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Re: さっそく書き換えられました

 投稿者:あず  投稿日:2017年 8月27日(日)22時53分56秒
返信・引用
  > No.1418[元記事へ]

momongaさんへ

> 3度に渡り同一人物によって速攻取り消されましたので、Wikipediaへの私の投稿を見てない方も多いと思います。
> なおWikipedia「旭川市」のノートページにおいて、取り消した本人とのやりとりが始まっております。
> 私のアカウントの会話ページにも本人からのメッセージが入っております。

そのようなこととはまったく知らず、あくまでも「旭川市」の一部の記述にこだわっているという事なのですね。

> 旭川の名が初めて登場したのは明治23年9月20日の開村告知の時とされているが、実際にはその7ヶ月ほど前の明治23年2月9日付『北海道毎日新聞』に掲載された以下の記事がある。

(以下略)に何があるのか判りませんが、この新聞記事だけで旭川になりましたというのは伝わりません。
大切な資料だとは思いますが、新聞記事を鵜呑みにして断定している人物の記述と受け取られる可能性がかなり高いと思われます。

たとえばWikipedia的に…。

旭川の地名が初めて登場したのは、明治23年2月9日付『北海道毎日新聞』に掲載された記事(1)である。
公的には、明治23年9月20日の旭川村開村時の告知(2)とされている。

こんな書き様では納得いかない?
読み手としてはスッキリですけど。

 

Re: さっそく書き換えられました

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 8月26日(土)17時22分11秒
返信・引用
  momongaさんへ

> 皆さんの忌憚のないご意見を頂戴した上で再々度Upしたいと思います。
>
> なおWikipedia「旭川市」のノートページにおいて、取り消した本人とのやりとりが始まっております。
> 私のアカウントの会話ページにも本人からのメッセージが入っております。

頑張ってください。
---------------------------------------------------------------------------------
> 「旭川」の名の由来については、諸説あって定かでないとされているが[1]、地名由来とは関係のない忠別川語源説と混同されるなど誤解が多い[注 1]。

この部分は要らないのではないかと思います。

>永田は北海道庁の命を受けて全道のアイヌ語地名を調査した当時の権威学者であるが、上川郡の調査はこれからというはずの永田の意訳がこの時点で既に成されていたという事は、「「この意訳が旭川命名のために創作されたものである可能性がある。」」

ここは少し引っかかりますね。この辺りの書き方は一番momonagaさんの創作とか言われる原因になりかねない。
ここは「「永田方正は岡部方幾のことを「蝦夷語に練達なる先生」と評しているところから、旭川という命名は永田方正ではなかった可能性が高い。」」
とでもしたほうが受けやすい気がします。

で最後にはやはり、明治23年9月20日の開村字の公告の新聞記事には「村名の由来」が掲載されたが、なぜかアイヌ語由来の部分だけしか記述されなかった事を書かないと、現状に繋がらないと思います。
-----------------------------------------------
私の意見はこんな感じかな。
そらみみさんという方に対して疑問点や意見を投げかけ、それに対して丁寧な回答がなくなった時点でmomonagaさんの「地名の由来が」掲示されることでしょう。
回答もなく、削除や書き換えを行ってくるようであれば完全にwikipediaの方針から外れた荒らし行為になります。
それはwikipediaへの寄付を毎年続けている私としては許されないです。
 

Re: さっそく書き換えられました

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 8月26日(土)16時48分46秒
返信・引用
  3度に渡り同一人物によって速攻取り消されましたので、Wikipediaへの私の投稿を見てない方も多いと思います。
一応以下に8月24日分の投稿内容を記しておきます。
注釈やリンク等はWikipediaの実際の履歴でご確認ください。
皆さんの忌憚のないご意見を頂戴した上で再々度Upしたいと思います。

なおWikipedia「旭川市」のノートページにおいて、取り消した本人とのやりとりが始まっております。
私のアカウントの会話ページにも本人からのメッセージが入っております。

---------------------------------------------------------------------------------

「旭川」の名の由来については、諸説あって定かでないとされているが[1]、地名由来とは関係のない忠別川語源説と混同されるなど誤解が多い[注 1]。
旭川の名が初めて登場したのは明治23年9月20日の開村告知の時とされているが、実際にはその7ヶ月ほど前の明治23年2月9日付『北海道毎日新聞』に掲載された以下の記事がある。

   上川離宮の御名称 - 昨8日岡部(山室改)方幾氏が弊社に来られ
   「上川離宮の御名称の事に就いては夫々の御詮議も在らせらるべきは勿論のことなれとも
   九重の深き雲の上の事なれば素より窺い奉るべき様なきことなるが
   然るに彼の上川郡の忠別はアイヌ人の発音に従ふ時はチユプぺト(Chuppet)にして
   「チユプ」は太陽、日、東等の意、又た「ペト」は川の義なり
   故に離宮の御名称は旭川或いは東川等の文字を御用い遊ばさるゝに至らば
   旧称の意義を存し且つ大日本帝国等の意味に縁あり旁々適当ならんか」
   との談話ありし
   (以下略)

この記事は、当時の北海道庁長官(兼屯田兵本部長)永山武四郎の直属の部下である岡部方幾(屯田兵司令部付曹長)[注 2]が会見したもので、前年末に上川への離宮設置が山縣有朋内閣によって閣議決定されて以降、まだ村名すら無い地の離宮の名称はどうなるのかという世論に答えたもの。現在まで確認できている資料としては開村前に「旭川」の名が登場する唯一のものである。 記事中の「忠別」は開村前のこの地域の呼称で、そのアイヌ語源としている「チユプぺト」の意訳は、翌年発刊の永田方正『北海道蝦夷語地名解』のチュプペツ項[2]に記述された意訳[注 3]と全く同じである。永田は北海道庁の命を受けて全道のアイヌ語地名を調査した当時の権威学者であるが、上川郡の調査はこれからというはずの永田の意訳がこの時点で既に成されていたという事は、この意訳が旭川命名のために創作されたものである可能性がある。 それはともかく、命名者の意図としては『旧称(アイヌ語地名)の意義を存し(尊重し)且つ大日本帝国等の意味に縁あり』としている訳で、「旭川」の名は、アイヌ語に由来する「日」=「旭」の意と、大日本帝国の象徴としての「旭」の意を併せ持つ名として命名されたと言える。[注 4]

 

Re: さっそく書き換えられました

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 8月25日(金)22時45分57秒
返信・引用
  > No.1415[元記事へ]

momongaさんへ

> Wikipedia再書き換え準備のため旭川市の地名由来を覗いてみたところ、さっそく書き換えられてました(笑)
> 書き換えられたのではなく、私が追記した部分をごっそり単純削除で元の木阿弥です。

ひどいですね。
現在の地名の由来は諸説あるとかいって、公式発表の事実を無視しています。
まずは事実を消されないように抑えましょう。
wikiのノートにも書いておきましたが、決して曲げられない事実を二つ
1.明治23年2月9日の北海道毎日新聞(当時)の記事
2.明治23年9月23日の旭川村開村の日に北海新聞に掲載された記事
この内容を消されないように私も協力します。
 

Re: さっそく書き換えられました

 投稿者:あず  投稿日:2017年 8月25日(金)21時34分59秒
返信・引用
  > No.1415[元記事へ]

momongaさんへ

> Wikipedia再書き換え準備のため旭川市の地名由来を覗いてみたところ、さっそく書き換えられてました(笑)
> 書き換えられたのではなく、私が追記した部分をごっそり単純削除で元の木阿弥です。

確認しましたが、まったく面白味のない物になっていましたね。

> あずさんのおっしゃる通り、ゼロから創りますね。
> もちろん”歴史を創る”のは言語道断ですから、あくまで記述をゼロからやり直します。
> ほぼ文脈はできてますので近々中に書き換えます。

ふと想ったのですが、Wikipediaにある「旭川市」の一部を書き換えてもイタチゴッコのような気がしまして…。

それなら「旭川市の地名由来」とか、別のスレッドを立ち上げてみてはいかがでしょう。
詳しくは解りませんが、検索しても「Wikipedia」効果で上位で出ると思います。

検索する時は、「旭川」「地名」「歴史」「由来」…のようなキーワードでしょうからね。


 

さっそく書き換えられました

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 8月24日(木)20時33分32秒
返信・引用 編集済
  Wikipedia再書き換え準備のため旭川市の地名由来を覗いてみたところ、さっそく書き換えられてました(笑)
書き換えられたのではなく、私が追記した部分をごっそり単純削除で元の木阿弥です。

やり方が失敬ですよね。
私は少なくともこれまでの記述に敬意を表して敢えて追記の形にした訳ですが、それを仇で返してくれました。^^;
まあ、元々の記述を書いた人なのか、盲目的にアイヌ語由来を信じて疑わない人なのかは分かりませんけど、、
私の感ではタイミング的にここの掲示板をROMしてるかな・・・

それなりの根拠をもって書き換えられるならまだしも、元々の記述は単に旭川市のHPや河川敷に設置されてるカンバンの紹介ですよね。
しかも唯一の根拠?らしき「旭川市アイヌ語地名表記推進懇談会」の議事録は既にリンクが切れている。
お話になりません。

あずさんのおっしゃる通り、ゼロから創りますね。
もちろん”歴史を創る”のは言語道断ですから、あくまで記述をゼロからやり直します。
ほぼ文脈はできてますので近々中に書き換えます。



 

市民講座Ⅱ

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 8月24日(木)15時14分38秒
返信・引用
  市民講座の告知をさせて頂きます。
現在、買物公園7条緑道角のまちかど文化小屋において「歴史を学び、未来を考える市民講座Ⅱ」というのが開かれています。
全8回の予定ですが、現在4回まで終了しています。
この第7回10月5日(木)にこの掲示板の主催者であるmomongaさんが講師として旭川の歴史を語ります。
ちなみに私も司会兼助手としてスライドや歴史建築についてお手伝いさせて頂きます。
皆さんお時間の都合のつく方はご参加ください。
以下にパンフレットを掲示します。
 

Re: ハルシナイのタヌキさん

 投稿者:ハルシナイのタヌキ  投稿日:2017年 8月21日(月)14時51分57秒
返信・引用
  > No.1411[元記事へ]

明治維新 そして天皇に大政奉還が行われたのは、スムーズに行われたのでなく、実は多くの血が流された。岩村通利にとってみれば、江戸幕府を倒したのだから新しい土地に新首都を作りたい。だから明治初期から、17年間tにわたって北海道の中央部に西京、東京についで北京を建設したいと思い続けてきたと思います。
だから、政府から命令を受けていた北海道の本格的開発と一緒に効果的に行う為、北亰建設を同時に行おうとしたと思われます。
 

Re: Wikipedia見ましたよ!

 投稿者:あず  投稿日:2017年 8月19日(土)00時29分59秒
返信・引用 編集済
  > No.1410[元記事へ]

momongaさんへ

> 気を悪くするどころか、たいへん参考になります。
> 実は、かんじさんからも、主旨としては殆ど同様のご指摘をメールで頂きました。

あ~良かった。(笑)

> 今回自分でも失敗だったと思えるのは、一つには既存の記述を尊重し、そのまま残しておこうとした点です。

そんなことは気にせずに、歴史に関してはゼロから創る意気込みでお願いしたいです。

> もうご承知かと思いますが、新聞記事から時系列に並べるとアイヌ語意訳の明らかな矛盾にぶち当たります。

アイヌ語の違訳(あえて)については後日また意見を述べさせていただきたいと思いますが…。

たとえば開発局の河川名標には、牛朱別川「ウシシ ペッ Usis-pet 蹄川」なんて書いてあります。
それこそWikipediaには、牛朱別川(うしゅべつがわ)は、北海道上川郡当麻町および旭川市を流れる一級河川。石狩川水系の支流である。牛朱別は、アイヌ語で「鹿の蹄跡多き川」(『ウシシ・ペッ』)を意味する…。

堂々と間違いありませんよ?と断定しているわけですが、程度の低い矛盾に気が付かないのでしょうか。
もし「ウシシ」が正しいとすれば、たとえば「牛志別」とか「牛士別」なんて当て字になるのでしょうが「朱」にはなりませんよね。

個人的にWikipediaに望むことは、〇〇年〇月〇日の新聞や官報にこんな記述がありますよを知りたいかなぁ~。
それを元に空想や妄想、時空を超えた旅のガイドとして楽しむ感じです。(笑)

 

Re: ハルシナイのタヌキさん

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 8月18日(金)22時30分13秒
返信・引用
  > No.1409[元記事へ]

国見の碑の詳しい解説ありがとうございます。

この時の岩村通利の身分は司法大輔で、現在で言うなら法務省事務次官でしょうか。
まあ、司法の事務方トップ役人で大臣に次ぐお偉方ですね。
本来なら国見は業務外の行動であった訳ですが、三県制度に異を唱えた上川北京構想に同調した数名の大臣の後ろ盾があって実現したと言えます。
つまり、道庁役人が逆らう事などできなかったと言えます。

永山武四郎といえば、この頃屯田兵本部長に就任し、この時点では上川に興味はあったもののおそらく疑心暗鬼で岩村通利に同行したものと想像します。
ところがどっこい、いざ上川を目の当たりにすると、これほど北海道の防衛拠点に相応しい場所はないと思い知るわけです。

私はこの時期の「旭川」の名の発想はちょっと早過ぎると思いますが、岩村通利が京都に例えている事から「神楽(岡)」はあり得ると思っています。


 

Re: Wikipedia見ましたよ!

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 8月18日(金)21時04分44秒
返信・引用
  > No.1408[元記事へ]

あずさんへ

忌憚のないご意見ありがとうございます。
気を悪くするどころか、たいへん参考になります。
実は、かんじさんからも、主旨としては殆ど同様のご指摘をメールで頂きました。

自分としてはWikipediaのマニュアルに従って参照文献を明示する事で、けっして自身の主張として述べているつもりはなかったのですが、
そこはやはり”我”が出てしまっている、というのが皆さんの印象のようですね。
よけいな文言はいらない・・・・・今回の反省点です。

と言いますか、再書換えを考えています。
ご指摘のように、できるだけ史実のみで構成した文脈にしたいと考えています。


今回自分でも失敗だったと思えるのは、一つには既存の記述を尊重し、そのまま残しておこうとした点です。
それである程度文脈が縛られてしまいました。
また「チュプ・ペッ」意訳に対しても、由来として矛盾がある事へのストレートな指摘を避けた点です。
それこそ自分の主張が強く出過ぎてしまうかな、と思えたからです。
これらに起因して肝心要の”証拠”である新聞記事をどこにも記述しなかった・・・。

もうご承知かと思いますが、新聞記事から時系列に並べるとアイヌ語意訳の明らかな矛盾にぶち当たります。
次回の書き換えは、この辺りに変な遠慮をせず、参照ではなく本文中で明確化しようと考えています。
その方が第三者に分かりやすいと思いますが、ただ、簡潔にまとめるのが大変そうです。^^;



 

Re: ウィキペディア

 投稿者:ハルシナイのタヌキ  投稿日:2017年 8月18日(金)17時23分3秒
返信・引用
  > No.1407[元記事へ]

よろしくお願いします

岩村通利、永山武四郎、長谷部辰連、佐藤秀顯の4人は相当な覚悟をもって北亰建設の実現に向けて上川盆地、近文山に向かったとおもわれます。札幌、小樽、道庁内(北海道開拓使)等の反対を押し切って。

旭川の地名ですが一説として岩村通利ら4人が近文山で北亰建設を誓いあった思われる時の一瞬を表し、上川盆地を照らしていた太陽と彼等が辿ってきた創成川と石狩川を表していると思います。もちろん、命名者は永山武四郎。

また、旭川の地名は嵐山(近文山)にある国見の碑と連動していると思います。石碑には反対者がいる為わざわざ漢文で書き、北亰という文字は書けず、「大道」と いう文字をつかった。そして公務員が書いたとは信じられない「酒を大いに飲み」と書かれている。これは岩村通利が頭を捻って通常の文ではなく北亰について言っているのですよと言っている様に思えます。

以前、旭川市が翻訳と思われる文。現在、石碑の案内板は無いです。

「明治18年8月、岩村通俊、永山武四郎、長谷部辰連、佐藤秀顯等、
おのおのその官事を以てこの山に登る。
すなわち山河囲繞し、原野広大、実に天府の富あり。
他年大道、砥の如く、都府すでに成らば、
相ともに再び登り、杯を挙げて酣飲、以て今日を談ぜん。
すなわち相謀って碑を建て、以てこれを後に遺すという」

これを加筆するとこうなると思います。

明治18年8月、岩村通利、永山武四郎、長谷部辰連、佐藤秀顯等はそれぞれ、公務を以ってこの山に登った。
眺めは山、川が周りを取り囲み、広大な原野が続く。実に天府の富がある。
数年後、北京が建設され、磨かれたような都市が完成したならば、我らは再びこの山に登り、杯を上げ、多いに飲み、今日のことを語り合おう。
記念として、我らは相談し、ここに碑を建て、これを後世に残すことを決めた。

そして原文です

明治十八年八月岩村通俊・永山武四郎・長谷部辰連・佐藤秀顕等、各以官事登此山。則山河圍繞、原野廣大、實有天府之富。他年大道如砥、都府已成、相與再登、擧杯酣飲、以談今日也。乃相謀建碑、以遺之後云。






 

Wikipedia見ましたよ!

 投稿者:あず  投稿日:2017年 8月17日(木)23時56分41秒
返信・引用
  momongaさん、Wikipedia見ましたよ。ご苦労様でした。
熟考と言いますか、かなり熟慮されたことと思います。

私の感想を率直に言いますね。
「地名の由来」だけ見ると一般の方にとっては???かもしれません。

ある程度の知識があれば、フムフムと思われるかもしれませんが、そのような方にとってはある種の違和感を持たれるかもしれません。

かんじさんの書き込みの返信に「…そのために参照文献等を明示しています」とありますが、一般の人は〇〇に〇〇と書いてあるから〇○なのだ…、たぶん違和感はそこら辺にあるかもしれません。正確には違和感と言うより伝わる温度差なのかもしれません。

気を悪くしないでくださいね。顔も名前も知らない人に「事実はこうなのです」のように言われても、新たな文献や歴史的な資料が出てきた時でも、それは正しいのでしょうねという疑問が拭えないのです。

ま~その時はまた書き換えれば良いだけですけどね。歴史上の人物のように…。

個人的には、Wikipediaの記述について「私」は要らないのかもしれない。
あくまでも過去の事実(参考文献・出典あり)のみ追記。

たとえば「歴史」の…

1890年(明治23年):北海道庁令により、上川郡に旭川・永山・神居の3村を設置[33]。
1891年(明治24年):永山村に屯田兵入植。翌年には旭川村(現東旭川地区)に入植。

ここら辺に、「明治23年2月9日付の北海道毎日新聞に旭川の名が登場」とかその他が加われば…。
momongaさんがお持ちの資料から、時系列に見ることが出来れば興味深いし解りやすい。
その「事実」を読み手がどう受け取るかということ。

「歴史」も蝦夷地の時代とか明治とか、さらにカテゴリーを細分化しても良いですね。
それこそ旭川の町名変遷なんかもWikipediaで確認できれば素晴らしいと思います。

各市町村の公的なウェブページでも、歴史や沿革なんてのも様々で、まるで地元愛の感じないところもありますし、何もそこまで詳しくなくてもってのも存在します。旭川は前者ですけどね。(笑)

 

Re: ウィキペディア

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 8月17日(木)17時53分0秒
返信・引用 編集済
  ハルシナイのタヌキさん、書込みありがとうございます。

おっしゃるように、上川道路が通じる以前の札幌から上川へのルートと言えば、
創成川を一旦現在の茨戸付近まで下り、そこから石狩川に出て遡って行くのが一般的な行程だったようです。
遠回りのような印象を受けますが、元々船による物資輸送のために開削された創成川を経由する方が障害が少なかったのでしょうね。
ハルシナイのタヌキさんが聞かれた話は、そんな当時の行程が由来になっているのかもしれません。
 

Re: ウィキペディア

 投稿者:ハルシナイのタヌキ  投稿日:2017年 8月16日(水)14時32分53秒
返信・引用
  > No.1405[元記事へ]

突然の割り込みすいません。
旭川の「川」は石狩川と札幌 の創生川を表していると聞いたことがあります。
岩村通利一行は明治18年8月18日創生川を舟で出発、明治18年8月27日上川(近文山)に到着に関係してしていると思われます。
 

Re: ウィキペディア

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 8月 8日(火)12時51分35秒
返信・引用
  かんじさんへ

先のレスでも言いましたように、確かに由来が「旭日旗」かどうかはあくまで推測の域です。

おっしゃる通り、日本は聖徳太子の時代から「日出づる国」を自称してますから、「日の出」は正に日本国の象徴ですよね。
で、それを具現化したのが日章旗・旭日旗・旭日章・・・であり、いずれもルーツはそこにあります。
天皇家の16弁の菊の紋章も無縁ではありません。
ですから「旭」あるいは「旭日」の文字に日本を象徴する意味合いがあるというのは全くその通りだと思います。

ところが、富国強兵の時代これらは軍の象徴にすり替わってしまった一面があります。
つまり、「旭」「旭日」=大日本帝国の象徴=日本軍の象徴 です。
軍人であった永山武四郎が、命名しようとする村名に大日本帝国を意識したとして、身近にあった軍旗・旭日旗からその発想を得たとしても不思議ではないと思います。
何かそういうきっかけがなければ、いきなり「旭」の文字は出て来ないと思うんですね。
『大日本帝国等の意味に縁あり』の”等”とあるのは、帝国陸軍をも意味している気がします。

ただし私の自論は、厳密には「旭日旗を見て旭を発想」ではなく「旭日旗を連想して旭を発想」なんです。
視察や要人案内の度に幾度も登った近文山からの正面に燦然と輝く太陽を見て旭日旗を連想し、そこから「旭日の川」「旭川」を発想・・
まあ、この辺りは好きに”妄想”させて下さい。(^^ゞ


いずれにしても、旭川の名が誕生した時点ではアイヌ語はもちろん、忠別川すら関係ありません。
当然の事ながら、まだ一度も上川へ行った事のない永田方正に、いくら創作とはいえそれらしき根拠のある意訳は創れません。
永山武四郎や岡部方幾から上川の状況をつぶさに聞き取り、御料予定地を流れる忠別川にスポットが当てられ、件のアイヌ語意訳が創作されたのだと思います。
ですから川の語源に現実とは乖離した部分があり、その意訳も後年のアイヌ語学者の批判を浴びる事となるのです。

ちなみに、2月8日の岡部方幾の発表があった当日、実は永山武四郎は上川離宮造営場所調査のため上川へ出発しているのです。
この調査で離宮の建設場所を正式に上川郡字ナエオサニ(神楽岡)に決定する訳ですが、
永田方正の樺戸・空知・上川の3郡調査はさらにその後の3月であり、離宮の名前も場所も決定した後という事になり、如何にも後付けの感があります。

私は、何故この矛盾に誰も気が付かないのか不思議でなりません。



 

Re: ウィキペディア

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 8月 5日(土)14時29分52秒
返信・引用
  momongaさんへ

うーーーん。
なるほどですね。
全ては仕組まれたものですか。

「日の出」は実はパクリ? をもう一度読み返しました。
なるほどです。

つまり全ては、
>「チユプ」は太陽、日、東等の意、又た「ペト」は川の義なり
故に離宮の御名称は旭川或いは東川等の文字を御用い遊ばさるゝに至らば
旧称の意義を存し且つ大日本帝国等の意味に縁あり旁々適当ならんか」

に尽きるのではないでしょうか。
「大日本帝等意味に縁あり」としているところからも旭川の名は日本國に由来するということですよね。

旭を「旭日」とするかどうかは解釈の難しいところですが、明治20年当時に「旭」という言葉が国民にとってどういう意味を持っていたかということだと思います。
旭川という地名は旭川の開村当時全国で11箇所あることも記されていますが、当時は全国でどういった意味で使われていたのでしょうね。
旭は日の出を表し、それは日本国の象徴であったのではないかと思いますけど。

岡部方幾の言葉を使えば「旭川という名は大日本帝国を表す言葉である」とでもなるのでしょうか。

なので私の今の感想としては、旭川の地名の由来は永山武四郎や、当時の関係者の意を汲むところとしては折衷案的になりますが、
「旭川の名前はアイヌ語のチュプペツの意味を持つとともに、日本國を表す旭の字を用いて名付けた」とでもなるのでしょうか。

旭川を旭日旗とか旭日章としてしまうのは少し表現の幅が狭いというが、断定的すぎるのではないかと思います。

いかがですか?
 

Re: ウィキペディア

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 8月 3日(木)22時26分36秒
返信・引用
  かんじさん、さっそくの評価ありがとうございます。

でもって、私のこの問題に関するスタンスを今一つ分かって頂けてない様なのがちょっと残念かな・・・。
それと、けっして私の自説だけでない事だけは明言しておきたいと思います。そのために参照文献等を明示しています。
本当は、永田方正の誤訳や矛盾についても触れたかったのですが、
文章があまりに長くなってしまうのと、それこそ自分の主張色が強くなり過ぎるかなと思い自粛しました。
かんじさんの疑問は当然なのですが、私が思うに、チュプペッ意訳から遡ろうとするが故の疑問ばかりではないでしょうか。
私は逆です。
ここでちょっと補足しますね。


結論から言いますと、
「旭川」の名が先にあったのです。(由来が旭日旗かどうかは推測の域になります)

この事は、永田方正が上川の調査に赴く直前の明治23年2月9日付の北海道毎日新聞に旭川の名が登場していますから説ではなく事実です。
しかもその由来としているチュプペッ意訳が”その後”の永田方正の蝦夷語地名解に載った意訳そのものです。
でもって、これを新聞発表したのが永山武四郎の直属部下で、永田方正とも親交のあった岡部方幾曹長(屯田司令部付)です。
つまり、永田方正の調査とチュプペッ意訳は完全に出来レースであったという事なのです。

後年のアイヌ語学者が、永田方正の解釈は誤りだと指摘するのはある意味当然の事です。
要するに、永田方正が現地調査する前に創作された、旭川の名を導くための意訳だった訳ですから。
永山武四郎が知っていたか?どころか、永田方正はおそらく彼の意を受けてアイヌ語意訳を創作する協力をしたのだと思います。
何度も上川入りして現地に詳しかったのは永山武四郎の方ですしね。

ですから9月の開村時の新聞記事に同じ意訳が載るのは別に不思議でも何でもないのです。
2月の時点で既に新聞発表してる訳ですし、それを表向き”公式見解”としたのだと思います。
ただ、2月の新聞記事では『旧称の意義を存し且つ大日本帝国等の意味に縁あり』と、ちょっとだけ匂わせていますけどね。

問題は、なぜそんな遠慮をする必要があったのか?ですよね。
これはもう、永山武四郎がそういう人だったとしか言いようがありません。
道庁内で、道内各地の和名命名に関して、極力元々のアイヌ地名を尊重するように、との趣旨の内訓を出すくらいの人ですから。
たぶん、自分でそう言っておきながら自らの命名を大っぴらに出すわけには行かなかったのではないでしょうか。

じゃあ「旭川」の名はどこから持って来たのか?
もしアイヌ語に関係ないとすれば、まず私の頭に浮かぶのは「旭日」しかないのですが、かんじさんはいかがでしょう?

この辺りに触れているのが当サイトの、[「日の出」は実はパクリ?] です。
http://ron-asahikawa.la.coocan.jp/nazo/pakuri.html
今一度まじまじと見て頂ければ幸いです。m(__)m


 

Re: ウィキペディア

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 8月 3日(木)09時49分53秒
返信・引用 編集済
  momongaさんへ

> 旭川市のwikipediaを書き換えました。

> 地名の由来節、『しかしながら・・・・・』以降を書き加えました。
> wikipediaの性格上、極力著作物の裏付けのある記述に抑えたつもりですが、
> それでもやっぱり自分が出てますかね。^^;
>
> みなさん是非ご一読ください。

うーーん、やはりというかいきなりここから来ましたか。
momongaさんの自説を述べることは構いませんが、ちょっと 、、、。

>この永山武四郎命名説は、当時の彼の独裁的立場や上川との深い関りを考えると順当な説と思えるが、旭川市は諸説あると言いつつ事実上「チュプ・ペッ」説しか公にしておらず[17]、 結果として今一つ説得力に欠けるアイヌ語源説ばかりが流布され既成事実化している。

この部分には違和感がありますね。
というのも、旭川をアイヌ語のチュプ.ペツの和訳とするのは説ではなく、明治23年9月23日の旭川村開村の日に北海新聞に掲載された事実だからです。
当然、道庁令公布の当日の記事ですからこの命名由来も事前に公表されたものでしょう。
つまり、「公的には」アイヌ語のチュプ・ペツの和訳となっているものです。
当然ですが、これは永山武四郎も知っていると考える方が自然なのです。

私としては何故、チュプ・ペツが「旭川」と誤訳されてしまったのかの方が疑問です。
この辺りは永田方正に聞くしかない訳ですが、、、。

単なる想像の域で思うには、忠別という地名は既にあったわけでなぜ忠別村としなかったのか?
これは忠義、別れるなどの言葉を嫌った等とも言われていますよね。
そこで「じゃあアイヌ語のチュプ・ペツは和訳では何というんだ?」という話になりますよね。
そこで永田方正が「日の川」でございますと間違って言ったかどうか、、、。
日の川か、なら旭の川だな「旭川」で良いではないか。
という流れかも知れません。
アイヌ語上、チュプペツに旭川という意味がない以上、間違った訳である事は間違いないです。
momongaさんの永山武四郎の存在と権力から旭日章の旭からというのは、私に対しては説得力が無いです。

仮に永山武四郎が旭日章の旭から旭川を命名したとすれば、当時の新聞にその由来を書かなかった理由が無いのです。
いまでこそ軍隊に由来する名前なんてまっぴらだと思う人がいるかもしれませんが、明治23年当時にそんな事を思う人もいないだろうし、それをあえて別の理由に差し替えて新聞発表すると思いますか?

事実として、永山武四郎の目にもふれる開村日の新聞に「永山村は永山武四郎の名前から、旭川村はアイヌ語の和訳、、、、」と書いてある以上、それを覆すだけの理由ではないように思います。

世紀の誤訳としか言いようがないようにも思います。
たまたま誤訳したものが、momongaさんの言う「当時の時勢に合致していた」ともいえるのかな。



 

Re: ウィキペディア

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 8月 3日(木)00時34分18秒
返信・引用
  旭川市のwikipediaを書き換えました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%AD%E5%B7%9D%E5%B8%82

地名の由来節、『しかしながら・・・・・』以降を書き加えました。
wikipediaの性格上、極力著作物の裏付けのある記述に抑えたつもりですが、
それでもやっぱり自分が出てますかね。^^;

みなさん是非ご一読ください。
 

Re: ウィキペディア

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 8月 2日(水)17時58分24秒
返信・引用
  > No.1399[元記事へ]

momongaさんへ

> そこで、以前かんじさんが提案されていたwikipediaへの書込みもやってみようと思います。
> 私自身も参考にしてますし、wikipediaの影響力は今や相当大きなものがありますよね。
> 手始めはやはり旭川の地名由来です。
> 相変わらず旭川市のHPに書かれているしょうもないアイヌ語由来そのままですので大幅に書き加えてみます。

おー、ついに始動しましたね。
wikipediaは確かに大きな力です。
でも誰でも書ける反対に、誰にでも書き換えられることもあります。
その辺りは十分に理解の上作成してください。

協力できることはします。

 

ウィキペディア

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 8月 1日(火)22時08分35秒
返信・引用
  さて、いつまでも沈んではいられません。
川嶋先生は、専門である建築を通して歴史の重みを広めようという、それも、先生らしいアナログ的手法でパワフルに実行しておられましたが、
特に専門という訳ではない私は、誰でも情報発信可能なネットという武器を最大限に生かして地元史を広報して行きたいと思います。

まあ、このサイトと掲示板も、何だかんだ言って色んな方々に見て頂いているのを実感しております。
一郷土史愛好家の話題を北海道経済誌に2度も取り上げて頂いたのも、ネットがあってはじめて実現できた事です。
従来からのメディアが加われば増々強力です。

そこで、以前かんじさんが提案されていたwikipediaへの書込みもやってみようと思います。
私自身も参考にしてますし、wikipediaの影響力は今や相当大きなものがありますよね。
手始めはやはり旭川の地名由来です。
相変わらず旭川市のHPに書かれているしょうもないアイヌ語由来そのままですので大幅に書き加えてみます。
既にソースはできていますので、チェック終わり次第UPします。



 

Re: 非常に残念・・・

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 7月14日(金)09時56分55秒
返信・引用 編集済
  > No.1397[元記事へ]

momongaさんへ

あっという間でした。
先週水曜自宅にお邪魔して金曜に幹事会があって2度もお会いしていたのに、、、、。
心臓の検査を受けてカテーテルで治療するんだ、そうしたらまたバリバリ元気になるって言っていた矢先の事でした。
これも運命なんでしょうけど、惜しいですね。
旭川の歴史的建物を保存する事の重要性を訴え続けていました。
一つの建物の保存に固執するのではなく、あくまでも市民の認識に広く訴えかけるという手法です。
その為に建築賞を設け、こんな素敵な建物がこんなにあるという発掘と市民への提示。
車を運転しない先生と一緒にあちこち回って私が見つけたものもあったんですよ。
今日の道新に「早すぎる悼む声」として記事にしていただきました。

川嶋さんは敬虔なプロテスタントでしたので、天に召されたのでしょうね。
合掌

この記事の下に載っているGOLOSOという古民家レストランも偶然にも以前川島さんと二人で調査しに行ったお店でした。
 

非常に残念・・・

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 7月13日(木)14時15分8秒
返信・引用
  『旭川の歴史的建物の保存を考える会』の川嶋洋一会長(東海大学名誉教授)が急逝されました。
会にとっても大黒柱でしたが、旭川にとってもたいへん貴重な人材を失ったと思います。

川嶋先生は、古いものを軽視しがちな旭川の気質に対し、建築という側面からその歴史的価値を唱えた方でした。
私も建築は素人ながら、同じく歴史・伝統を大事にしたい想いから会に参加させていただいておりました。
ワンマン、少々アクの強い個性、、、
しかしながら、私はけっして嫌いなキャラではありませんでした。
子供のように無邪気な側面と、繊細な気配りも合わせ持っていたからだと思います。
イベント時だけでしたが、直接面識を持つようになって僅か3年ほどではありましたが、とても残念です。


謹んで哀悼の意を表したいと思います。


 

Re: 十勝線追加調査

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 7月 3日(月)19時53分20秒
返信・引用
  かんじさんへ

富良野線の踏切が〇号踏切と呼ばれているのは以前から知ってましたが、
延々と〇号踏切ばかり続くので、私も正直言って面白味がないなあ、と思ってました。

そうですか、、もっと先の方に不可解な名称があったんですね。
おかしいですよね、西神楽は34号までしかありません。
それも28号から先は就実の丘から辺別川の上流方向に向かって屈曲しており、強いて言うなら北美瑛駅の辺りでも30号相当です。
それが、千代ヶ岡駅を越えていきなり踏切の数字が飛んで、しかも28号に41号踏切があるというのは、これ如何に。
実際には20号から先が住所と踏切の数字が食い違ってるみたいですね。
千代ヶ岡の手前22号に26号踏切があります。
西聖和駅過ぎるまで住所と一致してるのに、不思議ですねえ・・・

これも何かありそうですね。
意味なく番号が飛ぶ訳ないですから、もしかしたら古い時代の区画の名残か?
でも少なくとも辺別川までは同じ御料農地だったんだけどなあ・・・



神楽村が町になったのは戦後のことですから間違いなく踏切の方が古いと思います。
さすがに踏切名が村のままだとクレームの元でしょうから、これだけは事務的に町に変更したのではないでしょうか。

 

十勝線追加調査

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 6月28日(水)18時09分20秒
返信・引用 編集済
  十勝線追加調査
先日は西神楽にある神楽神社の所の踏切が神楽町15号踏切である事を確認して、
そのあと旭川駅に向かっていくつかの踏切を調べただけでした。
神楽岡の駅のすぐ脇の踏切が「神楽町1号踏切」で緑が丘の踏切が「神楽町4号踏切」ということで「神楽町○号踏切」が続いている事を確認しました。
では、15号の先は?確かにバス停に16号、17号と続いていますが、踏切はどうでしょうか。
追加で調査しました。
神楽町16号踏切はありました。神楽町17号踏切もありました。
神楽町18号は西聖和駅の横になりますが、ここの踏切は名前が違っています。
「第3鷹栖神楽線踏切」となっていますが横に「西聖和駅構内」となっています。
西聖和駅が出来る前からこの踏切はあったと思いますので、駅の新設に伴い踏切名が変更になっていると想像しました。
神楽町19号踏切はありました。神楽町20号踏切もありました。
この辺りから田舎になってきますので踏切も少なくなり少し飛んで次に神楽町23号踏切がありました。
次に神楽町26号踏切、神楽町28号踏切もありました。
この辺りは千代ヶ岡駅の少し手前になります。
この辺りからなんだかおかしくなってくるのですが、千代ヶ岡駅を過ぎた直ぐの人道踏切には「神楽町35号踏切」となっています。
あれーーー、急に番号が飛んだなぁって感じです。
あまり距離を置かずに神楽町37号踏切がありました。
あれあれ、どこまで行くのかな、と思いながら先を調査すると次に現れたのが「能取農場踏切」という名前でした。
おっついに神楽町も終わりかと思いましたが、なんと次に神楽町41号踏切というのが現れました。
場所的には「美瑛の清掃工場」の近くです。
付近に農家があって男性が居ましたので話を聞きました。
「この先の踏切に能取農場という踏切が、、、、」
「ああ、餌取(えとり)さんね」
「あっ、餌取さんですか」
「その先の下がったところの家だよ」
「相当古い農家ですよね」
「この辺の踏切には農家の名前なんかが付いてるね」
「ここの踏切は神楽町41号踏切ですけど」
「昔はこのあたりも神楽だったから国鉄が番号を付けたみたいだね」
「ありがとう、ございました」
って感じです。
そう、明治30年に旭川まで鉄道が開通し明治32年には美瑛まで鉄道が開通しています。
その頃まだ美瑛村は開村していません。
美瑛村の開村は明治33年なのでその頃今の美瑛は神楽村の一部だったはずです。
ひょっとして今の美瑛町周辺に神楽の名前の付く踏切があるかもしれない、、、、。
わくわくしてその先を探したのですが、その先は「北美瑛駅」があってその脇の踏切も北美瑛構内となってしまっていて「第4旭川浦河線踏切」となっています。
浦河?と思いましたが後で調べると国道237号線のことなんですね。
次にあった踏切は美瑛坂の所にある「野上農場踏切」でした。
そして次は美瑛の街に入ってしまいます。
そこにあった踏切の名前は「美瑛原野4号」という踏切でした。
残念な事に美瑛の街には踏切が一つだけでした。
今回の調査はこれで終了です。
今回の調査で十勝線沿線はかつて神楽村という広大な範囲がありその起点は今の神楽と神楽岡の境の大雪通辺りを神楽村零号として1号2号と今の美瑛に向かって番号を振っていたという事だと思います。
その法則は千代ヶ岡あたりから怪しくなりますが、踏切には41号までその痕跡があり、その先は丘を越えて美瑛の街に入ったところで「美瑛原野4号」という踏切になっているという事でした。




 

十勝線

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 6月28日(水)11時18分3秒
返信・引用 編集済
  そういえば、踏切調査ですが先日美瑛に行ったときに少しだけ富良野線の踏切名を見てみました。

ははーーーん、ですね。富良野線の踏切名は「神楽町○号踏切」でした。
西御料地のあの辺りは大正期の地図を見ると零号に始まって15号まで地図には載っています。
そしてバス停名も市内は新しいバス停になっていますが、西神楽の方は全て「○号」というバス停名でした。
以前からつまらないバス停の名前だなとは思っていたのですが、訳が分かってくるとなるほどねーという感じです。
バス停は17号くらいまではあったように思うのですが。

つまり踏切名といい、バス停名といい、永山の宗谷線沿線とほぼ同じ関係性になっていました。
明治30年に旭川まで鉄道が開通し、その後宗谷線、富良野線とも延伸になったと思いますが、
ほぼ同時期の地名と線路の関係はほぼ同じ規則性をもっていたという事です。

ちょっと不思議なのは、線路が敷設され踏切が設置された時期なんですけど、この頃は永山、神楽ともに「村」だったと思うのですよね。
しかし現在の踏切名は「永山町○丁目踏切」「神楽町○号踏切」です。
この辺りの町村名変更に伴う踏切名の変更があったのか、それとも遮断機や警報機が付いて
踏切管理の必要性があった時には村から町に変わっていたのか、その辺りは良くわかりません。

PS.
当時は天塩線、十勝線でしたね。
 

Re: 臼別・・・

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 6月23日(金)20時18分52秒
返信・引用
  ウシベツ違い?
同じウシベツでも永山村の牛別と東旭川村の牛朱別(呼び方色々です)を分けて考えた方が良いと思います。
語源は同じでしょうが、牛別と牛朱別では牛朱別川を挟んで村も分かれてますし、牛朱別はかなり広いです。
(元々分村前は東旭川村全域が旭川村字ウシシュペツでした)

でもって、私もちょっと勘違いしてましたが、
かんじさんの紹介してくれた新聞記事を改めて読み直してみると、記事中で言う臼別は確かに東旭川村の牛朱別の事のようですね。
おっしゃるとおり、宮下通りの地先の事を指してるようです。
要するにこれは後の常磐公園の場所選定を巡って宮下派と五条派が争い、宮下派が主張していた場所ですね。
五条派は当時の司令部台付近(5・6条通り地先)を主張していました。
公園設置場所問題は、旭川が町に昇格したのを機に明治34年頃から40年代にかけて争われており、新聞記事の時期とも合致します。
ですからこれは、常磐公園と別問題ではなく、常磐公園問題そのものと思われます。

一度は臼別(牛朱別)に内定したとありますが、
大河内さんや石川さんは、これが余りに遠くて山水の美に欠けるとして、また、
宮下派・五条派の争いに業を煮やして?中島街道傍の牛別(ややこしい^^;)に私設の公園を造ろうとしたのではないでしょうか。
 

Re: 臼別・・・

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 6月23日(金)10時06分41秒
返信・引用 編集済
  > No.1376[元記事へ]

momongaさんへ

えっと。
先日、ロータリーにいる郷土史家さんと話をしました。
中島街道踏切の話とても興味深いって。

中島街道の存在は郷土史家さんも知らなかったようで、新聞記事を見せていろいろ説明したところ、記事に出てくる「臼別の公園計画」は知っていました。
momongaさんが言うように臼別では無くウシベツだそうです。
でその場所は現在の宮下通り22丁目辺りでしょうか。
上川神社が一時置かれていた場所がありますよね。
あの先の東川との境辺りに共有地があってそこに公園を作る計画だったそうです。
あの辺りを明治30年ころはウシベツと呼んでいたそうで、そこの事だという事です。
記事中ではその公園を待てないので大河内三千太郎(おおこうちみちたろう)が公園を作ろうとしたという記事ですが、現実には実現していません。
市がウシベツに作る予定だった都市公園も完成しなかったわけですが、
やはりというか先駆的な人は旭川が立派な都市となるために公園が必要という考えを持っていたのですが、現実には「道路もなにも全然整備も進んでいないのに、何が公園だ!」という意見が大勢を占め、実現はされなかったようです。
結局、都市公園の整備は第七師団との間の協定により、現在の常盤公園が整備されることにより実現するわけですが、、、、。

その他、永山町零丁目踏切の話、そしてその丁目がその先までずっと続き当麻になっても丁目が連続し、当麻27丁目まであること。
結局、明治大正期の永山町の範囲が零丁目に始まり27丁目まで踏切の名前とバス停の名前として残っている事など興味深そうに聞いてくれました。
 

Re: 中心部の古い建物

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 6月22日(木)20時02分12秒
返信・引用
  かんじさんへ

そうですか、今年はバスツアーなしですか、、ちょっと残念かな。
どちらかと言うと市内はブラタモリごっこに取っておいて、普段なかなか行けない場所へのバスツアーが楽しみだったんですけどね。^^;

まあ、灯台下暗しで、意外と平和通りの建物なんてあまり気にしないですから良い機会かもしれません。
前面と内装だけ着飾って、古い裏側を隠してる建物も多いですよね。
私も昭和の平和通りの様子を少し想い起しておきます。

 

Re: 場所お借りしてよろしいでしょうか

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 6月22日(木)19時36分18秒
返信・引用
  Fさん、こんばんは。

誹謗・中傷・荒らしというわけではないので削除まではいたしませんが、
指摘されてる問題は日本国内全てにあてはまる社会問題であり、特に旭川固有の問題という事ではありません。
従って、この問題でのこれ以上の書込みはご遠慮願います。
もちろん、他の旭川にまつわる話題でしたら歓迎いたします。
 

書込み再開します

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 6月22日(木)19時28分2秒
返信・引用
  実は先日、父が逝きました。
92歳、よく頑張ってくれたと思います。
3年前に思いがけず母に先立たれてから気落ちしていたのが目に見えて明らかでした。
よく言われる事ですが、やっぱり男は連れ合いに先立たれると弱いですね。
まあ、歳も歳でしたが・・・。

ようやく落ち着いてきましたので、また書込みを再開したいと思います。

 

中心部の古い建物

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 6月21日(水)16時28分57秒
返信・引用 編集済
  私の所属する「旭川の歴史的建物の保存を考える会」では毎年見学会を行っていますが、
今年度は遠出せずに旭川市中心部を散策し古い建物を見て回る予定です。
そんな事から買物公園を中心とする地域の古い建物を再度見てみました。
スタートは市役所となる予定ですのでその辺りから見ると、当然ながら市役所庁舎(昭和33年)がありますが、もっと古い建物は5条通り8丁目のNTTビルが市庁舎よりも先に建設されています。
ついでにRC構造(鉄筋コンクリート)の建物で古いものを調べてみると驚いたことに、市民文化会館の前にある古い4階建ての中央団地と呼ばれるアパートは市の建物としては最も古く昭和25年だそうです。
その辺りからふらふら歩くと、6条通り8丁目の奥まったところに質屋さんがあってそこには古そうな倉がありました。
次に7条緑道と買物公園の交差点には「まちなか文化小屋」という場所があって、今年は8回にわたり旭川の懐かしい街並みに関する講演があるそうです。
毎回18:30~20:00で
6/15,6/29,7/13,7/27,9/7,9/21,10/5,10/19
です。
7月15日までは百井コレクションという昭和時代のマッチの箱が数百点展示されています。
さて話は建物に戻って、昭和通りまで行くとそこに「ノムラビル」というビルがあります。
現在改修中ですがこのビルもかなり古く、かつてここは銀行だったらしいのですが、知っている方いらっしゃいますか?
次に買物公園にもどると、4条通り7丁目左の角の建物、1件はポプーレというレストランかな?この建物を横から見ると、、、。おっ煉瓦です。この建物はレンガで出来ています。
年代は分かりませんが、大正あるいは新しくても昭和初期ということになります。
もう一軒4条本通りに面したKOOSと47と書いた小じゃれた建物がありますが、この建物も横から隙間を覗くとレンガ造りです。
次に4条通りを渡って3条に入ると、古そうで有名なのは喫茶店のちろるとか仏蘭西亭の建物なんかが古いですね。
2条まで下がると昔大橋時計店という大正時代に建てられた3階建てのビルがあります。
外観は改修されて綺麗になっているのですが、昔の面影を再現した意匠となっており興味深いです。
昔の意匠を残すという意味では、川島名誉教授が得意なのですがグランドホテルとか北鎮記念館が有名ですね。
3条通りにあるカラオケ歌屋の入っている建物も屋根上にAKAMATSUと書いてありますが、このビルも昔の意匠を残したようです。
今回の調査で発見したのは2条本通り8丁目右にあるマチバルというスペイン料理店が有るのですが、あの建物は見事なレンガ造りです。
店舗全面は見事に綺麗になっていますが、横と後ろを見ると立派なレンガ造りであることがわかります。
2条通り7丁目左に木造ですがかなり古い家屋があり以前は居酒屋として使われていました。
後は1条通りになってしまいますが、9丁目に雨尾米穀店という古いお店が現在も営業しており、その向いには有名な「越後屋」があり取り壊されてしまいましたが、現在は隣のグリーンハウスと呼ばれるアパートが残っています。
市役所から駅までの買物公園を中心とした歴史的建物、、、、。
こんなもんでしょうか。
 

場所お借りしてよろしいでしょうか

 投稿者:  投稿日:2017年 6月20日(火)02時15分12秒
返信・引用
  6月21日水曜日発行の【朝日新聞】を見てください。道内版しか載らないかもしれません。
2015年8月8日に旭川市豊岡で起きた視覚障害を持った男が運転する車が起こした交通死亡事故について掲載される予定です。

どうか1人でも多くの人に見て知ってもらいたいです。
95%以上の視野欠損があろうと、あの覗き穴から見て判断する視力検査さえ通過すれば視覚障害者が運転免許を取得・更新出来る事について。
高齢者の運転もそうですが、今の日本では重度の視野欠損の障害者が普通に街中を走っている恐ろしい現実があります。この旭川の悲運な事故をきっかけに少しでもこの事実が広まって欲しいのです。

場違いの書き込みでしたら削除してください。
失礼しました。
 

寒かった~

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 6月 4日(日)14時36分1秒
返信・引用
  いやあ、昨日の音楽行進は寒かったですねぇー。
気温はほぼ予報通りと言えば予報通りだったんですが、雨が落ちて来なかったのが救いでした。
プレイヤーの方々はいつも通り元気いっぱいでしたが、観ているほうはどんどん身体が冷えて行きます。
3時間に及ぶパレードの終わりのほうでは、年配の方々をはじめ、周りからだんだん人が減って行きました。
さすがのワタシもパレード終了後のアフターコンサートに足を留める余裕がなく、屋内で少し体温を戻してから帰路につきましたよ。
ほんとうはアフターコンサート終了まで楽しんで一杯ひっかけてから帰るつもりだったんですけどネ。
プレイヤーの皆さんごめんなさい。m(__)m


さて、今年の音楽行進で改めて感じた事ですが、
やはりマーチングというのは、きちっとした隊列と歩調を合わせる事が大事であると感じました。
特に昨日のような寒さの中では、ビシっと決まった隊列のチームが続く事によって最後まで見ようという気になります。
一部の敢えて自由奔放な演奏形態をウリにしている一般チームは別として、
近年は明らかに練習不足でまともな隊列になってないチームが目につきます。
もちろん、低学年にまでそれを望むものではありませんが、旭川の伝統に恥じないよう、もう少し練習する事を願います。

冷え切った身体でパレードをラストまで見たオヤジの愚痴でした。すみません。



写真:東栄高校は永嶺高校への統合で今回が最後の参加となります。
 

Re: 音楽大行進

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 6月 2日(金)12時47分2秒
返信・引用
  さて、明日に迫った音楽行進ですが、なにやらまた意地悪な天気ですねえ・・・
今週に入ってから日を追うごとに3日の状況が悪くなってきてます。
今の天気予報は信じるに値しないとは言ったものの、傾向として良ろしくないのは確かです。

心配なのは気温の低さです。
昨年もやはり日中の気温がやっと2桁に届く程度の異常低温でした。
いくら涙雨程度で中止するなとは言っても、10度台そこそこの気温の中で濡れるのは無理があります。
つい昨日からクールビズがはじまったのがウソみたいですね。


ところで、今年から荒天中止の場合の代替コンサートを設けたようです。(雨天でなく荒天と言ってるのがミソだと信じたい)
http://www.atca.jp/ongaku/
今年は試験的に文化会館小ホールを押さえてるようですが、来年は大ホールを用意するとの事です。
これはこれでたいへん良い事だと思います。
しかしながら、一つだけ懸念される事があります。
この用意があるがために、安易な中止決定を前日中にしてしまう事が常態化するのでは? という懸念です。

くどいようですが、この期間の涙雨はけっして都市伝説などではない特異気象です。
これまで84回もの開催で、天候理由による中止が昨年まで一度もなかったという事実をよく考えてほしいと思います。
もちろん、過去多少の無理はあったでしょうが、要するに当日パレードが始まる直前まで判断すべきでないという事です。
基本、涙雨の中で決行の構え、それが慰霊の名の下に始められたこの音楽行進の伝統の一つでもあるのです。


でもせめて今日この時間までくらいの天気であってくれるといいですね。
あとは英霊さんの機嫌次第ということになりましょうか。
 

Re: 音楽大行進

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 5月28日(日)09時26分2秒
返信・引用
  かんじさんへ

> その後、話し合いがあったのだとだと思われますが、先日来た開催要領によりますと、、。
> 「雨天決行」だそうです( ^ω^ )

おおー、それは良かった!
あいや、けっして雨の中でも強行しろという意味でなく、少なくとも前日の中止決定はなくなったという意味で・・・
昨年はたまたま当たりましたが、今の天気予報なんて信じるに値しないし、それでなくとも予期できないのが涙雨ですからね。

心配してたんですよ。
昨年の前日中止決定を機に、今後それが常態化するのではないかと・・・
次々と長年の伝統を壊してきたのがこの音楽行進ですからね。
コースも護国神社スタートに戻して欲しいなあ。


今年は護国神社祭に一足早い日程ですから涙雨は大丈夫かな?
晴れるといいです。

 

音楽大行進

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 5月27日(土)13時46分26秒
返信・引用
  6月3日はmomongaさんお待ちかねの音楽大行進ですね。
私もいつものように、アフターコンサートのお手伝いです。
昨年は雨と寒さで、史上初めての中止と言うとても残念な年になりました。
その後、話し合いがあったのだとだと思われますが、先日来た開催要領によりますと、、。
「雨天決行」だそうです( ^ω^ )
 

Re: 幻の中島街道

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 5月23日(火)21時53分43秒
返信・引用
  かんじさんへ

すったもんだ揉めた中島遊郭が道庁によって許可されたのは明治40年の事ですが、
実は明治37年の段階で既に遊郭新設の風聞があって、町会議員と町民有志によって内務省・道庁に対し「不要」との陳情書が出されています。
つまり公園構想が持ち上がった明治36年当時にも既にこういう噂があったのかもしれません。

推測に過ぎませんが、遊郭新設を防ぐための対抗手段としてこの様な公園構想をぶち上げたのかもしれません。
でも、当然の事ながら師団の要請があっての遊郭計画だろうと思われますから、結局のところ公園計画は潰されたのかと・・・

あくまで推測です。

 

Re: 幻の中島街道

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 5月23日(火)16時52分42秒
返信・引用
  > No.1380[元記事へ]

momongaさんへ

> そして極めつけが遊郭の設置です。
明治40年でしたっけ。
新師団道路も中島街道もまるで兵隊さんが旭川に遊びに出る道路のようですね(^^;

> ところで、記事では『中島街道より東方に100間の地』とあります。
> 東方と言うからには南北方向に延びる道路に対して言ってるのだと思います。
なるほど、そう解釈しましたか。
そうすればかなり近い場所ですもんね。
私は踏切の位置にどうも捉われてしまって、、、、、。

でも、新聞では理想的楽園を作ると言って着手までしているようなのに完成しなかったのでしょうか。
大河内三千太郎、石川藤作ってそれなりに有名人だった感じですけど。
役人が強かった時代ですから、潰されたかなぁ。

 

Re: 幻の中島街道

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 5月23日(火)12時49分24秒
返信・引用
  かんじさんへ

以前UPした事のある大正5年測図の中島地区の地図がありました。(かんじさんもお持ちの地図です)
わざわざ見ずらい地図を掲載してしまってすみません。m(_ _)m


私が中島街道だと推測している道路は明治33年の地図にはまだ描かれていませんでした。
ところがかんじさんが紹介してくれた新聞記事は明治36年という事ですので、この間に造られた道路と思われます。
新師団道路建設が明治38年頃ですので、この頃徐々に中島・牛別地区の開発が進められていたのでしょうね。
そして極めつけが遊郭の設置です。

ところで、記事では『中島街道より東方に100間の地』とあります。
東方と言うからには南北方向に延びる道路に対して言ってるのだと思います。
中島街道の南北方向に延びる部分から100間(約180メートル)ですから、
つまり、後の中島遊郭東端と新師団道路の中間辺りの牛別地区の事ではないでしょうか。
現在の中央橋通りと金星橋通りが交差する辺りですね。
(牛別はパルプ側だけではなく、宗谷線から金星橋側も含みます)

 

Re: 幻の中島街道

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 5月23日(火)10時19分56秒
返信・引用 編集済
  > No.1378[元記事へ]

momongaさんへ

> これらの事から、中島街道は新旭川駅ができた大正11年の時点で北見道路と分断されて街道としての存在価値を失ったものの、
> 2度に渡って移設された踏切にその名前だけが残ったのではないでしょうか。
> つまり、現在の中島街道踏切は場所を移動した3代目という事になります。

へーーーー。踏切が移設ね。
思いもしなかったです。私の頭が固いのでしょうか(^^;
さすが、というか柔軟な発想をされて疑問を解いてゆくmomongaさんの力量に脱帽です。m(_ _)m

となると、明治の時代からあの辺りの中島へ続く街道を「中島街道」といったわけですね。
だとすると、中島街道の東100間に計画されたテーマパークというのは現在のパルプ工場辺りかな。

koropeta さんが牛朱別と推理された、臼別もそっちの方向ですよね。
臼別 牛別 牛朱別 みんな同じですね。

 

幻の中島街道

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 5月21日(日)18時27分27秒
返信・引用
  さて、しばらく零丁目の謎と永山の地番変更に話題を振られていましたが、(自分が勝手にそうした?^^;)
唯一踏切にだけその名が残る”幻の中島街道”の存在を追ってみました。

かんじさんが見つけてくれた新聞記事によれば、少なくとも明治30年代には実際に中島街道が存在していたのは確かです。
いったいどの道路を指し、どこへ消えてしまったのか?
縮尺が苦しいながらも、正確性では信頼のおける国土地理院の1/50000、1/25000地図を元に解析してみました。


明治42年1/50000地図 → 永山村字牛別付近(後の新旭川地区)に、
             北見道路・天塩線(宗谷線)と直角交差し、石狩川手前で90度屈曲して牛朱別川・中島に至る道路らしき線が描かれている。

大正5年1/25000地図  → 縮尺が上がって、明らかに同じ位置に道路が描かれている。
             他に該当する道路が見当たらない事から、これが中島街道と思われる。
             中島と反対側の端は番外零丁目道路にV字の形で合流している。

昭和3年1/25000地図  → 石北線が開通し、新旭川駅によってこの道路は分断されてしまっている。
             それに代わって駅に隣接して新たな踏切と道路ができている。(2代目中島街道踏切?)

昭和25年航空写真   → パルプ工場ができて、永山通り(現大雪通り)の東側は道路が消滅しているが、
             新旭川駅~中島(遊郭)の道路はまだそのまま残っている。

現在のGoogleEarth  → 金星橋付近の斜め部分の道路が区画整理によって消滅している。
             昭和25年の航空写真で金星橋通りはクランクの形で2代目中島街道踏切を渡っていたが、
             真っ直ぐ国道39号線に接続させるため現在の位置に踏切が変更されている。(3代目中島街道踏切?)


これらの事から、中島街道は新旭川駅ができた大正11年の時点で北見道路と分断されて街道としての存在価値を失ったものの、
2度に渡って移設された踏切にその名前だけが残ったのではないでしょうか。
つまり、現在の中島街道踏切は場所を移動した3代目という事になります。

最初は、新旭川駅の正面の通り(現永隆橋通り)がそうかな?と思いましたが、
昭和25年の航空写真から、どうやらその1本隣の細い道路が中島街道のようです。


 

Re: とんでもないレアケース?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 5月20日(土)10時45分0秒
返信・引用
  > No.1374[元記事へ]

かんじさんへ

遊園地構想の記事、面白いものを見つけましたね。
実現したという話は聞きませんが、代わりに遊郭ができちゃったってのは皮肉な話ですよね。

今博物館で「昭和の旭川~軍都から平和都市へ」という企画展示をやっています。
私もまだ行ってないのですが、明日21日にガイドがあるという事なので都合が合えば行ってみようと思います。


中島街道らしき道路を見つけました。
まとまり次第UPします。

 

Re: 臼別・・・

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 5月20日(土)10時31分33秒
返信・引用
  koropetaさん、こんにちは。

> 臼別=牛朱別じゃないだろか?

私も臼別は間違いだと思います。
新旭川地区ですので牛朱別ではなく牛別ではないでしょうか。

 

臼別・・・

 投稿者:koropeta  投稿日:2017年 5月17日(水)20時36分59秒
返信・引用
  臼別=牛朱別じゃないだろか?  

Re: とんでもないレアケース?

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 5月16日(火)16時28分10秒
返信・引用 編集済
  momongaさんへ


> 要するに、0丁目道路を設ける意味は、区画の数と道路番号を合わせる意味合いがあるわけで、0丁目区画をつくっちゃうと意味がなくなるんですよね。
> 案外、当時の道庁はこの事を開拓が進む過程の中で気付いたのかもしれません。

途中で気付くほど当時のお役人がおバカには思えませんけどね(笑)
でも線(道路)が先にありきで、その名前を使って区画も表そうとしたようですね。
新旭川市史P172によると旭川市街では明治28年2月16日告示の字(あざ)の設定以降零は無くなったようです。
ただ、この呼称変更に関する文書は見つかっていないと書いてあります。


もう一つ中島街道に関する情報をほんの少し見つけました。
明治36年の小樽新聞に旭川に関する記事が載っており、その中に中島街道という言葉が出てきます。
要約すると、当時旭川には公園が無く、文化的な都市とするために大河内三千太郎、石川藤作という二人が公園作りを始めたような記事です。
その公園の場所が、中島街道より東方に100間の地であると書かれています。
この記事だけで場所を特定することは難しそうですけど。
それよりこの記事の内容が面白いです。
この公園が完成したのかどうかはわからないのですが、構想では理想的楽園とあり、射的場、大弓場、西洋料理店、パノラマ場、物産陳列場を設けてみんなに見せて上川を紹介したいとなっています。
凄いです。今のテーマパークです。
こんな事が明治にあったんですね。

注:この新聞記事は中央図書館の司書さんに探していただきました。

http://i.imgur.com/1JnnQM3.jpg

文中に「臼別地方」という言葉が出てきますが、どこなんでしょうね?

【追記】させて頂きます。
このこの新聞記事は明治36年という事ですが、36年というと師団が出来て一気に賑わいが湧きあがった頃でしょうか。
とはいえ中心市街地以外はまだまだ未開でしょう。
そんな頃に近い地図といえば明治41年のものがありますが、それをみても中島街道踏切付近にあたる所には中島街道らしき道路は有りません。
永山村に区画線は引かれていますが、実際にあった道は新師団道路と天塩道だけだったと思います。
なので新聞に出てくる中島街道が現在の踏切に書いてある中島街道と同じものである可能性にも疑いがあります。

さらに、大正7年の結構正確な地図を見ても、当該の中島街道踏切の場所に道路は見当たりません。
現在の中島街道踏切なるものは、意外と新しいのかも知れませんねェ。

 

Re: とんでもないレアケース?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 5月13日(土)19時13分6秒
返信・引用
  かんじさんへ

> 確かにそうなんですが、そこを永山一丁目道路とすると。零丁目踏切道路の手前の区画が一つ多いですよね。

確かに番外零丁目を差し引いても一区画余計ですね。
永山の区画幅が狭い気がします。その分位置関係がずれて余計な区画が書き入れられているのかもしれません。


> ただ、零丁目が廃止されたタイミングがかなりバラバラというか、旭川の市街地の零丁目廃止(明治20年代?)から永山の廃止まで(昭和11年?)期間がありすぎませんか?
> これは廃止の指示というよりは、使用を続けるのはいいけど新しく零はダメだよって感じでしょうか。

そうなんですよ。あまりにも期間の幅が広過ぎるんですよね。
何らかのお達しがあったとすれば、旭川市街の零丁目を廃止した時に他も一斉に変えてしまったと思うんですよ。
ですから「零」がまずいと言うよりも、区画としての零丁目や零号を設けたのは道庁のミスではなかったか?と思えてきました。

かんじさんがおっしゃってるように、道路としての零は有りだとしても区画としての零はおかしい、というのは一理あると思います。
幾何学的に、面の数より辺の数のほうが1つ多いわけですから、10区画あれば道路は0から数えて10で終わるか、1から数えるなら11までになります。
前者のほうが全区画の数とお尻の道路名称の数字が合致しますから整合性がありますよね。
後者ですと区画は10丁目で終わりなのに、道路だけは11丁目道路ができちゃいます。
要するに、0丁目道路を設ける意味は、区画の数と道路番号を合わせる意味合いがあるわけで、0丁目区画をつくっちゃうと意味がなくなるんですよね。
案外、当時の道庁はこの事を開拓が進む過程の中で気付いたのかもしれません。


そこで、ふと気になって、当初から区画ベースであろう札幌市街の地図を改めて見直してみました。
これがまたビックリ!(笑)

南北方向の道路は、北1条通りと南1条通りから始まっており、大通りを0条通りと考えるなら前者方式になるわけです。
ならば東西方向も創成川(石狩街道)を0丁目通りとしてカウントしているだろうと思いきや、数字が合わない!

なんと、創成川は1丁目通りに相当しており、東西隣の道路は2丁目通りから始まっています。
今まで気にした事ありませんでしたが、西4丁目通りである駅前通りは創成川から3ブロックのところだったんですね。
つまり、東西方向は、後者方式という事です。
なんで東西方向と南北方向で違うのか・・・(~_~;)


これらは何か意図があってのことなのか、それとも道庁がちゃらんぽらんだったのか?
「条」と「丁目」で何か考え方が違うのか?
う~ん、謎です。


 

Re: とんでもないレアケース?

 投稿者:かんじ  投稿日:2017年 5月12日(金)10時45分20秒
返信・引用
  momongaさんへ

> 対岸の師団用地の東端が近文六号道路なので、石狩川を挟んだ延長線上は永山一丁目道路という事になります。

確かにそうなんですが、そこを永山一丁目道路とすると。零丁目踏切道路の手前の区画が一つ多いですよね。
まぁそれほど制度の高い地図ではないでしょうが、当時の物としては貴重な資料です。


> 零丁目の廃止についてですが、
> これらの事から私が想像するに、「零」の語は使うなという何らかの御上のお達しがあったんじゃないかな。
> 当時の北海道の土地管理は全て道庁が権限を握ってましたから、地元の自由にはならなかったはずです。

確かにこの時代の地方行政は勝手にできるものではなく、すべて道庁の指示承諾のうえ行われていますから、零丁目を使わなくなった背景には道庁の影響がありますよね。
ただ、零丁目が廃止されたタイミングがかなりバラバラというか、旭川の市街地の零丁目廃止(明治20年代?)から永山の廃止まで(昭和11年?)期間がありすぎませんか?
これは廃止の指示というよりは、使用を続けるのはいいけど新しく零はダメだよって感じでしょうか。

 

Re: とんでもないレアケース?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2017年 5月11日(木)20時56分52秒
返信・引用
  訂正!

「上川郡明細図」の区画割りがおかしいと言っちゃいましたが、
石狩川対岸の鷹栖村の道路と対比したら、区画割りの辻褄はどうやら合ってるみたいです。

説明しますと、
対岸の師団用地の東端が近文六号道路なので、石狩川を挟んだ延長線上は永山一丁目道路という事になります。
同じく対岸の近文七号道路の延長が永山二丁目道路で、現在の環状線です。
つまり、かんじさんが一丁目と記している区画が実は零丁目です。

十丁目と記しているところは実は九丁目で、対岸は近文十三号道路、現在の北インターに接続する道路ですね。
ここは道路が他より太く描かれていますが、東・西兵村の中央に当たり、番外地として大隊本部や共用施設、民間店舗などが集約された区画です。

ですから区画割りは概ね間違ってはいないんですね。
要するに、全体的に描画の精度に欠けていますから、私もかんじさんも零丁目の区画を勘違いしたものと思われます。
たぶん目安となる天塩線のカーブに惑わされたのではないでしょうか?



零丁目の廃止についてですが、
永山の場合は結果として隣村当麻に跨る26丁目に渡って大規模に地番を変更するという大胆な手法を採ってますが、
時期は異なるものの、他地域でもことごとく「零」の名が消え去っています。
古くは旭川市街の零丁目もそうですし、かんじさんが最初に指摘された秩父別も然り、神楽町の零号、東神楽の零号、
たぶん他にもあるんじゃないかな。
ただ、比布などには「零線」に相当する「基線」の名は今でも残っています。

これらの事から私が想像するに、「零」の語は使うなという何らかの御上のお達しがあったんじゃないかな。
当時の北海道の土地管理は全て道庁が権限を握ってましたから、地元の自由にはならなかったはずです。

ただ、仮にそうだとしても、その理由が不明ですけどね。(~_~;)



 

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