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Re: 永遠の旅人さん

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 6月 7日(火)11時56分47秒
返信・引用
  ごぶさたです。

4日の雨は荒れたと言うような降り方ではありませんでしたよ。
細かい雨でけっして強い降り方ではなく、まあ涙雨の範疇ですね。
ただ気温がかなり低くて、日中でもようやく10度を上回る程度しかありませんでした。
あの気温で雨に濡れるのはさすがにまずいでしょうね。
翌日はスカっと晴れて気温も回復しただけに悔しいところです。


新しい旭川市庁舎の場所選定は間違いなく出来レースです。
もう最初から決めていて、検討するふりだけして実は変えるつもりがなかったというのが見え見えです。
文化会館建て替えとセットにして現庁舎取り壊しも既定路線でしょうね。

文化会館は何年か前にアスベスト対策で大掛かりな工事を施したばかりで、それこそまだ40年しか経ってない建物です。
ほんとにスクラップ&ビルドが好きな人達だと思います。
どんどん新しいモノと置き換えて行くんですから、歴史が積み上がらないのはあたりまえですね。

 

(無題)

 投稿者:永遠の旅人メール  投稿日:2016年 6月 6日(月)22時13分58秒
返信・引用
  momongaさん
ごぶさたしております。
北海道音楽大行進の中止は非常に残念でしたね。
確かに招魂祭の涙雨は有名ですが、そんなに荒れたのでしょうか?

ところで旭川市庁舎と市民文化会館の改築が記事に出ていましたね。
http://e-kensin.net/news/article/9099.html
 

Re: また一つ伝統が・・・

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 6月 4日(土)19時16分17秒
返信・引用
  かんじさんへ

そうか、お手伝いがあるからかんじさんも関係者になるんですネ。(^^)


> 80年ぶりに雨のため中止と聞いていましたが、80年前に中止になったのは雨のせいではなかったということでしょうか?

80年ぶりもなにも、どうやら昭和24年から27年の4回開催中断以外は事前中止決定そのものが初めての事みたいです。
そう言われてみれば私の知る限りでパレードが中止になったという記憶がありませんし、
でも過去には一度や二度あるだろう、くらいに思っていましたが、なかったらしいです。
昨年まで83回の開催で、悪天候による中止が一度もなかったなんて驚異的です。

でも私も昔、かわいそうにズブ濡れになって行進している姿を見た経験がありますから、
実際には小雨決行、多少の雨くらいでは中止しなかったという事なんでしょうね。

結果的に今日の中止は正解だったと思いますが、
やはり前日中の中止判断は、この音楽行進には安易にあてはめるべきではないと考えます。

 

Re: また一つ伝統が・・・

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 6月 4日(土)14時47分41秒
返信・引用
  > No.1266[元記事へ]

momongaさんへ

> 音楽行進が中止になってしまいました。残念です。
本当に残念ですね。
80年ぶりに雨のため中止と聞いていましたが、80年前に中止になったのは雨のせいではなかったということでしょうか?

> この方法で実際問題、悪天候で中止したケースがほとんどないというのも驚異的です。(昔は多少無理もしたでしょうが)
私がかなり小さかった頃ですが、雨の中をカッパを着て鼓笛隊が歩いていた記憶があります。
たぶん兄の写真だったと思うのですが、カッパを着ていましたね。

> 関係者のご苦労は多大かと思いますが、
お陰様で私は家でゆっくりしています(^^;
でも残念です。
 

また一つ伝統が・・・

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 6月 4日(土)13時07分41秒
返信・引用
  音楽行進が中止になってしまいました。残念です。

私も永年この行進を見に行ってますが、前日中に中止を決めたというのは聞いた事がありません。
それもそのはずです。天候を理由に中止を決めたのは、長い歴史をもつこのパレードで初めての事だそうです。


そもそもこの音楽行進は、例年護国神社祭に降る泪雨の心配がつきまとうのが常です。
でも、多少ぱらつく事はあっても不思議とパレードの間は雨が上がっている事が多いのも常です。
事実、私は傘を持って行ってもパレードを見ながら差した経験がありません。
(開会式へ向かう時や、アフターコンサートの途中からならありますが)
主催側もそんな特異性を知ってか、これまで天候を理由に前日に中止を決定するという事はありませんでした。

まして最近は全く当てにならない天気予報です。
昨日の時点で今日は雨の予報でしたが、その昨日だって終日晴れの予報であったのに実際は終日曇天一時雨、日の沈む頃になってようやく空が明るくなってきたという外しっぷりです。
バクダン低気圧が来るとか、前線が通過するとか、よっぽど明白な気象状況でない限り信用できないのが最近の天気予報です。
はっきり言って、そんな天気予報を根拠に早々と中止を決定されると諦め切れない、というのが本音です。
参加団体に負担をかけない配慮なのでしょうが、参加団体にしても年1回のこの音楽行進を楽しみにしているわけです。
「もしかしたらできるかもしれないからギリギリまで待てば?」という気持ちが強いのではないでしょうか。


そうは言いましても、今日の天気は確かに実施するには少々無理がありますね。
雨はこの後おそらく上がるでしょうが、気温が低過ぎです。
こんな日に限って天気予報は当たりました。 ← 皮肉と未練たらたらです^^;


ただ私が心配してるのは、80年以上も続けてきた伝統的な実施基準まで変えてしまうのか?という点です。
冒頭に言いましたように、この音楽行進開催日(護国神社祭)の天候には明らかな特異性があります。
だからこそこれまで当日になるまで中止の判断はしてこなかったのです。
この方法で実際問題、悪天候で中止したケースがほとんどないというのも驚異的です。(昔は多少無理もしたでしょうが)

関係者のご苦労は多大かと思いますが、
下手に天気予報なんか信じるよりは、永年の経験則に従ったほうがよっぽど「あ~できたのに~」がないと思いますよ。





 

天気が心配

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 6月 3日(金)13時54分17秒
返信・引用
  明日は音楽大行進です。
天気がちょっと心配ですね。雨ばかりでなく気温が低い・・・
涙雨はいつもの事ですが、晴れの予報が外れている今日とは逆に外れる事を願っています。


今年の第2師団駐屯地祭は、6年ぶり2度目のブルーインパルスがやってきますね!
http://www.mod.go.jp/gsdf/nae/2d/event/28souannai/28souannai.html
やあー、またあの迫力ある曲技飛行が見られるのは嬉しい限りです。

18日に予行飛行、19日本番飛行と、実質2日間旭川上空にやって来ます。
楽しみです!
昨年はF15がやって来るはずだったんですが、ザンネンながら天気に恵まれず中止。
音楽行進は曇っていても問題ありませんが、
このブルーインパルスだけは何とかスカッと青空になってほしいと切に願います。

 

Re: 国土地理院の地図

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月28日(土)10時17分0秒
返信・引用
  おおーかんじさん、さっそく見つけて来ましたね。
図書館にありましたか。
以前、図書館で戦前の地図を一通りコピーしていただいた時にはこんなのはありませんでしたけどね。
内容はモリゴロウさんの地図と変わらないようですから、同じ地図の縮尺違いっぽいですね。

当時は地図の販売自体も制限されてたでしょうし、出回るとしてもこのように改描されたものだったという事ですね。
まさか旭川の地図でこのように改描されたものが現実に見られるとは思いませんでしたよ。

 

Re: 国土地理院の地図

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月27日(金)10時23分30秒
返信・引用
  > No.1258[元記事へ]

momongaさんへ

私も手に入れました。
戦時中の地図です。
図書館にありました。
見事な「戦時改描」です。
発行年、印刷年は入っていませんでした。
発行者でしょうが「参謀本部」と入っています。
しかも 右上に「秘」としっかり入っています。

これがモリゴロウさんのおかしな地図の原型というか戦時中の物だと思います。

この一枚以外の地図にはすべて大町支線が入っていました。

 

Re: 戦時改描

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月26日(木)11時22分56秒
返信・引用
  かんじさんへ

> 郷土史全般に関しては学芸員さんは絶対的に豊富な知識を持っていますが、
> 細かな部分やマニアックな調査項目に関しては素人だって決して負けていませんからね。

その通りですね。
所蔵されてる資料や物品、それにまつわる情報はさすが博物館だなあ、と思う場面がいくつもありますし、
やはり古くからの常設機関だけに、それらの蓄積は我々の比ではありません。

ただ思うのですが、博物館の場合、当たり前ですがどうしても”モノ”が必要なんですよね。
何か物理的な資料や物品があってはじめてそれにまつわる調査が成される。
あるいはその逆のケースもあるでしょうが、いずれにしても断片的なモノの調査の積み重ねが主なんですよね。
調査済みの案件については詳しいが、未調査あるいは不明のものについては我々と変わりありません。
それどころか今回の地図のように我々が先行して調べてるケースだってあります。
この掲示板で採り上げられてる話題の数々も、けっこう学芸員さんの知らない事も多いんじゃないでしょうか。
岡本さんもおっしゃってましたが、旭川の歴史には意外と謎が多いとされてますから、まだまだその余地ありです。


> こんど岡本さんとじっくり話せる時間を作りましょうかねぇ。

ぜひそうしたいですね。
実は岡本さんとお会いしたのはもう4度目なんですけど、何故か顔を覚えてもらえてない・・^^;
(目がかなり悪いみたいです)
でも吉田初三郎の時のことを話したら、かんじさんの事は覚えてられましたよ。

 

Re: 戦時改描

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月25日(水)17時02分28秒
返信・引用
  momongaさんへ

> 40名近い方々が熱心に聞き入ってましたね。
なかなかの盛況ぶりで私も行きたかったな。

> 突っ込みたいところがたくさんあったのに・・・^^;
郷土史全般に関しては学芸員さんは絶対的に豊富な知識を持っていますが、
細かな部分やマニアックな調査項目に関しては素人だって決して負けていませんからね。
こんど岡本さんとじっくり話せる時間を作りましょうかねぇ。
そういえばmomongaさんとは吉田初三郎の屏風絵を岡本さんに見せてもらった仲でした。
それ以前にも旭川の地名由来で岡本さんと面識があったとか言ってましたね。

> 中外拓殖という会社についても全く分かっていないという事なので、例の論文がネットで見られる事を紹介したところ、
> 「情報ありがとうございます!」とえらく感謝されました。

それは郷土史研究家として面目躍如でしたね。
私もなんか元気が出ます。

 

Re: 戦時改描

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月24日(火)12時11分13秒
返信・引用
  思わぬところで思わぬ話題になって元々の話題が飛んじゃいました。
そうそう、かんじさんの北門町の河川跡から飛んじゃったんでしたね。(^^)
既に自己解決したようですので、今度私も現場を見てきます。


でもって、22日には再度博物館へ赴き、岡本学芸員さんによる展示物の解説をきいてまいりました。
40名近い方々が熱心に聞き入ってましたね。
同じ歴史経緯でも多少観点が違うところもあり、まあまあ楽しめましたが、質問するタイミングが全く用意されてなかったのが残念です。
突っ込みたいところがたくさんあったのに・・・^^;
でも1時間程度の時間で一通りの解説ですから、岡本さん自身にとってもけっして満足な解説はできなかったでしょうね。
そこにいちいち質問を受けてたらとてもじゃないがいくら時間があっても足りない。

解説終了散会してから、何とか一点だけ例の『中外拓殖株式会社所有地連絡図』について立ち話できました。
あの地図の件を持ち出したとたん「お目が高い!」という言葉が返ってきました。
実は今回初めての展示だそうで、旭川市博物館の所蔵品だそうです。
「岐阜の図書館でも所蔵してるみたいですよ」と言ったところ、「それは知りませんでした」
中外拓殖という会社についても全く分かっていないという事なので、例の論文がネットで見られる事を紹介したところ、
「情報ありがとうございます!」とえらく感謝されました。

他にも色々話したかったのですが、どうにも忙しないのでそれだけで後は遠慮しましたが、
またゆっくりと話したいものです。

 

戦時改描

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月24日(火)09時50分17秒
返信・引用
  今回の件でいろいろ調べてみて改めて解った事ですが、こういった戦争に絡む地図の改竄を「戦時改描」というんですね。
日本では昭和15年頃から軍需施設を地図から消したり、別の物に換えたりという行為が行われたようです。
地図だけじゃなく都合の悪いものは写真の修整や様々なものが規制、改変させられたようですね。
地図は正確である事が最も重要と思っていましたが、それを捻じ曲げる戦争の恐ろしさを改めて感じます。
昭和17年からは地図の販売も禁止になっていたとか、、、、。
それでも国土地理院の前身である部署は、終戦後直ちに資料を保管し新しい組織で戦後復興の為に正確な地図作りをはじめ今日に至っています。
モリゴロウさんが提示してくれた、おかしな地図はそんな時代もあったという反面教師にしたいものです。
 

Re: 国土地理院の地図

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月19日(木)11時53分8秒
返信・引用
  かんじさんへ

私も師団線(大町支線)がちゃんと記載されていれば、戦前の地図から師団施設の文字記載を消しただけと考えたと思います。
ところが、明治32年の敷設から、昭和53年の廃線まで一度たりとも地図から消えた事などない軌道が描かれてないというのは、どう考えても意図的としか思えないわけです。

> 終戦後進駐軍が乗り込んできたときに、とにかく軍需関係のものは全て隠したという話を聞いたこともありますので、米軍に気を使ったのかななんて事も考えます。

逆に、進駐軍の意図で戦前の地図を引っ張り出して再発行した可能性がありませんかね?
進駐軍もこの頃に日本全国の航空写真を撮りまくってますよね。我々もよく使わせてもらってますが。^^;
つまり進駐軍も日本国内の地図が必要だったはずで、そのために印刷したのがたまたま件の地図だったかもしれません。

戦前のキナ臭い時代は、正確な地図というのは軍事機密でしたから、
進駐軍に「出せ」と言われて出したらこんな地図だった・・・という推測でした。

 

Re: 国土地理院の地図

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月19日(木)09時44分52秒
返信・引用
  > No.1256[元記事へ]

momongaさんへ

> かんじさんは、戦後になってから師団関連の記述が全て削除された、という解釈ではありませんか?

はい、そう思っていました。

> 実は私の解釈は違っていて、あれは戦前の地図であって、軍事施設を意図的に”隠した”地図だと見ています。

ほーーー、なるほど。
軍事施設を除いた地図ですね。
確かに当時軍事施設を秘密にしたというのは聞いていましたし、海図なんかでも海軍基地の載っていないものを見たことがあります。
可能性は高いですね。
ただ、昭和22年と言えば2年も過ぎた戦後ですので、その時にわざわざこんな不正確な地図を出すかな?って疑問は残りますけどね。

終戦後進駐軍が乗り込んできたときに、とにかく軍需関係のものは全て隠したという話を聞いたこともありますので、米軍に気を使ったのかななんて事も考えます。

昭和27年に測図が行われているようですが、その測量を基に別の戦後の正確な地図が作られたように思います。
この頃なんか混乱しているみたいですよね。

そういえば、momongaさんも持っている「地図で見る旭川の変遷」に入っている地図も、大正7年の後が昭和31年で、ずいぶん飛んでいるなと思っていたのですが、戦争を挟んだ混乱期にあって、正確な地図が作られなかったんですね。
または軍関係では作っていたかもしれないけど一般には公開されなかった可能性もありますし。

唯一あるのが1945年の米軍作成の旭川地図ってのが一番詳しく、この間を穴埋めしているかもしれません。
 

Re: 国土地理院の地図

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月18日(水)12時24分10秒
返信・引用
  かんじさんへ

たぶん私と一つだけ解釈の違いがあると思います。
モリゴロウさんの、師団線と師団関連の記述がすっぽり抜けている地図についてですが、
かんじさんは、戦後になってから師団関連の記述が全て削除された、という解釈ではありませんか?

確かに昭和22年印刷となっていますから、年号通り見るならそういう解釈が成り立つと思いますが、
実は私の解釈は違っていて、あれは戦前の地図であって、軍事施設を意図的に”隠した”地図だと見ています。

先の戦後地図とは逆で、あの地図の内容は明らかに昭和初期のままのものです。
おそらく昭和6年補入の時のままの地図のような気がします。
根拠は、
・牛朱別川の切替前である(これは大正5年測図であれば当然か)
・現旭橋架橋前の電車の軌道が描かれている
・護国神社ではなく招魂社と記載されている(改名は昭和16年)
・旭町、大町などの字名が記載されていない(昭和4年に制定)

等々ですが、要するに師団線と師団施設の記載が一切無いのを除けばそれなりに辻褄の合った地図なのです。
先のレスでも触れましたが、戦前は陸軍外局の陸地測量部が地図つくりを担っていました。
でもって、戦前は国土防衛上このような軍事関連施設を一切省いた地図がつくられていたと聞きます。
この地図はその部類ではないでしょうか?

 

Re: 国土地理院の地図

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月18日(水)11時16分14秒
返信・引用
  今回の国土地理院のトンデモ地図の一件で少なくとも戦前の地図に関しては、かなりいい加減なものも多く信頼性には疑問があるって事のようですね。
momongaさんもでしょうが、日本で一番正確な地図を出しているだろうと信じていた私にはショックな事件でした。
しかし大正5年から昭和20年の終戦にかけては、日本は異常な社会情勢であったことも確かであり、戦後の軍部否定もまた異常な状態であったわけです。
そんな政治や体制が真実を捻じ曲げトンデモ地図を作り出したのでしょう。

幸いにも現在はそのような状況には無いと信じていますので、国土地理院様にはとにかく正確な地図を作り後世に残してもらいたいものです。

私は歴史書を読むのが嫌いなのですが、古い地図を見るのは大好きです。
まるでタイムマシンに乗っているかのようなワクワクした感覚で見ています。

PS.
モリゴロウさんの出してきた地図でとんでもない事がわかりましたが、
最初の質問に戻ると、北門町の斜め住宅ですが、確かに川があったようです。
そばにお住いの方に聞きました。
そこに下水があったんだよね。それに沿って住宅が建ったんだ、もう埋めちゃったけどと言っていました。
でも下水ではなく登録上はちゃんとした川だったと思われます。
河川は河川法や水利権など別な重要な要素を含みますので、かってに埋めたり切り替えたりできません。
そのため、用地が河川の影響でいびつな形になることは良くあります。
そこに歴史が投影されることもあり、そんな場所が大好きです。
 

Re: 国土地理院の地図

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月17日(火)14時56分41秒
返信・引用
  今回のモリゴロウさんの地図画像により、国土地理院といえどもトンデモ地図が存在する事が分かりました。
我々が資料とするには全く地図としての体裁を成してないですよね。
貴重な”珍品”ありがとうございました。m(__)m


私は国土地理院の地図は基本的に測図時点の情報への加筆はできるだけ抑えるべきだと考えています。
その分測図はマメにしなければなりませんが、そうでなければいつの時点の姿を描いた地図なのか判別できなくなるからです。
かと言って、発行時点でできるだけ新しい情報を盛り込みたいという気持ちも分かります。
「鉄補」なんて用語があるくらいですから、昔はどんどん更新しなければならない代表的要素だったんでしょうね。
道路なども同じ事が言えると思いますが、加筆した内容をもっときちっと明確化してくれればまだ良いのですが。

しかしながらそれも限度があり、
今回の国土地理院の地図のように、測図から発行までの期間が常識では有り得ない長い期間で、
実際問題その間に道路・橋はもちろん、川の流れも”時代”すらも変わってしまってるのに「鉄補」「修正」の一言で済まされている・・・
とてもじゃないが「補入れ」のレベルじゃないですよね。
と言いますか、地形も市街も大きく変化した時代に測図が大正5年のままってのはあまりにも怠慢過ぎです。



モリゴロウさん、大事に保管されたらよろしいのではないでしょうか。
後の3枚の地図の1・2枚目も、
昭和に入ってからの補入・印刷にしては、旭川區のままだったり、馬鉄が記載されていたりメチャクチャです。
3枚目は先に書いたように意図的に軍事施設の記載を省いた地図でなきゃ説明がつきません。
よくよく考えてみれば国土地理院は戦前まで陸軍外局の陸地測量部ですからこういった地図の存在は充分考えられます。

国の機関の発行地図ですから、エラー貨幣やエラー切手同様「珍品」としての価値があるかもしれませんよ。(笑)
我々にしてみれば既に十二分に珍品ですが・・・
購入したのですから国土地理院にどういう事なのか問合せてみるのもいいかもしれませんよ。



 

Re: 国土地理院の地図

 投稿者:モリゴロウメール  投稿日:2016年 5月14日(土)10時15分15秒
返信・引用
  > No.1252[元記事へ]

かんじさんへ

かんじサンの分析力には脱帽です!

すごく「レア」な地図を持ってるんだ!と・・喜んで良いのでしょうか?

一歩間違えは「紙くず」にしか思えないのですが・・

当時は原本のネガ保存かマイクロフィルムでの保存だと思います。引き伸ばし、またプリントはマイラー(乳白色のトレース用紙)を使っています。それに加筆、または重ね焼きで加工するかのいずれかで地形図を作っていたと思います

文字が年代ごちゃまぜになっているのは地形図、鉄道路線図、道路図、住宅図だけのベースが何枚か(最低二枚)存在し重ねて焼いた(印刷)のではないでしょうか?
標高やポイントとなる数字、町村名が異なるの二枚の地形図が存在(戦前、戦後)しその上に重ね焼きしたのでしょう
だからカラー地図も存在すると私は推測します
 

国土地理院の地図

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月13日(金)16時30分24秒
返信・引用 編集済
  モリゴロウさんが購入した国土地理院のサイトを見てみると、少しわかってきました。
国土地理院の発行する当該地の2万5000分の1の地図は一覧に示すように大正5年の測図に始まり16種類あります。
最新版は平成18年測図、18年発行です。
ところが地図の基になる測量、測図は大正5年の後、昭和6年に鉄補(鉄道補正?)があった他は戦後の昭和27年まで行われていません。
その後昭和47年、昭和53年、昭和61年、平成3年、、、、、、平成18年と戦後は比較的頻繁に修正が行われたようです。
問題は昭和27年まで基本修正されていないにも関わらず、昭和22年、昭和23年に鉄補という形で発行されています。
これはmomonagaさんが指摘されたように、陸軍関連施設の消去修正ではないでしょうか?

そこでモリゴロウさんが示した最初の地図ですが、昭和32年8月印刷との事ですが昭和32年発行というのは現在無いですよ。
momongaさん指摘のように戦後の物だとすれば、昭和27年測量以降のものです。
となると昭和31年発行の物であると思います。
私とmomongaさんのもっている物ですね。
でもモリゴロウさんのは文字が逆方向だから、32年発行の時の別バージョンという事になります。
気付いたのは昭和31年発行のものはカラーなんです。
それ以降もカラーです。
モリゴロウさんのは白黒ですよね。
この時期大正5年の基図を修正した白黒バージョンと、昭和27年測図の新しいカラーバージョンがあって、白黒バージョンは絶版にしたのではないでしょうか。
モリゴロウさん。
再度、同じ地図を買えますか?
もう買えないのではないでしょうか。

PS.
修正加筆です。
>正式には大正5年測図  昭和6年鉄道補入、同27年修正 昭和32年8月印刷の国土地理院発行の原本です。
つまり大正5年に測図して、昭和27年の測量に合わせて修正し、32年8月に発行した、「文字が逆の白黒バージョン」というのがあったんですね。
昨年まで。


 

Re: 信頼性が総崩れ

 投稿者:モリゴロウメール  投稿日:2016年 5月13日(金)13時55分23秒
返信・引用
  > No.1249[元記事へ]

momongaさんへ

ご指摘をいただかなけれはこの地図の知識のままでいたかもしれません(汗)

地図をよく見ると大町岐線が根元から無いじゃないですか!

本当にどうなってるんでしょうか。。。

「ブーベの恋人」住宅以来、変な地図の持ち主になってしまいましたね(笑)

ご希望があればいつでもコレクション地図をお見せしますのでご一報下さい

 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 5月13日(金)13時47分26秒
返信・引用
  > No.1248[元記事へ]

かんじさんへ

入手したのは去年の事でした。国土地理院のHPより旧版地図の入手方法から額面分の郵便小為替で代金を送りました
鉄道の補入された物をチョイスしただけなのでなんの脈略もありませんが(笑)
 

信頼性が総崩れ

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月13日(金)12時11分46秒
返信・引用 編集済
  一晩寝てややすっきりした頭で昨日の地図に対する推測を試みました。
でもその推測も今朝また覆されました。(笑)

昨日のモリゴロウさんの地図だけであれば、戦後文字表記が左右逆になった事に地理院の版対応が間に合わなかったのが要因かな?と思いました。
つまり実際には戦後の地図なんだけれども、横書きの文字表記だけは数年間戦前の左右逆の版を使わざるを得なかった・・
私やかんじさんが持ってる昭和31年製の地図は新しい表記になってるが、モリゴロウさんのはもう少し古いので旧表記のまま・・・
これで辻褄が合う! (^^)v

・・・と思いきや、今朝のモリゴロウさんの3枚目。何ですかこのメチャクチャな地図は。
かんじさんおっしゃるように完全なエラーとしか思えないですね。
師団線の鉄路がすっぽり抜けているばかりでなく、師団に関する文字記述も一切ありません。
地図はどう見ても大正以前にも関わらず、新橋が描かれ、練兵場を囲んでいるのは馬鉄でなく電車の軌道ですね。しかも旭橋は古いまま。
則図から地図印刷までの期間があまりに長過ぎるとこういう事はあり得るとは思いますが、ちょっとひどい。
もしかしたら意図的に軍事施設を省いた特殊な地図かな?


これまで国土地理院の地図はやはり一番信頼を置いて見てきたんですが、
ちょっと考え直さなきゃならないかもしれません。




 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月13日(金)10時22分35秒
返信・引用
  > No.1246[元記事へ]

モリゴロウさんへ

すみません。
モリゴロウさんの投稿を見ないで私の記事を上げてしまいました。
それにしてもおかしな地図を沢山お持ちですね。
一つずつ上げていたら切がないかもしれませんが、3枚目の地図には明らかに違和感があります。

だって、近文の引き込み線が無い!のに師団があるじゃないですか。
どうなっているんだろう、、、、。
 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月13日(金)10時08分54秒
返信・引用
  > No.1245[元記事へ]

momongaさんへ

> 手っ取り早く言えば、ベースになってる地図は間違いなく戦後の地図なんです。

そうなんですよ。
この地図は私の持っている国土地理院昭和31年発行のものとほぼ同じです。
測図は昭和25年、27年、31年のものです。
なのにそこの文字の記述が戦前の古いものというわけですよね。

良く見ると基図も少しずつ違うので、まったく同じものではありません。
文字が違うというのは、文字は別刷りなんだと思います。

モリゴロウさんへ
>。正式には大正5年測図  昭和6年鉄道補入、同27年修正 昭和32年8月印刷の国土地理院発行の原本です
昭和32年発行の測図が大正5年ってのはありえないですよね。
でもこのおかしな地図が存在しているのは確かなので、やはり何らかのエラー商品ではないでしょうか?
いつ購入されたのですか?
 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 5月13日(金)10時03分25秒
返信・引用
  > No.1245[元記事へ]

momongaさん

かんじサンへ

ワタシが掲載した一枚の地図でこれだけ物議していただき嬉しいやら、申し訳ないやら(汗)

他にも持っている地図を見て何か発見出来ればと思います

一枚目は

大正5年測図  昭和6年鉄道補入、昭和8年7月印刷の国土地理院発行

二枚目は

大正5年測図  昭和3年鉄道補入 昭和5年2月印刷の国土地理院発行

三枚目は

大正5年測図  昭和6年鉄道補入 昭和22年2月印刷の国土地理院発行

鉄道マニア的に大町岐線の引き込みが戦後GHQによって敷地内の線路が撤去されてしまったものと思っていました

そして昭和32年の地図は警察予備隊として自衛隊が発足したのちの物資輸送の線路が引かれたものと思っていました




 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月13日(金)00時31分5秒
返信・引用
  > No.1242[元記事へ]

モリゴロウさん、たて続けにすみません。

手っ取り早く言えば、ベースになってる地図は間違いなく戦後の地図なんです。
ただ、地名を記す文字が右から左への記述方式を含め、「近文」などの記載があるなど戦前のものなんですよね。
何かの比較に使うための地図なのか・・・?

 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月12日(木)23時54分48秒
返信・引用
  > No.1242[元記事へ]

モリゴロウさんへ

国土地理院からの入手ですか・・・

う~~~ん、、、単純な年号違いとかでなく、年代が完全に混じってるんですよ。
意図不明ですねぇ、何か他に情報ありませんか?

 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月12日(木)23時25分18秒
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  > No.1242[元記事へ]

モリゴロウさんへ
> 国土地理院より直接購入しました
>
> 書き足ししているので色々な施設、路線が残って(書き足されて)いますが正真正銘の国土地理院の印がついた地図です

まじですか!!!
まるでエラー紙幣みたいな地図(図面)ですね。
発行が確かなだけに、価値がありそうな、、、、、(^^;
 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 5月12日(木)22時56分45秒
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  momongaさんへ

すいません。年号が間違いです。正式には大正5年測図  昭和6年鉄道補入、同27年修正 昭和32年8月印刷の国土地理院発行の原本です

国土地理院より直接購入しました

書き足ししているので色々な施設、路線が残って(書き足されて)いますが正真正銘の国土地理院の印がついた地図です
 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月12日(木)21時21分54秒
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  モリゴロウさんへ

およよ!? モリゴロウさん、この地図はどうやって入手されましたか?
私、この地図見てここまでレスしようと思ってた事が全部ぶっ飛びました!

この地図はどう見ても戦後のものです。
なぜなら、旧練兵場を取り巻くように延びてる鉄道は終戦後の進駐軍のために延長されたものです。
また、当時まだ何も無いはずの住吉町に、戦後斜めに配置された住宅も描かれてますし、
戦前の二十八連隊にあろうはずもない警察学校が書き入れられています。
かと言って、地図に書き入れられてる町名等は全て戦前の右から左への逆書きです。

どう考えてもおかしいのですが、合成されたものではないですか?

 

Re: 鎮護

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 5月12日(木)18時44分28秒
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  > No.1237[元記事へ]

かんじさんへ

タイムリーにご返答いただきありがとうございました!

すごくわかりやすいHPでした!

読んでいて自分が初めて旭橋を見た時の事を思い出しました

ピンク?(肌色チック)で川の周りにはうっそうと柳が生えていた事も!

懐かしい思い出です
 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 5月12日(木)18時37分42秒
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  > No.1238[元記事へ]

かんじさんへ

ダンサー認定ありがとうございます(笑)

この地図は国土地理院の25000分の昭和3年の発行ですが地図の北門町(逆書き)部分に斜めに入る「川」が
あるのがわかるでしょうか?

この場所に川があった淵に沿って住宅と道路が出来たと思われます

20年くらい前にこの場所に訪問した事がありその時はまだ川があったように記憶していますが
今は暗渠になったのか、存在しない川になったのかは不明です
近々調査してきます

話は変わりますがこの地図にある自衛隊の敷地に引き込まれた線路の長さが気になりこの地図を手に入れました
 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月12日(木)16時53分38秒
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  > No.1235[元記事へ]

モリゴロウさんへ

> 自分もタモリさんと同じく段差好き(ダンサーと呼ばれます)笑
> 斜めの道路と共に気になります

ははは、momongaさんもモリゴロウさんも私も、全く同じ人種ですね。

最近、北門町16丁目のこの斜めが気になったのですが、良くわかりません。

 

Re: 鎮護

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月12日(木)16時46分44秒
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  > No.1236[元記事へ]

モリゴロウさんへ

> ぜひこの「鎮護」プレートについて教えて下さい!よろしくお願いします
当時の事が上手く整理されているサイトがありましたので、参照してください。

http://peace-asahikawa.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-a502.html

「鎮護」という言葉はあまり聞いたことが無かったのですが、改めて調べてみると
「災いや戦乱をしずめ、国の平安をまもること」ですから、やはり戦争という背景があっての言葉のように思います。

仏教用語の鎮護国家というのもありますが、上川神社が貼ったのだから仏教はおかしいかなと、、、。

別の角度からプレートを見てみますと。
このプレートは一度外して、橋を塗り替えてから最後に取り付けなおしたんですね。
銅板の下にゴムのような薄い膜を挟んでいる事、(+)プラスネジを使っている事、ワッシャーをかましていることなどから、当時の取り付け方とは違っているように思いました。
 

鎮護

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 5月12日(木)12時49分13秒
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  数年前に地元情報新聞に掲載された旭橋の改修工事で発見された「鎮護」の話を二日前20代の若者から教えてもらいました

まったく知らなかったので話を聞いて恥ずかしいったら。。(汗)

興味深々でその若者に写真を撮ってきてもらい掲載の許可を頂きました

詳しい話は本人も覚えていないらしく「謎」が深まるプレートです

ぜひこの「鎮護」プレートについて教えて下さい!よろしくお願いします
 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 5月12日(木)12時34分51秒
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  > No.1229[元記事へ]

momongaさんへ

自分は昨年の夏に友人からこの道の事を聞き二度ほど訪問しました

坂の下にある公園をみながら川の流れを想像したり(笑)

写真は④と⑤に挟まる道路を40号線方面を見て撮ったものです

左側の木が結構太く堤防から宅地に変わった時代に植樹されたものかと感じています

自分もタモリさんと同じく段差好き(ダンサーと呼ばれます)笑

8条通りの21丁目~22丁目の坂(段差)

血液センターに向かう道路の近文オホーツナイ川の暗渠の段差など

斜めの道路と共に気になります
 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月12日(木)12時09分46秒
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  > No.1232[元記事へ]

かんじさんへ

私は段差だの土手だのと言ってましたが、正式には「河岸段丘」と呼ぶんですか・・
タモリなら最初から正確に言い当てるでしょうね。(笑)
人為的に造った土手とか堤防ではないのは私にもすぐ判りました。

今回たまたまこの付近に用事があって、⑤の場所(たぶん医療センターの敷地で昔は野球グランドがあった)が小山のように盛り上がっている事に気付いた事が始まりです。
この時はまだ雪の残ってる時期だったので、雪が無くなったら改めて見にこようと思ってたんですが、
実はこの時点でもまだすぐ目と鼻の先にある件の土手道に気付いてなかったんです。
地図で見たら湾曲した道があるはずだ・・・あれ?てな訳です。

川のマチですから、探せばもしかしたらまだあるかもしれません。

 

Re: 明治・大正の旭川

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月12日(木)11時26分20秒
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  > No.1231[元記事へ]

かんじさんへ

私もこの地図の写真撮ったんですが、帰ってから拡大して読もうと思ったらピントが甘くてボケて読めずにいました。助かります。(^^ゞ
改めて読むと、まさに宅地販売のパンフレット宣伝文句のようですね。
ただし書いてある事は非常に先見性のあるまともな見方だと思います。
この地図は岐阜図書館も所蔵しているようですが、複数存在するのかな?


私も同じ論文を見て中外拓殖株式会社について知りました。
自分の持つ資料にこの名はないと思い、迷わずググることから始めましたが、ほとんどまともにヒットしないですよね。
唯一探し当てたのがこの論文でしたが、さすが学術論文らしく設立人物像が詳しく記述されてますね。
ついでながら全文をザーと流し読みして見ましたが、
設立者は北海道への入殖経験があり、その後色々な事業を手がけて山師的要素もあったらしい事と、
中外拓殖の設立当初は社名も別で銀行業を営んだ事、商売替えして社名を変えて増資の時に拓銀も絡んだようですね。
今で言う不動産デベロッパーに相当するのかも知れませんが、実際の宅地造成までやったのかな?
北海道においては何となく投機的な匂いがします。


あとちょっと気を引いたのが、
この地図は陸軍大演習での新橋架橋が決まっている事から考えて、大正13、4年頃のものに間違いないと思われますが、
この時点で牛朱別川の埋め立て宅地化も記載されている事です。
牛朱別川切り替え工事が始まる5、6年も前に既に予定されていたという事になりますね。
 

Re: 明治?の土手道

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月11日(水)17時43分30秒
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  > No.1229[元記事へ]

momongaさんへ

まるでブラタモリですね(^^;
明治期の地図に載っている「河岸段丘」がそのまま現在でも住宅地に残っているなんて、、。
実はmomongaさんご指摘の場所を私も今日見てきました。
実際に行ってみると写真よりもさらにはっきりと段差を感じる事が出来ました。
写真の1,2,3,4辺りはその落差3m以上もありそうですね。

河川の名残と言えば、牛朱別川の切り替え跡や西高の辺りの石狩川の大蛇行の跡なんかが有名ですが、こうして住宅地の中に残る河川の跡を探し当てるなんてさすがです。
この段差が旭川市の成り立ちにまで関連していれば、ブラタモリそのものなのですが、、、。

 

Re: 明治・大正の旭川

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 5月11日(水)15時15分30秒
返信・引用 編集済
  > No.1230[元記事へ]

モリゴロウさんへ

画像の掲載ありがとうございます。
こういう地図はわくわくしますよ。
で、本日私も企画展に行ってきました。
感想は皆さんのおっしゃるように「もの足りない」って感じです。
アンケートにも書いちゃった(^^;

中でも一番関心があったのは、確かにこの中外拓殖株式会社の地図ですね。
確かこの場所は亜麻工場があった場所だと思いましたが、明治41年の明細全図では
1485番という地番が付いていますので、販売の準備が出来ていたんでしょうね。
中外拓殖株式会社の地図の年代がハッキリしないのですが、
書かれている文章を読むと大正13年~14年の頃だと解ります。
大正期にはこうやって大規模に宅地を開発会社に売って開発するということもやったんですね。
そうしなければ、急激に増大する旭川への人口流入に対応できなかったのでしょう。

momongaさんへ
中外拓殖株式会社について良くわかりましたね。
私は以下の文章の中に見つけました。
同じかな。
http://www.biwako.shiga-u.ac.jp/eml/Ronso/399/ogawa.pdf
凄く大きな開発会社ですね。
図面の左下の文章を読むと、この宅地の利点が長々と書かれて言います。
図面作成時にはまだ新橋が出来ていないようですが、大正14年9月に5個師団の工兵隊総合作業で橋を架けると書いてあります。
今でいう、宅地販売のパンフレットなんでしょうね。
非常に面白いです。
 

Re: 明治・大正の旭川

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 5月11日(水)10時04分36秒
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  > No.1228[元記事へ]

momongaさんへ

同じところに関心を持っていたなんて嬉しくなります!

かんじサンが喜ぶかもとの事で

撮影した地図の一部を掲載します

「河川敷地を宅地に転用する」と書いてありましたので

不動産関係の会社だろうと思いましたが、名前だけで見ると薬品会社か銀行系かと思いました(笑)

展示期間中にこの地図をもう一度ゆっくり見たいと思いました
 

明治?の土手道

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月10日(火)22時08分35秒
返信・引用
  以前、かつての新師団通りを辿っていた時に見逃していたのですが、
旧秋月橋が架かっていた辺りの右岸堤防沿いの新師団道路に並ぶように、もう一本曲りくねった道路が地図に載っています。
「はて?こんな道路って実際にあったかな・・」と思いつつ、この雪融けを待ってブラタモリごっこしてきました。

気が付かなかったはずです。
医療センター側の旧新師団道路を行くと、
街路沿いの民家の脇から、まるで敷地の裏手に入り込んで行くような、一見して公共道路とは思えないような細い道でした。
しかも道の側面は、タモリも大好きな大きな段差ではありませんか。(^^)v


明らかに昔の川っ淵の様相です。
石狩川の古い土手道がそのまま残ったという感じですね。
その写真が①②③④です。(医療センターの反対側から順に撮ってみました)
この古い土手道は200mくらいしかないのですが、
老人ホームを挟んだ延長線上、ちょうど医療センターの裏手の様子が⑤です。

さらに逆の環状線方面、そういえば石狩川近くの市道の所々に小さな坂があった事を思い出し、付近を探索してみました。
すぐ近くの道路にあった坂が⑥であり、さらに環状線を越えてベルコの裏手にあった坂が⑦です。
これ以外にも小さな坂が随所にあり、浄水場付近まで見る事ができましたがあまり明確ではありません。

でもって、現在のGoogleEarthと旧地形が明確に判る昭和23年の航空写真に撮影ポイントをプロットしてみました。
本当はかんじさんのように重ね合わせたかったのですが・・・ツール持ってません。(^^ゞ
でもぴったしかんかんでしたね。


この土手道がいつ頃のものなのか昔の地図を確認してみたところ、思った以上に古いみたいです。
明治33年の地図では、石狩川の分流がこの付近まで迫っており、
おそらくこの流れに削られてできたであろう土手(段差)が師団練兵場まで食い込んで描かれています。
つまりこの頃既に現在に至る地形が形成されていたと思われます。

地図でははっきりしませんが、大正時代に部分的ではあるものの現在の位置に堤防が築き始められているようです。
また、件の土手沿いには数戸の民家も描かれています。
以降、堤防がいつ頃完成したのか分かりませんが、既に民家があった事から古い土手道はそのまま残されたようです。
戦後の航空写真を見ても、民家があった部分の道路が最後まで残った事がはっきり見て取れます。


いやはや、旭川にもまだこんな道が、それもフラットだと思い込んでいた末広地区にあった事にちょっと感激です。
GW中のささやかなブラタモリごっこでした。


 

Re: 明治・大正の旭川

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月10日(火)16時03分4秒
返信・引用 編集済
  モリゴロウさんへ

今回私が展示物の中で一番興味を引かれたのが、実はその『中外拓殖株式会社所有地連絡図』でした。
土地の所有を表していますので、地割図になっています。
おそらくかんじさんも食いつくのではないでしょうか。(笑)

先般、当掲示板で話題となったのが明治期の地割図でしたが、この地図は大正期のものですね。
牛朱別川切替え前の新町一帯が、このように民間会社の所有地になっていた事を私も初めて知りました。

この地図・会社について何の説明も記されてなかったのでちょっと調べてみたら、
この中外拓殖株式会社なる会社は明治44年に設立された東京本社の会社で、不動産売買・仲介会社らしいですね。
殖民政策で開発著しい当時の北海道をはじめ、湘南や軽井沢・嬬恋・草津方面の別荘地なども所有してたらしいです。
おそらく土地を右から左へ売買して儲ける、現在で言う投機目的の不動産会社ではなかったかと思われます。


地図1枚でもそこそこ色んな情報を読み取れる・・・楽しいですね。(^^)

 

Re: ②旭川における忠霊堂経緯

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月10日(火)14時59分26秒
返信・引用
  > No.1225[元記事へ]

sadakitiさん、なんと8年前のほりさんへのレスですネ。^_^;

おっしゃる通り、あれは忠魂碑跡です。
花咲運動公園内にある現在の碑と比べると、昔の忠魂碑や忠霊堂はそれなりに立派でしたよね。
だんだんとそういった記憶が薄れ、敬う気持も薄れて行くのは本当に残念です。

 

Re: 明治・大正の旭川

 投稿者:モリゴロウ  投稿日:2016年 5月10日(火)13時03分33秒
返信・引用
  > No.1224[元記事へ]

momongaさんへ

私は2日に行ってまいりました

おっしゃる通り、ちょっと視点が違うような気がしましたが
初めて知る事もあり、また興味が湧いてきました

現「医療センター」(旧道北病院)の道路を挟んだ真向いに「北鎮病院」があったとか

中外拓殖株式会社なる所が住宅地図を作っていたとか

旭川!奥が深いと感じました
 

Re: ②旭川における忠霊堂経緯

 投稿者:sadakiti  投稿日:2016年 5月 8日(日)22時53分26秒
返信・引用
  本日初めて「蘆花寄生木ゆかりの地」の石碑を見ました。その右側に道があり行ってみると大きな土台に旧陸軍の石柱(高さ1m幅10cm位)が2つ立てかけてあって。公園内の案内図には何があったのかは明示されていなくて。ここにある画像の跡地だったのでしょうか?

娘とナムナムしてきましたが、戦中に引っ越ししたとは言え、とても残念な感じがしました。
約30年前になってしまいますが高校生活の罰ゲームで新忠霊堂周辺の清掃活動させられた(恥)時に由来を教えていただいた記憶があります。

何か色々残念ですが、教えていただいてありがとうございます。

 

明治・大正の旭川

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 5月 8日(日)14時41分18秒
返信・引用 編集済
  モリゴロウさんに教えていただいた『明治・大正の旭川 街のおこりと軍都の成り立ち』へ行ってまいりました。
結局5日の日に行ってきたのですが、道新には7日の朝刊でようやくイベントの紹介がされてましたね。

感想としては、展示品が限られていたので「見ごたえ」という点では物足りなさを感じましたが、
その分厳選した感もあって、一品一品の中には初めてお目にかかるものも何点か見受けられました。
大正期と思われるちょっと興味深い地割図もありましたよ。
ただ、表題にある『街のおこりと軍都の成り立ち』という観点から言うと、その繋がりが展示物に感じられなかったのがちょっと残念でしたね。
その時どきの断片的な展示に留まったという感じです。
特に、屯田兵はともかく、何故にこの地に大師団が置かれ軍都として成り立ったのか?という視点が抜けているように思えました。

22日には学芸員さんの展示ガイドがあるようですから、もしかしたらその時また行くかもしれません。

 

Re: 油断大敵

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 4月27日(水)20時11分8秒
返信・引用
  > No.1220[元記事へ]

あずさんへ

>ただ、意図的でなく現旭川庁舎が火災にあったり地震で崩壊したとしても再建されるほどの建築物なのかというと、複雑な想いなのです。

あ、これは私もまったく同感です。
私が言ってる事の前提も、あくまで今現在まだ建物が存在しているからこその話です。
設計手法的な意味合い・価値感が強いので、当初の建物がそのまま残ってなければ殆ど意味がない訳ですね。

仮に何らかの災害で使いものにならなくなったとすれば、全く同じ形で再建してほしいとは思いません。
その時は、遠慮せず(笑)最新の耐震性を備えた新しいデザインの建物を建ててほしいと思ってます。
それこそグランドホテルに見られるような、旧建築の意匠を一部に取り入れる事も一つの手法ではないかと。
そこはやはり、外観自体に芸術的価値がある城郭・天守閣などとは一緒にならないのではないでしょうか。

先のレスでも言いましたが、現庁舎に私が望むのは、まずは「継続使用」する事です。
現時点では、保存すべき建物と呼ぶには素人目にはあまりに中途半端で多少レトロがかってきたという程度ですが、頑張ってあと20~30年くらい使えばどうでしょう?
その時こそ道庁赤レンガのような存在に成り得るのではないでしょうか?
道庁赤レンガだって国の重要文化財指定を受けたのは火災復興を経た築80年程度しか経ってない時です。
明治・大正期の文化財と言われる建物も、殆どは100年前後で指定されています。
これらは外観のデザインもさる事ながら、必ずと言って良いほど当時の建築技術の優れた面を評価されます。


こんなこと言ったら、保存を訴えてる建築家の方々に怒られるかもしれませんが、
今は現庁舎のどちらかと言うと技術的観点からの素晴らしさ・貴重性を大いに喧伝していただいて、
我々素人が、その古さにも魅力を感じる日まで建物が残るよう頑張っていただきたいと願っています。

 

Re: 博物館

 投稿者:momongaメール  投稿日:2016年 4月27日(水)17時34分40秒
返信・引用
  > No.1219[元記事へ]

モリゴロウさんへ

情報ありがとうございます。実は私も知りませんでした。(^^ゞ
博物館にも近代史担当の学芸員の方がおられますので、たまにこういった企画をやりますよね。
たいていは道新ローカルに載るのですが・・・

私はたぶんゴールデンウィーク中に状況が許せば行くと思います。
ただ、事情あって休日でのオフ会は難しいかもしれません。
私だけでも良ければ、アドレスをメールして下されば、行く時お知らせしますよ。
ただし突然行く事になるかもしれませんので、その時はごかんべんを。

 

Re: 博物館

 投稿者:かんじ  投稿日:2016年 4月27日(水)11時01分33秒
返信・引用 編集済
  > No.1219[元記事へ]

モリゴロウさんへ

> ココでお話をされている皆さんはご存知と思われますが 4月29日より5月29日まで旭川市博物館で
>
> 「明治・大正期の旭川~街のおこりと軍都の成り立ち」と言う企画展があるようです

知りませんでした。情報ありがとうございます。私も是非行ってみたいです。
なんか私が現在の知りたいことそのものの企画展ですね(^^;

>かんじサンが図書館で明治時代の地図を見て来たとの事で、その地図を題材として談義する企画でも面白いのではと考えます

見てきたというより、旭川市図書館からネット上に公開されたってことですね。
新しい資料が一つ出ると、いろいろな興味や疑問が湧きあがるって感じです。

昨日、郷土史家さんと少し話して明治40年頃の地図にある「共有地」の知識を少し深めました。
明治41年の地図に有った地番のついていない共有地は、ようするにその土地を利用する複数の団体や自治体が存在し地主は居ないという土地です。
勝手には使えない土地ですが、当時の名簿によると土地と地主の他に、共有地の貸し出し名簿があり、共有地も大勢に貸し出されています。
当時の状況は旭川の人口が爆発的に膨れ上がり、住む家が不足しており勝手に住み着く人も多く区画整備や道路整備も済んでいない場所にも大勢人がいたようです。
キチンと測量し地積図を作り販売された場所は地主が存在しますが、それが間に合わなかったようで、旭川町では住所を決めたら共有地を貸出し地代をとっていたようです。
台帳によると懸案の8条10丁目は当時は○○条○丁目ではなく「測候所裏」という住所が付いています。
当時の人口が約3万人、それが現在の中央地区に居たわけです。
3万人の人口というと旭川だと春光地区が約3万人です。
ざっと見た感じ春光地区の方が広いので、現在の住宅街よりはたくさんの人がひしめき合っていたんでしょうね。
明治41年の旭川市街全図を見ると、8条10丁目の隣8条9丁目には「嘉美能温泉」があり、これが現在の8条プレジャー温泉だそうですね(@_@;)。「カイラク園」という公園があり、図書館があります。斜線で塗りつぶされた場所は人が沢山居たことを意味していますので、この辺りの共有地は貸し出され既に人が住んでいた可能性が高いと思われます。
 

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