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新師団道路

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 9月 6日(日)10時46分28秒
返信・引用
  銀座通りに補足して、かつての新師団道路のルートを付け加えておきます。
画像は昭和22年の終戦直後のものですが、ルートは戦前から変わっておらず、秋月橋以外は現在も道を辿る事ができます。
秋月橋は戦前から流失したままの状態で、この残骸は昭和40年代まで残っており、私も覚えています。
 

銀座通り

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 9月 6日(日)10時26分16秒
返信・引用
  17丁目オール商店街の書き込みの中で、ここには下町風情がある、と申しましたが、
旭川で古くから「市民の台所」と呼ばれ、やはり下町風情を感じると言われるのが銀座通り商店街です。
17丁目オール商店街にも近く、同じ下町でもオール商店街が”裏町”の趣きなら、こちらは表通りとでも言えましょう。



よく銀座通りは旭川では平和通りに次ぐ商店街と言われます。
でもどちらかと言うと、昔ながらの市場や生鮮食料品店や飲食店が多く、市民の台所と呼ばれるに相応しい商店街と言えます。
では何故、平和通りのような駅前通りという訳でもないこの通りに商店街が形成されたのか?


あまり知られていませんが、実はこの通りは「新師団道路」と呼ばれた道路だったのです。
14・15丁目の通りから日の出橋を渡って北上し、さらに石狩川を川渡りして師団競馬場・工兵大隊付近に至る道路でした。
それまで師団に通ずる道路は、初代旭橋を渡る師団通り(今の平和通り)のみでしたが、
明治40年代に入り、師団へ通ずる第二の道路として開削されたのです。
これが新師団道路と呼ばれた所以です。

開通当初は石狩川を渡る橋はなく、大正3年、工兵部隊によって初代秋月橋が架橋されました。
この時は、現在の秋月橋に近い下流に架けられ、どちらかと言うと師団と永山屯田とを結ぶのが目的の橋でした。
その後の流失を機に、さらに下流に架け直され、新師団道路を繋ぐ橋として衛戍病院・刑務所附近に至るルートに変更されています。

この新師団道路と、一条通りや二、三、四条通りと交差する付近には、自然発生的に商売を始める者が増え、
これが後の銀座通りの繁華街へと発展して行く事となります。
大正時代には、旭川初の民間市場である「第一市場」ができるなど、既にかなりの賑わいを見せていました。


では何故「銀座通り」なのでしょう?
昔「銀映座」という映画館があって、そこから名付けられたと言う説がありますが、それは間違いです。
戦前の昭和一桁時代には既に銀座通りと呼ばれ始めており、銀映座ができたのは戦後の事です。
ただ、この通りの名称と劇場には過去密接な関係があったのは事実です。
実は銀座通りは、劇場によって何度も呼び名が代わっているのです。

この通りに最初にできた劇場は明治42年にできた「大黒座」という芝居小屋です。
この大黒座が大正9年に「錦座」と改名し、さらに数年後「錦市場」という市場ができた頃から「錦座通り」と呼ばれ始めました。
錦座は廻り舞台を備えた、当時旭川一の劇場だったそうです。
しかしその後、劇場は松竹に経営が移り、名前も「松竹座」と改められたため、通りも「松竹座通り」と呼ばれるようになります。

昭和8年、歩道の舗装と鈴蘭灯が整備されたのを機に、商店街によって意図的に誕生したのが「銀座通り」という名です。
言うまでもなく、銀座は東京銀座のことであり、当時から繁華街の代名詞となっていました。
その名にあやかって、全国中の商店街や通りの名称に銀座の名が使われていますが、ここも例外ではなかったという事なのでしょう。
以降、長きに渡り銀座通りの名が定着していますが、
実は、銀座通りが歩行者天国になった昭和53年の時も「柳通り」に改名しよう、などという声もありました。
街路樹の柳の木が象徴的だったからです。
今では「銀座仲見世通り」とか「銀座しあわせ広場」などという呼称も併用されています。


松竹座は、終戦後の昭和21年に火災で焼け落ちましたが、その跡にできたのが本間興行による前出の銀映座です。
つまり、銀映座よりも銀座通りの名の方がずっと古いのです。
銀映座もテレビの台頭と共に閉館となりましたが、昭和42年、その跡に今の銀座センタービル、通称「銀ビル」が建てられました。

このように現在の銀座通りの名は、結果として劇場の名とは何ら関係のない名称ですが、
歴代この通りに存在した劇場によってその名を変えて来た歴史があるのは事実です。





写真1:昔には及ばないが、下町風の活気を見せる銀座通りの3条から4条。昭和の香りが漂う。
    中央がランドマークとも言える「銀ビル」だが往年の華やかさは微塵もない。
    1F路面に果実店とおやき屋があるだけで、あとは2Fの囲碁クラブの看板が見えるだけである。
    円い屋上階はかつて旭川唯一の回転展望レストランであったが、今ではそれも回る事はなくなった。
    右隣が旭川最古の民間市場である「第一市場」、左隣は名前は「銀座デパート」であるがデパートではない。

写真2:第一市場内は路面店の酒店を除いて全てシャッターが降りていた。
    昔は主婦の買物時ともなれば毎日賑わっていたし、年末などは身動きできないほどの人出であった。
    数年前まではほとんどの店がまだ営業していたので、もしかしたら建物の限界?

写真3:3条界隈には昔ながらの青果店などが並び活気の源になっている。
    スーパーなどの大型店に押される中、この界隈がひとかたまりで生鮮食料品店街を形成している。
 

銀座通り

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 9月 6日(日)10時24分21秒
返信・引用
  写真4:3・4条仲通りは「銀座広小路」と呼ばれ飲食店が軒を並べる。
    かつては”色街”の趣きもあったらしく料亭をはじめ数件の娼館もあったようである。

写真5:広小路から3条本通りまでを細長く貫く食品市場の「ニュー銀座」内。
    こちらは第一市場と対照的にシャッターを下ろしている店もなく元気である。

写真6:老舗店が大半を占める中で「まんだら庭園」という小規模なモールも数年前に誕生している。
    4条通り側の駐車場には可愛らしい七福神が並ぶ。
    ホコテン反対側の2条には弁天さまも祀られており、鳥居に似たモニュメントが並ぶなど全体的に参道をイメージしている。
    例年七夕祭りやマルシェなどのイベントも行われており結束の固さが伺える商店街である。

 

鹿鳴館でのコースランチと旧炭鉱の町夕張/芦別

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 8月24日(月)16時54分23秒
返信・引用
  momongaさんの許可を得ましてここで告知させて頂きます。

旭川の歴史的建物の保存を考える会
第35回見学会 参加者募集
2015年9月13日(日) 7時30分~18時00分到着予定
炭鉱の町 夕張・芦別の建物見学
---見学内容---
芦別炭住跡(内部見学有)
夕張教会
旧商店街散策
鹿鳴館(旧迎賓館でランチと内部見学)
黄色いハンカチ炭住
煉瓦造発電所、等
----------------
締切9月4日(金)まで
費用負担 7,500円 (バス代、鹿鳴館コースランチ代、保険代)
申込方法 FAX 0166-34-6900 又はメール hozonnokai@gmail.com にて参加者人数、氏名、連絡先をお伝えください。

私(かんじ)とmomongaさんも参加しま~す。
参照URL
http://genki365.net/gnka07/mypage/mypage_sheet.php?id=57340
 

Re: 鷹栖の地名由来

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 8月24日(月)12時14分44秒
返信・引用
  市太郎さん、レスありがとうございます。
少し補足させてください。

北海道は、鷹栖村の開村と同じ年の明治25年に「貸付地予定存置制」という制度を施行しています。
この制度は、北海道への団体移住を促進するための優遇制度で、
簡単に言いますと、
30戸以上の移住団体を組織して、総代者が予め入植地を定めて1年以内に移住を開始し、
3年以内に移住を完了して一定以上の開墾実績を挙げれば土地は無償で払い下げられるというものです。
この制度によって、北海道への移住は大きく前進したといいます。

北海道ではこの制度を全国の府県に向けて発信しており、
中でも富山県をはじめとする数県が県を挙げて北海道への移住を奨励したと言われます。
旭川周辺に富山県出身者が多いのはこのためですよね。


北海道庁は、この制度の施行に合わせて鷹栖村と神楽村(御料地含む)を開村させたように思います。
ですから正確には開村の時点と言うよりも、制度の施行に合わせて実際の団体移住が始まった可能性が強いですね。
開村当初に移住者が殆ど見当たらないのはそのせいかと思われます。

>富山県人からも道庁への照会は多数あったでしょうし、実地調査は
>はしたが頓挫した計画も多いでしょうから、道庁のお役人が砺波か
> らの団体入植を期待してネーミングするような状況があっても、
>おかしくありませんね。

まさにそこだと思います。
あるいは開村時点での、民間ベースでの実際の移住申請はなかったかもしれませんが、
制度施行へ向けて移住を推進する北海道庁と、それに応諾して奨励する富山県側との、役人ベースの事前のやりとりがあっても不思議でも何でもありません。
富山県側から「制度が施行したら砺波郡辺りから○○戸見込めるからヨロシク!」
などと妄想するしかありませんが、
私は、鷹栖の名前に親近感を持って移住して来た、と言うよりは現実味があると思います。

あるいは、そんなやりとりの中で、
「砺波郡には鷹栖という村がある。これはチカップニの意味に通じる」
と気づいた人間がいたかもしれませんね。


 

Re: 鷹栖の地名由来

 投稿者:市太郎  投稿日:2015年 8月23日(日)09時11分29秒
返信・引用
  > No.1063[元記事へ]

momongaさんへ

団体移住の計画があったかもしれないというのは、たしかにあり
得ますね。

結果としては、鷹栖村の初期の団体移住に、富山からのものはない
のですが、石川県からは最初期に団体移住がありますし、富山から
は松平農場をはじめとする大規模農場の小作人として多数の人が来
ており、北陸地方は有力な上川開拓の人材供給源でしょうから。

砺波市側の郷土史家が調査しても、砺波の鷹栖村から上川の鷹栖村
への移住者はほとんどいないそうなのですが、上川の開拓前には、
富山県人からも道庁への照会は多数あったでしょうし、実地調査は
はしたが頓挫した計画も多いでしょうから、道庁のお役人が砺波か
らの団体入植を期待してネーミングするような状況があっても、
おかしくありませんね。
 

Re: 鷹栖の地名由来

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 8月22日(土)18時59分5秒
返信・引用
  市太郎さん、はじめまして。
鷹栖の地元の方でしょうか?お詳しいですね。
よろしくお願いします。


なるほど、アイヌ語由来の鷹栖の名が先にあって、その名に親近感を持った砺波の人々が移住してきたという事ですね?
鷹栖がアイヌ語由来の地名だとすれば、確かに砺波との関連はそれしか考えられないでしょうね。
偶然の一致はまず有り得ないと思います。

おっしゃる通り、鷹栖村が開村する明治25年以前に住み着いてる者がいたとすればそれはフライングですよね。
たとえ砺波からの移住者が既にいたとしても、まだ道庁の正式な許可が下りる前の、言わば不正移住です。
旭川村開村時にもそういった輩がいて、道庁側から立退きなどの懲罰があったようです。
村名を決めるにあたって、そのような不正な移住者に村名の由来を求めるというのは有り得ないでしょうね。


当時の上川地方の農地集団殖民は、いきなり全員で未開の地に引っ越して来たわけではなく、
ほとんどの場合、代表者が前の年くらいに現地を確認した上で道庁に払い下げ申請をし、許可が下りるのを待ちます。
その上で地元からの移住希望者を引き連れ、時には2年3年に分けて移住を開始するわけです。
そりゃそうでしょうね。
どんな土地か分からない、作物が育つかどうかも分からない、生きて行ける見込みすら全く分からない未開の原野へ来るのですから。

既に開村済みの殖民区画は割りとすぐに払い下げ許可が下りたようですが、
鷹栖村の場合、明治23年に開村済みの旭川・永山・神居村の何れにも属しておらず、
正式な開村告示がされるまでは、払い下げ申請の受付に留まっていたものと思われます。

この払い下げ申請の段階で、砺波の鷹栖村からの集団移住希望があったとしたらどうでしょう?
広島村(現北広島市)や新十津川村のように、その後付けられる村名に影響を及ぼした可能性はあると思います。
また、開村告示前には実際にも記録上にも移住者は存在しませんが、村名告示後に初めて移住者が記録されるという事になりますよね。
この辺りはあくまで私の推測に過ぎませんが、
当時の道庁側の記録は、おそらく明治42年の道庁火災によって消失してしまったと思われます。



ただ私は、やはりチカップニの意訳というのには全く説得力を感じません。
当時既に「近文」という漢字表記が使われており、同じ地域なのになぜそのまま近文村としなかったのか?
道内他の地域がアイヌ語をそのまま漢字に置き換える中、なぜ敢えてチカップニを意訳する必要があったのか?
いったい誰が意訳したのか?
といった、旭川の地名由来問題と共通する疑問が鷹栖の地名にも当てはまるのです。


 

Re: 鷹栖の地名由来

 投稿者:市太郎  投稿日:2015年 8月22日(土)08時42分13秒
返信・引用
  momongaさんへ

鷹栖村と砺波の鷹栖(タカノス)との関係は昔から言われるところですが…

鷹栖村が置かれたのは明治25年。その後、多数の団体・個人が入植し、
開拓が行われました。
富山からの移住者も多く、特に松平農場の小作人として来た人が多くいます。
北野獅子舞は明治31年ころに、このあたりの入植者が持ち込んだのがルーツ
とされています。
中には「鷹栖」だから親近感を持って移住を決めたという砺波地方の方もいた
ようです。

しかし、明治25年までの入植者は、フライングして来た埼玉県人グループが
道庁で内田瀞の許可を得てコマヤ薬局付近の開拓したのをはじめとして、僅か
な人数ですが、この中に砺波地方からの個人入植者は記録にありません。

鷹栖は、基本的には、チカップの言葉の持つイメージをもとにしたものではな
いでしょうか。近代のお役人が「鳥の巣」よりも雄々しい「鷹」の字を選択す
るのも、わりと自然な発想だと思います。勿論、どのような漢字をあてていく
なかで、全国の地名を考察し、富山や京都の鷹栖という地名を勘案したかもし
れませんが、直接的な関係は見出しにくいと思います。

 

鷹栖の地名由来

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 8月20日(木)15時19分7秒
返信・引用
  昨日の道新夕刊「マイたうん旭川」に注目すべき記事がありました。
鷹栖町の無形文化財に指定されている「北野神社獅子舞」に関する記事です。
この獅子舞は富山県砺波市にルーツを持ち、移住者によって持ち込まれて明治・大正・昭和と受け継がれてきたとの事です。
そして1978年に町の文化財第1号に指定されたそうです。


なーんだ、知ってたんじゃないか・・・


さて、この富山県砺波市とはどういう所でしょうか?
当サイト「旭川の名の謎」の中でも触れていますが、まさに富山県砺波郡鷹栖村のあった地域です。
現在は合併によって砺波市の一部になっています。
開拓当初は地域からの集団入植が一般的でしたから、故郷を懐かしむ伝統文化を同郷の人々で持ち込んだのでしょうね。


ここまで言えば後はもうお解りかと思いますが、もしこれが偶然の一致とすれば、1枚だけ買った宝クジに当たるようなものです。
しかも一般的な「鷹巣」ではなく「鷹栖」という字まで一緒なのです。
こういった伝統文化や記録として残っていながら、何故鷹栖の名の由来はここにあると言わないのでしょうか?


ここまで分かっていながら、また、これを根拠に町の文化財にまで指定しておきながら、
未だに鷹栖の地名由来はアイヌ語「チカップニ」の意訳としている神経が私には理解できません。
http://www.town.takasu.hokkaido.jp/intro/index.html

 

Re: 高野町

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 8月20日(木)14時07分4秒
返信・引用
  lsxxさんお久しぶりです。

今の神楽岡との境の14丁目辺りまでが高野町でしたよ。高野0号というバスの終点でした。
 

Re: 高野町

 投稿者:lsxx  投稿日:2015年 8月19日(水)21時48分48秒
返信・引用
  > No.1041[元記事へ]

現在,あの地域は住所表記は神楽5~7条10~12丁目って感じでしょうか。『高野』という地名は町内会やあの辺りを通る道北バス43番は高野線と呼ばれています。
 

Re: 国見の碑

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 8月11日(火)11時50分49秒
返信・引用
  > No.1057[元記事へ]

momongaさんへ

年代がハッキリしないのですが、昭和30年前後と思われます。
この写真は市の図書館のページから「村上久吉」と検索すると出てきます。
「国見の碑」で検索した方が面白いですけど。
http://www3.library.pref.hokkaido.jp/digitallibrary/public-library/public5.html
説明書きには---
編集委員会旧蹟調査 調査員記念撮影 岩村通俊 宮北繁(後列右) 村上久吉(前列右から2番目) 薄正義(前列左) 嵐山公園内
----とありますが。
岩村通俊の意味は不明です。
 

Re: 国見の碑

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 8月11日(火)11時32分45秒
返信・引用
  ありゃ~、懐かしい顔が写ってますね。
シャキっとしてて、まだ目も見えてる頃の写真ですね、昭和30年頃ですか?
どういうメンバーなんでしょう。市史編纂委員かな、それとも東高の先生方かな。

やはり近文山も昔はあまり高い樹木は茂ってなかったんですね。
嵐山なんかも、中学生の頃に登った時は、今のような2階建ての展望台じゃなくてもちゃんと見えましたからね。
樹木の背丈が伸びてきたのは比較的近年の事みたいですね。

写真は持ってないです。
おかげで懐かしい顔が見られました。ありがとうございます。

 

国見の碑

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 8月10日(月)16時14分45秒
返信・引用 編集済
  旭川の原点、国見の碑ですがおもしろい写真を見つけました。
momongaさんならすでに持っているのかな?
横写真の前列右から2番目は「村上久吉」さんとなっています。
momongaさんの○○ですよね。
そうなると縦写真に写っている方も村上久吉さんですよね。
また、写真では国見の碑の周囲には大きな木々も無く
かなり見渡しがよさそうですねぇ。
 

17丁目オール商店街

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 7月28日(火)11時02分46秒
返信・引用
  緑橋ビルに関連して旭川の闇市の歴史に触れましたが、
同じ闇市をルーツに持つ商店街として、もう一つ忘れてならないのが「17丁目オール商店街」です。


緑橋ビルを建てて入居できたのは、闇市の中でも最も恵まれていた店で、他の店の大半は強制撤去により路頭に迷う事になります。
400数十店という数は緑橋通りだけの数で、銀座通りや昭和通りなどにもあった闇市を含めると800店以上になったそうです。
それらが昭和29年の一斉撤去により、ある者は他の場所へ移り、ある者は廃業し、散り散りとなりました。

そんな中で、緑橋ビルと同様、撤去前から手を打ったのが別の62店の店主でした。
オール商店街商業協同組合を結成して市に陳情し、17丁目の宗谷線沿いを流れていた市の排水路を借り受ける事にし、
さらに排水路に接する国鉄用地を譲り受ける事で、合法的に商売を続けられる場を確保したのです。
何と、この排水路に木の板で蓋をして通路とし、
その通路沿いに1店舗当たり僅か3坪を割り当て、タル木で組んだ掘っ立て小屋のような細長いマーケットを1条から6条まで連ねたのです。
まさに闇市がそのまま移って来たようなドブ板マーケット、それが17丁目オール商店街の始まりです。
この排水路の上流でガソリンが流れ込み、商店街で爆発事故が起きた事もあります。

しかし、店舗環境は劣悪ながらも当時ここには旭川電気軌道の四条駅があり、東川と東旭川への電車の玄関口でした。
さらに昭和32年、宗谷線にも四条乗降所が設けられ、まさに交通の要所となりました。
このため、昭和30年代から40年代にかけてのオール商店街は、いつも人の往来が絶えませんでした。


そんなオール商店街にも大きな転機が訪れます。
昭和48年、交通の大きなネックとなっていた宗谷線が高架化され、電気軌道の電車も廃止となったのです。
幸い、宗谷線四条駅は北海道初の高架駅として残される事になりましたが、
この高架化を機に、オール商店街のマーケットも全て一新する事になりました。
この時建てられたのが現在の1号館から10号館です。
闇市時代からの商店街の夢がようやく叶ったと言えます。



それから既に40年以上経つとはいえ、現在の建物にまだそれほどレトロさは感じません。
しかしながら、この高架沿いを歩くと、何とも言えぬ情緒を感じます。
それは昭和レトロと言うよりも、どこか東京の下町風情に似ている気がします。
元々は闇市という生い立ちが、自然とそういう情緒を醸し出しているのかもしれません。
街を貫く高架沿いの商店街というロケーションも、北海道では珍しいと言えます。

残念ながら、今ではこの商店街の多くはシャッターが降りたままです。
夜の飲食店が多くを占めていた事から、バブル後の不況と経営者の高齢化で次から次へと店が閉じられて行きました。
闇市時代に結成されたオール商店街の組合も、最近になってとうとう解散したと聞きます。
ただ、シャッターが降りている割に生活感が漂うのは、やはりここも職住一体の建物であり、人が住み続けているからです。

一方で新たに開店した、個性的と言いますか、ちょっとオタな店も見られます。
高架沿いの景観と、数少なくなった老舗とのコラボがとても斬新に感じます。
こういった新しい経営者達の手で、何とかこの下町風情のある商店街を再興してほしいと願います。





写真1:オール商店街は宗谷線高架沿いに1条から6条まで10棟の細長い建物が連なり、総延長は600メートルにもなる。
    建物は2階建と3階建が混在し、やはり1階が店舗で上階が住居スペースになっている。
    緑橋ビルのように建物内に公共の通路や階段はないので、店主がそれぞれ自分の店の上に住む完全職住一体型だ。

写真2:現在も一番賑やかなのはやはり四条駅付近だ。
    というか、営業している店舗で埋まっているのは最早この6号館だけである。
    角の「ぽっぽや」は鉄道マニアの店として最近よくテレビ番組などで紹介される。

写真3:中にはこんな可愛らしい美容室もあります。
    たぶん最近の店だと思いますが店主はそうとうなパンダ好きのようです。

 

17丁目オール商店街

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 7月28日(火)11時00分54秒
返信・引用
  写真4:4条以北は2階建ての棟がほとんどで、既に住居専用として使われているところが多い。
    店を畳んでしまったところの多くはシャッターを取り払い住居専用玄関に改装している。
    そのせいか商店街というイメージが徐々に薄れつつある。

写真5:このように軒先を利用する光景があちこちで見られるのがこの商店街の特色だ。
    店舗が狭いという事情なのだろうが、逆にこれが北海道ではあまり見られない下町情緒を醸し出している。

写真6:3条の5号館。かっこいい店主がさっそうとバイクで乗り付けてきた。
    旭川ではちょっとレアなブランドを扱っている店だそうだ。
    高架沿いの下町情緒が気に入ってここに店を開いたそうであるが、こういった店が増えてくれると嬉しいですね。
 

緑橋ビル

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 7月16日(木)11時45分50秒
返信・引用
  数年前、旭川最古のエレベーター設置ビルだった「旭ビル」が解体されました。
永年旭川駅前の顔とも言えるビルだっただけに、惜しむ声も多かったと思います。
旭川で昭和レトロを感じさせてくれる商業ビルは、もう本当に数限られてしまいましたが、
もう一つ、戦後の混乱期の落とし子とも言える建物があります。
「緑橋ビル」1号館、2号館です。



旭川の中心街で最も広い街路といえば緑橋通りですが、
この通りは最初から今の広さがあった訳ではなく、戦前までは他の主要街路と同じような広さでした。
太平洋戦争末期、空襲による火災に備え、
他の区画と同じ10号あった8丁目区画を、宮下から8条までの各条8~10号を強制疎開により建物を撤去、防火帯としたのです。

戦争が終わって混乱の世の中となりますが、
旭川もご他分に洩れず闇市経済となり、この強制疎開跡を次から次へと闇市が占拠して行きました。
闇市の店舗はピーク時400数十店にも及び、粗末ながら、中央、平和、ミドリ、四八、三央などのマーケットまで出来、
闇市組合も結成されて一定勢力を持つまでになっていました。
市では、強制収用した土地の半分を元の地主に返還する事にし、残り半分を道路拡幅用地として緑橋通りの整備に着手します。
8丁目の区画が、他の中心街区画より寸足らずなのはこのような経緯によるものです。

ところが、期限付き貸借契約によって出店を黙認されてきた闇市側は立ち退こうとせず、契約更新を求めて裁判を起こします。
この裁判は時間稼ぎに最高裁まで争われ、昭和29年の結審・強制撤去までに4年を要しました。
しかしこの間、83店の店主が結束し、きちっとした建物を建てた上で共同入居しようという事になりました。
この時建てられたのが、今の緑橋ビル1号館と2号館です。
当時の旭川としてはかなり立派な建物でした。



このビルの特徴である細かい店舗割りは、闇市だった店舗が寄り集まってできた名残りです。
また、1階が店舗で2階から上が住居や貸室となっており、この時代多かった職住一体型店舗の特色はそのままです。
緑橋通りに面した路面店に加え、建物中央を通路が縦断しており、路面店の裏側に通路を挟んでもう一列店舗が並びます。
店舗部分はそれなりに改装されていますが、いかにも昭和の時代を感じさせてくれる建物と言えます。
旭ビルもそうでしたが、このビルにも昔ながらの老舗が数店残っており、これら老舗店が独特の趣きを醸し出しています。

近年の平和通りと同様、緑橋ビルも入居店が1店また1店と閉じて一時は空き店舗だらけになりましたが、
ここ数年前から、やはり昭和レトロっぽさが見直されたせいか、路面側の店舗は大半が埋まっているようです。
建物が古く店舗割りも細かいため、家賃が安く済むというのも小さな小売店にとって魅力のようです。
また今となっては、マチのど真ん中に居住スペースがあるというのも隠れた人気のようです。


最近、このビルを建て直そうという構想が持ち上がってるそうです。
しかし、このビルが在り来たりの”綺麗な建物”になってしまったら、逆に見向く人がいなくなる気がします。
でき得るならこのままで、混沌から古き良き時代を感じさせる建物であり続けてほしいと願っています。






写真1:3条本通りを挟み、手前3条8丁目右が2号館で、向こう側3条8丁目左が1号館。
    2棟ともほぼ同じ造りで、建物側面の出入口から内部通路が貫いているが、
    1号館の4条側のみ、通路の出入口が緑橋通りを向いている。

写真2:1店舗当たりの間口が非常に狭いのが特徴的。闇市時代からの名残だ。
    しかしながらこのゴチャゴチャ感がこのビルの魅力でもある。

写真3:買物公園から一歩外れているだけに、個性を強調した店が多い。
    一番多いのはファッション系であるが、店種は見事にバラバラで、これも闇市時代からの伝統か?
    若い女性も思わず足を止めて見入っている。
 

緑橋ビル

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 7月16日(木)11時42分27秒
返信・引用
  写真4:とある店舗の前ではワンちゃんも店番兼日向ぼっこ。
    このマチのど真ん中で職住一体だからこその光景?

写真5:2号館の内部通路。右手が路面店の裏側に当たる。
    左手奥列で営業してる店舗の数が思ったよりも多かったので意外と明るい。

写真6:1号館の通路奥列(右手)は空き店舗ばかりで暗くて寂しい。
    和楽器を専門に扱う店だけが開いていた。
    やはり路面店以上に専門性の強い店でなければ営業は難しいのか?
 

Re: ん?大丈夫?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 7月13日(月)15時44分17秒
返信・引用
  かんじさんへ

> 航路がクロスすることはあるでしょうが、T字型の交差では無く、その先端がぶつかり合うタイミングというのは非常に珍しいのではないでしょうか。

そうなんです。
こういうケースでは、微妙な時間差で大抵はどちらかの飛行機が先に相手の航路を横切ってしまうんですが、
この時ばかりはピッタシのタイミングで交差しましたね。
同じ飛行機雲のクロスでも非常に珍しいのを撮影できました。(^^)v
 

Re: ん?大丈夫?

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 7月13日(月)14時26分1秒
返信・引用
  > No.1047[元記事へ]

momongaさんへ


> 同じ時間帯だと、たいていは同一方向へ向かう飛行機が多いんですが、
> この日、ちょっと珍しい光景を目にしたので急いでシャッターを切りました。

これは珍しい。
航路がクロスすることはあるでしょうが、T字型の交差では無く、その先端がぶつかり合うタイミングというのは非常に珍しいのではないでしょうか。
(真ん中の写真)
 

Re: ん?割り込み?

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 7月13日(月)14時23分20秒
返信・引用
  > No.1048[元記事へ]

momongaさんへ

> もちろん、管制からの指示を受けてるんでしょうが・・・、と思っていたら、
> 案の定、セスナ機はタッチアンドゴーで、そのまま上空へと舞い戻って行きました。

これは重大インシデントですね(^^;
 

ん?割り込み?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 7月13日(月)11時49分21秒
返信・引用
  もう一つ、旭川空港ではあまりない光景。


最終着陸コースへ向けて左旋回中のJAL機の前に、突然横からセスナ機が割り込み!?
セスナ機は、ちょっと前に旭川空港を離陸して、空港周辺を旋回飛行していたんですが、
よりによって、既に着陸態勢に入っているJAL機の前に小回りして入って来ました。

着陸ギアを出しているので、JAL機の前に降りるつもりのようです。
これ、どうなんでしょうねえ?
高速誘導路ではない旭川空港では、着陸間隔がなさ過ぎるような気が・・・

もちろん、管制からの指示を受けてるんでしょうが・・・、と思っていたら、
案の定、セスナ機はタッチアンドゴーで、そのまま上空へと舞い戻って行きました。
 

ん?大丈夫?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 7月13日(月)11時18分37秒
返信・引用
  旭川空港上空での1コマ。

快晴の日に空を見上げると、よく旭川上空かなり高いところを飛行機雲が走っているのを見かけます。
それも、一度に2筋3筋の飛行機雲が見えることも珍しくありません。

これは、北米と日本を結ぶ航空路の一つがちょうど旭川上空を通っているからなんですね。
ソ連時代は、いくら近道でもソ連領空を飛べなかったので、この航空路は無かったんですが、
ロシアになって以降、アラスカからベーリング海、カムチャッカ半島とオホーツク海を横切って北海道上空を飛ぶ航空路ができました。
以前は、カムチャッカ半島・千島列島を避けていたので、道東沖の太平洋上が航空路の北限でした。
北米各地と日本だけではなく、中国・韓国などを結ぶ飛行機も飛んでいます。


同じ時間帯だと、たいていは同一方向へ向かう飛行機が多いんですが、
この日、ちょっと珍しい光景を目にしたので急いでシャッターを切りました。

高度が違うだろうと分かっていても、やっぱりすれ違うまでは見てしまいます。



 

Re: 松浦武四郎

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 7月 8日(水)16時20分27秒
返信・引用
  かんじさんへ

伊能忠敬が沿岸部測量の功労者なら、松浦武四郎は内陸部探査の功労者と言えるかと思います。
こと蝦夷地に関しては、伊能忠敬が完成させた精密な地図でさえ内陸部はまっさらのままでしたからね。

当時の人々の旅や、こういった調査・探検はホントすごいですよね。
特に蝦夷地は、本州のように歩いていればいずれ人里に当たるのと違って、それこそ帰ってこれるかどうか分からない命がけだったと思います。
いかに旅渡りの上手な松浦武四郎でも、そもそもアイヌ以外に人がいないのだから大変だったではないでしょうか。

当時の常として、内陸部へは丸木舟で川を遡ったわけですから、最初から一人でというのは考えられません。
おそらく石狩や天塩などの場所請負人の下に出稼ぎに来ているアイヌと仲良くなって、コタンへ戻るアイヌの手を借りながら内陸へ向かったのでしょうね。
この辺り、ヒストリアの番組構成では前後関係や経緯が全く分かりません。
松前藩御用達の悪徳商人と断じていたのは、たぶん場所請負人の事を言ってるのだと思います。
確かに場所請負人にはあまりいい話が残ってませんね。
まあ、上川に住み着いた鈴木亀蔵も、元はと言えばこの場所請負人の雇われ人だったわけですが・・^^;

ただ、開拓使は一応場所請負制度を廃止し、アイヌに対しちゃんと報酬を払うようになってます。
開拓使判官時代の岩村通俊に上川の調査を命ぜられた高畑利宜なども、使役や通弁(通訳)としてアイヌを雇った上で石狩川を遡っています。
アイヌをいいように扱っていたのは、制度廃止をすり抜けた場所請負人と当時の開拓使次官黒田清隆でしょうね。



昔の書物、私も自分の読解力ではとても読めません。^_^;

 

Re: 松浦武四郎

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 7月 7日(火)11時10分14秒
返信・引用
  momongaさんへ

以前、NHKの番組歴史考証家の方の講演を聞いたことがあるのですが
、NHKは番組を面白くするため間違ってさえいなければどんな絵空事でも
勝手に史実を作るのだそうです。
つまり、わからない事は何を書いても良いという考え方です。
なるほどと思いながらも、知らない人はそれを見て事実と思い込みますよね。
それは置いておいて。

私にとっては松浦武四郎も伊能忠敬もあまり違いが解っていなかったんです。
どちらも北海道を探査した人くらいにしか。
今回のヒストリアをみて、松浦武四郎の人となりがわかって面白かったのです。
伊勢の出身で、一切お金を持たずに何年もの間旅をするなんて実に面白い。
きっと各地で暖かく迎えられるようなそんな性格だったのだと思いました。
それで、一緒に冒険をしたアイヌが迫害されていることに対して何とかしたかったその気持ち。
最後には自分が書いた膨大なアイヌに関する著書が、文字を持たぬアイヌにとって
現在になって最大の資料になったなんて下りは涙ものですよ(^^;

北海道命名の訳はこれまでも聞いていましたけどね。
もっと他にも候補があったことも。

PS.
松浦武四郎の著書が読みたくなって、石狩日誌とか十勝日誌とか見てみたのですが、
さすがに昔の草書体の原本の文字は私には判読不能でした。
昔の人はこれをスラスラ読んだんですねぇ。
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_03692/ru04_03692.pdf
 

Re: 松浦武四郎

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 7月 6日(月)22時03分46秒
返信・引用
  ヒストリア、見ましたヨ。
私も松浦武四郎については上川との関連でしか知識はありませんでしたので、番組は参考になりました。

人物像についてはかなりNHKの脚色が濃いと思いますが、けっこう変わり者には違いなかったようですね。
当時の常で「アイヌ」などとは呼ばれておらず、松浦武四郎の野帳にも「土人」と記述されてるはずです。
アイヌのチセに畳敷きらしき床があったりとか、NHKには史実をもう少し突っ込んで伝えてほしいと思いました。
(テレビでは土人なんて言葉は使えないんでしょうが、史実は史実として伝えるべきと思います)

脚色と言えば、松浦武四郎の調査にもけっこう脚色があるらしいですよ。
番組中にもあったように、彼はかなり多くの出版物を出しています。
浮世絵師としての側面もあったみたいですね。
北海道の調査においても、その記録には自身の後の出版を意識した面もあるみたいです。


ちょっと批判めいた話ばっかりですみませんです。m(__)m

そうは言っても、北海道という地名、内陸部の交通ルートの先鞭を付けたという功績は多大だと思います。
この交通ルートは、全て現在の北海道の主要国道に結びついている訳ですからね。

 

松浦武四郎

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 7月 6日(月)14時30分3秒
返信・引用
  momongaさん、先日NHKの歴史秘話ヒストリアで放送された、松浦武四郎の話見ました?
たぶん見ているでしょうけど、すっごく面白かったので紹介したく書くことにしました。
とくに旭川に関する放送ではありませんでしたが、北海道をくまなく歩いた先人である
松浦武四郎があのような人であったとは全く知りませんでした。
感動しました。2回見ました(^^;
単なる旅好きが高じて冒険家になり、アイヌとの交流を通して北海道を全国に知らしめ、
アイヌ解放の為に書き起こした沢山の書物が、今アイヌ研究の最大の資料になっているなんて。
北海道命名の地として中川町に史跡がありますが、それ以上のことはあまり知りませんでしたが、とても興味深く松浦武四郎が大好きになりました。
DVDにも撮ったしyoutubeにもアップされていますね。
 

高野町

 投稿者:雨粉104-23  投稿日:2015年 6月30日(火)02時01分54秒
返信・引用
  momongaさん 返答ありがとうございます。
9歳になる直前に高野町を離れたので小生の記憶は定かでありません。
バス通りにあった薬局は大きなカエルの人形がいつもあった記憶があります。

小生の家から銭湯までは子供の足で歩いて5分位でした。
お迎えが2階建てのアパート(よく一人で壁相手にキャッチボールをしました)であるお餅屋さんの家が堤防沿いにあって、そこから南高方向に3-4軒目だったと思います。バス通りでしたら駄菓子屋さんある場所からまっすぐ堤防に線を引いたら当たる場所だったと思います。

極まれに、その家に遊びに行くというかその場所に家を新築して住んでいる夢を見ます。
心のどこかの原風景に高野町の街並みが残っているだろうと思います。

ありがとうございました。

因みに美瑛川河川敷は毎日の遊び場でした。また南高の野球練習を良く見に行っていた記憶があります。確か南校にはレスリングや柔道の室内練習場近くのガキ大将につれられていって無理やり柔道をやらされて痛い目にあった記憶があります。
 

Re: 高野町

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 6月28日(日)19時10分3秒
返信・引用
  雨粉104-23さん、はじめまして。


高野町、懐かしいですねー。
残念ながら、私が住んでいたのは昭和36年から37年にかけての1年半ほどで、非常に短い期間でした。
年齢も私のほうが少し上のようで、数年違いですれ違ったみたいですネ。

私も幼かったですが、でも高野町の事は自分でも意外なほどはっきり覚えています。
私の家は今の平成大橋の通りと、高野線のバス通りの交差点のすぐ近くでした。
この交差点の角に豆腐屋さんと薬屋さんが道路を挟んでありました。
よく豆腐屋さんのオート三輪に勝手に乗り込んで遊んでましたよ(笑)
豆腐屋さんはとっくの昔に無くなってますが、この場所に常丸薬局という薬屋さんが今でもあります。
たぶん当時向い側にあったのと同じ薬屋さんだと思われます。
今の平成大橋の袂の辺りには銭湯がありましたから、雨粉104-23さんの家はその辺りだったのでは?

遊び場といえばもっぱら美瑛川堤防や河川敷で、川で泳いだり、中洲に渡ったりもしてました。
今じゃ絶対許されないですけどね(笑)
探検の場は、見本林や富良野線を越えて上川神社の鎮守の森など。
入学してわずか1学期だけ通った神楽小学校には、見本林近くにあった食品加工場の塀の隙間を抜けて南校川の丸木橋を渡り、田んぼの畦道を走って通ってました。
そうそう南校川といえば、当時高野町にあった南高の野球練習や、吹奏楽部の練習などもよく覗いてましたよ。


そんなこんなで、住んだ期間が短かったせいか、高野町の記憶は次から次へと出てきます。
キリがないのでこの辺にしときますが、ぜひまた遊びに来てください。
 

高野町

 投稿者:雨粉104-23  投稿日:2015年 6月28日(日)15時45分0秒
返信・引用
  momongaさん初めまして

昭和41-45年と高野町に住んでいました。家の裏は畑でその畑は美瑛川の堤防に接していました。もう旭川には35年も戻っていないですが、地図を確認するに昔の家は丁度平成大橋にその場所を譲って地上から去っていたようです。monmongaさんも同時期に高野町にお住まいだったと読んで、もし歳が近ければ一緒に遊んだこともあるのか思い投稿しました。

小生は今53歳となりました。
 

Re: これがあの射的場!?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 6月24日(水)21時27分8秒
返信・引用
  かんじさん、証拠写真ありがとうございます。

「永山11区生産組合之碑」だけは場所を少し移したみたいですね。
Google earthを見ても造成途中のノームの庭が写ってますが、明らかに射的会館を転用してます。
 

Re: これがあの射的場!?

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 6月24日(水)12時48分13秒
返信・引用
  > No.1037[元記事へ]

momongaさんへ

> > ここにあった「射的会館」も移転したのか無くなっていました。
>
> 自己レスです。
> 後で位置関係を確認してみたところ、どうやら射的会館の建物が東口のチケットブースに変身したみたいですね。
> まだ建物新しそうでしたもんね。
>

こういうことらしいですよ。
 

Re: これがあの射的場!?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 6月22日(月)10時26分24秒
返信・引用
  > ここにあった「射的会館」も移転したのか無くなっていました。

自己レスです。
後で位置関係を確認してみたところ、どうやら射的会館の建物が東口のチケットブースに変身したみたいですね。
まだ建物新しそうでしたもんね。
 

これがあの射的場!?

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 6月21日(日)21時26分10秒
返信・引用
  新たなテーマのガーデンができたということで、久々に上野ファームへ行ってまいりました。
その名も「ノームの庭」です。


実際に行って見るまで、新しいガーデンがどの位置にできたのか知らなかったのですが、行ってみてビックリ、
射的山の、それこそ地肌剥き出しだった旧射的場の麓が華麗なガーデンに大変身!
ここにあった「射的会館」も移転したのか無くなっていました。
http://userimg.teacup.com/userimg/9008.teacup.com/momonga_farm/img/bbs/0000168.jpg


新たに東ゲートが設けられ、ゲートの前には観光バスも駐車できる広い駐車場もでき、かなり利便性は良くなりました。
いよいよ本格的な観光ガーデンになったという印象です。

従来のガーデンとは、ミラーボーダーの奥で繋がっており、ガーデン全体の敷地は一気に2倍くらいになりました。
ガーデンは今が1年で最も色んな花の咲き誇る時期、
北海道ガーデンショーが開催されている事もあるでしょうが、たくさんの観光客で賑わっていました。


その昔、ここで厳しい射撃訓練をしていた屯田兵も、
まさか120数年後に、この場がこんな風になるなんて、夢にも思えなかったでしょうね。


 

Re: 旭神社

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 6月17日(水)16時37分56秒
返信・引用
  > No.1034[元記事へ]

かんじさんへ

おおっ! はじめて知りましたが、太田神社の階段すごいですね!
旭神社も、もし参道を階段にしたら、上の方はやはりハシゴ状態になりそうな傾斜です。
でも実際こういう参道が存在するんだから、旭神社もそうすれば名物神社になるんですけどね。
今の荒れ放題のままじゃちょっとみっともないし、そもそも誰も参拝できない。

道路はセダンでも行けないことはないと思います。
ただ轍で道の真ん中が相対的に盛り上がっていたり、草が伸びてたりするので多少腹を擦る可能性はあります。
麓の鳥居からすぐに荒れた道になりますので、そこでダメなようなら即バックです。
途中に一箇所だけ転回可能な広場がありますが、そこまで行けたなら上まで行けます。


そうですか、やはりあの祠が本来の神殿なんですね。
見たところ、拝殿より古そうでしたが、年代を判別できる文字は見当たりませんでした。

参道も、必ずしも人間が通れなくとも、神様が通れれば良いという話を聞いた事があります。
もう少し神道や神社に関する知識を知っておくべきかもしれませんね。

 

Re: 旭神社

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 6月17日(水)10時57分41秒
返信・引用
  > No.1031[元記事へ]

momongaさんへ

> 写真9:現在の社殿の裏に隠れるようにもう一つ小さな祠があった。
>     覆っている小屋はおそらくこの祠を保護するために後から造られたと思われる。
>     これが元々祀られていた神社か?

旭神社に関するまとめありがとうございます。
興味深く読ませて頂きました。
こんど機会があったら寄ってみたいですが、私の4WDセダンでは無理なのかなぁ。
超急な参道ですが、私の知っている限り道内で最大の急な参道はせたな町の大成区にある太田神社だと思います。
一度行ったことがあり、その階段の急さに絶句して数段上って引き返しました(^^;
http://www.hiyama.pref.hokkaido.lg.jp/ss/srk/mame13.htm
どうして神社って急な参道でも平気なんでしょうかね。修業の一部なのかな?

それから余談ではありますが、小さな祠について私も最近知った知識を。
実はあの小さな祠が神殿です。神様はあそこに居ます。
で手前の立派な方が拝殿なのです。
人が集まって手を合わせる場所で、行事や飲み食いもします。
神殿のない神社もあり、その場合はご神体が山だったり祠に入らない場合のようです。
そういえば神社って裏に小さいのがありますよね。
まさか、あれが手を合わせるべきご神体とは、、、、、、、、、。ね。
 

旭神社

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 6月13日(土)11時45分3秒
返信・引用
  以前、美瑛の地名由来について当掲示板で話題になりましたが、
その美瑛発祥の地とされる旭地区へ行ってきました。
主な目的は旭神社の拝観です。


「旭」の地名は、かつてこの地に「旭農場」という広大な農場があったことに由来します。
神楽村から分村して美瑛村となる時に既に農場が拓かれていた事から、ここが美瑛発祥の地とされたのでしょうね。
美瑛とは言っても、辺別川に隔てられてるというだけで西聖和や千代ヶ岡市街に隣接しており、あまり美瑛という感じがしません。
ただ、旭地区の南端は「セブンスターの木」付近に達するほど広大で、平坦地と丘陵地とに大きく地形が分かれています。
旭神社は、旭川寄りの平坦地から丘陵地への変わり目の小山の上にあり、付近一帯を一望する事ができます。


旭農場は、兵庫県出身の小林直三郎という人が拓いた農場ですが、
この人は元々農家の生まれであるものの、カナダ・オンタリオ農学校を卒業し、米国・ウィスコンシン大学まで在籍した人で、
帰国後、日本での米国型農場・酪農経営を目指して新開拓地である上川にやってきました。
当時はまだ集団殖民や旧来の小作農が多かった時代ですが、
小林直三郎は単なる地主という事ではなく、共同経営で「旭農場合資会社」という姫路本社の会社組織で農場経営を始めました。
これ、今で言う農業法人ですね。

実際の農場経営は小林直三郎が受け持ち、明治27年に入地して以来苦難を重ね、数年後には軌道に乗り、
大正初期頃には小作人190戸を数える近代的経営の大農場となりました。
また、ホルスタイン牛を輸入しての酪農も同時に推し進め、旭川にも支場を設けて牛乳やバターの生産をしていました。
何と近文1線1号区割外地、つまり現在の本町(もとまち)から川端にかけてその牧場があったのです。

しかし、北海道の事情を理解せず、思ったほど利潤が上がらない事に疑念を持ち始めた会社・出資者らに嫌気をさし、
小林直三郎は、旭川の支場を自分個人の経営とし、旭農場からは手を引きました。
美瑛の農場は、洪水や凶作、治水改修工事資金の行き詰まりなどで大正6年に第三者に譲渡されてしまいます。

旭神社は、そんな旭農場・小林直三郎によって明治33年に建立された神社です。





写真1:西神楽市街を過ぎ、国道237号から未完の国道452号に入って辺別川に架かる「旭橋」を渡るとすぐ、
    「美瑛町発祥の地」「拓魂百年」の碑がある。比較的新しく、平成になってからの建立。

写真2:碑のある場所からさらに南方向に進むと平坦地から丘陵地帯に入って行く。
    丘陵地帯の端に当たるこんもりとした小山の頂上に旭神社はある。

写真3:麓の第一鳥居の奥はとんでもない急傾斜。
    しかも長い期間放置されてると見えて雑草が生い茂り、とても入り込めるような状況ではない。
 

旭神社

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 6月13日(土)11時43分10秒
返信・引用
  写真4:鳥居脇の狛犬も雑草に埋もれてしまいそうである。
    このような親子?の狛犬は初めて見ました。

写真5:正面から社殿へ向かうのは見た瞬間に諦め、鳥居脇から山を巻いて行く荒れた道を車で行く。
    社殿まで続いていると信じつつ登り続けるが、普通のセダンでは無理かと思われるような道だ。
    自分の車は四駆のRV車だが、それでも先がどうなってるか分からないだけに躊躇する。

写真6:何とか頂上の社殿にたどりつきホッとする。
    ここまでの道が道だけに朽ち果てた社殿を想像したが、さすがに社殿は維持されていた。
 

旭神社

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 6月13日(土)11時41分33秒
返信・引用
  写真7:社殿正面の第二鳥居から下を見下ろす。
    眺めは素晴らしいが、足元はほとんど崖のような急傾斜である。
    元々正面には参道がなかったのだろうか?そんなはずはないと思うが・・・
    これだけ傾斜がきついと真っ直ぐな階段にするのはとても無理だ。

写真8:社殿を正面から見たところ。
    この場で参拝する事ができるのは、今やここまでたどり着く事のできる人だけだ。

写真9:現在の社殿の裏に隠れるようにもう一つ小さな祠があった。
    覆っている小屋はおそらくこの祠を保護するために後から造られたと思われる。
    これが元々祀られていた神社か?

 

行ってきました

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 6月 8日(月)10時40分13秒
返信・引用
  6日の音楽行進行ってきました。
気温が上がらず、期待した日照もほとんどなく肌寒い1日でしたが、沿道は例年より多めの観客で賑わっていました。

やはり、トータルで5km以上は歩いたでしょうか。
歩くだけならこのくらい割と平気なのですが、音楽行進やアフターコンサートを見ている間もずっと立ちっぱなし。
終わる頃には股関節のあたりが痛~くなってました。

サンロクの居酒屋へ寄って帰ろうと思っていたのですが、
「ブラスカペレ・ベルンハルズバルト」のアフターコンサートを見るため駅前広場まで戻ったため、
またそこからサンロクまで歩く元気が残っていませんでした。(~_~;)
例年たどっている見学ルートですが、年々厳しくなるなぁ・・・

「ブラスカペレ・ベルンハルズバルト」は、いかにも町の音楽隊って雰囲気がとても良かったです。
観客の拍手に笑顔で手を振り返していました。



7日はF15を撮影すべく、混み合う駐屯地へは入らず、駐屯地外でカメラを構えていたのですが、ザンネン・・・
この日は天気が回復すると読んでいたんですが、意地悪な天気でしたね。
模擬戦の「音」だけ楽しんできました。


 

明後日は駐屯地解放

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 6月 5日(金)12時39分1秒
返信・引用 編集済
  明日の音楽大行進に続いて、明後日は第二師団の駐屯地解放、訓練展示ですね。
これがまた楽しいんだ。
なぜか赤い色の相手と模擬戦闘訓練があります。
戦車の号砲は空砲といえど物凄い迫力があり、へたな花火大会を上回ります。
ヘリの曲芸的な飛行や晴れていればF15も千歳から飛来するとか。
ちょっと秘密の駐車場を見つけたので今年は見に行こうと思っていますよ。

音楽大行進は例年通り5条でお仕事です。
終わった後サンロクでも行こうかな。
 

明日は音楽大行進

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 6月 5日(金)11時01分51秒
返信・引用
  今年も早やこの時期がやってきました。
護国神社祭に合わせるように降り出した涙雨は今日中に上がりそうですが、気温は明日もちょっと低そうですね。
ここんとこずっと夏日が続いて暑いくらいの好天だっただけに、ちょっと意地悪な天気です。
でもプレイヤーの皆さんにはちょうどいいか。


今回はドイツの吹奏楽団「ブラスカペレ・ベルンハルズバルト」がパレードに参加するとの事です。
どんな楽曲を披露してくれるのか、非常に楽しみです。
メンバーは既に旭川入りしてホームステイしており、音楽行進が終わるまで滞在するようです。

このバンド、14年ぶり2回目の参加だそうですが、実は私の記憶にありません。
よくよく考えてみると、その頃の私といえば、仕事に忙殺されて音楽行進どころではなかったかもしれません。


例年私はJRを使って音楽行進に出かけます。
従って、自宅と最寄駅の往復に加え、旭川駅→リベライン→永隆橋通り→平和通り→(サンロク)→旭川駅と、
山登りを除けば、この日が1年でいちばん歩く日かな?
さあ、明日はいったい何キロ歩くか。

 

ソフトボール

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 6月 1日(月)11時32分16秒
返信・引用
  旭川で初めて開催された、日本女子ソフトボールリーグの公式戦を見てまいりました。

北海道ではほとんど報道されないので、私も全くと言っていいほどリーグの知識がなかったんですが、
やはり日本代表で活躍の上野投手や、アボット投手の速球がどんなものか見たくて行ってまいりました。


いやぁ~、面白いもんですねぇ~

写真のように、スタルヒン球場のフィールド内に、一回り小さなフィールドをフェンスで仕切って造り、
ダッグアウト・ブルペンも観客から全て見えるオープンスタイルです。

野球よりマスが小さいぶん、非常にテンポ、展開が速く感じ、スピード感がありました。
いや、球の速さは野球と比べても全く損色ないので、実際に展開が速くて目が離せませんでした。
もちろん、上野投手やアポット投手の速球もすごかったですが、
野手の守備の良さ、送球の肩の強さが想像以上でしたね。

ちゃーんと鳴り物入りの私設応援団もあり、選手も応援団も元気いっぱいでした。


30・31日の2日間、計6試合が開催されましたが、私は31日の3試合を見てきました。
前売1000円で好きな方の日、出入り自由で3試合とも見られるというのも魅力です。
30日に30度近くまで気温が上がったのが一転、31日は未明から雨が降り出し、朝にもやや強い雨が降ったので心配しましたが、
午前中は気温が低いながらも雨は上がり、午後は北海道らしい爽やかな好天となりました。

意外と旭川にもソフトボールファンは多いみたいで、
この日、上野・アボット両投手が登場するビックカメラ対トヨタの試合時には、内野席がけっこう埋まってました。
公式ガイドブックも完売との放送がされてました。

ぜひ毎年旭川で開催してほしいものです。




写真上:両翼95mのスタルヒン球場に、一回り小さな両翼67mのフィールドをフェンスで仕切って造っている。
    これが女子ソフトボールリーグの公式サイズとの事。

写真中:圧巻の上野投手の投球。この日はトヨタ相手に完封勝ちしました。

写真下:やはり上野投手の人気が圧倒的のようです。
    試合後、ビックカメラチームのバスの周りには人だかりができ、
    次から次へとサインや写真を求められる上野投手だけがなかなかバスに乗り込めませんでした。
    最後はスタッフがファンに謝りながらやっと乗り込みました。

 

Re: 出合橋の位置

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 5月14日(木)23時50分20秒
返信・引用
  あっぢゃあー

あの稜線は神居山でなく常磐山でしたか。
わたし、今の今まであれを神居山と勘違いしてました。^^;
そう言われれば、ちょっと傾斜がゆるいですわ。

それにしても、バス停に名前が残ってたとは・・・
これはまったく思いも寄りませんでした。
なんせ、古い名称を平気で消し去って行く土地柄ですからネ。

やっぱり歴史ある名称はこうやって何らかの形で残しておく事が大事ですよね。

 

出合橋の位置

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 5月14日(木)17時14分7秒
返信・引用 編集済
  今の実際の位置からは木の陰になって山が見えません。
そこで文明の利器を使用しました。
Google Earthです。
少し鳥瞰になりますが、出会い橋の位置からバックが見えるような角度に視点をもっていった図を作ってみました。
すぐわきを滔々と流れる石狩川、山沿いの少し高い位置の上川道路。
そこにかかる出合橋。そして現在の出会沢という地名。
この位置で間違いなさそうですね。
出会沢のバス停を見た時には、「ヤッター!」って気分でしたよ。
 

Re: 国見峠ー2

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 5月14日(木)16時57分16秒
返信・引用
  > No.1023[元記事へ]

momongaさんへ

> バイパスされて使われなくなった道路だから、逆に当時の線形がそのまま残されたと考えて良さそうですね。
> それにしてもよく廃道にされずに残ったなと思います。
> 廃道として放置されたなら、とっくの昔に自然に帰化して跡形もなくなっていたでしょうに、造材か何かで多少は利用され続けていたんでしょうね。

あの坂道が上川道路だとの確信が湧くと同時にもう一度しっかりと見たくなりました。
前回は恐る恐る降りるのに精いっぱいだったもので、、、、。で、行ってきました(^^;
あの旧道が12号線に出るところにバス停があり、それが「国見峠」というバス停です。
今日は余裕をもって通って見たのですが、特に変わったものは無かったのですが
苔むした古い石垣が残されていました。

> 出合橋の位置ですが、
> かんじさんが添付された写真には、すぐ横を流れる石狩川の上流方向に明らかに神居山と思われる稜線が写っています。
> これに適合する場所といえば、国見峠を下りきって神居古潭方向へ1kmほどのところ。
> 現在の国道12号線から更進へ抜ける道のT字路の辺りかと思われます。

私も出会い橋の位置はすぐ横を流れる石狩川の位置から言って2カ所ほどしか考えられないなと
思っていましたが、神居山の稜線も考慮しての考察ですか、さすがです。
で実際の場所に行ってみました。(すっきやね)
momongaさんピンポンです。
今は橋は無くなっていますが、小さな川が流れておりカルバートで道路を横断しているようです。
でも、momongaさん推察の神居山ですが、実際に位置関係を精査すると、写真に写っているのは神居山ではなく常磐山ではないでしょうか。
常磐山の稜線もあの向きからだと非常によく似た形状です。神居山はもっと右だと思います。
では、なぜ現在のあの位置が出合橋の場所だと分かったのか、、、。
だってあの沢は「出会沢」って言うんですもの。ちょうどそこにあるバス停にしっかり書いてありました。
橋は無くなっても出会いの名前は沢に残したんですね。

 

Re: 国見峠ー2

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 5月13日(水)23時47分45秒
返信・引用
  かんじさんへ

> つまり今あまり利用されていない、国見峠の先の細い道は当時の上川道路そのものであると言えます。

バイパスされて使われなくなった道路だから、逆に当時の線形がそのまま残されたと考えて良さそうですね。
それにしてもよく廃道にされずに残ったなと思います。
廃道として放置されたなら、とっくの昔に自然に帰化して跡形もなくなっていたでしょうに、造材か何かで多少は利用され続けていたんでしょうね。

上川道路は、明治19年に幅2メートルの刈り分け道路で開通し、
明治20年から22年にかけての改修で幅6メートルに広げられ、馬車が通れるように中央部分3メートルに砂利を入れたそうです。
今残っている道路は確かにそれそのものという雰囲気を感じます。


出合橋の位置ですが、
かんじさんが添付された写真には、すぐ横を流れる石狩川の上流方向に明らかに神居山と思われる稜線が写っています。
これに適合する場所といえば、国見峠を下りきって神居古潭方向へ1kmほどのところ。
現在の国道12号線から更進へ抜ける道のT字路の辺りかと思われます。


 

Re: 国見峠ー2

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 5月13日(水)15時51分13秒
返信・引用 編集済
  > No.1021[元記事へ]

momongaさんへ

> かんじさん、やっぱし合成しましたネ。(^^)
はい、いつもの手法です(^^;

もう少しハッキリとした地図を手に入れました。
明治30年作成、明治43年修正の5万分の1地図です。

これを見ますと、まさに国見峠で大きな崖を上り下りしたであろうことがわかります。
さらにこの蛇行した道路線形はまさに、いまの道路とぴったり合うのです。
つまり今あまり利用されていない、国見峠の先の細い道は当時の上川道路そのものであると言えます。
この峠がいつまで使われたのかは定かではありませんが、上川道路は大正9年に旧道路法に基ずく路線認定として、現在の12号線のルートとなると書いてあるので、この時点で国見峠を通らずに石狩川沿いに路線変更になった可能性があります。
同時に鉄道の発達で大正期に音江法華の駅逓が廃止になったのもこの路線変更が影響した可能性があります。

PS.
5万分の1の地図は東旭川の兵村記念館特別展で展示されていたものの一部です。
 

Re: 国見峠ー2

 投稿者:momongaメール  投稿日:2015年 5月13日(水)10時35分7秒
返信・引用
  かんじさん、やっぱし合成しましたネ。(^^)

上川道路全線を通じて峠の名が付いているのはこの国見峠だけかと思います。
道路ができる前までは、神居古潭の渓谷が石狩川最大の難所でしたが、
道路が通じてからの最大の難所は国見峠だったということなんでしょうね。
確かに馬車だとたいへんそうです。

 

Re: 国見峠ー2

 投稿者:かんじ  投稿日:2015年 5月12日(火)16時49分1秒
返信・引用
  > No.1019[元記事へ]

momongaさんへ

> 音江法華付近の地図画像がありました。
> 拡大してもボケちゃって文字はほとんど読み取れないんですが、上川道路のルートは概ね分かりますね。
>

おーーー、素晴らしい地図だ。
ルートがしっかりわかりますね。
文字は読めないけど、雰囲気では赤丸のところが国見峠ですよね。
やはり川と崖に阻まれ、峠を越えたってのが正解のようです。
となると、国見峠の先の細い急な下り坂は明治のころからあまり変わりない上川道路の一部という事が言えますね。

続いて上川道路が現在の道路とどう重なるのか試してみました。
現在の道路地図に昔の上川道路を重ねてみると、、、、。
おーーーーーー、ぴったり一致するではないですか。
まさに12号線のコンクリート工場のところから音江の町を抜け、国見峠を越えて12号線に戻ります。
さらにその先は神居古潭まで現在の12号線と上川道路はぴったり一致しています。
上川道路が蘇りました。(^^)/
 

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