書簡が岡部方幾に届いた日と岡部方幾が発表した日の前後時期が解らない為、旭川の言葉を使う事を永田方正に相談したのかどうかは定かではありませんが、明らかに岡部方幾は永田方正に先んじて忠別の意訳を旭に通じる形で行っています。


そして明治24年3月に出版された永田方正の「北海道蝦夷語地名解」で永田方正は忠別の意訳として、岡部方幾が行った忠別はチユプ ペト として日出川(後の旭)と訳するのが適当というその訳とほぼ同じ訳を行っています。
つまり永田方正はパクッタわけでは無く、岡部の訳を認めて採用したということでしょう。
しかも永田方正はチュプペツを東川と訳しており旭川とは直接訳していません。

これらからどう考えても忠別のアイヌ語の意味を「東川、又は旭川」と訳したのは岡部方幾しかありえないでしょう。
 
 

食べマルシェ

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 9月18日(月)13時08分20秒
返信・引用
  いったいこの瞬間、中心街には何万人の人がいるんだろう?

と思うくらいすごい人、人、人、、、

7番ホームから見たとたん、ちょっと歩くのを躊躇しましたが、
昨日は思い切ってまだ行った事のない常磐公園会場まで中央突破!
人の波が次から次へと押し寄せる中、公園までたどり着くのにたっぷり1時間以上かかりました。^^;

食い物のイベントってどうしてこんなに人が集まるんでしょうね。
ま、こうやって賑わうパワーがまだまだあるわけですから良しとしなければならないでしょうね。
本州からの出店がずいぶん増えていたようなのが嬉しいです。
列車の窓から見えたニコニコ動画のイベントもかなりの賑わいでした。
台風の影響で3日目が中止になったのはちょっと残念でしたね。


 

Re: 旭川市から回答がありました。

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 9月 5日(火)10時32分2秒
返信・引用 編集済
  > No.1430[元記事へ]

かんじさんへ

> これを見る限り山室(岡部)方幾が「忠別には旭に通じる意味がある」と訳した人物として良いのではないでしょうか。

岡部方幾が意訳した本人である可能性は高いと思います。(旭川に辻褄を合わせて)
ただ、その場合でも少なくとも永田方正に意見を求めただろうというのが私の見方です。
あるいは岡部方幾が上川の状況を提供して永田方正が意訳を創った事も考えられます。
そうでもなければ永田方正がその後蝦夷語地名解に記述するに当たって、自分の意訳として載せるはずはないと思います。
それこそ当時の最高権威学者が、自分を師と崇める人間の訳を完全にパクった事になりますから。
岡部方幾もその知名度・影響力を考えて、永田方正”先生”の意訳という事にしたのではないでしょうか。

 

敵が動き出しました

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 9月 5日(火)10時05分29秒
返信・引用 編集済
  先ほど、wikiの書込みを一度取消されました。
それもアカウント名を表示せず、IPのままでの非常に姑息な手段です。
見え見えではありますが。
 

Re: 旭川市から回答がありました。

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 9月 5日(火)09時33分5秒
返信・引用 編集済
  > No.1429[元記事へ]

momongaさんへ

> 参考までに、明治23年1月30日発刊の北海道学友会誌『北海道』第9号に掲載された山室(岡部)方幾の「北海道地名考」の忠別意訳を記します。
> (高橋基論文からの原文引用です)
>
>
> 忠別(石狩国上川郡ノ地) Chuppet チュプぺト
> チュプは日或いは東又は日出といふ意にしてペトは川の義なり故に日出川或いは東川と譯するを適常とす
>
>

これを見る限り山室(岡部)方幾が「忠別には旭に通じる意味がある」と訳した人物として良いのではないでしょうか。
(この訳が間違っているという論争は別次元の話として)
もちろん岡部方幾に村名を決定する権限など無いでしょうから、村名としての旭川を決定したのは「永山武四郎」その人なんでしょうけど。

*国会図書館のこの資料手に入るかも知れません。
実は私は国会図書館の記事検索コピーサービスというものに入っておりまして、どんな資料のコピーも郵送で送ってもらえます。
と思ってアクセスして記事を検索したのですが、、、、、。
デジタルコレクションでは検索に引っ掛かるのに、同じ国会図書館のNDL-OPACデータベースでは見つかりません。あれーーーー?

でも大丈夫、
「公開範囲が「国立国会図書館/図書館送信参加館内公開」の資料は、著作権の保護期間中であるか、著作権の確認が済んでいない資料のため、インターネット公開をしていません。
本文画像の閲覧を希望される場合は、国立国会図書館または下記一覧の図書館送信参加館へご来館ください。」

とあります。
調べると旭川市中央図書館も参加していますので、きっと図書館から入手できるでしょう。
 

Re: 旭川市から回答がありました。

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 9月 4日(月)23時04分49秒
返信・引用
  参考までに、明治23年1月30日発刊の北海道学友会誌『北海道』第9号に掲載された山室(岡部)方幾の「北海道地名考」の忠別意訳を記します。
(高橋基論文からの原文引用です)


忠別(石狩国上川郡ノ地) Chuppet チュプぺト
チュプは日或いは東又は日出といふ意にしてペトは川の義なり故に日出川或いは東川と譯するを適常とす

 

Re: 旭川市から回答がありました。

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 9月 4日(月)18時25分50秒
返信・引用
  > つまり岡部方幾の語った記録の存在を次には主張できることになります。
> これはwikipediaの記述の信頼性が上がることを意味しています。

国会デジタルコレクションにタイトルまでは出てきますね。
北海道学友会『北海道』1890(9) 北海道地名考/山室方幾 がそうです。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1616768
 

Re: 旭川市から回答がありました。

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 9月 4日(月)17時46分6秒
返信・引用
  momongaさんへ

> 見ました!
> これはやりましたね!
> 正直言って旭川市が動く事はほとんど期待していなかったんですが、意外でした。
> しかもけっこう早かったですね。

私も何らかの反応はあると思っていましたが、直ぐに内容を変更するとは思っていませんでした。
「検討します」みたいに言われるのかなぁなんて。
現在のコンピュータ文化のWEBは印刷出版物ではないので直ちに書き換えができる事も良いところですね。
wikipediaも同じです。

先ずはちょびっと前進です。
「旭川という言葉は開村前に存在して居ない」、が転じて「開村前に存在していた」ことを旭川市の担当者も認めたことになります。

つまり岡部方幾の語った記録の存在を次には主張できることになります。
これはwikipediaの記述の信頼性が上がることを意味しています。

粘り強くやりましょう。
 

Re: 旭川市から回答がありました。

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 9月 4日(月)16時37分19秒
返信・引用
  見ました!
これはやりましたね!
正直言って旭川市が動く事はほとんど期待していなかったんですが、意外でした。
しかもけっこう早かったですね。

私の想像では、この件は「新旭川市史」にも記載されているわけで、
市の担当も直ぐに確認できたという事ではないかと思ってます。
旭川市が刊行している公式図書みたいなもんですからまさか信用しないわけには行きませんしね。
でもそこからが遅いのが役所というものですからちょっとビックリです。


私も9月2日にwikiを書き換えました。
旭川市の対応のおかげで、今日あわててまた書き加えました。(^^ゞ
今のところ何も反応なしですね。


 

旭川市から回答がありました。

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 9月 4日(月)10時00分5秒
返信・引用
  山が少し動きましたよ。
先の私からの質問内容に対して市の担当部署から回答がありました。
---------------------
平素は,本市行政に対しまして,御理解と御協力を賜り,厚くお礼申し上げます。
先日,当市にお問い合わせいただいた「旭川市のあゆみ」の記述につきまして,
御指摘のとおり疑義がありますので,次の一文を削除いたします。

「旭川」という地名は開村の告示で村名として登場したのが最初である。

貴重な御意見をいただきありがとうございました。

┌◆◇━━━━━━━━━━━━━━━━━◇◆┐
 旭川市総務部総務課総務係〇〇 〇〇
  〒070-8525
  旭川市6条通9丁目46番地 総合庁舎7F

└◆◇━━━━━━━━━━━━━━━━━◇◆┘

momongaさんやりましたよ!!
一文を削除するという返事です。
旭川市の記述が少しですが変わりそうです。
感情論やイデオロギーではなく純粋に事実を正確に検討すれば、解釈も変わります。
おかしな事はおかしいと声を上げることが重要だと思います。
 

旭川市にメールしました。

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 8月29日(火)17時44分20秒
返信・引用
  実は旭川市の「旭川市のあゆみ」というページにお問い合わせというメールフォームがありましたので、下記の質問を投げかけてみました。
---------------------------------------------------------------------------
こんにちは旭川の歴史をいろいろと調べている竹田と申します。
今日は質問があって連絡いたします。
旭川市のホームページには「旭川市のあゆみ」というサイトがあり、その中で
(「旭川」という地名は開村の告示で村名として登場したのが最初である。)
という部分があります。

しかし実際には開村の7ヶ月ほど前の明治23年2月9日付『北海道毎日新聞』に掲載された以下の記事があります。
   上川離宮の御名称 - 昨8日岡部(山室改)方幾氏が弊社に来られ
   「上川離宮の御名称の事に就いては夫々の御詮議も在らせらるべきは勿論のことなれとも
   九重の深き雲の上の事なれば素より窺い奉るべき様なきことなるが
   然るに彼の上川郡の忠別はアイヌ人の発音に従ふ時はチユプぺト(Chuppet)にして
   「チユプ」は太陽、日、東等の意、又た「ペト」は川の義なり
   故に離宮の御名称は旭川或いは東川等の文字を御用い遊ばさるゝに至らば
   旧称の意義を存し且つ大日本帝国等の意味に縁あり旁々適当ならんか」
   との談話ありし
   (以下略)

この記事は、当時の北海道庁長官(兼屯田兵本部長)永山武四郎の直属の部下である岡部方幾(屯田兵司令部付曹長)が会見したもので、前年末に上川への離宮設置が山縣有朋内閣によって閣議決定されて以降、まだ村名すら無い地の離宮の名称はどうなるのかという世論に答えたもので、現在まで確認できている資料としては開村前に「旭川」の名が登場する唯一のものと思われます。

この新聞は中央図書館で閲覧可能です。
また以下からもコピーのダウンロードが可能です。
http://d.kuku.lu/e22c184f4f
これらの事実からも、旭川という地名が開村時に初めて登場したという記述は誤ったものであると思われますが、いかがでしょうか?
-----------------------------------------------------------------------
中の解説はmomongaさんが書かれたそのままです。
当然ですがまだ連絡は来ません。
市役所としてもそうとうに困っていると思いますが、どんな返事がくることでしょう。
お役所というところは部署的に市民に「無視、黙殺」ってことはしないと思いますが。
私って嫌な市民ですよね。
市役所にとっては、、、、、。
 

Re: さっそく書き換えられました

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 8月29日(火)09時47分11秒
返信・引用
  あずさん、かんじさん、お二人ともご意見ありがとうございます。
Wikiへの対応でちょっと忙しくなっております。(笑)

私の書込みを取消しているのは、以前から「論・旭川」のサイトを見ている人物で、元々サイトでの主張に反感を持っていたのでしょうね。
おそらく旭川新聞の高橋基氏のコラムに影響されて、アイヌ語由来による永田方正命名説を疑わない人とにらんでいます。
(高橋基氏については機会あれば触れたいと思います)

書込みを取消す理由も、「論・旭川」に書かれている記述の一部と酷似しているから「独自研究」だと決めつけております。
つまり、私がWikipediaに書いた記述内容よりも、「論・旭川」に書かれていた内容をもって判断しているフシがあります。
だから当時の新聞記事ですら「信頼できる情報源」ではないと、トンチンカンな理屈になっています。

ただ、「会話」と「ノート」で何度かやりとりする中で、
一応、Wikiの基準に逸脱がなければいきなり取消す事はない、との言質を取る事ができました。
さらにもう少し修正を加えてUPするつもりです。
お二人のさらなるご協力があれば幸いです。


 

Re: さっそく書き換えられました

 投稿者:あず  投稿日:2017年 8月28日(月)20時29分20秒
返信・引用
  > No.1421[元記事へ]

かんじさんへ

> 100年以上も前の史実を探るために、みなさん数少ない物証を基としているわけです。
> 当時の新聞記事に誤りがあると確定できない限り、それは事実として確定するしかないわけです。
> なので明治23年2月9日付『北海道毎日新聞』に掲載された記事を無視することはあり得ないわけです。

その通りだと思います。どんなものであっても真偽のほどは別として、このようなものが残っていますよという事実が必要です。ただ旭川のことを何も知らない一般の多くの方が見ることも想定すると、解り難く誤解してしまう可能性も無視できないと思うのです。

> 年表としては良いと思いますし、絶対に必要なことですが、由来という意味では説明になっていないと思います。

かんじさん、もちろん二行で終わりと言う訳では無いですよ。(笑)
書き出しは事実関係を簡潔に掲示し、その後に理由を述べていく手法が、読み手も解り易く興味関心を引くと思います。

> 私的には何故旭川の由来を開村時に正しく公表しなかったのか?
> ここに興味があります。

私も開村前夜に何が起こっていたのか、資料が少ないだけに興味津々です。

> momongaさんの解説では永山武四郎の人柄とか、村名にはアイヌ語を使うように自ら命令していたことなどが原因とされていますが、この部分を深く掘り下げて強調する事がmomongaさんの説を支えることになると思っています。

「momongaさん」も「かんじさん」もたくさんの資料をお持ちだと思いますが、それらを知ることが出来るだけでも貴重な記述になると思います。

楽しみにしています。

 

Re: さっそく書き換えられました

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 8月27日(日)23時23分48秒
返信・引用
  > No.1420[元記事へ]

あずさんへ
> 大切な資料だとは思いますが、新聞記事を鵜呑みにして断定している人物の記述と受け取られる可能性がかなり高いと思われます。

100年以上も前の史実を探るために、みなさん数少ない物証を基としているわけです。
当時の新聞記事に誤りがあると確定できない限り、それは事実として確定するしかないわけです。
なので明治23年2月9日付『北海道毎日新聞』に掲載された記事を無視することはあり得ないわけです。
旭川という名前の由来を記述するためにはこの記述を除くというのはあり得ないわけで、それを踏まえると、現在の旭川市の見解やwikipediaの記述は全く偏ったものであると言えます。

> 旭川の地名が初めて登場したのは、明治23年2月9日付『北海道毎日新聞』に掲載された記事(1)である。
> 公的には、明治23年9月20日の旭川村開村時の告知(2)とされている。
>
> こんな書き様では納得いかない?
> 読み手としてはスッキリですけど。

年表としては良いと思いますし、絶対に必要なことですが、由来という意味では説明になっていないと思います。
私的には何故旭川の由来を開村時に正しく公表しなかったのか?
ここに興味があります。
momongaさんの解説では永山武四郎の人柄とか、村名にはアイヌ語を使うように自ら命令していたことなどが原因とされていますが、この部分を深く掘り下げて強調する事がmomongaさんの説を支えることになると思っています。

 

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